ひとなつプラネタリウム

ひとなつプラネタリウム

プロローグ

「きれい」
紗季がそっと言葉を呟くたびに形のよい唇から白い息が漏れた。
頭上にはベルベットで出来た絨毯のような濃紺色の夜空。その中には大小様々な星ぼしが散りばめられ、その一つ一つが宝石のように優しく輝いていた。
年の終わりを感じさせる十一月末日。俺と紗季は誰もいないスキー場の駐車場で二人して寝そべりながら星を眺めていた。
「ねぇ、あの輝いてる星はなんていう星?」
紗季が一つの星を指差す。
「あれはシリウスだ。シリウスはおおいぬ座の一つで近くにはこいぬ座をなしているプロキオンもある。ほら、あそこに三つ並んでいる星があるだろ? あれがオリオン座。それでオリオン座のベテルギウスとシリウス、それとプロキオンをつなげると冬の大三角形が出来るんだ」
「じゃあ、冬の大三角形があるってことはもしかしたら夏の大三角形もあるの?」
「そうだな。冬はシリウス、ベテルギウス、プロキオンの三つだけど、夏はベガ、デネブ、アルタイルの三つが夏の大三角形。ちなみに七夕で出てくる織姫と彦星はベガが織姫でアルタイルが彦星。その間にあるのが天の川だ」
得意げに話すと同じように駐車場に寝転んだ紗季が首だけを横に向けて、
「さすがものしり博士だ」
なんて嬉しそうに白い歯を覗かせて笑っていた。
「あ、流れ星」
「え? どこどこ?」
「ほらあそこ」
指さすがそれも見えていたのは一瞬で、流れ星はあっという間にその姿を空の彼方へ消した。
「あーあ、流れ星見たかったな」
「残念だったな」
「残念どころじゃないよ。流れ星を見ることが出来たら絶対に願い事を言うって決めてたんだから」
紗季がぷくっと頬を膨らませて残念がっていた。
「流れ星なんてまた見える。ほらまた」
「え? あ! ……あーあ……せっかく見れたのに……」
ガバっと起き上がったが、瞬きをする間に消えた流れ星に願いを告げることは叶わなかったようだ。
ゆるゆると起こした体を地面にあずけると「チャンスはまだあるから」と開き直ることにしたようだった。
「流れ星に願い事なんて迷信だろ」
「ハカセって星が好きな割には現実主義者だよね」
「ロマンチストの方がよかったか?」
「んー、まぁ今夜は月が綺麗ですねぐらい言えるようになれば上出来かも」
「道のりは遠いな」
それからお互いしばらく口を開くことはなかった。話題がなかったわけじゃない。もしかしたらこのどこか穏やかな空気を壊したくなかったからだ。
星に混じって動く光。一瞬、流れ星かと思ったが、よく見たら地球の周りを回っている探査衛星だった。けれどそう思ったのは俺だけじゃないらしく、紗季がはっとしたような顔をしていたが次にはなーんだとがっかりした顔をしていたのが何よりの証拠だった。
そういえば、と思う。すると俺の心を読んだのか紗季が話しかけてきた。
「ねぇハカセ」
「なんだ?」
「さっきさ、流れ星が見えたときにわたしが願い事を言うって言ってたじゃない」
「願い事? ああ、そういえばそんなこと言ってたな。それがどうかしたのか?」
「ハカセはさ、わたしの願い事がなんなのか気にならないのかなって」
「別に気にしたことはないな」
本心と建前を半分づつ混ぜた言葉ではぐらかす。
「遠慮しなくていいんだよ。ほら聞きたいんでしょ?」
「いいよ。それに願い事って人に言ったら叶わなくなるって教わらなかったか?」
「そうかもしれないけど……ほら、こういうのって少しは気にしてもらいたいじゃない」
「そういうものか?」
「そういうものだよ」
なんだか無理やり納得させられたような気がする。とはいえ、気にならなかったわけじゃない。せっかく教えてくれるっていうのだからここは素直に聞き従うことにした。
「それじゃあ、お前の願い事ってなんなんだ?」
「もったいつけた割には大した話じゃないんだけどさ、これって願い事っていうよりは希望かな」
紗季がそれまで開いていたまぶたをそっと閉じる。
まつ毛が長いな。それが今の素直な感想だった。

『またこうやってハカセと星を見にこれますように』

これが紗季の願いだった。
なんだか気恥しくなって紗季の顔を見れない。もしかしたら顔が赤くなっていたかもしれない。なんだよそれ、と冗談めかして笑い飛ばそうと思ったが、
「うわー! 恥ずかしい! わたしなに言ってんだよ!」
紗季に先手を打たれてたまらず「本当にな」と息を吐くに留めた。
穏やかな時間だと思う。
けれど、あとひと月たらずで古い一年は過ぎ去り新しい一年が始まる。そうなれば俺たちは高校三年生になり、将来を決めるための準備を始めないといけない。もうこんな風に何も考えずに、星なんて眺めることなんて出来なくなるだろう。

『いいか翔吾。人生なんてもんはな、一瞬で消える流れ星みたいなもんなんだ。今が楽しいって思っても、長い人生で見ればほんの一瞬しかない。だけどな、その楽しいひと時が過ぎても、その日々を忘れなきゃいつだって人生は楽しかったって思える。だから今のうち楽しめるだけ楽しんでおけ。それがいい大人になる秘訣だ』

どうしてか親父に言われた一言が蘇った。言われたときはどういうことかわからなかったけど、今なら親父がどうしてそんなことを言ったのかなんとなくわかる気がする。
きっと紗季も気づいてるのだろう。このたまらなく愛しい一瞬がもう手に入らないことを。
根拠なんてない。
なのに俺は言いたかった。
「また来よう」
紗季が「え?」という顔をしていた。
「なんだよその顔」
「いや……ハカセがそんなこと言うとは思ってなかったからびっくりしちゃって」
「驚いたか? 俺もこんなのはガラじゃないって思う」
「だよね」
お互いに頷き合いながら笑う。
「でもハカセがそう言ってくれて嬉しい」
紗季の瞳の中に新星が生まれたように瞬く光があった。
「あのさ……」
「ん? なに?」
「来年は夏に来ないか?」
「夏かぁ。うん、約束だ。ところで来年になったら私たち受験生だよね。ハカセはどこに行くか決めた?」
「俺は地元の大学に行くことにした。お前は?」
「わたし? うーん、まだ考えてない」
「お前の成績だったらどこだって行けるだろ。例えば東大とか」
「さすがに東大なんて無理だよ。早稲田とかならともかく」
「それ自分で言うか?」
「せめて夢くらいは見たっていいんじゃない? あー……でも来年は受験生かぁ……」
「出来ることなら考えたくないな」
「現実主義者なのに?」
「今だけはロマンチストでいさせてくれ」
「なにそれ」
「ほら科学は時に壮大なロマンチストって言うだろ」
「じゃあハカセじゃなくてスティーブンだ」
「俺がスティーブンだったらさしずめお前はジョニーか?」
「なんでわたしがジョニーかな。どっちかって言えばキャサリンのほうが合ってると思うよ」
なんの脈絡もない話で盛り上がっていると、紗季が体を震わせた。
「寒くなってきたね」
携帯を取り出して時刻を見ると既に十二時を回っていた。どうやらお開きの時間みたいだ。
「行くか」
地面に敷いていたランチマットを片付けると傍らに置いてあったバイクに括りつけた。
エンジンをかけて暖まるのを待っているとヘルメットを着けた紗季がバイクの後ろに跨りながら、さっきまで俺たちがいた場所を名残惜しそうに見ていた。
「また来れるよね」
紗季がコツンとヘルメットをぶつける。
「また来れるさ」
俺も返事の代わりにコツンとぶつけ返した。
アクセルをひねると、バラララと小気味の良い音を響かせながらバイクが走り出した。
また来れるさ。
俺は心の中でもう一度呟くとアクセルを強めた。

第一話

「あっついな……」
天文台から外に出ると、夜だというのに暑く感じた。館内の冷房が効きすぎていたせいかもしれない。省エネの時代だと言われている割にはずいぶんなことだ。
思えば季節もついこの間まで春だったはずなのに、気がつけば一年も半分を折り返してまだ見ぬ七月へとその歩を進めていた。
夜空もあの時見た夜空と少しだけ違っていて、見える星ぼしも冬の姿から夏のそれへと姿を変えていた。
ふと、思い出すのは一緒に星を見に行ったあの冬の日のことだった。
かじかんだ手を吐く息で温めながらスキー場の駐車場に寝そべって、夜空に浮かぶシリウスを眺めながら将来のことを話し合った。
二人で見たシリウスを今は遠くに感じる。
俺が彼女とした約束は果たされることなく、気がつけば二年が経っていた。
二人で星を見に行った翌年の夏、紗季は俺のいた街から遠く離れた街へと引っ越していったらしい。らしいというのも、人づてに聞いた話で、紗季本人に確認したわけじゃないからっていうのが理由だ。
別れの言葉も言えないまま姿を消したあいつに、俺は怒るどころか泣くことさえしなかった。ただ、何もしないまま無意味に夏を過ごしていたことだけははっきりと覚えている。
どこかに怒りをぶつけることが出来たのかもしれない。
どこかに悲しみをぶちまけることが出来たのかもしれない。
でも、それをしなかったのはそれが俺自身の一方的な感情だからだと知っていたからだ。
はっきり言ってしまえば、俺はあいつのことが好きだったのかもしれない。その恋も実るどころか、芽すら出さないまま枯れてしまったが。
やめよう。
こんなの考えたところで頭の体操にすらならない。それに唐突に誰かを失うことなんて慣れてる。気にするだけ無駄だ。
言い訳のようなことを思いながらバイクを停めてある駐輪場に向かう。側にポツンと立っている頼りない外灯に明かりを求めてなのか、それとも本能なのか、たくさんの羽虫が群がっていた。
その下にスポットライトのように照らされてバイクが一台停まっていた。
カワサキ、エストレヤ。俺の自慢の愛車で今はもうこの世にいない親父がかつて乗っていたバイクだった。
バイクのセルモーターを回すと、キュルキュルという音のあとにバラララとエンジンのかかる音がした。
バイクスタンドを上げてアクセルをひねる。そうするだけで一陣の風になることが出来た。
母親曰く、俺の親父はそれはそれは子供っぽい人だったそうだ。俺もそれはなんとなくわかる気がする。
俺が小さい頃、親父とゲームをやっていて親父が負けると「翔吾! もう一度勝負だ!」と言っては自分が勝つまでゲームをやらされた記憶がある。負けず嫌いなのだ。
そのくせ、ゲームはものすごく下手くそで、負けがこんでくるとゲームの電源を落とし「俺が本気を出さないでやってるのに調子乗るな!」と怒られた。あまりにも可愛そうなのでわざと負けると「俺が本気でやってるのにどうしてお前は本気を出さない!?」と怒られた。理不尽この上ない。
なのに忘れた頃になると「翔吾! この間のリベンジだ!」と勝負をけしかけてきてまた負ける。その繰り返しだった。
そんな親父の口癖は『俺はな、いつかこの世界に名を轟かせる人間になってやるんだ』なんて今どき戦隊ものの悪役だって言わなそうなことを平然と言ってのける。正直、子供の頃はそれを喜んだものだったが、さすがにこの歳で自分の父親がそんな馬鹿げたことを言ってるなんて知ったらすぐに病院にかつぎ込むか、市役所に行って戸籍を別々にしてもらったほうがいいかもしれない。
それでも俺はそんな大人なのに子供っぽくて、父親っていうよりは歳の離れた友人のような親父が好きだった。
けれど俺が高校一年生の時に親父はあっさりとこの世を去った。その日は俺がバイクの免許を取ったばかりの日だった。
『翔吾、バイクはいいぞ。風と一体化出来るからな。人間は自分の足で風になることは出来ないけど、バイクに乗ってりゃそれが叶うんだ。風になるとな、いつも見ている景色が違って見えて、どこまでも飛んでいけそうになるんだ』
親父は俺をバイクに乗せる度にことあるごとにそう話していた。だからかもしれない、俺が高校に入学すると同時にバイクに乗りたいと思ったのは。
親父にそのことを話すと「お前がバイクに乗るなんて百万光年早い!」とありがたいお言葉を頂戴した。親父、百万光年は時間じゃなくて距離だ。
けれど、ようやくの思いで免許を取って家に帰ってきた俺を迎えてくれたのは親父の人を馬鹿にしたような言葉じゃなく、二つ並んだボロボロのヘルメットと真新しいヘルメットだった。
そしてその時初めて知った。親父が事故に巻き込まれたことを。親父が呆気なく逝ってしまったことを。
葬儀の日には数え切れないほどの参列者がいた。みな一様に涙を堪え親父の死を悲しんでいた。
ある人は「どうして俺より先に逝った! お前は死んでも馬鹿なんだな!」と罵り、ある人は「あなたは本当に人に迷惑ばかりかけて……死んでも馬鹿な人です!」とやっぱり罵られていた。でもそれは簡単に死んでしまった親父のことを本当に好きだからこそ言えた言葉だったんだろう。
なのに俺は泣かなかった。いや、泣けなかったんだ。それどころか怒ってさえいた。
これでやっと親父と一緒に風になれると思っていたのに。
バイクに乗って風になるのは気持ちいいぞと言っていたあんたが本当に風になってどうするんだ! って。
葬儀が終わってから母親が言っていた。
「あの人はあなたと一緒に走るのを誰よりも楽しみにしていたのよ」
と、涙をこぼしながら。
ピカピカの真新しいヘルメットは俺が免許を取ったら渡そうとしていたものらしく、それなのに思わず口を滑らせてしまうんじゃないかといつも心配していたらしい。
そして今日、届いたばかりのバイクに乗って帰ってくる途中で事故に遭った。
「俺さ、あいつと一緒に風になるのが夢だったんだ。それがようやく叶うんだ。嬉しいよな」
家を出るときに言い残した言葉が親父の最後の言葉になったという。
しかし残されたのは、真新しいヘルメットと親父との思い出がたくさん詰まった一台のバイク。一緒に走るはずだった親父の姿はもうどこにもない。
その日の夜、俺は初めて泣いた。
ボロボロになったヘルメットを抱きしめながら。泣いた。
それ以来俺は、このバイクに乗っている。こうしていると親父と一緒に走っているような気分になるからだ。
暗い夜道を一筋のヘッドライトが闇を切り裂いていく。天文台の立つ山道をしばらく走ると、山の麓の方にポツポツと車のライトや街の明かりが見え出した。
呉羽山だ。
呉羽山は山というほど大きくはなく、丘というには少し高い。そんな場所から見えるこの夜景が好きだった。もちろん、天文台で見る空に浮かぶ星のほうがロマンチックではあるけど、これはこれで地上に瞬く星という気がした。
そのまま山を降りて街の灯りの一部に溶け込む。初夏の香りのする風が頬を撫でた。
緩やかなワインディングロードを下ると、一軒の安アパートが見えてきた。
築数十年、木造二階建てのボロアパートの二〇五号室が俺の部屋だった。
「あいつまた来てるのか」
そう思ったのは家を出る前に消したはずの部屋の明かりがついていたからだ。こんなところに入る物好きな空き巣なんていないだろうし、そうなれば考えられるのは一人しかいない。
アパートの適当な場所にバイクを停め、錆びて朽ち果てた階段を上がる。それにしても、いつかこの階段が崩れるんじゃないかと心配しそうになる。
階段を登りきると一直線に伸びた薄暗い廊下を進む。その先一番奥にある部屋のドアには『宮野』と書かれた表札があった。つまりはここが二〇五号室だ。
いつもなら鍵を開けてから入るのだけど、今日はそのまま入る。ただいまの言葉はナシだ。代わりに、
「真衣奈、お前また来てたのか?」
そう言うと真衣奈は、
「あ、おかえり先輩。ていうか、帰ってきたらただいまって言うのが普通じゃない?」
ごもっともな意見だと思う。
しかし、一つだけ言わせて欲しい。いくらなんでも年頃のそれも高校の制服を着た女の子が一人、こんな時間にそれも大学生の男の部屋にいるほうがおかしいのだ。けれど真衣奈にそれを言うと決まって返ってくる言葉は、
「いいじゃない。先輩だし」
この一言でいつも片付けられてしまう。言い返しても聞く耳を持たない真衣奈にいつも俺が折れることでこの話はうやむやになってしまう。甘いのかもしれない。
彼女の名前は椎名真衣奈。真衣奈のことは小さな頃からよく知っていた。今は死んでしまった親父の親友の子供ということもあってか、小さい頃は日が暮れるまで公園で遊んでいたり、時々互いの家に遊びに行っては夜遅くまで遊んだりと、いわゆる幼馴染の関係を過ごしていた。
俺と真衣奈は年が二つ離れていて、物心つく前はお兄ちゃんと呼んで慕ってくれていた彼女も、高校に入る頃には呼び方が『先輩』に変わり、棒切れを振り回してお山の大将気取りだったおてんば娘も、今ではこちらがはっと驚くような美人へと成長していた。そのせいもあってか俺は真衣奈がここにくるのをあまりよく思っていなかった。
やましい気持ちがあるわけじゃない。年頃の女の子が大学生の部屋に入り浸っているという事実が嫌だったのだ。
それを知ってか知らずか、真衣奈はここに来るのをやめない。何かにつけては、
「先輩が心配だから」
とか、
「どうせいつもコンビニの弁当ばかり食べてるんだから、たまにはちゃんとしたもの食べないとダメだよ」
なんてお前は俺の母親か、と言いたくなるようなことを言ってくる。それでも真衣奈がここに来るのを黙認している俺はやっぱり甘いのかもしれない。
「で、今日はなんの用だ? 空き巣に入ってもめぼしいものなんかないぞ」
俺は肩に担いていたカバンを下ろしながら釘を刺す。余計なものを見られたくないからだ。なのに返ってきた言葉は、
「こんな家に金目のものがあるなんて思ってないよ。それとも人に見つかったらまずいものでもどこかに隠してあるのかなぁ?」
そう言って取り出したのは有名な映画タイトルのDVDケースだった。あの中身は確か……、
「……真衣奈、お前その中見たのか?」
「見てないけど先輩がどこになにを隠していたかぐらい予想つくよ。いいんじゃない? 先輩だって年頃の男子なんだし」
ニンマリといやらしい笑みを向けてくる真衣奈に、両手を上げて降参のポーズをとることでこの話は終りとなった。
「あ、そうだ。先輩ご飯食べた?」
「バイト先から直で帰ってきたからまだだ」
言いながらテーブルの上を見ると、真衣奈の参考書とならんで山盛りのそうめんが用意されていた。もちろん用意したのは真衣奈だ。ちゃっかり二人分用意されているところを見ると最初からここに居座る気でいたらしい。
「さ、夕御飯食べよ。わたし先輩が帰ってくるのを待ってたからお腹すいちゃった」
真衣奈が山盛りのそうめんに箸を突っ込むとごっそりとそうめんの山が崩れた。
「ん〜、おいしい!」
リスのように頬をふくらませた真衣奈はご機嫌なご様子。もたもたしていたら俺の分まで食べられてしまいそうな勢いだった。


「「ごちそうさまでした」」
あれだけあったそうめんの山も二人がかりで挑めば案外大したことはなかった。
真衣奈が空いた食器を片付けるのを見計らって俺は胸ポケットに入れておいたタバコに火をつけた。決して明るいとはいえない蛍光灯に反射しながら紫煙がゆらゆらと漂っていた。
「先輩またそんなもの吸ってる。タバコばかり吸ってたら背が伸びなくなるよ」
「バーカ、俺の成長期はとっくに終わってるよ。そんなことより煙たかったら外に出てるけど」
「いいよ。ここは先輩の部屋なんだし、それにわたしもこれ片付けたら帰るから。あんまり遅くなったらお父さんになに言われるかわかんないしね」
カチャカチャと食器を洗っているため、真衣奈がどんな顔をしているかまではわからなかった。けど、声が弾んでいるみところをみるときっと笑ってるのかもしれない。
「祐介さんなにか言ってたか?」
「別に悪い話じゃないよ。それどころか『お前はいつになったら翔吾のところへ嫁にいくんだ?』ってうるさくって」
「祐介さんまだそんなこと言ってるのか」
「うん。あ、そうだ、お父さんがたまには俺のところにも顔出せって言ってた」
「どうせろくな話じゃないんだろうけど、そう言うならたまには会いにいくかな」
タバコをもみ消すとどうやら真衣奈のほうも片付け終わったようで、持参したエプロンを外しながら帰り支度を始めていた。
「それじゃ帰るね」
「家まで送ろうか? 祐介さんにも会いたいし」
「ううん、いい。今日メット持ってきてないし、この時間のお父さんお酒飲んでるから捕まると長いよ?」
「だったらまた今度だな」
そう言って真衣奈とは部屋の前で別れた。
カンカンカン、と階段を下りる音を聞きながら部屋のドアを閉める。さっきまで賑やかだった部屋の中はうら寂しい空気が漂っていて、たった六畳一間しかないこの部屋が妙に広く感じた。
「彼女か……そんなのいたら楽しいんだろうな」
しかし二秒後に馬鹿な考えだと思い、二本目のタバコに火をつけてそれ以上考えるのをやめた。


その日、同じ大学の友人でもある中村大樹から電話がかかってきたのは、夕方ごろのことだった。
「もしもし、翔吾? お前、今時間あるか!?」
通話ボタンを押した瞬間に聞こえたのはそんな大樹の慌てたような声だった。
「どうした、単位でも危ないのか?」
冗談めかして言ってやると、案外それは的を射ていたようで「お前……それを言うなよ……」と、電話の向こうで肩を落とす姿が見えた。
「それよりもなにか用か? ずいぶんと慌ててるみたいだけど」
「そうだ! 今は単位どころじゃないんだよ! あ、単位も大事だけどよ、それよりも大事なことがあるんだ」
携帯のスピーカーが割れんばかりに声を荒げる大樹に、とりあえず落ち着けと促す。
単位以上に大事なものってなんだ? 大樹がこれほどまでに焦っていることを考えてみても、よほどのことじゃないというのだけはわかった。
「それで大事なことってなんだ?」
言葉に真剣味を込めてそう聞き返した俺の言葉に大樹はこう答えた。
「今から合コンなんだけど、人数足りないからお前に電話した」
プツッ。ツー、ツー。
あまりのバカバカしさに思わず通話を切ってしまった。もちろんその二秒後には携帯が鳴って、
「お前なに切ってんだよ!? こっちは必死なんだぞ!? それどころじゃないんだぞ!?」
と、再び声を荒げていた。少しでも心配した俺がバカだった。
大樹の話を簡単に説明すると、同じゼミの仲間が企画した合コンに参加することになったらしい。だが、相手の人数に対してこっちの人数が一人足りないから人数合わせってことで連絡してきたらしい。大樹が必死に説明している間中、何回か通話ボタンを押しそうになった。
「それでどうだ? 来てくれるか?」
どうするか。
携帯に表示されていた時刻は午後五時。今日はバイトもないし、明日は大学も休みだ。
少しだけもったいつけながら「わかった」とだけ返すと、電話の向こう側からは「そこはいいとも~! だろ」という返事が返ってきたので、俺は即座に通話ボタンを押した。


駅前の周辺では、明日が休日なこともあってか、いつもなら家路に帰るはずの人間が行き交っているこの場所は普段より人が多い気がした。会社帰りのサラリーマンや学校帰りの学生の姿も見える。
「遅いな」
携帯を見ると約束された時間を少し過ぎていた。出来るだけ待たせないようにと気をつかって来たのに。ったく……これじゃあ合コンを楽しみにしてる奴みたいだ。
ガタン、ガタン、と俺がさっきまで乗っていた市内電車が通り過ぎていく。ここは全国でも珍しい市内電車が走っている町だ。いつもどこかへ出かける時はバイクを使うけど、今日に限っては市電に乗ってきた。何年ぶりかに乗った市電は記憶の中にあるそのままのもので、子供の頃は流れていく風景に目を輝かせたものだ。
Yシャツの胸ポケットからタバコを取り出す。煙を吐き出すと、タバコの香りに混じって初夏の匂いがした。
ぼんやりと街ゆく人を眺める。みんな慌ただしいように生きている。その中で俺はどこか取り残された気がしていた。
変わるもの。変わらないものの中で俺はどう変わったのだろうか。もしかしたらなにも変わってないのかもしれない。
らしくないな。つらづらと暇つぶしがてらにそんなことを考えていた。けれどそんな頭の体操にならないことを頭の中で巡らせていると、持っていたタバコの灰がポロリと落ちた。
すっかり短くなったタバコをもみ消すと、ようやく大樹がやってきた。
「悪い、待たせたな翔吾」
「遅いぞ。なにしてたんだ」
俺が携帯灰皿に吸殻を放り込みながら文句を言うと「いや~、ほんっと悪い! 直前まで服選んでたら遅れた」などと、さして悪びれた様子もなく言った。
……ったく。いつものことだとわかってるけど、せめて耳の垢分くらいは申し訳ないと思ってくれてもいいと思う。
「んで、勝算は?」
「もちろんバッチリだ」
俺が嫌味交じりに聞くとずいぶんと気合が入っているらしい大樹は、ニヤッと笑みを浮かべながら右手でサムズアップ。それが気合の表れなのか、Tシャツにプリントされた『NO FUTURE』の文字がなんとなく彼の未来を暗示しているように見えた。
大樹に連れられてやってきたのは、駅前のテナント群が入居しているビルにある居酒屋だった。
ここも変わったな。俺が高校生だったころ、よくここに買い物に来ていた。けど、卒業してからはめっきり立ち寄ることも少なくなっていた。久しぶりに訪れた場所はあの時に比べるとすっかり様変わりしていて、俺の記憶の中と同じ姿で今でも残っている店といえば、大学生の寂しい懐にも優しい大手チェーンのイタリアンレストラン一つっきりだった。
居酒屋の中に入ると、すでに席には五人ほどの男女の姿があった。男二人のほうは大学で見かけたことがあるだけで、直接話をしたことはなかった。女の方は言うまでもない。
「おーい連れてきたぜ。あれ? そっちは三人か?」
大樹が女性陣に声をかける。どうやら幹事は大樹のようだ。
「ううん、こっちも四人だよ。もう一人の子は後で来るって」
「そっか。じゃあさっそく始めますか。せーの」
「「「かんぱーい!!」」」
大樹の号令で計七つのジョッキがぶつかった。キンキンに冷えたジョッキから滴る水滴がはねた。
そのままの勢いで喉に流し込むと、じんわりとした苦味と爽快感が体中を駆け抜けた。
「いい飲みっぷりだな」
横で同じようにビールを飲んでいた大樹が話しかけてくる。
「ま、せっかくだからな。俺なりに楽しむさ」
「せいぜいくたばんなよ」
それだけを言い残すと、本命の女の子でも見つけたのかさっそく話かけていた。見れば大樹だけじゃなく、ほかの奴らも気に入った女の子にアタックをしかけていた。
ご苦労なことで。
大樹が離れたのを見計らって空いたジョッキを片付けると、新しいジョッキに手をつけた。
しばらく一人で飲んでいると、いい加減それも飽きてきた。俺を除いた男三人はなんとか女の子を物にしようと躍起になってるが、それをどこか冷めた目で見ていた。女の子の方も気を遣ってか、俺の方に何度か話を向けてくれてきたのだが、思い浮かぶ言葉もなくて「ああ」とか「うん」とかそれっきりで、女の子の方も俺と会話をするのを諦めたのか、話しかけてくることはなかった。
恋愛に興味がないわけじゃない。ただ、なんとなく実感がないのだ。
話をしていい感じになって……それから?
それからがわからない。大樹が言うには『男というのは女の子を得るためにいかなる努力も惜しんではいけない』なんて大層なことを言っていたけど、俺にはとうてい理解出来ないものだった。
盛り上がっている場を壊すのも悪いと思って、席を離れようとすると大樹に呼び止められた。
「どこ行くんだよ」
「ちょっと飲みすぎたみたいだ。外の空気でも吸ってくる」
適当な言い訳を並べて店を出た。
外に出ると、街灯や店の明かりが賑やかしく夜の町並みを彩っていた。外を歩いている人もさっきよりはまばらになっていて、街ゆく人々はそれぞれの時間を楽しんでいるようだった。
噴水が上る近くの水辺にあるベンチに座って、ポケットに入れたタバコに火をつけた。ライトアップされた噴水がキラキラ光るたびに、側で同じように見ていたカップルが歓声をあげていた。
どこに行ってもカップルだらけだな……。
恋は石ころみたいに溢れてるなんて歌が流行っていたけど、なるほど確かに石ころみたいにごろごろしている。そのあとでダイヤモンドよりも見つからないとも歌っていたけど。
もし、あいつが転校しなかったら俺も、こんなふうにはしゃいでたのだろうかなんて時々、そんなことを思う。あいつが転校することなくずっとそばにいて、それで俺がちゃんとあいつに想いを伝えることが出来たんだったら……と。
それこそありえない話だ。俺とあいつはただの友達にしか過ぎない。たまたま、
同じ時期に一緒にいただけで、接点なんて同じ部活ぐらいなものだ。それ以上でもそれ以下でもない。
なに考えてんだ俺。バカバカしい。
苛立ち紛れにタバコをもみ消し、ベンチから立ち上がろうとすると、不意に声をかけられた。
「あれ……もしかしてハカセ?」
ドクンと鼓動が高鳴る。
聞き覚えのある声。
その時の俺は一体どんな顔をしてたんだろう。少なくとも目の前に鏡がなくてよかったと思う。きっと今の俺はずいぶんと呆けた顔をしていたはずだから。
「あ、やっぱりそうだ! ハカセだよね!? うわっこんなところで会うなんてすっごい偶然!」
女性が嬉しそうに近づいてくる。すこし大人になったあいつ。俺をハカセなんて妙なあだ名で呼ぶ奴なんてこの世にたったひとりしかいない。
……ほんと妙な偶然だよな。
嬉しさをごまかすように悪態をつく。
「久しぶりだねハカセ」
そう言ってあの時と同じように子供みたいな笑顔を向けてくる、長谷川紗季が俺の前にいた。

第二話

俺と紗季が出会ったのは高校二年の夏頃だった。
今にして思えばあいつとの出会いは唐突だったというか、降ってきた災難というか、あの時の俺にしたらなにもかもがめまぐるしくて、それでいて濃厚な時間だった。
そのころ俺が活動していた部活は高校にある部活の中では珍しい天文部。
部といっても部員一人だけの名ばかりの部活だった。そもそも俺がこのたったひとりの部活に入るきっかけになったのは、真衣奈の父親、祐介さんが原因だった。
祐介さんは俺が通っていた学校の教師で、ついでにいうと俺のクラスの担任でもあった。親父の親友でもあった祐介さんは俺が入学すると同時に、勝手に「お前の部活、天文部な」と決めてしまった。天文部は祐介さんが顧問を勤めている部活で、なにより去年の卒業生がいなくなったのが原因で廃部寸前だった。そこで顔見知りでもある俺を道連れにすることで、廃部の危機を免れたというわけだ。
当時、通っていた学校で部活は強制だったから、特にやりたいことがなかった俺にとっては願ってもない話だった。
こうして半ば強引に入部させられた形だったけど、祐介さんと二人で活動していくうちに次第に星の魅力にとりつかれていった。夢中だったといえる。
毎日見ているはずの星空は、よく見ると一日ごとに違う姿を見せてくれた。羽虫が飛び交う夏の夜に、虫に刺されながら星空を眺めたり、冬の寒い風が吹く中、天体望遠鏡を担いで、学校近くの山で寒さに震えながら一日を明かしたこともあった。そんな男二人だけの天文部だったけど、俺は割とそんな毎日が好きだった。今になって思えばきっと、祐介さんなりに親父を失ったことで塞ぎ込みそうになっていた俺を励ましてくれていたのかもしれない。
それから一年経ったある日、二年生になった俺の元に紗季がやってきた。
そもそも紗季がこの天文部に入るきっかけになったのは、学園祭でのことが発端だった。
毎年この学校では学園祭が行われていて、部活以外でも出し物をしないといけない。俺がいたクラスは去年、この街の歴史なんていう誰が得をするのかわからないような出し物をして、あまり楽しい思い出がなかった。その反動からか、今年は何か大がかりなことをやりたいと、その年のクラスの出し物はプラネタリウムを作ることになった。ちなみに今年は大がかりなことをやろうと言いだしたのは他でもないクラス担任も勤めていた祐介さんだ。
クラスでプラネタリウムを作ることに決まったが、誰も星のことには全く詳しくない素人の集まりばかり。そこでクラスで唯一、というよりは学校内に唯一、天文部に所属している俺に実行委員として白羽の矢が立ったというわけだ。
実行委員に決まった日から俺はプラネタリウム制作に取り掛かることになった。けれど、一口にプラネタリウムを作るといってもこれが簡単じゃなかった。
まず、星の配置やら、見える星の光の加減、舞台装置となる投影機の作成や星を映し出すためのスクリーン、その他もろもろのことを考えたりすると気が遠くなりそうな気分だった。
そんなある日。
その日もいつものように積み重なった課題を一人、部室棟の奥にある天文部部室とは名ばかりの、通称物置小屋で片付けている時だった。
ガッシャーン! とけたたましいほどの音を立てて部室の窓の一枚が、唐突に割れた。思わぬ出来事に作業の手を止めて何が起こったのか考えてみるけど、こういう時はたいてい頭がうまく働かない。せいぜいわかったことは窓ガラスを見るも無残なガラス片に変えたのが、たった一球のソフトボールが原因だったってことだ。
俺の拳よりも大きなソフトボールは思ったよりもずっしりとした重量感があった。そのせいか体育の授業の時にでたらめなフォームで投げて、クラスで下から三番目の順位をありがたく頂戴したことを思い出した。というより当たったら死んでいたかもしれない。
すっかり風通しのよくなった窓からグラウンドを見下ろすと、主犯格らしいソフトボール部の連中が上を見上げてため息を吐いているのが見えた。このあとで先生たちに怒られることを考えたらご愁傷様としか言い様がない。
とりあえず散らばった窓ガラスを片付けてから、出来れば忘れていたかった学園祭の準備に取り掛かる。けれど手を動かしてみても動かすばかりで、作業が進むことはない。一度途切れた集中力は思わぬ来客でもある白球と同じく、あてのない彼方へと飛び去ってしまったようだった。
ふぅ……と、一息吐いて手を止める。すると机の上に置いてあるソフトボールに目が止まった。
そういやこれ返しに行かなきゃな。そう思っていたところに珍しくこの日二番目の来客があった。
ドタドタと騒がしい物音のあと、バーン! と開かれた部室のドア。
そして一言、
「あ、頭大丈夫ですか!?」
これが俺と紗季のファーストコンタクトだった。


「それじゃあ二人の再会を祝福して再び──」
「「「かんぱーい!!」」」
大樹の号令で再びの乾杯。どうでもいいけど、こいつはただ単に騒ぎたいだけなんじゃないかって思えてくる。
形だけの乾杯を終えると、さっきまで別の女の子に群がっていたはずの連中が今度は新しくやってきた紗季も交えて話に花を咲かせていた。紗季も紗季らしく遅れてきた割には上手いこと溶け込んでいた。俺はそんな彼らを距離を置いて見ていた。するとそれを見かねたらしい大樹がジョッキを二つ持って話しかけてきた。
「楽しんでるか相棒」
「誰が相棒だ」
大樹からビールが注がれたジョッキを受け取る。
「にしてもさ、お前があんな可愛い子と友達だったなんて奇跡だよな」
「なんだよ奇跡って」
すでに出来上がった大樹が中ジョッキ片手に俺の肩に手を回してきた。それを軽く払いのけながら、なみなみと注がれたビールを煽る。
「お前って女っ気がないから心配してたんだよ。もしかしたらあっちじゃなくてそっち系の人かなってさ」
「バカ言え。俺はいたって普通だ」
ビールを流し込みながらタバコに火をつける。俺にもくれと大樹が一本抜き取った。
「えー、そんなことないよー」
「いやいや、ほんとだって」
向こうのグループはお通夜みたいな雰囲気のこことは違って大変盛り上がっているようだ。一瞬、紗季と目があった気がしたけど、友達の女の子に話しかけられて話の中へと戻っていった。
「あっちは楽しそうだな」
「だったらお前も混じってこれば?」
「いや、遠慮しておくよ」
「そっか」
すっかり根元まで短くなったタバコをもみ消すと、二本目のタバコに火を灯した。
「そんなことよりも俺にかまけてていいのか?」
「何がだ?」
「女の子だよ。さっきまでアタックしかけてただろ」
「ああ、それね。ま、俺のことは気にすんな。それよりもお前のほうこそ、えっと紗季ちゃんだっけか? 話しかけてこなくていいのか?」
「……別にいいよ」
そう言ったがもちろん本心なんかじゃない。話したいことは山ほどあった。
どうしてあの時何も言わずにいなくなったのか。
どうしてあの時何も言ってくれなかったのか。
どうしてあの時俺は──。
「ま、お前と紗季ちゃんの間にどんな因縁があったのかなんて知らねーけどさ、友人は大事にしたほうがいいぜ」
「因縁なんて……なにもねえよ」
「素直じゃねーな。別にいいけどよ。ただ、ぼやぼやしてっと他の男にとられるぞ? 紗季ちゃん結構人気高いっぽいし」
「なんだそれ。俺には関係ない話だろ」
「ま、そういうことにしておきますか。んじゃ、俺は戦場に戻るぜ」
大樹はタバコを吸い終えると、再び盛り上がってる彼らの元へと戻っていった。
友人……か。
ふと、大樹の言葉が蘇る。もし本当に紗季が俺の友人だっていうなら、どうしてあの時何も言ってくれなかったのか。一言でも別れの言葉を告げてくれていたら、まだ俺はこんな気持ちにならなかったのかもしれない。けど、その全てが今さらだった。
モヤモヤする気持ちを吐き出すように、タバコの煙を吐き出す。なのに気持ちは晴れるどころか、タバコの煙でさらに曇ってしまった。
手持ち無沙汰に携帯をいじってみるが、画面に浮かぶのはどうでもいいようなニュースが表示されているだけで、一文字だって頭に入ってこない。
帰ろうか。時間もそれなりに経っていたし、これ以上ここにいたって意味がない。そう思い、席を立とうとすると、
「ここいいかな?」
不意に声をかけられて顔を上げる。見上げたところに紗季の顔があった。
「……生憎だけどこの席はうまってるんだ。他に行ってくれ」
「何言ってるの? 誰も座ってないじゃない」
紗季は俺の冗談とも本音ともつかない拒否の言葉を無視して、さっきまで大樹が座っていた席に座った。
「久しぶりだねハカセ」
「俺はハカセなんて名前じゃない。宮野翔吾っていう名前があるんだ」
「そんなの何年も前からわかってるって。だけどハカセはハカセだよ」
「わかってないだろ」
顔を背けるようにしてジョッキを傾ける。大して美味くもないビールを、さも美味そうに飲んでみる。それでも紗季はこっちの気持ちもお構いなしに話を続けていた。
「それにしてもすっごい偶然だよね。ハカセとまたこんなところで会うなんてさ。偶然っていうよりは奇跡ってやつかな?」
「それ、さっき別のやつにも言われた」
「なんて?」
「お前があんな可愛い子と友達なんて奇跡だって」
大樹に言われたことを復唱すると紗季は「ほほぅ。それは興味深い話だね。可愛いってことは否定しないけど」笑いながら俺と同じようにジョッキを傾けていた。
「でも、偶然でも奇跡でもこうやってハカセにまた会えたことは感謝しないとね」
紗季が嬉しそうに微笑む。あれから二年ぶりに見るはずの彼女は大人になっているはずなのに、笑った顔だけはあの頃のままだった。瞬く星が光るような瞳に、誰もを惹きつける魅力的な笑顔。知らず俺の胸は鼓動を早めていた。
「にしても、ハカセは変わんないね。あの頃のままだ」
「そういうお前だってあんまり変わってないように見えるけどな」
「そんなことないよ。わたしだってちゃんと大人になってるんだから」
「例えばどこがだ?」
「えーと、胸?」
「……なんで疑問系なんだ」
「じゃあどこなのよ」
「俺が知るか!」
売り言葉に買い言葉を交わしながら、空いたジョッキにビールを注ぐ。もはや、お酒を楽しむというよりは、ビールを注いで飲み干すという作業に変わりつつあった。
「ビールってあんまり美味しくないよね」
「じゃあなんで飲んでんだよ」
「んー、その場の雰囲気?」
「なんだよそれ」
「なんていうのかな、みんなが飲んでるから飲むみたいな感じかな」
「じゃあ飲まなきゃいいだろ」
と、紗季を挑発するようにビールを煽る。もちろん、俺だってこれを美味いとは思わない。すると紗季は「まぁそうだけどね」と言って俺と同じようにビールを飲んでいた。
「それじゃあ次、中村大樹いきます!!」
俺たちから少し離れたところでは、大樹がジョッキからピッチャーに持ち替えて一気飲みをしていた。イッキ! イッキ! とはやし立てる声がこっちまで聞こえる。
「あっちは楽しそうだね」
「だったら混ざってこいよ。俺と二人で飲んでても楽しくないだろ」
「別にいい。楽しいのは大好きだけど、ああいったノリはちょっと苦手かな。それに今はハカセと話してる方が楽しいし」
「……なんだよそれ」
不意な言葉にたまらずビールを一気に飲み干した。というより、そうしないと今俺がどんな顔をしてるかバレてしまいそうだったからだ。
「それにしても若いってすごいね」
「若いってお前も同じ年だろ」
「あっはは、それはそうか。お互いに年取っちゃったもんね。あれから二年だっけ? 時が経つって早いね」
紗季が盛り上がっている彼らを遠い目で見ていた。それはあの時と変わらない、紗季が俺に時折見せていた寂しそうな目だった。
「覚えてる? 学園祭のときのこと」
「忘れた」
「嘘つき。本当は覚えてるくせに」
「……ああ、覚えてるよ。というより、あんなの忘れろってほうが無理だろ」
「まだ根に持ってるの? ハカセって案外根に持つタイプなんだね」
紗季が口を尖らせながら言う。
「お前、根に持つって言うけどな、あのあとすごい大変だったんだぞ。祐介さんには怒られるし、窓ガラス片付けなきゃいけないし」
「あ、あれは事故で──」
「確かに事故かもしれない。それは仕方ない。だけどそのあとだ。初めて会った人間に頭大丈夫ですか? はないだろ」
「でも、無事だったんだからいいじゃない」
「無事だったからな。あんなの本当に当たってたらどうなってたか……」
「当たらなかったことが奇跡だよね」
「それを自分で言うか?」
「あはは、ホント申し訳ない……」
呆れたように言うと紗季も反省しているのか、それ以上なにも言ってこなかった。
今となってはあの時のことは笑い話で済んでるが、よくよく考えてみるととても恐ろしいことだ。
もし、名前も知らないどこかの誰かさんが俺を罠に嵌めようとして企んでいたことだったら、ずいぶんと手の込んだことだと思う。
でも、あの時ならともかく、今ならそのどこかの誰かさんに感謝してやってもいい。それこそ、あんな奇跡みたいなことでもなけりゃ俺はこいつと、紗季と出会うことなんてなかっただろうから。
「楽しかったよねあの時。みんな夜遅くまで学校に残っててさ、なんだかお祭りみたいだったよね」
「お祭りみたいっていうか、実際お祭りの準備をしてたんだけどな」
「あっという間だったよね」
紗季が昔を懐かしむように呟く。あっという間だったなと俺もそれに返した。
そう、紗季が窓ガラスを壊したあの日、俺たちが祐介さんから告げられたのはこんな言葉だった。


