ガルトムーアの魔女 第1部 

プロローグ 伝説は真実だと証明してみせましょう

 わたしの名前はユースタス、ユースタス・ガルノートン。わたしは寝台に臥している。幾度も寝返りをうっては枕に頬をうずめてみる。
 シーツの糊がききすぎていた。また洗濯係りがかわるのだろうか。この舘ではポーチドエッグの硬さで料理人がかわったと知れるように、糊付けの加減が洗濯女の交代を教えてくれる。
 わたしは考える。考えようと努める。辞めさせられるのはどの娘だろう。けれどもわたしは週に一度洗濯物をひきとりに来て、それをどこかの村のどこかの川辺でもんだり叩いたりして、それから広げて乾かしアイロンをあて、きちんとたたんでまた舘までとどけに来る、そんな娘なんて、名前どころか顔も見たことがない。
 ごわごわした生地のエプロンをつけた顔のない娘が、ネラ夫人の一見地味だけど上等な絹織物のスカートにすがりついているさまを思い浮かべてみる。後生ですから辞めさせないでくださいまし。けれどもネラ夫人は容赦しない。もしスーザン・ネラに余計な情け心があったら、毎朝食卓にのぼるポーチドエッグはカチカチ。実際のところ、これまで何人の料理人が辞めさせられたことか。だから我らが女中頭ネラ夫人は、この不心得者の洗濯女へもきっぱりと云いわたすことだろう。どうやらおまえは伯爵様ご一家の洗い物を扱うにはふさわしくないようだ、馘よ! そして解雇の噂はたちまちのうちにガルトムーアじゅうに知れわたり、哀れな娘はこの先ろくな仕事にはありつけないだろう。たった一度、糊の量を間違えただけで。
 そんな想像をしてみても、わたしの神経はちっとも慰められない。
 こうして一晩じゅうベッドに横になってはいるけれど、わたしは目蓋をおろさず、ひたすら待っている。待つこと以外に何ができよう。わたしは知っている。認めたくはないがその時は来ている。すぐそこまで。それとも夜明けのほうが早い?
 窓のむこうの空は青みがかった灰色。今は夜でもなく朝でもなく、この世からすっぽりと抜け落ちた時間。風は静まり、鳥もまだ鳴かず、遠くの森は夜の名残りのような影となって地平にのびている。
 あっ。わたしは飛び起きる。今のは鐘の音?
 ああ、やはり鐘の音だ、礼拝堂の鐘が鳴っている。石壁をゆさぶり、青白い空気を震わせ、羊の放牧地へ、ヒースの丘へ、ガルトムーアの果てまでも響きわたってゆく。
 なんてわびしい。そして、なんて恐ろしい。
 一つ、二つ、三つ……わたしは鐘の音を数える、おののく胸を懸命におさえながら。……七つ、八つ、九つ。
 九つ! 臨終を知らせる鐘──
 いいえ、違う。断じて違う。臨終の鐘はつい先月も鳴ったが、あれはジョージ三世、お気の毒にも発狂されたが愛すべき我らが国王の、ご逝去の知らせだった。だから今回だってべつの誰かだ、きっとまた王族の誰かだ、だってこんな辺鄙な土地にも伝令が来るくらいだもの。
 しかしいっときの間をおき、ふたたび鳴りはじめた鐘の音を数え、わたしは打ちのめされた。十八回! つまり死者は十八歳。それはまさしく兄が生きた年数。
 お兄様。やさしかったお兄様。わたしが大人の真似して髪を結ったら、意地悪にも笑い転げたお兄様。今年もっとも注目すべきはこの若き詩人だよと、キーツの詩集を読んで聞かせてくれたお兄様。
 とうとうお兄様が死んでしまった。
 夜が明けるより早かった。

 靴音が近づいてきた。ゆっくりでもなく、しかし慌てているふうでもなく、普段とまったく変わらぬ調子で靴音は近づいてきて、そしてわたしの寝室の前で止まった。ネラ夫人だ。
「お嬢様? ユースタス様? 起きていらっしゃいますか」
「どうぞ入って」
 入ってくるなりネラ夫人はわたしを抱きしめた。
「ユースタス様、お気の毒に」
「ジョン兄様がとうとうお亡くなりになったのね」
「どうか気を強く持って」
「わかっていたわ、この日が来ることは。ええ、わかりすぎるくらいわかっていたのよ!」
 自分でも知らないうちに叫んでいた。叫びの終わりは慟哭だった。わたしを抱くネラ夫人の腕がいっそう強くなる。大声をあげてわたしは泣いた。まるで泣き叫ぶこの声で身の内の恐怖を脅かして、追い出してしまえといわんばかりに。
「わたくしがお守りします、わたくしがきっとユースタス様をお守りします」
 いいえ。誰もわたしを守ることはできない。これはわたしたちガルノートン家の、決して逃れられぬ運命なのだから。
 けれどもネラ夫人の言葉は慰めになった。わたしは次第に落ち着いてきて、小さくしゃくりをあげるだけとなった。ネラ夫人がこの忌まわしい運命から、わたしを救い出すことはできないとわかっていても、やはりわたしは彼女に頼らずにはいられない。わたしの一番古い記憶は、泣きながらネラ夫人を探して廊下をさまよう情景だ。喉が痛いとき、夜中に何度も温めた蜂蜜を持ってきてくれたのもネラ夫人。お父様の葬列で、手をつないでくれたのもネラ夫人。母は神経衰弱のせいでむかしから部屋にこもりがちだった。かつて『鉄の百合』と呼ばれ奉公人たちから恐れられていたネラ夫人だけど、わたしにとっては母以上の存在なのだ。
 ネラ夫人がハンケチでわたしの涙をふいてくれた。すでに新しい喪服を着ている。黒のボンバジーン織りはネラ夫人の厳格さをいっそう際立たせている。髪は後ろへ強く引きつめて、一筋の乱れもない。眼は灰色だった。灰色だが、よく見ると中心の瞳から放射状に広がる筋が、さまざまな色合いを帯びているのをわたしは知っている。頬骨が高いのは気高さの証、唇が薄いのは口が堅い証拠、そして鼻は意志の強さを表している。背が高く大柄で、でも長身の女性にありがちな猫背の癖はなく、身のこなしも堂々としている。それだから余計に頼もしい。奉公人は正しい。ネラ夫人はまさしく百合だ。ひとに愛でてもらうために温室で育てられた百合ではなく、切り立った崖に凛と咲く野生の百合。
「お兄様に最後のお別れをしなくては」
 涙がようやく止まって、わたしは云った。だけどネラ夫人はかぶりを振った。
「弔いの鐘の音だけで我慢なさいませ」
「亡くなったのはわたしの兄よ、どこかの見知らぬ誰かではないわ」
「レディが耐えられるものではありません」
「わたしを誰だと思っているの、わたしはガルノートン家の娘よ」
 廊下はいつにもまして冷え冷えとしていた。幾つもの使われていない部屋の前を通った。普段なら客室のならぶこの区域には滅多に来ない。滞在客は分厚い埃だけ。わたしとネラ夫人の靴音がいやに大きく響く。
 廊下のつきあたりは扉だった。扉はある意味隠し扉で、客室のそれとは違い簡素な羅紗張りで、壁に溶けこんでいる。一見したところ奉公人専用の裏階段への出入り口にしか見えないし、実際その裏階段にもつながっている。ただし、ほかの奉公人用ドアと違うのは、常に施錠されていることだ。わたしたちの住まいガートムーア・ホールは二百年以上もの歴史のある城舘だが、つきあたりのこの壁も、羅紗布の扉も、錠も、まだ新しい。壁をつくってふさいで扉と鍵を取りつけさせたのはネラ夫人だ。
 ネラ夫人は腰にさげた鍵束から迷うことなく一つの鍵を選ぶと、鍵穴にさしこんだ。
 扉があくと埃臭い空気が流れてきた。ネラ夫人の掲げる蝋燭が照らし出す。上へ行く階段、陰に粗末なドア。ドアにはやはり鍵がかけられているが、その奥は地下へとくだる裏階段のはずだ。もちろんわたしが行くべきは上、奉公人の領域など生まれてこのかた一歩だって入ったことはない。
ちらつく蝋燭の灯りをたよりに階段をのぼってゆく。裏階段と違ってこちらは充分に広いし、傾斜もゆったりしている。遠いむかし月の美しい晩、やんごとなき姫君が騎士に手をひかれのぼったこともあっただろう。のちの子孫の苦悩も知らずに。
 階段をのぼりきると扉だった。ネラ夫人はふたたび鍵束から先ほどの鍵をとり、穴にさして扉をあけた。
 あふれんばかりの光に思わずわたしは顔をそむけた。ここは舘の屋上だ。朝の光は眩しく、空は途方もなく広く、風は強い。
 髪を押さえて目指す場所を見る。十ヤードほど先、位置で云えばこの城舘のちょうど中心となるところ、丸天井を掲げた八角形の塔がある。
 わたしは憶えていないけれど、その丸屋根小塔(クーポラ)は本来は玄関ホールから吹き抜けとなっていたそうだ。八角塔というその名のとおり、八つの壁が丸い屋根を支えている。壁にはそれぞれガラス窓があって、太陽が昇ってから沈むまで、それらの窓からいつでも玄関ホールへ陽光が降り注いでいたという。
 それをネラ夫人の指示で改築した。板を張って吹き抜けをふさぎ、屋上へのぼる階段も、壁と隠し扉によって厳重に封鎖した。そうやって屋上の八角塔を完全に孤立させたのだ。それだけでなく塔のすべての窓を、明かりとりのための狭い隙間だけ残してつぶした。そして中にならべて置いたのは寝台。つまり八角塔は隔離部屋なのだ。
 またもやネラ夫人の腰にぶらさがった鍵の出番となった。八角搭の扉が開かれる。
 まばゆいほどの明るさの屋上から、窓のほとんどない八角形の部屋へ踏み入れると、死の世界へ迷いこんだような気持ちになった。わたしをつつんだのは、温かさはもとより冷たさすらない、静寂というより生気というものがまったくない、死にきった空気だった。
 兄のベッドはすぐにわかった。シーツがふくらんでいたから。なんと悲しいふくらみだろう。あそこに横たわっているのは凝縮した死だ。
 でも、せめてもの救いは、ともかくここは清潔に保たれている。すべてネラ夫人のおかげだ。兄がこの部屋に運びこまれてから、ネラ夫人の世話は完璧だっただろう。だってここには割れた食器も、こぼした汚れも、粗相の跡もない。もちろんベッドの乱れもない。わたしはネラ夫人に深く感謝した。せめて上辺だけでもお兄様の最期は穏やかで人間らしくてよかった。
 そう思ったのも束の間、ネラ夫人から蝋燭を借り歩み寄るにつれ、わたしは自分の甘さを思い知らされた。あれは誰。あれがジョン兄様だというの。
ジョンは恐ろしいほど痩せ衰え、しかもこの数ヶ月の苦しみのせいだろう、豊かだった髪は抜け落ち、残った髪も色艶が失われ白髪同然だった。あれでは百歳の老人といわれても疑わない。
 ネラ夫人がわたしから蝋燭を取りあげた。
「もうお部屋にもどりましょう」
「いいえ。ちゃんと、ちゃんとお別れしなくては」
 懸命に、横たわる兄のそばへと足を進める。この八角塔は、伯母様、そして小さいトム兄様が息をひきとった場所でもある。お父様が最期を迎えたのもここだった。枕元に立ってわたしはジョン兄様を見おろした。
 奇妙なことにこうして間近から見ると、ジョンは子どものようにも見えた。極限まで痩せたせいでお兄様の体は、一回りも二回りも小さくなってしまっていたのだ。胸の上で組まされた手は関節が異様に浮き出ている。顔もすっかり縮み、皺んだ薄い皮膚が頭蓋骨をじかに覆っている。眼ばかりが──とくにここが子どもみたいに見えるところだけれど──大きくなってしまって、その眼にかぶさっている目蓋もやはり透けるほどの薄い膜となっている。子どものようであって子どもではなく、老人のようであって老人ではない。もちろん十八の若者には見えない。これは抜け殻だ。あの美しく聡明だった兄の抜け殻。魔女にとりつかれ、さんざん玩ばれたあとの残骸。
 わたしは跪いた。そろそろとお兄様の顔へ自分の顔を近づけていった。けれど唇が触れる寸前、ネラ夫人がわたしの肩をつかんだ。「なりません」
「なぜ?」
「おわかりのはずでしょう、直に触れてはならない決まりです。魔女がまだ兄上様の体の中にいるかもしれないのですよ」
「厭よ、お兄様にお別れのキスをするのよ」
「なりません」
 わたしは一瞬だけネラ夫人を睨むと、それから素早く首をお兄様へ突き出した。だけどネラ夫人のほうが早かった。あろうことかわたしの頬を打った。その反動というよりも驚きのせいで、わたしは床に倒れてしまった。敷物のどこか獣臭い匂いを感じながら、幾度も胸の中で繰り返す。ネラ夫人がわたしをぶった、わたしをぶった、わたしをぶった!
「わたくしは謝りませんよ」
 頭上から云い放たれた。
「わたくしの仕事はユースタス様をお守りすることでございます」
 無駄よ。
 決まりなんて守ってどうなるの、どうせわたしもいつかお兄様のようになる。三年後か、十年先か、いいえ、それは明日かもしれない、一時間後かもしれない。ガルノートン家は呪われている。一族の者はみな魔女にとりつかれ、苦しみぬいて死ぬ運命なのだ。
「いいえユースタス様。ご安心ください、ユースタス様は必ずわたくしがお守りします。ええ大丈夫ですとも、」手をとってわたしを立たせ、
「このスーザン・ネラがむざむざとお嬢様を死なせるものですか。なぜならユースタス様は、一族のたった一つの希望なのですから」
 希望? まあ嬉しいこと、なんて素敵な皮肉でしょう。
しかしネラ夫人はあくまでつづけるのだ。あまりに虚しくて愚かしい言葉をならべたてるのだ。
「ユースタス様なら一族を救えます。ユースタス様は救世主なのですよ」
「何を云い出すことやら。ああ、わたしを元気づけようとしているのね」
「お嬢様、わたくしの話をお聞きください、お嬢様ならガルノートン家を救えるのですよ」
「あのね、こんな絶望しかない状況では安易な励ましはかえって毒なの、わかって?」
「これはお嬢様の使命です、お嬢様しかできぬことなのです」
「いい加減にして頂戴!」
「お聞きくださいっ!」
 思わずわたしは黙った。こんな真剣なネラ夫人ははじめてだ。
「わたくしが今までお嬢様に偽りを云ったことがございますか? これは励ましでも言葉のあやでもございません、これは真実なのです、秘密の真実です。よろしいですか、こころしてお聞きください、わたくしは魔女の呪いを解くたった一つの方法を知っております」
 絶望も怒りも、そして思考までもが消えた。ネラ夫人の眼はまるで嵐の吹き荒れる冬のガルトムーアだ。わたしは吸いこまれそうだ。
「ユースタス様だけなのですよ! ユースタス様だけが、忌まわしい呪いを終わらせることができるのですよ!」
 聞き取れなかった。わたしの耳の中で鳴っていたのはムーアの木枯らしだった。やがて吹きすさぶ風の音は、外からも聞こえてきた。ネラ夫人だった。ネラ夫人が声をたてて笑っているのだった。
「何を、何を笑っているの」
「申し訳ございません、しかしわたくしは嬉しいのでございます、ようやくこの日が来たのです、不謹慎は承知です、ですが、ジョン様がお亡くなりになったことはまことに悔やまれますが、実は幸いなのでございます」
「まあ! あなたったら、なんと不謹慎な──」
「ええ、ええ、ジョン様ではいけませんでした、ジョン様では駄目だったのです。伝説ですよ」
「何?」
「伝説が告げているのです」
「伝説ですって?」
「魔女の呪いを終わらせる伝説です」
 何を云っているのだろう。ネラ夫人の顔は輝き、自信に満ちている。わたしはうろたえ、怯えている。幾度も言葉を呑みこんだ。そしてやっと口に出したときにはなじる調子になってしまった。
「呪いを終わらせる──あなたはそう云うけれど、でも、もしほんとうにそんなことができるのなら、なぜ今まで誰もやらなかったの。ジョン兄様や伯母様、小さいトム兄さん、そしてお父様も、どうして死ななくてはならなかったの」
「ユースタス様にしかできぬことなのです、すべて伝説が語っていることです」
「伝説が──、このわたしが──、何ですって?」
「ええ、ええ、おわかりにならないでしょうとも。わたくしが用心に用心を重ね、守ってきた秘密でございます。お嬢様の秘密でありながらご自身でさえ知れないように守ってきた、秘密でございます」
 一家の最後の男子であった兄が亡くなり、ネラ夫人もついにおかしくなってしまったのだろうか。けれどもその眼差しはこのうえなく真剣で、そして燃えさかっている。
「お嬢さまは特別なのですよ。お嬢さまは呪いを終わらせるために生まれてきた、特別な娘なのですよ」
 そうしてネラ夫人が次にわたしを唖然とさせたことには、勢いよく自分のスカートをまくりあげたのだ。
 そしてさらけだされたのは、下着をはいていない生白い足──
「まずはこれをご覧くださいませ。伝説は真実だと証明してみせましょう」

