白い部屋

ゆっくりと意識が戻る。
柔らかい感触が背中から腿やふくらはぎの裏側、体背面部に感じる。
やや動くと呼応するようにややきしむ音。
男は自分がベッドの上にいると分かった。
男は目を開けた。
最初に映ったのは、アイボリー色の天井だった。
ぐるりと眼だけを動かしてみる。
ここが部屋の中の様だということはわかった。
人の気配はしない。
機械仕掛けのからくり人形のように、男は首をゆっくりと左右に向けてみた。
片方は天井と同じ色の壁がすぐそこに、反対側も同じ色の壁が見える。けれど、ベッドの脇にサイドテーブルがあり、ややスペースがある。
サイドテーブルの上には、スタンド照明とラジオを置かれているのが見えた。
どうやら、他に人はいないようだ。
男はとりあえず、危険はないと判断し、上半身を持ち上げた。
そして、改めて室内を見回す。
単調な壁。
質素な壁面ライトがその壁に四つ付いていて、部屋の中を照らす。
自分のベッド以外は、観音開きの扉とドアが2つ。
窓もない。
部屋の様子からすると、どこかのビジネスホテルの一室のように思える。
ホテルなら、冷蔵庫やテレビくらいありそうなものだが、他には特に、これという設備はない。
感じからすると、観音開きの扉は、おそらく収納スペース。
二つのドアの内、一つのドアは、部屋の角に突き出た箱型についている。
その様相からするとユニットバス。
そして、もう一つのドアは、おそらく出入り口だろう。
「ここはどこだ?」
男は、自分の意識が戻っていることを確認するようにつぶやいた。
しかし、男には、ここに来た記憶もなければ、過去にこの部屋を利用した覚えもなかった。
男はゆっくりとベッドの上を移動し、端に座り直した。
靴底が、微妙な柔らかさを感じるカーペット絨毯の上に接面する。
そっと目を閉じ、耳を研ぎ澄ましてみる。
しかし音は聞こえず、静寂の中にあった。

男は立ち上がり、少し室内を歩いてみることにした。
とはいえ、八畳ほどのスペースが広がるだけの小さな部屋。
さっき見えていた設備以外これという設備や什器類もない。
まずは、観音扉の前へ。
中はやはり収納スペースで、奥行きは予想よりやや広く、収納の中にバーのハンガー掛けがつけられ、数本のハンガーも備えられていた。
その後、部屋の角の飛び出た箱型についているドアを開けてみる。
そこはトイレだった。
車いすが入れそうな広いトイレで、シャワーや浴槽などの入浴設備はなかった。
最後の一つ、出入り口と思われるドア。
覗き穴はなく、外の様子を伺うことはできない。
男はそっとドアノブに手をかける。
「うっ。」
思った以上にドアノブはひんやりと感じ、その驚きに思わず声が漏れた。
手には汗が薄らと浮かび、自分が緊張していることがわかる。
男は一つ深呼吸をした。
そして、慎重にドアノブを回すことに挑戦する。
”ガチッ”
軽音と中音が入り乱れた音とともに、男の手に衝撃が伝わる。
ドアは鍵がかかっていて開かなかった。
視線をドアノブへと向ける。
「フフフ。」
男からは含み笑いが漏れる。
ドアにはつまみ鍵がついていた。
良くドアノブを見ればわかることだった。
「こんなものにも気づかなかったとは。」
男は、鍵つまみに指を伸ばす。
しかし、息が詰まる。
男は一度目を閉じ、再び開けた。
気を取り直してみる。
しかし、それ以上、指先を進めることはできなかった。
「んっ?」
自分のふがいなさに落胆気味に落とした視線の先、男の足元に、何かがあった。
男がゆっくり拾い上げたものは、八つ折りにした新聞だった。
まず新聞を手に取り、中身を確認することにした男は部屋の奥へと戻り、ベッド脇に再び腰を下ろした。