「それじゃあ窓ガラス割った罰として──長谷川、お前コイツの手伝いしてやってくれ。期間は学園祭が終わるまで。依存はないよな?」
たったその一言で俺の日常はたちどころに変化した。
一日の授業が終わって、天文部の部室(通称、物置小屋)に行くと、
「遅かったねハカセ。さ、今日も一日頑張ろー!」
なんて笑顔と一緒に紗季が出迎えてくれていた。
臨時とはいえ紗季が加わったことで、一人だけの天文部も賑やかというか、騒がしくなった。俺と紗季は別々のクラスだったから、お互い顔を見たことはあっても直接話すことはこれが初めてだった。なのに、紗季は元来そういう性格なのか、出会って早々に俺のことを『ハカセ』なんてみょうちくりんなあだ名で呼び始めた。理由は星に詳しいからハカセにしたということだった。
ずいぶんと馴れ馴れしい奴だと思っていたけど、それも最初のうちだけ。気が付けばお互い『ハカセ』『紗季』と呼び合う仲になっていた。
「んもー、ハカセがちゃんとしてないからじゃない。そういうことならそうと前もって言っておいてよね」
「んなこと言ったって俺だって他にもやることあったんだ。無理言うな」
とはいえ、顔を突き合わせればこんな調子で言い争ってばかりいた。その度に周囲は夫婦漫才だとか、相変わらず仲いいなお前らとか、好き勝手言ってくれていた。さすがに、これで仲がいいと言えるのかどうか怪しかったが、割とこんな毎日が楽しくもあった。
夏が過ぎて、次第に学園祭が近づいてくると、学校内の雰囲気も学園祭のそれへと変化していった。どのクラスや部も泊まり込みで出し物の準備に追われていて、学園祭に向けてプラネタリウムを作っていた俺たちも同様だった。
クラスの出し物とはいえ、ある程度形にしないとクラスで制作できなかったこともあってか、プラネタリウム制作のほとんどは、俺と紗季の作業によるところが大きかった。だから自然と二人っきりで過ごす時間も多く、そのお陰なのか出会ってからひと月ぐらいしか経っていなかったはずなのに、その頃にはすっかり長年一緒にいた友人みたいな気持ちになっていた。その頃からか。俺が紗季をただの同級生から一人の女の子として意識し始めたのは──。
そんな中、俺は紗季が同じ学校の先輩に告白されているのを偶然見かけたことがあった。相手の方は学校の女子から結構な人気があった先輩で、いろんな女子から告白されているというのを噂で聞いたことがあった。けれど、その先輩がまさか紗季に告白するなんて誰が思うだろうか。
とっさに物陰に隠れて様子を伺っていると、わずかだが話し声が聞こえた。
「どうしてなんだ!? 俺はずっと君のことが……」
「先輩の気持ちは嬉しいです。でも、わたしには他に好きな人がいるんです」
「好きな人? 誰だそいつ」
「秘密です。でも、その人はいつも一つのことに夢中になってて、きっとわたしのことなんてこれっぽっちも気にしてないんですよ」
「じゃあなんで」
「それでもわたしはその人の側にいたいって思うからです。だからわたしは先輩とお付き合いすることは出来ません」
そしてもう一度「ごめんなさい」とだけ告げると紗季は先輩の前から去っていった。
一人残された先輩は断られたことがショックだったのか、うなだれてしばらく動かなかった。もちろん、それは俺も同じだった。
紗季に好きな人がいる。その事実が俺の心を強く締め付けた。
紗季と二人きりで作業するたびに、あの時見たことを問いただしたい、そんな気持ちでいっぱいになった。けれど、それを聞くことは一度も出来なかった。
それからあっという間に学園祭。クラスの出し物のプラネタリウムもいろいろあったが無事に成功し、晴れて紗季の罰も終りを迎えたその日、俺たちは初めて普段立ち入ることの出来ない学校の屋上で夜空の星を眺めていた。
「とりあえずお勤めご苦労様でした」
「なんだかそう言われると、刑務所から出所してきたみたいな言い方じゃない」
「実際そうだろ。お前が窓ガラスを割らなきゃこんなことにはならなかった」
「それもそっか」
「ま、なんにせよお疲れ様」
ビールの代わりにジュースが入った紙コップで乾杯すると、紗季が照れくさそうに微笑んだ。
「学園祭終わっちゃったね」
「あっという間だったな」
長いように見えたこの一ヶ月も、過ぎてしまえばあっという間だった。
時に笑い、時にぶつかりあい、時に励ましあいながら駆け抜けた時間。その全てが今日で終わった。明日になればまたもと通りの日常が帰ってくる。そうなれば紗季は俺の横にいない。
わかってる。
わかっていた。
もともと学園祭が終わるまでの話だった。
なのに、俺はそれがたまらなく嫌だった。
「見て見て、キャンプファイヤーやってるよ! いいよね~、なんだか青春って感じでさ」
グラウンドに焚かれた炎を見て紗季がはしゃいでいた。紗季のいつでもキラキラと眩しく輝く瞳には今、なにが映ってるのだろう。その瞳に映る未来にはいったい誰が──。
「あ、あのさ」
そう思うと、考えるより先に言葉が出ていた。
「んー、なにー?」
「あ、えと……」
お前このまま天文部に入らないか? 
そう言えたならどんなに気が楽だったろう。でも俺にそれを言う勇気はなかった。紗季には紗季の時間がある。
そして俺には俺の──。
「どうしたの? なにかあった?」
「いや……なんでもない。それより、ジュースのおかわりいるか?」
「うん、もらおうかな」
俺はこの時ほど自分が情けないと思ったことはなかった。
結局、そのあともなにも言えずに、俺たちの学園祭は幕を閉じた。
──それから一週間。
ようやく学園祭の余韻も薄れてくると、学校内に流れる空気もいつもどおりに戻っていた。ただ違っていたのは、前までなら『宮野』と呼んでいたクラスの連中が俺のことを『ハカセ』と呼ぶようになり、今まであんまり話したことのない連中ともずいぶんと仲良くなった。
嬉しい変化だったと思う。
だけど、それとは対照的に、俺は抜け殻のような毎日を過ごしていた。
学園祭が終わってからというもの、俺は一度もあの物置小屋に立ち寄っていない。
原因はわかっている。ただそれを認めるには俺はまだ大人になりきれていなかった。
今日もまっすぐ家に帰ろうとすると、不意に呼び止められた。
「おい、そこのサボリ魔」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには祐介さんの姿があった。
「祐介さん」
「翔吾、学校では椎名先生と呼べって言ってるだろ」
「そうだった。ごめん祐介さん」
「お前、わざとやってるだろ?」
「次からは気をつけるよ。それで俺になにか用?」
「お前、ここ最近部室に顔出してないだろ? たまには学生らしく部活動しろよ」
「活動って、たった一人しか部員がいないのに部活動もなにもないと思うけど。それに天文部だし」
そう言うとなぜか祐介さんは不思議そうな顔をしていた。今の言葉にどこかおかしい点なんてあっただろうか。 
「なんだお前知らないのか? てっきり俺はもう知ってるもんだと思ってた」
「なにを?」
「まぁ口止めされてたから黙ってたんだけど、部室にはな──」
祐介さんからもたらされた事実を聞くなり、俺は走り出していた。背後から「おい翔吾! 廊下走んな!!」と祐介さんの怒鳴り声が聞こえてきたけど、それすらどうでもよかった。
廊下を駆けると開かれた窓から吹奏楽部が奏でる音色や、野球部の掛け声が聞こえてきた。それらがまるで俺を後押しするように聞こえた。
階段をひとっ飛びで駆け上ると、体中が酸素を求めて息を荒くした。
早鐘を打つ心臓が痛かった。もしかしたらそれは全力で駆けているせいだけじゃないだろう。
なぜ。
なぜ?
なぜ!?
俺の心はたくさんのなぜ? で埋め尽くされていた。
もちろん答えなんか出ない。だったらその答えは“あいつ”に聞けばいい!!
バダン! と物置小屋の扉を開け放つ。
「おい紗季!!」
「お、やっと来た。ずいぶん遅かったね。一週間も部活サボるから今日も来てくれないかと思ってた。あ、オレンジジュースあるけど飲む?」
「助かる。全力で走ってきたから喉渇いて……じゃなくて、紗季、なぜだ!?」
「な、なに!? そんなに息荒げて……とりあえず落ち着いたら。はいオレンジジュース」
「ああ、ありがとう……って、これが落ち着いてられるか! な、なんで、なんでお前がここにいるんだよ!?」
「なんでって、わたし天文部部員だから」
「は!? 天文部部員って、お前ソフトボール部員だろ!」
「あー、それね。辞めちゃった」
「辞めたって……はぁ!?」
もう頭がこんがらがって、なにがなんだかわけがわからなくなっていた。
「と、とりあえず落ち着け」
「わたしは落ち着いてるよ。落ち着いてないのはハカセの方じゃない?」
「そ、そうだな、うん。とりあえずだ、とりあえず聞きたいことがいくつかある。お前、なんでここにいるんだ?」
「なんでって、天文部部員だから」
「いや、だからなんで」
「ソフトボール部辞めてここに来たから」
「だからなんで」
「なんでって、そうしたかったから」
「だから」
「あーもう、面倒くさいなー。とりあえず順を追って話してあげるから、まずは座ったら?」
「…………」
……もう本当になにがなんだかわからなかった。
紗季は学園祭のあと、所属していたソフトボール部を辞めて、この誰もいないはずのこの場所で、ずっと俺が来るのを待っていた。
紗季になんでソフトボール部を辞めたのかと理由を尋ねると「ま、それはいいじゃない」とはぐらかされてしまった。なにか彼女なりに言いたくない事情があったのだろう。
「というわけでわたしも晴れて天文部部員だから。よろしくね部長」
「よろしくって、俺はまだ入部を許可した覚えはないぞ」
「あれ? 椎名先生に言ったら二つ返事でオッケーもらったよ」
「あんの野郎……」
出来るだけ口汚く罵ってやると、してやったりと笑う祐介さんが脳裏に浮かんだ。とりあえず言いたいことは山ほどあったけど、それはまた今度言おう。
それよりも、だ。
「にしても、なんだってこんな部に入ろうと思ったんだ?」
いろいろありすぎて一番気になっていたことを聞くのを忘れていた。そもそも、なんでこんな部に……。
「なんで、か。なんでだろうね」
「わかんないのかよ……」
「理由がわかんないわけじゃないんだけど、なんて言えばいいのかな」
そう言って紗季が言葉を区切る。
窓際に立つと、じっとグラウンドのほうを眺めていた。窓から差し込む夕日に照らされたその瞳は、どこか切なく、どこか憂いに満ちているようにも見えた。
思わず俺が「紗季」と呼びかけようとして、紗季が振り向いた。
──満面の笑みを浮かべて。

「もう少しだけ……もう少しだけさ、ハカセといたかったからじゃ……ダメかな?」

その時の俺はどんな顔をしていたのだろう。
笑っていた? 
それとも呆れていた?
そのどちらでもないかもしれない。ただ一つ思ったのは──、
「……なんだよそれ」
「あはは。ま、そういうことだから。これからもよろしくね」
「……ったく、学園祭も終わってやっと落ち着けると思ったんだけどな」
「そうはさせないよ。わたしが来たからには退屈な日々はないと思いたまえ」
「退屈じゃなくて災難の間違いじゃないのか?」
「ふふ、そうかもね」
そう言って紗季がいたずらっぽく笑った。
こうして、たった一人しかいなかった天文部に新しい部員が加わった。
名前は長谷川紗季。
俺に『ハカセ』なんて変なあだ名をつけた張本人。
そして──。
「よし、部員も増えたことだしさっそくなにしよっか?」
「そうだな……とりあえず、片付けからするか」
「うげー……わたし片付け苦手なんだよね」
「部長命令だ。文句言うな」
「はーい」
一人では広すぎた部室も、二人になると随分にぎやかになった。
本当……退屈しなさそうだ。この時の俺は紗季と再び一緒にいられることを、ただ純粋に喜んでいた。



 
店を出ると、暑くもない、寒くもない、初夏特有の生ぬるい風が頬を撫でた。人で賑わっていた町もすっかり静けさを取り戻して、夜の中にポツポツとだけ明かりが灯っていた。
そんな中、俺たちはすっかり暗くなった町をさまよい歩いていた。というより、紗季が調子にのって飲めもしないビールを飲みすぎたせいで、身動きがとれなくなったというのが正直なところだ。
「ういー……。飲みすぎた……」
「おい、しっかりしろよ。大丈夫か?」
「あー、大丈夫大丈夫……」
「ちっとも大丈夫じゃないだろ。ほら、そこ座れ」
千鳥足で、あちこちふらふらと動こうとする紗季をおさえる。近くにあったベンチに寝かせるとようやく大人しくなった。
「ありがとー……。ハカセは昔から気が利くね……。よ、色男……」
「思ってもないお世辞はいいから。さっきそこで水買ってきたからこれでも飲め」
「面目ない……」
紗季に水を渡すと、ゆっくりだけど飲んでくれた。それからしばらくすると、落ち着いてきたのか、わずかだけど声に元気が戻っていた。
「どうだ調子は?」
「さっきよりマシかな……。ごめんね、久しぶりに会ったのに迷惑ばかりかけて……」
「気にするな。お前が俺に迷惑をかけることなんて今に始まったことじゃないし、それにそんな状態の奴をほうってなんかおけないだろ」
「あはは……優しいねハカセは」
まだ辛いはずなのに、紗季が笑ってみせる。昔っからこういうところだけは変わらない。
こうやっていると、まるであの頃に戻ったみたいだ。あの楽しかったひと時のように。
「なぁ、紗季」
「……なにー?」
「お前……いや、なんでもない」
俺は口を突いて出ようとした言葉を無理やり飲み込んだ。
「……どうしたのハカセ?」
「なんでもない」
「……なんでもないって、なにかわたしに聞きたいことがあったから聞いたんでしょ?」
「なんでもない」
「……もう、ハカセって昔っからそうだよね。なにか聞こうとしてすぐに言わなくなっちゃう。変わってないねそういうところ」
「…………」
変わってないのはお前もだろ。そう言いたかったけど、あえて言わないことにした。
「んー……んしょ……ふぅー……」
紗季が起き上がると大きく伸びをした。
「まだ休んでたほうがいい」
「大丈夫だよ。もう、平気だから。それよりも、ハカセがわたしになにを聞きたいか当ててみせよっか?」
紗季の目がキラリと輝く。案外、いい加減なようで鋭いところがある。もしかしたら俺がなにを聞こうとしていたのか気づいてるかもしれない。
「ズバリ、わたしに彼氏がいるとかいないとかでしょ?」
「……一番どうでもいい話題だな」
……見当はずれだった。
「あれ? これじゃなかったか。それじゃあなんだろ。もしかしてスリーサイズとか? さすがにこればかりは親友のよしみでも教えることは出来ないかな。あ、代わりと言っちゃなんだけど、わたし彼氏とかいないからね」
「……誰も聞いてねーよ」
紗季は俺が聞いてもいないことをベラベラと勝手に喋っていた。相変わらず
おしゃべりで、こっちの気持ちなんてまるで無視だ。そもそもスリーサイズなんて誰が聞くか。
でも……そうか彼氏はいないのか。
なぜか紗季のその言葉に少しだけ安心していた自分がいた。
「さて、と。冗談はここまでにして、そろそろ本題に入ろっか。ハカセがわたしになにを聞きたかったことって、どうしてわたしがなにも言わずにいなくなったかでしょ?」
「…………」
俺は思わず言葉に詰まってしまった。……これじゃあそれが正解だと言ってるようなものだ。はぐらかそうと言葉を探してみるが、そんなことをしたってきっと紗季はすぐに見抜いてしまうだろう。
仕方ない……。
俺は腹をくくると、大きく「そうだ」と頷いた。
「やっぱりそれか。きっと聞かれるだろうなって思ってた」
紗季がボトルに少しだけ残っていた水を飲みながら、浮かべていた笑みをひそめる。
「なんでなんだ」
「なんで……か。一言で言うのは難しいかな。ただ、何も言わずにいなくなったことにはごめんって謝っておくよ」
よっぽど聞かれたくないことなのか、紗季はわざと言葉を濁した。
「俺には言えないことか?」
「言えないわけじゃないけど、今はまだ言いたくないっていうのが本音かな。ごめん」
俺の追求を避けるでもなく、けれど受け止めるでもなく、紗季は困ったように眉根を下げていた。
こうなってしまったら俺が紗季に言えることなんて一つしかないじゃないか。
「気にするな。こうやって久しぶりに再会できたんだ。理由ぐらい、いつだって聞ける」
「でも」
「じゃあ話してくれるのか?」
「……ごめん」
「別にいい。お前が話したくないって言うんだったら、俺は聞かない」
「……うん、ありがとうハカセ」
「気にするな」
俺はポケットの中から水と一緒に買った、すっかり温くなってしまった缶コーヒーを取り出した。
そうだ。俺の前からどうしていなくなったのか、その理由が知りたくないわけじゃない。だけど紗季が嫌がることをしてまで聞きたいわけじゃない。ならば聞かないでおくのが正解だろう。それに、理由なんていつだって聞ける。だから、今はそれでいい。俺はそう思うことで自分を無理やり納得させたかったのかもしれない。
「ハカセはやっぱり変わってないね」
「そうか? ……いや、そうかもな」
「そうだよ」
ふふっ、と紗季が嬉しそうに笑った。
「そういえばさ、わたしたちまだ乾杯してないよね?」
「乾杯ならさっきしただろ」
「そうじゃなくって、二人だけでってことだよ」
俺は思わずそういえば……と思ってしまった。
「でも、乾杯するっていってもお酒なんてないぞ?」
「これがあるじゃない」
そう言って紗季が手に持っていたボトルを掲げた。
なるほど。確かに乾杯には違いない。
「それじゃあ、なにに乾杯する?」
「そうだね……二人の再会に、なんてどうかな?」
「ずいぶんと格好つけた乾杯だな」
「いいじゃない。せっかく二年ぶりに会えたんだし、きっとこういう機会なんてそうそうないよ?」
俺は「そうだな」とだけ返した。
「それじゃあ、乾杯の音頭よろしく」
「俺がやるのか!? ったく、そういう人任せなところも変わってないな」
「まぁまぁ、こういうのってやっぱり男の役目でしょ?」
「そういえばなんでも通ると思ったら大間違いだぞ。ま、別にいいけどな。それじゃ二人の再会を祝して──」

「「乾杯」」

お互い手に持っていたものをぶつけ合うとベコっとなんとも情けない音がした。
「あはは、やっぱり缶コーヒーとペットボトルじゃ格好つかないね」
「別にいいだろ。こんなのは気持ちだ気持ち。それに乾杯をやろうって言いだしたのはお前だろ」
「それもそっか。とりあえずまたよろしくねハカセ」
「またお前に振り回されるのかと思うと気が滅入るな」
「とか言って本当は嬉しいくせに」
「んなわけねーだろ」
そう言って俺は手に持っていた缶コーヒーを飲んだ。
久しぶりに飲んだコーヒーはどこかほろ苦く感じた。
「やっぱりビールのほうがよかったかな」
その一言に思わず呆れ返ってしまった。
まったく……こういうところも変わってない。


「紗季さんって、あの紗季さん?」
真衣奈が珍しく素っ頓狂な声を出していた。
「ああ、あの紗季だ。正直あんな場所で会うなんて思ってなかったから驚いた」
俺は真衣奈の作ったカレー(最初は肉じゃがの予定だったらしい)をほおばりながら頷いた。
あれから二日後、いつもどおり俺の家にやってきて晩御飯を作ってくれていた真衣奈に、この間のことを話すと案の定驚いていた。
「そっかぁ。紗季さんこっちの大学に通ってたんだ」
「ん? お前も知らなかったのか?」
「うん。初めて聞いた」
俺は意外だという気持ちだった。
実は紗季と真衣奈は仲がいい。それこそ紗季が転校する前までは、二人だけでよく遊びに行ったり、お互いの家に泊まったりしていたぐらい仲が良かった。なのに、その真衣奈ですら紗季が転校することを知らされておらず、またこの町に帰ってきていることさえ知らなかった。
「てっきり、お前なら知ってるもんだと思ってた」
「紗季さん転校しちゃってから急に連絡取れなくなっちゃったから、それ以来連絡してないよ。なにかあったのかなって思ってたけど、元気そうで良かった」
真衣奈が昔を懐かしむように微笑んだ。
「で、紗季さんどうだった?」
「どうってなにが」
「美人になってたかどうかって話だよ。きっと紗季さんのことだから、すっごい美人になってるだろうけどね」
「あんまり変わってなかったぞ」
「えー、本当かなぁ?」
真衣奈がニヤつきながら俺のほうを見ていた。こいつとは長い付き合いだから、隠し事をしたところで大体のことはすぐにバレてしまう。真衣奈もそれをわかっていてからかっているだけなんだろうが。
「ま、あの紗季さんだしね。あんまり変わってなくても驚かないかもだけど」
しばらくすると俺をからかうことにも飽きたのか、ようやく開放してくれた。
「でもさ、なんだか奇跡みたいな話だよね」
「奇跡?」
「だって、元は同じ学校に通ってた二人が急に別れることになっちゃって、だけど何年か後に偶然とはいえ再会するなんてどこの恋愛ドラマ? って話じゃない。あーあ、わたしのところにも運命の王子様みたいな人が現れないかな」
「恋愛ドラマって……」
俺がやれやれとため息を吐きながらうんざりとしてみる。けれど、真衣奈はすっかり自分の世界に入り込んでいるようで、きっとまだ見ぬ運命の王子様とやらにご執心のようだった。
奇跡か……。
紗季と再び出会えたことはもしかしたら本当に奇跡なのかもしれない。それが恋愛ドラマの脚本であろうとなかろうとだ。
あいつ……変わってなかったな……。
笑った顔も、人の話を全く聞かないところも、俺のことをハカセなんて変なあだ名で呼ぶところもまったく変わってなかった。
「ハカセ……か」
「どうしたの急に?」
「え? うわっ!」
突然、目の前に真衣奈の顔が現れたことに、思わず驚いてしまった。
「な、なんだよ」
「なんだよはこっちのセリフだよ。わたしがいくら呼びかけても先輩ボーッとしてるし、具合でも悪いのかなって心配してたのに」
「い、いや……大丈夫だ」
「そう? だったらいいんだけど。あ、もしかしてキスでもされると思った?」
「……なんでそうなる」
「えー、こんな美少女がキスしてくれるんだよ。嬉しくないの?」
「自分で美少女って言う奴にキスされたって嬉しくない」
「またまたそんなこと言って。本当は嬉しいくせに」
「お前にキスされて俺になんの得があるんだ? むしろキス一回につき一万円とか言われそうだ」
「そんな安くないわよ! でも先輩なら五千円にまけといてあげる」
「金とんのかよ!? つーか、それでも高いな!」
「冗談だよ。先輩相手にお金なんてとらないよ。だから……」
真衣奈が瞳を潤ませながらゆっくりと顔を近づけてくる。
「お、おい真衣奈……」
「すぐ終わるからじっとしてて」
吸い込まれそうな瞳。俺はその瞳から目が離せなかった。
ドクン、と心臓が高鳴る。
このままじゃ俺は……ある種の覚悟を決めて目を閉じた。すると、
「えいっ!」
「痛っ!」
──なぜかデコピンを食らった。
「な、なに……」
「あっははは! 引っかかった!」
俺はなにが起きたのかさっぱりわからなかった。せいぜい分かることといえば、また真衣奈にからかわれていたってことだ。
「もう、そんな簡単にキスするわけないでしょ」
ふふん、と鼻を鳴らしながらなぜか得意げに真衣奈は言った。すっかり騙された方としては、がっかりというか安心したというか、なんともいえない敗北感に打ちひしがれていた。
「さ、冗談はこれぐらいにして食べよ。カレー冷めちゃうよ」
そう言うと真衣奈は、何事もなかったかのように再びカレーを食べ始めた。けれど俺はというと妙に気まずい。
真衣奈は昔っからこういった冗談に聞こえない冗談を平気で仕掛けてくる。その度に俺はドキドキさせられたり、頭を抱えたりしているわけなんだが……。
ちらりと真衣奈に気づかれないようにうかがう。真衣奈は確かに美少女だ。美人だと言い換えてもいい。いや、自分で美少女って言ってしまうところはどうかと思うけど、身内のひいき目に見なくても十分に器量よしの部類に入るだろう。だからこそ余計変に意識してしまいがちになる。
ただ、本当なら彼氏の一人ぐらいいてもおかしくないはず。だけど、それでも恋人がいないところを見ると本人の性格に問題があるのか、ほかの理由があるのかなんていらん詮索をしてしまいたくなる。
まぁ、もう少しおしとやかというか、おとなしい性格なら……とも思わなくない。
「どうしたの? わたしの顔になにかついてる?」
「いいや、なんでも」
真衣奈が訝しげな顔をしていた。俺はたまらず、天は二物を与えなかったかとほくそ笑むことにした。


「うわー、やっぱり寒い!」
真衣奈がバイクの後部座席で叫んでいた。
真衣奈特製のカレー(肉じゃがの予定だった)を食べ終えた俺たちは、なぜかバイクにまたがり夜の町を走っていた。というのも真衣奈がバイクに乗りたいと言ってきたからだ。
「もうちょっと速度緩めてよ! さっきから寒くてこのままじゃ風邪ひいちゃう!」
「だから言っただろ。まだ寒いからちゃんとした格好してこいって!」
後ろから聞こえる抗議の声に、流れる風にかき消されないように大きな声で返す。
七月に入ったとはいえ、夜にバイクで走るにはまだ寒い。それこそちゃんとした格好をしていなければ、風を感じるどころか、ただの苦行になってしまう。俺は慣れてるからともかく、後ろにまたがる真衣奈に至っては、制服のまままたがってるものだから寒いのも当然だと思う。それをわかっていてこういうことを平然と言うのだから始末に負えない。
「寒いんだったら帰るか? 今ならまだ間に合うぞ」
一応、年長者として気遣ってみるが、そう言うと決まって真衣奈は、
「やだ! ぜったいやだ!!」
と、駄々っ子のようなことを言って困らせてくる。……まったくどうすりゃいいんだ。
俺は向かってくる風を相手にため息を吐いていた。
「仕方ないじゃない、急に乗りたくなったんだから。うぅ……寒っ……でも、こうしてると暖かいよ?」
「──!」
そう言ってぎゅむっと俺の体に回した腕に力を込めてきた。ちょっと前まで華奢だと思っていたのにずいぶんと……いや、なに考えてんだ俺は……。
「あ、今、変なこと想像したでしょ?」
「するか」
「ふーん、そんなこと言うんだ。じゃあ──」
と言ってさらに力を強くする。服の上からといっても真衣奈の女の子特有の柔らかさと、わずかに漂うシャンプーの甘い香りのせいで、思わず握っていたアクセルを強めてしまった。
「うわっ、寒っ!! 速度緩めてってば!!」
「へいへい」
とりあえず背後から聞こえる抗議に従い少しだけアクセルを緩めた。耳元で鳴っていた風切り音が弱まり、バラララという排気音に混じって、わずかに熱気を孕んだ風が頬を掠める。
しばらくバイクを走らせると、ようやく慣れてきたのか、背後から聞こえるのは抗議の声から調子外れの鼻歌に変わっていた。
「また歌ってるのかそれ」
「えへへ、いい曲でしょ。バイクのメットを五回ぶつけるっていう歌詞がいいよね」
言いながらコツコツとヘルメットをぶつけてくる。歌詞の中では『ア・イ・シ・テ・ル』の言葉の変わりだったはずだけど、真衣奈がやると『ド・コ・ヘ・イ・ク?』になる。返事の代わりに俺がどこへ行きたい? と尋ねると、返ってきた言葉は「海が見たい」だった。
国道8号線を走り海のほうへ抜けると、いつものコースが見えてきた。
海にかかる架橋。対岸と対岸をつなぐ新湊大橋のアーチが夜の中に光の道を作っていた。
上昇していく橋の上から見えるのは、高岡の街並みと、伏木港に停泊している船舶の光。眼下にはただ規則的に打ち寄せる波と、潮騒の音。波が寄せて引くたびに、水面に映った月明かりがキラキラと揺らめいていた。
「夏だね」
「夏だな」
自然と口を突いて出るのは、そんな感想ともなんともつかない言葉だった。
バラララ。コツン。ザー、サラサラ。
俺たちが感じる音はただこれだけ。ほかの一切なにもなく、世界にたった二人だけ取り残されてしまったように感じる。
そういえば、こうやって二人で走るのもずいぶん久しぶりだ。
まだ真衣奈が高校に入学する前までは、よくこうやってバイクに乗ってた気がする。それがいつのころからだろう、真衣奈が高校に入学する頃になるとそれも少なくなった。その時の俺たちは大学受験やら新しい環境の変化に必死だったからかもしれない。
それに……。
コツン。真衣奈がヘルメットをぶつけてくる。肩ごしに彼女の顔を見ると、寂しげに夜の海を見ていた。
そうだ。真衣奈が高校に入学する頃、いつも俺のバイクの後部座席に乗っていたのは紗季だ。
紗季もことあるごとにバイクに乗せて欲しいと言っていた。よく二人で夜の町を走り、二人だけの時間を過ごしながら、将来のことやくだらない話で盛り上がっていた。
いつも思っていた。このわずかな瞬間がいつまでも続けばいいのに、と──。
新湊大橋の緩やかなカーブを降りてくると、一隻の帆船が浮かんでいた。
帆船海王丸。この港に駐留している船で、ここ海王丸パークのシンボルでもあった。
海王丸パークの駐車場の適当なところにバイクを停めて、近くにあった自販機で飲み物を買った。
誰もいないパーク内のベンチに腰を下ろして俺はコーラを、真衣奈は女の子らしくミネラルウォーターを飲んでいた。
「先輩、まだそんなの飲んでるの? 体に良くないよ」
「いいんだよ別に。それよりお前、まだコーラが骨を溶かすなんて信じてんのか?」
「うぐ……そ、そんなの嘘だって知ってるから!」
真衣奈が一瞬だけたじろいだ。というのも、子供の頃にあった話でコーラばかり飲んでいると骨がなくなるという迷信が流行ったことがあった。必ずしも間違いじゃないが、当時の真衣奈とってそれはとてもショッキングなことだったらしく、コーラが大好きだった純粋無垢な少女はそれっきり、コーラを飲むことをやめてしまったといういきさつがある。それを思い出したのだろう。
「別にわたしはそんなの飲めなくてもいいけどね。本当だからね!」
「へいへい」
妙につっかかってくる真衣奈を適当にあしらいながら、手に持ったコーラを飲む。シュワシュワと口の中いっぱいに炭酸が弾ける。夏の暑い日はやっぱりこれに限る。
「今年は海に来れるかな」
真衣奈がポツっと呟いた。
「今来てるだろ」
「そうじゃなくって、泳ぎにってことだよ。今年はわたしも受験生だし、去年みたいに遊んでばかりもいられないからね」
「受験ってどこ受けるんだ?」
「先輩と同じところ」
「同じところって、お前の頭だったらもう少し上の大学狙えるだろ」
「買いかぶり過ぎだって。わたしがあそこを選んだのって、家に近いからなんだよね。お父さんは自分の好きなところに行けっていうけど、お父さん一人にしておけないし、勉強するぐらいならどこでも出来るから。それに……先輩もいるし」
そう言って真衣奈がミネラルウォーターを飲んだ。その姿がやけに色っぽく見えて、知らない間に成長している幼馴染からわざと目をそらした。
そうだ。知らないあいだに時間は過ぎていく。俺も真衣奈も変わっていく。もちろんあいつだって。
「どうしたの?」
「ん、考え事」
「考え事ねー。もしかして紗季さんのこととか?」
「そんなわけないだろ」
適当にはぐらかすと真衣奈は興味を失ったように「ふーん」とだけ言った。
ザー、サラサラ。
お互いなにも喋らなくなると途端に静かになる。波の打ち寄せる音だけが夜の海に響いていた。
空を見上げれば、夜空には満点の星ぼし。天の川をはさんで向かい合うベガとアルタイルがそっと瞬いていた。
「どうして織姫と彦星は一緒になれないのかな。あんなに近くにいるのに、ものすごく遠い」
「どうしてって、そういうものだからだろ」
「そういうものなのかな」
「そういうものだ」
きっぱりと言い切ると真衣奈は「それって切ないね」と悲しげに微笑んだ。
「ねぇ、先輩」
「ん、なんだ?」
「……わたし、さ」
真衣奈が俺の顔を覗き込んでくる。揺れる瞳の中に月明かりが映って輝いていた。
「わたしね……ずっと前から……」
ピルルルル、ピルルルル。
電話が鳴った。
「なによ、こんな時に……」
真衣奈が文句を垂れながらポケットから携帯を取り出す。するとその表情がみるみるうちに険しいものになっていった。
「どうしたんだ?」
「……お父さんからだ。出なくてもいいかなこれ?」
「そんなことしたら祐介さん泣くぞ。いいから出てやれ」
「仕方ないな……ごめん、ちょっと話してくる」
「ああ、そうしてやれ」
真衣奈は俺から少し離れるとようやく祐介さんと話し始めた。その証拠に、離れた場所からでも真衣奈の怒鳴り声が聞こえてきたからだ。きっと電話の内容は「まだ帰らないのか?」とか「今どこにいる?」とかそんなところだろう。祐介さんもいい加減なようで一人娘のことが心配でたまらないのだ。
それからしばらくすると不機嫌な顔をした真衣奈が戻ってきた。
「祐介さんなんだって?」
「今どこにいるんだ? って言ってた。もう、お父さんたら心配しすぎだよ。わたしだってもう子供じゃないんだし」
「ま、そう言うなよ。祐介さんにしたら大事な一人娘なんだし、心配もしたくなるんだろ」
「だからってわざわざ電話までしてこなくたっていいのに」
俺が祐介さんの肩を持ったからか、ますます不機嫌になってしまった。ごめん、祐介さん。
「それでなんだ?」
「うん?」
「うん? じゃなくって、さっき俺になにか言おうとしただろ。なんだったんだ?」
「あー……忘れてた。ううん、なんでもない、気にしないで」
「気にしないでって、遠慮しなくていいぞ」
「遠慮してるわけじゃないんだけど……なんていうのかな、気分がね。それにもう遅いしそろそろ帰ろっか」
そう言いながら真衣奈は、スカートについた埃を払うと、先に行ってしまった。
なにを言おうとしたんだろうなあいつ。
「……まさか、な」
残された俺は、缶の中に残っていたコーラを飲み干すと、真衣奈を追ってその場を後にした。

第三話

「あっついな……」
天文台から出るなり出た言葉がそれだった。もはや定例句と化しているこの言葉も何回呟いたことだろうか。もちろん回数なんて数える気なんてない。
七月も半ばを過ぎたせいか夜でも汗が滲んできそうな空気が漂っていた。駐車場にポツンと立っている時計は夜の十時をとうに超えていた。しかしそれでもまだ帰ることは出来ない。なぜならここしばらく普段なら静かな天文台も大勢の人で賑わっていたからだ。
それにしても、プラネタリウムも最後の上映を終えたというのに駐車場にはまだたくさんの人がいた。きっとさっきまで見ていたプラネタリウムと、頭上に浮かぶ星を見比べているのだろう。
俺も彼らに倣って頭上に浮かぶ星を眺めてみる。周囲に余計な光がない分、街中で見るよりはっきりと星が見えた。
まだしばらく帰れそうになさそうだな。
するとポケットの中に入れたままにしていた携帯が震えた。開いた携帯には何通ものメールが届いていて、そのほとんどが真衣奈からのものだった。仕事中だったからメールの文面は見ていなかったが、その中身はいつになったら帰ってくるの? とか、なんで返事を返してこないの? とか、そんなところだろう。人の心配をしてくれるのはありがたい話だが、それ以前に受験生であること自分自身のことを心配すべきだと思う。
とりあえず届いたメールを開いてみると、やっぱり真衣奈からだった。

差出人:真衣奈
件名:先に帰ります
本文:夜遅くなったので今日は帰ります。ご飯は冷蔵庫に入れてあるから温めて食べてね。
P.S バイトばかりもいいけどたまには勉強も見てよね。

短い内容だったが、果たしてその中にどれだけの感情を込めているのやら。とりあえず、『わかった。今日も遅くなるから帰ってから食べる』とだけ返信をしてポケットに携帯を戻した。そして別のポケットからタバコを取り出すとようやく一息ついた。
どこからか『うわぁ』と歓声が上がった。どうやら流れ星が見えたらしい。それを聞いて星に願いをなんて歌があったのを思い出した。もし、今の俺が星に願い告げるとしたら早く家に帰れますようにと祈るのか、もしくは晩御飯はカレーがいいと願うだろう。
夏特有の湿っぽい空気の中に、名前もわからない羽虫が飛び交っていた。それを適当にあしらいながらタバコの煙を吐き出す。すると流れ星がまた一つ瞬いて消えた。あっ、と思うのも束の間の出来事だった。
流れ星……か。
そういや、あいつと二人でスキー場に星を見に行ったときもそんな話をしていたっけ。

『またこうやってハカセと星を見にこれますように』

紗季の願い。
あの時は迷信だと笑っていた。けれどあいつがいなくなってからというもの、俺はずっとそれを願おうと心に決めていた。なのにいつ見上げても星空に流れる星は俺の前に姿を現してくれなかった。
だというのに……。
「なんで今なんだろうな……」
タバコの煙を吐き出しながらなんとなく呟いてみる。もちろん誰かから答えが返ってくるわけでもない。
俺がタバコを吸い終える頃には、駐車場にいた人たちもまばらになっていた。
館内へ戻ろうとしたとき、再びポケットの中に入れてあった携帯が震えた。
メールだ。
なにげなく開いてみると、差出人は紗季だった。

差出人:紗季
件名:見た!?
本文:ねぇねぇ今の見た!? 流れ星! シューって流れていったよ! すごいよね! なんとなく部屋の外眺めてたらキラって光ってたんだよ! あー、願い事お願いするの忘れてた! くやしー!