ユースタス1 だったらお姉様はひっこんでらっしゃればいいのだわ

 まだ? ロンドンからの馬車はまだ?
 今わたしは失神寸前だ。おろしたてのモロッコ革の手袋をためしているけれど、心臓は高鳴り、指は震え、手袋もとり落としそうだ。緊張と不安と怖気。そしていくばくかの期待。ロンドンからの馬車はまだ?
 眼の前に突っ立っているのは煤だらけの顔、染みだらけのエプロン、室内帽すらまともにかぶれないのか前後ろで、もつれた髪がはみ出ている。ネラ夫人が紹介した。「この娘が当分のあいだご用を言いつかります」
 しかしわたしは上の空。ロンドンからの馬車はいつ到着するの? 
 下女が眼を真ん丸にしてわたしを眺めまわしている。睨みつけてやったら、にたっと笑い返してきた。まっ、なんなのこの子?
「申し訳ありません、なにぶんこの娘も──」ネラ夫人は言葉を濁した。
 ため息とともにわたしは頷く。ええ、わかっていてよ。
 白痴なのだ。前の下女ものろまで鈍くて、おまけに──けれどもこれがガルノートン家の奉公人の必須条件だ──唖者だった。
「前の下女はしばらくお暇をいただきたいと。どうやら体の具合が悪いらしく」
「あんなに丈夫そうだったのに?」
 図体ばかり大きい下女だった。口は利けなくても力仕事は楽々とこなしていた。それにくらべ今度の下女は、馬鹿なのは仕方ないにしてもずいぶんと頼りなさそう。歳はわたしとそう変わらないようだけど。
「この娘は今までは階下(した)で下働きを専門にさせておりました」
「結構よ」わたしは手袋を鏡台へ放った。「そんなことより、早く着がえさせて頂戴」ぐずぐずしていたら馬車が到着してしまう。
 ネラ夫人が続き部屋にドレスを取りにいき、わたしは白痴娘と残された。娘がまた笑いかけてきた。一体何が楽しいのかしら。咳払いをしてやる。すぐさまネラ夫人がもどってきて下女を叱りつけた。「さっさとお下がり! ユースタス様がお着がえできないだろう」
 跳びあがって出てゆく。バタバタ走るのではない! というネラ夫人の叱責も追いつかない。
「気が利かない娘で申し訳ございません」
「仕方ないわ、気が利く娘は眼も耳も利くでしょうからね」
 ネラ夫人と二人きりになったので、ようやく着がえができる。
 ドレスはてかてかとやたら生地が光っていて、レースも複雑に縫いつけてあった。趣味が良いのか悪いのか、正直いってわたしにはわからなかった。けれどもネラ夫人の見立てだ、間違いがあるはずがない。手袋と同様ドレスも新調した。シュミーズもドロワーズも、そして髪飾りも。すべてネラ夫人が今日この日のために用意してくれた。あれから一年経った。六ヶ月前には兄のジョンの喪もあけ、わたしは十四歳になった。今日は記念すべき日。いよいよはじまる日。今日、わたしは、我がガルノートン家の救世主となるための第一歩を踏み出すのだ。
 必ずやわたしが魔女の呪いを終わらせてみせる。
 ネラ夫人が背中にまわってコルセットの紐を締めあげる。胴を圧迫されるにつれわたしの中から怖気がしぼり出され、その空いたところに期待と興奮が膨らんでゆく。こらえきれないほどに。ほんとうに失神してしまうかもしれない。まだ? ロンドンからの馬車はまだ? いいえ失神などしている場合ではない。伯爵様はいついらっしゃるのだろう?
 足が震えている。膝と膝がぶつかるほど震えている。いいえ、これは武者震いよ。そこへすとんとスカートが落ちてきた。ネラ夫人がわたしに頭からドレスをかぶせたのだ。スカートがわたしの足を隠している。昨日までとなんという違い! 昨日までわたしの足を隠していたのは長ズボン下(パンタレット)だった。すなわち、昨日までわたしは子どもだった。けれどもネラ夫人がわたしを裾の長いドレスに着替えさせ、わたしはいまや大人に、一人前の貴婦人に、なったのだ。
「香水を取って頂戴」
 いつも以上に念入りに香水をふりかける。今日という日を、記念すべき第一歩を、絶対にしくじらないために。



 大人のドレスに身をつつんだわたしが居間におりていったときの姉の反応といったら! マミーリアは椅子から跳びあがって立ち、馬鹿みたいに口を十秒はあけっぱなしにしていた。
「ユースタスったら、あらまあ、いっぱしに貴婦人のつもり? でもそのドレスはなんなの? ウェストが下すぎるわ、裁断を間違えたんじゃなくて? それにその袖はなんなの、まるで羊の脚じゃない」
 せいぜいくさしてマミーリアが笑う。姉は知らないのだ、ウェストラインの下がったこの型がロンドンの都会では最新流行なのだと。わたしだって知らなかった。ここヨークシャの田舎では知りようがない。ガルトムーアの荒野を越えてやってくるのは風だけ。亡くなったジョン兄様だって、書物を取り寄せるのに三月もかかっていたのだから。
 マミーリアがまた笑った。けれど今度の笑いは嘲りではなく、暗く澱んでいた。諦め、哀しみ、そして自虐。云い返すことはしまい。理由は充分にわかっている。
わたしより四つ年上のこの姉は、三人姉妹のうちでもっとも注目される容姿の持ち主だろう。髪は輝く金髪、瞳はサファイアの青。そのうえ普段からお洒落に熱心なマミーリアは、どうすれば自分が一番魅力的に見えるかも熟知している。それなのに特別な日であるはずの今日、マミーリアは普段着のまま、髪も結ってはあるもののおざなりで、お気に入りの琥珀のペンダントだってかけていない。ご自慢の金髪に似合うとあんなに見せびらかしていたのに。
 つまり姉はおりたのか?
 馬車は来ない。蹄の音も車輪の音もまだしない。聞こえてくるのは鳥の囀りだけ。
「滑稽だわ」
 あなたのドレスのことじゃあないのよと前置きして、マミーリアはつづけた。
「わたしたち姉妹、みんなが滑稽だと云ったのよ。まだ十四のあなたまでこうして着飾って、ほんの数週間前までそんな人がいるなんて知りもしなかった伯爵様が到着するのを、今か今かと待っている。これが滑稽でなくてなんだというのかしら」
 だったらお姉様はひっこんでらして。競争相手は少ないほうがいいに決まってるもの。
「結婚なんて真っ平よ!」
 マミーリアが吐き捨てた。
 すかさず云い返す。
「わたしは結婚するわ、新しい伯爵と」
 そう。今日、馬車でやってくるのは新しいガルトン伯爵。亡き兄ジョン・ガルノートンから爵位を継いだ、第十七代ガルトン伯爵なのだ。
 兄が亡くなりガルノートン家には男子がいなくなってしまった。それで分家の、しかもつい最近までその存在さえ忘れ去られていた人物が、わたしたちの城ガルトムーア・ホールと、わたしたちの領地ガルトムーアの主に成りあがった、というわけなのだ。なんともやりきれないこと。でも仕方がないのだ。爵位と領地を相続できるのは男子のみ、女であるわたしたち娘にはその権利はないのだから。
 けれども、おお、ありがたきことには、慈悲深くも新しい伯爵様は寄る辺ない身の上となったわたしたち家族を城から追い出さずにいてくださるという。養ってくださるという。その条件として、わたしたち三姉妹のうちの誰かが伯爵の妻となるのだ。
 かくてわたしたち姉妹は、伯爵をめぐって競うこととなったのだ。三人のうちの誰が新しい伯爵様のお眼鏡にかなうのか。
「ユースタス、あなた頭がおかしいんじゃない? だって伯爵は──」口ごもる。わたしも聞きたくなかった。それは考えるのを避けてきた問題だ。
「いいわ、お姉様は競争からおりたらいいのだわ、あとはわたしに任せて頂戴」
「馬鹿ねユースタスったら、アンヌ・マリーのせいで自棄になったのね」
「しッ!」
 が、止めるより先に扉が開いた。けれど入ってきたのは三姉妹の長姉、ユリアだった。ほっとする。マミーリアが下品な鼻息の音をたてる。
「ふん、伯爵はまだよ、聞かれるわけないわ」
「でもくれぐれも気をつけて頂戴、お姉様は口が軽い──」扇子が飛んできた。かすりもしなかった。「生意気な子、あんたが結婚ですって? ふん、子どものくせに」なんて愚かな姉だろう、いつかわたしに感謝する日が来るとも知らずに。
 ユリアが割って入った。
「喧嘩はよしましょう」
 やさしく公平に諌める。
「わたしたち、三人きりの姉妹でしょう」
「だって姉様、マミーリアが魔女の名を云ったの」
「だって姉様、ユースタスったら、自分が新しい伯爵の花嫁になるんですって」
 返ってきたのは深いため息。そして眼を伏せたのはやはり哀しみのためだったのだろう。だけどふたたびユリアの眼差しがあがったとき、はっとさせられてしまった。
 清楚な美しさとでもいおうか、マミーリアにはない気品がにじみ出ている。これなら伯爵もユリアに惹かれるかもしれない。華やかなマミーリアが一番の強敵だと思っていたけれど、もしや警戒すべきはユリア姉様のほうだったか。
 ユリアがわたしに笑みを送ってきた。それは寛大な年長者が若輩者に示す慰めだった。頬が熱くなる。見られまいと後ろをむく。すると眼に入ったのは壁にかかった鏡だった。
 顔の両脇にたらした髪は鏝で丹念に巻いている。ドレスはサテン、この羊の脚みたいな形の袖はジゴ袖といって、型紙をわざわざフランスから取り寄せたとネラ夫人が云っていた。しかし肝心の顔は……
 醜くはないが美しくもない。髪の色はありふれた茶色、肌の色ときたらなんとまあ健康そうなこと、これで貴族の令嬢? どんなに着飾っても顔立ちは平凡な娘、それが鏡に映ったわたしだった。
 口惜しいけれどマミーリアのいうとおりだ。二人の姉にくらべたら、わたしは年端もいかぬ子どもにしか見られないだろう。たいていの殿方はマミーリアの美貌に眼がくらむだろう。中身を重んじるかただったらユリアを選ぶ、たとえ二十歳をすぎた年増であってもだ。まして伯爵は──いいえ、これは考えては駄目、いくらなんでも惨めすぎる。
 ともかくどれほど不利であろうとも、わたしはなんとしても選ばれねばならない。新しい伯爵の花嫁にならねばならない。
「むしろわたしは感謝しているの」
 ユリアが云った。
「だってわたしたちの|城舘≪いえ≫と土地を継いでくれる身内がいたんですもの。お父様に叔父様がいたことがわかったのは幸いだったわ、これで家名も財産も守られる」
 父に叔父がいるなんて誰も知らなかった。知っていたのは女中頭のネラ夫人だけだ。父はいまわのきわに──十年前のことだ。そのときわたしはまだ四歳で、恐ろしくも哀れな父の状態を目の当たりにしながら何が起こっているのか理解できていなかった。でも今は思い知っている、充分すぎるほどに!──万が一のときのためにと叔父の存在を、ネラ夫人にだけ打ち明けたのだという。ああ、お父様、賢明な判断よ! 
「でもあんまりよ、結婚だなんて」
 嘆くマミーリアをユリアが諭す。
「だってマミーリア、この舘から出されてしまったら、わたしたちはどうやって生きていけて? 結婚がもっとも確実な方法なのよ」
「でも、だからといって」
「悲しむことはありません、伯爵様とはわたしが結婚します、長女ですもの」
「じゃあ、お姉様は平気なの」
「喜ぶべきなのよ。結婚の機会が世間並みにわたしたちにもあたえられたのだから。だってわかっているでしょう、いずれわたしたちもみなアンヌ・マリーに──」
「ユリア姉様!」わたしは叫び、そして唇に人差し指を立て、しいいいいッ。
 ユリアも慌てて両手で口をふさぐ。
 新しい伯爵を迎えるにあたって、わたしたちはネラ夫人からきつく云いわたされているのだ。魔女の呪いについて、いっさい口にしてはならない。もし伯爵が魔女の存在に気づいたらガルノートン家はおしまいだ、きっと逃げ帰ってしまうだろうから。
 ともかく、とユリアがわたしたちに頷いて見せた。
「伯爵様はわたしたちの救世主です。伯爵様は寛大にも妻の家族を追い出したりはせず、養ってくださるとおっしゃっているのですから。失礼のないようお迎えしましょうね」
 違う。救世主はわたしだ。
一家の最後の男子だったジョン兄様を亡くしたのは、確かに不幸だった。けれどもこの先それは幸運に転じるはず。わたしが伯爵と結婚さえすれば。
「結婚なんて耐えられない!」 
マミーリアが叫ぶ。
「だって伯爵は七十二歳なのよ、よぼよぼのおじいさんなのよっ」
 涙をにじませている。ユリア姉様もうなだれている。わたしも拳を握りしめていた。
 拳の中で握りつぶしたかったのはこの事実。ずっと考えないようにしてきた。第十七代ガルトン伯爵となるひと、ガルトムーアの領主となり、わたしたちのうちの一人と結婚する男性、それはもう七十二歳の老人だという。
 わたしは云った、今にもわななき出しそうな体を無理やりおさえ、ことさら冷淡に。
「だったら姉様はひっこんでらっしゃればいいのだわ」
 老人だからなんだというのだ。伯爵がたとえムーアの泥沼を跳ねまわるヒキガエルだったとしても、わたしは結婚してみせる。馬車はまだか。急がねばならない。わたしにはあとどれほどの猶予が残されているのだろう。魔女はいつ杖を振りおろすだろう。次に呪いの犠牲になるのは、誰? そしていつ?
 まさにそのとき聞こえてきた。蹄が土を蹴る音、車輪が軽快に回転する音、ぴしりと鳴る鋭い鞭。ここ久しくガルトムーア・ホールでは耳にしなかった音だ。
 どう、どう、と野太い掛け声とともに蹄と車輪の音が止まった。わたしたちは居間を飛び出し、外を見おろせる窓へと駆けよった。舘の玄関の前に、二頭立ての箱型四輪馬車が停まっていた。
「馬車よ」
 わかりきったことをマミーリアが囁いた。けれどこの姉がつづけた言葉は、わたしたち全員の心をかき乱した。
「いらしたんだわ、ついに伯爵がいらしたんだわ!」
 新しい伯爵が到着した。わたしの結婚相手が来た。香水は? 大丈夫、ちゃんとつけてる、忘れてない。
 わたしたちは窓辺で押しあいへしあいする。けれどここからでは突き出した玄関アーチが邪魔をして、馬車の前半分しか見えない。
「降りてらしたわ」
 いちいちうるさいマミーリア、少しはその軽薄な口を閉じてほしい。でもマミーリアの云ったとおり馬車の扉が開かれた。
 どうかお願い、なるだけこざっぱりした見た目のよいおじいさんでありますように。せめて腰が曲がっていませんように。白髪なのは仕方ないけれど、できれば頭に毛が残っていますように。
 馬車の扉が邪魔してテイルコートの裾しか見えない。灰色の長ズボンもちらりと覗いた。それだけだ。わたしたち姉妹はため息をついた。
 するとまた扉の陰で赤いものが閃いた。二人目? なぜ? 誰? まあ! 二人目の上着(コート)は赤色! そしてズボンは白、裾をブーツに入れている。ぴったりした皺ひとつないズボン──
 降りてきたのはその二人だった。
 ネラ夫人の出迎えの口上が聞こえてきた。そうしてわたしたちは大急ぎで居間にもどり、ソファで本を開くなり、やりかけの刺繍を持つなりして、誰かが呼びに来るまですまして待っていた。