男は一呼吸つくと、左右を見、そしてサイドテーブルの上の電気スタンドの電気をつけた。
男は、手を引き上げようとして、目に留まったラジオへと、引き込み始めた手を伸ばし、今度はラジオのスイッチを入れた。
天気予報が流れてきた。
『次は関東地方南部の天気です。明日の東京23区の天気は・・・・』
そのニュースに、男は少し安心した。
男の住まいは東京だった。
その後、手にしていた新聞を広げた。
<東京新聞>
男は新聞を取っているわけではないが、どこか懐かしさを感じる。
<各地で猛暑。熱中症で搬送患者過去最高。>
新聞一面の見出しが目に入る。
それより男は、日にちが気になった。
天気予報は途中からで、今日の日にちの確認はできなかったからである。
<8月20日>
自分の認識日と相違なかった。
男は緊張が少し和らいだ。
その後、その男の脳裏に再びひとつの思いが浮かんできた。
「私はなぜここにいるのか。」
その疑問が頭に浮かぶと、風船が割られたように、一瞬にして思考回路はそのことに占拠された。
男はじっくりと思い返す。
昨夜は、帰りに歩き酒をしながら帰った。
それを思い出した時、男は慌てて服のポケットを確認する。
手に四角い大きなものが当たり、急いで取り出し、中身を確認する。
現金もカードもすべてそろっていた。
「よかった〜。」
胸をなでおろす。
男は財布をしっかりと閉じ、ポケットに戻した。
その時、手に別の固いものが当たる。
「なんだ、どうして気づかなかったんだ。」
男は少し安堵の表情をしながら固いものを取り出す。
液晶画面のバッテリーの目盛りは満タンを指している。
しかし、アンテナのところには圏外の無情な二文字。
せっかくの安堵の表情も、あっというまに落胆の表情に変わった。
しかし、男はそれほど悲嘆にくれることはなかった。

再び思考を巡らせ始める。
それにしても、財布も携帯電話もそのままある。
物取りでないとすると、怨恨か?身代金か?
しかし、誰かにここまでされるほどの恨みを与えてはいないと思うし、誘拐されるほどの資産家の家でもなければ、高額宝くじに当たったこともない。
いったいどうしてここに私はいるのだろう。
益々怪訝さが増す。
男は再び昨夜のことを思い返す。
家路につく前、男は友人と居酒屋で飲んだ。
生ビールが『これでもかっ』と喉に刺激を与えてきたことを思い出す。
その刺激に、生き返ったように饒舌になり、友人と愚痴大会をしただろうか。
何度も同じことを繰り返したような気がするが・・・。
大した内容ではなかったのか、何を言ったか忘れてしまっている。
昨日は休日で仕事は休み。
それ以前は、家から出てはいなかった。
何度も前日のことを思い返す。
男はそのたびに、脳内疲労を高め、最後には虚空をしばし見つめていた。
ラジオからは、どうでもよい落語が流れていた。

どのくらい経っただろう。
男は思い出したように携帯電話を取り出す。
携帯電話の時刻表示は9:20。
居酒屋を出たのが深夜12時を回っていたから、昨夜からそれほど経過はしていない。
ということは、それほど遠い場所とは思えない。
「これ以上こうしていても。」
男は自分に言い聞かせるように呟くと、両手を両膝に打ち、勢いよく立ち上がった。
出口のドアを見つめ一歩一歩、意を決するように歩を進めた。
出口のドアまでたどり着くとまずは鍵つまみを回す。
”カチッ”
小気味よいラッチの音。
男はドアノブに手をかけると、深く息を吸い込み、一呼吸置いた。
そして、自分の中の負の念を吐き出すように、ゆっくりと息を出した。
「よし!」
一声あげ、男は思い切ってドアを開けた。
突然の強風を肌に感じる。
続いて外の光景を目にとめ、その後、男の全身は凝り固まった。
同時に、頭の中にはあることを思い出していた。
居酒屋で、あの時、友人に言った愚痴の内容を。
「なんで毎日飽きもせずこう暑いんだ!もっと涼しいところに住みたいよな!」
それを何度繰り返したことだろう。
ただ、これほどの場所は想像してはいなかった。
外界は一面白銀の世界。
扉を抜けたらそこは、雪国だった。

白い部屋

白い部屋

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-22

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