……メールの内容で紗季がどんな顔をしているのかありありと想像できた。
「メールだってのに騒がしいやつだな。えーと、知ってる俺も今見てた……っと」
手短に文章を打って送信ボタンを押す。画面には送信しましたの文字が表示された。
もう一度携帯を閉じてポケットに放り込む。
たかだか流れ星一つで大騒ぎするなんて。あいつらしいといえばあいつらしい。
呆れたため息をついていたはずなのに、どうしてだか口元が微かに緩んでいた。
「それじゃあ、もう少しだけ頑張りますか」
誰に言い聞かせるでもなくそう言うと、俺は再び冷房の効きすぎた館内へと戻っていった。


それからしばらくして夏も本格的になると気温も三十度を越える日が当たり前になってきた。ついこの間まで暖かくなってきたことに喜びを感じていたはずなのに、今では早く過ぎ去って欲しいと願っていたはずの冬を懐かしく感じる。
それよりも……だ。
「なんでこんなことになったんだ……」
俺は目の前にうずたかく積まれたキャベツを前にしてそんなことを呟いていた。
まな板の上には千切りにされたキャベツ、そして傍らにはまだ千切りにされる前のキャベツがこれでもかと陣取っていた。
なんの変哲もない夏の日、たいていこういう日は一日クーラーの効いた部屋で一日中ゆっくりしているのがいつものことなのだが、どういうわけか俺は、空からこれでもかというぐらいに地上を照らし続ける太陽の下、ダラダラと額から汗を流しながらキャベツの千切りに勤しんでいた。
というのも、俺がこんな目に遭ってる原因は全てあいつのせいだ。ちなみに、俺のいうあいつとはもちろん紗季のことだ。その紗季も今は頭に三角巾をつけて、創作お好み焼きいろはと書かれたエプロンを着こなし、忙しそうに店内を駆け回っていた。
あいつ元気だよな……。
そんなことを思いながら紗季の方を見ていると、「コラ、翔吾。仕事しろ!」と怒られた。いかん、いかん、知らない間に手が止まっていたみたいだ。思い直すと再び包丁を握り締めキャベツの千切りにとりかかる。
にしても……だ。
「俺はなんでこんなことしてるんだろうな……」
と、目の前のキャベツに一言愚痴ってみる。もちろんキャベツが答えてくれるわけもない。
この日は朝から大変な一日だった。
大体この時期になると世間は二つの人種に別れる。一つは日本人の美徳らしく、いついかなる状況であっても勤勉に打ち込むやつか、はたまた全てを投げ出して惰性に生きるやつか、だ。
世の中のその割合は多く見積もって七対三の割合だろう。普通に見積もっても約六割は日本人らしく勤勉に働いているといえる。だが、俺の目の前ではその六割に入ることが出来なかった、いや、入ろうとしなかった人間が、目をそらし続けていた決して逃れられない運命に「あー、うー」となにやら呪文のようなうめき声を漏らしながら悶え苦しんでいた。
「もー、疲れたー! 休みたいー!」
「ほら、あと少しだから頑張れ」
「うぅぅ……」
俺が何度目になるかわからない、もはや定例句と化した言葉をかけてやると、真衣奈は今にも泣きそうになりながら唇を尖らせた。
夏休みの宿題。これこそが真衣奈が逃れられない運命、または宿命というやつだろう。
毎年夏になるとこうやって真衣奈の勉強を見てやっていた。臨時の家庭教師なんて言えば聞こえはいいが、実のところ、目を離すとすぐに逃げ出そうとする真衣奈を見かねた祐介さんが、俺に見張りを依頼してくるというのが本当のところだ。真衣奈は俺が放っておいてもいつもテストで上位五位以内に入るぐらいの実力はある。だからといって、宿題をやらなくてもいいという理由にはならない。そんなこんなで俺が逃げ出そうとする真衣奈を捕まえて、強制的に勉強させるという図式が出来上がるわけだ。これも毎年のことで、夏が来るたびに真衣奈のうめき声を聞くと、ああ、夏なんだなと感じてしまう俺にとってはこれが夏の風物詩なのだろう。
真衣奈が言うことを聞かない子供のように足をバタバタさせて抗議していた。その度に部屋がギシギシと奇怪な音をたてて、部屋の底が抜け落ちるんじゃないかと心配になった。さすが今にも壊れ荘なんてあだ名されるだけある。
「ダメだ。まだ今日のノルマは達成してないんだ。それが終わるまで休みはなしだ」
「……先輩ってさ、なに気に鬼だよね」
「なに言ってんだ。お前が目を離すと勉強しないからだろ。それに今年は受験生なんだ。この夏を逃すとあとで泣きを見るのはお前だぞ?」
「そんなこと言ったって、わたし学校の勉強だけでも問題ないから大丈夫だよ。だからさ今日は止めにしない?」 
「お前……なに気に全国の受験生全員敵に回したぞ」
もし俺が受験生の立場だったら軽く殺意を覚えるレベルだ。
「あ、そうだ。今日駅前のカフェでスイーツフェアやってるんだって! ほら、頭を使うと糖分が必要だってテレビで言ってたよ。だーかーらー」
「戯言ならあとでたくさん聞いてやるから今は勉強に集中しろ」
「うぅぅ……先輩のバカ……」
真衣奈が恨みがましい目でこちらを見てくるが、俺としても臨時とはいえ家庭教師を任されている以上、甘やかすわけにはいかない。真衣奈も真衣奈でこれ以上の反論は無意味と悟ったのか、渋々ながらも机の上に広げられた参考書に向かって、ありえない速度で問題を解いていた。
……相変わらず無茶苦茶な奴だ。
と、その非凡な才能を羨んでいると、机の上に置いてあった携帯が鳴った。電話の相手は紗季だった。
出るべきか、出ざるべきか。大体、紗季からかかってくる電話なんてろくな内容だった試しがない。それを知っているせいか、通話ボタンを押すのに抵抗があった。
「電話鳴ってるよ。出ないの?」
真衣奈が鳴り続けてる電話に出ようとしない俺に向かってそう促した。
放っておいても仕方ないか……。
「もしもし?」
「あ、やっと出た! ハカセ今時間ある!?」
電話の向こう側から聞こえて来た紗季の声はどこか騒々しく、なにか慌てているみたいだった。ますます嫌な予感しかしない……。
「いや、悪いんだが今日はちょっと用事が……」
「それじゃあよかった! じゃあ今からいろはに来て欲しいんだけど大丈夫だよね!?」
「俺の話聞いてたか? 俺は用事が……」
「ちょっと待って。え? うん、ハカセ大丈夫だって。うん、二十分以内に来い? じゃあそう伝える。それじゃあ今すぐ来て! あと、千枝さんが少しでも遅れたらお好み焼きの具にしてやるからってさ! じゃあ待ってるから!」
そう言って一方的に時間と場所だけ伝えられると電話は切れてしまった。
一人うなだれてると、真衣奈が面白いものを見つけたような目でこちらを見ていた。
「紗季さんなんていってた?」 
「……人手が足りないから今からいろはに来いってさ。ったく、人の話も聞かないで勝手に決めやがって」
「とか言って、行こうとするところが先輩らしいよね。先輩って結婚したらきっと尻に敷かれるタイプだ」
身支度を整えていると背後からそんな声が聞こえた。ずいぶん余計なお世話だ。
「というわけで悪いけど、今日はここまでだ。俺が見てないからって宿題サボるなよ」
「わかってるってば。先輩も頑張ってね」
そう真衣奈の言葉を背に受けて家を出たのが午前のことだった。
そして今、
「翔吾! 次これお願い!」
「ハカセ! 五番テーブルにお冷お願い!」
「翔吾! キャベツまだ!?」
「ハカセ! 洗い物溜まってるよ!」
と、まぁこんな調子だ。
「うおー、超忙しい! でも楽しい!!」
紗季が超えてはいけない一線を超えてしまったようで、テンションがクライマックスに突入していた。
どこからそんな元気が出るのやら……。
どうやらこの中が暑く感じるのは真夏の日差しのせいだけじゃないみたいだ。


お昼を過ぎるとさっきまで人で賑わっていた店内もすっかり静かになった。
「やっと終わった……」
俺が全身の力を抜いて呆けていると、この店の店主、千枝さんがまだボトルに水滴が浮かぶサイダーを差し入れてくれた。
「お疲れ翔吾。相変わらずいい働きだったよ」
「うっす。千枝さんこそお疲れ様」
「お互いにね」
この店、創作お好み焼きいろはは、店主の千枝さんと普段ならバイトの子が何人かで切り盛りしている店なのだが、今日に限ってバイトが店に来られないということで急遽、紗季と俺にその白羽の矢が立ったというわけだ。ついでに言うと千枝さんは紗季の従姉妹にあたり、俺はこの店の常連客でもあった。普段ならちゃんとした店舗で営業しているこの店も、夏の間だけ海の家で出張営業している。そういや高校生の頃も、タダでお好み焼きが食べ放題という文句に釣られてよく駆り出されていたっけ。そんな風に思い出に浸りながらサイダーの栓を開けると、中から炭酸が溢れ出し、数え切れないほどの気泡がボトルの中を踊っていた。サイダーで渇いた喉を潤すと、喉の奥で気泡が弾けて甘さとチリチリとした感触が疲れた体を癒してくれた。
「労働のあとの一杯は格別だな」
思わずそんなことが口を吐いて出た。すると千枝さんは「なにおっさんみたいなこと言ってんのさ」と笑っていた。
「そういやあんた今いくつになったんだい?」
「二十歳」
「へぇ、二十歳かい。ついこの間まで青臭い高校生だったのにねぇ。時が経つのは早いわ。ということはあたしもそれだけ年食ったってことかね。その若さが羨ましいよ」
「年食ったってまだ二十代だろ」
「なに言ってんのさ。まだ二十代ってだけであと二年もしたら三十だよ? これ以上歳は取りたくないね」
そうは言うが、はっきり言って千枝さんは見た目だけ見るなら俺たちとそんなに変わらない。それが謙遜なのか自信の表れなのかはわからないが、本人としてはさしてそのことを気にしていない風でもあった。
「千枝さん、それ」
「ん? ああ、これ? うん……なんだか外せなくってね」
千枝さんが俺の視線に気づいて左手の薬指にはめている指輪をそっと握り締めた。
千枝さんにはかつて誰よりも好きだった最愛の人がいた。千枝さんがその人と出会ったのは高校生ぐらいの頃で、高校在学中にその人との子を身ごもった。それを知ったそれぞれの両親に反対されたが、千枝さんはその人とその子を守るために家を飛び出し、二人は一緒になったということらしい。それから何年かしてその人と二人で今の店を始めたのだが、その直後、二人に不幸な事故が起こった。
最愛の人の死。後に残されたのは二人の夢だった店と、授かったばかりの一人娘。その頃のことを千枝さんは詳しく話してくれなかったが、きっと俺には想像出来ないほどの苦労があったのだろうと感じることは出来た。
「もうあれから八年も経つのにね。未だにこれしてるなんて未練たらしいでしょ?」
「そんなこと……」
「ふふ、ありがと。そう言ってくれるのはあんただけだよ。でもね、やっぱり未練がないって言ったら嘘になるかな。それにあたしがこの指輪を外せないのって他にも理由があるんだよ。もしさ、あたしがこれを外してしまったら、あたしがあの人のことを忘れてしまいそうで怖いんだ。まぁ、これを外したから必ず忘れるってことにはならないと思う。ただ、この指輪があの人と過ごした証みたいなもので、それを手放してしまったらあの人との思い出を失ってしまいそうな気がしてね。これが未練って思うかどうかは別だけどさ。それにあたしには大事な娘がいるんだし、いつまでも後ろを向いてるわけにはいかないのさ」
そう言って千枝さんが珍しく困ったように笑ってみせた。その姿に俺はそれ以上なんにも言えなかった。
誰かを忘れるということは、その人の存在を消してしまうということ。それは肉体の死とは違う、存在そのものの死だ。千枝さんが怖がってるのはきっとそういうことだろう。だからこそ、千枝さんという人間を知っている俺にとってその姿が痛ましく、それだけ思われている旦那さんがちょっと羨ましく思えた。
「さーて、この話はこれくらいにして、あたしはこのあとちょっと外に出るから遊びに行きたかったらどこにでも行ってきていいよ。それに──」
千枝さんが近寄ってきて耳元に囁く。
「せっかくの機会なんだ。紗季としっかりやんなよ」
「ちょ、んなわけ──」
「あ、紗季だ」
「え!?」
俺が慌てて振り返るとようやく片付けが終わったのか紗季が満身創痍といった風を装ってやってきた。
「あー、疲れたー……」
「お疲れさん紗季。あんたもいい働きっぷりだったよ」
「もー、千枝さん人使い荒すぎだよ……すっごい疲れたー!」
「はいはい、ありがとさん。それじゃあ、あとは頼んだよ翔吾」
それだけを言い残すと千枝さんは俺たちを残して行ってしまった。くそ……変な気を回しやがって……。
「ん? どうしたのハカセ?」
「……なんでもない」
「変なの。ま、いいや。んー! ふぅ……」
よっぽど疲れてるのか、紗季は日向ぼっこに興じる猫のように畳の上にゴロンと横になった。
「おい、行儀が悪いぞ」
「今は誰もいないんだしいいじゃない」
「俺がいるんだけどな」
「ハカセはハカセでしょ。だからいいの。うーん、風が気持ちいい。ハカセも横になったら?」
「小学生じゃないんだ。やるわけないだろ」
「でも気持ちいいよ? ほら、こことかひんやりしてちょうどいい」
人の話を聞いていないのか紗季が大きく伸びをすると、Tシャツからわずかにのぞいたへそが見えて慌てて目をそらした。
水平線の向こう側には大きく伸びた入道雲と小さく見える船。波の上ではジェットスキーが縦横無尽に走っていた。こうしているとやっぱり今は夏なんだと実感させられる。
「平和だねぇ……」
「お前はお婆ちゃんか」
「まだ二十代だよー。でも今はお婆ちゃんでもいいかも……」
「どっちだよ」
「さてどっちでしょう?」
「その答えに意味なんてあるのか? それにお前がお婆ちゃんだったら同い年の俺はお爺ちゃんってことになるぞ。生憎とそこまで一緒にいてやる義理はないからな」
紗季の冗談にそう言ったものの、ふと、俺が紗季とずっと一緒にいる姿を想像してしまってなんだか気恥ずかしくなった。
「ま、そんなことにはならないか」
俺が冗談と気恥ずかしさを混ぜながら軽く鼻で笑うと紗季が言った。

「本当にこのまま一緒にいられたらいいのにね」

と。
「え?」
俺は思わず聞き返していた。
振り返った先には真剣な眼差しを向けてくる紗季の目があった。ドクン、俺の中で知らず鼓動が高鳴る。
いやまて、紗季は昔っからこういったまるで冗談に聞こえない冗談を言うことが度々あった。だとしたら今回のこれもきっと冗談だろう。
俺がその手は食わないとばかりにあしらおうとすると、紗季がもう一言、
「本当にずっとハカセと一緒にいられたらいいのにね」
真剣な目から今度は柔和な笑みを向けてきた。
……さすがにこのパターンは予想してなかった。
いつもならここで俺がなにか言おうとして「冗談だって。なに本気にしてるの?」と一笑されるところだが、今回は違った。出来るだけ相手の真意を探ろうとしてみるが、紗季の目は笑ったままだ。これじゃあ冗談か本気かなんてさっぱりわからない。
もしこれが冗談なら、紗季の演技もずいぶんと上達したものだと関心したくなる。下手をすればアカデミー賞だって狙えるかも知れない。けれどこれが本気だったなら……?
俺はきっとこれは冗談だと思いながらも、どうしてかその可能性をぬぐい去ることが出来なかった。
「あ、あのさ、紗季」
言うのか? もう一人の俺が語りかけてくる。紗季は「なに?」と表情を変えることなく笑っていた。
言うべきか、言わないでおくべきか。ここに来てまで俺はまだ迷っていた。もしここで俺の想いを伝えてしまったらと思うと、その先が怖かった。仮に受け入れられても、受け入れられなくても、この緩やかな時間は戻ってこなくなる。それがどうしても怖かった。だから俺は、
「な、なにか飲むか?」
さすがに自分でもこれはないと言った直後に思った。ああ、わかってる。いくらこの耐えられない状況から抜け出すためだとはいえ、それでもこれはない。その証拠に、紗季もまさかこんなことを言われると思っていなかったらしく、それまで浮かべていた柔和な笑みをキョトンとした表情へと変えていた。
「へ? なにそれ?」
「ほら、今日は暑いだろ? それにお前だってさっきまで働いていて疲れてるだろうし、俺だけ冷たいもの飲んでるのも悪いし、なにか奢るぞ。そうだ、せっかくだし、冷えたビールなんかもいいかもな。どうせなら焼きそばだったお好み焼きだって作ってやるぞ! な?」
口を開けば開くほどに自分でもバカバカしいと思う言葉が次々と飛び出してくる。こんな俺を腑抜けだと笑ってくれてもいい。根性なしだと思われてもいい。それでも今の俺にはそれ以上踏み込むことが、なによりも恐ろしかった。
言葉の弾幕で身を固めていたのもしばらく、手当たり次第に意味のないことを並べ立てた末、とうとう言うことがなくなり、最後の方に至っては「あの……その……」だの、まるでいたずらが見つかってしまった子供の言い訳のようになっていた。するとそれを見かねたらしい紗季が一言、
「冗談だよ冗談。本当にハカセってからかいがいがあるよね」
「なんだよそれ。やっぱり俺をからかっていたのか?」
「当たり前じゃない。あれ? もしかしてハカセってば本気にしてた?」
「んなわけあるか。仮に本気だったとしても、俺はお前とずっと一緒なんてごめんだ」
「それはこっちのセリフだよ。もし一緒になるんだったらやっぱり優しい人が一番だよ。それにひきかえ、ハカセはちっとも優しくないし」
「なに言ってんだ。高校生だったころよくジュースおごってやったろ?」
「たかだかジュースごときで優しさアピールなんてされたくないな。それにわたし缶ジュース一本で買えるほど安くないよ?」
「どこが缶ジュース一本だよ。お前、俺がなにかおごってやるって言ったら平気な顔してペットボトルのボタン押してたくせに」
「あれ、そうだっけ? 昔のことだからよく覚えてないなー」
「……都合の悪いことになるとすぐに忘れる癖も変わってないなお前」
「ふふん、つまらない過去は振り返らない主義なのだよ。で、今度はいったいなにをおごってくれるのかな」
「なんの話だ?」
「ほら、今言ってたじゃない。なんでもおごってくれるって」
忘れていた。そういやごまかすのに必死で、こうやって気づけばとんでもないことを口走っていた気がする。
「さーて、なに食べよっかなー。まずは手始めに焼きそばとお好み焼きと……」
「ちょ、ちょっと待て! あれはその──」
「あれあれ~? さっきおごってくれるって言ったのは嘘だったのかな?」
紗季がことさら嬉しそうにニヤけていた。
くっ……こうなってしまっては完全に相手のペースだ。俺は肩をすくめると適当に冷蔵庫からいくつかの食材を取り出した。
「で、なにがいいんだ」
「そうだね~、それじゃあ手始めにこれもらおうかな」
そう言って紗季が手にとったのは、さっきまで俺が飲んでいたサイダーだった。
「おい、ちょっと待て! それ俺の……」
俺が止めようとしたがそれより先に紗季がなにごともないようにその中身を飲み干してしまった。
「ぷはー、やっぱりこう暑いとサイダーが美味しいね。ん、どうかした?」
呆気に取られている俺とは対照的に紗季は涼しい顔。果たしてわかってやってるのか、それとも本当に気づいていないのか。そのどちらかはわからない。なので、仕方なく冷蔵庫からもう一本サイダーを取り出すと、その栓を引き抜いた。
「ハカセー、わたしお腹空いたー。ご飯まだー」
「待ってろ。今作ってやるから」
客席から紗季の間延びした声が飛んでくる。こっちの気も知らないでいい気なものだ。
熱気のせいか額から汗が流れ落ちてくる。もしかしたら冷や汗かもしれない。
紗季のリクエストどおり、焼きそばとお好み焼きを作ってやると、紗季は嬉しそうにそれをほおばっていた。
「千枝さんほどうまく出来たかわからないけど、味の方はどうだ?」
「うん、すっごく美味しい! 千枝さんのとはまた違った感じだけど、これはこれでアリかな。ハカセってば意外と料理とか出来るじゃん」
「当たり前だろ。これでも一人暮らしやってんだ。料理ぐらい出来なくてどうやって生活すんだよ」
とそっけなく答えて胸ポケットに入れていたタバコを一本取り出す。何気ないように振舞っていたが、内心ではかなり緊張していた。実際、料理が出来ないわけじゃない。ただ単に自分自身のために作るのが面倒だったり、真衣奈が作りに来てくれてるからそれほど作らないだけだ。それがどうだ、千枝さんほどかはわからないが、美味しいと言ってもらえたことにわずかではない自信を感じていた。
それから紗季はパクパクと美味しそうに俺の作った料理を食べてくれた。あまり誰かに料理を振舞うことなんてしたことがなかったが、なるほど少しだけ真衣奈の気持ちがわかる気がする。
それからあっという間に用意された料理を平らげると、紗季は満足した顔で再び寝転がっていた。
「うーん、満足満足。ごちそうさまハカセ」
「おい、食べてからすぐに寝ると牛になるぞ」
「そんなの迷信だよ迷信。それにわたしってばいくら食べても太らない体質なんだよね」
ケラケラ笑いながら手を振る紗季に、軽く呆れながら使った食器を手際よく片付けていく。さっきからいいように扱われている気がしてならない。そんな思いにかられながらも、手だけは勝手に動いてくれる。習慣というやつだろうか。
「よし、これで終わりっと」
最後の一枚を片付け終えると、なんだかどっと疲れがこみ上げてきた。そういや、今日一日中働きっぱなしだな。その中に身を置いている時は長く感じるものも、振り返ってみれば一瞬だ。にしても今日は疲れた。早く家に帰って横になりたい。
そういや、さっきから静かだな。そう思って紗季の方へと目を向けると、さっきまで起きていたはずの紗季が気持ちよさそうに寝息をたてていた。
「ほんっと自由な奴だな」
ここまでくると呆れを通り越して笑いたくなってしまう。
「おい、紗季。こんなところで寝ると風邪引くぞ」
揺さぶって起こそうとするが、紗季は「ん……んぅ……」と、嫌がるだけで全く起きる気配がない。
さて、どうしたものか。このまま放っておくわけにもいかず、仕方なく紗季の側に腰を下ろす。するとテーブルの上にあったものに気がついた。
「これは……」
それは紗季が俺から奪ったサイダーの空ボトルだった。
片付けるの忘れてたな。そう思いそっと手に取ると、ふと脳裏に浮かんだのは紗季が俺の静止を聞かずにサイダーを飲み干す姿だった。このサイダーはもともと俺が飲んでいたもので、それを紗季が勝手に飲んだということは……。
「な、なに考えてんだ!!」
俺はたまらず持っていたボトルをテーブルの上に戻すと、なにも見ていないフリをした。
……ったく、高校生か俺は。
苛立ち紛れにタバコに火をつけた。
そういや、昔もよくこんなことがあったっけ。紗季が俺の飲みかけを勝手に飲んで、俺が怒ると「いいじゃん」の一言で片付ける。それが当たり前な日常だった。
「変わってないんだな本当」
ふっとため息に似た笑みが漏れた。
俺と紗季の間には二年という空白がある。その間に紗季がどこでどんな生活を送っていたかなんて知らない。きっとそれを本人に問いただしても、はぐらかされるか、だんまりを決め込むかのどっちかだろう。それは俺の知らない紗季だ。なのに今ここにいる紗季は俺がよく知っている紗季で、あの頃と何ら変わらない等身大のままだった。
「紗季は変わってないんだな」
じゃあ俺はどうだろうか。
『ハカセはやっぱり変わってないね』
紗季の言葉が蘇る。
きっと俺も変わってない。あの頃のままだ。
いや違う。あの頃から変わってないんじゃない。
俺はまだあの時から動けないままなんだ。


俺たちが三年生になってから、それまで廃れる一方だったはずの天文部はずいぶんと変わった。まず変わったことといえばその人数だろう。当初は一人だけだった天文部は紗季が加わったことで二人になり、さらに学園祭でやったプラネタリウムが評判を呼んだ結果、それなりに大掛かりなことができるくらいに部員も増えた。部室も物置小屋よばわりされていたのが、一応、普通の部室に見える程度には綺麗になった。なにより、すぐ側にいつも楽しそうにしている紗季の姿があることで、それがいっそう部内の雰囲気を盛り上げていた。
もちろんこの頃の俺はまだ、紗季に自分の想いを伝えることが出来ず、悶々としながらもこの騒がしい毎日を楽しんでいた。
だが、毎日が輝いて見えたそんな日々も、ある日を境にあっけなく幕を閉じることになる。
「祐介さん! 紗季が……紗季が転校したって本当か!?」
一学期の終わり、終業式が間近に迫ったある日、俺は職員室に飛び込むなり祐介さんに怒鳴り込んだ。
そう、紗季が俺の前からいなくなったのは、ちょうど今と同じくらいの時期だった。その頃も今ぐらい暑くて、羽化したばかりのセミがウィーヨ、ウィーヨ、と大合唱を繰り広げていた。
「耳が早いな。誰から聞いたんだ?」
「そんなのどうだっていいだろ! それより紗季は!? 紗季はどうしたんだよ!?」
「落ち着け翔吾。あと、学校では椎名先生って呼べっていつも言ってるだろ」
息を切らして、睨みつけるようにしていたにも関わらず、祐介さんはいつもどおりの飄々とした様子でそう言った。
「……椎名先生。紗季はどうしたんだ」
「長谷川はな家の事情でこの学校から離れることになったんだ。ついさっき親御さんが来て挨拶していったよ」
「なんだよそれ……急すぎるだろ……」
「ああ。俺も急すぎて驚いてる。まさかこの時期に転校なんてな。だけどこればっかりはどうしようもないことだ」
「どうしようもないって……そんなことあるかよ!!」
俺は憤りを抑えることが出来ず、身近にあったデスクにダンッ! と拳を打ち付けた。その物音に室内にいた先生たちが何事かと目を丸くしていた。
「翔吾、いいから落ち着け。……ここで話すのもなんだな。場所変えるぞ」
「…………」
俺は祐介さんに連れられると、その場を後にした。
「ほれ、お前の好きなコーラだ。とりあえずこれでも飲んで落ち着け」
学校の中庭に着くと、近くにあった自販機から祐介さんが買ったばかりのコーラを渡してくれた。いつもだったら喜んで受け取るところだけど、どうにもそんな気分にはなれなかった。
「……なんで……なんでだよ……なんでなにも言ってくれなかったんだよ……」
俺はコーラの缶を握り締めながらそう呟くので精一杯だった。
この時の俺は、紗季に裏切られたという想いを持っていた。今となったらずいぶんと勝手な想いを持ってたと思う。だけど、少しでもそう思わないと俺自身がどうにかなってしまいそうだったからだ。
「なんで……紗季……だって……せっかく部員も増えて……これからだろ! これから楽しくなっていくんだろ!! なんでなんでだよ!! 一言ぐらい言えよ! 同じ部活の仲間だろ!! 一緒にプラネタリウム作ったんだろ!? そう思ってたのは俺だけか!? ああそうだ! 俺の勝手な思い込みだ! だからってさよならもなしか!! くそっ!!」
俺はたまらず手に持っていたコーラの缶を地面に投げつけた。ぶつかった拍子に、中身の詰まった缶がひしゃげて、クシャッ! という音とともに溢れ出した中身が地面を濡らした。
「はぁ……はぁ……なんでだよ……くそっ……」
「気が済んだか?」
「……椎名先生」
「今は二人っきりだ。祐介さんでいい」
「……祐介さん……俺……」
「ああわかってる」
「……俺さ紗季にもっといろんなこと教えてやりたかったんだ。星のこととかバイクとか……」
「そうだな」
「……それにまた学園祭がある……今度はもっとすごいプラネタリウム作ろうって思ってたんだ」
「おう」
「だけどそれも出来なくなった……どうしてなんだろうな……」
「…………」
「わかってるよ。誰が悪いわけでもないことぐらい。たださ……気持ちがグチャグチャになってるんだ……。それにせっかくコーラもらったのに……台無しにした。ごめん……」
「気にするな」
普通なら物に当たるなと言いたいところだろう。けれど祐介さんはなにも言わず、ただじっと俺の呟きに耳を貸してくれていた。
しばらくすると、ようやく俺の中にも落ち着きが生まれた。さっきまで心臓がドクドクと早鐘を打って、頭の中がチリチリと痺れていたのが嘘みたいだった。
「ほれ、これでも飲め。今度は投げつけんなよ」
そう言って差し出してくれたのは、コーラじゃなくてブラックのコーヒーだった。初めて飲んだそれは、今まで飲んだコーヒーとは比べ物にならないほど苦くて、思わず吐き出してしまった。そんな様子を見て、祐介さんは嬉しそうに笑った。
「これでお前も大人の第一歩を踏んだわけだな」
「なんだよそれ。コーヒー飲めたら大人なのか?」
「なんていうか、大人になるための通過儀礼みたいなもんだ。その苦味が美味く感じるようになれば大人として一人前だな」
「じゃあ、まだまだ俺は大人にはほど遠そうだ」
「あったりまえだ。クソガキが」
祐介さんが俺の頭をクシャクシャと撫でる。俺はその手を払いのけながら言い返した。
「祐介さんにだけは言われたくないな。祐介さんのほうが俺よりよっぽど子供っぽい」
「言うようになったじゃねえか。……でも、ま、お前の言うとおりかもな」
祐介さんが浮かべていた笑みを潜めた。
「俺もな、今のお前と同じような思いを感じたことがある。それも二回もだ。一回はお前の親父が死んだとき。それでもう一回は春奈が死んだ時だ。お前には話したことなかったか」
「……知ってるよ。真衣奈が言ってたからな」
真衣奈には母親がいない。それは俺が小さなころから知っていたことだ。真衣奈の母親、つまり祐介さんの奥さんは真衣奈が生まれてすぐに亡くなった。もともと体が丈夫な人ではなかったらしく、真衣奈を出産するときにも医者からどちらかを選ばないといけないと言われていたらしい。そして真衣奈が生まれ、一つの命がこの世を去った。
「俺さ、あの時すごい泣いたんだよ。どうして俺だけを残した。俺はどうやって生きていけばいいんだってな。今になって考えると、ずいぶん恥ずかしい話だけどな。だからその時、勝利にも美和さんにも結構ひどいことを言った覚えがある。そん時だ。お前が俺に言ったんだ。お前は小さかったから覚えてなんかないだろうけど、俺はお前の一言で救われたんだ」
「俺はなんて言ったんだ?」
「お前か? 確か『おじちゃんどこか痛いの? もし痛いんだったら僕が代わりに泣いてあげるから。そしたら痛いのなくなるから』ってさ」
「……本当に俺が言ったのかそれ?」
「紛れもなくお前が言った。なんにせよ、驚いたよ。まさかまだ二歳の子供に俺が慰められるとは思ってなかったからな。とはいえ、二歳の子供の言葉だ。特に意味なんてなかったんだろうし、俺がどうして泣いていたかなんてわかるわけもない。けど、その一言で春奈を失った気持ちが和らいだのは事実だ。そういった意味ではお前のほうが大人かもな」
「そんなこと……」
「謙遜すんなよ。これでも感謝してんだぞ」
「感謝って……じゃあ、その感謝のしるしがこれか?」
そう言ってコーヒーの缶を持ち上げてみせる。すると祐介さんは嬉しそうに笑った。
「ふっ、これで貸し借りなしだからな」
「感謝してるって割にはずいぶん安いな」
「うっせ。さっきお前が投げつけたコーラの分も入れるとちょうどだろ。文句言うな」
さっきまでの姿から一転、いつもの祐介さんに戻っていた。きっとこういうところが子供っぽいと言われる原因なんだろう。
でも……。
「ありがとう祐介さん」
「なんだ急に改まって」
「いや、別に」
「そうか」
缶の中に残ったコーヒーを飲み干す。口の中に広がる苦味で顔をしかめた。
やっぱり俺が大人になるにはまだまだ遠いみたいだった。


ん……。
薄ぼんやりとした意識の中、ゆっくりと目を開けると白く霞む光の中に紗季の顔があった。
「やっと起きた。おはようハカセ」
「あれ……? 俺学校にいたはずじゃ……」
「寝ぼけてるの? ここは学校じゃなくて浜茶屋だよ。それにハカセは高校生じゃなくて今は大学生でしょ」
「……夢か」
思えばたった二年しか経ってないはずなのに、ずいぶん遠い出来事のように感じる。あの時初めて飲んだブラックコーヒーも、今じゃ普通に飲めるようになったんだけどな。
「ハカセ、うなされてたみたいだけど、大丈夫?」
「……昔の夢見てた」
「どんな夢?」
「……お前がいなくなった日の夢」
「……そう……なんだ」
紗季の表情に陰りが映る。言った直後に失言だったと思った。
「悪い……」
「いいよ別に。あの時のことは今でも悪いと思ってるから」
「そんなつもりじゃ──」
「もう、気にしすぎだよハカセ。わたしがいいって言ってるんだからいいの! はい、この話もう終わり!」
「……そうだな。ところで今何時だ?」
「もう夕方だよ。砂浜にいた人たちもほとんど帰っちゃったみたい」
「もしかして待っててくれたのか?」
「ハカセを一人になんてしておけないし、それに気持ちよさそうに寝てるからついその寝顔に見とれてた」
「…………」
……寝言で変なこと言ってないよな俺。
「ありがとうな紗季」
「なに? 急に改まって」
「祐介さんと同じこと言うんだなお前」
「?」
紗季がよくわからないといった顔をしていた。無理もない。夢の中の話をしたって紗季には伝わらないだろう。
にしても、さっきから気になっていたが、今の俺はどういう状態にあるのだろう? 紗季の顔が俺の頭上にあって、後頭部に柔らかい感触がある。それで俺の寝顔を見ていたってことは……。
「──!」
思わず跳ね起きた。
「な、ななななにやってんだお前!?」
「え? なにってハカセと話を──」
「じゃなくって! そ、その、俺今までなにされてたんだ!?」
キョトンとする紗季。格好は普段と変わらない姿だったが、姿勢は正座のまま。そこに俺が寝ていたってことは。
「ああ、これ? えっへへ、ひざまくら。一度やってみたかったんだよね~」
「やってみたかったって、なんでだよ!?」
「なんでって、枕があったほうが寝やすいでしょ?」
「そういうことじゃなくて……」
「それにしてもハカセの寝顔って結構可愛いよね~。なんだか子供みたいでさ、なんかハカセが弟みたいだったよ」
「…………」
俺はがっくりとうなだれた。寝顔を見られただけじゃなく、あまつさえひざまくらまでされて……。
「……悪夢だ」
俺はたまらずがしがしと頭を掻いた。
「いいじゃない減るもんじゃないし。それに気持ちよかったでしょ?」
紗季がなぜか嬉しそうに笑う。果たしてそういう問題だろうか。とりあえず出てくる言葉もなかったので、ため息を吐いて誤魔化すことにした。
それからしばらく会話をしたあとで俺たちは店を出た。鍵は事前に千枝さんから預かっていたから、戸締りをして店を後にする。
「すっかり暗くなっちゃったね」
紗季がポツリと呟く。思いのほか話が弾んだせいか、店を出る頃には太陽は海の彼方へと沈み、代わりに月が涼しげに空に浮かんでいた。
昼に感じた暑さも、日が沈むと一気に涼しくなる。わずかに湿っぽく感じる風はこの地域特有のもので、肌にしっとりと馴染む空気が夏を感じさせた。
「あー、お腹すいたー……」
「お前、昼にあれだけ食べておいてまだなにか食う気か?」
「お昼ご飯と夜ご飯は別腹なのだよ」
「さいで」
呆れた風に言うが、俺の腹もぐぅと鳴った。
「お前、今日これからどうするんだ?」
「んー、とりあえずどこかでご飯食べて帰るぐらいかな。ハカセは?」
「俺は家に帰って食べる。それに家に帰ったらあいつが来てるだろうし」
「あいつ?」
「真衣奈だよ。あいつなにかと理由つけて俺の家に来ようとするから、今日もいると思う」
というより今日一日ちゃんと勉強してたんだろうか。それが気になった。
と、
「なんだよ」
「いや~、ハカセもスミにおけないな~ってね」
なぜか紗季がニヤニヤしていた。
「あのな、俺とあいつはお前が考えてるような関係じゃない。なんつーか、俺が一人だとろくな生活をしないからって言って、押しかけてくるだけだ。それだけだぞ?」
「でもさ、それって十分愛されてるってことじゃない? なのになにもないなんてハカセってばもしかして……」
「変な想像するな。だからあいつとはただの幼馴染で、それ以上でもそれ以下でもない」
「そんなに否定するなんてますます怪しいな~。いいから本当のこと言っちゃいなよ」
「だから俺が好きなのは真衣奈じゃなくて、お前が──」
そこまで言ってハッと気づく。
……俺はなにを言おうとした
ドクン、ドクン、と、鼓動が早くなる。
「お前が……なに?」
紗季がじっと俺の方を見つめていた。その瞳は俺の心を射抜くようにして。
言うか? 
言うのか?
どうすればいい。
時が止まったように体が動かない。
動こうとすればするほど、油をさし忘れた歯車のようにギシリと音を立てた。
「ハカセ」
紗季が俺の名前を呼ぶ。
「早く行こ」
「あ、ああ……」
たったその一言で呪縛から解放されたように体が軽くなった。
そこからなにを話したかなんてほとんど覚えてない。きっと「ああ」とか「うん」とかしか言ってなかったかもしれない。
店から少し歩くと、防波堤に並ぶようにして停まっていた俺のバイクを見て紗季が目を輝かせた。
「うわ、久しぶり! まだこの子元気にしてたんだ」
「お陰様でな。親父が乗ってた頃から乗ってるから、見た目は相変わらずボロいけどまだまだ現役だ」
それを証明するようにエストレヤのエンジンをかけると、バラララと小気味の良い音が木霊した、
「この音も懐かしいな。あの頃と変わらないね」
目を閉じた紗季がエストレヤの音に昔を懐かしんでいた。
「久しぶりに乗ってみるか?」
と言って気づく。そういやメット持ってきてなかった。
すると紗季が、
「あ、ちょっと待ってて」
店の方へと駆けていくと、中から安全第一と書かれた黄色いヘルメットを持ってきた。
「じゃーん! これでどうかな?」
「……どこから持ってきたんだよそれ」
げんなりしながら答えてやるが、紗季は対して気にした風もなくエストレヤのシートにまたがった。
紗季を後ろに乗せて、アクセルをひねる。軽快な音を奏でながらバイクが走り出した。
二人で風を切りながら夕闇に染まった海岸線を駆け抜けていく。時々、思い出したように紗季がコツンとヘルメットをぶつけてきた。俺もそれに応えるようにコツンとぶつけた。
「懐かしいね。この感じ」
「こんな風に走るのも二年ぶりだからな」
「ほほう。それじゃあ、わたしのいないその二年の間にこのシートに何人の女の子を乗せたのかな?」
「お前はどこのおっさんだ。生憎、お前以外なら真衣奈しか乗せたことねーよ」
「とか言って本当はどうなの?」
「そんなに気になるんだったら真衣奈にでも聞いてみたらどうだ? むしろお前と同じこと言うだろうよ」
そう言うと「そっか」と返す紗季がなぜか少しだけ寂しそうに見えた。
「風が気持ちいいね」
ギュッと体に掴まる紗季が呟く。俺は常套句のように「夏だからな」と返した。
しばらく無言のまま走っていると、妙に気まずくなる。いつもだったら紗季がくだらないことを喋ってくれているおかげで、沈黙など気にならないはずだが、後ろにいる紗季が、風に髪をなびかせながら景色を眺めているせいで今は静かだ。
紗季は今なにを思っているのだろう。ふと、そんなことを思ってしまった。
すると紗季が「ねぇ、ハカセ」と俺のことを呼んだ。
「なんだ?」
「ハカセってさ、今好きな人とかいる?」
「な、なんだきゅくっ!?」
思ってもみなかった質問に出た声は上ずっていた。
「あっはは! ハカセ変な声!」
「わらっ……! 笑うな!」
後ろのシートで紗季が人目をはばかることなくゲラゲラと笑った。その笑い声に道端を歩いていた人がなにごとかと見ていて、とっさに速度を上げてしまった。
ひとしきり笑ったあとで満足したのか、紗季がひいひいと泣いていた。
「あー、面白かった。どうしよ、まだ涙止まんない」
「そりゃよかったな。そのまま一生泣いてろ」
「怒らないでよ。悪かったってば」
紗季が「ごめん」の言葉と一緒にヘルメットをぶつけてきた。そんなことをされてしまったらこれ以上怒る気にもなれない。
「で、どうなの?」
「なにが?」
「さっきの質問の答え」
ふりだしに戻ってきた。すっかり忘れてると思って安心してたのに……。
「……さぁな」
「えー、面白くない。教えてくれたっていいじゃない」
「男の恋愛話なんて聞いたって面白くないだろ」
「頭固いなぁ。ほら、友達同士だったら恋バナなんて当たり前じゃない?」
「頭固くて悪かったな。つーか、そういうのは女同士でやれよ」
「それはそうだけど。せっかくだし教えてよ」
「せっかくってなにがだよ。嫌なものは嫌だ。だから断る」
「そう言われるとなおさら聞きたくなる性格だって知ってるでしょ? ほらほら喋ちゃいなよ~」
紗季がしがみついたまま耳元で囁いてくる。なので俺も対抗して頑として口を割らないことにした。
「ねーねー、教えてよー。ハカセー」
「嫌だ!」
「なんでよ。別に減るもんじゃないでしょ?」
「そういう問題じゃないだろ。それよりなんでそんなに俺の恋バナなんて聞きたいんだ?」
「んー、面白そうだから?」
「……だったらなおさら言わない」
「あ、じゃあわたしがハカセの好きな人当てるってのはどう? それだったらいいでしょ?」
「どこをどうしたらそんな考えになるんだよ……」
人の話をまったく聞こうとしない紗季。もしバイクを運転していなかったら今頃思い切り頭をかいているところだ。
「それじゃあやっぱりハカセの口から聞くしかないじゃない。あ、もしかしてだけど、好きな人じゃなくて付き合ってる人がいるとか?」
「……俺に彼女がいるように見えるか?」
「いないよね。絶対」
「…………」
自分で言っておきながらこれほどまで惨めなこともないだろう。というより絶対って……。
「ということは、やっぱり真衣奈ちゃんかな? それとも意外なところで千枝さん?」
「どうしてその二人だけしか出てこないんだよ。他にもいるだろ」
「じゃあ──もしかしてわたし……とか?」
「…………」
心臓を鷲づかみにされた気分だった。
紗季が後ろに座っているから今どんな顔をしているのかなんてわからない。もしかしたら……なんて思うが、きっとそれは俺も同じことだろう。
「もしかして……正解?」
紗季が言う。
俺の答えは決まっていた。