 第十七代ガルトン伯爵であり、またこの城舘ガルトムーア・ホールの主であるかたとお会いするのだから、わたしたちのほうから出むくのは当然だった。ユリアの細い顎が震えている。さすがのマミーリアも口を閉じている。わたしだって息を吸っても吸っても苦しい。
 やっと大広間の扉があけられた。まずネラ夫人がわたしたちを迎えた。おやっ、動揺している? 鉄の百合と綽名された女中頭が? ものいいたげに夫人は眼差しをよこしてくる。灰色の、冬のガルトムーアよりも冷たく厳しい瞳が、今は揺らいでいる。そこににじみ出ているのは困惑と、そして一体何があったというのだろう、怒りだった。
 ユリアから順に大広間に入る。わたしは素早く中を見まわす。すすけた壁に、色が変わってしまったつづれ織り(タペストリー)、天井のシャンデリアからふわふわと何かが落ちてくる。普段はこの部屋は閉めきっている。お客様などもう何年も迎えいれたことがないのだ。見つけた! 客人だ、あんな隅のほうで何を? 書物のしまってあるキャビネットにはりついて、長い体を折ったりのばしたりしている。わたしはネラ夫人へ首をねじ曲げた。小声で夫人はこたえた。すでにいつもの冷静さをとりもどしていた。「あれはお付きのかたです」
 なるほど、そうでしょうとも、その男性は七十二歳の老人には見えなかった。年齢は亡くなったお兄様よりもずいぶんと上、三十歳をこえているだろうか。ひょっとして三十五歳? 従者らしく控えめな服装から、馬車から先に降りた人物だろうとわたしは考えた。眼鏡をかけている。話には聞いていたけれど、わたしは眼鏡をかけているひとをはじめて見た。それにしても無礼ではないだろうか、下僕のくせに本なんかに夢中で挨拶もない。それとも伯爵の慈悲にすがろうとしているわたしたちなど、挨拶する価値もないということなのか。このひとがネラ夫人の怒りの原因?
 新しい伯爵様はどこ?
 伯爵は、あちこちをむいて置かれたソファや長椅子の群れの、いちばん奥だった。そのソファは暖炉のそばの特等席で、こちらに背をむけていて、そこに伯爵は深く身を沈めていた。見えるのは片方の肘掛けに置かれた肘だけ。赤い袖だ。そう、馬車から降りてきたのは赤いテイルコートだった。
 わたしたちは遠慮がちに進み、ソファの背後で止まり、そして待った。
 しかし腕はいっこうに動こうとしない。お付きの眼鏡の男性も知らん顔だ。放っておかれたわたしたち姉妹はそわそわと、眼で問いあい、かぶりを振りあった。
 ついにネラ夫人が口を開いた。でもその声の調子といったら、まるで喉から蛇でも吐き出すかのようだった。
「伯爵様。お嬢様がたがお見えになりました」
 ガルトン伯爵は微動だにしない。ネラ夫人は咳払いし、ふたたび云った。こんどの蛇はきっと角と大きな牙が生えている。
「伯爵様、お嬢様がたをご紹介申しあげます」
 肘掛けの腕が動いた。立った。最初に感じたのは背の低いかただわ、ということだった。けれどテイルコートを翻して振り返ったその姿に、わたしは言葉を失った。自分の眼が信じられない。姉たちの息を呑む気配が伝わってくる。
 誰なの? これはどういうことなの?
 たっぷりした巻き毛が耳を隠し、やわらかく首筋までたれている。白髪どころか艶やかな茶色。わたしの髪よりも濃い。二つの瞳はいきいきと輝いている。ひきしまった顎、血色のよい肌、小柄ではあるけれどとても伸びやかな肢体。
 少年だった。お付きの眼鏡よりも、もっとずっと若い男の子だった。何歳? わたしより下? 上?
「何よこの子、伯爵様はどこにいらっしゃるのッ」マミーリアが金切り声をあげた。わたしもネラ夫人へ振り返る。またもマミーリアが、「どうなっているのよ、わたしは伯爵様に会いに来たのよッ」
「下品な女だな」
 一瞬で部屋が静まりかえった。今、誰が云った?
「こっちの年増は澄まし屋か」
 少年だった。顎でユリアを指し、そう云った。ざらりとした感触の声だった。けれど高い。声変わりしていないのだ。まだほんの子どもなのだ。
 少年の視線がユリアからわたしに移る。突き刺すかのように凝視してくる。その圧力まで感じて、わたしは身じろぎしてしまう。ふふっと少年が笑う。唇の片端だけをあげて。やわらかそうな、大人になりきっていない唇。だけど、なんという厭な笑いかた!
「そしておまえは、胸糞悪い道化」
 耳を疑った。何と云った? この少年はわたしのことを何と云った? 
 おもむろに少年が半身を折った。礼をしたのだった。礼儀にかなった、非の打ちどころのない、すばらしく優雅なお辞儀だった。
「第十七代ガルトン伯ブラッド・ガルノートンです。どうぞお見知りおきを」
 とたん、爆発でもしたように笑い出す。華奢な体をゆすって、口を馬鹿みたいに大きくあけ、腹の底から笑っている。けたたましい、耳が痛くなる、いったい何が可笑しいというの、狂っている。
 笑い声にようやく眼鏡男も本から顔をあげ、ご主人様の狂乱ぶりと愕然としているわたしたちを見比べた。そのさも嬉しそうなようすに、わたしはもう我慢がならなかった。
 ガルトン伯爵と名乗った少年の無礼は長くはつづかなかった。高らかな破裂音とともに少年の笑いは止まった。わたしがひっぱたいてやったのだ、思いっきり。
 少年とわたしは背丈も体格も、ほとんどかわらなかった。少年ははり飛ばされてよろけ、ソファへ倒れこんだ。眼鏡男がすっとんで助けにきた。でもわたしはそれを最後まで見ず、さっさと大広間をあとにした。



 寝室に駆けこむなり扇子を放り手袋も投げ捨てた。ベッドに突っ伏して枕を滅茶苦茶に叩いた。それから起きあがって髪をかきむしった。
 爪を噛んでいたら暖炉のわきに炉ブラシが落ちているのが目にとまった。下女が掃除したあと忘れていったに違いない。今朝紹介されたあの娘だ。前の下女が病気でその代理だと云っていたっけ。よくもまあ出来損ないばかり集めてくること。前のは呆れるほどなりが大きくて、見た目どおり愚鈍だった。今度の小さいほうはそれ以上に役立たずだ。腹いせにたっぷり叱ってやろう、そう思って呼び出しベルへ手をのばしかけたとき、ドアがノックされた。
 ネラ夫人だった。待ちかねていた。つめよった。
「どういうことなの、いったいあの子は何者なの、わたしが何ですって、胸糞悪いですって」
「そのような下品な言葉をお嬢様が口にされてはいけません。いえ、わたくしも驚いております、どこかで手違いが生じたようなのです、いいえ、すべてはわたくしの落ち度でございます」
「きっとわたしがお姉様たちと比べて美しくないといっているのよ、そりゃあ似てなくて当然でしょう? 母親が違うんですもの」
「あのかたは奥様がお出しになった手紙をお持ちになっていました、父上様の叔父、つまりユースタス様にとっては大叔父様にあたる、新しくガルトン伯爵となるおかたへあてた手紙です」
「でも大叔父様は七十二歳の老人なのでしょ、あれが七十二ならわたしも立派な老婆ね」
「大叔父様というかたはかなりの放蕩者でいらっしゃったようで、長らくインドをわたり歩き、ロンドンへ帰ってきてからも職や住まいを転々としていた、それでこれまで杳として行方が知れなかった、というのがとどけられた調査結果でした。今日いらしたあの若いかたは、その大叔父様の御子息なのです、ブラッドという名も父親の名をもらったのだそうです」
「御子息──」
「大叔父様はとうの昔に亡くなったそうなのです、御子息がまだ乳飲み子のころに」
「亡くなった──」
 そこからわたしとネラ夫人は眼差しだけで会話する。魔女の仕業かしら。はい、おそらくは。
「それであの子の母親は?」
「やはり亡くなったとか、出産のおりに。きっとろくな手当ても受けられなかったのでしょう、流れの刃物研ぎの娘だったといいますから」
「では、あの子は生まれたときから天涯孤独の孤児なのね、つまりわたしが云いたいのは、」
 ふたたび眼差しの会話。あの少年は父親の死に様を知らないのね。ええ、大丈夫でございます、乳飲み子がどうして知り得ましょう、父親が魔女に呪い殺されたなどと。
「お調べいたしますか、大叔父様がどのような最期を迎えられたか」
「いいえ、過ぎたことよりこれからを考えなくては。ともかく次の伯爵はあの子というわけなのね?」
「ええ。大叔父様が亡くなったとあれば、相続権があるのは御子息のブラッド様、ということになりましょう」
 同時に長いため息をつく。それからつい、こぼしてしまった。
「ではわたしはあの子と結婚するわけね。素性からすると充分に紳士教育を受けたとは期待できないわね、腰の曲がったおじいさんとどっちがましかしら」
 ところがネラ夫人の口からもれたのは、
「何一つまともにできない」
 拳を額に押しつけている。拳が額を小さく打ちはじめる。いつもの考えごとをするときのネラ夫人の癖だ。
「ねえ、何のこと?」
 しかしネラ夫人は顔をあげ、何でもないというように、
「ずさんな調査のことですよ、弁護士への調査料をさっぴいてやらなくては」
 どこか納得できなかった。さぐるように夫人の顔を覗きこんだ。そうしたらネラ夫人の両手があがった、降参、と。
「まったく、びっくりさせてさしあげようと思ってましたのに。お嬢様はすべてお見通しですね」
 何を云われているのかわからない。しかしネラ夫人はにこやかにわたしに頷きかけ、奥の続き部屋へと姿を消す。衣装箪笥をあける音がする。
 やがて現れたネラ夫人が両手に抱えていたのはドレスだった。今朝につづいてまたもや新しいドレスだ。
「どうして──」
「さて、どうしてでございましょう、どうしてわたくしにお嬢様の望みがわかるのでしょう」
「わたしの望みですって」何のこと?
「わたくしはユースタス様のお考えは全部承知しておりますよ、ユースタス様がわたくしの考えを手にとるように見抜いてらっしゃるように。わたくしたちは二人で一人、そうでございましょう?」
「あっそうね、確かにわたしには新しいディナードレスが必要だわ」今夜の食事は新しい伯爵を迎えての、はじめての正餐となるのだ。
 美しいドレスだと云わねばならないだろう。まるで妖精の羽のよう。しかしくるぶしまであるスカートの丈を見ると、云いようのない怒りがまたこみあげてくる。
「あの子に道化と云われたわ、とってつけたように大人の恰好をして滑稽だってことよ」
 そしてさらに滑稽なのは、これからわたしたち姉妹はなんとか求婚してもらおうと、よってたかって子どもの機嫌をとらなくてはならないのだ。跡取りを失った貴族がこれほど惨めなものだなんて。わたしの誇りはずたずただ。
「ユースタス様」
 ムーアの冬よりも厳しい灰色の眼がわたしを見据えている。
「ユースタス様はお忘れですか、あの日のことを、わたくしたちの誓いを」
 あの日。兄のジョンが亡くなったあの朝。忘れるわけがない。わたしの秘密を、わたしにあたえられた使命を、はじめて知った日だもの。
「お嬢様はおっしゃいました、ガルノートン家を魔女の呪いから救うのはほかの誰でもない、ご自分だと。そしてわたくしも誓ったのでございます、そんなお嬢様を支えてさしあげるのは、ほかの誰でもない、このスーザン・ネラだと」
「ええ、そうね、そうだった」ありったけの闘志をかき集める。「もちろん忘れてなどいなくてよ。ただちょっと戸惑ってしまったの、相手がお年寄りではなくあんな子どもで、おまけに無作法で、乱暴で──」
 ネラ夫人の眉があがる。
「おや。わたくしの記憶では、無作法で乱暴なのはお嬢様も負けてはいませんでしたよ、まったく見事な平手打ちでした」
「まあどうしましょう、失敗だわ、絶望的だわ、自分をぶった娘と結婚しようなんてひとはいないわ」
「いいえ、おいたした子どもがお仕置きされるのは当然です」
「まあ!」
「お嬢様、新しい伯爵様がまだお若い坊っちゃんだったのは、わたくしたちにとって幸いかもしれません」
 ネラ夫人はまた拳を額にあてている。とんとん叩いている。
「ええ、そうです、お姉様がたよりユースタス様のほうが有利になったのです」
「なぜ? 有利というのならマミーリア姉様よ、誰よりも美人だわ」
「こう申してはなんですが、マミーリア様は品位に欠けていらっしゃいます」
「だけどユリア姉様がいるわ」
「失礼ながらユリア様はもうとうが立っておられます」
「でもこの家の長女よ」
「殿方は長女だからといってご婦人を気にいるのではございませんよ」
「殿方!」苦い笑いがもれた。「ではわたしたちの殿方は、尊いガルトン伯爵様は、何歳でいらっしゃるの」
「十四歳とお聞きしております」
「十四! 呆れた、わたしとおなじじゃないの」
「お嬢様、男の子というものは、どうしたって年上の女性には気後れするものなのですよ、お嬢様のように同い年の子が心安いんです」
「そうなのかしら」
「まずはお友達のように接しておあげなさい、すぐに打ち解けましょう」
「といってもあんな無礼なひと」
「子どもなんです、虚勢をはっていたんですよ、女には強いところを見せねばと必死だったんです」
 そうだろうか。ほんとうに強がっていただけなんだろうか。わたしは正直に云うとあの少年が怖かった。振る舞いや口の利きかたではない。何かもっと本質的なことだ。彼を前にするとなぜだか自分という存在が、根本から覆されてしまいそうに感じる。
「ユースタス様にひっぱたかれて伯爵様は、きっと一目置くようになったでしょう、素振りには微塵も見せないでしょうがね」
いったんネラ夫人は言葉を切る。それから真顔になって声を潜め、
「ともかく何度も申しあげますが、あのことだけは絶対に知られてはなりませんよ」
 わたしも声を潜め、
「もちろんわかっているわ」
 急に可笑しくなった。それが顔に出たのか、ネラ夫人が訝しげにわたしを見る。
「だってね、秘密を隠しておくことが、わたしたちガルノートン家からの、伯爵を歓迎してのささやかな贈りものということなのよ。つまりわたしたちの思いやりね。ロンドンの賤しいみなしごに突然ふってわいた相続権、今のうちに存分に幸福を味わえばいい、いずれあの伯爵も知るでしょう、自分が相続したのは地位と財産だけじゃないって。どんな顔をするかしら?」
「お嬢様、どうか慎重に」
「大丈夫よ、けっして喋ったりしないから。伯爵に逃げ出されでもしたら大変、誰だって富より命のほうが惜しいでしょうからね」
 しかしたとえ逃げても無駄だろう。すでにアンヌ・マリーは舘のどこからか、あの空っぽの眼窩で、新しい伯爵をしかと見定めたことだろう。もはや彼に逃れる術はない。アンヌ・マリー、邪悪な魔女。二百年も前からこの舘に棲みつき、ガルノートン家を呪っている。呪いは一族を一人また一人と殺し、わがガルノートン家はもはや滅亡寸前。残ったわたしたちは呪いの順番待ちだ。
 可哀相な伯爵様、何も知らないうちにせいぜい楽しみなさい、少々の狼藉は大目に見てさしあげますわ。
 ぞくぞくした感覚がのぼってきて、わたしは昏いよろこびに満たされる。やがてあの生意気な少年も、アンヌ・マリーの影に恐れおののくようになるだろう。そのとき彼はどうするだろう。わたしの足もとにひれ伏すだろうか。
 だって、わたしだけだもの。魔女の呪いをとくことができるのは。
 このわたしだけなのだもの。二百年つづいてきた悪夢を終わらせられるのは。
 わたしは特別な娘。伝説が予言した特別な娘。魔女の呪いから一族を救うという使命を帯びて生まれてきた。
 伝説が告げているのだ。ある特別な娘がガルトムーアの女主人になったとき、アンヌ・マリーの呪いは終わるのだと。
 その特別な娘こそ、わたしなのだ。
 このわたし、ユースタス・ガルノートンがガルトムーアの女主人になれば、一族は忌まわしい運命から解放されるのだ。
 だからなんとしてもわたしは伯爵の花嫁にならねばならぬ。
 兄が亡くなったとき、ネラ夫人は不幸ではなく幸いだと云った。せっかく特別な娘として生まれてきても、兄がガルトン伯爵であるかぎり、わたしに使命を果たす術はなかったのだ。なぜならガルトン伯爵の妹という身分は、ガルトムーアの女主人ではないからだ。女主人とは一家の当主の妻。ガルトン伯爵の妻となってこそ、わたしはガルトムーアの女主人の地位につけるのだ。兄が亡くなったことにより我が家は跡取りを失った。だがその結果、相続人として分家の男子がやってきた。兄妹どうしでは結婚はかなわないが、新しいガルトン伯爵とならわたしは結婚できる。これぞ神の計らい。神様がわたしに使命を果たす機会をあたえてくれた。
 だからわたしはなんとしても第十七代ガルトン伯爵ブラッドの妻になる。
「ああ、まどろっこしいこと。ときどき、何もかもぶちまけたくなってしまうわ。ねえ、お姉様たちになら、わたしの秘密を明かしたってかまわないのではなくって?」
「何をおっしゃるのですお嬢様!」
「だって呪いがとけるのよ、承知するほかないわ、伯爵と結婚するのはこのわたしだって」
「お嬢様は何もわかってらっしゃらない、ことはそんなに単純ではございません」
「わかっているわよ」
「いいえ、わかっておられません。わたくしがお嬢様の秘密を隠しとおすのに、どれほど苦労してきたか」
「あなたの忠誠には感謝しているわ」皮肉を少々まぶして「わたしが特別な娘であることを生まれてこのかたずっと、このわたし自身にまで、隠してきたんですものね」
「台無しになさるおつもりですか!」
 心臓が一瞬止まった。
「名誉ある使命を、お嬢様だけにあたえられた使命を、やっとはたせるときが来たというのに、軽率にもお嬢様はふいにされてしまうのですか!」
 何も云い返せない、動けない。
「お嬢様、よろしいですか、肝にお銘じください」
 ネラ夫人の声は凍りついた鉄格子だ。触れた皮膚も凍ってはりつき、無理にはがせば破れて血を流す。
「お嬢様の秘密が明らかになってしまったら、伯爵様との結婚はまずございませんでしょう。アンヌ・マリーは実に狡猾です。そして底意地が悪い。なるほど呪いを終わらせるには、特別な娘であるユースタス様が伯爵様と結婚すればいい、ただそれだけです。容易いとお思いですか? あまりに簡単すぎて拍子抜けですか? ところがその特別であることが、つまりユースタス様が持って生まれた秘密が、結婚の最大の障害なのですよ」
 頷いたわけではなかった。頭が自然に垂れたのだった。つかみどころのない、でもずっしりと重いものがのしかかってきて、わたしをうな垂れさせた。
 特別であることが結婚の最大の障害──
 ネラ夫人が両腕をさしのべる。わたしを抱きよせる。
「ユースタス様、心配なさることはありません、お嬢様にはこのわたくしがついております。大丈夫ですよ、万事わたくしにお任せください、お嬢様は必ず成し遂げられます」
 ネラ夫人の手がわたしの髪を撫ぜる。やさしく何度も何度も。
 これはわたしの一番よく知っている手。幼いころから母よりもわたしにたくさん触れてくれた手。