「違う」

と。
俺がそう言うと紗季は「そっか」と納得したようだった。
それからしばらく俺たちは一言も喋らなかった。
風切り音とエンジン音が重なる。それ以外の音はなにもない。
その間ずっと考えていた。どうして俺は「違う」と答えたのかと。
もし、紗季が好きかと聞かれればそれは間違いではないと思う。かと言って紗季の言うとおり、真衣奈のことが好きかと聞かれればそれも間違いじゃない。
どちらも間違いじゃない。だけどそのどちらも正解じゃない。
俺には好きという感情がわからない。
実際、紗季に大して好きだという感情はある。ただ、その感情は友人としての感情であって、恋愛のそれかと聞かれると素直に認めることが出来ない。もちろん真衣奈に対しても同様だ。
好きだとは思う。決して嫌いではない。なのに俺にはその感情がわからない。
はたしてこれが友人としての好意なのか、恋愛としての好意なのか。その答えを出せずにいた。
俺がなにも言わずにいると紗季が口を開いた。
「ハカセはさ、自分じゃどうしようもないくらいに人を好きになったことってある?」
「なんの話だよ」
「いいから教えてよ」
「……どうだろうな……多分ないと思う」
「そなんだ。ちょっと意外」
「意外ってなんだよ。それよりそんなこと聞いてどうするんだ?」
「ただの確認。あ、そうだ。ちょっとそこで停めてくれない?」
バス停が見えた。俺は紗季の言うとおりバイクを停めた。
紗季がバイクから降りると、適当に座れそうなところを見つけて「こっちに来なよ」と手招いていた。
並んで座ると、
「ちょっと昔話しよっか」
そう言って紗季が一人語りのように話し始めた。
「昔ね、わたしにも好きな人っていうのがいたんだ。その人はさ、いつもなに考えてるのかわからないんだけど、時々子供みたいな顔で笑うんだ。特に自分の好きなことになるとほんっと子供みたいでさ、でもその顔がすごく好きだって思う。いつまで見ていたいって思わせてくれる。そんな人」
「……意外だな。お前がそんな風に思うやつがいたなんて」
「これでも年頃の女の子だからね。それぐらいいるよ」
紗季が遠い目をして答える。その瞳の浮かぶのは誰の顔なんだろう……そう思うとなぜか焦りと苛立ちが体中を駆け巡っていった。
「それでね、その人はいつもわたしの知らない世界へ連れてってくれた。狭い世界しか知らなかったわたしにいろんなものを見せてくれた。バイクで風を切って走ることの楽しさとか、夜空に浮かぶ星座のこととか。わたしが遠くに行ってからもずっとその人のことだけ思ってた。彼は今どうしてるんだろうとか、彼も今同じ空を見てるのかなって」
紗季の声が震える。
目を覆いたくなるほど眩しい光が見えた。
バスのヘッドライトだ。
紗季の言葉は続く。
「夜空を見るたびに、あの時二人で見た星空を思い出してた。でも、同じ空の下にいるのにどうしてこんなに遠いんだろうって思ってた。ずっと……ずっと……でも、もうそれも終わり」
紗季が立ち上がる。俺も引きずられるようにして立ち上がった。
「終わりって……どういう……」
「……まだ気づかないかな。そういう鈍いところも昔から変わってないんだから」
紗季が優しげに微笑む。と、同時に俺の唇にやわらかいものが触れた。
キス──された。
「紗……季……?」
バスが俺たちの前に停まった。
俺があっけに取られていると紗季が言う。
「やっと気づいた? わたしはハカセが好き。出会った頃からずっと。もちろん今も」
乗車口の扉が開く。紗季がバスに乗り込む。
「今日はありがとう。ハカセのおかげで助かったよ。それじゃ」
「紗季!」 
だが、俺の言葉は無常にも閉ざされた扉に断ち切られた。
窓ガラスの向こうで静かに手を振る紗季の口元が動いていた。
「またねハカセ」
と。
けたたましいエンジン音を響かせながらバスが走り去っていく。暗闇に消えていくバスのテールランプが揺らめいて、そして見えなくなった。
残された俺は唇に残ったわずかな感触と、安全第一と書かれたヘルメットを抱えて呆然としていた。

第四話

紗季とのことから数日。俺はぼんやりとした想いを抱えていた。

『わたしはハカセが好き。出会った頃からずっと。もちろん今も』

紗季は言った。俺のことが好きだと。
俺はどうだろう?
俺はそれにどう向き合えばいい?
……わからない。
何度も何度も自問自答を繰り返す。なのに答えは出ない。
目を閉じると、紗季の声とともに唇に触れた感触が蘇る。
あれから何度も感じた感触だ。
そしてその度に思うのだ。
俺は紗季のことが好きなのか、と。
暗く閉ざされた世界はどこまでも広がる大宇宙のようで、その中に放り出された思考は浮かんでは沈みを繰り返しながら暗い闇の中へ消えた。
俺は……紗季とどうなりたいのだろう。
──紗季。
「どうかした先輩?」
はっと顔を上げると、心配そうにこちらを見つめる真衣奈の顔があった。
「……なんだ真衣奈か」
「なんだとはなによ。それよりさっきからぼーっとしちゃってどうしたの? 夏風邪でもひいた?」
「いや、そんなんじゃない。ちょっと考え事してただけ」
心配かけまいと出来るだけの笑顔を装ってそう言うと、真衣奈は「そう」と言ったものの、やはり俺のことが気になるのかちらちらとこちらを見ていた。
心配かけたか……。
真衣奈の視線から逃れるように窓際に立つと、ポケットの中に入れていたタバコを取り出した。吐き出した煙が網戸の向こうに見える入道雲に混じって消えた。
ずっと目を閉じて考え事をしていたせいか、日差しが眩しい。穴ぐらから出たモグラもきっと同じことを思うのだろうか。
「ねぇ先輩」
と、夏草の香りを含んだ風が部屋の中を駆け抜けてく中、背後に声をかけられた。
「ん? どこかわからないところでもあったか」
変に考え込んでいることを悟られないように、いつもの調子で話しかけると、真衣奈は首を振った。
「そうじゃないんだけど、もし違ってたらごめんね」
いつもはっきりと物事をいう真衣奈にしてはずいぶんと歯切れの悪い言い方だった。
俺がじっとなにか言いにくそうにしている彼女の言葉を待っていると、ややあって真衣奈が口を開いた。
「あの、さ。最近、紗季さんとなにかあった?」
「…………」
思いがけない質問に俺は思わず口ごもってしまった。そしてそれが確かになにかあったということを如実に物語ってしまっているわけなのだが、当然慌てた頭でそこまでの考えになんて至らない。もちろんそんなことには後で気づいた。
とりあえず場を取り繕うように「別になにもない」と、返答した。改めて自分は嘘をつくのが下手だと実感した。
けれど、それを間に受けたのかどうかは知らないが真衣奈は「ならいいけど」とそれ以上追求してこなかった。
それから参考書と再びにらめっこを始めた真衣奈を横目で眺める。
これまた改めて気づいたことだが、真衣奈は美人だった。
そんなことは改めて気づくまでもないことぐらい分かっていたはずだった。なのに彼女に気づかれないように盗み見たその横顔は、整った眉にスッと伸びた鼻筋。リップでもつけているのか、桜色をした唇は大きすぎず、けれど小さすぎず、それが彼女をさらに美人だと印象づけていた。
……じゃなくてなにやってんだ俺。
我に返って思わず恥ずかしくなった。
幼馴染をじっと見つめて変な分析なんてまったく俺らしくない。ああ、バイトのしすぎで疲れてるんだろう。そう決めつけることで、さっきまで真衣奈のことをいやらしく見ていた自分をなかったことにした。
ともあれ、そんなことをつらづらと考えていたせいだろう。俺は真衣奈が何度も俺のことを呼んでいることにまったく気づかなかった。
「ねぇ、先輩ってば」
「あ、ああ……なんだ」
「本当に大丈夫? 調子悪いならわたし帰るけど」
「悪い悪い。また考え事してただけだ。それでなんだ?」
「あのさ今週の日曜ってなにか予定ある?」
「今週の日曜?」
急に問われて頭を巡らせてみる。頭の中のスケジュール帳は相変わらず真っ白で、自分でもびっくりするぐらい驚きの白さを放っていた。
「なにもないな」
なので返答も即答だった。
「それじゃあさ、たまにはどこかパーっと遊びに行かない? ほら、先輩ってば最近ずっとバイトばかりだったし、わたしも勉強漬けの毎日だったしさ。ね?」
真衣奈がご機嫌を伺うように上目遣いで懇願のポーズをとってくる。きっと息抜きしたいっていう言葉はまかりなりにも間違いじゃないのだろう。
しかし、
「ダメだ」
「えー、なんで?」
「なんでって、お前まだ夏休みの課題終わってないだろ。俺があれだけ早めに終わらせろって言ったのに、まだ予定の半分も終わってない。つーか、この時点で予定の半分すら終わってないって……。お前このままじゃ夏休み返上でやらないと二学期学校行けなくなるぞ」
半ば脅しのように言ってみるものの、これは脅しというより本当にまずい状況だった。
なのに真衣奈ときたら、
「それがどうかした? それよりもどこか遊びに行こうよ」
ケロッとした態度でそう言い放つものだから、さすがに俺も引き下がることが出来なくなった。
「ダメだ。絶対にダメだ!」
「なによ。そんな犯罪防止のポスターみたいなことばかり言って。本当は先輩だって遊びに行きたいんでしょ?」
痛いところをついてきた、とは思わない。真衣奈の言うとおりどこか遊びに行きたいのは事実だ。だが、それ以前にそれが出来ないのは誰のせいか気付いて欲しいのも事実だった。
「あのな、そもそも俺が夏休み返上してこうしてるのは誰のせいだと思ってるんだ」
「んーと、わたし?」
「そうだ。そのお前が遊びに行きたいから課題はやりませんと宣言した。それについてどう思う」
「わたしも先輩も遊びに行けてハッピーみたいな?」
「みたいなじゃねえよ! お前がちゃんと課題を片付けてればこんなことにはならないんだよ! そこんとこわかってんのか!?」
珍しく俺が声を荒らげて言ってやると、真衣奈もその迫力に負けたのかシュン、とうなだれてしまった。
しまった……少し言いすぎたか。
俺が慌てて謝ろうとすると、それより早く真衣奈が立ち上がった。
なぜか今まで見たことないほど肩を怒らせて。
「わかった。じゃあわたしがさっさと課題片付ければ先輩も文句ないんだよね」
真衣奈の思わぬ迫力に「お、おう……」と呟くのが精一杯だった。
「帰る」
「か、帰るってどこへ」
「家に決まってるでしょ。さっさと課題片付けたいし」
「課題やるなら別にここでも出来るだろ」
「ううん。本気のわたしを出すにはやっぱり本気になれる場所じゃないとダメなんだよね」
真衣奈の変なスイッチが入ってしまったようだ。なんか中二病こじらせた高校生みたいなセリフを吐くと、ものすごい勢いで俺の部屋を飛び出していった。
やるったらやる! それが椎名真衣奈の信条であり、なによりも厄介なところでもある。
そして翌日。
「どうよこれ!」
真衣奈が俺の部屋を訪れるなり、俺が提示した課題と、学校から出された宿題の全て。そこに頼んでもない大学入試の模擬試験の答案。その全てを俺の鼻先につきつけてきた。ちなみに今はまだ朝の八時をちょっと過ぎたばかりだった。もう一つつけ加えると、俺はまだ布団の中でイモムシのようになっている状態だ。
「な、なんだよこれ……」
「なんだよって、これ先輩がやれって言ったんでしょ。だから全部片付けてきた」
「全部って……あれを全部か?」
「うん。だって言ったでしょ? 課題を全部片付けたら遊びに連れてってくれるって」
それを言ったかどうかで言えば、半分正解で半分不正解だ。なぜなら、俺が言ったのは課題を片付ければ遊びに行けるということで、俺が遊びに連れて行くなんて約束は微塵もしてない。もし血判でも押してある誓約書でもあれば話は別だが、残念ながら誓約書も契約書もない。よってこの取引は無効となる。
「まぁなんていうか、課題を片付けたことについてはよくやったって言うよ。お疲れさん。ただ、俺が遊びに連れてくって話はした覚えがない」
「嘘だ!!」
真衣奈が某同人ノベルゲームのヒロインばりに叫んだ。正直、俺はあまりの衝撃に布団の中で三十センチくらい跳ね上がった。
「ねぇ先輩~。どこか遊びに行こうよ~」
威圧的に挑むのが効果的じゃないと判断すると、今度は猫なで声で甘えてきた。未だ布団イモムシ状態の俺にそれから逃れる余裕なんてない。当然、されるがままにされていた。
「先輩~。ねぇってば~」
俺の上に乗っかったり揺り動かしたりするものだから、最初はうっとうしいくらいに感じていたのも、次第に苛立ちに変わってきた。
こうなってくると俺も俺で頑なに「行かない」とか「遊びに行くなら一人で行け」なんてまるで小学生のケンカのようになってきた。
それからしばらくしてお互いに、「なにやってんだろう俺(わたし)たち……」という気分になり、真衣奈は落ち着いた様子で俺に「遊びに連れて行って欲しい」という希望を伝え、俺も「ま、約束通り課題終わらせたんだしせっかくだから遊びに行くか」という結論に至り、やったー! と子供のようにはしゃぐ真衣奈を見てほほ笑みながら俺は、ようやく布団イモムシの姿から本来の人間の姿へと羽化することができたのだった。


そして当日。
「……遅いな」
そう呟きながら時計を見る。時刻はすでに約束の時間から十分ほど過ぎていた。なのに待ち人はいまだ来る気配はない。
今日は珍しく目覚めがよかった。いつもの休日なら目覚ましが三回ぐらい鳴ってようやく起きるはずなのに、今日に限っては目覚ましが鳴る前に起きることが出来た。だからというわけじゃないが、時間をつぶすためにバイクの洗車をしたり、着ていく服を選んでいたらあっという間に時間が過ぎていた。
……いや、正直に白状しよう。
単に真衣奈と一緒に休日を過ごせるのが楽しみで仕方がなかった。だからいつもより早く起きることが出来たし、乗りっぱなしだったバイクも洗車出来た。
なのにしつこいようだが待ち人はいまだ来る気配はない。
ピカピカになったバイクにもたれかかりながら三本目のタバコに火を点ける。
さて、ここから俺はあと何本のタバコに火を点けないといけないのだろうか。
「おーい、せんぱーい!」
真衣奈がやってきたのは俺が五本目のタバコ(あれから結構待たされた)に火を点けたところでだった。俺は点けたばかりのタバコを消すと、彼女にならって手を振り返した。
「ごめん、お待たせ」
「いや、俺もさっき準備終えたところだから」
「そう? もしかしたら待たせてるかもって思って慌ててきたんだけど。走ってきて損しちゃった」
真衣奈が手櫛で髪を整えながら俺に微笑みかける。
真衣奈は普段着ているような制服姿やラフな服装とは違って、柔らかそうな白い生地に、可愛らしくフリルのついたショート丈のワンピース。髪もいつもは縛ってたり下ろしたままにしているだけなのに、今日はくるんと髪を巻いて軽やかな印象になっていた。化粧もしているところなんてほとんど見たことないが、彼女の印象を壊さない程度に施されていた。
数分前まで真衣奈が来たら文句の一つでも言ってやろうと思っていたのに、彼女の笑顔を見ると、そんな気持ちもどこかへ吹き飛んでしまった。
つまり俺はそんな彼女に見とれていた。
「先輩……もしかして怒ってる? わたしが遅れてきたから……」
「あ、いや……いつもと違って見えたから驚いてた……」
「それって褒め言葉?」
俺より幾分か背の低い真衣奈が見上げてくる。いつも見慣れているはずの顔なのにどういうわけか、今日に限って潤んだ瞳がより一層、彼女を魅力的に見せた。
俺はどう答えるか。
「……さぁな」
結果、はぐらかすことにした。
「そっか。せっかく今日のために気合入れてきたんだけど、先輩には通用しないか」
がっかりしたように眉根を下げる真衣奈。残念ながら俺には十分通用してるぞ! とはさすがに言わない。
「それよりも、またずいぶんと大荷物だな。中になにが入ってるんだ?」
俺が気になったのは真衣奈が持っている、やたらサイズの大きいリュックサックだった。大きいといっても登山用などのものから見れば幾分か小さいサイズではあるものの、それでも少し小柄な真衣奈にとっては大きいことには間違いない。むしろ、服装よりもそっちのほうが気にかかった。
「気になる?」
「気にならないというほうが無理だろ」
「でも、これは今見せられないから、その時になったら教えてあげるよ」
得意げに言う真衣奈に一抹の不安を抱えつつも、俺は疑問を飲み込んだ。
「それじゃあさっそく行くか」
「うん。今日はよろしくね先輩」
真衣奈が慣れた手つきでヘルメットをかぶり、エストレヤのシートにまたがる。
背中に感じる真衣奈の体温と、シャンプーの香りのせいで鼓動が高まるのを感じた。
アクセルをひねると軽快なエンジン音を響かせながら風を切って走った。ヘルメット越しにコツンとぶつかる感触があったので振り返ると真衣奈が「今日も暑いね」と言った。
──真衣奈の提案はこうだった。
「それでお前どこ行きたいんだ」
布団イモムシから羽化した俺は、真衣奈の用意してくれた朝食(焼鮭に味噌汁、ほうれん草のおひたし)をほおばりながら聞いた。
「ちょっと先輩。喋るか食べるかどっちかにしてよね」
真衣奈が鮭の身をほぐしながら抗議してきた。
「悪い。んで、どこか遊びに連れてけってのはわかったけど、なんかプランとかあるのか」
「実はね……じゃーん!」
そう言って真衣奈が自分のカバンから取り出したのは、A4サイズの色とりどりの写真が印刷されたチラシだった。
見てみるとどこかで見たことのある景色だった。赤い観覧車にその後ろに大きく広がる海。巨大な水槽とペンギンまで写っていた。
ああこれは──、
「懐かしいなミラージュランドか」
「そ。ここに連れてってよ」
真衣奈が得意げに鼻を鳴らす。
ミラージュランドは正式には水族館ではない。水族館の部分は魚津水族館という名称がついていて、その向かいにある遊園地の部分がミラージュランドと区分けされている。ただ県民からすればどちらも同じ意味として捉えられていて、わかりやすくミラージュランドで通ってるのが現状だ。補足として日本でもかなり古い部類に入る水族館だということは、県民でも案外知られていない。
「でもなんでまた。水族館だったら他にもあるだろ。のとじまとか」
「そこでもいいんだけどさ、あそこまで行くのって結構距離あるし、それにね」
と真衣奈が区切る。どうしたのかと思い突きつけられたチラシを覗き込んでみると、

夏休み期間土日限定、家族連れ、カップルの方に限り入館料半額! 

なるほど。これに釣られたってわけか。
合点がいった風にしていると、真衣奈も俺がその理由に気づいたらしく、若干居心地悪そうにしていた。
そのあたりのことを口に出さない辺りは真衣奈らしい。
俺がわかったと了承すると、真衣奈はさっきほぐしたばかりの焼鮭を口に含みながら「ありがとう」と言ったのだった。


「風が気持ちいい」
「それも信号待ちの時の気分は焼き魚だけどな」
これから水族館に行こうというのにこんな気の利かないセリフもない。それでも真衣奈は俺のたいして面白くない冗談を「そうかも」と笑っていた。
国道8号線から水族館を目指して走っていく。道路にゆらめく陽炎が夏の暑さを物語っていた。
すぐ横を白いミニバンが追い越していく。家族連れなのか、後部座席に座っている子供が俺たちに向かって無邪気に手を振っていた。
滑川を超えて魚津のほうへと近づいて来ると、海沿いに観覧車が見えてきた。遠くから見ると海の上に観覧車が浮いているように見える。澄み切った青空を背景に、観覧車の赤が一際映えていた。
早月川を渡り終えると目的地のミラージュランドだ。
バイクを適当なところに停めると、潮風が頬を撫でた。真衣奈の髪が風に揺れる。
「運転お疲れ様。どうしたの先輩? わたしの顔になにかついてる?」
「あ、いや。風が気持ちいいなって思って」
返事を返すのにわずかの間があった。けれど真衣奈に見とれていたことを悟られたくなかった俺は、曖昧に答えて濁した。
「今日晴れて良かったよね。わたし雨女だから雨降るんじゃないかって心配だったんだ」
「そういやお前が遠足に行くと大体雨降ってたよな」
「そうなんだよね。前日まで晴れマークだったのが急に大雨になって。一時期、妖怪アメフラシなんてあだ名ついてたし。誰だっけそんなあだ名つけたの?」
「……悪かったよ」
俺が居心地悪そうに言うと、真衣奈は満足したのかそれ以上なにも言ってこなかった。
それにしても、と思う。
日曜日だからということもあってか、駐車場は色とりどりの車でいっぱいだった。その中に先ほど見かけた白いミニバンの姿もあった。どうやら考えることはみんな一緒みたいだった。
列が出来ている窓口に並んで順番を待つ。あのチラシの効果があったのか、予想以上に人が多い。しばらくして窓口に立つと、係の人は俺たちの姿を見るなり、なにも言わずに半額にしてくれた。
「わたしたちカップルに見えたのかな」
「実は兄妹に見えたけど半額にしてくれたんだろう」
幻想じゃなくて現実を見せてやると真衣奈は、
「先輩のバカ」
と言い残してさっさと行ってしまった。
……なにか悪いことでも言ったか俺。
ともあれ俺も真衣奈のあとを追った。
入場口を抜けて中に入ると、薄暗い館内の中に様々な種類の魚が泳いでいた。水槽の中だけ時間がゆっくり流れているみたいで、水の中の魚は慌ただしく動き回ることもなく、ひらりひらりと尾びれをなびかせていた。
「懐かしいな」
俺の口から自然とそんな言葉が漏れた。横で水槽を見ていた真衣奈も俺と同じことを思ったのか、外ではあまり見せない呆けた顔をしていた。
しばらく歩くと、トンネル状の通路に差し掛かった。
「あ、ここ覚えてる」
真衣奈が弾んだ声を上げた。
トンネルのようになった水槽はまるで、自分たちが海の中に飛び込んだように見えて、本当にそうなったわけじゃないが、魚のような気分になった。
変わってない。
俺がこの水族館で覚えてるものといえば、このトンネル状になった水槽ぐらいなものだった。どの水槽にどんな魚がいたかなんて覚えていない。あとはせいぜいタイル張りの通路にくすんだ壁ぐらいなものか。
いままでどれだけの人たちがここを訪れ、ここを通っていったのだろう。
ただ、この場所のこの雰囲気が、幼い頃に訪れた時の空気を残していた。
「すごーい! お魚がいっぱい!」
すぐ側を小さな男の子が無邪気に走っていった。あとからもう一人小さな女の子が「待ってよ! お兄ちゃん!」と、そのあとを追いかけていった。
「兄妹かな?」
「かもな。そういや前にもお前と一緒に来たよな。ここ」
「覚えてる覚えてる! あの時、先輩が迷子になってさ」
「逆だ逆。あの時はお前が迷子になったんだろ。今の子達みたいにお前がはしゃぎまわったせいで、俺とはぐれたんだろうが。んで、俺が見つけた時もお兄ちゃんお兄ちゃんってずっと俺にくっついて泣いてたし。今度ははしゃぎまわって迷子になんかなるなよ」
「こ、子供じゃないんだから迷子になるわけないでしょ!」
「はは、冗談だ」
走馬灯のように流れていく思い出に浸りながら、水槽のトンネルをくぐっていく。
「見て見て! 魚に餌あげてる」
真衣奈が魚に餌をあげているダイバーに手を振った。すると向こうも気づいて手を振りかえしてくれた。
「いいなぁ、わたしも魚に餌あげてみたい」
「それでまるまると太った魚を今度はお前が食べると」
「そんなことないよ。……あるかも?」 
「どっちだよ」
「いやないよ! ……やっぱりあるかも」
本気で悩み始める真衣奈。この年になってもやっぱり真衣奈は花よりだんごみたいだ。
トンネルを抜けると、この水族館の目玉であるペンギンが俺たちを迎えてくれた。氷山をかたどったオブジェを背に、数羽のペンギンが夏の暑さの中ぐったりとしていた。
「暑いからかな。ペンギンたちもグッタリしてるね。休日のお父さんみたい」
「もともと寒いところの生き物だからな。仕方ないだろ」
それでもなんとか自分たちに会いに来てくれたお客に応えようと、羽をパタパタさせている姿はなんとも愛嬌があった。頑張れペンギン。
ペンギンコーナーを過ぎると、館内を一周してしまった。子供の頃にはそれほど感じなかったが、意外と短い。
「あっという間だったね」
「あっという間だったな」
「でも、楽しかったよ。先輩は?」
「まぁ、楽しかったかな」
「ならよかった」
真衣奈が嬉しそうに頬をほころばせる。
「よし、それじゃあ第二ラウンド。次はあそこに行ってみよ!」
真衣奈が指さしたのは水族館の前にある遊園地だった。
「ほらほら、楽しみはここからだよ」
走り出す真衣奈。俺はやれやれと頭をかきながら空を仰いだ。日が沈むにはまだまだ早いみたいだった。


「うーん……、と。こんなにはしゃいだの久しぶり」
真衣奈が大きく伸びをした。
数時間後、遊園地の一角にあるベンチには満足そうにしている真衣奈と、
「……お前、あれだけ乗ったくせになんでそんなに元気なんだよ」
その真衣奈に付き合わされたせいで、ぐったりしている俺の姿があった。
「あれだけ乗ってもまだ足りないくらい。さっき行ったジェットコースターなんてあと三回ぐらい乗れるよ?」
「勘弁してくれ……」
「仕方ないなぁ。だったら今日のところはこれで許してあげるよ。だけど次回は覚悟しておいてよね?」
真衣奈の真夏の太陽にも負けないくらいの笑顔だったのに、それがどうしてだか俺は寒気を感じた。
広場にある時計は正午を指していて、それを認めると、とたんにお腹が空いてきた。
「もう昼か。そういやなんか食うか? 俺、買ってくるけど」
「あ、ちょっと待って」
ベンチから立ち上がり行こうとする俺を真衣奈が引き止めた。おもむろにあのやたらでかいリュックを探っていた。取り出したのは、三段がさねのお重だった。
「はい。お弁当作ってきたからこれ食べよ」
「もしかして、時間かかってたのってこれが原因なのか?」
聞くと、真衣奈は少し照れたように「そうだよ」と答えた。
「せっかく先輩と遊びに行けるんだしさ、たまにはこういうのもいいかなって」
真衣奈がお重を開けると、一段目にはお弁当の定番、鳥の唐揚げやらエビフライ、その他もろもろのおかずたち。二段目には俵状や、一口大に丸められたおむすびが、三段目には女子らしくサラダや果物が入っていた。なんというか……想像以上に豪華だった。
「お前これ一人で作ったのか?」
「結構頑張ったよ。五時くらいには起きてやってからちょっと眠いかもだけど」
はにかんだ真衣奈の目元は、確かに少し眠そうだった。
「なんか悪いな……」
「気にしなくていいよ。わたしがそうしたいって思ってやったんだし」

──それに先輩にちゃんと女の子として見てもらいたいから。

「ん? なにか言ったか」
「え、ううん! なんでもない! さ、食べよ。冷めちゃうから」
お弁当に冷めちゃうもなにもないだろう、と言いそうになったが、真衣奈から箸を受け取ると、そんな些細なこともどうでもよくなった。
さっそく箸を適当につっこむ。引っかかったのは鳥の唐揚げだった。
「今日のは結構自信作だから喜んでもらえると思うよ」
「そう言うってことは本当に自信あるんだな」
俺はこう見えて、真衣奈の料理に関しては割とうるさいところがある。今まで色んな料理を食べてきたということもあるからか、今では少しの変化も分かるまでになっていた。とりわけ、真衣奈が自信作だと言ったこの唐揚げ、真衣奈が作る料理の中で俺が好きなもののベスト3にランクインしていた。なので、それを知っている真衣奈も、特別、唐揚げに関しては力の入れ方が違うのだ。
俺はさっそく自信作だという唐揚げを口に放り込む。……うん。うまい。
「たしかに今日のは自信作だって言うだけあるな。今まで食べた中で一番うまいぞ」
「えっへへ、だから言ったでしょ。だけど、お父さんはまだまだお母さんの味には遠いって言ってた」
「祐介さんも結構料理に関してはうるさいからな。本人はまったく料理しないくせにな」
「でもさ、それだけお母さんのことを覚えてるってことでしょ。なんかそう思うと嬉しいかな。わたし、お母さんのことなんにも知らないから」
そう言って真衣奈が目を伏せた。そうだった。真衣奈の母親は真衣奈を生んですぐに亡くなったのだ。そのあたりの事情に関しては祐介さんから聞いた。もちろん、真衣奈も祐介さんから自分の母親のことについては聞いているそうだ。しかしそれでも、自分で経験した印象と、人から聞いた印象とでは、雲泥の差がある。
時折、真衣奈は俺にいうことがある。「わたしのお母さんってどんな人だったんんだろう」と。
俺も親父を亡くしているけど、それは最初からいなかったわけじゃない。けれど、真衣奈は違う。祐介さんがいて、真衣奈がいる。そうなれば自然と真衣奈の母親もいることになるのだけど、真衣奈にとって親というものは祐介さんだけしかいない。だからこそ、真衣奈にとっては母親という概念がほとんどないに等しい。
人々から聞く自身の母親の姿。俺も真衣奈の母親に会っているだろうが、ハッキリ言ってどんな人だったのかなんて全く覚えてない。だから、“いた”という事実だけしか知らない。そんな母親を真衣奈はどんな風に見ているのだろうか。
「ま──」
「でもいいんだ」
真衣奈──と呼ぼうとして言葉が被せられた。
「でもいいんだ。わたしはちゃんとここにいる。わたしにはお母さんはいなくてもお父さんがいるし、お母さんのことを全く知らなくても、お母さんがいてくれたからわたしがいるんだもの。それに……お兄ちゃんもいるし」
ね? と真衣奈が俺にほほ笑みかけてくる。その顔に知らず胸が高まる。照れを隠すようにペットボトルのお茶を飲んだ。
「そういや、お前にお兄ちゃんって呼ばれるの久しぶりだな」
「え、わたし今お兄ちゃんって呼んでた?」
「なんだよ、気づいてなかったのか」
指摘すると本当に無意識だったみたいで、珍しく真衣奈が赤面していた。
「あ、いや、その……ごめん……」
「なんで謝るんだよ。別に悪いことしたわけでもないのに」
「うん……そうだけどさ」
「なんだ、俺はその……お兄ちゃんって呼ばれて悪い気はしないぞ。ほら、俺だって一人っ子だからさ、お前がそう呼んでくれると妹ができたみたいでなんか嬉しいし」
「なにそれ。先輩ってもしかしてシスコン?」
「誰がシスコンだ。けど、もしかしたらそうなのかもな」
「そうなのかもって、そうなの?」
「俺にもよくわからん。たださ、俺は真衣奈とずっと一緒にいたいって思ってるのは確かだぞ」
「なっ──、なにバカなこと言ってんのよ……」
真衣奈が再び頬を赤らめた。
「そんな……ずっと一緒なんて無理だよ」
「そうかもな。ずっと一緒なんて無理かもしれない。でも、真衣奈のことは祐介さんと同じくらい大切に思っている。血はつながってないけど、本当の妹のように思ってるし、それとは別に大事な後輩だとも思っている。これから先、もしかしたら離れ離れになってしまうかもしれないけど、それでも俺にとって真衣奈は真衣奈だ」
そう言ってポンッと頭に手を乗せた。これも俺が昔から真衣奈にしてやっていたことだ。真衣奈はその感触がくすぐったいのか、猫が撫でられるのを嫌がるようにしていた。
それから昼食を終えて、しばらく色んな遊具を巡っているとずいぶん日も傾いてきた。そろそろ帰ろうか、と言うと、真衣奈が最後に「あれ、乗ろう」と大観覧車を指さした。
「見て見て、ここからあんなところまで見えるよ」
真衣奈がゴンドラの中で子供のようにはしゃいでいた。
ゴンドラの向こう側には彼方まで見える水平線。町のほうへ目を凝らすと、遠くに呉羽山、そのさらに向こう側に新湊大橋や、能登半島が見えた。
「すごいね」
真衣奈が短く呟く。俺もその黄金色に輝く世界に目を奪われていた。
「今日来てよかったよ」
「そうだな。俺も久しぶりにゆっくり羽を伸ばせた気がする」
「ならよかった」
柔らかく微笑む真衣奈。窓から差し込む夕焼けに照らされ、眩しく見える。
「こうやって大人になってくんだね。わたしたち」
「なんだ急に」
「なんでかな、ついそう言いたくなっただけ」
「なんだよそれ」
そう言ってクスクスと笑い合う俺たち。
「この観覧者に乗るのも何年ぶりなんだろ。わたし小さい時どうしても観覧車が怖くって、それでも先輩が乗るっていうから無理して乗ったんだよ」
「そうなのか? 初めて聞いた」
「言ってなかったからね。もし話してたら先輩わたしのこと心配して乗らなかっただろうし」
「そりゃそうだろ。嫌がってるのに無理させるわけにいかないし。それなら今は大丈夫なのか?」
「うん。今は平気」
「ならよかった」
ゴンドラがさらに高さを増していく。地面が遠ざかっていくにつれて、俺たちが見てる景色もすっかり変わっていた。
「このまま……」
「え?」
「……このまま時が止まっちゃえばいいのに」
声に振り向くと、対面に座る真衣奈が外の景色ではなく、俺のほうをじっと見つめていた。
「このまま時が止まっちゃえば……わたしたちここに二人っきりだね」
真衣奈が冗談めかしながら言う。俺はなんだよそれと返す。
「時が止まったらここに閉じ込められるだけだぞ」
「あはは、それもそうか。そんなことになったらご飯も食べられないしね」
「当たり前だろ。それになにより祐介さんが心配する」
「うん。それはダメだよね」
「ああ。携帯がパンクするくらいにかかってくるだろうな」
俺の軽口に真衣奈がそっと笑った。
ゴンドラが最長部まで登りきる。あとは下るだけ。そんな中、ふと、真衣奈が俺に聞いてきた。
「ねぇ、先輩」
「なんだ?」
「先輩はなにかが変わることって怖いと思う?」
「なにかってなんだよ」
「なんでもだよ。例えば環境が変わるとか、人との関係が変わるとか」
「難しい質問だな」
俺は答えを探すように宙に視線をさまよわせる。
変わることを怖いと思うか。だったらそれはイエスであり、ノーである。
なにかが変わることは確かに怖い。けれど、それを恐れてばかりいたらきっと俺は前になんて進むことは出来ない。それはただの逃げだと思う。だから俺の出した答えはどちらでもないだった。
「普通どっちかで答えない?」
「どっちも間違ってないんだから仕方ないだろ。それにこんな質問に答えなんてない。どんなに怖がっていても変わるものは変わる。変えないでと願ったところで誰も叶えちゃくれないしな。そういう真衣奈はどうなんだ?」
「わたし? わたしは……怖いよ」
そう言ってじっと俯く真衣奈。
「わたしはさ、やっぱり変わるのが怖いよ。ずっとこのままでいられたらって思うけど、そんなのって無理じゃない」
「だったら──」
「だからだよ。だから怖いんだよ。わたしがどんなに願っても時間は進むし、わたしがどんなに願っても環境も人とのつながりも変わってく。もし、このまま大人になったときにわたしはどうなってるんだろうっていつも思うんだ」
真衣奈の言葉が俺の心に突き刺さる。
真衣奈は変わることが怖いと言った。それに対して俺はどちらでもないと答えた。
はたしてそれは本当か?
ああ、わかっている。本当は認めたくないだけなんだ。本当は俺もなにかが変わってしまうのが怖いんだ。
紗季は俺に言った。俺のことが好きだと。
その言葉に嘘偽りなんてないんだろう。なのに俺はそれを素直に受け入れることが出来ない。
理由は簡単だ。それを受け入れることでなにかが変わってしまうことを恐れてるからだ。俺が紗季を受け入れてしまえば真衣奈と過ごすこのひと時は失われる。だから紗季への返事を先延ばしにすることで、変化しないようにしているだけ。誰よりもなにかが変わってしまうのを恐れているのは俺自身だった。
……ったく、偉そうなこと言えた立場じゃないな。
「それでも、どんなに年取ったってお前はお前だろ」」
なのに出てきた言葉はそんな言葉だった。人に言えた義理じゃないんだろうけど、少しでも先輩らしいところを見せたかったのかもしれない。するとさっきまで泣きそうな顔をしていたはずの真衣奈が「なにそれ」と笑った。
「なんだよ、人が精一杯励ましてやってるのになにそれの一言で終わりか?」
「じゃあありがとって言っとく。でもさ、先輩ってば言葉のセンスないよね」
「うっせ」
そうは言うものの、それが真衣奈の感謝の言葉だってことは短くない付き合いだ、すぐにわかった。こういったことをお互い素直に言えないところはきっと
いくら年を重ねてもそうそう変わるもんじゃないだろう。
しばらくするとゴンドラは俺たちに見せていた景色を閉じはじめ、夕日が山の向こうへ沈む頃には俺たちの一日も幕を閉じようとしていた。


「一日も終わりだね」
真衣奈がバイクの後部座席に跨りながらポツリと呟いた。どこか名残惜しそうにしているのはきっと見間違えじゃないだろう。
「楽しい時間ほど終わるのってあっという間だよね。終わっちゃったらまたいつもの日常に逆戻りなんだから」
「そのときはまた来ればいいんじゃないか? 別にこれっきりってわけじゃないんだし」
「そうだよね。うん、また来よう」
「ああ。それじゃ準備できたか?」
「うん」
緋色と藍色が交じり合う時間。マジックアワーを眺めながら俺はバイクを走らせた。バラララという軽快なエンジン音を立ててエストレヤが走る。
水平線と藍色に変わっていく空をバックに真衣奈がいつものあの歌を口ずさんてでいた。そしてヘルメットを五回ぶつける。俺もいつものようにヘルメットを五回ぶつけ返した。
コツコツコツ。後頭部に響く振動が真衣奈がちゃんとそこにいるんだと感じさせてくれる。
静かな時間。穏やかな時間。誰にも邪魔されない二人だけの時間。
そんなささいな瞬間を打ち破ったのは真衣奈のほうだった。
「ねぇ、先輩」
「なんだ? まだどこか行きたいのか」
「ううん、そうじゃないんだけど、最近、紗季さんと会ったりしてる?」
「紗季と? メールしたりはするけど会ってないかな。あいつもなんだかんだで忙しいみたいだし」
あの一件以来、紗季とはどこか会いづらい雰囲気になっていた。連絡こそするものの、どちらからも会おうなんて話は出なかった。向こうはどうか知らないが、俺は顔を合わせづらいからというのが本音だった。
というより、なぜここで紗季の名がでてくるのかのほうが不思議だった。そんなことはお構いなしに真衣奈の言葉は続く。
「そうなんだ。てっきり紗季さんと毎日のように会ってるもんだと思ってた」
「高校生の時ならともかく、今じゃたまに顔を合わせる程度だ」
「ふーん、たまにねぇ」
「なんだよ」
「わたしさ、先輩と紗季さんって付き合ってるって思ってたんだけど、そうじゃなかったんだね」
「はぁ? いつ誰があいつと付き合ったって話になったんだ?」
「見てたらお似合いの二人だと思うけどな」
「そうか? あいつと付き合ったら毎日大変な目に遭いそうだけどな」
言って想像してみるが、確かに大変な毎日になりそうだ。それもきっと楽しいんだろうけど。
と、そんなことを考えていると後頭部にガンッ! と強い衝撃が走った。突如走った衝撃に視界が揺らぎそうになる。ヘルメットをかぶっているから痛みこそないものの下手をすればバランスを崩して転倒しそうになるところだ。
「なにすんだ! 危ないだろ!」
「なんかニヤニヤしてたから鉄拳制裁。どうせ変なことでも想像してたんでしょ」
……否定できなかった。
「だからって思いっきりぶつけてくることないだろ。危うくハンドルから手を離すところだったぞ」
肩ごしに真衣奈を睨みつけると、真衣奈はどこ吹く風といった様子であさっての方向を見ていた。
そんな様子に少しの苛立ちを感じながら運転に集中する。すると再び後頭部に衝撃が走った。ただし、今度のはソフトにだ。
「なんだ?」
「先輩怒ってる?」
真衣奈がご機嫌伺いに話しかけてきた。正直、もう怒ってなんかいなかったが、少しだけイタズラ心が芽生えた。
「だとしたら?」
なんて対して怒ってもないのにわざと怒ってますという風を装ってみる。いつもなら「そんなに怒らないでよ。冗談じゃない」なんて大して反省もしていないだろう言葉が返ってくるはずなのに、どういうわけか、
「……ごめん。やりすぎた」
と、本当に反省しているのか謝る声にも元気がない。むしろ、こちらがやりすぎたか? と思ってしまうくらいだった。
「真衣奈──」
冗談だから気にするなって。そう声をかけようとして止まる。
「……こんなんじゃダメだよね」
背後から聞こえてきた声に、真剣さが宿っていた。
俺は無言のまま肩ごしに真衣奈を伺う。肩ごしなのとうつむいているせいか、真衣奈が今どうしているのかわからない。声をかけようにもなんて声をかけていいかさえわからない。
「うん、わかってる。このままじゃダメだってことぐらい」
誰かと話しているようにひとり言を繰り返す。しきりに自分をダメだと否定するのがきにかかった。
「お前はダメじゃないと思うぞ」
「え?」
「あ、いや、さっきからダメだダメだって聞こえてたからさ。つい」
「え、あ、もしかして聞こえてた?」
「聞こえてたもなにもそりゃはっきりと」
そう言い切るとヘルメットにコツンと衝撃。どうやらあまりの恥ずかしさに顔を上げられないようだった。頭一つ分重い……。
「あはは、聞こえてたんだ」
「なにかあったのか。俺でよけりゃ相談に乗るけど」
「先輩が? なんだか頼りないなぁ」
「これでもお前より二年長く生きてるんだぞ。少しは頼りにしてくれてもいいんじゃないか?」
「そだったね。ありがと。でも大丈夫」
コツっとヘルメットからそれまであった頭一つ分の重さが消えた。それと同じく耳元で聞こえていた真衣奈の息遣いさえも。それを確認するとようやく安心できた。
真衣奈の言った大丈夫は、決して拒絶の意思じゃないことぐらい俺にだってわかった。そう短くない付き合いだ。この大丈夫は「なにかあれば相談に乗ってもらうから、今は大丈夫」という意味だ。なら俺からはこう言うことにしよう。
「じゃあお腹すいたか? そういやもう遅い時間だしたまにはどこか食べに行くか。今日は俺のおごりだからなんでも好きなの食べていいぞ」
「え? 本当?」
「なんでも好きなの言えよ」
「じゃあねぇ……」
そして真衣奈のリクエストに従った結果、軽くなったのは心だけじゃなく財布もだということはまぁ考えないようにしよう。


「んで、結局どうなったんだよ」
「どうもこうも飯食って終わりだけど」
俺がありのままを話すと、大樹はなんだよそれ、と呆れていた。
「普通そこまで行ったらもうちょっとなにかあるだろ」
「なにかってなんだよ」
「なにかっていったらなにかに決まってんだろ。そんなこともわかんねーのか?」
大樹が再び呆れ顔でジョッキに残っていたビールを飲み干すと、千枝さんに二杯目のおかわりを頼んでいた。
「男だったらガツンと行くべきだろそこは」
「なんで真衣奈相手にガツンと行かなきゃいけないんだよ」
「そりゃ、相手が真衣奈ちゃんだからに決まってんだろ。お前知ってるか? 真衣奈ちゃんってウチの大学の連中にも人気あるって話」
「そうなのか?」
そんな話聞いたこともなかったから、不思議そうにしていると、三度呆れ顔の大樹。と、そこへ頼んだビールがやってきた。
「あんたらなにくだらない話で盛り上がってんのさ。こっちまで筒抜けだよ」
「俺じゃなくてこいつが──」
「くだらない話じゃないって。俺は翔吾にお前がどれだけ恵まれた環境にいるのかってことを説明してやってるだけなんだって」
「ありゃ、そうなのかい?」
「俺が聞きたいくらいだ」
俺もジョッキに残ったビールを空けると大樹にならって二杯目のビールを注文した。その間にも俺の左隣から戯言のような恨み節が延々と続いていた。
「お前みたいなやつがいるから俺たちみたいな弱者が虐げられるんだよ! わかってんのか!?」
大樹が今にも掴みかかってきそうな勢いで詰め寄ってくる。わかるもなにも、まずお前がなに言ってんのかわからん。
「くそっ……俺だって……俺だってこんなところで終わるようなタマじゃないはずなんだよ……」
大分酔っているのか、怒ったり悲しんだり感情の起伏が激しい。よっぽど嫌なことでもあったんだろう。千枝さんを見ると、なにがあったのか知ってるらしく、苦笑いを浮かべていた。察するに今はそっとしておくのが正しい判断だろう。
「でもまぁ、その点に関してはあたしも同感かな。あんた、紗季ちゃんだけじゃなくて真衣奈ちゃんにも手出してるんだろ? ほい、生中お待たせ」
「人聞きの悪い……。俺は誰にも手なんか出してねーよ」
俺は千枝さんから中ジョッキを受け取るなり、口をつけた。……苦い。
「大体の男はそう言うんだよね。そしていつも泣きを見るのは女のほう」
とうとう千枝さんまで俺のことを女たらしかなにかを見るような目で見てくる。
「だから俺たちはそんなんじゃ──」
「わかってるよそんなこと。冗談じゃないか。それよりも──」
と、千枝さんが俺と同じくジョッキを掲げた。
「いいのか? 仕事中だろ」
「いいさ。もう客なんてあんたらだけなんだし、それにあんた一人だけで飲んでても楽しくなんてないだろ?」
言われた言葉の意味がわからず、横に目を向けるとさっきまで騒いでいた大樹が寝息をたてていた。
「静かだと思ったら寝てたのか」
「この子もいろいろあったみたいだからねぇ。今は寝かせてあげなよ」
「失恋でもしたのか?」
「それはあたしの口からは話せないけど、落ち着いたら慰めの言葉でもかけてやりな」
そう優しく言うと、掲げたままのジョッキをぶつけた。乾杯。
「しっかし、ガキだガキだと思ってたあんたもいつの間にか色恋沙汰に花を咲かせるような年になったんだねぇ。あたしはうれしいよ」
「親戚のおばさんみたいな言い草だな」
「おばさんとは心外だね。あたしとしては親戚の綺麗で優しいお姉さんのつもりなんだけど」
「じゃあそれでいいよ」
「それでとはなんだいそれでとは」
千枝さんの軽口に俺も調子を合わせる。俺はこういったくだらないやりとりが案外好きだった。
それからしばらくたわいもない話をしていると、ふと千枝さんが声のトーンを抑えた。
「それで、あんたどうするつもり?」
「どうするってなにを」
「紗季ちゃんか真衣奈ちゃん、どっちを選ぶかって話」
「だから俺たちは……」
「はぐらかすんじゃないよ。紗季ちゃん言ってたよ。あんたに告白したって」
「紗季が──?」
「ああ。あんたに告白した次の日にここに来たとき言ってた。昨日あんたに告白したって。あたしがどうだった? って尋ねたら答えも聞かずに逃げてきちゃったって言ってた。それからあんたあの子とちゃんと話したかい?」
「……まだだけど」
「意気地なしだねぇ。それでもついてるのかい?」
「…………」
なにを、とは聞かなかった。ナニがついてるのかついていないのかの問題じゃないのだろうし。
「ごちそうさま」
「もう行くのかい?」
「ああ。ちょっと飲みすぎたみたいだし」
と、席を立ちかけて一足先に夢の世界へ旅立っていた相方のことを思いだした。
「その子なら寝かせておいてあげなよ。どうせ朝まで起きないんだろうし」
「じゃあ頼んでいいか?」
千枝さんはわかってると首を縦に振った。それを確認すると店を出ようとする。
「翔吾」
「代金足りなかったか?」
「あのさ、あの子のためにも早く返事してやっておくれよ。きっとあんたがどんな答えを出してもあの子はそれを受け入れてくれるから」
「また来るよ」
俺はそれだけ言い残して店をあとにした。
生暖かい夏の暑さを含んだ風を受けながら、ポケットに突っ込んだままにしたタバコに火をつける。バイクに乗り始めてからどこへ行くにもバイクで移動していたせいか、久しぶりに町の中を歩くと、何気なく見ていたはずの風景が少しずつ変わってることに気づいた。
タバコをふかしながら片方のポケットに手を突っ込んでフラフラと歩く。フラフラしているのは酒のせいもあるが、懐かしい気分に浸っていて浮かれているからかもしれない。そんな横を、同じく俺と同じように顔を赤らめた酔っぱらいが、鼻歌混じりに過ぎていった。
ここしばらく天気がいいせいか、今日も夜空には満天の星が広がっていた。
こうやって何気ない日常を過ごしていられるのも、あとどれだけ続くんだろうか。
神通川にかかる橋を歩く。
そういや、もうすぐ花火大会だったな。
毎年この時期になると神通川の土手沿いで花火が打ち上げられる。俺はいつもその花火を見ると、夏もあとわずかなんだと思わされた。
ここ数年は真衣奈と一緒に見に行っていた。じゃあ今年は──?
「どっちでもいいだろ、そんなの」
思わず口に出していた。酔ってるせいか、それとも千枝さんに変なことを言われたせいか。
家まであと少しというところで、酔い覚ましがてら缶コーヒーを買おうと自販機に寄ると、思わぬ奴に出くわした。
「お、ハカセだ」
「…………」
俺のことをこんな風に呼ぶ奴なんて後にも先にも一人しかいない。紗季がTシャツに短パンといった、普段、あんまり見たことのない格好で立っていた。
「なにやってんのこんなところで? うわ、お酒臭い……。もしかして千枝さんのところいたの?」
俺は素っ頓狂な顔で立っている紗季を無視して、適当にボタンを押した。
「ブラックかぁ。酔い覚ましならスポーツドリンクのほうがよくない?」
いちゃもんをつけてくる紗季。俺はそれに答えずその場を去ろうとする。もちろん紗季の言ってることは全部聞こえているが、なんとなく関わるのが面倒だったから聞こえないふりをしていた。
「待ってよ。ハカセ」
さっさと行こうとする俺に紗季がまとわりついてくる。俺はずっと見えないフリ、聞こえないフリをしながらスタスタ歩く。
「おーい! 聞こえてるんでしょ! ちょっと、ハカセってば!」
見えない見えない。
聞こえない聞こえない。
スタスタ歩く。
と、数十メートル歩いたところでまとわりついていた紗季の気配が消えた。
思わず立ち止まって周りを見渡してみるが、どこにもいない。
やっと解放してくれた。そう思ったのも束の間──、
「スキありぃ!」
「おぉう!」
首元に走った冷気に体中に鳥肌が走った。
「な、なにすんだ!」
「やっと反応してくれた。ほら、これ飲んだほうがいいよ」
そう言って紗季が差し出してきたのはスポーツドリンクだった。もしかしてあいつ、これを買うためだけにさっきの自販機まで走って帰ってきたのか……?
バカだ……。こいつ、正真正銘のバカだ。
そう思うとなんだかおかしさがこみ上げてきた。
「お前、バカだろ」
「え、なに? バカって? なに?」
「ほんっとバカだよな」
頭をわしわし撫でてやると、紗季はスポーツドリンクを抱えたままなにがなんだかわからない顔をしていた。
「で、なにやってんだお前」
「え、あ、これ。ハカセさっきブラックコーヒー買ってたから、酔い覚ましならこっちがいいかと思って買ってきた」
「だからってお前が汗だくになってどうすんだよ。ほら、お前が飲めよ。喉渇いてるだろ」
「ああ、うん。ありがと……って、これわたし買ってきたやつじゃん!」
一人でノリツッコミしている紗季を尻目に、俺は自分が買ったブラックコーヒーを飲んだ。コーヒーの苦味が少しだけ酔いを覚ましてくれた。
「それで?」
「うん?」
「うん? じゃなくて、お前こんなことしてまで俺になにか用か?」
「別に用なんてないけど」
「…………」
聞くまでもなかった。
「あのなぁ、用もないのにまとわりつくだけまとわりついて、あげく人の首元にペットボトル押し付けたのか?」
「それは……まぁ……ごめんなさい……」
ようやく自分自身がやったことのバカバカしさ加減に気づいたのか、謝ってきた。というより、いい年した大人二人が、日付もあと少しで変わろうかという時間にくだらないことで騒いでるほうがどうかと思う。これも全て紗季のせいだ。
けれど、紗季に告白されたあの一件以来、微妙な距離感を感じていた俺にすれば、こういったなにも考えずに行動してくれる紗季の存在はとてもありがたかった。
「別にいいけどさ」
「ありゃ、今日はやけにあっさりだね。いつもだったらもう少しお小言言いそうなのに」
「言われたいのか?」
「……ごめんなさい」
「だよな。俺も言う気分じゃないし」
「うん」
それからどちらからともなく歩き出した。もちろん話す内容に大した価値なんてない。たわいもない世間話だ。なのに紗季と久しぶりに話せたことが嬉しかった。
「そういや、お前ってこのあたりに住んでるのか?」
「んーん、違うよ」
「じゃあなんでこんなところにいるんだよ」
「なんでだろうね。なんか風が気持ちよかったからぶらぶらしてた」
「気持ちはわかるけど、そんな格好で夜歩くと危ないぞ」
「出た。お小言。さっき言わないって言ったのに」
紗季が口を尖らせて反抗してくる。
「悪かったよ。だからって言わないわけにはいかないだろ」
「心配してくれてるんだねー。ありがとー」
「ずいぶんと感情のこもってないありがとうだな」
「どういたしまして」
「褒めてねーよ」
「あはは、そうだね」
紗季が踊るように手を振りながら歩く。小学生じゃあるまいし、なにが楽しんだか。
「そうだ。ハカセは今度の花火大会行く?」
「花火大会? どうだろうな。暇だったら行く」
「ならわたしと行かない?」
「お前と? なんで」
「なんでって、せっかくだしさどうかなって」
「せっかくじゃなかったら行かなくてもいいのか?」
「せっかくじゃなくてもだよ。ハカセってば結構意地悪だよね」
「意地悪で結構。じゃあ俺が行かないって言ったらどうするんだ」
「そのときはハカセが行くって言うまで誘うことにするよ」
「なんだよそれ。俺の選択肢は一つか?」
「わたしから逃れられると思ったら大間違いだよ」
紗季がバーンと人差し指で俺を撃った。俺は肩をすくめて「そりゃ怖いな」と笑った。
「それでどうするの。わたしと行く? それとも他の誰か?」
「まだ行くかどうかも決めてないのに答えれるか。たぶん、誰の誘いもなけりゃ真衣奈と行くんだろうけど」
「じゃあ、わたしが先に誘ったらわたしと行く?」
「お前とか? まぁ……別にいいけど」
「なんでちょっと嫌そうなのよ! もう少し喜んでもいいんじゃない」
「だってお前と一緒に行ったらいろいろ奢らされそうだし」
「…………」
「否定しろよ!」
「あー、まぁ、ほどほどにしておくよ」
「……ほどほどって奢らせる気まんまんじゃねーか。ったく、仕方ないな」
「仕方ない? ってことは……」
「今年はお前と行くよ。それに今まで一緒に行ったことないしな」
出来るだけ悟られないようにそっけなく言う。もしかしたら気づかれたかもしれない。いっそそれでもいい。
「なに食べよっかなー。いか焼きでしょー、かき氷でしょー、それからー……」
「先に言っておくけどほどほどにしておけよー」
「わかってるって。楽しみだなー」
今からなにを食べるか考えてる紗季を見る限り、どうやら俺の思いは杞憂なんだと感じされられた。

第五話

二年前。彼女と出会うまで彼の右隣はわたしの居場所だった。
それまでわたしは、彼のことをそんな風には思っていなかったかもしれない。何年たっても変わらない関係でいられるなんて子供心に思っていたからだろう、きっと。
けれど、そんな考えはある時を境に夢なんだと気づかされた。
わたしが高校生になってやっと新しい日々に慣れてきたころ、わたしは彼のささいな変化に気づいた。いつもわたしが立っていた彼の右隣に彼女が立っていた。最初のころは偶然だと思っていた。けど、そのうちそれが偶然じゃなくて、必然なんだと感じ始めていた。そのころからだろうか、わたしが彼のことを『お兄ちゃん』じゃなくて『先輩』と呼び始めたのは。
ある日、わたしは初めて彼女と話をした。といっても、こちらから話しかけたわけじゃなく、向こうから話しかけてきたのだ。どうやら、彼からわたしの話を聞いていて前から興味を持っていてくれたらしい。彼がわたしの話をしていたことに嬉しさを感じていた。その反面、彼がわたしのことをどう思っているのかが気になっていた。ちなみに彼女の名前は長谷川紗季と言った。彼と同じ天文部に所属していて、わたしがこの学校に入学するまでは二人だけで活動していたらしい。らしいというのも、もともと彼女──紗季さんはソフトボール部に所属していた。それがちょっとした出来事があってから一緒に活動することになって、星を見たりすることの面白さに気づいたそうだ。どちらにしても、もともと部員が一人しかいない廃部寸前の部活だったから、それも仕方ないのかもしれない。それ以外にも紗季さんはいろんなことを話してくれた。そのほとんどが彼と過ごしたことばかりだった。時折、紗季さんは彼のことを『ハカセ』と呼んでいた。わたしがなんでハカセと呼ぶのか? と尋ねたら、星に詳しいからハカセなんだと教えてくれた。
それからしばらくして、彼と紗季さんと三人で会うことがあった。もちろん、わたしの居場所には紗季さんが立ち、わたしは自然と紗季さんとは反対の場所に立って歩いていた。三人で歩いていても、彼はずっと紗季さんと話していた。というより、紗季さんが一方的に話していて、彼がそれに相槌を打ったり苦笑いをしたりしていた。
紗季さんが彼のことをハカセと呼ぶたびに、わたしの中にチクリと小さなトゲのようなものが刺さっていった。彼がハカセと呼ばれること、わたしはそれが嫌だった。まるでその呼び方が二人だけの絆のような気がしたからだ。
そのころになると、もうわたしの居場所はなかった。そもそも、わたしだけの居場所だと思っていたことが間違いだったのかもしれない。
本当は彼の右隣は誰のものでもなくて、たまたまそこが空いていたから入ることができた。ただそれだけのことだったのだ。以前までならわたしが、そして今は紗季さんがその居場所に立っている。ただそれだけのことだった。
夏休みがすぎて二学期が始まる頃に、紗季さんが転校したことを知った。携帯の番号は交換してたし、お互いに電話やメールのやりとりもしていた。なのに紗季さんは誰にも別れを告げることなく姿を消した。もちろん彼にも。
紗季さんがいなくなったことを彼はひどく悲しんでいた。わたしも紗季さんが急にいなくなったことに腹を立てたりもした。だけど一番腹が立ったのは、紗季さんがいなくなったことに、少なからずとも安心感を感じていた自分自身に対してだった。
それから彼女がいなくなった穴を埋めるように、彼の右隣には再びわたしが立っていた。わたしはわたしの居場所を取り戻したはずなのに、心の中にあるのは居場所を取り戻したという充実感よりも、紗季さん対する申し訳なさだった。
あれから二年が経ち、紗季さんが戻ってきた。再び会えることを嬉しく思いながら、だけど、また居場所を取られてしまうんじゃないかと思っていた。
けれど、わたしも当時の紗季さんと同じ年齢になった。今ならきっとどんなことがあっても紗季さんに立ち向かうことができるだろう。相手は強力なライバルだ。ちょっとやそっとじゃ勝てないかもしれない。それでもわたしは、わたしの居場所を守りたい。それが彼のことを『お兄ちゃん』と呼び、今は『先輩』と呼んでいる、わたしにしかできないことなのだから。


七月もあと数日で終わりを迎えようとしているある日、俺は珍しく母親の運転する車の助手席にいた。というのも、今日は俺たち家族にとって一生忘れることのできない日だからだ。
「もう五年も経ったのよね。こうしてみると月日が流れるのは早いわね」
俺がぼんやりと窓の外を眺めていると、車を運転する母親がそんなことを言った。
今日は俺が始めてバイクの免許を取った日。そして親父が死んだ日だ。
「あの頃は何もかもが急な話でびっくりしてたけど、振り返ってみると遠い昔の出来事みたいね」
母親はさらりとした調子で言うものの、当時の様子はそれは息子の俺から見てもできることなら見たくないものだった。俺にとっては父親でも母にとっては苦労を共にしてきた大事な伴侶だったのだ。それを考えると、本当ならなにもかも投げ出したくなる気持ちもあったのかもしれないのに、よくぞここまで俺を育ててくれたと感謝したくなる。もちろんそんなこと恥ずかしくて言えないけど。
「お父さんあっけなく死んじゃったけど、きっとそれがお父さんらしい生き方だったのかもしれないわね。いつもどこかへ走り回ってるような人だったから、きっと天国でも大好きなバイクに乗って走り回ってるんじゃないかしら」
そう言って母はクスクス笑っていた。久しぶりに見る母親の笑い方だった。
死んだ親父と母親はまるで正反対な人だ。親父はどちらかというと落ち着きのない性格で、なにをするにも忙しなく、言い方を変えれば賑やかな人だった。なのに母親はおっとりした性格で、小さな子供のような親父をいつもあらあらと子供を優しく見守るように接していた。こんなにも性格の違う二人が出会い、結婚して、子供まで授かるなんてきっと二人をよく知る友人たちだって思わなかっただろう。俺もそんなことを思った一人だったからなおさらだ。
ずっと昔、母親にどうして親父と一緒になったのかを聞いたことがある。特に他意もなにもない、素朴な疑問として聞いただけなのだが、その時の母親はまるで恋する少女のように頬を赤らめてこう言ったのだ。

『そんなのお父さんだったからに決まってるじゃない』

俺はそれを聞いたとき耳を疑った。家の中で一番の常識人だと思っていた母からそんな言葉を聞くとは思わなかったからだ。あの時は俺も子供だったからというせいもあった。だからどうして母がそんなことを思ったのか不思議でたまらなかった。けれど、今はその気持ちがほんの少しだけわかる気がした。
「もしお父さん生きてたら、もっと格好良くなってたかもしれないわね。あの人ったら昔は結構モテてたのよ。友達も羨ましいっていつも言ってたわ」
そして時たまこうしてノロケ話を聞かされるものだから、息子の俺としてはそっぽを向いたまま「あっそ」と言ってやるのだった。
自宅から車を走らせて一時間ほど。海沿いの、晴れた日には水平線の向こうに立山連峰を望むことが出来るそんな場所に親父の墓は建っている。これは親父が生前「俺が死んだら海の見える場所にでも墓を建ててほしい」と言っていたのを覚えていた母親が、律儀にもそれを守り、こうして親父をここに眠らせたのだそうだ。なにより、ここは親父の地元でもあるらしく、母親と出会ったのもここでだったそうだ。今日は幸いにも天気がいいおかげで、遠くに見える立山連峰がはっきりと浮かび上がっていた。
親父の墓を清掃し、お供え物をして心中で祈る。
親父。元気にしてるか? 死んでるのに元気もなにもないだろうけど、俺は元気にしてるぞ。そっちでもどうせ人に迷惑ばかりかけてるんだろ。向こうに行っても相変わらずだな。なんてことを思いながら。
横目で母親を見ると、一生懸命に祈る母親の口元が緩んでいた。もしかしたら俺と同じことを考えてるのかもしれない。
親父へのお参りを済ませると、母が尋ねてきた。
「翔ちゃんはお父さんになんて言ったの?」
「大したことじゃないよ。どうせ向こうでも人に迷惑ばかりかけてんだろってさ」
「あら、そんなこと言ったの?」
「どうせ親父のことだからさ。そういう母さんは?」
「実はわたしも同じこと言ってたわ」
母が笑いながら言う。さすが親子だ。
「でも、そのほうが親父らしくていいんじゃないか?」
「そんなこと言うとお父さん、きっと空の向こうでくしゃみしてるわよ」
そう言ってもう一度笑う。やっぱり母はどうして親父なんかと結婚したんだろうって思う。
「さ、お父さんへの報告も終わったし、翔ちゃんはこれからどうする?」
「せっかくここまで来たんだし、この辺り見てから帰るよ。帰りは電車で帰ってくるから母さんは先に帰ってていいよ」
「そう。それならあまり遅くならないようにね」
「子供じゃないんだから大丈夫だって」
「それでもあなたはわたしたちの子供なんだから、心配するのは親の務めよ。だからおとなしく聞き入れなさい」
「わかったよ」
俺が渋々といった風に、けれどそれを少し嬉しく感じていると、母もそんな様子に気づいたのか「ゆっくり楽しんできなさい」と言って先に帰っていった。
母を見送り、俺は今見ていた方向とは逆の方向へと歩き出す。墓地から少し歩くと、ザー、ザザーン、サー、サラサラ。そんな心地のよい音が耳をくすぐった。堤防の上に登り、波の音をミュージック代わりに歩く。ポケットの中に入れてたタバコを取り出し火を点ける。オイルライターのふたを開いたときのシャキンという音がまた心地いい。
ゆっくり紫煙をくゆらせると、夏風に舞って消えた。
堤防から見える砂浜では、魚釣りに興じる人が長い竿を振っていた。そこから反対に視線を移すと、色あせた街並みがあった。狭い路地に潮風で風化したトタン屋根。ひなたぼっこをしている野良猫や、いつからあるのかわからないような駄菓子屋。長い神社の階段を虫取り網を担いだ小学生が駆け上がっていく。その中に俺の親父の姿が重なって見えた。きっと親父もそうして過ごしたのだろう。俺がいるこの場所には親父が過ごした思い出が溢れていた。俺の知らない親父だけの時間。
けれどその親父ももういない。いないからこそ、もっと親父がどんな風に過ごしていたのか聞きたいと思った。
俺は歩くのをやめてじっと立ち止まった。後ろを振り返るとそこには俺が今まで歩いてきた道がある。前を向くとまだ歩いていない道が続いている。堤防の道はなにもなく、どこまでも遠く見渡すことができた。もしかしたら親父もこうやって今の俺みたいに、この堤防の上に登って自分がどういう風な未来を歩いていくのか見つめていたのかもしれない。
短くなったタバコを灰皿に入れると、それまで歩いていた堤防から降りた。そこへ「翔吾」と声をかけられた。
「よう翔吾。こんなところで会うなんて変な偶然だな」
声をかけてきたのは祐介さんだった。なぜか両手では抱えきれないほどの花束を持って。
「今からデートでも行くのか?」
「バカ言うな。俺は生涯春菜一筋って決めてんだ。これはお前の親父にだ。今からお前の親父の墓参りに行こうと思って、墓前に備える花を探してたらこんなことになってな」
まいったまいったと上機嫌に笑う祐介さん。きっと親父のことを思って用意してくれたんだろうけど、物には限度というものがあることを知ったほうがいいと思う。
「そういうお前こそなにやってんだこんなところで?」
「そんなこと聞かなくてもわかるだろ。祐介さんと一緒だよ」
「そうか。そうだよな。んで、お前のほうはもう終わったのか?」
「ああ。ついさっきまで母さんも一緒にいたよ」
「美和ちゃん元気にしてるか」
「おかげさまで息子の俺が頭を悩ませるくらいには」
「そりゃ難儀だな。そうだ翔吾、お前ちょっと時間あるか」
「それなら問題ないけど」
「じゃあたまには俺と付き合え。よく考えたらお前とこうやってじっくりと話す時間ってのもあまりなかったしな」
「その前にやることやってからのほうがいいかもな」
俺は大量に抱えられた花束を指差して苦笑いを浮かべた。
一度来た道を戻り、今度は祐介さんと二人で墓前に立った。事情が事情とはいえ、さすがの親父も息子が二回も会いに来るなんて思ってないだろう。それと大量の花束か。
「あいつ元気そうだったな」
親父の墓参りを終え、あてもなく歩いていると、ふと、祐介さんがそんなことを言いだした。
「草場の影から親父でも見えたか?」
「気味の悪いこと言うな。そうじゃなくて、なんていうか、あいつが向こうでもちゃんとやってるってそんな気がしただけだ」
「そのへんのことはあの親父のことだから心配ないと思うよ。ただ迷惑はかけてるだろうけどな」
「はは、それ美和ちゃんにも言ったのか?」
「母さんも同じこと言ってた」
「だろうな。美和ちゃん、ああ見えて結構手厳しいところあるしな」
「意外だな。俺はそうは見えないけど」
「そりゃあ息子から見たらな。これでも美和ちゃんとの付き合いはお前より長いんだぜ? それに俺がいたから、こうしてお前がいるんだぜ? 感謝しろよ」
祐介さんが得意気に言った。親父との付き合いについては聞かされていたけど、母さんとの話は聞いたことがなかった。
「そういや、お前知ってるか? 俺と勝利が女を取り合ったってこと」
「初耳だ」
「ありゃあ、高校生のころだったかな。当時、学校でも指折りの女子がいてよ、男どもがこぞって告白するんだけど、ことごとく振られてたんだよ。んで、俺と勝利のどっちが付き合えるか勝負しようぜって話になって俺ら二人で告白しに行ったんだよ」
「それでどうなったんだ?」
「結果、二人とも振られたよ」
あっはっはと祐介さんが大げさに笑っていた。
「んでもよ、俺はすんなり諦めたのにあいつはどうしても諦めきれないみたいでさ、何度も告白しては振られてんだよ。しかも同じ女にだぜ? 普通だったら考えられないだろ」
俺が胸ポケットからタバコを取り出すと、一本くれとよこから掠め取られた。
「タバコ吸うのか?」
「昔は吸ってた。真衣奈が生まれてから止めたけど、ちょっと吸いたくなった。お、悪いな」
祐介さんが咥えるタバコに火を点ける。親父がもし生きてたらこんな風にしていたのかもしれない。
「それで続きは?」
「ああそうだった。何度も告白してるうちに相手の女の子も少しずつ気持ちが動いてきたみたいなんだよ。執念ってやつかな。それで初めてデートすることになったんだけど、これがまたひどい結果でさ」
「どんな?」
「あいつ昔から寝起きが悪くて、目覚まし時計をいくらかけても起きないんだ。んで、携帯なんかもない時代だったから、連絡も取れないしで、大変だったんだよ。そこへ、たまたま待ち合わせ場所にいる子に会った俺が事情を聞いて、慌ててバイクの後ろにその子を乗っけて勝利の家まで行ったら、案の定、家でぐーすか寝てやがってさ、そのあとは三人でダラダラと過ごしてたっけ」
「それがまさか……母さんだったりするのか?」
「残念ながら、お前の母さんはその子じゃない。そのあとでその子の友達とも仲良くなるんだけど、その友達っていうのがなかなか面倒見がいい子でさ、勝利の面倒を見れるのはこの子しかいないって思って、俺がいろいろ世話を焼いてくっつけた。それが美和ちゃんだ。ま、あの二人だったら俺が世話しなくてもいずれはくっついてただろうけどな」
「じゃあ、親父が狙ってたって子はどうなったんだ?」
「……死んだよ。ちょうど真衣奈が生まれたと同時にな」
「それってまさか……」
「真衣奈の母親だ」
「……ごめん」
「なに謝ってんだよ。これは俺たちの話だし、あいつが──春奈が死んだことだってお前のせいじゃない。それに勝利がいなけりゃ俺は春奈と結婚できなかった。だから俺は感謝してるくらいなんだよ」
「感謝?」
「俺はさ、あいつと友達になれたことが割と自慢だったりするんだよ。あいつはお調子者で、普通の人だったらまずやらないようなことを平然とやるくせに、ちょっとしたことを気にしたりして落ち込んで、かと思ってたら次の日にはケロッとしてんだよ。結構いい加減だよな」
「……褒めてんのかそれ」
「まぁ、俺なりの賛辞だと思って聞いてくれ。あいつとはしょっちゅうバカなことばかりやって、高校生だってのにバイク乗り回して先公に怒られたり、朝まで酒の飲み比べして二日酔いになりながら学校行ったりしてさ、今となって考えてみたら、ろくでもない高校生活だったって思う。それでも俺にとってあいつと過ごした三年間ってのは、どんなことよりも楽しかった三年間だったんだよ。だからさ、五年前にあいつがあっけなく死んだって聞いて俺はそれを信じることができなかった。信じたくなかったんだ。俺はあいつとずっとこうしていられるって心のどこかで思ってたからな。……ったく、俺が大事に思ってる奴はいつも一足先に逝っちまう。もう少しゆっくりでもいいと思うのにな」
そう言って祐介さんは寂しげに笑った。
「だから翔吾。お前は俺より先に逝くなよ?」
「大丈夫だよ。俺は」
言うと祐介さんは「そうか」と今度は嬉しそうに笑っていた。
「そういや翔吾、お前真衣奈とはどうなんだ?」
「はぁ? どうってどういうことだよ」
「言葉通りの意味だ。やっぱり付き合ってたりするのかお前ら」
「なに言ってんだよ祐介さん。知ってるだろ? 俺と真衣奈はそんなんじゃないって。ただの幼馴染だよ」
「……幼馴染か。あいつもなかなか大変だな」
俺の言葉に祐介さんが、短くなったタバコの煙を吐きながら呟いた。
「そういや真衣奈は?」
「あいつか? あいつなら学園祭の準備とかで学校にいるはずだ」
「学園祭か。もうそんな時期なんだな」
思い返してみれば、俺が高校生だったころもこの時期あたりに準備を進めていたっけ。
「お前が三年のときってなにやってた?」
「アレだよ。アレ」
「ん? ああ、アレか」
祐介さんが思い出して笑いをこらえていた。
「笑うことないだろ」
「ああ、悪いな。けど、アレな今でも評判なんだぞ。今でも続編はまだか? って聞かれるしな」
「続編もなにも、あんなの二度とやるか」
俺たちの言うアレというのは、俺が三年生だったころに学園祭でやった催し物のことだ。本当なら思い出すのも忌々しいと感じているのに、どうして今さらそんな話を掘り返してくるんだろうとさえ思う。
その当時、部員も増えて活動の幅が広がった天文部では、学園祭でプラネタリウムとは違った出し物をしようという話が出ていた。しかし、天文部でプラネタリウム以外に何ができるのか? という話になり、色々な案が出た。プラネタリウムを眺めながら過ごす喫茶店であったり、星の説明会といったものから、各惑星のイメージを象った屋台なんてのもあった。しかし、そういった意見を見事に覆したのが紗季だった。
紗季の出した案というのが、太陽系に存在する九つの惑星の一つ冥王星が仲間はずれにされたことをきっかけに、反乱を起こし、その恨みを八つ当たりとばかりに地球にぶつけた挙句、太陽系七つの惑星にケンカを売った末に、力を合わせた残り八つの惑星が力を合わせて冥王星を倒すという、要するに惑星をイメージした戦隊ヒーローものをやろうというものだった。ちなみにタイトルは惑星戦隊プラネタリアなんていう、一切ひねりのないものだった。
もちろん俺は反対した。予算のことや制作に時間がかかりすぎるということもあったが、それ以前に高校生にもなって戦隊ヒーローなんてどうかしてるというのが一番の理由だった。部員全員を集めての会議が行われ、俺は即座に反対意見を述べた。のだが……どういうわけか、反対意見を出したのは俺一人で、残りの部員は揃いも揃って「面白そう」とか「さすが紗季先輩」なんて声を上げていた。その時の紗季の勝ち誇った顔は今でも忘れられない。余談だが、惑星戦隊(以下略)の内訳はレッドが火星、ブルーが水星、グリーンが木星、イエローが金星、ブラックが土星で、ピンチに陥った際に登場する味方として、天王星と海王星がいる。もちろん悪役は冥王星で、肝心の地球はというと冥王星に捕まっているという設定だ。もともとは紗季がレッドの火星をやる予定だったが、学園祭前に転校してしまったため、本来なら裏方を務めるはずだった俺がレッドをやる羽目になったのは誰かの策略にしか思えない。
「いいじゃねーか。あんなの大人になったらちょっとやそっとじゃできるもんでもないしな。いい思い出だろ」
「できることなら、一生思い出したくないけどな」
「そう言って一番ノリノリで演じてたのはどこのどいつだ」
「……うるせーよ」
逃げ道を探るようにタバコをもみ消す。要は俺も若かったってことだ。


「悪いな。こんなところまで送ってもらって」
「帰り道だからついでだ。それよりもここでいいのか?」
俺が車から降りようとするのを祐介さんは名残惜しそうにしていた。もしかしたらまだ話したりなかったのかもしれない。
「昔話してたらちょっと寄りたくなってさ」
「そういうもんか?」
祐介さんが首をひねる。それなりに堅牢な門構えに備え付けられたプレートには県立桜谷高校という名が刻まれていた。俺の母校であり、祐介さんの職場でもある。
「そういや、紗季って覚えてるか? 俺が三年生のときに転校したあいつ」
「紗季? ああ、長谷川のことか。覚えてるけどそれがどうかしたのか?」
「偶然街で再会して知ったんだけど、あいつさ今ここに戻ってきてるんだよ。ついでに俺と同じ大学に通ってる。学年は一つ下だけど」
「……長谷川がか?」
俺が紗季の話をすると、なぜか祐介さんが怪訝そうにした。
「知らなかったのか? 真衣奈あたりから聞いてると思ってたけど」
「いや、聞いてなかった。そうか、それじゃあ無事に……」
「祐介さん?」
「あ、いや、それでどうした?」
「二年ぶりぐらいに会ったけど、あいつ全然変わってなくて驚いたよ。今度時間あったら祐介さんにも会わせに行くよ」
「そうか。楽しみにしてる」
祐介さんを見送り、校門を抜ける。グラウンドでは運動部が妙な奇声を上げて走り回っていて、校舎からはお世辞にも上手いとはいえないトランペットの音色が響き渡っていた。久しぶりに訪れた母校は、俺の思い出の中にある姿となんら変わりなくて、それが少し嬉しく思った。
校舎に入り、迷わず旧校舎へと向かう。旧校舎は部室棟として使われていて、天文部の部室もその二階にある。階段を上がった廊下の奥、天文部と書かれた古びたプレートが下がった教室が天文部の部室だ。
見慣れた木製のドア。久しぶりに会った友人のようにさえ思う。真鍮製のドアノブをひねると、感触はそのままにゆっくりとドアが開いた。少し緊張しながら部屋の中へ入ると、一人の男子生徒がひどく驚いた顔で出迎えてくれた。
「宮野……先輩?」
「よう。久しぶりだな吉仲」
人懐っこい笑みを浮かべる生徒に俺も軽く手を上げる。
「お久しぶりです宮野先輩。なんか先輩あんまり変わってないっすね」
「たった二年で変わるかよ。つーか、お前は……なんだ、ずいぶん変わったな」
困惑気味に言うと、吉仲はそうかな? と、自分の体をジロジロと眺めていた。にひひ、と無邪気に笑うその癖は俺の知っている吉仲雄一本人で間違いなかった。ただ、二年前ならまだ俺より背が低くて高校生というよりは、まだ中学生に見えたその容姿も、たった二年の間で俺を見下ろすぐらいまで成長していた。
……生憎とその見違えるような変化を、高校生だった頃の俺は経験することはなかったが。
「それよりどうしたんすか急に。学校になんか用事ですか?」
「あ、いや。用事ってわけじゃないんだ。久しぶりに立ち寄ってみたくなってさ」 
「なーんだ。てっきり先輩が俺に会いに来てくれたと思ってました」
「なに気持ちわるいこと言ってんだよ。お前らが学園祭の準備やってるって聞いたから、せっかく差し入れでもしてやろうと思ったんだけどな」
「じょ、冗談っすから! いや、先輩が来てくれたのはもちろん嬉しいっす!」
吉仲があたふたしながら俺のご機嫌をとろうとする。容姿は見違える程になってもこいつも真衣奈同様変わってない。
「ところで真衣奈は?」
「部長っすか? 部長なら図書室にいるはずっす。なんなら呼んできましょうか?」
「別に真衣奈に用があるわけじゃないからいいよ。それより今年の学園祭はなにやるんだ?」
「それがまだ決まってなくて、このままじゃ学園祭に間に合わないっすよ」
「いつもこの時期だったらなにやるか決まってるだろ。いくつか案も出てるだろうし」
「それなんすけど、本当なら先輩たちがやってた劇をやろうって話になってたんすよ。でも、肝心の台本がどこにも見つからなくて、それで話は白紙になったんす」
「劇ってあれか?」
「惑星戦隊プラネタリアっす」
「…………」
その一言に俺のトラウマという名の扉が、ゴゴゴ……と重苦しい音を立てて開いた気がした。
「先輩は台本がどこにあるか知らないっすか?」
「台本か。部室に一冊あったと思うけど……この調子じゃ探すのに手間がかかりそうだな」
部室内を見渡すと学園祭の準備のせいか、部屋の中は元の物置小屋と揶揄されていたころより物で溢れかえっていた。
「まずは部屋の片付けからだな」
「そっすね」
部室の中を片付け始めると、思いのほか手間取った。というのも、片付けを始めたそばから懐かしいものが掘り出されて、その度に手が止まって先に進まないということがしばしば。やっとの思いで三分の一ほど片付いたところで真衣奈が戻ってきた。
「図書室も探したけどやっぱり見当たらなかった……って、先輩? なんでこんなことろにいるの?」
図書室に出かけていた真衣奈が戻ってきた。両手には抱えきれないほどの本を抱えて。
「やっぱり親子だな」
「え、なんの話?」
「こっちの話だ。それよりお目当てのものは見つかったか?」
「それが見当たらなくって……。でもちょうどよかった。先輩は台本どこにあるか知らない?」
「そう思って吉仲と二人で探してたところだ。といっても、結果は見ての通り」
ようやく物置小屋と揶揄されていたころぐらいまで片付いた部屋を見て、真衣奈がため息を吐いた。
「ここになかったら他どこにありそう?」
「俺の家か、もしくは……あいつなら持ってるか」
俺は携帯電話を取り出すと、思い当たる節に連絡を取った。電話の主はよっぽど暇なのか、ツーコールで出た。簡潔に事情を説明すると、すぐに行くと言って電話が切れた。本当に暇だったみたいだ。
「誰にかけてたの?」
「まぁすぐにわかるって。さ、もう少し片付けるか」
三十分後……。
すっかり片付けも終わり、外を眺めながら差し入れに買ったアイスを食べていた。
「遅いっすね先輩の待ち人」
「ん? ああ。もしかしたらどこかで油でも売ってるのかもな」
……それにしても遅いな。あいつのことだからすぐに来ると思っていたのに。携帯を取り出してかけてみる。繋がらない。もしかして探すのに手間取っているのか? それとも見つからなかったのか。
いや、そのどちらであったとしても連絡ぐらいしてくるはずだ。あいつはいい加減なところはあるけど、その辺はちゃんとしている。
「ねぇ、先輩」
「なんだ?」
「わたしなりに考えてみたんだけど、先輩が呼んだ人ってさ、もしかして──」
真衣奈がこちらをじっと見つめる。いや、睨みつけるようにして。
その時だった。
「危ない!」
横から吉仲が叫んだ。はっと窓の外を振り返ると、グラウンドから飛んできたのだろう。白球がこちらめがけて一直線に向かってきているのが見えた。
俺は側にいた真衣奈に覆いかぶさるように倒れこむ。球は俺たちの上をすれすれに通り抜けると、ガンッ! と派手な音を立てて部室のドアに直撃した。
間一髪だった……。そう思ってしまうほど一瞬の出来事だった。
「大丈夫だったか?」
「あ……うん……わたしは大丈夫。先輩こそケガとかしてない?」
「俺も大丈夫だ」
真衣奈を抱えるようにして起き上がろうとすると、吉仲が手を貸してくれた。
「だ、大丈夫っすか!?」
「間一髪だった。お前が教えてくれなかったら直撃してたかもな。助かったよ」
「そんな……。でもなにが飛んできたんすかね……」
吉仲の疑問に俺は思い当たる節があった。もしかしたらその犯人さえも。
「これ……ソフトボールっす。てことは……」
ああ、やっぱりか。その先は聞かなくてもわかっていた。グラウンドではガヤガヤと騒ぐ声が聞こえ、部室棟の廊下ではドタドタと誰かが走ってくる物音が聞こえた。そうだな。この感じならあと数秒後にはドアが開くだろう。そしてきっとこう言うのだろう。
「あ、頭大丈夫だった!?」
やっぱりお前か……。
そこには血相を変えて走ってきた紗季の姿があった。