 わがまま坊主をせいぜいもてなしてやろうと、ネラ夫人が料理人のお尻をたたいたのだろう、正餐室のテーブルにならべられた料理は普段より贅沢だった。骨付きの羊肉はこんがりと焼かれソースはクリームがたっぷり。香草はピンとのび、茸のソテーからはまろやかなバターの香りが立ちのぼっている。銀器も丹念に磨きあげられまぶしく光っている。
 そんなご馳走を前にして、わたしたちはじっと動けずにいた。伯爵が、あの鼻持ちならない高慢ちきが、どうしてか手をつけようとしないのだ。主である伯爵が食べないうちはわたしたちも食べるわけにはいかない。
 マミーリアがこれみよがしにため息をついて不機嫌を強調する。わけもわからずディナーをおあずけにされているせいだけではない。初対面での伯爵の暴言が許せないのだ。ところが彼女のいでたちときたら、一番いいドレスとありったけの宝石で飾りたてている。そして女性としての魅力を厭でも感じさせるのは、その見違えようもない大人の胸だ。ふっくらと持ちあげられている。
 どういうつもり? いいえ、姉の魂胆などわかりきっている。よぼよぼの年寄りだとばかり思っていた結婚相手が、まだ若い少年と知って俄然その気になったのだ。なんて節操のない。
 視線を感じたのかマミーリアがこちらを見た。鼻に皺をよせ「臭いわよユースタス、香水のつけすぎじゃなくって」
 陽が暮れはじめ蝋燭に火をつけなくてはならなくなった。羊肉のローストは冷め、クリームも泡が消え、香草は黒ずんでゆく。給仕のために控えていたネラ夫人は組んだ手をもみあわせる。
 が、とうとう進み出た。
「伯爵様、お料理がお気に召さないとおっしゃるのなら、つくり直させましょうか」
 少年は眼をじろりとまわしただけだった。よく動く眼。夜のムーアを徘徊する獣みたいに光っている。育ちの良い人間はあんな眼つきはしない。
「伯爵様のお好きなものをなんなりとおっしゃってください、すぐにつくらせましょう」
 少年伯爵は今度は一瞥もくれなかった。あのもしゃもしゃの頭の中で何を考えているのか、一点を睨みつけている。
 ネラ夫人が長いため息をついた。
「承知いたしました、料理人を解雇いたします」
「解雇」伯爵が顔をあげる。
「さようでございます。ご主人様が一口も食べる気になれないような料理しかつくれぬ者に用はございません、即刻馘にして、新しいもっと腕のいい料理人を雇い入れることにいたします」
 伯爵の眉が跳ねた、わたしより太くはっきりしている眉が。
「おまえは女中だろう、なんでおまえが首を切ったり雇ったりできるんだ?」
「ネラ夫人は女中ではないわ、女中頭よ」つい、わたしは口を出していた。
「あなたは来たばかりでご存知ないでしょうから教えてさしあげますわ。ここにいるネラ夫人がただの女中頭だと思ったら大間違いですわよ、この城舘ガルトムーア・ホール、そして領地であるガルトムーア、すべてをきりまわしているのはネラ夫人ですの。ネラ夫人がいなかったら父亡きあと、わたくしたちガルノートン家はどうなっていたか。あなたが継いだ財産を守ってきたのはネラ夫人なのよ、あなたがロンドンでどういう暮らしだったか存じませんけど、どうせろくな教育も受けていないんでしょ、ええ、その立ち居振る舞いでわかるわ、よろしくてガルトン伯爵、肝に銘じなさいブラッド・ガルノートン、あなたがロンドンで無為に時間をすごしていたとき、ネラ夫人は懸命にわたしたちを、ガルノートン家の誇りと財産を守ってきたんです。それをあなたが突然現れて、なんの苦労もなくすべて自分のものにしたのです。ええ、承知してます、仕方のないことです、法で定められたことですもの。でもネラ夫人を馬鹿にすることだけは許しません、絶対に許さない! いいですかブラッド、あなたがほんの少しでもひととして恥を知っているのなら、ネラ夫人に敬意をはらいなさい! ガルトン伯爵と呼ばれるたびネラ夫人に感謝なさい!」
 気づくとわたしは立ちあがり、ブラッドにむかって人差し指を振りたてていた。二人の姉が仰天している。ネラ夫人の表情は読めない。鉄の百合は人前で不用意に感情を出したりはしない。でもわたしの気持ちは伝わっているはずだ。
 腰をおろした。けれど興奮はさめず、わたしの息でグラスが曇った。ところがブラッドの反応は冷笑だった。吊りあがった唇の隙間から耳障りな、けれど少女みたいな、しゃがれ声が云う。
「失望したよユースタス。僕を殴ったときには中々骨のある娘だと思ったのにな。やれやれ、女中ごときに助けられてやっと生きてこれたなどと抜かすとは」
 身の内で血がひいてゆく音が聞こえたような気がした。なんと反論すべきかわからない。云われた意味が理解できない。けれどこれだけはわかる。わたしは侮辱されたのだ。
「問題は料理人ではない」
「えっ?」わたしは聞き返したが、ブラッドが話している相手はネラ夫人だった。
「まだ全員そろっていないだろう」
「何のことでございましょう」
「とぼけてるのか? まだ来ていない人間がいるだろうと云ってるんだ」
 ネラ夫人は黙った。わたしたち姉妹のあいだで視線が飛び交った。確かに空席が一つあるのだ。
長テーブルの片方の端にはブラッドが座っている。そこは当主の席だからだ。そしてその反対側の端は舘の奥方様が座る場所だ。しかし誰もいない。料理も置かれていない。からっぽの椅子があるだけ。わたしたち姉妹は二人と一人にわかれてテーブルの長い側の席についている。
 ブラッドはじっと空席を、ここ何年も忘れられていたその席を、見つめていた。
「ディナーは全員席についてからだ」
「ですが──」
「どれだけ手柄をたてようがあんたは女中だ、そして僕は主人」
 わたしは立ちかけた。無礼で生意気な小僧をもう一回ぶってやるのだ。だがネラ夫人が云った。
「かしこまりました。ではお呼びいたしますので今しばらくお待ちください」
けっして不貞腐れず慌てもせず、ネラ夫人は出ていった。
 正餐室に残されたのは退屈そうにしているブラッドと、居心地悪そうな姉二人。煮え立つ怒りの捌け口をさがしているわたし。そして重苦しい空気だった。蝋燭の炎は細くのび、ぴくりともしない。
「きっと後悔するわ」
 わたしは呪詛を吐いた。
「あなたは自分の驕りをいつか後悔するときがくる」
 じろり、ブラッドの眼が動いた。
「家族そろって食事するのは当然だろう」
「他人(ひと)の家を好きなようにかきまわして、さぞかしいい気分でしょうね」
「他人の家。なるほど他人の家ときたか。幸せだな、なんにも知らないってのは」
「知っているわ、承知してるわよ、どれほどの無法者でもあなたがガルトン伯爵だって。でもあなたも、いやしくも伯爵と名乗るのなら、品性ある振る舞いをするべきじゃありません?」
 ブラッドがけらけらと笑った。腹を抱えて笑った。かん高い笑い声が耳に突き刺さる。わたしの身体が震え出す。テーブルに置いた手から振動が伝わって銀器がカチカチ鳴る。するとユリアの声がおずおずと、わたしたちのあいだにさしこまれた。
「あのかたは何ておっしゃるのですか」
 ブラッドはきょとんとなった。何を訊かれたのかわからなかったのだ。わたしもわからない。
「伯爵様の従僕のことです、名前をまだ窺っていませんでした」
 これはユリア姉様の気遣いだ。話題をかえて険悪になった雰囲気をどうにか和ませようとしているのだ。けれどもブラッドの返事は素っ気なかった。そのうえ不可解だった。
「僕に従者などいない」
「でもあのかたは」
「友人ですよ」
「まあ!」
 姉は慌てた。「それはとんだ粗相をしましたわ、ご友人のぶんのお料理を用意させなければ」呼び出しベルで階下の奉公人へ知らせようとする。
「座れ」
「でも、伯爵のご友人ならお客様です、きちんとおもてなしせねば」
 ブラッドがテーブルを打ちつけた。大きな音にユリアはびくっとなった。
「ほっとけと云ってるだろ、まったくこんな古ぼけた城で暮らしてると頭ん中まで黴が生えちゃうのか。あいつは自分の寝室で勝手に食べてるよ、お貴族様のお作法なんぞクソ食らえってね」
 なんて下品なんだろう。可哀相にユリア姉様は真っ青になっている。見開いた眼からは涙が落ちそうだ。けれど泣き出したのはマミーリアのほうだった。甘ったるいしゃくりをあげている。ブラッドが舌打ちをした。
 ちょうどそのとき正餐室の扉が開いた。全員がそちらへ振りむいた。
 ネラ夫人につきそわれ貴婦人が入ってくる。会ったのは何日ぶり、いえ何ヶ月ぶりだろう。相変わらずため息が出てしまう。
 衣装の丸く開かれた襟ぐりから細い首が立ちあがって、小さな顔を支えている。わずかにかしげているせいで、うなじの描く曲線の優美さがいっそう際立っている。肌は象牙色。瞳は榛色。淡くやわらかく輝く金髪。朝露よりも果敢なく、黄昏の月よりも気高いと、キースを真似て詩に書いたのは生前のジョン兄様だった。
 遅れて来た貴婦人はわたしの母、二人の姉たちにとっては継母、エリザベス・ガルノートンだった。

 絶対にブラッドが憎まれ口を叩くと思った。長く待たされたことや、母が最初からディナーに出るつもりがなかったこと、それどころか新しい伯爵が到着したというのに、まだ一度も挨拶に出むいていないこと。
 しかしブラッドは母を凝視したきりだ。母エリザベスの前ではマミーリアだってかすんでしまう。美貌というのならマミーリアが優っている。けれど母にはどこかひとを惹きつける独特の雰囲気がある。実をいうと母は貴族の出ではない。だけど高貴な女性とはいかなるものかと問われたら、母をさし示せばいい。あのブラッドの呆けた顔! 口惜しい。今ほど母に似なかった自分を口惜しく思ったことはない。この家で母と血がつながっているのは、わたし一人だけだというのに。
 母はゆっくりとした足取りで正餐室に入ってきた。わたしたちは、そしてブラッドも、息をつめて見守る。あ、よろけた。すかさず後ろに控えていたネラ夫人が支える。おかげで母は転倒せずにすみ、わたしたちもほっとする。母は何事もなかったかのように頬笑みをたたえつづけ、貴婦人らしく流れるような動作で長テーブルの片端、ブラッドの正面、つまり女主人の席に腰かけた。首をめぐらせ部屋を見まわす。母の眼差しもやはり流れるようで、わたしの上、姉たちの上、そして初対面であるはずのブラッドの上も、するすると通りすぎてゆく。母の、笑みの形に薄く開いた唇からは、なんの言葉も出てこない。
 お母様、新しい伯爵様にご挨拶なさい。わたしたち一家が引きつづきこのガルトムーア・ホールで暮らせるのは、伯爵様の寛大なおこころのおかげですと、女主人として威厳を保ちつつ感謝の意を示すのです。
 しかし母は無言で、そしてひたすらにこやかだ。
 母がスプーンをとった。わたしたち姉妹に動揺が走る。なんたる無作法、会話もなくいきなり食べはじめるなんて。ブラッドの一心に注ぐ母へのあの眼差しは、機会を窺っているのだろうか。ぎりぎりまで怒りをためこんで、ここぞというときに爆発させ、思う存分罵倒してやるつもりなのだろうか。
 ひどく場ちがいなものが聞こえてきた。たちの悪い冗談だった。わたしは眼だけで探した。誰? 
 のん気で楽しげなハミング。女性の細い声が小さく口ずさんでいる。音程は不安定だけれど、とにかく歌い手は上機嫌らしい。
 絶望がわたしを打ちのめした。歌っているのは母だった。母は口もとまで持っていったスプーンもそのままに、夢見るように歌っているのだった。眼差しは遠くのどこかを眺め、スプーンからはスウプがぽたぽたと垂れている。
「奥様!」ネラ夫人が駆けよろうとした。けれどそれより先に母は倒れた。だしぬけに、まるで操り人形の糸が切れたみたいに、椅子から床へ崩れ落ちた。マミーリアが悲鳴をあげる。ユリアは凍りつく。わたしも動けない。まさか、まさか、お母様まで──
 マミーリアが喚き出した。「厭、厭、まただわ、またアンヌ──」
 わたしとブラッドが立ちあがるのは同時だった。しかし走る方向は正反対だった。わたしは真っ直ぐマミーリアのところへ。その口をふさぐ。ブラッドに聞かれないためにだ。そして振りむくとブラッドが母を抱き起こしていた。ブラッドは母のもとへほかの誰よりも、ネラ夫人よりも早く、駆けつけたのだ。
 母はブラッドの腕の中でくったりとし、ゆすられても首がぐらぐらと揺れるだけだった。ブラッドは母を抱きあげようとするのだけど、あの華奢な腕ではかなわない。それで協力を求めて周囲へ視線を巡らす。
 が、しかし、わたしたちは見つめるだけだ。わたしはマミーリアを押さえつけたまま、押さえつけられたマミーリアはぶるぶると震えながら、ユリアもかろうじて席を立ってはいたけれどそれ以上は近づこうとはしない。
 ブラッドが怒鳴った。
「どうして誰も手を貸そうとしない、この家はどうなってるんだ!」
 わたしたち姉妹はけっして誰も母に触れようとはしなかった。だって決まりなのだ。いくら無情と思われようとも、自分の身は守らねばならない。たとえそれが結局は無駄な努力であっても。
「大騒ぎなさらないでください」
 ネラ夫人が落ち着きはらって云った。
「奥様は普段からお加減があまりよろしくないのです、ですからお食事もいつもご自分の寝室で」
「そんなことはどうでもいい!」ブラッドは母を離そうとせず、「ヒューを呼んでくれ」
「ご心配なく。お部屋でお休みになればすぐによくなられますよ」
 ほんとうに? ほんとうにお母様が倒れられたのはアンヌ・マリーの呪いのせいではない?
「奥様は眠ってらっしゃるだけです」
 ネラ夫人は云ったが、それはブラッドへむかってだった。
「ヒューを呼べ! さもないとおまえを馘にするッ」
 ネラ夫人がさがった。でも一歩だけだ。部屋からは出ていかない。灰色の、感情をいっさい映さぬ眼で、ブラッドとブラッドの抱える意識をなくした母を見おろしている。
 ブラッドも睨み返す、こちらは燃えるような眼差しで。わたしはぞっとなる。こんなに烈しい感情は見たことがない。これは憎悪? ブラッドの視線はネラ夫人のそれとぶつかって、からみついて、ギリギリと軋む音まで聞こえてきそうだ。
 とうとうネラ夫人が降参した。
「承知いたしました」