「いやぁ~ごめんごめん。久しぶりに学校来たら懐かしくなっちゃってさ」
そう悪びれもせず謝ってくるあたり紗季らしいと思った。紗季の話によると、俺からの電話を受けてからすぐに家を出たそうなのだが、学校に着くと俺からの用事も忘れて、グラウンドでソフトボール部の練習試合を眺めていたらしい。しばらくはおとなしく観戦するだけに留まっていたのだが、次第に我慢できなくなった紗季は、無理やり乱入した挙句、エースピッチャーがやる気をなくしてしまうような特大ホームランを天文部の部室にお見舞いしてくれたというわけだ。
……にしても、デジャブというかなんというか。二度あることは三度あるなんて言葉があるが、できることなら三度目は謹んで遠慮願いたい。はたしてそんなことを俺の前を歩く紗季は思っているのやらどうやら……。
部室をあとにした俺たちは、千枝さんが営む店、創作お好み焼きいろはへ向かっていた。これは紗季が言いだしたことで、俺たちに迷惑をかけてしまったお詫びなのだそうだ。きっと本心は、ただ単に運動したからお腹が空いた、辺りだろう。
そんな道すがら、紗季と吉仲は二人で盛り上がっていた。傍から見たらカップルというより姉弟に見えるだろう。
「楽しそうだね二人とも」
俺の傍らを歩く真衣奈がどことなく嬉しそうに言った。
「紗季さんやっぱり変わってなかったね」
「そうだな。人の頭にソフトボールをぶつけようとしてくるところとかな」
「それって偶然じゃないの?」
「偶然にしては出来過ぎな気もするけど、三度目がないことを祈ってるよ」
俺は肩をすくめてみせた。
「こうして見ると外見は大人っぽくなったのに、中身は変わってないんだね。わたし、大人ってもっとすごいものだって思ってた」
「残念ながら、二十歳イコール大人ってわけじゃないんだぞ。あくまで大人って身分を名乗ってもいいってだけで、実際のところ中身は高校生のままだ」
「あ、それわかるかも。先輩もそういうところあるし」
どういうことだろう? と頭をひねって考えてみる。数秒後、それが馬鹿にされていることだと気づいて、仕返しとばかりに真衣奈の頭をわしゃわしゃとなでてやった。
「あー、もう。髪が乱れちゃった……」
「人を馬鹿にした罰だ。自業自得だろ」
「そういうところが子供っぽいっていうのよ。ほんっと大人げないなぁ」
「生憎、子供以上大人未満なんでね」
皮肉には皮肉で返すに限る。真衣奈もこれ以上の反論は無駄だと判断したのか、両手をあげて降参のポーズを取った。俺はポケットからタバコを取り出すと、勝利の余韻に浸るように、火をつけた。
「前から思ってたんだけど、タバコってそんなに美味しいの?」
「どうしてそう思う?」
「先輩いつも吸ってるからかな。あと、タバコ吸ってる時はなんだか考え事してるように見えるし」
「傍からみたらそう見えるんだな」
「それで結局どうなの?」
「まったく美味いなんて思ったことない。むしろ、どうにかして止めれないか考えてるくらいだ」
「なにそれ。意味わかんない」
「そう思うだろ。俺もだ」
真衣奈からしたらからかわれてるように聞こえるかもしれない。しかし、俺がなんでタバコを吸ってるのか? と聞かれても理由なんてわからない。医学的に見ればニコチン中毒なのかもしれないし、もしかしたら習慣のようなものなのかもしれない。止めようと思えばすぐにでも止められると思う。むしろ、吸っているほうが害なのだ。なのに、俺は止めようと思わない。きっと親父のせいだからだ。胸ポケットにあるオイルライターの重さがそれを感じさせた。
俺がタバコを吸い始めたきっかけなんてたまたまだった。高校を卒業して一人暮らしを始めるときに、家の中を片付けていると、古びたオイルライターを見つけた。それは生前親父が愛用していたもので、親父の死後どこかへ紛失したものだと思っていたものだ。当時、親父の遺品はほとんど片付けてしまって、残っているものなんて、遺影とボロボロになったヘルメットくらいなものだった。だからそれを見つけたときは、久しぶりに親父に会った気がして嬉しくなった。とはいえ、高校を卒業したばかりの俺がタバコを吸っているわけもなく、その日初めてタバコを吸ってみた。初めてタバコを吸った感想は……まぁそれはいいだろう。
それでもタバコを吸っているときは、死んだ親父が側にいる気がした。生きていたらお前がタバコなんて百年早いとか言われそうだけど、俺ももうこの年になったんだ。いいだろ親父?
タバコをもみ消すと、ようやく現実に戻ってくる。横を歩いていた真衣奈がなぜか不機嫌そうにしていた。
「どうしたんだ?」
「やっぱり聞いてなかった。あれだけ話しかけてるのに先輩ったら上の空なんだから。それで今度はなにを考えごとしてたの?」
「さぁてね。秘密だ」
「なによそれ。別にいいけど」
そう言うものの、俺がなにを考えていたのか気になるらしく、ちらちら視線を向けてくる辺り、真衣奈の性格が伺えた。とりあえず、話しても真衣奈にとってはさして面白くもない話だろうから、こちらから話題の矛先を変えてやることにする。
「んで、花火大会がどうかしたか?」
「聞こえてたんじゃない。それで先輩は花火大会行くの?」
「今年か? 今年は──」
紗季と一緒に行く。そう言いかけて言葉を飲み込んだ。
「その日バイト入ってるんだ。だから今年は行かない」
「そっか。今年も一緒に行けると思って楽しみにしてたんだけど、バイトなら仕方ないよね」
残念だな。そうつぶやく真衣奈の横顔が痛々しく見えた。そして思う。
どうして俺は嘘をついたのだろうか、と。
「おーい、早く行こうよー」
数歩先を歩く紗季が大きく手を振った。俺も手を振り返す。
「あいつが一番子供っぽいな」
「それが紗季さんらしくっていいんじゃない?」
「そうか?」
「そうだよ」
あんな風に素直に自分を表現できるなんてさ……。真衣奈がそう言った気がした。
「行こ。紗季さん待ってるし」
夕日に照らされ、伸びた影を追って真衣奈が駆け出す。それを追う。なんだか俺まで高校生に戻った気分だった。


花火大会の日になると、神通川の土手沿いにはたくさんの人が集まっていた。色とりどりの浴衣を見ると、花火が見せる彩りとはまた違った花が地上に広がっているように見えた。
普段なら歩けない車道も今は交通規制がなされて、一面、人で賑わっていた。
待ち合わせ場所に選んだバス停の前にもたくさんのひとだかりができていて、どこに誰がいて、いったい誰と待ち合わせているのかさえわからないほどだった。
携帯を取り出して時間を確認する。花火の打ち上げにはまだ十分な時間がある。せっかくなら、店を回ってからゆっくり見ようという紗季の提案からだった。しかし、肝心の紗季の姿が見当たらない。時間通りにやってくるなんてこと自体、珍しいとされてるくらいだから、その辺りは織り込み済みだ。それよりやってきたとして出会えるかどうかのほうが気になった。
夜の帳が落ち始めてきて、少しずつ茜色の空に藍色が混じってきた。それをぼんやりと眺めていると「ハカセ」と、相変わらずの呼び名で俺を呼ぶ紗季の声がした。
「意外と早かったな。もう少し遅れてくると思って……た?」
思わず声が上ずった。無理もない。なぜならそこには俺が今まで見たことのない紗季がいたからだ。
普段なら適当に束ねたり、下ろしたままにした髪はしっかりと結われ、身にまとった浴衣は黒地にあやめが刺繍されていた。髪に刺さったかんざしが彼女の美を一層引き立たせ、艶やかさと清廉さが入り混じったその姿に思わず見とれていた。
「お待たせ。あんまりこういうの着慣れないから手間取っちゃった。どしたの? 変な顔して」
「あ、いや、あまりにもお前らしくなかったからちょっと驚いてた」
「どう? すごいでしょこれ。千枝さんに着付けてもらったんだ。こういうのなんていうんだっけ。馬子にも衣装?」
「それを自分で言うか? あと、褒め言葉じゃないからな」
「え、そうなの? ずっと褒め言葉だと思ってた」
えへへ……と、苦笑いを浮かべているさまは、どんな格好をしていようと紗季のままだった。
「ところでどうかな?」
「どうってなにが」
「似合ってる?」
なにかを期待するように俺の言葉を待つ紗季。こういったときなんて言えば紗季が喜ぶかなんていくら鈍感な俺でもわかっていた。それでも素直に言葉が出てこない。
「どうかな?」
紗季が伺うように俺を見上げた。
「いいんじゃないか? 似合ってると思うぞ」
これほどまでそっけない言葉もないだろう。言った本人がそう思ってるのだから間違いない。しかしそれでも紗季は満足してくれたようで、
「行こっ」
紗季が俺の手を引いて歩き出す。本来ならその仕事は俺の役割なはずだが、上機嫌な紗季を見るに、文句を言うのはためらわれた。
「人いっぱいだね」
「そうだな」
ぐいぐいと先を行こうとする紗季の手を離さないようにしっかりと握り締める。繋いだ手から伝わる温もりが一緒にいるんだと感じさせた。
幸いにも雨は降らなかった。
今日は朝からあまりいい天気ではなかった。天気予報でも午後から天気が崩れるだろうと伝えていたくらいだから、もしかしたら……なんて覚悟もしていた。曇りがかっているせいで、夜空の星は見えなかったけれど、代わりに花火がこの曇った空を艶やかに彩ってくれるに違いない。
整然と並んだ屋台からこぼれる祭り独特の匂い。それは食べ物の匂いだったり、人々の匂いだったりさまざまだ。そういや真衣奈と来ていたころは、もらったお小遣いをなにに使うかでもめていた。それから決まって、大人になったらここにある屋台全部回ってやるなんて息巻いてもいた。この年になって屋台全部とはいかないが、それでもある程度夢に近づいたと思う。なのにそれをしないのはやはり年をとった証拠だろうか。
「ハカセ、次はあれやろ」
そう思っているそばから紗季が射的の屋台を指さした。片手に綿菓子、反対の手には水風船でできたヨーヨーを持って。……元気というか、子供っぽいというか。
「そんなにはしゃぎ回るな。花火上がる前に体力尽きるぞ」
「そんなことないよ。これでもハカセと違って体力には自信あるし。元ソフトボール部員だよわたし。大丈夫だって。それにさ、こうやってハカセとお祭りにくるのって初めてじゃない? だからかな……ちょっとはしゃいでるのかも」
紗季がぺろっと舌を出してごまかすように笑った。俺は知らず頬が熱くなるのを感じていた。
「あ、もしかして照れてる?」
「んなわけねーだろ」
「とか言って本当は嬉しかったんでしょ?」
「バカなこと言ってないで、射的やるんだろ? 持っててやるから早くやれよ」
「そうだった。せっかくだしハカセもやらない?」
「俺はいい。あれって絶対に落ちないようにできてるんだし、やるだけ無駄だろ」
「またそんなこと言って。もしかしてわたしと勝負して負けるのが嫌なんでしょ?」
「誰がそんなこと言った。わかってる結果に無駄な金は払わないってだけだ」
「相変わらず現実主義だね。そんなことだから彼女の一人もできないんだよ」
「それとこれとは話が別だろ。というより余計なお世話だ」
「じゃあさ、射的で勝ったら相手のお願いを聞くっていうのはどう? これならハカセもやる気出るでしょ?」
「だから俺は──」
やらないと言おうとしたところで、紗季が懇願するような目を向けているのに気づいた。どうしてそこまで勝負事にこだわるのか、その真意までは読み取れなかった。
「わかったよ。お前がそこまで言うなら勝負してやる。んで、勝敗はどうやってつけるんだ?」
「それじゃあ一つでも景品を多く落としたほうが勝ちっていうのはどうかな。もし同じ数だけ落としたんだったら、その中で一番高価なものを落としたほうが勝ちってことでどう?」
「乗った。そこまで言ったからには負けてからやっぱりナシって言うなよ」
「それはこっちのセリフだよ。ハカセこそ負けてから文句言わないでよね」
紗季がにやりと口元を歪めた。思えばこのときすでに俺は紗季の術中にまんまとはまっていたのかもしれない。
……数分後。
コルク銃片手に得意げな紗季とうなだれている俺の姿があった。
結果から言うと、紗季が五発で五個の景品を落とし、俺は一つも落とすことができなかった。せいぜい獲得したものといえば、あまりの不甲斐なさに見かねた店主がくれたラムネ菓子ぐらいなものだ。
「大漁大漁! あんなに取れるなんて思わなかったよ」
「……そりゃよかったな」
紗季が俺からひったくったラムネ菓子を口に放りながら横を歩いていた。
「それよりよかったのか?」
「んー、なにがー?」
「せっかく景品落としたのに一個ももらってこなくて」
そうなのだ。紗季は一つも景品を持っていない。紗季が落とした景品の中には、目玉商品であろう最新型ゲーム機もあった。なのに紗季はたった一言、
「邪魔になるからいらない」
と、言ったのだ。
店主からすれば、落ちるはずのないゲーム機が戻ってきたのだから喜ばしいはずなのに、なぜか申し訳なさそうにしていた。
「だってさ、あんなの持ち歩いてたら、せっかくのお祭りが楽しめなくなるじゃない。それにわたしは景品が欲しかったわけじゃないし、勝負に勝てたからそれでいいかなって」
「欲のないやつだな」
「欲なんてゲーム機と同じくらい持ってたって邪魔なだけだよ。それよりもあの話覚えてる?」
「覚えてるよ。勝負に負けたら勝ったほうの言うことをなんでも一つ聞くってことだろ。それでお前はなにが望みなんだ?」
「それはまだ明かさないでおくよ」
「あとで言おうが先に言おうが変わらないだろ」
「わたしは好きなものは最後まで取っておく主義なんでね。あ、そろそろ花火上がるみたいだよ」
訳のわからない理屈を並べ立てる紗季に反論したい気持ちもあったが、花火が打ち上がると聞いてとりあえず矛を収めることにした。
ヒュールル、ドォン、パラパラパラ。
花火の打ち上がりを知らせる一発が上がると、周りから歓声が湧き上がった。
「きれいだね」
「そうだな」
この瞬間だけは何度見てもそう思ってしまう。ありきたりな言葉かもしれない。それでも口をついて出るのはその一言しか考えられなかった。
最初の一発を皮切りに、次々と打ち上がる花火が夏の夜空を彩っていた。
そんな花火に見とれていると、さっきまで横にいたはずの紗季がいないことに気づいた。放っておくと勝手に歩き回るくせは今も健在のようだ。辺りを見回すと、人ごみのなかに紗季の姿を見つけた。紗季はこっちに向かって手招きをしていた。
「勝手に歩き回るな。探すの大変なんだぞ」
「ごめんごめん。でもさ、せっかくだからもうちょっといい場所で見たくない?」
「いい場所ってどこだよ」
「いいからついてきて」
再び紗季に手を引かれて歩き出す。人ごみを抜けて土手から遠ざかっていく。
「どこ行くんだよ」
「もう少しだから待ってて」
紗季が歩く速度を早める。もう少しと言われてどれくらい歩いただろうか、花火の音が遠くに聞こえる。
「着いたよ。ここがわたしのベストスポット」
そう言って連れてこられたのは高校の裏山だった。
「ベストスポットってここか?」
「そうだよ。ここなら他に人もいないし、ほら」
紗季が指差す。さっきまで遠くに感じていた花火が近くに見えた。
「これは……」
「昔ね花火を下から見るか横から見るかって話があってさ、いつもは下から見ている花火が横から見るとどんな風に見えるんだろうって思ってた。下から見ると丸い形をしてるんだったら、横から見たらきっと平べったい形をしてるんだろうなって。ちょっと座ろっか。立ってるのも疲れたし」
足元を見渡すと適当な大きさの岩が転がっていた。その上に二人で腰掛ける。目の前に大きく広がる花火が、ここが世界から切り離されたところだと錯覚させた。紗季が履いていた下駄を脱ぐと、指先を開いたり閉じたりしていた。ずいぶんと楽そうにしているところ、履きなれていなかったのだろう。
「こんな場所あったんだな。知らなかった」
「えっへへ、ここはわたしの秘密の場所なのだよ」
「そんなところに連れてきてもらって光栄だな」
「もっと感謝したまえ。って、言いたいところだけど、これはある意味ハカセへの恩返しみたいなものなんだよね」
「恩返し?」
「うん恩返し。わたしが今こうやっていられるのもハカセのおかげだからね」
「俺なにかしたか?」
「長くなるけど聞くかい?」
「じゃあ遠慮しておく」
「いいから聞きなよ」
「どっちだよ」
やれやれと嘆息していると、紗季が話し始めた。
「わたしがここを見つけたのは高校二年生のころだった。ちょっと周りで嫌なことがあってさ、そんなときに花火大会があって気晴らしに見に行ったんだ。それで子供のころのこと思い出して、横から見てみようって思ったんだ。もしかしたら今とは違った景色が見えるかもしれないってそう思ってさ。でもさ、花火ってさ放射状に広がるから、どこから見ても同じように見えるんだって。わたしそんなことも知らなかったから、横から見ても同じに見えたときはさすがにショックだったな。思わず一緒じゃん! って言っちゃったし」
照れ隠しのように鼻をかく紗季。俺はその先の言葉を待った。
「花火をどこから見てもわたしの見ている景色は変わらなかった。下から見ても横から見ても同じだって気づいちゃったから。だからわたしの景色は灰色のまんまだった。だけどね……たった一つ、たった一つだけわたしの見ている景色に色を与えてくれたものがあったんだ」
紗季が目を細めた。まるで大切ななにかを思い出すかのように。
「わたしの見ている景色に色を与えてくれたのはハカセ、あなたなんだよ」
「俺がか?」
「そう。あのときハカセがわたしに見せてくれた満天の星空が、私の見ていた灰色の景色に色を与えてくれた。もしあのときハカセと星を見ていなかったらわたしの見ている景色はずっと灰色のままだっただろうね。だから恩返し」
ありがとう、そう付け加えるように言った。
「恩返しって、それを言うなら俺もだよ」
「なんで?」
「お前があのとき部室の窓ガラスを割らなかったら、お前と一緒にプラネタリウムを作ったり、バカな話で盛り上がったりなんてできなかった。きっと卒業するまでたった一人で寂しく過ごしてたと思う。お前がいてくれたから俺もなんだかんだで楽しく過ごせた。ありがとう」
改めて紗季に向き直って言う。これは俺がずっと言いたかった言葉だ。恥ずかしくて言えなかったけど、今ならはっきりと言えた。
「な、なんだよー。そんなこと言われてもこの紗季さんは喜んだりしないんだぞ。もう……せっかくハカセを泣かせてやろうと思ったのに……これじゃあ立場が逆じゃない……」
顔を背け浴衣の裾で涙を拭っていた。俺はそんな紗季が愛おしくて思わず頭を撫でた。
「や、やめろよー……」
「いいだろ。どうせ誰もいないんだし」
「……ばかぁ」
そういうものの、紗季は嫌がる素振りもみせずされるがままにしていた。
それから俺たちは一言も話さず、ただただ夜空に咲く花火を眺めていた。言葉はなくても俺には紗季の想いが、紗季には俺の想いが伝わっていた。
そっと紗季の顔を盗み見る。紗季の瞳のなかに、花火が咲いて、散っていった。
全ての花火が打ち上がり、終えると、それまであった優しい空気は消え、あとには寂寥感が残った。
「終わっちゃったね」
「終わっちゃったな」
どちらからともなく言う。そして次に笑いあった。
「なんだかさ学園祭のあとみたいだよね」
「それってどんな」
「楽しかった時間が過ぎ去って、またいつもの日常に戻っていく感じ。祭りのあとの空気感っていうのかな、そんなの」
「そうだな。なんかわかる気がする」
「本当は終わってほしくなんてないのに、必ず終わりってきちゃうんだよね。だからこそその一瞬が楽しく感じるのかも」
「詩人だな。それとも哲学か?」
「そんな高尚なものじゃないよ。ううん、ずっと続いてほしいって思ってるのかも」
「……だな」
紗季がそっと俺の肩に寄りかかってくる。肩にかかる頭一つ分の重さが、彼女を感じさせてくれた。幸せだと思うこのひと時を、俺はいつまでも続くと思っていた。
「ねぇハカセ。聞かせてくれないかな」
「なにを?」
「あのときの答え」
「答え?」
「わたしがバス停の前で言ったこと」
花火大会の帰り道、紗季がそう切り出した。その問いかけに俺はとうとうこの日が来てしまったのだと感じていた。
紗季が言った。終わってほしくないはずの時間。ずっと続いてほしいと願ったその言葉を。俺はその気持ちに向き合わなければならない。俺は彼女とどうなりたいのかを。
「わたしはどんな答えを聞かされてもハカセに対するこの気持ちは変わんないよ。それだけは信じて」
立ち止まりじっと俺の目を見つめる紗季。薄闇のなかでもはっきりとした顔立ちが彼女を改めて美しいと思わせた。
「……俺は」
「うん」
「俺は……お前のことが……」
「うん」
──そのときだった。
「……なにしてるのこんなところで」
声に振り返る。そこにいたのは真衣奈だった。真衣奈も花火大会に来ていたらしく、白を基調とした浴衣に身を包んでいた。
「真衣奈……」
「……なにしてるのこんなところで。先輩今日バイトじゃなかったの……?」 
「それは……」
「嘘ついてたんだ……。そっか……」
「待ってくれ。俺はただ……」
「もういいよ。わかってたから。本当はそういう関係だったんだって。ごめんね邪魔しちゃって」
「違う! 俺たちは──」
「違うってなにが!? バイトだって嘘までついてこうして紗季さんと会ってるじゃない!! それに紗季さんもだよ。紗季さん言ったじゃない先輩とはなにもないって!」
紗季? どうして紗季の名前が? 思わず紗季のほうを見る。なぜか紗季は申し訳なさそうにしていた。
「答えてよ。それとも答えられないことでもあるの?」
「あはは、いやだなぁ。そんなわけないじゃない。ただ、わたしはハカセと花火見てただけだよ」
「なにそれ。そんな言葉でわたしが納得すると思ってるの? バカにするのもいい加減にしてよ」
「バカになんてしてないよ。ハカセとはただの友達づきあい。それでいいじゃない。だから真衣奈ちゃんが気にすることなんてなにもない。気にしすぎだよ」
「そうなんだ。そうやって紗季さんもわたしに嘘をつくんだ」
「嘘? 嘘ってなんのこと?」
紗季の問いかけに真衣奈が笑った。
「わたし知ってるんだよ。二人が海沿いのバス停のところでキスしてたの。これでも違うっていうの?」
紗季が言葉を失った。それは俺もだった。まさか……真衣奈があの場にいたとは思いもしなかった。
「答えないってことは認めたってことでいいよね? 二人してわたしのこと騙してたんだ……。本当は付き合ってたのに嘘をついて……」
「…………」
「もうなにを信じていいのかわからない……。もうこんな思いするくらいなら最初から先輩のことなんて好きにならなければよかった」
「真衣奈……」
「さよなら」
駆け出す真衣奈。俺はその背を追いかけることができなかった。
真衣奈の瞳には涙が見えた。
俺は……また大切ななにかを失ったのだと知った。

第六話

昼前には気温は三十度を超え、このままいくと今年一番の暑さになるだろうと額から汗を流したリポーターが、うちわ片手に伝えていた。テレビから漏れ聞こえる声が遠くに感じる。このままじゃもしかしたら脱水症状で死んでしまうだろう。まぁそのときはそのときで、このまま死んでもいいかもしれないと思っていた。
花火大会の一件以来、真衣奈とは連絡が取れなかった。
あのあと紗季から聞かされた。この街に戻ってきてから真衣奈とたびたび連絡をとっていたことを。真衣奈には俺と付き合ってないと話をしていたことを。それは嘘ではない。それを聞いた上で真衣奈は紗季に恋愛の相談をしていたそうだ。真衣奈の意中の相手は……俺だった。
その事実を聞かされても驚きはさほどなかった。どこかで気づいていたのだろう。それを認めるのが怖かった。その弱さが結果的に真衣奈を傷つけた。
こんな事態を招いたのは俺だ。俺がちゃんと答えを出せていればこんなことにはならなかったはずだ。今さら悔やんでも仕方ない。
ジーワ、ジーワとアブラゼミが小煩く鳴く。
紗季ともあれ以来連絡をとっていない。というより今までは友達としてのやり取りだったのに、あんなことがあってからは、妙に意識をしてしまってなんて送っていいかわからなくなっていた。それは向こうも同じなのかわからないが、いつもだったら紗季の方からどうでもいいような内容のメールがくるはずなのに、ここしばらくそれもない。
無意味に携帯をいじってみる。メールの問い合わせをしてみても新着メールはなかった。ならばとメール画面を開いて適当に文字を打ってみるが、それも思い悩んだ末に消した。
なにやってんだ俺……。
携帯を放り投げゴロンと大の字に寝転がる。すると目に映るすべてが逆さに映った。
今日はいっそ寝て過ごそうか。そう思いまぶたを閉じてみるが、窓の外から聞こえるセミの大合唱と夏の暑さがそれを許してくれなかった。
やれやれと起き上がりもう一度携帯を眺めてみる。時間は五分も経ってなかった。
俺はどうしたらいい……。
考えれば考えるほど答えは出てこなかった。


とあるうらびれた建物の一角、その建物と同じようにくたびれたプレートをぶら下げた部屋があった。
名を『天文部』。以前までなら物置小屋と揶揄されていた教室も、今は学園祭の準備に追われているせいで、もしかしたら以前の物置小屋と揶揄されていた頃のほうがマシだったんじゃないかというぐらい、色んな物で溢れていた。
そんな中、一人の少女が窓際で黄昏ていた。そのさまは見る人が見れば一枚の絵画のようさえ見えたかもしれない、なんてことを胸中で思ってみる。現実はそんな美しいものじゃないけど。はぁ……、とため息を一つ。照らす夕日は美しいのににわたしの中は相反してひどく曇っていた。
自分の心の中を曇らせている原因はわかっていた。それを晴らすための方法も理解している。なのに未だ心の中のもやは晴れることを知らない。八月へと暦が変わり、何週間かすればまた学校が始まる。しばらくしないうちに学園祭や体育祭があって、日々が流れるように過ぎていく。そこから数ヶ月後には自分の将来を決めなければいけない。だからその前に自分のこのもやもやした想いに決着をつけたかった。そう思って誘った水族館でのデート。自分なりにやれることは全てやった。けれど距離は縮まることはなく、平行線をたどってばかり。それどころか、一緒に行きたかった花火大会で一番見たくないものを見てしまった。これ以上どうすればいいのか、もはや悩めば悩むほど答えなんて出ない。
はぁ……と、もう一つため息を漏らす。自分自身をここまで追い詰める元凶、それもこれも全てあの年上の幼馴染のせいだ。
「どうしたらいいんだろ……」
「なんだまだ残ってたのか」
かけられた声にゆっくりとした動作で振り返る。声をかけてきたのは天文部顧問で三年B組の担任教諭でもある、わたしの父親だった。
「なんだ。お父さんか」
「学校でその呼び方はやめろって言っただろ。ここでは椎名先生だ」
「うん。ごめんお父さん」
わたしは半ばからかうようにそう呼んだ。するとお父さんは呆れたように頭を掻いていた。
「……ま、今は俺たちしかいないからいいけどな。んなことよりなにやってたんだこんな時間まで」
「ちょっと考え事」
「そうか。学園祭のことがあるからってあんまり一人で抱え込まなくていいからな。大変だと思うことがあったらいくらでも仲間を頼れ。俺もなにかあったら力貸すから」
お父さんが力強く励ましてくれた。が、見当違いのことを言う父親に、正直苦笑していた。それからお父さんは少し言いにくそうにしながら、
「そういや、お前最近どうなんだ?」
なんて聞いてきた。
「どうってなにが?」
「なにって翔吾だよ。あいつとなにかあったのか? 近頃ずっと家にいるし」
「なにもないよ。もしかしてお父さんわたしが家にいたら邪魔だったりする?」
「そういうわけじゃない。なんていうか父親としての勘というやつか、そんな気がしてな」
「気のせいだよ。心配してくれるのは嬉しいけど、周りに変なこと言いふらさないでよ?」
困ったように笑いながら適当にごまかしておく。普段あまり父親らしいところを見せない割に、こういうところは案外鋭い。今も花火大会であった一連のことを知っているかのように言ってみせた。もちろんわたしはそのことを話していない。たぶんだけど、先輩や紗季さんもそのことは話してないはずだ。なのにお父さんがそう思ったということは、普段からそう思われていたのだろうとわたしは感じていた。
「それならいい。それよりもまだ残ってるのか?」
「もう少ししたら帰るよ。お父さん今日も遅くなるの?」
「俺もしばらくしたら帰る。悪いけど晩飯用意しておいてくれ」
「わかったよ。今日は冷やし中華にするけどそれでいい?」
「それは楽しみだ。んじゃ戸締りちゃんとしろよ」
二、三言話すとお父さんは職員室へと戻っていった。父親の背を見送ってからやり残した仕事にとりかかる。スケジュールの確認だ。これを怠るとまた雄一がうるさい。お調子者のように見えて実は仕事が細かい。ついこの間も指摘を受けたばかりだった。これじゃあどちらが部長なのかわからない。
わたしは学園祭までのスケジュールを確認しながら、けれど頭の中では年上の幼馴染のことを考えていた。それと一番会いたくなかった人の顔。
どうして今になって……。それを思い出すだけで胸が苦しくなった。あの時と同じだ。
「……こんなこと考えてる場合じゃない。終わらせないと」
何度かスケジュールを確認してようやく納得のいく形になった。これを雄一に確認してもらって部員に通達すれば仕事は完了だ。
と、机の上に置かれた一冊の台本に目が止まった。表紙には『惑星戦隊プラネタリア』と書かれていた。内容なんて大したことのない、小学生が書いたようなどこにでもあるようなヒーローの話。ずっと前に、この天文部で青春を送っていた二人の男女が描いた物語。
わたしはこの話を見るたびに思う。なぜ、わたしは彼らと同じ時に生まれなかったのだろう、と。
開いた窓から見えるソフトボール部の練習風景。今日はボールが飛んでくることはなさそうだ。
彼と彼女の出会いはきっと運命だった。では、わたしと彼の出会いはどうなのだろう。生まれたときから彼がそばにいて、自分自身も彼の姿を見続けていた。それでも縮まらない距離。近くて遠い。わたしは手を伸ばす。遠くに見える一番星をつかもうとするけど、手は宙をかすめるだけで星には到底届かない。
どうして届かないの……? どうしてどうして……? すぐそばにあるのに……こんなにも近くに見えるのに……。わたしの手は決して届くことはない。
「……ほんっと遠いな。織姫と彦星みたいだ」
やがて手を伸ばすのを諦めて、開けたままにしていた窓を閉めた。
机の上に広げていた資料や書類を片付けて、わたしは部室を出た。
いつもの通学路を歩いていると、すぐそばを同じ学校の制服を着た数人の生徒が楽しそうに談笑しながら通り過ぎていった。部活の先輩後輩なのだろう。時折敬語が混じっていたけど、それでも打ち解けた雰囲気があってそれがより一層、彼らの仲の良さを伺わせた。
昼間暑かったせいか、気温が穏やかになってくると、空気が湿っぽく感じる。夏草の匂いが鼻をくすぐった。
ふと、わたしは自分が一年生だったころのことを思い出した。
高校に入学したばかりのころはよく先輩と紗季さんと三人で帰っていた。時間にすると十数分程度の時間だったけど、わたしはそのわずかな時間がいつも楽しみで仕方が無かった。時には家に帰らず千枝さんのところに寄ってから帰ることもあった。いつも三人一緒だった。それでも彼と彼女の間にはわたしとは違う特別なつながりのようなものがあった。
わたしはどうしてもその中に入りたかった。最初は友達としてという想いが強かった。一人だけ仲間はずれにされているような気分だったから。それが次第に先輩を取られたくないという気持ちに変わっていった。紗季さんに嫉妬していたのだろう。それでも、紗季さんとは仲良くしていたいという気持ちもあったから複雑だった。
何度か紗季さんに相談しようかと思ったこともあった。紗季さんだったら笑いながら「そりゃあ困ったことになったね」なんて冗談っぽく笑いながら話を聞いてくれただろう。それなのに相談しなかったのは、紗季さんを信頼していなかったというより、紗季さんに遠慮していたからだろう。きっと当時の紗季さんも先輩のことが好きだった。これは間違いじゃないだろう。
それからもわたしたちは、付かず離れずの微妙な距離感を保ちながら一緒にいた。けど、しばらくして紗季さんはわたしたちの前から姿を消した。たった一言の別れの挨拶もなく唐突に。それからは先輩が卒業するまでそれまでと同じように二人で下校をしていた。
お互い紗季さんの話はしなかった。わざとしなかったのかもしれないし、話をしたところで、紗季さんが帰ってくるわけでもないとでも思っていたのだろう。それなのにわたしと先輩の間には一人分の空間が空いていたように見えた。
一つ息を吐き出し空を見上げる。あかね色に染まる空の彼方に藍色が混じっていた。あのころ見た空もこんな感じだった。違うのは今は三人じゃなくて一人だってことぐらいか。
そんな中、一台の自販機に目が止まった。どこにでもある有名な飲料水のメーカーのものだ。わたしは何気なく近寄ってみる。そういえばまだ三人で帰り道を歩いていたころ、よくここで好きな飲み物を買っていた。先輩がボタンを押そうとすると、紗季さんが横から勝手に押していつも先輩に怒られていた。わたしはそんなやりとりが割と好きだった。
財布から小銭を数枚取り出し、いつもどおりミネラルウォーターのボタンを押そうとして、手を止めた。たまには違った飲み物もいいかもしれない。そう思ってコーラのボタンを押すが反応がない。お金が足りないことに気づいた。財布の中を探ってみるがあと十円足りない。……仕方ない。いつものミネラルウォーターにしよう。ボタンを押そうとすると、横から伸びる手があった。その手は手早く足りない十円を投入すると、わたしがたった今押そうとしていたコーラのボタンを押した。ガタンッと大きな音を立ててコーラが出てきた。その音にびっくりして後ろを振り返ると──なぜかさっきまでわたしの思い出の中にいたはずの紗季さんが立っていた。
「紗季……さん……?」
わたしが呆然としていると、紗季さんは商品口からコーラを取り出すとそれをわたしに手渡した。
「ほい、これ真衣奈ちゃんのだよ」
「あ、ありがと……」
「うーん、わたしはなににしよっかなぁ~。わたしも真衣奈ちゃんと同じのにしよっ」
そう言いながら小銭をいれて同じ商品のボタンを押した。さっきと同じ音を立ててコーラが出てくると、紗季さんが押したボタンには売り切れの表示が出ていた。
「お、最後の一個だ。なんかさ自分が買って売り切れになると得した気分になるよね」
紗季さんが嬉しそうにコーラを取り出すのを眺めながら、わたしはなんでここに紗季さんがいるのかという疑問を抱いていた。
「なんで紗季さん……」
「ん? ああ、十円のことなら気にしなくていいよ。それはわたしのおごりってことで」
「そうじゃなくって! なんでここにいるの!?」
「たまたま歩いてたら真衣奈ちゃんがいたから、声かけようかと思ったんだけど、せっかくならサプライズしてみたくって」
「……またバカにしてるの?」
「……ごめん。茶化したね。本当は真衣奈ちゃんと話がしたくってさ」
「わたしには話すことなんてない」
「わかってるよ。だからさ、せめてわたしが出した十円分ぐらいは話を聞いてくれないかな?」
そう言って紗季さんはわたしが持っていたコーラを指さした。
「……」
わたしは迷っていた。本当なら紗季さんとは会いたくなかった。けど、もう一度だけ会って話をしたかったのも事実だった。
「……じゃあ十円分だけなら」
渋々といった体を装いながら答えると、紗季さんは静かにありがとうと笑ってみせた。


俺が起きた時にはすっかり日も暮れていた。ダラダラとしているうちに寝ていたらしい。昼に聞こえていたセミの大合唱もなりを潜め、代わりに近所の小学生が家へと帰る声が聞こえた。
一日を無駄にした気分だった。少なくとも間違ってなんかいないのだけど、その事実が無性に腹立たしかった。
ゆるゆると体をほぐしていく。変な体勢で寝てたせいか、体が重かった。ついでに言うと、喉も渇いていた。
冷蔵庫を空けると、入っていたはずの麦茶は底をついていて、中はがらんとしていた。そういやいつもなら真衣奈がなんでも準備してくれてた。それが真衣奈の手助けなしじゃ途端にこれだ。とんだ甲斐性なしだ。
やがて俺は冷蔵庫の扉を閉めると、寝汗でびしょびしょになった服を着替えてから、テーブルの上に置いてある財布をズボンのポケットに押し込んだ。今日は久しぶりに千枝さんのところにでも行ってみよう。もしかしたら大樹もいるかもしれない。
部屋を出ようとして、ふと、ドアの前で立ち止まる。部屋の中を見渡すと、狭いと思っていたはずの部屋を、どうしてだか広く感じていた。
ああそうか。この部屋は二人じゃ狭いけど、一人だとこんなに広いんだな。
一人足す一人、引く一人、イコール、一人。この部屋はただ単にもともとのあるべき姿に戻ったに過ぎない。
それでいい。
これでよかったんだ。
俺はそんな戻らない時計の針を思いながら、そっと部屋のドアを開けたのだった。


「それで話したいことってなに?」
紗季さんとわたしは、自販機近くにある神社のベンチに横並びに座っていた。この神社も三人で帰っていたころよく立ち寄っていた。ベンチのそばの大銀杏が日傘がわりになってくれて、夏の暑い日でもこの下だけは涼しかった。
わたしはじっと紗季さんを睨みつける。正確にはジッと見つめていただけだった。けど、この険悪な雰囲気のなかではあながち間違ってないと思う。
紗季さんが買ったばかりのコーラのふたを開けた。プシュッ、と炭酸の弾ける音がした。わたしも思い出したようにふたを開けた。すっとした炭酸の感触が喉の奥に伝わる。紗季さんはどう切り出そうかと言葉を探しているように見えた。
「あのさ……この間の花火大会のことだけど、わたしずっと真衣奈ちゃんに謝らなきゃって思ってたんだ」
「……謝る? なにを」
「真衣奈ちゃんにちゃんとわたしの気持ちを伝えてなかったこと。そのせいで真衣奈ちゃんを騙す形になったこと。真衣奈ちゃんがハカセのこと好きだってわかってたのにあんなことして……本当にごめんなさい」
紗季さんが深々と頭を下げる。わたしはどこか冷めた目でそれを見ていた。
「別に紗季さんが謝ることじゃないと思うよ。だってわたし紗季さんの気持ち知ってたし」
「……?」
「多分、気づいていなかったのって紗季さんと先輩ぐらいなものだと思うよ。紗季さん、自分では隠せてるつもりだったんだろうけど、傍から見てたらけっこうバレバレだったから」
「そ、そうなの……?」
「そうだよ。紗季さんって嘘つけない人じゃない。それぐらいわかるよ」
言って思わず自分で笑いそうになった。そのぐらいわかっていたのに、それでも紗季さんを責めた自分に。理由は……わかってる。本当に責めたかったのは自分自身に対してだ。紗季さんはいつだってわたしができなかったことを平然とやってみせた。そんな紗季さんが、いつも眩しく見えた。
いつだってそう。
いつだって紗季さんはわたしにとって憧れだったから──。