 ヒューというのはブラッドについてこの舘にやってきた友人、あの眼鏡男の名だった。
 ヒュー・ヒュゲット。おかしな名前。なんと彼は医者だという。
 お医者ですって? あんな無作法なひとがお医者様だなんて到底信じられるものではない。この重苦しく張りつめた正餐室に、それこそ魔女の焚き火に炙られる思いで待っていたわたしたちのところに、乱暴にバタンとドアをあけて入ってきたヒュー・ヒュゲットは、悠長にも口笛なんか吹いていた。
 そして彼の若き友と、その腕の中で正体をなくしている貴婦人を見るなり、おおっ、と声をあげた。わたしは聞いた。確かに聞いた。それは不謹慎にも歓喜の声だった。
 それに比べブラッドは悲痛といってもいいほどに、「早く! 早く診てくれ」
 よしよしとドクター・ヒュゲットはやってきた。ブラッドに手を貸して、まずは母を床に横たえさせる。手首を持って脈をとり、頬をさわり、両方の眼の目蓋をめくりと、そんな動作をヒューはいちいちもったいぶって行なった。ブラッドが苛々している。わたしも怒鳴りつけてやりたいのをこらえていた。
 やがてヒュゲットは、やおら母の上にかがみこみ、無精髭の生えた自分の顔を母の胸へと近づけた。「何をする気なのっ」わたしは用心して距離をとって見守っていたのだけれど、これには思わず前へ出かかった。ブラッドもやめさせようとした。だがヒュゲットはそれを手で制し、母の胸に耳をよせた。どうやら呼吸を確かめているようだった。そうして次には何をするかと思ったら、くんくん鼻を鳴らして母の首筋や口もとの匂いを嗅ぎまわった。
 なんという破廉恥な、もう我慢できない。が、顔をあげたヒュゲットが云ったのは、
「ただの阿片チンキの飲みすぎだな」
 え?
「ブランデーもしこたま飲んでる、うん、この猛烈な匂い、確かだ」
 母からかすかに鼾の音が聞こえてきた。
「阿片剤は飲んだ直後は興奮作用があるんだ、倒れる前は機嫌よかっただろう?」
 ブラッドが頷いた。わたしも胸の中で頷いた。母はスウプを飲みながら鼻歌を歌っていた。
「そしてそのあとは鎮静作用に転じる。で、今はご覧のとおり気持ちよく夢の中」
 なぜだかヒューの声にはがっかりした調子が混ざっていたけれど、わたしたち姉妹は深く安堵した。ユリアは涙まで浮かべている。マミーリアが大きなため息とともに、「それじゃあ魔女の呪いでは──」
 しまいまで云わずにすんだのは、わたしが肘で思いきり突いてやったからだ。姉のヒキガエルそっくりのうめき声にはかまわず、不用意な言葉が聞かれていなかったかブラッドを窺う。
 安心したことに、ブラッドはまったくべつの方向へ首を捻じ曲げていた。鋭い眼差しを投げつけている相手はネラ夫人だ。
「どうゆうことだ、なんだってぶっ倒れるほど飲んだんだ」
 平然とネラ夫人はこたえた。
「お言葉ですが伯爵様がそうさせたのでございます」
「なんだと」
「奥様もともに食事をと命じられたのは伯爵様ではございませんか。なにしろ奥様はお体ばかりか神経もたいへん弱っておいでです、皆様がたと食卓につかれたのも阿片チンキの助けを借りてようやっと、いつもの倍以上も飲まれたのです。奥様の一番のお薬は、お部屋でお一人で静かに、何事にも煩わされることなく過ごすことなのですよ」
 母を正餐の席に着かせようなど、どだい無理な話なのだ。母はわたしたち姉妹とだって滅多に顔をあわせない。もう何年も寝室に引きこもっていて、実の娘であるわたしでさえ、幼いころに抱いてもらった記憶がない。魔女が怖いのだ。
 ドーセットの実家からネラ夫人だけをお供に幾日も馬車に乗って嫁いできた。夫は貴族とはいえ三十も歳の離れた子持ちの男。風になぎ倒されるヒース、見わたすかぎりの荒野、険しい眼の羊。うら若き乙女にはこれだけでも嘆かせるに充分だったが、やがてそんな子どもっぽい感傷も吹き飛ぶような秘密を知った。なんと婚家は魔女に呪われていたのだ。次々と死んでゆく一族たち。その無残な死にざま。母は気も狂わんばかりに怯えたという。実際に狂ってしまったのかもしれない。寝室に閉じこもったままお酒と阿片が手放せない。 
「阿片だけが奥様のこころを安らげることができるのです」
 ブラッドが唸った。唇を歪め、歯をむき出して、まるで野犬だ。
「しかし過剰な摂取は毒だ」ヒュゲットが口を挟んだ。「念のため吐かせよう、温めた芥子油を用意してくれ、それから辛子の湿布も。とにかく寝室に運ぼう」
 呼ばれて下女が飛んできた。わたしたちが出入りする扉ではなく、正餐室の奥、目立たない奉公人専用のドアからだ。白痴の娘は床に倒れている母に仰天し、おたおたと無駄に動きまわる。ネラ夫人に叱られて、ようやく自分の仕事が母の足をスカートごと持ちあげることだと理解する。ネラ夫人が頭の側だ。
「おい待て。なぜ従僕にやらせない」
 ブラッドの問いにネラ夫人がこたえた。
「ここには男の召使いはおりませんので」母の脇に腕をさしいれながら、「ご覧のとおり、この舘にいらっしゃるのは繊細な奥様とお年頃のお嬢様だけです。むさくるしい男がうろうろされてはご一家の気が休まらないのですよ」
 わたしはほくそ笑んだ。これはヒュー・ヒュゲットへのあてこすりだ。けれども肝心のヒュゲットは聞いていたのかいないのか、大口あけてあくびをしている。
「では執事は?」
 しつこいわねブラッド、まだ文句があるの。
「誰かいるはずだ、男の召使いが」
「お嬢様がたのお世話はわたくしがいたします。下働きはこの下女がいます、料理人や外働きの庭師、馬丁はかよいです、少ないご家族ですからこれで充分足りるのです。どうぞご心配なく、伯爵様を煩わせはいたしません、これまでどおりわたくしが万事うまくきりまわしますので」
「男の召使いをいつ辞めさせたんだ」
 何をこだわっているの。男の召使いどころかまともな奉公人はみな、とうの昔に逃げ出したわよ。
 小さい下女はなかなか母へ手をのばさない。呪いが自分にふりかからないかと恐れているのだ。ネラ夫人の叱責が飛んだ。べそをかく下女。わたしは云ってやりたい。安心なさい、おまえなど魔女のお呼びではない。貴族という身分やガルトムーアの広大な領地、そして千人もの人足を雇って石灰岩を積みあげたこの城舘ガルトムーア・ホールがガルノートン家のものであるように、忌まわしいアンヌ・マリーの呪いもまた、わたしたちだけのものなのよ。
 母の足を持った痩せっぽちの娘は、腰を深く折った姿勢でよろよろと進む。情けないこと、上半身を抱えているネラ夫人のほうがよほど重たいだろうに。誇り高き女中頭は顔には出さないけれど、やっぱり早くは歩けない。
 ヒュゲットが動いた。かっさらうように母の体を抱きあげた。いきなりのことで下女は空っぽになった自分の手と、軽々と母を抱いている紳士とを、きょときょと見比べている。
「ときには男手があるのも便利だろ?」
 ネラ夫人の眼に、その灰色の瞳よりもさらに白んで燃える炎が閃いた。けれどもそれは一瞬のことで、すぐに「恐れ入ります、ご案内いたします」
 ネラ夫人とヒューが母を運び出し、それにブラッドまでついてゆき、下女も消えて、正餐室に残されたのはわたしたち姉妹と、あとはテーブルの上の結局は手つかずにおわった料理だった。
 妙だった。
 何かが変わった。張りつめていた空気がほどけている。こころなしか甘い香りがするのは、テーブルに飾られたラベンダーの蕾がほころんだせいか。
「そうよね」
 がらんとなった部屋にマミーリアの声がいやに響いた。
「やっぱり家に男のひとがいると違うわ、どこか安心するわ、ねえ、そう思わなくて?」
 一体、何を云い出すのだろう。
「あのひと、逞しかったわ」
「ヒュー・ヒュゲットのことを云っているの? あの下品な、伯爵の友人なんて云ってるけど素性も知れないひとよ」
「つまりわたしの云いたいことは、伯爵だって今に、ヒュゲット様のような立派な青年になるってこと」マミーリアは頬が上気し、眼も潤んでいる。わたしにむかって優越感たっぷりに頬笑み、「あなたはわからなくていいの、まだ子どもだもの」
 何か云い返してやりたくて、でも言葉が見つからなくて、わたしはユリアのほうへ振り返った。お姉様ならマミーリアをたしなめてくれるはず。わたしはマミーリアの中に芽生えたものを忌んだ。忌んで恐れた。ユリア姉様、清らかなユリア姉様、マミーリアを叱ってやってください。
だけど失望させられたことには、ユリアの頬もうっすらと染まっていた。その眼差しがどこでもないところから、あるいは白昼夢からもどってきてわたしをとらえたけれど、瞳に映っているのはきっとべつの人物なのだろう。
「ええ、そうね」うっとりとしたつぶやきだった。「男のかたがいらっしゃってこそ、恥ずかしくない家と云えるんですものね」
 間違っている!
 大声で叫んでやりたかった。お姉様方は間違っている! 彼らは闖入者なのよ、わたしたちの名誉を踏みつけにするならず者なのよ。
 だけど声はつっかえてしまい出てこない。わたしの喉をふさいでいるのは敗北感だった。しかしなぜわたしが負けなのか。
 わからない、全然わからない。魔女の呪いを終わらせることができるのは、このわたしではないか。姉二人にそんな力はない。まして男など駄目だ。男ではわたしたちガルノートン家を救えない。特別な娘であるわたししかできないことなのだ。
 でも、どうしようもなくわたしは今、無力なのだった。
 だからわたしは祈るしかなかったのだ、魔女アンヌ・マリーに。
 アンヌ・マリー、アンヌ・マリー、どうか次はこの二人の姉をとり殺してやって!

ユースタス2 わたしは確かにこの眼で目撃した、魔女アンヌ・マリーのどくろを

 魔女アンヌ・マリーの伝説を、わたしはいつ知ったのだろう。幼いわたしに最初に話して聞かせたのは誰だったのだろう。いつのころかわたしは知っていた。自分の名はユースタスだと知っていたように知っていた。柊の木を柊と呼んでいたように知っていた。日曜日には舘の礼拝堂でお祈りをするように、あるいはボイルしたチキンにはきのこのソースが添えてあるように、またあるいはわたしが用を足したおまるが次に使うときにはきれいになっているように、アンヌ・マリーの言い伝えはガルノートン家の常識であり、日々の暮らしの一部だった。
 アンヌ・マリーはその名からも知れるとおりフランスからこの地にわたってきた。二百年前とも三百年前とも云われている。アンヌ・マリーはたいそう美しい娘で、気立てもよく、誰からも好かれていた。とくに領主の息子は彼女に夢中だった。まだ若く妻も娶っていなかったこの若者は、狩りのため宿泊所として訪れた村長の家で、彼女に一目惚れしたのだった。若殿様がいらっしゃるとなれば一大事、村じゅうの女が手伝いに集まり、その大勢の女たちが立ち働く中、アンヌ・マリーは金色の髪はもちろんのこと、まるで身の内側から光が輝くように、ひときわ眩しく若者の眼に映ったのだそうだ。
 アンヌ・マリーも一目で恋に落ちた。若い二人は狩りなどそっちのけで語りあい、見つめあい、慎ましく手を握りあい、そして翌日、城へと発つ前、若者は熱っぽい口調でこう云った。待っていておくれ、両親の許しをもらい結婚式の準備ができ次第、迎えに来るから。けれどどれだけ待っても、領主の息子がふたたびやって来ることはなかった。
 アンヌ・マリーは村を出た。目指したのは領主の城舘だった。三日歩いた。ようやく到着すると舘は宴で賑わっていた。庭にご馳走のテーブルが並べられ、音楽が鳴り、奉公人たちが呑んで食べて踊っていた。めでたい、めでたい、若殿様が奥様を迎えられた。アンヌ・マリーは呆然と眺めあげたが、舘の扉は堅く閉じられ、窓は暗く、人影が立つこともなかった。
 アンヌ・マリーはそのまま城舘の近くに住み着いた。谷間の沼地に打ち棄てられた古い番小屋を見つけたのだ。屋根の藁を足さなければならなかった。壁のひびも粘土で埋めなければならなかった。あたりは湿地帯で、踏みこむと足首まで泥水につかる。伐った木をそろえて組み、橋のように地面に敷いて道にした。それらをすべて細い娘の腕でやった。
長い一人きりの夜を炉辺でアンヌ・マリーは、恋人の顔を、声を、握った手の感触を思い出してすごす。幾晩も、幾晩も。そうしてある夜、アンヌ・マリーはある決意に顔面を青ざめさせ、小屋を出た。なるべくみすぼらしい酒場を探して裏路地をさまよい歩く。数ヵ月後、アンヌ・マリーは赤子を産み落とした。
 ところでアンヌ・マリーには秘密があった。遠いフランスの故郷で、アンヌ・マリーは魔女と呼ばれていた。薬草の知識があったので、村人に頼まれると調合してやっていたのだ。まじないもやった。失せ物さがしや蛇よけのまじないだ。祖母から母、母から娘へと伝えられてきた知恵だった。アンヌ・マリーは逃げてきたのだ。そのころ魔女はつかまると生きながら火炙りになった。恐ろしい時代だった。たとえ魔女でなくても疑われたら最後、拷問され殺された。アンヌ・マリーは国を捨てて海をわたり、命からがらイングランドへ流れ着いたのだった。
 イングランドの地に住み着いてからは、魔女の技はきっぱりと忘れたアンヌ・マリーだったけれど、沼地の小屋でふたたび薬を調合しはじめた。数種類の薬草と、かげろうの翅やこまどりの眼玉、そしてある種の岩石の粉。中でもおぞましいのは、生きた人間の体の一部だ。産み落とした赤子を──男の子であったか女の子であったかはどうでもよいことだ、単なる材料なのだから──秘術によって長らく生かしながら、指、眼、耳、舌、手足、臓腑と、必要に応じて順に切り取っていったのだった。
 それらを混ぜあわせて煮つめ、乾燥させて粉にして、完成した薬はいかなる効用だったのだろうか。それについてはわかっていない。ただ、はっきりしているのは、その薬をアンヌ・マリーは領主の城舘の台所女を通じて、かつての恋人の食事に混ぜていたのだ。幾年もの長きにわたって。
 のちに台所女は裁判で、気がついたら魔女の云うとおりにしていた、と証言したそうだ。女の部屋からは身分不相応の品々が数多く出てきたが、それは問題にされなかった。
慈悲深いイングランド国教会が魔女にくだす刑は、たいていの場合縛り首であったが、なぜだかアンヌ・マリーは斬首された。その理由も不明だ。自らが望んだとも、領主が──そのころには父親の跡を継いで彼の代になっていた──もしくはその妻が強く願ったとも云われている。
 はっきり伝わっているのは処刑されるアンヌ・マリーの最後の言葉だ。見物人の群れが割れ、領主が供を従え現れると、アンヌ・マリーは処刑台から懇願した。愛するあなた、遠い日の恋人を哀れだと思うなら、せめてわたしの亡骸をあなたの家の庭の片隅に埋めてください。あなたのそばにいさせてください。それに対して領主は聞こえないふりをした。そもそも、しもじもの言葉に身分ある者が耳を傾けるいわれなどあろうか。忌まわしき魔女の呪詛ならなおさらなのだった。若き日の一夜の恋など、領主は憶えてもいなかった。実際アンヌ・マリーと対面した魔女裁判の場で、領主はこう云ったのだ。「おまえの名は?」
 それでもアンヌ・マリーの情熱は冷めなかった。役人の腕を振りほどき処刑台を飛び降りた。腕を後ろ手に縛られたままかつての恋人ににじりよった。「お願い」
 領主は無感動な一瞥をくれただけだった。従者が蹴り飛ばした。倒れてもなおアンヌ・マリーはすがった。その脳天に一撃が加えられた。従者に棍棒を渡したのは死刑見物がなにより楽しみなパン職人だった。
 ふたたび処刑台に引きずりあげられた。もはや抵抗する気力もない。頭に受けた傷は深く、血がアンヌ・マリーの金髪と顔を汚していた。跪いて断頭台にかがまされた。首切り役人が斧を振りあげた。
 凝然と瞳を見開き、愛するひとへ熱い眼差しを注いだままアンヌ・マリーの首は落ち、転がって、どこまでも転がって、ひとびとはどよめいて道をあけ、そこをさらに首はいささかも勢いをそがれることなく転がってゆき、そうしてついに領主の足もとまで来て仰向いて止まったとき、その瞳が映していたのは憎しみの炎だった。
 処刑後、アンヌ・マリーの遺体は埋められた。むろん領主の城舘から遠く離れ、人里からも離れ、病気の羊や豚などの家畜の死体捨て場だ。ところが穴に放りこむ段になって人夫は気づいた。魔女の首が無い。たしかに胴体と一緒に麻袋につめて持ってきたはずなのに。首はどんなに捜しても見つからなかった。
 埋葬はぞんざいだったので、野犬の群れが掘り返してきれいに食べてしまった。残った骨も大雨の日に流されてしまった。その後まもなく領主も死んでしまった。風邪をこじらせ肺炎になって、あっという間だった。それまで病気らしい病気などしたことがなかったのに、魔女アンヌ・マリーの調合薬が食事に混入されなくなったとたん、身体のあちこちに不調を覚えるようになっていたのだった。
 それから幾年、幾十年すぎ、斬首された魔女の記憶も薄れたころ、ある羊飼いの少年が見つけた。
 羊が地面にむかってしきりに何かをしている。それは半分埋まった石のようで、土から出た丸くすべすべしたのを、羊が熱心に舐めていたのだった。掘り出してみたら、どくろだった。透きとおるように白く、艶やかな、大変美しいどくろだった。どくろは領主のもとへ運ばれた。代替わりした領主は珍しいものが好きで、大喜びでどくろを舘に飾った。
 領主一族こそガルノートン家の先祖、恐ろしい魔女アンヌ・マリーの呪いはこのときはじまった。
 最初にどくろを舐めていた羊が死んだ。これまで見たことも聞いたこともない奇妙な死にかただった。やがて領主の城舘ガルトムーア・ホールでも死人が出はじめた。死に至るまでのようすは最初の羊とよく似ていたという。領主の母親が、弟が、妻が死んだ。領主自身も死んだ。やがてはその息子や娘も、そして息子の息子、娘の娘……
 どくろがアンヌ・マリーの失われた首であったことは疑いようがない。なぜなら、そのどくろは頭のてっぺんが割れて大きな穴があいていた。棍棒で殴打されたときの跡だった。
 ここまでがわたしたち兄弟姉妹が聞き知っていた伝説だ。だがそれはもっとも重要な部分が伏せられていた。アンヌ・マリーの呪いを終わらせる方法のくだりだ。隠してきたのはネラ夫人。十四年前、赤子のわたしをとりあげたとき、ネラ夫人はあたかも天啓を受けたかのごとくただちに決意をかためたのだそうだ。そして秘密は、兄のジョンが亡くなった朝わたしに告げられるまで守りとおされた。
 しかし今はべつの話をしよう。魔女の伝説も呪いも、まぎれもない真実だという話だ。
 まず第一に、現にガルノートン家の幾人もの人間が呪いのせいで死んでいった。伝説どおりのその恐ろしい死に様を、わたしも見せつけられた。父、下の兄のトム、それから一昨年の春にはエレン伯母様も。長兄のジョンが亡くなったのは、ほんの一年前のことだ。
 これほど残酷な死にかたがあるだろうか。実際に兄弟が呪いに殺されてゆくようすを見てきたわたしは思う。魔女がとりつくのだ。アンヌ・マリーがガルトムーア・ホールにやって来られたのは首だけ。だからアンヌ・マリーは首から下の体を探している、欲しがっている。アンヌ・マリーはきっと失った体を、ガルノートン家の人間の体で埋めあわせようとしているのだ。
 そしてもう一つの証拠。
 伝説に語られた、舘に飾られたアンヌ・マリーのどくろはどうなったか。もちろん始末された。ところがどくろはもどってきたという。何度捨てても、川に流しても地中深く埋めても、いつの間にかこっそりもどってくるのだという。そしてこのガルトムーア・ホールのどこかに隠れ潜み、一族を眺めては次は誰を呪ってやろうかとほくそ笑んでいるのだという。
 実はわたしは見たことがあるのだ。わたしは確かにこの眼で目撃した、魔女アンヌ・マリーのどくろを。
 あれは昨年? いえ、もっと前? そうだ、トム、小さいトム兄さんはもう死んでいて、けれど伯母はまだ元気だったときだから、あれは二年と少し前、わたしがもうすぐ十二の誕生日を迎えるころのことだ。
 わたしは自分の寝室の厭な匂いが気になっていた。鼻の穴の中を一千匹の羽虫が飛び交っているようなその匂いは、常にわたしにつきまとい、香水をふりかけても紛らわすことはできなかった。
 ネラ夫人が馬丁を呼び、匂いのもっともきつい場所、寝室の奥の続き部屋にあった箪笥をどかさせた。本来なら馬丁に命令するのは執事なのだけれど、ガルノートン家には執事はもういなかった。薄情にも魔女を恐れて逃げたのだ。
 執事など必要ない、ネラ夫人がいるもの。執事どころかこの舘には、召使いといえばもはやできそこないの下女だけ。でも不都合などなかった。すべてネラ夫人に任せておけば安心だった。常に魔女に怯えていたわたしたちは、せめて人目を避けて静かに暮らすのを望んでいたから、たとえ召使いといえど舘の中をうろうろされては落ち着かないのだった。兄一人が不満を訴えていた。早くに父が亡くなり、まだ幼いうちからガルトン伯の爵位を継いでいた兄のジョンは、機会あるたびに自分が一人前の大人であると証明しようとしていたから、それでよくネラ夫人と衝突していた。でもその兄も、最後には自分が間違っていたと気づいただろう。そしてネラ夫人の献身に感謝したことだろう。呪いに蝕まれた惨い姿を、必要以上にひとの目にさらさずにすんだのだから。それはともかく、わたしの寝室の箪笥の裏の話だ。
 衣裳箪笥をどかすと、そこの壁が真っ黒だった。黒い染みは黴だった。どうしたわけか板壁のそこだけが黴におおわれ、中心など融けかかっているのだった。いやらしい緑色の粉までふいていて、粉はうっすらと盛りあがって、表面は産毛のように白いのが立ちあがっていた。まるでそこから、眼には見えない邪悪な何かが撒き散らされているかのようだった。思わず身震いした。これが匂いとなって部屋を漂っていたのだ。これが何年ものあいだわたしの鼻の穴や口に吸いこまれ、喉を通り、体の中へ侵入していたのだ。
 ネラ夫人の指示で板は直ちに張りかえられることになった。職人が呼ばれ壁を叩き割った。腐った板は間の抜けたような音とともにすぐに穴があいた。斧を引き抜くと板がはがれ、同時に何かが転がり落ちた。
 職人たちが叫んで飛びのいた。ゴロゴロとそれはわたしの爪先まで転がってきた。どくろだった。わたしは声も出なかった。まばたきするのも忘れた。わたしの脳裏に浮かんでいたのはただ一つ。アンヌ・マリー。
 わたしは、なんとなくアンヌ・マリーのどくろは、月長石のような美しいものを想像していたのだ。ところがどくろは少しも美しくなかった。伝説にあるように真っ白でもなかったし、艶もなかった。古くて薄汚なくて、それは老人のやにのこびりついた歯や、老婆のつぶれて変形した爪を思い起こさせた。わたしは失望し、しかし納得もした。考えてみれば当然なのだった。呪われたわたしたちが迎えるあのむごたらしい死にかたと、このどくろの醜悪さとは、通ずるものがある。
 アンヌ・マリーの眼が、どくろの穴の眼が、わたしをじっと見あげていた。わたしも見返した。というより視線をそらすことができなかった。自分でも知らないうちにわたしは胸の中で語りかけていた。アンヌ・マリー、あなたはそこにいたのね、わたしの寝室の壁の後ろからずっとわたしを見ていたのね、その空っぽの眼で。
 どくろの二つの眼の穴がどんどんと近づいてくるような気がした。黴の臭気とともに迫ってきた。わたしは気が遠くなった。最後に聞こえたのは、早くどくろを持ち出せと命じるネラ夫人の声だった。
 気がついたとき、わたしはベッドに寝かされていた。ネラ夫人の心配そうな顔があった。三日三晩、高熱に浮かされていたという。「アンヌ・マリーの伝説はほんとうだったのね」わたしは悲しく云った。こころのどこかでそれまでわたしは、魔女の呪いなど単なる迷信じゃないかと疑っていたのだ。ネラ夫人の返事は、ええ、でも、いいえ、でもなかった。かわりにこう云った。「大丈夫ですよ、あのどくろは村の教会墓地にちゃんと埋めましたから」
 でも、わたしにはわかっていた。アンヌ・マリーはそのときすでにガルトムーア・ホールにもどってきていたのだ。どこに潜んでいるのか知らないが──屋根裏? 地下? それともこのベッドの天蓋の上?──匂いがしていた。それは壁の板を融かしていた黴の匂い。壁はきれいに修復されたというのに、ぷんぷん匂う。わたしにはもうわかっている。これはアンヌ・マリーの体臭だ。
 これでも魔女の伝説はただの昔話と笑えるだろうか。
 あのとき以来どくろは見ていない。けれども匂いはいまだ残っている。わたしの部屋だけではない。姉たちは感じないと云うけれど、廊下を歩いても、朝食室へ降りても、匂いはある。庭園を散歩しても実りはじめた林檎の甘い香りに混じっている。図書室で本の背を眺めるときにも感じるし、敷地のはずれ、氷室のあるところまで遠出しても、匂いはついてくる。
 やがてわたしは思い至った。この匂い、もしやわたし自身が発しているのでは? 
 生まれたときから魔女アンヌ・マリーの体臭にさらされて、吸いこんでいるうち、それは外側からも内側からもわたしの体じゅうに、骨に、流れる血に、髪の一本一本にまで、しみついてしまったのだ。匂いはもうけっして抜けないだろう。アンヌ・マリーの呪いから、わたしたち一族がどうやったって逃れられないように。
 だから、わたしはいつも念入りに香水をふりかける。