わたしのもとにその電話がかかってきたのは六月の終わりごろだった。
「もしもし真衣奈ちゃん? わたしわたし。紗季だけど覚えてる?」
「紗季さん?」
突然かかってきた思わぬ人物からの電話に、わたしは喜ぶどころかたじろいでいた。とにかく、落ち着いて話をしよう。
「もしもし、紗季さん?」
「はいはい。紗季さんですよー。そういうあなたは真衣奈ちゃん?」
「その感じやっぱり紗季さんだ。お久しぶりです」
「久しぶり。元気してた?」
「元気にしてたよ。そういう紗季さんは?」
「わたしも元気元気! 毎日元気すぎて落ち着かないくらいだよ」
何年ぶりかに聞いた紗季さんの声はあのころとまったく変わってなくて、電話の向こうでも紗季さんがどんな顔をしているのか容易に想像できた。
「それでどうかしたの?」
「いや~この間街で偶然ハカセに会ってさ。それで懐かしくなってついかけちゃった」
「先輩から聞いてるよ。なんか紗季は何年っても紗季のままだって言ってた」
「おやおや、それってどういうことなのかなぁ? 今度会ったとき問いただす必要がありますな」
「お手柔らかにしてあげてください」
久しぶりに話す紗季さんとの電話は楽しさのあまり、思いのほか長くなってしまって気が付けば日付が変わっていた。
「もうこんな時間だ。ごめんね長い間付き合わせて」
「ううん、わたしも楽しかったし」
「それならよかった。そうだ、今度時間あったらゆっくり話でもしない? たまには二人っきりでガールズトークなんてね」
「じゃあいつにする? 今度の休みとか?」
「じゃあその日にしよう」
こうして紗季さんと会う予定ができると、わたしは彼女と会うのが待ち遠しい反面、その日がくることにどことなく緊張していた。
次の休みの日、わたしは紗季さんと街に出かけた。二年ぶりに再開した紗季さんはやっぱり想像したとおり美人になっていた。まだ高校生だったころの雰囲気は残っているものの、それでもわたしから見たら大人の女性に見えた。
「真衣奈ちゃんずいぶん大人っぽくなったよね。おねーさんびっくりだよ」
「またそんなこと言って。紗季さんのほうがずっと大人に見えるよ」
「そうかなぁ? まぁ今日は真衣奈ちゃんとデートだから張り切っちゃったかな」
「デートって女二人で?」
「今夜は寝かさないよハニー」
「あはは。なに言ってるんですか、もう」
紗季さんが声色を変えて囁いてくる。外見は変わっても中身はあのころの紗季さんのままだった。それからわたしたちは適当にウィンドウショッピングを楽しんだあと、駅近くの公園にあるカフェで色んな話をした。やはり電話越しじゃ話し足りなかったらしく、お互いに喉が痛くなるほど色んな話をした。高校のころの話だったり、今身の回りで起きている話だったり、あとは共通の友人でもある先輩の話などなど。
「そんなに人数増えだんだ。それじゃあ今年の天文部はなんでもできそうだね」
紗季さんが嬉しそうに声を上げた。というのも今年度に入って天文部の部員は大いに増えた。それまで二年生と三年生を合わせてやっと十人だったのに、これまで活動してきた実績が認められたのか、新入生で入部したいという人が十人もやってきた。そのおかげで、文化系の部活で吹奏楽部並にとはいかないが、それなりの大所帯になった。天文部に所属していた先輩でもある紗季さんとしては、卒業した今となってもそれが嬉しいのだろう。
「なんだか感慨深いね。わたしがあの部に入ったころなんて潰れかけで、部員も二人しかいなかったのに」
ふっと力を抜いて遠くを見つめる紗季さん。わたしはそのころの話を聞きたいと思った。
「紗季さんは戻りたいって思う?」
「ん、急にどうしたの?」
「なんとなくだけど、紗季さんは高校生に戻りたいのかなって思って」
「どうだろね。戻りたくないって言ったら嘘になるけど、今のほうがいいのかも。高校生になったら勉強しないといけないし」
「紗季さんらしいね」
「冗談だよ。あ、少し本音だけど。でもね、きっとやり残したことがあるから戻りたいって思うんだと思う」
「やり残したこと?」
「うん。わたしね一つだけやり残したことがあるんだ」
そう言って紗季さんは目を細めた。
「高校生のころってさ、毎日が楽しくて、辛くて、色んなことがめまぐるしく起こって、一日があっという間に過ぎていくのに、その中で将来のこととか考えたりしないといけないし、すごく大変。生きるのに精一杯なんだと思う。やりたいこともたくさんあって、でもなにから手をつけていいかわかんなくて、そうしてる間に三年間が過ぎて卒業。学校に通ってるときは早く卒業したいとか勉強が面倒だとか文句ばっかり言ってたのに、それがなくなっちゃうとどうしてあの時ちゃんとしなかったんだろうって後悔ばっかり。自分勝手だよね」
ふふっと口元だけで笑って、一区切りつけるようにコーヒーに口をつけた。わたしもそれにならって喉を潤す。
「わたしも……わたしもいつかそうなるのかな」
「真衣奈ちゃんはやり残したことあるの?」
「どうだろ。今高校生やってるからそこまで考えたことないよ」
「それもそっか。じゃあ年上のおねーさんからアドバイスをあげよう」
「アドバイス?」
「そ。人生なんてあっという間なんだからやりたいことがあったらすぐにやること。どうしようって迷ってる暇があるなら悩む前にやってみる。それで後悔してもやらないよりはいいと思う!」
「アドバイスって割に軽いなぁ。紗季さんのこれからが心配になるよ」
わたしは呆れたように笑った。
でも──、
「わたしもそんな風になれるかな」
「大丈夫。その点についてはわたしが保証するよ」
紗季さんが胸を張ってアピールしていた。ほんっとどこからこの根拠のない自信が溢れるのだろう……。
「じゃあ紗季さんを信じる」
「うん。頑張れ」
紗季さんが拳を突き出す。わたしも同じように拳を作って合わせた。
それからというもの紗季さんはいろいろと世話を焼いてくれた。転校する前から世話焼きだということはわかっていたけど、再会してからはそれがさらに過剰になった気がする。姉というよりはお母さんみたいだと思った。
これはある時の電話での内容だ。
「真衣奈ちゃんは恋とかしてる?」
「恋? んー、どうだろ」
「真衣奈ちゃんくらいの美人さんだったら言い寄ってくる男の一人や二人くらいいるでしょ」
「えー、そんなのいないよー」
「またまたー、そんなこと言って本当はいるんじゃないのー?」
「ご想像にお任せします」
紗季さんからの追求をなんとか払い除け、また他愛もない会話が続いていた。そんな中、わたしはずっと気になっていたことを聞いてみた。
「ねぇ、紗季さん」
「なにー?」
「紗季さんって先輩のことどう思ってるの?」
「どう思ってるってー?」
「なんていうか、言葉通りの意味で」
「そうだなー、わたしにとってハカセは大事な友達かな。一緒にいてなんだか落ち着くっていうか、楽しい気分になるっていうかそんな感じ。……なんかこんなふうにいうと照れくさいね」
えへへ、と紗季さんは照れくさそうに笑った。
紗季さんの言った『友達』という響きの中に込められた感情。電話の向こうからでも紗季さんがわたしに嘘をついていることぐらいわかった。もともと紗季さんは嘘をつくのがとても下手だった。そのくせ誰かのことを気にしすぎて遠慮する。きっと紗季さんはわたしの話を聞いてる間も先輩のことを想っていたはずだ。それなのに自分の気持ちにふたをしてわたしのことばかり考えて……。
「ずるいなぁ……紗季さんは」
電話を切ったあとでわたしは泣いていた。紗季さんの優しさに対してじゃない。紗季さんの気持ちに気づいていたはずなのに、それに気づかないようにしていたことに腹がたったからだ。
だから紗季さんが先輩のことを好きだってわかったときは、嬉しくもあったけど、同時に焦りも感じていた。きっと先輩は紗季さんに惹かれている。そして紗季さんも。
だから偶然とはいえ、先輩が紗季さんとキスをしていたのを見てしまったときだって、本当は嫌だったし、なにもかも投げ出して見ないふりをしたかった。なのにわたしは心のどこかで納得していた。最初からこうあるべきだったのだって。


「だからさ、紗季さんがわたしに謝る必要なんてどこにもないんだよ」
「…………」
「……それにさ、本当に謝らないといけないのは紗季さんじゃなくて、わたしのほうなんだよ」
「なんで?」
「……わたしだって、わたしだって紗季さんの気持ち知ってたのに、それなのに勝手に裏切られたって思って……」
「そんなこと……」
「そんなことあるよ! わたし紗季さんにずっと嫉妬してた! 紗季さんがいつも先輩と一緒にいるって考えるとすごいもやもやしてた! 今だけじゃないの。ずっと……ずっとそう思ってた! 紗季さんが先輩の前に現れたときからずっと。いつか紗季さんに先輩を取られちゃうんじゃないかってそう思ってた。だから紗季さんが転校しちゃったとき、わたし悲しいって思う前にほっとしてたの!」
「……」
「今だってそう。紗季さんがこの街に帰ってきてくれて、久しぶりに連絡くれて、いっぱいいっぱいわたしの話聞いてくれて、わたしがいつも先輩の話するたびに、うん、そうだね。うん、大丈夫だよ。って励ましてくれて、本当なら紗季さんだって先輩のこと好きなのに、自分のこと棚にあげて、卑怯だよ!」
「ひ、卑怯……!?」
「卑怯だよ! なんでそんなに優しいの!? なんでそんなにわたしの心配ばかりしてるの!? なんでそんな風に笑っていられるの!? なんで! なんで!?」
わたしの中に溜まっていた色んな想いが溢れ出す。嫉妬だとか憧れだとかもう言葉にならないほどぐちゃぐちゃしたものがいっぱい!
「紗季さんバカだよ! 今だってこうやって私なんかに会うためだけに変な理由つけてさ! なんなの十円分って!? 公衆電話!? 今時、十円程度じゃ十秒も話せないわよ!」
「ご、ごめんなさい……」
「わたしだって紗季さんにちゃんとごめんって言いたかった! ちゃんとありがとうって言いたかった! 紗季さんが先輩に恋してるってわかってたんだったら応援したかった! 二人で先輩の悪口言い合ったり、どんな人が好きなのか話したかった! たまには先輩抜きで二人で遊びに行ったりして、もっと友達みたいに過ごしたかった! それなのにそれなのに! うわぁぁぁぁぁ!!」
もうどうにもならなかった。わたしはありったけの感情をぶつけることしかできなかった。半ば飛びかかるようにして紗季さんに抱きつくと、一瞬驚いていたものの、そっと抱きしめてくれた。
「紗季さん! 紗季さんごめんなさい!」
「大丈夫! 大丈夫だから!」
大声で泣き叫ぶわたしに紗季さんはただ大丈夫と繰り返した。
泣きつかれてようやくおとなしくなったわたしは、紗季さんに膝枕されていた。
「……ごめんね紗季さん」
「もういいって。それよりも落ち着いた?」
「……うん」
ゆっくりと体を起こそうとすると、紗季さんにもう少しこうしてていいよ、と促された。こうしているのは恥ずかしかったけど、それ以上にこうされているのは心地よかった。
「紗季さんお母さんみたい」
「……失礼だなぁ。まだこれでも二十歳だよ?」
紗季さんがムッとした表情で言う。でも、その奥にある本当は怒っていない、むしろその逆の感情が見えて、やっぱり嘘のつけない人なんだと思った。
「聞いてくれる?」
「うん。なに?」
「わたしさ、あんなことあったあとだけど、やっぱり先輩のことが好き。それは今でも変わらない」
「うん」
「きっとさ、わたしの恋のライバルってものすごく強敵で、わたしなんかが勝てる要素なんて一つもないって思う」
「うん」
「それでもさ、わたしはわたしなりにこの恋にちゃんと決着をつけたいって思ってる。例えそれがどんな結果になったとしても」
「……うん」
「だから紗季さんには見届けてほしいんだ。わたしが紗季さんの友達でいたいから」
ゆっくりと体を起こす。じっと紗季さんの目を見つめる。紗季さんがいつかのときのように拳を突き出した。ガンバレのサインだ。わたしはそっと拳を合わせた。
「わたし負けないから」
「手ごわそうな相手だ」
ふふっと笑い合う。
わたしにもう迷いはなかった。


「なるほどね。最近、あの子の様子がおかしいと思ってたらそんなことが……」
俺が花火大会であったことを話すと、千枝さんが笑うでも呆れるでもなく、俺と同じようにビールを飲んでいた。
「んで、あんたはこんなところでわたしに愚痴ってる、と」
すると千枝さんが持っていたジョッキをドンッ! とカウンターに叩きつけた。
「なんでまだ返事してないのさ! 紗季はあんたからの返事を待ってんだろ?」
「……俺は」
「いい加減にしなよ! あんただって子供じゃないんだ。わかってんだろ? 相手が自分のことをどう思っていて、自分がその相手とどうなりたいのかを」
千枝さんが強い眼差しで俺を見つめてくる。その眼差しに普段からみせるおちゃらけた雰囲気は感じられない。それどころか、答えを出そうとしない俺に腹を立てているようにさえ見えた。
「あんたさ。いつまでそうしてるつもり? いつまでも選べないって待たせるつもり? このままじゃあの子が可哀そうだよ……」
「そんなんじゃ……」
「じゃあ、なんでこうしてうじうじしてんのさ」
「そんなこと千枝さんに関係ないだろ!」
「関係ないってどういうことさ! あたしは、これでもあんたたちのことを心配して──」
「それが余計なお世話だって言ってんだろ!」
俺も、たまらず持っていたジョッキをカウンターに叩きつけた。まだ残っていた中身があふれて、カウンターを濡らした。
「……わかってるよそんなこと。でもさ……どうしたらいいかわかんないんだよ」
俺はずっと悩んでいた。
紗季から告白されたあの日からずっと。
紗季と過ごしながら、真衣奈と過ごしながら。
俺はどうなりたいのかをずっと考えていた。
きっと俺は紗季のことが好きだ。
けれどそれと同じくらいに真衣奈のことも好きだと思う。
だからこそ俺は選べない。
どちらかを選ぶということはどちらかとは一緒にいられなくなる。それは恋人としてでなくてもだ。
「……選ばないことが悪いってわかってる。いつまでも返事を出さずにいれば、ずっとこのままでいられるって……。そう思うのが卑怯だってこともわかってる。だからってどうすればいい! どうして俺なんだよ! どうしてもどちらかを選ばないといけないのかよ!」
わかってる。自分でも支離滅裂なことを言ってることぐらい。なのに、頭でそうわかっているくせに俺の心はいうことを聞いてくれない。
「わかってんだよ! ちゃんと返事をしないといけないってことぐらい。紗季の想いに答えなきゃって思ってる。けど、それと同じくらいに真衣奈のことも好きなんだ! じゃあどうすればいいんだよ! 教えてくれよ千枝さん! 俺はどうすればいい!」
俺の口からとめどなく溢れる心の痛みを俺は抑えられなかった。誰かを好きになることがこんなにも辛いってことを初めて知った。
俺がずっと抱えてきた痛み。ようやくそれを吐き出し終えると、俺は力が抜けたようにカウンターに突っ伏していた。いや、安堵から脱力していた。
「あんたの気持ちはよくわかったよ。悪かったね。焚きつけるような真似して」
「……いいよ。俺も誰かに話してすっきりしたから」
「そうかい」
優しい言葉と一緒に栓の空いたラムネが置かれていた。これは? と視線だけで聞くと「あたしからのおごりだ」と言われた。
「ま、あたしもさ、大層なこと言ってる割にはずいぶん不器用に生きてきたからねぇ。だから一生懸命な子を見ると応援したくなるのさ。もちろん、あんたもその一人だよ」
千枝さんがそっと俺の頭を撫でる。その感触がずっと昔、友達とケンカして、落ち込んでいたときに親父が撫でてくれたのと同じで、俺はたまらず泣き出していた。


そして次の日俺は真衣奈に呼び出された。
指定された場所は、俺たちが小さなころよく遊んでいた公園だった。
「ここに来るのも久しぶりだよね」
真衣奈がコーラ片手に、ブランコに乗って揺れていた。
「お前、またコーラ飲むようになったのか」
「いろいろあってさ。たまにはいいかなって」
「そっか」
真衣奈のちょっとした変化に俺は驚いていた。たった数日会わなかっただけでこの変化だ。なにがあったのか聞いてみたい気もした。
「それより話ってなんだ」
もう少し世間話をしたかった気持ちもあったが、そうやって時間を引き延ばすことを真衣奈も俺も望んでない。唐突な気もしたが、真衣奈自身、覚悟していた風で、大きくブランコから飛び降りると、
「わたし、先輩のことが好き」
一点の曇りもない眼差しで俺に告白をした。
「ずっとずっと先輩が好きだった。もちろんこの想いは紗季さんにだって負けてない。ううん、負けたくない」
初めて真衣奈の気持ちを聞いた気がした。いや、俺が耳を傾けてなかったんだ。
真衣奈は俺のことが好きだと言った。
まっすぐな気持ちを俺に伝えてくれた。
だったら俺もちゃんと答えないといけない。
たとえ、その答えが“彼女”の望まない答えであったとしても。
「真衣奈」
俺が真衣奈の名を呼ぶと、彼女はビクッと体を震わせた。
「俺さ、お前とはお前が生まれたときからずっと一緒で、どこへ行っても、なにをするにしてもいつも隣にお前がいた。それがいつの間にかそうすることが当たり前みたいに思ってて、きっとこんな風にずっと一緒に過ごしていけるんだと思ってた。だから、ずっとお前の気持ちに気づかないフリしてた。もし、俺がお前のことを受け入れてしまったら、この関係が変わってしまいそうな気がして、すごく怖かった」
「そんなの……わたしも一緒だよ」
「だからさ、俺はお前から逃げた。お前の気持ちに気づかないフリをして、お前の気持ちを聞かないようにしていればこのままでいられるなんて、そんな甘い考えを持ってた。……そんなわけないのにな」
「バカだよね先輩。……お兄ちゃん」
「ああ、バカだよな。大バカだよ。んなことわかってんだよ。だからそれを承知で聞いて欲しい」
俺はわずかな間をとった。俺がこれから言おうとしていることは、傍から聞いてると本当にバカみたいなことだと思う。それでも俺は、ほかになんて伝えていいかなんてわからない。器用じゃないんだ。なら、器用じゃないなりにもやりかたはある。
「真衣奈! 俺は……俺もお前のことが好きだ! 世界中の誰よりもお前が好きだ! お前のちょっとすました横顔も、たまにからかうと本気で怒るところも、たまに人の話を聞いてないところも、ちゃんとしているように見えて実は子供っぽいところも、努力してないように見えて人一倍努力してるところも、甘いもの食べると幸せそうな顔をするところも、案外寝顔がだらしないところも、ちょっと濃い味付けの唐揚げも、全部全部好きだ!」
「は!? なに言ってんの!?」
真衣奈が慌てふためいていた。
わかってる。これだけ恥ずかしい告白もないだろう。
「俺はお前のことが好きだ! だから改めて言う。俺と付き合ってくれ!」
真衣奈に向かって俺は手を差し出した。
これは俺のけじめだ。俺が真衣奈の気持ちから目をそらし続けていた結果だ。
それももう終わりだ。
答えは──。
「……バカ。待たせすぎだよ」
真衣奈が俺の手を取った。俺はたまらず真衣奈を抱きしめていた。
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん!?」
「はは、真衣奈がすぐ近くにいる」
「く、苦しいってば! 離してよ!」
真衣奈が声を荒げる。けれど離れようとはしない。
「こんなに近かったんだな俺たち」
「……うん。そうだよ」
真衣奈をもう一度ぎゅっと抱きしめる。
ここに来るまでずいぶん遠回りしたけど、離れたりしない。
俺はもう間違えたりしない。きっと──。


「そっか。それは残念だ」
真衣奈に告白したその日、俺は紗季からの返事を出した。
電話のむこうで紗季は意気消沈するでもなく、意外にもあっけらかんとしていた。
「残念って言う割には、あんまり残念そうに聞こえないな」
「そうかな? これでも振られた身としては今にも泣き出しそうなんだけどなぁ」
言葉を聞くだけならそうなんだろうと受け取ってしまいそうだが、思いのほか紗季の声は弾んでいるように聞こえた。
「そんなことよりも、真衣奈ちゃんとはどうなのさ」
「どうって?」
「告白してお互いの気持ちを確かめあったんでしょ?」
「……まぁ、そうだけど」
「キスとかした?」
「するか!」
「えー、せっかくカップルになったんだから、キスの一つや二つぐらいしたらいいじゃん」
「……もう切ってもいいか?」
「わー! 冗談! 冗談だから! ……でもさ、ハカセが真衣奈ちゃんと付き合っちゃったら、こうやって話したりする機会も少なくなるんだろうね」
「そんな淋しいこと言うなよ。真衣奈だってお前だったら許してくれるだろ」
「ハカセはそうやって浮気してくんだね」
「するか!」
なんだかどっと疲れがこみ上げてきた……。
「にしても、わたしとしては残念な結果になったけど、これはこれで望んだ結果なんだよね」
「どういうことだ?」
「わたしさ、二人のこと大好きだから、そんな二人が一緒になってくれて嬉しいんだ」
電話のむこうで紗季がどんな顔をしてるのか、顔は見えないはずなのにありありと想像できた。
「だからさ、ハカセはちゃんと真衣奈ちゃんの手を握っててあげてね」
──わたしはそれを見届けることができないから。
「え? 今なんて」
俺が聞き返す前に紗季からの通話が途切れた。
「……なんなんだ」
紗季が言い残した言葉。どういうことだ……?
そのときの俺は深く考えてなかった。そのあとに待っている結末を知るまでは。


「……これで良かったんだよね」
わたしは静かに携帯の通話ボタンを押した。残ったのは彼との通話時間の表示。時間にすると十分もなかった。
わたしは大きく伸びをした。硬直した筋肉がほぐれていく。
さて、最後の仕事も終わったし、もう思い残すことはない。
これで二度と彼と会うことも、話をすることもないだろう。
「バイバイ、ハカセ。真衣奈ちゃんと幸せにね」
わたしは彼がいる二〇五号室に別れを告げると、振り返ることなく歩きだした。

第七話

「先輩、明日って何時に来るの?」
真衣奈がいつものように夕飯の準備をしながら言った。付き合ってから一週間、相変わらず俺を先輩と呼んでいた。それを真衣奈に言うと、すぐに呼び方を変えられないということだった。無理して変えるようなことでもなかったからそのままにしているが、そのうち違う呼び方で呼ばれるのかと思うと、少し照れくさくなった。
「昼ぐらいになると思う。なにかあったか?」
「もし来るんだったらお弁当作っていこうかなってさ」
「じゃあ必ず昼には行くようにする。楽しみだな」
「そう言われちゃ手を抜くわけにいかないね。頑張らなくちゃ」
真衣奈が料理を運んできた。今日のメニューは念願の肉じゃがだった。
テレビでは天気予報が流れていて、明日は全国的に晴れだと伝えていた。
「あした晴れるって。明日も暑くなりそうだな」
「ちゃんと日焼け止め塗らないとね」
たわいもない感想を述べながら、出来たばかりの肉じゃがに箸を伸ばす。うん、美味い。
「……紗季さんどこ行ったのかな」
真衣奈がポツリと呟いた。俺は肉じゃがに夢中になっていて、聞こえていないフリをした。
紗季が再び俺たちの前から姿を消した。
あの時と同じように別れの言葉もなく。
「なにか事情があるんだよね……」
真衣奈が不安そうに視線を落とす。俺は「さぁな」としか言えなかった。
紗季がいなくなったのは、俺が告白の返事をした次の日だった。いつまでたっても仕事に来ない紗季を心配した千枝さんが、住んでいるアパートに行くと、紗季の姿はおろか、荷物も最低限のものだけ持っていなくなっていたらしい。事件性なども疑われたが、部屋が荒らされた形跡がなかったことと、部屋にあったキャリーバッグがなくなっていたことから、その可能性はないと判断された。
千枝さんは「昔っからどこでもふらふらとどこかへ行っちゃう子だったからねぇ。そのうちひょっこり帰ってくるよきっと」などと、対して心配していなさそうな素振りだったが、あれは明らかに動揺していた。
なにかある。俺がそう思うのに時間はかからなかった。
紗季、お前どこに行った──?


約束通り昼前に学校へ行くと、俺が来るのを見越していたように吉仲が校門の前にいた。
「先輩! お疲れっす」
満面の笑みを浮かべる吉仲に「おう」と軽く手をあげた。
「なんだ、出迎えはお前だけか?」
「俺だけじゃ不満ですか?」
吉仲が瞳を潤ませて耳元で囁いてくる。それ、気持ち悪いからやめてくれ。
俺は吉仲を押しのけながら言う。
「他の部員は?」
「部長なら部室にいるはずっす」
吉仲がなぜか質問とは違う答えを返してきた。きっとわかってやってるに違いない。
「それで首尾は」
「んー、半々ってところっすね」
現状は半々、夏休みも終わりに近づいてきて学園祭までほとんど時間がない。もう少しペースを上げる必要があるかもしれない。
「なら今日はビシビシいくか」
「うげー……お手柔らかに頼むっすよ」
日差しを避けるように校内へと入る。ここしばらく学園祭の手伝いで学校に通っていた。部室へ向かう道すがら、吉仲がずっと喋っていた。適当な相槌をうちながら校内を見渡す。卒業して二年が経っていても、校舎は思い出の中のままで安心した。
階段を上がって廊下の突き当たり、天文部と書かれた見慣れたプレートが見えてきた。
吉仲が先に入る。俺もあとに続いて中に入った。
「あ、先輩。早かったね」
吉仲が一緒にいるからか、真衣奈が少しそっけなく言う。衣装のチェックをしていたようだ。
「腹が減ってたからな。急いできた」
冗談半分、本音半分を織り交ぜながら、近くに空いてたイスに座った。
「もうちょっと待ってて。あとちょっとで終わるから」
「慌てなくていいぞ」
「わかってるって」
「それじゃ俺はこのへんで」
「お前もどこか行くのか?」
「こう見えても監督兼舞台演出っすから、演者がちゃんと仕事してるか見に行かないと。あ、ふたりの邪魔になるからとかそんな下世話なこと考えてないっすからね」
ウインクしながら言われても説得力がない。ちなみにこんな口調から軽そうに見えるが、こう見えて責任感は誰よりも強く、成績は学年で五本の指に入るそうだ。人は見かけによらない。
バタンとドアが閉まる。彼の背中を見送りながら真衣奈が「それが余計なお世話よ」と苦笑混じりに悪態をついていた。
騒がしいのがいなくなると、途端に静かになる。話すことがないからじゃない。吉仲にあんなことを言われたから妙に意識してしまっているだけだ。
「俺も手伝おうか」
「じゃあこっちお願い」
真衣奈から衣装の一つを受け取ると、汚れやほころびがないか入念にチェックしていく。渡された衣装はレッドマーズ、かつて俺が着ていた衣装だった。
「懐かしい?」
声に振り向くと真衣奈が笑っていた。
「二年ぶりの対面だね」
「そんな感動的なものか?」
「思い出には残ってるでしょ」
真衣奈は衣装のチェックを終えたらしく、それを丁寧にたたんでいた。
「今回は誰がやるんだマーズ」
「今年はコバがマーズ役だよ。一年のころから憧れてたから念願叶ったって喜んでた」
「意外だな。俺は吉仲がやるもんだと思ってた」
俺のイメージではコバこと小林はブラックサターン役でリーダー的存在のレッドマーズは吉仲だと思っていた。それがどういうわけか、違ったらしい。
「わたしも今回のキャスト決めるときに同じこと思ったよ。もちろん、部員のみんなも。それなのに雄一が辞退したの」
「なんでまた」
「理由は教えてくれなかったけど、一言だけ『俺には荷が重い』って言ってた」
「荷が重いねぇ」
レッドをやりたいやつがいるかと思えば、それを断るやつもいる。そしてその重い荷を平気な顔をしてぶん投げてくるやつもまた、決して広くないこの世の中にいることを十分理解してほしいものだ。
「もしかして紗季さんのこと考えてる?」
反射的だったのだろうが、ぎょっとしていたのかもしれない。その証拠に真衣奈が心配そうに見つめていた。
「違うよ。そんなんじゃない」
俺は思ったことを振り払うように手元の衣装に目を落とした。
一時間もあれば衣装のチェックは終わってしまった。真衣奈特製のお弁当に舌鼓を打ったあとは現役部員の演技指導をしなくてはならない。というより、俺の本来の仕事はこっちのほうだ。体育館にいく道すがら、真衣奈から預かった台本に目を通していた。
俺たちが作ったプラネタリアは実は毎年少しずつアレンジが加えられている。俺たちが演じたプラネタリアは、レッドマーズ率いる惑星戦隊が、力を合わせて悪役の冥王星を倒すという話だが、次の年に行われたプラネタリアは冥王星が途中で仲間になり、さらに別の惑星と戦うというものだった。そして今回のプラネタリアはヒロイン役の地球とレッドマーズとの恋物語があるとかなんとか。毎年同じことをやるよりは新鮮味があって面白いとは思う。なのに自分たちが作り上げたものだからか、変わっていくのはどことなく寂しいとも感じていた。
にしても恋物語とは、紗季が聞いたらなんていうかな。
そう思ったところで、また紗季のことを考えている自分に気づいた。
職員室の前をとおりかかったところで祐介さんに会った。
「翔吾来てたのか。ならちょうどよかった。ちょっといいか?」
そう言われたが、部員の演技指導を行わないといけないから断ろうと思った。しかし祐介さん特有のいつもの飄々とした様子はなく、代わりに備わっていたのはめったに見せない厳しい表情だった。結局、有無を言わせない雰囲気に負け、少しだけならと応じることにした。
職員室の中は、さっきまでいた部室や廊下と違ってエアコンが利いていた。汗がすっとひいていった。何人かの教師と視線があった。名前を覚えている教師もいれば、顔すら覚えていない教師もいた。それは向こうも同じらしく、知っている教師は視線だけで迎えてくれたが、名前も知らない教師はすぐに興味を失ったように机の上の資料を眺めていた。
椅子と机が立ち並ぶジャングルを抜けると会議室に通された。三年間学校に通っていたとはいえ、決して立ち入ることのない場所は必ず一つや二つある。その一つがここだろう。よほどのことがない限り入ることはないだろう。在学中に入るとすれば……うん、考えるのはやめよう。
会議室の中に先客がいた。それも生徒ではない。俺よりずっと年上の女性だった。その女性のことを見たことがないはずなのに、どこかで会ったようなそんな不思議な感覚にとらわれていた。
俺と視線が合うと女性は静かに立ち上がり頭を下げた。つられて俺も頭を下げる。
「お前は初めて会うかもしれないから紹介しておく。この方は長谷川佳史乃さん、長谷川のお母さんだ」
俺はなんて言っていいか分からず言葉を詰まらせた。
紗季の母親か。どうりで見たことがあるように感じるわけだ。
「初めまして、長谷川紗季の母親、佳史乃と申します。あなたが翔吾さんですね。娘から話は聞いております」
佳史乃さんは外見は紗季に似ていたが、礼儀正しく、それでいてやんわりとした声色をしていた。いつも元気でハツラツとしていて、ゲラゲラ笑う娘さんとは大違いだ。にしても、俺のことを知っていると言ってたけどどういう風に伝わってるんだろう。それが気にかかった。
「宮野翔吾です。紗季……さんにはいつもお世話になってます」
改めてもう一度頭を下げる。普段、年上の人と関わることがそんなにないからか、どうにも要領がつかめない。もちろん、祐介さんと千枝さんは除外だ。
「ま、立ち話もなんだから座って話そうや」
祐介さんに促されてようやく座ることができた。
「実はお前をここに呼んだのは、長谷川のことについて話したいことがあったからなんだ」
口火を切ったのは祐介さんだった。祐介さんの口からでた紗季の名前。佳史乃さんの存在からなんとなく予想はついていた。俺は身構えた。
「翔吾、お前長谷川と今でも連絡とってるか?」
「いや、ここ一週間ほど連絡はとってない。メール送っても返ってこないから、読んでるのかどうかすらわからない」
「そうか」
祐介さんが口元に手を当てて考え込む仕草をとった。昔から考え事をするときは決まってこのポーズだ。癖なのかもしれない。
「それじゃあ長谷川と連絡が取れなくなる前、変なところとかなかったか? 例えばどこかへ行くとかそんなことを話したりとか」
「なんにも聞いてない。いつもどおりの話をしてって感じだけど。なんだか取り調べみたいだな」
意識して言ったわけじゃなかったが、思わず出た言葉が失言だったと後悔した。それを俺が不満に思っていると感じたらしく、佳史乃さんが「ごめんなさい」と頭を下げたことで俺も慌てて頭を下げた。
「ということは、お前は長谷川からなにも聞かされてないってことだな」
「聞くもなにも話した通りだ。……なにも聞かされてない?」
祐介さんの言葉にひっかかりを感じた。それを指摘するも祐介さんはたじろぐことなく「それが本題だ」と切り返した。
「翔吾さんに大事なお話があります。いまから話すことは娘のことですが、もしかしたらあなたにとってとても不快な話に思われるかもしれません。紗季が転校した理由はご存知ですか?」
「いえ、本人からはなにも」
「そうですか。それでは紗季が心臓を患っているという話もご存知ではないようですね」
「は?」
思わず出た声は上ずっていた。
紗季が心臓を患っている……?
そんな……。俺の知っている紗季はいつも元気で、底抜けに明るくて、人の迷惑も考えないで周囲を引っ掻き回す、そんなやつだ。しかし、もたらされた言葉はそんな印象とは正反対、信じられるわけない。けれどそんな反応すら予想してたように佳史乃さんは話を続ける。
「今からお話することは、できれば他言無用でお願いします。ほかの方にまで余計な心配をかけたくないので」
「どういう……ことですか」
不穏な空気が立ち込める。その先を聞いてはいけないとどこかで誰かが叫んだ気がした。ゆっくりと重い扉が開くように真実が明らかになる。

「娘は……紗季は……あとひと月しか生きられません」

俺にはその言葉が遠い異国の言葉のように聞こえた。
「そんなの……」
「信じられないという顔をしていますね。でも本当の話です」
佳史乃さんが目を伏せた。俺は所在なさげに視線をさまよわせる。近くにいた祐介さんと目があった。祐介さんが視線を外す。それが真実だと物語っていた。
「どうして」
「はい」
「どうして俺にそんな話を」
「……紗季が失踪したあと、アパートに残されていた紗季の日記を読んだことがあります。そこには高校に入学してから今までのことが詳細に書かれていました。あの子が日記を書いてるなんて夢にも思っていなかったので意外でしたが、あの子のことを知るいい機会だと思い、悪いことだと気づいていましたが目を通しました。意外にも書かれていた内容はそんな体に生んでしまったわたしへの恨みなんかではなく、普通の少女が普通に学校生活を満喫しているようなそんな内容でした。その中にあなたの名前が多く出てきていたので、あの子にとってあなたはとても大切な人だと思ったのです。こんなときになって初めて娘の気持ちを知るなんて母親失格ですね」
佳史乃さんが表情を崩すことなく、けれど肩を落としていた。祐介さんが「そんなことはありません。わたしもそうですから」と、恥ずかしそう頭をかいていた。
「だからというわけではありませんが、どうしてもあなたには知っておいてほしいのです。このことを話すことでわたしはあなたに恨まれるかもしれません。もしかしたらあの子を傷つけてしまうかもしれません。それでも……それでもあなたに聞いていただきたいのです。娘がちゃんとここにいたということを」
佳史乃さんが力強く言う。瞳は震えていた。
きっと彼女にとっても娘のことを話すのは辛いはずだ。それでも紗季が存在したことを残そうとしている。現実ではない、人の心の中に。
「翔吾、俺からも頼む。佳史乃さんの話を聞いてあげて欲しい」
祐介さんが俺の肩に手を置いた。同じ娘を持つ立場として考えたのだろう。もし自分の娘が同じ境遇にあったら、と。
「わかりました。聞かせてください」
俺はただ静かにその言葉を受け入れた。
佳史乃さんは紗季のいろんな話を聞かせてくれた。小さなころから心臓が弱く、まともに学校に通えていなかったこと。そのくせ少しでも元気になると無理をして心配ばかりかけたこと。中学に上がるとソフトボールを始めたこと。高校に入って大好きだったソフトボールを諦めなければいけなかったこと。天文部に入って星のことを好きになったこと。体調が悪化したせいで転校しないといけなかったこと。一年休学して大学を受験したこと。
……そして初めて誰かに恋をしたことを。


夏休みの間、一度も訪れていなかった大学はやはり閑散としていて、なにか考え事をするにはうってつけの場所だった。迷うことなく図書室へ向かうと、構内に比べるとまばらだったものの、人の気配があった。
本棚に並んだ本をタイトルも見ずに適当に手に取り、近くに空いていたイスに座って眺めていた。別のことに意識を向けていれば忘れていられるだろうと思ったのに、紗季のことがちらついて内容がひとつも入ってこない。結局、読んでいた文庫本を三分の一も読まないうちに放り投げると、大きく天を仰いだ。
「よう、こんなところで会うなんてとんだ偶然だな」
仰いだ先に大樹の顔があった。
「……明日は雨が降るかもな」
「なんだよそれ。俺は天気予報じゃないぞ」
こんなところで出くわすとは思わなかった、という意味を皮肉っぽく言ったはずなのに大樹には通用しなかった。大樹らしいといえば大樹らしい。
「こんなところでなにしてんだ? お、お前もこういうの読むんだな」
大樹が机の上に置いてあったミステリー小説を手に取ってパラパラと眺めていた。よほどご機嫌なのか「これの犯人って主人公の奥さんなんだよな」なんて軽くネタばらしさえしてくる、それくらいご機嫌だった。
俺が恨めしく見ていると背後から「大樹くん」と呼ぶ声がした。
目の前の友人の後ろからぴょこんと一人の女の子が顔を出した。一見すると、小動物のように見える容姿に俺はどことなく見覚えがあった。確か、彼女の名前は吉井ゆり。以前、大樹が数合わせにと俺を呼んだ合コンにいた女性メンバーの一人だった。
「こんにちは宮野さん。あと、大樹くんてば先に行っちゃ嫌だよ」
「悪い悪い」
小さな体全体使って怒りを表現しているようだが、背が低いことと、童顔なせいか、小動物がじゃれあってるようにしか見えない。
しかし、どうして大樹と一緒にこんなところへ?
そんな疑問を抱いていたが、大樹のほうが先手を切った。
「そういや翔吾、お前真衣奈ちゃんと付き合ってんだって?」
「そうだけど、誰から聞いたんだ?」
「千枝さんだけど」
「……あんのお喋りが」
千枝さんと噂話に戸は立てられない。そう思って諦めることにしよう。
それよりももっと気にかかることがあるような……。
「それより、お前こそどういうことなんだ?」
今度は改めて俺が聞き返した。すると大樹とゆりが互いに顔を見つめ合ってた。
「実はさ、俺たち付き合ってんだよ」
大樹が今まで見たことがないほどデレデレしていた。俺としては『NO FUTURE』とプリントされたTシャツを着ていた彼の未来が、決してそうじゃなかったことに若干だが苛立ちを感じた。
「そうか、そりゃよかったな。それよりどうして教えてくれなかったんだ?」
「だってよ、お前紗季ちゃんとかともめてたから、言い出しにくかったんだよ」
大樹が申し訳なさそうに答える。なるほど、それは悪いことをした。
「出来りゃ俺だって早く言いたかったけどさ、ほら、紗季ちゃんのこともあったし」
まだ連絡ないんだろ? 大樹が視線だけで言う。
俺は静かに頷いた。
大樹の言うとおり紗季からの連絡はない。千枝さんや母親の佳史乃さんですら紗季がどこへ行ったのか知らないのだ。当然、俺たちが知るわけなんてない。
俺はこんなところでこうしてていいのか?
そう思うことがここ最近、多くなった気がする。
紗季の余命はひと月もない。
そんな彼女がどこへ行ったのか。
探すべきだと思う。命に関わる事態になる前に。
なのに、俺は動けずにいた。
思うだけじゃどうにもならない。動かなければどうにもならない。そんなことは百も承知だ。それでも動けない。闇雲に探し回れるほど俺は紗季のことを知らなかった。
俺にできることは、ただ、あいつが無事に帰ってくることを待つぐらいだ。
「……だけどよ、っておい聞いてんのか?」
大樹の声に揺さぶられて現実に意識を戻した。
「……悪い。で、なんの話だ」
「俺の話聞いてなかっただろ。実際、お前としてはどうなんだ?」
「だからなんの話だ」
「紗季ちゃんとのことだよ」
どうして紗季の名前が出てくるのか、話の脈絡さえつかんでないのに、大樹がなにを言わんとしているのか余計につかめない。
「お前は真衣奈ちゃんと付き合ってる。俺はてっきり紗季ちゃんと付き合うもんだと思ってたんだよ。だからさ、そのせいで紗季ちゃんがその……いなくなったんじゃないかって思ってさ」
最後のほうはよく聞いていないと聞き取れないほど小さい声だった。
「そんなこと」
そんなことあるわけない。はたして本当にそうか?
紗季がいなくなった原因は俺のせいなんじゃないか、そう思ったことは確かにある。考えすぎだとか、自意識過剰だとか、そう思う気もする。それでも俺は思う。
もし、真衣奈じゃなくて紗季を選んでいたらこんなことにならなかったんじゃないかと。
大樹の言葉に心が折れそうになる。
「ま、そんなことないか。紗季ちゃんあれでいて結構さっぱりしてそうだし、その内ふらっと帰ってくるよなきっと」
大樹がなにか言っていた気がしたが、すでに俺の耳には届いていなかった。


家に戻ると、真衣奈が来ていた。見慣れた制服姿にエプロンをつけて。
「おかえり先輩。今日はバイトないんだね」
トントンと規則正しいリズムを刻みながら、包丁を動かす。その音が荒んだ心に心地よく染み込む。
「もう少し待ってて。もう出来上がるから」
俺はそっと手に持っていたヘルメットを所定の位置に置くと、開け放たれていた窓際に座る。取り出したタバコに火をつける。
ちょっと前ならまだ明るかった空も少しずつではあるが、日が落ちるのが早くなっていた。茜色の空に名前も知らない鳥が群れをなして飛んでいった。
俺が真衣奈を選んだから紗季がいなくなった。
大樹に言われた言葉をあれから何度も反すうしていた。
紗季がいなくなったのはあなたのせいじゃありません。だからそのことで決して自分を責めないでください。これは佳史乃さんに別れ際に言われたことだ。さらにこうとも言っていた。

「高校に入学してからの紗季は毎日が楽しそうでした。特に二年の夏を過ぎたたりからでしょうか、それまで学校の話なんてあまりしなかったのに、よく話してくれるようになって。星の話も多かったですけど、一番はやはり翔吾さん、あなたのことでした。母親としては心配することも、あの子が普通の子たちのように生きることができなかったから、突然の変化に戸惑いを感じることもありました。あの子はわたしを心配させないようにと無理に笑っていたりすることもあったのに、あなたと出会って変わったとはっきり感じることができました。ありがとう。あの子のそばにいてくれて。わたしにはこんな言葉しか伝えることしかできません。ですが、紗季の母親として娘と出会ってくれたことに感謝したいのです」

真っ直ぐに射抜くように佳史乃さんは俺の目を見ていた。
紗季との思い出なんて、どれだけかき集めても一年にも満たない。それなのにその一年にも満たない時間は、俺が生きてきた二十年の中で一番輝いていた。
「先輩」
振り向くと真衣奈が立っていた。
「ご飯できたよ」


真衣奈と並んで食卓を囲む。付き合う前からこうやって一緒にご飯を食べることが当たり前だった。その日あったことを話したり、テレビの中の出来事を話したり、特別な会話なんて一つもない。それだけでよかった。それなのに、今の俺は彼女に話しかける言葉を持っていない。話しかける理由なんてなんでもいい。そうわかってるはずなのに、話しかけられずにいた。
テレビに映る芸人が司会の男に突っ込まれていた。会場に笑いが起きる。真衣奈もそれにつられて笑っていた。
真衣奈の横顔をそっと見る。
綺麗な横顔だ。
ずっとそばにいて見てきた。一番近くにいて、一番遠い存在だった。それが俺のそばにいて、こうやって笑っている。
「先輩?」
不思議そうに真衣奈がこちらを見つめていた。
「さっきからどうしたの? もしかして美味しくなかった?」
「いや、美味いよ」
「ならよかった」
俺は止まっていた箸を動かす。言葉のとおり真衣奈の料理は美味しい。こう言っては悪いが母親が作ってくれた料理より好きだと思う。これは真衣奈に言ってないが、真衣奈の味付けは毎回変わる。例えば同じ卵焼きにしても、味付けが甘めだったり塩味だったりとその時によって違う。そんな変化を俺は知っていた。毎回変化をもたらすことで俺がどんな味付けが好きなのか、どういったものを好むのか見極めていた。そんなことうちの母親だってしない。
真衣奈は俺にもったいないくらいできた彼女だろう。そんな彼女がどうしてこんなろくでなしを好きになったのかわからない。真衣奈のことを好きかと聞かれれば迷わず好きだと答えられる。しかしそれでも、無意識のうちに紗季のことを考えている自分がいた。
テレビの向こうで再び笑い声が上がる。その声がとても煩わしく聞こえた。


「それじゃあわたし帰るね」
ローファーのつま先をトントンとしながら真衣奈が言う。
「なんか悪いな。せっかく来てくれたのに」
「どうしたの? いつもならそんなこと言わないのに」
「たまにはいいだろ」
「たまにじゃなくていつもだったらいいのに」
真衣奈が冗談っぽく言う。玄関のドアノブに手をかけて、出て行こうとする手が──止まった。
「ねぇ」
「忘れ物か?」
「そうじゃないんだけど、先輩さ、わたしと付き合ったこと実は後悔してない?」
「……なんだよ突然」
真衣奈の背に向かって苛立ちを込めた視線を送る。背を向けてるせいでなにを考えてるのかわからない。
「わたしさ、ずっと思ってたんだ。わたしが先輩に好きだって言ったから先輩はわたしを選んだんだって」
「そんなわけあるわけないだろ。俺がお前を好きだってのは本当だ」
「うん。知ってるよ。でもね、それでもわたしはちょっと後悔してるんだ」
「なんで」
「紗季さんがいなくなっちゃったのってわたしのせいだと思うんだ。わたしは紗季さんの気持ち知ってて、それでも先輩に告白した。結果、付き合うことになったけど、わたしが告白しなかったらそうはならなかった。先輩は紗季さんと付き合ってたと思う」
真衣奈が振り向く。その瞳から涙が溢れていた。
「わたしね先輩のこと大好きだよ。世界の誰よりも好き。なのにね、心が痛いの。わたしが紗季さんから先輩を取ったから……」
「真衣奈!」
俺は真衣奈を抱きしめていた。胸元に真衣奈の流す涙のぬくもりと嗚咽が伝わる。
「紗季さんがいなくなっちゃった! わたしが! わたしのせいで……」
「違う! お前のせいじゃない」
こうなるまで俺は気付かなかった。紗季がいなくなったことで悩んでいたのはなにも俺だけじゃない。真衣奈もだったんだ。真衣奈も俺と同じように悩み、苦しんでいた。俺はそのことに気付けなかったことに腹がたった。
「真衣奈のせいじゃない。俺も同じだ。俺がちゃんとしていなかったから、もっと二人の気持ちに向き合っていたらこんなことにならなかった。俺はいつだって自分のことしか考えてなかった。ごめん。お前がこんなに苦しんでるのに、こうなるまで気付かなかった。だから自分を責めるな。責めるなら俺を責めてくれ!」
真衣奈を抱く力を強める。俺も嗚咽をこらえられずにいた。
「俺にはお前しかない。なにがあっても俺はお前を選ぶ。これが俺の本心だ」
「先輩……本当にわたしを選んでいいの?」
紗季さんよりも……? その言葉が紡がれる前に俺は俺の唇で真衣奈の唇を塞いだ。
「──!?」
真衣奈が突然のことでもがき暴れる。逃れようとするのを必死で抱きとめる。それが数十秒たったころ、ようやく真衣奈を離した。
「ぷはっ! な、なに……!?」
「これが俺の気持ちだ」
「だ。だからって、あ、あんなこと……」
思い出したのか真衣奈が頬を赤らめる。めったに見られないそんな姿がとても可愛らしく見えた。
「これでもまだ信じてくれないか?」
「……信じるもなにも、卑怯だよ。あんなの……」
まだ唇に残る感触を確かめるように真衣奈が指でなぞる。そして、観念したように頬を緩めた。
「先輩、意外と強引なんだね」
「意外だろ。俺もそう思ってる」
にっと歯を見せて笑うと、「バカ」と今度は真衣奈から唇を重ねてきた。


九月に入ると、身の周りが一気に慌ただしくなった。学園祭の手伝いに加え、バイト先の天文台の仕事やら、たまに駆り出されるいろはでの仕事やらで忙殺される毎日が続いていた。
そして学園祭当日。
まだ夏の気配が残る青空に花火が打ち上げられると、校内にいた生徒たちが、大きく湧き上がった。
学園祭開始の合図だった。
入場ゲートが開かれると、ぞくぞくとお客が流れ込んでいった。
俺もその中に混じって歩いていると「先輩」と声をかけられた。
「おはよう先輩。今日は寝坊しなかったんだね」
真衣奈が笑みを浮かべながら近づいてきた。あと今日はは余計なお世話だ。それじゃあまるで、俺がいつも寝坊しているみたいに聞こえる。なのでささやかな抵抗とばかりに「うるさい」と返してやった。
真衣奈はいつもどおりの制服姿。なのにこういった場で会うのは初めてだったせいもあってか、少し新鮮さを感じていた。
「随分な人だな。俺のときとは大違いだ」
「ここ最近はいつもこんな感じだよ。うちの学校、地域のボランティアとかやってるから、いろんな人が来るみたい」
真衣奈の言うとおり、明らかに生徒の父兄とは違った人の姿がちらほらと見えた。屋台を運営している生徒と仲良く話をしているのを見ると、それなりに良好な関係を築いているようだった。
「それで真衣奈のクラスはなにやってるんだ?」
俺はふとした疑問を投げかけてみた。学園祭とはいえ、部活でやる出し物や屋台のほかにも、クラスでの出し物もある。実際、俺がここに通っていたころにやったプラネタリウムは、クラスの出し物としてのものだった。
「うちのクラスは喫茶店やってるよ」
「喫茶店か。ずいぶん普通だな」
というのも、真衣奈のクラスの担任は祐介さんだ。実の親子同士が同じ教室にいるのも妙な取り合わせだと思う。とはいえ、俺が言いたいのはそんなことじゃない。祐介さんが受け持つクラスだからこそ、クラスの出し物が喫茶店ということに違和感を感じたのだった。
俺のそんな様子を感じ取ったのか、真衣奈が補足とばかりに話してくれた。
「もちろん普通の喫茶店じゃないよ。特別顧問に千枝さんが入ってくれてるから」
ああ、そういうことか。その一言で合点がいった。
きっと今ごろ真衣奈のクラスは戦場になってるだろうな、きっと。
「それより、お前はここにいていいのか?」
「あ、うん。わたしは外に出てお客さんを呼び込む係だから」
「へぇ、そうか」
そう言ったのも束の間。
ガシッと腕を掴まれた。もちろん腕を絡ませてくるなんてそんな甘い雰囲気のものじゃない。
俺は真衣奈に引きずられるように校内へと引き込まれていく。
「……真衣奈さん?」
「言ったでしょ? わたしはお客さんを呼び込む係りだって」
なるほど。そういうことか。
納得すると同時に、このあとに待ち受けるであろう現実に覚悟を決めることにした。
真衣奈の通う教室から出るころには、俺のお腹は膨れ上がり、その代償に財布は薄くなった。
いくらなんでも食べさせすぎだ。
千枝さん監修の喫茶店は、喫茶店とは名ばかりの戦場とでもいったほうがしっくりくるものだった。メニューは割と普通だったのだが、その量が尋常じゃなかった。サービス精神旺盛といえば聞こえはいいが、食べきれないと料金が二倍という理不尽なルールのせいで、半ば強制的に食べきらないといけなかった。もちろん俺の場合、座るなり注文もしてないのにいろんなものが運ばれてきて、それを次々と食べないといけない状況に陥った。……なんとか食べきったが、食べきれなかったときのことを考えると背筋が凍りつく思いだ。
それでも教室の中にいた人たちは、その理不尽なルールを楽しんでいるようで、最初に頼んだメニューを食べ終わったと思ったら、追加で頼んでいる強者もいた。世の中なにが流行るのかさっぱりわからない。
天文部の出番までまだ時間があった。俺は行くあてもなく、学校内を彷徨う。
傍をこの学校の生徒らしき二人組の男子が走っていく。その姿に当時の自分の姿を重ねてみた。たかだか二年しかたってないのに、遠い日のことのように思う。
ぼんやりしながら歩いていると、知らないあいだに天文部の部室の前に来ていた。ここしばらく通っていたせいか、自然と足が向いたらしい。
部室のドアを開けると、中には誰もいなかった。
踏み入れると、何度入っても感じるすえた匂いがした。
閉められたはずのカーテンが一つだけふわりと風に凪いだ。窓が開いていたらしい。カーテンを開くと、そこは紗季が割った窓ガラスがあった場所だった。
俺とあいつが出会った場所。もし、あの時あいつが窓ガラスを割らなかったら俺たちは出会ってなかっただろう。俺たちの時間は交わることなく、お互いの存在を知らないまま卒業していた。
なあ、紗季。お前もここにいたら同じことを思うか? お前は俺と出会ったことを後悔してないか?
俺は未だ帰ってこない友人を想う。
そんな想いを遮るように天文部の出番を告げるアナウンスが響いた。


「それじゃあみんな! お疲れさまー!」
真衣奈の掛け声とともにジュースが入った紙コップが掲げられる。
学園祭は無事に終わった。心配されていた劇もなんとか事なきを得て、ようやく三年生の長かった部活動も終りを迎えた。
「それじゃあ、引退される先輩方から一言ずついただきましょう。それでは栄えあるトップバッターは我ら天文部の女神、椎名真衣奈部長よろしくお願いします」
なぜか同じく引退するはずの吉仲が丸めた台本をマイク替わりにして(なぜか小指が立ってた)各々にコメントして回っていた。
俺は彼らと少し離れたところでそれを見ていた。一応、この部のOBであり、今回の特別顧問という理由から断ったのだが、彼らの引退セレモニーに付き合うことになった。
「翔吾、お疲れだったな」
「祐介さんこそ」
肩の荷が下りたのか、祐介さんが柔和な笑みを浮かべて乾杯を申し出てきた。その瞳にわずかに涙のあとが見えた。実の娘が大役を果たしきったのだから当然だろう。
「結局、来なかったなあいつ」
祐介さんが缶ビールをあおる。祐介さんが誰のことを言ってるのか、紗季のことだ。
佳史乃さんを通じて紗季に伝えて欲しいとそう言ってあったのだ。最後の思い出になればという気持ちもこめて。
しかし、紗季は姿を現さなかった。
「もう戻ってこないのかもな」
祐介さんが諦めに似た声で言う。佳史乃さんから受けた宣告からもうすぐでひと月。彼女の言葉通りなら紗季はもう……。
「悪かったな」
唐突な言葉だった。俺は首をひねって見返した。
「長谷川のことだよ。あいつが転校した理由とか、体のこととかずっと黙ってて悪かった」
「知ってても言えなかったんだろ? それに教師がほいほいと生徒の秘密ばらしてたらクビになるぞ。その年で再就職は難しいって聞いたぞ」
気遣うように言うと「ガキに心配されるような年じゃねーよ」と笑っていた。それから「ありがとうな」と、お礼の言葉を述べた。
「それじゃあ最後に、部長のお父様でもある天文部顧問、椎名祐介先生にお言葉を頂戴したいと思います! 先生、お願いします!」
吉仲に呼ばれて景気付いた祐介さんが「任せろ!」と、みんなの輪に入っていった。俺は空になったコップを近くにあった机の上に置くと、誰にも気づかれないようにその場をあとにした。


すっかり夜の帳が落ちた空。昼間きれいに晴れていたせいか、夜になっても星がはっきりと見えた。
誰もいない屋上に寝そべり、胸ポケットの中にしまいこんだままにしていたタバコを取り出す。年齢上問題ないはずだが、場所が場所だけに妙な背徳感に駆られる。
大きく息を吸い込んで吐き出す。濃紺色した夜空に紫煙が溶け込んでいく。
目を閉じる。三年前もこうして夜空を眺めていた。
果たされることのない約束。
夏の星座が見えなくなっていく。

「ハカセ」

ふと、紗季に呼ばれた気がした。もちろんそんなことありえない。
辺りを見回しても見えるのは星空と闇。一番会いたいはずの人の姿はない。
それでも夢中になって探していた。すると、今までならなかったはずの携帯が鳴った。発信者は……紗季だった。
「もしもし?」
「……あ、ハカセだ。久しぶりだね」
電話の向こうから聞こえてきたのは、紛れもなく紗季の声だった。ひと月前までと違っていたのはその声にいつもの元気がなく、ずいぶん弱々しくなっていた。
「久しぶりじゃないだろ! お前……今までなにやってたんだ!?」
「……えへへ、なにも言わずにいなくなったことはとりあえず謝っておくよ……ごめん。ハカセは……あれからうまくやってる……?」
「俺のことはいいだろ。それよりもお前今どこにいる?」
「……その様子だと全部聞いたんだね」
「……聞いたよ。だから……だからこうして心配してんだろ!」
思わず怒鳴っていた。怒鳴るつもりなんてなかったのに。慌てて謝ろうと思ったが、紗季はひるむことなく、態度を変えなかった。
紗季の後ろでタタン、タタンという音が聞こえる。
「……ごめんね、ずっと黙ってて。本当はさ……ちゃんとお別れしてからいなくなるつもりだったんだ……」
「バカか! 別にいなくならなくてもいいだろ!」
「……そういうわけにはいかないよ。……わたしがいることでハカセたちに迷惑かけられないもの……。それに……ね……」
「次は大山寺、大山寺」
紗季の声が遠のく。俺は紗季の存在を掴もうと、必死になって叫ぶ。
「おい! 大丈夫か紗季!?」
「……聞こえてるよ……うん……なんだっけ……ああ、そうだった……。それでね……わたし……もう長くないから、できることなら笑って見送って……ほしいな……」
「縁起でもないことをいうな! それよりどこにいるんだ? 今からそっちに行くから」
「……ハカセ……どこ……? 約束……果たしにきたよ……」
そう言って紗季との通話が切れた。ツーツー、と無機質な電子音が残った。すぐにリダイヤル機能を使ってかけ直すが、聞こえてきた「おかけになった電話は──」のアナウンスに舌打ちした。
「くそっ!」
俺は屋上のフェンスに拳を打ち付けた。ガシャン! と派手な音を立てて揺れた。
こんなところで地団駄踏んでいても意味がない。それよりこれからどうするかを考えろ。改めて自分を奮い立たせる。
紗季との通話を思い出す。紗季はどこかへ向かってるようだった。ヒントはずっと聞こえてた一定のリズムを刻む規則正しい音。これは電車が走る音だ。しかしそれだけでどの電車に乗っているのか、特定することはできない。それだけ富山の鉄道路線はある。けれどヒントはもう一つあった。それは紗季の声とは別に聞こえた『大山寺』という名のアナウンス。これは電車の駅名の一つだ。もしこの駅名が別の駅名だったら、紗季がどこに向かうのかわからず、途方にくれていただろう。しかし、この駅名がある路線は富山に一つしかない。そして、その路線から推測するに紗季がどこへ向かっているのか見当がついた。
俺はもう一度舌打ちをした。もしかしたら間に合わないかもしれない。不安が押し寄せてくる。それでも俺は行かなくちゃならない。
二年前果たせなかった約束を果たすために。

第八話

「……ハカセ……?」
突然通話が切れた。ややあってから携帯の画面を見ると、電波が圏外の表示に切り替わっていた。山奥だからか、ここは未だに電波が通りづらい。
わたしは諦めて携帯をカバンにしまいこむと、くすんだ赤色をしたベロア調のシートに沈み込むように体を預ける。
力が入らない。余命についての宣告を受けたのが春前のことだからこれでもずいぶん持ったほうだろう。神様にはわたしのワガママをずいぶん聞いてもらった。だからこれ以上を望むのは悪い気もしたけど、これで最後だ。もう一つだけワガママをお願いした。
「ハカセ……あなたに……会いたいよ……」
わたしは流れていく景色を眺めながら、彼の顔を思い浮かべていた。


階段を一気に駆け下りながら、ポケットに遊ばせていたバイクのキーを取り出す。踊り場を通り抜けるたびに、教室から楽しそうな声が聞こえてきた。
のんきなものだな。彼らが悪いわけじゃないのはわかっていたが、それでも舌打ちしたい衝動にかられた。
玄関を抜けてバイクを停めてある駐輪場に向かう。するとバイクの側に人影があった。
真衣奈だった。
その姿を見ても特別驚きはしなかった。
「行くの?」
真衣奈の問いかけはそれだけだった。それだけで真衣奈が全てを悟っていると気づいた。
「知ってたのか」
「……うん。千枝さんに教えてもらったから。千枝さん、泣いてた」
「だろうな」
千枝さんは自由奔放なところがある割に、人に対して情が厚い。紗季のことも本当の妹のように可愛がっていた。それだけに紗季のことを知って千枝さんがどんな思いでいたのか、想像するだけで胸が痛んだ。
俺はバイクにくくりつけていたメットを外す。親父が残してくれたメットだ。それを手馴れた手つきで身に付ける。
「もしさ、わたしが行かないでって言ったら、先輩は怒るかな」
真衣奈が感情を抑えつつ、つぶやく。
「……どうかな。怒らないと思う。けど、きっとお互いに後悔すると思う」
俺がそう答えると、真衣奈が所在なさげに俯いた。バイクのセルモーターを回すと、エストレヤが馬の嘶きのようにエンジン音を高鳴らせた。
「先輩」
顔を上げた真衣奈が俺を見つめていた。俺は大丈夫だと言い聞かせるように真衣奈の頭を撫でた。
「紗季さんによろしくって、それから……ありがとうって伝えて」
「わかってる。ついでにあいつの口から迷惑かけてごめんなさいって言わせてやる」
「待ってるから」
真衣奈と唇を交わす。それから小さく「行ってらっしゃい」と呟いた。
アクセルをひねると、エストレアが力強く走りだす。
思い出の母校が遠くなっていく。
『いつの間にか男になったんだなお前も』
どこからか親父の声が聞こえた気がした。
街の景色が風とともに流れていく。
この瞬間、俺は一陣の風になった。


目的の場所に着くとわたしは持っていたカバンを放り出して寝転んだ。
まだじんわりと昼の熱を持った地面が暖かくて気持ちがいい。
一面、暗闇に包まれたここはさながら、天然のプラネタリウムのようだ。
「……あれが……ベガ……あっちがデネブ……それから……あの星がアルタイル……」
もうろうとする意識の中、夜空に瞬く星を指でなぞる。それが本当にその星なのかどうかもわからない。ただ、そうしているといないはずの彼が側にいるような気がした。
散りばめられた宝石たちの中、一筋の光を放ちながら星が流れた。
「……流れ星……やっと見つけた……」
あの時は見つけることができなかった。なのに最後の最後で見つけるなんてついてるのか、ついていないのかわからない。
ちゃんとお願い事をした。この願いが叶うかどうかは神のみぞ知る。……いや、叶ってもらわなくちゃ困る。
目を閉じると、視界から一切の光が消え、風がざわめく音と、虫の奏でるりぃりぃという鳴き声が心地いい。
誰にも知られずひっそりと終りを迎える、こんな最後も悪くない。
トクン、トクン、心臓が弱々しくだが、鼓動を刻む。
ハロー、サンキュー、お疲れ様。今までありがとう。
決して長くない命だったけど、それでも大いに生きたと感じる。
思い残すことも、やり残したこともほとんどない。強いて言うなら、最後に千枝さんの作ったお好み焼きをお腹いっぱい食べたかった。そう思うと、腹の虫がぐう、と鳴った。
「はは……こんなときでも元気だね君は……」
そっとお腹をなでると、意識が遠のいていく。
ぼんやりと浮かんできたのは彼と出会った高校二年の夏だった。
わたしが覚えている中で一番楽しかった時間だ。
人は自分の死期が近づくと、自身の中に残っている一番大事な記憶に触れるという。わたしにとっての大事な記憶はどうやらこの時だった。
これは彼にも話していなかったことだが、わたしが彼の存在を知ったのはあの事件が起こる以前からだった。
いつも部活中に屋上を見上げると、彼が望遠鏡を持って空を眺めている姿が見えた。最初のころは特別意識なんてしていなかった。それがいつも彼の姿を見ているうちに、だんだんと彼のことを知りたいという衝動に駆られていた。
こっそりと彼のことを知っていくうちに、わたしは彼に惹かれていった。
彼の名前は宮野翔吾。わたしと同じ学年で、天文部に所属している。得意な科目は数学で、苦手な科目は意外にも国語だった。昼休みは友達とつるんでいたり、ときどき図書室で本を読んでいる姿を見かけたりした。
たまに従姉妹の千枝さんの店に手伝いに行くと、お客さんとして来ている彼を見かけたりした。もちろん彼はわたしのことなんて知らない。それなのに彼が店にいるのに気づくと、顔から火が出そうなくらい恥ずかしくて、物陰に隠れたりしたこともあった。千枝さんに何度冷やかされたことか。そんな気持ちに気付いていたからか、「仲を取り持ってあげようか?」と聞かれたこともあったけど、持病のこともあったからそれは断った。
わたしは恋をしちゃいけない。勝手にそう決めつけて、無理やり心の奥に沈めた。なのに頭ではそう思っていても、体は言うことを聞いてくれなかった。
学校で彼の姿を見ると、つい、その姿を目で追ってしまう。その度に心臓の痛みとは違った痛みが胸に走った。
あるときわたしは、いるのかいないのかわからない神様に祈ったことがあった。
神様、もしいるんだったらわたしの願いを叶えてほしい、と。
そのときはなんとなく思ったことを口にした。
ただ彼と話がしてみたい。そんな願いを。
その願いは思わぬ形で叶った。
ある日の部活中、わたしが打った球が綺麗な放物線を描いて吸い込まれるように彼がいる部室の窓ガラスを叩き割ったのだ。あまりの出来事に思わず、やりすぎだよ神様……と、つぶやいてしまったくらいだ。その場にいた神様もきっと苦笑いしてただろう。それでもそのことがきっかけで、わたしは彼と話すことができた。
一番最初の会話はそう……「頭、大丈夫ですか?」だったっけ。
窓ガラスを割った罰という名目で、彼が作るプラネタリウム制作の手伝いをすることになった。出会ったばかりのころはなんて話していいかわからなくて、必死に明るく元気な長谷川紗季を演じていた。これはわたしがいつもこうありたいと願った姿で、本来のわたしとは正反対だ。けれど、そんな姿を通してわたしと彼は仲良くなった。お互いに「ハカセ」「紗季」と呼び合える仲にもなった。そのころは不思議なことに体の調子もよかった。あまり無理をすると翌朝ひどい目に遭うのは相変わらずだったけど、前よりこうありたいと願ったわたしに近づいていた。
毎日が楽しい。
自然とそう思えるようになった。
そう思えるようになったのも、傍らでいつも星の話をしてくれる彼の存在があったからだろう。
ずっとこんな日が続けばいいのに。
……しかし、わたしにかけられた魔法は長くは続かなかった。
高校三年生に上がる直前、わたしは残りの時間がそれほど残されていないことを知らされた。このままいけば良くて二年、最悪、一年も生きられないと。
医者から聞かされた宣告に母は泣いていた。しきりに「ごめんなさい、ごめんなさい」と嗚咽を漏らしながら。
わたしは思ったより絶望感を感じていなかった。むしろ、ここまで育ててくれたことに感謝さえしていた。
お母さん、ありがとう。それから、ごめんなさい。
そう心の中でつぶやきながら。
大事をとるということで、わたしは転校という理由をつけて一年間休学することを選んだ。三年の一学期までは思い出の学校で過ごすという条件付きで。
その日から一日が過ぎるのが早くなった気がした。
楽しくて、でも切なくて、彼と別れることを思うと胸が苦しくなった。
何度も、何度も、思いを伝えようとした。わたしにあと少しの勇気があればそれも出来ただろう。結局、最後まで伝えることは出来なかった。
過ごした街からいなくなる日、お世話になった椎名先生に挨拶を終え、二年とちょっと過ごした校舎に別れを告げる。
何気なく振り返ってみた。もしかしたらという思いがあったからだろう。部室の窓に目を向けた。わたしが割った窓ガラスは新しいものに直っていて、言われないとそんなことがあったことさえわからない。
そして、その窓から彼が外を眺めていた。
ハカセ──。
そう呼ぼうとして──踏みとどまった。
ここで彼の名前を呼んでしまったら、わたしはわたしでいられなくなる。そう思うと、わたしの目から涙が溢れていた。
わたしは……彼のことが好きだったんだ。
それから一年後、新しい学校で二回目の三年生を過ごし、無事に卒業した。
選んだ進路は彼の通う大学。
残された時間はあとわずか。だったら最後くらいは、彼ともう一度過ごそうと決めた。
目を開けると再び星空。……よかったまだ生きてる。
体を起こそうとする。が、力が入らない。
さすがにもうダメっぽい。
「……紗季」
どこかで彼の声がした。
とうとう幻聴まで聞こえるようになったか。
眠るように意識を手放そうとする。まぶたの裏側に彼の姿を思い浮かべながら。
「バイバイ……ハカセ……」
と、遠くから聴き慣れたエンジン音が聞こえた。幻聴にしてはやたらリアルな音だ。
神様もういいよ。最期だからってサービスしすぎだよ。わたしが呆れたようにため息を吐く。
「紗季!」
今度ははっきり聞こえた。
わたしはどうにか手放そうとした意識をつなぎ止め、ゆっくりまぶたを開く。
彼の──ハカセの姿があった。
駆け寄ってくる。
わたしが一番会いたかった人が困ったように眉根を下げて。
どうしていつも君はそんな顔をするかな……。
君は笑っていたほうがいいのに。
だからわたしは出来るだけ笑ってみせるのだ。どんなに辛いことがあっても。


俺がスキー場にたどり着くと、その駐車場で紗季が倒れていた。
「紗季! おい紗季! しっかりしろ!」
慌てて駆け寄り体を揺する。紗季は「……まだ生きてるよ」と、へらず口で返してきた。
「今、千枝さんに連絡するからな! いや、それよりも救急車が先か」
俺は慌てながらポケットから携帯を引っつかむと、救急車を呼ぼうとして携帯がつながらないことに気づいた。
「くそ……ここ圏外か。公衆電話は……ないか」
半ば落胆したようにつぶやくと、なぜか紗季が笑っていた。
「……心配しなくても……まだ大丈夫だよ……」
「けど……」
「……わたしのことは心配しなくていいから。それよりもさ……久しぶりに会ったんだから……話しようよ……」
そう言う紗季だったが、声はかすれて耳を澄ませていないと聞き取れないほど小さかった。そんな姿に心配する気持ちはあった。それでも俺は、それが紗季の望むことならと従うことにした。
紗季の横に並ぶようにして寝転んでみる。二年前のあのときと同じ風景がそこにあった。
「……きれい」
紗季が俺の手を握る。俺も紗季の手を握り返した。
「約束……かなったね……」
「二年かかったけどな」
「……うん」
この夏はあの日の続きだったんだ。
紗季がいなくなった日から今日までの長い長いひと夏。叶うことのなかった約束を抱いた俺と、約束を叶えるために戻ってきた紗季との物語。
星が廻るように俺たちの約束も、遠いあの日からようやくここにたどり着いた。
星は誰かと繋がりを求めている。名前も知らないほど遠い宇宙から俺たちに会うためだけに命の光を燃やして。
覚えてるか紗季。今見てる星って何百年、もしかしたら何千年も前に放たれた光だってことを。もしかしたら今見ている星はもうないかもしれない。でも、たとえ姿を失ったとしても、その星があった証は遠い宇宙を超えて俺たちのいる地球に届いている。なくなったとしても、きっと誰かの心の中に残る。忘れない限り永遠に。
「……ハカセ……泣いてる……」
「え──」
紗季が指で涙の雫を拭う。
「……目にゴミでも入ったかな」
「……そうだね」
口を閉ざすと音がなくなった。広い宇宙空間にいる気分だった。
二人だけのプラネタリウム。学園祭が終わった学校の屋上でもこうやって二人で星を眺めていた。
「……ハカセは……さ……わたしと出会ったこと……後悔してない……?」
「後悔か。後悔なんて山ほどしたよ。それこそ数えたらキリがないくらいにな」
「……優しくないなぁ……せめてそこは嘘でもいいからそんなことないって……言ってほしかったよ……」
そう言うものの、紗季は冗談として受け取ってくれたようで小さく笑った。もちろん、俺だって言葉通りになんて思っちゃいない。
「そういうお前はどうなんだ?」
「わたしは……後悔……してないよ。むしろ感謝してるくらい……」
「感謝されるようなことなんて何一つしてないぞ」
「……そんなことないよ……ハカセはわたしにたくさんの喜びをくれた……ハカセがいなかったら……こんな長く生きられなかったから……」
「……そんなこと言うなよ」
「……うん……ごめん……」
息を一つするたびに紗季の中から命の輝きが、一つ、また一つと消えていく。
星は消えるその最期の一瞬、大きな光を放つ。紗季の光もまた大きく輝きを放っていた。
「また……来れるかな……」
紗季がつぶやく。それは……、と俺は言葉を飲み込んだ。
違う。先にかける言葉はそんな言葉じゃない。
だったらそれは一つしかない。
「紗季」
「なぁに……?」
「また来ような」
「……うん。また来よう」
それが永遠に叶わない約束だとお互いにわかっていた。それでも俺は言いたかった。
また来よう。
たったその一言を。


それから数日後、紗季は眠るようにして息を引き取った。
紗季の最期を看取ろうと、たくさんの人たちが紗季の元に集まった。集まった人たちは紗季との別れを惜しんでいたが、俺だけは彼女を笑って見送ろうと決めていた。
出棺される日まで涙は見せなかった。けれど、とうとう耐え切れず、その日の夜、人知れず泣いた。
紗季の遺灰は半分はお墓に、もう半分は紗季が残した思い出の地にそれぞれ納められた。
あいつは最期の最期まで力強く笑っていた。もしかしたら死んだ親父もそうだったのかもしれない。そう思うと二人は似た者同士だったんだと感じた。
そうだ少し俺たちの話をしよう。
紗季の葬儀のあと、大樹はゆりと結婚を決めたらしい。というのも、紗季の死に触れて誰かを守りたいと思ったらしい。勢いだけで突っ走ったものの、案外あっさりと受け入れてくれたらしい。二人とも大学生の身分なので籍はまだ入れてないが、もうすでに一緒に暮らし始めているそうだ。無事卒業までいてほしいものだ。
千枝さんは大事な身内を二度も亡くしたにも関わらず、元気だった。千枝さん曰く、いつまでも悲しみに囚われてちゃ二人に怒られるとのことだった。左手の薬指にはめた指輪はそのままにしていたが、今は大事な一人娘がいるからと吹っ切れたようだった。
祐介さんといえば……特別変わったことがないので割愛する。
真衣奈たち天文部の三年生たちは危なげなく無事卒業することができた。真衣奈は希望通り俺と同じ大学へ。コバは地元の企業へ就職を決め、ほかの連中もそれぞれの進路へと進んでいった。中でも一番意外だったのは、あの吉仲が東大に進路を進めたことだろう。さすがに無謀だと全員が心配したにもかかわらず、結果はあっさりと合格した。それを鼻にかけるような真似こそしなかったが、どことなく苛立ちを感じたのはまた別の話だ。
真衣奈は大学へ進むと、千枝さんの店でバイトを始めた。人手が足りなかったからというのも理由の一つだったが、紗季のことを忘れたくないからというのが一番の理由だった。紗季と同じように接客している姿は確かに紗季を思い出させる。もしかしたら紗季以上の看板娘になる日もそう遠くないかもしれない。
最後に俺、宮野翔吾について。俺は……まぁ特別変わったことはない。強いて言うなら、また一つ年をとったくらいか。真衣奈との関係は相変わらず良好だし、単位のほうも留年しない程度にとっている。可もなく不可もなくといったところだ。
時折、紗季のことを思い出すことがある。あっという間に過ぎ去ったあのひと夏のことを。あの夏の暑さは俺の中に未だ残っている。それは一生消えることはないだろう。俺が覚えてる限り、紗季もまた心の中で生き続けている。ずっと。
海沿いを走るバイク。後頭部にコツンと衝撃が走る。後部座席には真衣奈のぬくもりがあった。
アクセルをひねるとバラララと、小気味よいエンジン音を上げてエストレヤが風を切って走る。
風は緩やかに夏のぬくもりを帯び始めていた。
そしてまた夏がやってくる。
あのひと夏を越えて──。

エピローグ

雨が降るかもしれないという予報に反して、その日はよく晴れた日だった。
学校の屋上に上がると、満点の星空が僕たちを迎えてくれた。
傍らにいた彼女が「きれい」と息をのんだ。
屋上に寝そべりながら指で星をなぞる。
「今見てるのがベテルギウス、それからシリウス、そしてあれがプロキオン。こ
の三つをつなげると冬の大三角形ができるんだ」
僕たちから見た星は、眩しいほど光っているのに、手を伸ばしても全然届かない。彼女は「全然届かないね」と残念そうにしていた。
「たとえ手が届かなくても、星はすぐそばにある」
「え?」
「これ父さんの受け売り」
この言葉は父さんが教えてくれた。星は僕らの手に届かないほど遠くにある。けれど、星の光は時を越えてつながっているという意味らしい。かつて父さんが見た星の光を僕が見ている。そうすることでずっと昔の父さんと繋がることができるのだそうだ。
それを聞いた僕が父さんはロマンチストだと言うと、母さんはそうかしら? と首をひねっていた。ついでに、上ばかり見てないでたまには前も見てほしい、と愚痴をこぼしていた。その割に嬉しそうにしている姿を見ると、まだまだ関係は良好なようで安心した。
昔、父さんが話してくれた。とても大事な人とこんなふうに星を眺めていたことを。僕が「彼女?」と尋ねると、父さんは苦笑いしながら「ただの友達だ」と教えてくれた。父さんがその人の話をするたび、懐かしそうな、それでいてちょっと寂しそうな表情をする。きっとその人は父さんにとってかけがえのない人だったんだと思う。
真っ暗な闇の中で彼女の息遣いだけが聞こえた。こんな静寂の中にいると、ここが天然のプラネタリウムのように思えた。
「流れ星見えるかな」
「なにかお願いしたいことでもあるの?」
僕が尋ねると彼女は「秘密」と言って教えてくれなかった。
「そういう君は?」
「僕? そうだな……」
僕は考え込むように目を閉じる。といっても僕の願いはすでに決まっていた。
「また……こうやって星が見たい。君と一緒に」
「……うん」
彼女が僕の手をそっと握り締める。僕も彼女の手を握り返した。
ぬくもりがじんわりと伝わってきて、今、繋がっているのだと感じた。
「今度はもっと星が見えるところに行こう。父さんがさすごく星がきれいに見える場所を知ってるんだって」
「楽しみにしてるよ」
僕は立ち上がると彼女の手を引く。
「それじゃ行こうか」
「手、離さないでよ。ハカセ」
「その呼び名やめろって言っただろ。僕には宮野翼って名前があるんだからさ」
「いいじゃない。星の博士。だからハカセ」
「……まったくもう」
僕はやれやれと頭を振る。けれど嫌な気分じゃなかった。
「わたしお腹すいちゃった。帰りに千枝さんところ寄ってこ」
「食べ過ぎると太るよ」
「大丈夫! その分動くから。というわけでいろはまで競争! 負けたほうがおごりってことで!」
「……それに付き合わされる身にもなってくれよ、っておい! それ反則だろ! ちょっと! 紗季!」
僕は彼女の背を追いかけた。彼女は振り返って笑っていた。
きっと父さんもこうやって過ごしたのだろう。
かけがえのない誰かと、大切な時間を。
星と人はつながっていく。人と人をつなげるように。
誰かの思いをつなげるように。
ずっと永遠に。

ひとなつプラネタリウム

ひとなつプラネタリウム

宮野翔吾は果たされない約束を胸に満たされない日々を過ごしていた。そんなある時、友人の誘いで参加した飲み会でかつての友人、長谷川紗季と再会を果たす。当時、翔吾は紗季に淡い恋心を抱いていた。しかし、その想いも約束も叶うことはなかった。紗季と再会を果たした翔吾は、再び紗季への想いを募らせていくが、幼馴染の真衣奈の気持ちを知り、彼の想いは揺れ動く。 移りゆく季節の中で繰り広げられるふたりの物語。その先にある紗季の秘密と果たされなかった約束。全てが結末へと動いていく中で翔吾がとった行動とは……? これは約束をテーマにしたある青年のひとなつの物語。 この作品は僕の地元、富山を舞台にしています。これを読んだ方に富山を知ってもらいたいという思いを込めて書き上げました。拙い作品ですが、読み終えた方に読んで良かったと思っていただければ幸いです。 なお、この作品は小説家になろう様でも掲載しています。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. プロローグ
  2. 第一話
  3. 第二話
  4. 第三話
  5. 第四話
  6. 第五話
  7. 第六話
  8. 第七話
  9. 第八話
  10. エピローグ