「よろしければ舘を案内してさしあげましょう」
 申し出る。なるべく穏やかに、そして親しげに。
「このガルトムーア・ホールには、あなたの想像以上に見るものがあってよ。陳列廊(ロングギャラリー)には先祖代々の肖像画が飾ってあるわ」
 ブラッドから返ってきたのは冷笑だった。
「それとも庭園を歩いてみましょうか、野苺の実がなるころよ、つんで食べるなんてロンドンではしたことがないでしょう?」
 冷笑が嘲笑に変わった。ブラッドのあからさまの嘲りに、わたしはお腹から熱がのぼってくるのを感じた。怒りをおさえるため黙りこんでいると、そのすきにマミーリアがねだった。
「野苺つみなんて子どもじみてるわ、ねえブラッド、わたしにロンドンの話を聞かせてくださいな」
 ブラッドは興味なさそうに天井を見あげている。体はだらしなくソファに寝そべっている。成長しきっていない少年にソファは大きく、そして深すぎる。わたしたち姉妹はそれぞれ一人がけの椅子に腰をおろし、なるだけ自分をよく見せようと背筋をぴんとのばしていた。
「ロンドンの社交界はどんなですの、以前エレン伯母様がおっしゃってたわ、社交シーズンにわたしたち姉妹が一度も行ってないなんてありえないって。でもやっと連れてってくださるひとができたわ、ね、ブラッド」
 マミーリアはいつから伯爵をブラッドと呼ぶようになったのだ、馴れ馴れしい。
「野苺ときたか、」ブラッドが身を起こした。ぎょろりと動いた眼が、マミーリアを素通りしてわたしをとらえる。「どれだけ香水をぶっかけようが中身は子どもだな、ユースタスお嬢ちゃん」
 なぜわたしがここまで侮辱されなくてはいけないのか。マミーリアまであんなに嬉しそうに笑っている。しかし視界の端でネラ夫人がわたしをたしなめた。ネラ夫人は団欒室の扉のわき、使用人らしく距離をおいて立っていた。わかっているわよ、自分の爪先を睨みつけてこらえる。ブラッドの機嫌をとってなんとか気に入られなければならない。だけど下手に出るほどあの少年は図に乗ってわたしを苛める。わたしの香水はそんなに臭い?
「そっちのお嬢さんはロンドンについて知りたいって?」
 マミーリアが顔を輝かせる。ところが、
「ロンドンだろうが都会なんてどこもおんなじさ。表通りはとりすましてるけど、ちょいと横丁に入ってみるがいい、地べたに乞食が寝転がり、アル中の母親は赤ん坊に乳のかわりにジンを飲ましてる、ところがそんな路地裏にも紳士は足をむける、どうしてかって? 七才の娼婦が待ってるからさ」
 マミーリアの笑顔がかたまった。わたしは納得していた。下賤な者たちについてこんなに詳しいのは、やはりブラッドはロンドンでは浮浪者同然だったのだ。
「あの、」遠慮がちに声をかけたのはユリアだった。
「ヒュゲット様は何をなさっていますの」
「なんだって」きょとんとなるブラッド。
「いえ、あの、たまにはわたしたちとくつろがれてはと思ったので」
 ユリアの声は消え入りそうだった。頬が赤い。ブラッドも気づいたようだ。黙っておれば穢れを知らぬ少女にも見える顔が、たちまち下種な喜びに歪んだ。
「おやおや、つまりユリア嬢はヒューにまいってしまったってわけだ」
 違います、ときっぱり否定するにはユリアは誠実すぎた。ますます赤くなっている。ブラッドが肩をすくめる。
「うぶなんだな、可哀相に、ヒューは変わり者だからきっととんだ目にあうよ。けどまあ、それであんたも助かるんだ、ちっとも可哀相じゃないか、男と命、一挙両得だ」
 何を云っているの、理解できない。気の毒なユリア姉様は肩まで震わしている。
 もう我慢の限界だった。今度こそ怒鳴りつけてやろうと息を大きく吸いこんだ。けれどネラ夫人がこんなことを云った。
「僭越ながら申しあげますが、奥様の好物は野ニンニクでございます」
 そんな話、聞いたことがない。ところがブラッドの眉が跳ねた。
「そうなのか?」
「つみたてをそのまま噛んだりもなさいますよ、春が来たのが感じられると、たいそうお喜びになります」
 野ニンニクを生で齧るですって? 小作人の子じゃあるまいし。
ところがブラッドが立ってわたしへむかって顎をしゃくっていた。何なのよとしかめっ面でこたえてやったら、
「誘ったのはおまえだろうが」
 返事も待たずに出ていく。するとすかさずマミーリアが「あら、わたしがご案内しますわ」
 ネラ夫人が眼でわたしを促している。慌てて二人のあとを追う。ユリアはいつまでも俯いていた。

 ヒースは葉の色をとりもどし、丘は緑の綴れ織りで敷きつめられていた。ところどころに突き出た岩は午後の光を浴びて白く輝き、下の湿地帯からは温められた泥の匂いが運ばれてくる。
 べつの匂いも混じっている。鼻を刺すニンニクの匂い。これをあの母が好きですって? きっとネラ夫人の作り話だろう。皮肉のつもりかもしれない、育ちの悪いブラッドにあわせてやったというわけ。野ニンニクの群れは斜面いっぱいにつづいていた。
 この雑草はつみとると汁でわたしの手袋を汚す。ネラ夫人は下女をつきそわせなかった。気を利かせたつもりだろうが失策だ。わたしはかごを抱えて茂みから茂みへとまるで百姓女、マミーリアときたらお喋りばかりでちっとも手を動かさない。
「伯爵様のお守りも大変だわ、まるでわがまま坊主なんですもの」
「お姉様ったら聞かれるわ」
「平気よ、ウサギでも追いかけてるんじゃない」
 マミーリアの云うとおり、肝心のブラッドは外に出るなり、気まぐれにどこかへ消えてしまっていた。
「けど、これで結婚相手は決まったも同然ね。ユースタス、あんたは子どもだし、ユリア姉様はとうに二十歳をすぎてブラッドから見たらおばあちゃん。第一、なんたってわたしは美人ですもの」
 呆れてしまう。この姉に謙虚という美徳はないのかしら。とはいえ、マミーリアの外見が美しいのは事実。今だってボンネットの縁からはみ出た金髪が陽光に輝きながら顔をとりまいている。青い瞳は宝石のよう。そしてふっくらとした唇。マミーリアは自分の美しさを熟知していて、さらに磨きをかけている。ボンネットから出した髪はわざとだし、いつもより肌が艶々しているのは、お風呂のあと薬草をつけこんだ精油をぬりこんでいるせいだろう。認めたくはないけれど、ブラッドがマミーリアを選ばない理由はない。
「ユースタス、わたしね、エレン伯母様から聞くまで社交シーズンなんて知らなかったわ」
 突然何を云い出すやら。エレン伯母様がガルトムーア・ホールに滞在していたのは二年以上も前の話だ。二番目の兄、小さなトム兄さん、天使のようにやさしくて愛らしかったトムの死は、わたしたち一家をそれまで以上に打ちのめした。そんなときエレン伯母様が来てくださった。陽気な笑い声とたわいのない世間話に、わたしたちはどれほど救われたことか。
「わたしエレン伯母様とロンドンへゆくのを、とても楽しみにしていたの」
 そりゃあわたしだって行ってみたかった。でもロンドン行きもその他もろもろの楽しい計画も、すべていっときの慰め。目覚めれば消える夢とおんなじ。そんなことはわかりきっていたでしょう。天使の魂も底抜けの楽天主義も、魔女には勝てなかったのだから。
「ジョン兄様だって、あんなに夢見ていた大学に行けたと思ったら、結局は──」姉の言葉はつづかなかった。そして出し抜けに、
「わたしは厭! せっかく美しく生まれたのに、こんな田舎でくすぶったまま一生を終えるなんて、絶対に厭! 毎年シーズンにはロンドンへゆくのよ、オペラや舞踏会にゆくのよ、それにはあの子と結婚するのが一番でしょ? 伯爵夫人になればもう誰にも指図されずにすむわ、ネラ夫人も怖くない、だってわたしは女主人ですもの、うるさいこと云ってきたら馘にしてやるって云ってやる。ユースタス、あなたもロンドンに行きたいでしょ、もちろん連れていってあげるわよ、ユリア姉様も一緒にみんなで行きましょ」
 マミーリアは瞳を輝かせていた。わたしの靴には泥水がしみてきていた。
 いつの間にかわたしたちは湿地までくだって来ていた。ガルトムーア・ホールの庭園は、たまにしか来ない庭師の手にはとても負えず、かぎりなく野生に近づいて、外の自然との境もなくなってしまっている。こうして眺めると、ガルトムーアの地は荒涼たる墓地、ガルトムーア・ホールは巨大な墓に見えてくる。
 どんな出不精な人間も死んだら家を出て墓へゆくだろう。ロンドン塔に閉じこめられた王子様だって、最後にはそこを出て墓へ行った。でもわたしたちは最初から墓にいるのだ。墓に生まれ、墓で育ち、墓で死ぬ。わたしたちはどこにも行けない、生きているあいだも死んでからも。墓穴をふさぐ墓石は魔女の呪い、墓守はアンヌ・マリー。どくろの空っぽの眼窩は、常に舘のどこからかわたしたちを見張っている。
「呪いなんか!」マミーリアが叫んだ。「どうせ呪い殺されるなら、できるうちに楽しんで何が悪いのっ」
「しッ、黙って!」
 ヒースを踏みつけてブラッドがこちらへやってくる。聞かれてしまっただろうか。
 けれどブラッドはわたしのかごを覗きこむと、
「まだ足りないな。なまけてたな、まったく女のお喋りときたら」
「野ニンニクを主食にするおつもり?」
「今のうちにすりつぶしてオイルと瓶詰めにしておけば、一年じゅう料理に使える」
「男のくせにいやに台所のことに詳しいのね」意地汚いひと。食べ物のことなどわたしは考えたことがない。それは地下の厨房にいる奉公人の役目だ。
 けれど云い返してくるかと思ったら、そっぽをむいてしまった。マミーリアを呼んだ。しっぽをふって駆けてゆく。
ブラッドがマミーリアに耳打ちする。吹き出す。二人してこっちを見てクスクス笑う。またわたしに意地悪をしているのだ。
 醜い。みっともない。伯爵なんていってもブラッドは十四の男の子、十八のマミーリアのほうが頭二つぶんも背が高い。体つきだって姉はもう大人の女性だ。内緒話するときもブラッドは必死に背伸びをし、マミーリアは老婆のように腰をかがめる。
 わたしは背をむけ野ニンニクをつむ。笑い声はやんで静かになる。がむしゃらに手を動かす。茂みは広すぎ、匂いはきつく、気が遠くなりそう。
 ふと眼をあげると、ブラッドは地面に腰をおろし、傍らにマミーリアもよりそっていた。ブラッドはもの思いにふけっているようで、千切った草をくるくるまわしながら視線を遠くへのばしていた。そこへ横からマミーリアが顔をよせていった。少しずつ、少しずつ、顎を突き出し気味にして。
 どうしよう、このままでは唇と唇が触れてしまう。
 しかし、すんでのところでブラッドが振りむいた。マミーリアは止まった。ちょっと困ったような、でも悪戯っぽい笑みを浮かべ、さあつづきは? というように小首をかしげて見せる。
 ブラッドは立った。マミーリアを見おろした。恐ろしいほど侮蔑に満ちた眼差しだった。わたしは内心震えあがった。なんて残酷な仕打ちだろう。さっきまであんなに親密にしていたのに。
 身を翻しブラッドは歩き出した。そしてわたしのわきを通りすぎるとき、つぶやいた。それはあまりに酷い言葉だったから、わたしにしか聞こえなかったことを神に感謝しなくてはならない。
「性根の腐ったブタ、そんなに財産がほしいか」
 けれども、それよりさらにぎくりとなったのは、マミーリアの表情だった。ブラッドに拒絶されマミーリアは、姉妹のうちで最も美しいはずの顔は、疫病患者のようにどす黒く強張っていた。眼ばかりが溜まった涙のせいで煌めいている。
 わたしはマミーリアを哀れんだ。けれど哀れむべきほんとうの相手は自分自身だった。わたしだってブラッドにとりいろうとしているのだ。侮蔑の眼と言葉を、わたしも受けるべきなのだ。だけどわたしはやめない。だって、魔女の呪いを終わらせるのはほかの誰でもない、このわたし、ユースタス・ガルノートンなのだ。そのためになんとしてもブラッドと結婚して、ガルトムーアの女主人にならなければいけないのだ。だいたいブラッドにわたしを批難する権利があるのか。自分だってどうせロンドンのどこぞの路地裏でくすぶっていたのを、地位と財産に眼がくらんでのこのこと出てきたのだろう。
 どんどんと歩いていってしまう。そのあとをマミーリアが幽霊のようについてゆく。わたしもかごを抱えて追う。風が強く吹き出した。丘一面のヒースを波うたせ、葉を裏返して景色を銀色に変えた。
 ふいにブラッドが立ち止まった。それでわたしもマミーリアも追いつくことができた。ちょうどガルトムーア・ホール全体を、眺めあげることができる場所だった。
「妙だな」つぶやいた。
「あの八角形の丸屋根小塔(クーポラ)はどこからのぼるんだ、舘の中にそれらしい階段を見なかったが」
「ああ、八角塔のことね」
 魔女にとりつかれた者を隔離するための部屋、などとは口が裂けても云えない。
「あれは城舘の重要な飾りですわ、正面から見るとガルトムーア・ホールは左右対称でしょう? その中心軸となるのが、下から順に縦に一直線に、玄関へのぼる階段、玄関テラス、そしててっぺんのあの八角塔というわけなのですわ」
「質問のこたえになってないな、僕はどうやってのぼるのかと訊いているんだ」
 それはいずれいやでも知ることになる。そのときにはあなたはきっとガルトムーア・ホールに来たことを後悔するでしょう。けれども今日のところはわたしに感謝しなさい、ことさらつまらなそうにこう云ってあげるから。
「あそこにのぼるのは煙突掃除夫くらいなものですわね」そしてさり気なくつづける。「ほら、あそこ、わかるかしら、城舘の後ろ。わたしたち一族の礼拝堂よ、行ってごらんになる?」
 礼拝堂にはとりたてて珍しいものはないけれど、見物するのにもっとも無難な場所だ。だけどこのまま敷地のはずれまで歩いていけば氷室があり、さらにその先は、まずいことにグロットー(人工洞窟)なのだ。幸いにもここからは野生の草木に紛れ、わかりにくいけれども。
 ところが、
「墓所を見たい」
 どきりとしてわたしはブラッドを見た。
「一族の墓はどこだ」
「ご先祖に祈りたいというのなら礼拝堂に──」
「死体はどこに埋めてあるのか訊いてるんだ」
 乱暴なものいいだった。しゃがれているのに高い声だから、キンと響いて突き抜けてくる。
「遺体は埋めないわ、遺体は納体所よ」そして納体所はグロットーの中だ。
「そりゃあ、おあつらえむきじゃないか。案内しろ」
 何を云っているの、どうしてお墓のことなんか訊くの、納体所へ行ってどうしようというのよ。
「野ニンニクはどうするの、早く持って帰らなきゃしなびてしまうわ」
「納体所が先だ」
「そんなところへ行っても何もないわ、見るものなんてない、つまらない場所よ」
「なぜ行きたがらない、舘を案内するとさっきおまえは云ったじゃないか」
 わたしの持つかごから、はらはらと葉が落ちてゆく。
「駄目よッ」
 叫んだのはマミーリアだった。
「駄目、あそこへ行っては駄目」
 マミーリアの口をふさごうと、かごを放り出して駆けよった。だけど思わぬ力で振りはらわれる。
「わたしは厭よ、わたしは絶対に行きません!」
 つまずきよろけながら走り去ってゆく姉に、わたしは少なからずほっとしていた。よかった、マミーリアは余計なことは云わないでいてくれた。
 ガルノートン家の墓所である納体所へは、安易に近づくわけにはいかない。
 あそこには遠いご先祖様だけではなく、お父様も、七つになったばかりの次兄のトムも、そして陽気なエレン伯母様、大好きだったジョン兄様、全員の遺体が安置されている。みな、魔女アンヌ・マリーにとり殺されたのだ。だけどわたしたちは、彼らのところへ行って花をたむけることもできない。それどころかまだ彼らの息があったときさえ、手を握って慰めることもできなかった。愛する人が呪いに苦しめられているというのに、わたしたちは見舞うことすら許されなかったのだ。
 魔女にとりつかれた者には触れてはならない。それは絶対に守らねばならぬ決まりだ。もし触れたら、触れた者までとりつかれてしまうと云われているのだ。
 そして何よりも魔女の呪い自体、ブラッドに知られるわけにはいかない。魔女にとり殺された一族の納体所に、のこのこと案内などできるわけがない。いかなずうずうしいブラッドだって、ガルノートン家がこんな禍々しい家系であると知ったら、一目散に逃げ出すに決まっている。いいえ、逃げてくれてかまわない、わたしと結婚したあとなら。いっそどこかへ消えてほしい、わたしがガルトムーアの女主人となったあとに。でも、それまではアンヌ・マリーの呪いのことは、絶対に秘密だ。
あっとなってわたしは大急ぎでしゃがみこみ、落とした葉をかき集めた。それはわたしの胸に浮かんだ邪悪な考えを、傍らのブラッドに悟られないようにするためだった。わたしは一心に草をかき集めた。わたしの考えはこうだった。
 次に呪われるのはブラッドであればいい。そしてわたしと結婚したあとすぐに死ぬのだ。そうなれば好都合、そうなれば文句なし。あんなひとでもガルノートン一族の人間なら遅かれ早かれ魔女の餌食になるだろう、だったら一番タイミングのよいときに呪われろ。
 いたいっ。
 左手の薬指の腹の、手袋の生地に、ぽつんと赤い点がつき、次第に広がってきた。血だった。野ニンニクの汁で草色に染まっていたところに、赤い花が咲いたようだった。棘か何かが刺さっただけなのに、わたしにはそれがおのれの罪の証拠に見えた。鮮烈で、恐ろしい。だけど美しい。
 手がつかまれた。ブラッドがつかんでいるのだった。ブラッドは泥で汚れるのもいとわずに地べたに膝をつき、目線の高さをわたしとおなじにして、わたしの薬指を、わたしの血を、わたしの罪を、凝視していた。
 ブラッドの手。とても貴族とは思えない。手入れなど一度もしたことないのだろう。そのうえ引き攣れまである。何の傷跡だろう。
 ますます強く握られた。痛い。わたしは手を引き抜こうとした。抜けず、ブラッドに引きもどされた。あっという間に手袋をはがされる。わたしの体に戦慄が走った。裸にむかれたような気がした。血はわたしの白い指の先でいよいよ赤く、まるで意思あるもののように傷口から丸くもりあがり、ある瞬間、流れた。
 あまりのことに眩暈がした。指をブラッドに吸われていた。指が温かいものにくるまれている。指先の傷はチリチリと疼いている。そこを濡れて動くものが──これはきっとブラッドの舌──やさしくしめつける。
 わたしの罪は清められたのだろうか。すべてを許されたのだろうか。わたしは責任や自負心や、悲願と悪心、はては魔女の呪いからも解き放たれて、ただただ心地よさのなかでたゆたっていた。その素晴らしい感覚は、薬指の先から全身へと巡ってくるのだった。
 ブラッドがわたしの指を口に含んだまま、わたしを見つめている。なんという眼差しだろう。なぜそんなにやさしいの。瞳が鏡になってわたしを映している。そしてそのわたしの顔は泣きそうだ。
 顔が消えた。ブラッドがわたしの指をはなし、両の手でわたしの頬を持って、引き寄せ、わたしの唇と自分の唇を重ねたからだ。
 生まれてはじめての口づけは血の味だった。



 蝋燭の灯りが一つ、また一つ、と顔を照らし出していった。ガルノートン一族の肖像画だった。大人の男女の絵、白髪の老人の絵、少女、どれも絵でしか知らないひとたち。むかしを知る者がいなくなった今となっては、名前も間柄もわからないひとたち。だけど彼らを見るたびわたしは自分に誇りを感じる。わたしの体に流れている由緒正しきガルノートン家の血を感じる。蝋燭をかざしながら、ゆっくりと陳列廊(ロングギャラリー)を歩いてゆく。すでに日はとっぷりと暮れ、反対側の壁にならぶ窓は夜の闇にぬりこめられていた。
 廊下の先に、ぽつんと光が見えた。蝋燭の火のようだった。近づいてゆくと火の前に浮かびあがっているのは、ユリア姉様の横顔だった。
「お父様のお顔を見ていたの」
 そしてわたしのために自分の燭台を持ちあげてくれた。だけどユリアが示したのは、父の肖像といえば普段わたしたちが指すほうではなく、もう一つのやや小ぶりの額絵だった。
それは少年の絵だった。馬に跨っていた。ぴんと背筋を伸ばし、こうべも真っ直ぐに立て、首だけをややねじって正面をむき、眼差しをこちらに注いでいた。明るく澄んだ瞳だ。唇は引き結ばれている。凛々しい十代の、ちょうどわたしくらいの歳ごろの、父だった。自分の父というより誰か、未知の少年に見える。彼は何が好きだろう、ガルトムーアで野ウサギを見つけたら追いかけるだろうか、舘の図書室ではどの本を選ぶ、キーツの詩を読んだことがあるだろうか。もしこんな少年と出会えたらわたしは何を話そう? 
 出会えたではないか、ブラッドに。ウサギを見たらすぐさま矢を射かけ、キーツと聞いたらせせら笑い、図書室など燃やしてしまえと罵るであろう少年に。わたしは自分でも知らないうちに手で唇をさわっていた。
 ブラッドの父親はどんなかただったのだろう。探してみるが、どれがその肖像なのか見当がつかない。額縁の中で澄ましかえっている大人の男たちからは、ブラッドとの共通点は窺えない。わたしの眼はまた、少年時代の父の絵にもどってしまう。
「ディナーに出なかったわけを訊かないのね」ユリアは今日の正餐(ディナー)に現れなかった。
「あら、出なくてよかったわ、野ニンニクの匂いにはもううんざり。ブラッドがまた、自分の料理をとりかえろっていったのよ、今日はわたしの皿と。あのひとったら、食事のたびに見比べてとりかえさせるのはどうしてなのかしら、ネラ夫人が皿によって味や量をかえているとでもいうのかしら、もしそうならあんまりな誤解だわ、一度ブラッドにはじっくり説明すべきよね、ネラ夫人は料理人としても一流で誇りを持っているって」
 ブラッドが舘に来てはじめてのディナーでけちがつき、ネラ夫人は料理人を馘にしたのだ。以来、食事はすべてネラ夫人がつくっている。
 ユリアの笑みが消えた。
「きょうは恥ずかしいところを見せてしまったわ」
 ヒュー・ヒュゲットに好意を持っていると、ブラッドに見抜かれたことを云っているのだろう。
「恥ずかしくてディナーにも出られなかった、伯爵様はきっと気分を害されたでしょうね、下女に言付けようとしたんだけれど」
「あの娘では間にあわないわ、足りないんですもの」せめてもの救いは手癖は悪くない。
「大きいほうのひとよ、復帰したけれどまだ具合がよくないみたい、気の毒にひどい顔色だったわ」
「なおさら駄目じゃない、あれは唖者だから」
 おまけに以前はわたしの部屋から細々した物がよく消えた。口が利けなければ舘の内情を云いふらしたりはできないし、唖者の下女など中々見つけられない。だから目をつむるしかなかった。お母様からいただいた大切な品がなくなったときは悔し涙がこぼれた。
「あら、唖者ではないわ、ただものすごく無口なだけなの、わたしあのひとが喋るのを聞いたことがあるもの」
「まさか」
 ユリアったら妙なことを。よほどヒュゲットにのぼせあがってるのだわ。
「どちらにしてもディナーは出なくてよかったのよ、ブラッドはムスッとしてマミーリアも険悪で、おなじテーブルについているというのにお互い顔も見なかったわ、もちろんお母様は相変わらず部屋にこもりきり」そしてわたしはどんな顔をしてテーブルにつけばいいのかと悩んで、悩んで……
「まあ、何かあったの?」
 ブラッドとキスをしたのよ! 
 高らかに公言したかったけれど、わたしは言葉を呑みこみ、それから深刻な調子で云った。
「マミーリアはブラッドに弄ばれたの。でもマミーリアの態度も悪かったわ、あれではまるで娼婦よ」
「まあっ」
 はしたない言いかただと咎められるかと思ったのに、ユリアの口から出てきたのは笑い声だった。そこには馬鹿にしたような響きがあって、つまりそれは年下にたいする鷹揚さからくるもので、わたしはむきになった。
「マミーリアはブラッドを誘惑しようとしたのよ、それだからブラッドは手酷く罰したのだわ」
「彼はまだ子どもよ、自分のしていることがわかっていないのよ。でも、遠からず彼はマミーリアの魅力に気づくでしょう、伯爵はマミーリアを妻に選ぶでしょう」
 違う、ブラッドが選ぶのはこのわたしだ、彼はわたしにキスしたんだもの。
それなのにユリアは、
「あの二人はお似合いだわ、わたしは伯爵様と結婚するには歳をとりすぎているもの」
「ドクター・ヒュゲットね」ピンときた。「つまりお姉様は身をひいて、ヒュー・ヒュゲットと結婚したいと云うのね」
 たちまちユリアの頬が染まった。蝋燭の小さな灯りでも見てとれるほどだった。わたしは感動していた。恋という感情をはじめて目の当たりにしたのと、その情熱に打ち震えているのが、あの控えめだったユリア姉様だということに。
「いいわ、お姉様はヒュゲットと結婚すればいい、お姉様たちこそお似合いよ、でもブラッドがマミーリアと結婚するなんて云わないで」
「やめて頂戴!」
 ユリアの持っていた蝋燭が倒れて燭台から落ちた。火は消え、灯りはわたしの蝋燭だけになった。なのに照らし出されたユリアの頬はいっそう赤く、瞳は煌めいて見えた。
「可笑しいわね」自嘲するような声の響きだった。
「会ったばかりのよく知りもしないひとを、好きになってしまうなんて。でもわたしはおそらく、この先一生男のひとと知りあうことはない」
 姉の横顔に胸をつかれた。この廊下に飾られているどの作品よりも美しかった。そこには芸術の神秘と情熱が息づいている。そしてそれを危うい均衡でもって横顔の形に縁取っているのは、姉の最大の美徳、自制心だ。
 蝋が融けて蝋燭をつたい落ちる。透明のしずくは、しずくのまま白くなって固まってしまう。もしこれが涙だったら、表しているのは永遠の悲しみだ。
「結婚はしないわ」やるせなくユリアが云った。
「わたしは誰とも結婚しない。理由はわかるでしょう?」
 アンヌ・マリー! どくろよ! 壁の裏か、それとも忘れ去られたクローゼットの奥からか、今の言葉をしかと聞きましたか? 姉は果敢にもあなたに立ちむかったのです。あなたの忌まわしい呪いの犠牲者を、これ以上出すわけにはいかぬと云ったのです。
 姉を抱きしめる。愛おしかった。質素に結った髪が、飾り気のないドレスが、おろしたてのリンネルのような肌が、愛おしかった。
それなのに姉の次の言葉はわたしを愚弄した。
「伯爵が早くマミーリアとの結婚を決めてくださるよう祈りましょう」
飛びのいて叫ぶ。
「伯爵はわたしを選ぶわっ」
 しかしユリアはわたしの頬を哀れむように撫でて、
「ユースタス、あなたまで背伸びすることはないわ。考えてみればマミーリアだってあんなにはしゃいでいるけれど、あの子、結婚がどういうものか、まだちゃんとわかっていないのよ」
 結婚がどういうものかですって? 
 胸の内側に手をつっこまれ、深いこころの奥底から、何かを引きずり出されたような気がした。
結婚がどういうものか。一組の男女が婚姻の誓いをたてる。書類に自分の名を書き記す。式はおそらく牧師を呼んでガルトムーア・ホールの礼拝堂で行なわれるだろう。そしてわたしはガルトン伯爵ブラッド・ガルノートンの妻となる。すなわちガルトムーアの女主人となる。それがこれまでわたしが思い描いていた結婚だ。だけどわたしは直感していた。ユリアの云う結婚とは、こういうことではない──
「お姉様は、では結婚をわかってらっしゃるの」
「まあ、ユースタスったらどうしたの。そんなこと、あなたはまだ知らなくていいのよ」
「いいえ。わたしもぜひ知りたい。だってわたしは、」ブラッドと口づけを交わしたのだもの。もう考えずにはいられない、結婚について、口づけのあとに来るものについて。
 ところが軽くいなされてしまった。
「困ったおませさん」
 ユリアの笑みがわたしを苛立たせる。苛立ちは焦りの裏返しだ。わたしは何も知らずにきた。知ろうとさえしなかった。知る必要などないと思っていた。だけど今、わたしの内側から、わたし自身が駆り立ててくる。手が勝手に握っては開き、開いてはまた拳を握りしめている。この手は何をつかみたがっているの? わたしは欲しいのだ。身をよじるほど欲しいのだ。だけどお願い、誰か教えてちょうだい。わたしは何を欲しがっているの?

ユースタス3 ともかく、まずはジョン様のご葬儀ですよ

 今夜は月が出ていない。わたしの寝室の窓も陳列廊(ロングギャラリー)同様、外の闇に真っ黒にぬりつぶされている。それを蝋燭のほのかな灯りが黒い鏡に変えている。そこに映っているのはわたし、そして背後にネラ夫人。
 ネラ夫人が話している。新しい伯爵はいささか粗暴なところがありますが、病弱なエリザベス奥様へは気遣いを見せてらっしゃいます、思うほど冷たいかたではなさそうですよ、医者だというヒュー・ヒュゲット様のすすめで、白ワインづけのカミルレやらハッカ水やら、毎日せっせと奥様の寝室に運んでいますよ、なんとあのかたがご自分で! 
 ああ、そう。
 話題はブラッドのことなのに、わたしは無関心を装った。
 ユリア様はヒュゲット様のほうが気になってらっしゃるようですね、当然といえば当然でしょう、ユリア様はわきまえていらっしゃる、あのお歳では伯爵様とはつりあいませんからね、ところで昼間の野ニンニクつみはいかがでしたか?
 そうね、悪くはなかったわ。
 ことさらつまらなそうに返事をした。あのときのことを思い出すと頬が熱くなる。体の奥から甘い痺れが広がってきて、なんだか宙に浮いている心地になってしまう。でもわたしは平静を装う。ブラッドに口づけされたと、ブラッドは結婚相手にわたしを選ぶに違いないと、あと一歩でわたしの使命がはたされるのだと、ネラ夫人には何をおいても報告するべきなのに、云えない。云うのが怖い。いいえ、なによりわたしは、云いたくないと思っている──!
 それなのにネラ夫人ときたら訳知り顔で頷くのだ。さてはマミーリア様ですね、せっかくの機会を邪魔されたのでしょう、どうやらマミーリア様はご自分が伯爵様の妻になるものと信じきっているごようす、大丈夫ですよ、心配することはございません、お嬢様は必ずや伯爵様と結婚することになりましょう。
 その結婚こそが問題なのよ! あなたにはわからないの? それともすべて承知で、そんな涼しい顔をしているの?
「ねえ、ネラ夫人」
 努めて明るく切り出した。
「あなたはどうして結婚しなかったの?」
「何とおっしゃいました?」
「ねえ、あなただって若い娘のときがあったのでしょ、誰かに結婚を申しこまれたことはなかったの、なぜ結婚しようと思わなかったの」
「なぜ、そのような質問をなさるのです」
 ほんのかすかだったがわたしは感じとった。身じろぎしたのだ。あの、常に冷静なネラ夫人が、わたしの言葉に動揺して身じろぎした。決定的な疑問をぶつける。
「結婚したら妻は夫に何をされるの。抱きしめられてキスして、それから? ねえ、それから? そのときになったらわたしは大丈夫かしら、ねえ、どうしたらいい?」
 ネラ夫人は凍りついたように動かない。
「ごめんなさい、はしたない質問だってことはわかってる、でもわたしたち、うっかりしていたのではなくって? だってこの家を守っていくには跡継ぎがいるわ、魔女の呪いを終わらせるだけでは片手落ちよ」
 上手に言い訳できただろうか。返ってくるのはこわばった沈黙だけだ。
 蝋燭の炎が揺れた。蝋燭のつくる影と、そしてネラ夫人自身が閃いた。次の瞬間わたしはネラ夫人の腕の中だった。
「大丈夫ですよ」
 強く抱きしめられ、苦しい。頭がネラ夫人の胸に密着しているせいで、夫人の声が直接わたしの内側で響いて聞こえる。
「どうか余計なことはお考えにならずに。ユースタス様はガルトムーアの女主人となるために伯爵様と結婚する、それだけでいいのです。それで万事うまくゆくのです」
「駄目よっ」烈しくかぶりを振った。「何も知らないで結婚しろというの」
「知らなくていいんです、ご承知でしょう、知ったところでお嬢様の使命には何の役にも立ちません、なぜ今になって」
「教えてよ」
「今さらなぜそんなことを」
「知りたいの」
「ああ、ユースタス様」
「うるさい、離して」
 もみあった。身をよじりながらわたしのこころは袋小路へと追いつめられていた。わたしたちは何を争っているのか、なぜネラ夫人はわたしの問いにこたえてくれないのか、そもそもなぜわたしは知りたいのだ、まったくネラ夫人の云うとおりではないか、そんな知識、わたしがこれからしなければならないことには邪魔なだけ。滅茶苦茶だ、こんなことはじめて、ネラ夫人のなんと力の強いこと! 
「あなたもわたしのこと子どもだと思ってるのね、馬鹿にしてるのね」
 ネラ夫人がわたしを離した。わたしたちは睨みあって、荒い息を吐きあった。それからネラ夫人は乱れた髪をかきあげ、わたしは椅子へもどってぐったりと座りこみ、互いに息と気持ちを整えようとした。
「どうか跡継ぎのことは、ひとまずお忘れくださいまし」
 そっぽをむいてやる。するとネラ夫人の口調も鋭くなった。
「ユースタス様はわたくしを裏切るおつもりですか、ガルノートン家を救うという誓いはどうなるのです」
「でも跡継ぎとなる男の子は必要よ、たとえわたしがガルノートン家を救っても、跡継ぎが生まれなくてはガルノートン家の血は絶えてしまう、本末転倒じゃなくって?」
 むろん跡継ぎは重要な問題だ。けれども今、真にわたしが考えているのは、口づけについてだ。
 ブラッドとの口づけが、幾度も幾度も脳裏によみがえる。あの一瞬が扉をこじあけた。わたしの身のうちの奥の奥、埋もれていた扉、あることさえ知らなかった扉、あけられてしまった、まるで瘡蓋をひきはがすかのように。
 扉の中を覗くのが怖い。恥ずかしい。だけど知りたい。知らないまま生きてゆくなんて、もうできない。なにより中からどんどん何かがあふれてくるのだ。どうしよう、こんなこと、とてもネラ夫人に云えやしない。
 なんてこと、わたしがネラ夫人に隠しごとをするなんて。秘密など、これまで一つだって持ったことはなかったのに。じわりと胸に苦いものが広がる。これは裏切りの味だ。けれども知った。苦さもまた美味であると。
 はじめての秘密を、わたしは注意深く言葉を選んでくるんだ。
「もちろん誓いを忘れたわけではないわ。わたしは必ずガルトムーアの女主人になってみせる。そして魔女の呪いを終わらせてみせる。でもそれにはやっぱり、きちんと知っておいたほうがよいと思うのよ、跡継ぎの問題はもちろんのこと、首尾よく伯爵と結婚したあと、知らないでいて愚かな失敗を犯したりしないためにも。つまり、その、男女のあいだのことについて」
 やおらネラ夫人の腕があがった。真っ直ぐに私を指さす。
「アンヌ・マリーに呪われますよ」
 ネラ夫人の指の先から眼には見えぬ細い刃がのびてきて、一直線にわたしの心臓を刺し貫いた。
 きりきりとよじれて悲鳴をあげる心臓を、服の上からおさえる。容赦なくネラ夫人がたたみかけてくる。
「なりません、なりませんよ、何度も申しあげたではありませんか、ユースタス様は特別なのです、そう生まれついたのです、そのようなこと、考えてもいけません」
「でも」
「いいえ、わたくしはユースタス様をお守りせねばなりません。結婚して子を産むなど、ただの女が考えること、なりませんよ、ガルノートン家を救うどころか、とたんに魔女の餌食です」
「でも跡継ぎ──」
「お静かに! 魔女がどこかで聞き耳を立てておるやもしれません」
 息を呑みこむ。黴で真っ黒の壁と、その奥に潜んでいたされこうべ。わたしの頭に浮かんだのはそれだった。
 チリチリと、小さな音がした。蝋燭の火に羽虫が飛びこみ、焼け死んだ音だった。それきり静寂が部屋を支配した。ふけてゆく夜を空気の重さでわたしは感じた。
 やがてネラ夫人が口を開いた。声音がずっとやわらかくなっていた。和解を望んでいるのだろう。
「その問題はいずれまた話しあいましょう、お嬢様が見事、偉業を成しとげたあとに」
 承服できない。鼻息で返事してやる。すると、
「口惜しゅうございます」
 ネラ夫人の嘆きだった。
「ええ、口惜しゅうございますとも、なんと愚かな娘! せっかく一族の救世主となる機会をあたえられておきながら、おなじことをおっしゃる、そこらのくだらぬ平凡な女と」
 嘆きが憤りに転じてゆく。
「ユースタス様は特別な娘でございました、先ほどまでは。しかし今は違います、もはやお嬢様には何の価値もございません、使命を放棄されたお嬢様に存在する価値があるとでも? ああ、でも、一つだけよいことがあります、ひょっとするとお嬢様は生き永らえることができるかもしれませんよ、アンヌ・マリーが目こぼししてくれるんです、呪う価値もないと、なにせお嬢様はうま──」
 そこで止まった。ネラ夫人は眼差しを泳がせ、そのあいだになんとか言葉を舌で丸め、呑みくだしたようだった。
 それからまた話しはじめたけれど、云い繕う調子は隠せなかった。
「よろしいですか、そういうことなのですよ。お嬢様が特別であるということはそういう哀しいさだめを、」
「もういいわ」
 世界のどこかには砂漠という地帯があるそうだけど、もしそこに置き去りにされたらこんな気持ちになるだろう。これは罰なのだろうか。ブラッドとの口づけを秘密にし、さらに口づけの次につづくものを期待したわたしへの戒めなのだろうか。ただ一つはっきりと感じていたのは、わたしの中の扉が閉じられたということだった。
「もうお休みになられたほうがよろしいですね」
 黙っていた。
「お休み前にココアでもお持ちしましょうか」
 首を横に振った。
ネラ夫人はまだ何か云いたげだったが、諦めたようだった。部屋をさがりかけた。が、不意に立ちどまり、振り返った。
「それほどおっしゃるのなら、ユースタス様にだけわたくしの秘密を打ち明けましょう。遠い昔わたくしは子どもを産んだことがあります」
 驚いた。そんな話ははじめて聞いた。
「お嬢様はわたくしにお尋ねになりましたね、求婚されたことはなかったかと。ございませんでした、わたくしは子どもを結婚せずに産みました」
そう云って、眼差しは訴えかけるかのようだったけれど、わたしは黙殺した。ことさら悲しげにネラ夫人はかぶりを振った。
「子を産めば女は幸せとお思いですか」
「でも、」問わずにはおられない。「あなたは子どもを産んだのよね、誰かと愛しあって」
「女が子を孕むのに愛は必要ないのですよ」
 かさついた声だった。
 察しがついた、ネラ夫人の辛い過去について。それは愚かにも身分のつりあわない相手に誘惑されてしまう、女の奉公人にありがちな不幸だ。だからわたしは問いを重ねた。わたしも彼女を罰したかった。
「あなたの子どもは今どこに?」
 視線をあまりにも不躾にわたしの全身に這わせてくる。わたしに重ねて見ていたのだと思う、かわいそうな我が子の姿を。
「死にました。生まれてすぐに」
 わたしは目蓋を閉じた。けれどすぐまた眼をあけ訊いた。
「どっちだったの、男の子だった?」
 この沈黙が意味するものは何なのだろう。
 やがてこたえが返ってきた。
「いいえ。女の子でしたよ」
 ネラ夫人が去ったあと、部屋が急に冷えたような気がした。暖炉の火が恋しくなった。もう六月になるというのに。外は風が吹きはじめたようだ。荒野をわたってくる風が窓ガラスを細かく震わせている。蝋燭がつくるわたしの影が壁をおおうほどせりあがっていた。



 いったいなぜ、こんなことになってしまったのだろう。
 わたしの願いはただ一つだった。ガルノートン家を救うこと。二百年ものあいだわたしたちを苦しめてきたアンヌ・マリーの呪いから、一族を解放すること。あの日、兄のジョンまでもが呪いに殺されてしまったあの日の朝、ネラ夫人に告げられた。わたしは呪いを終わらせるため生まれてきた特別な存在なのだと。言葉だけでなくネラ夫人は眼に見える形でそれを証明してみせた、婦人の慎みを捨ててまで。
 あのときのことは忘れない。わたしは愕然となり、しかし同時にふつふつと闘志が湧いてきた。胸は高鳴り、使命をあたえられた自分が誇らしくて、涙さえ流れた。そして誓ったのだ、何をおいても成しとげてみせると。
 甘かったのだろうか。高をくくっていたのだろうか。わたしがガルトムーアの女主人になりさえすれば、あとは座っていても眠っていても、暢気に散歩していたって、呪いは終わる。我が一族はもう魔女に怯えることなく平和に暮らしていける。ことはごく簡単なはずではなかったか。
 なぜ事態はこんなにも複雑になってしまったのだろう。
 いいや、事態は変わっていない。変わったのはわたしなのだ。わたしのこころが二つのものを見るようになってしまったのだ。ガルノートン家と、ブラッド。ガルノートン家と、ブラッド。ガルノートン家と、ブラッド……
 わたしはブラッドと結婚しガルトムーアの女主人になる。ただし、わたしとブラッドが結ばれる、なんてことはけっしてない。そして魔女は退散。呪いは終了。簡単だ。簡単なことではないか。だけど考えずにはおられない。結ばれるにはどうすればいいの? このわたしにできるのかしら。またあの扉が開こうとしている。いったんこじあけられてしまったものは、もう完全にはもどらない。
 ガルノートン家と、ブラッド。ガルノートン家と、ブラッド。ガルノートン家と、ブラッド……
 わたしはほんとうに、その二つを見ているのだろうか。眼を閉じると浮かぶのはブラッドの顔ばかり。わたしに口づけし、離れたときのあの顔。怒っているような、泣きそうな。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
 今一度、考えてみよう。頭の中を整理してみよう。最初から思い出してみよう。そうすれば自分のなすべきことがわかるかもしれない。蝋燭の火はとうに燃えつきた。部屋は真っ暗で、窓から見える夜空のほうがかえって明るいくらい。風はいよいよ強くなり、窓がカタカタと鳴って、それなのに不思議。星は静かに光っている。こんな夜はバンシーが飛び交うという。ほら聞こえた? あれは彼女たちの泣き声ではないこと? それともただの風? どちらにしてもわたしには耳に馴染んだ音だ、ものごころついたころから、わたしを安心させる音だ。



 ガルトムーアでは吹きすさぶ風の音は子守唄だ。そればかりでなく、誰もが眠りについているとき耳にとどくのは風の音だけというのは、このガルトムーア・ホールにとって、さしあたってではあるが平穏を意味している。恐ろしいのは物音だ。魔女アンヌ・マリーの呪いは騒々しい。呪いがはじまると、昼となく夜となく予告なしに大きな音が響き、わたしたちを脅かす。音の出どころは舘のてっぺん、屋上の八角塔。何かが落ちる音、ぶつかる音、壊される音、それらは音として聞こえるだけでなく、振動となってわたしたちの生活する階下まで伝わってくる。いったい上で何が起こっているのか。
 ひとたび誰かがアンヌ・マリーの呪いの犠牲になったら、八角塔に隔離し、たとえ親兄弟であろうとも、犠牲者が最期を迎えるまで塔の出入りは固く禁じられている。もっとも、駄目と云われなくても、母も姉たちも近よることすら恐れている。わたしだって正直に云えば怖い。物音だけではないのだ。ときおり声も聞こえてきた。とても人間の声とは思えなかった。絶叫が殺戮の女神さながらに舘じゅうを駆けめぐり、そうかと思えば笑い声なのだった。今の今まで瑞々しく茂っていた木の葉がいっせいに舞い落ちるかのごとく、笑い声が、一点の翳りもない恐ろしいほど朗らかな笑い声が、屋上の塔から降ってくるのだった。いったい上で何が起こっているのか。
 そうして不穏な物音や声が数ヶ月つづいたあと、やがて沈黙が訪れる。やっと静かになったからといって安心できるわけではない。これはとてつもなく雄弁な沈黙。死の足音は、わたしは沈黙だと思う。沈黙は舘を蝕み、わたしたちの食事や会話や眠りを蝕み、そしてしまいにはわたしたち自身も黙りこんで、ひたすら待つようになる。待ちすぎて、待ちわびるようになってしまう。知らず知らずのうち、まだか、まだか、と唱えている。ガルトムーア・ホールの悪霊、魔女のアンヌ・マリーはそうやって八角塔の住人ばかりでなく舘じゅうを打ちのめしてから、やっと哀れな犠牲者の息の根を止めるのだ。
 祖父と祖母も呪われて死んだ。わたしが生まれる前のことだ。祖父の母、つまりわたしの曾祖母の死因もおなじだったと聞いている。正確には祖父が死に、その翌年曾祖母、そして祖母がそのあとを追った。曽祖父やそれ以前の代については知らない。そういった一族の歴史に詳しいはずの執事が、このガルトムーア・ホールにはいないから。節度あるネラ夫人は言葉を濁すけれど、呪いが怖くて逃げ出したのだ。ちょうど父が倒れたときだった。執事は姿を消し、執事室の私物もきれいになくなっていたそうだ。数日後、ずうずうしくも給金の請求書を送りつけてきたらしい。むろんネラ夫人は破り捨てたという。それが十年前のことで、わたしはまだ四つだった。ユリアは十二歳、ジョンは九歳、マミーリアは八つ、小さいトム兄さんは六つになるところだった。
 突然執事を失った家ほど悲惨なものはない。だけど幸いなことに我がガルトムーア・ホールにはネラ夫人がいた。ネラ夫人が奮闘してくれなかったら、この舘はたちまち立ちゆかなくなってしまっただろう。地下の厨房でつくりおきするバターの出来から奥様の寝室に運ぶお湯の温度まで、庭園の薔薇の咲き具合から厩に敷く藁のよしあしまで、奉公人のしつけ、接客、そしてもちろん所領の管理と家計も、すべてネラ夫人に任せておけば間違いはない。
 後妻であるわたしの母エリザベスの実家は、ドーセットではそこそこ名の知れた酒造家で、貴族との縁組に大喜びして、輿入れのさい奮発して花嫁に侍女をつけてやった。ビール職人のつまらぬ見栄は、けれどもガルノートン家への思わぬ贈りものとなった。侍女とはまさしくスーザン・ネラ、ネラ夫人のことだ。
 ガルトムーア・ホールに到着したときネラ夫人は、荒廃の香りがどことなく漂うのを感じたという。奉公人が居つかないせいだとすぐに察したが、その理由はまだ見当もついていなかった。後妻の侍女から女中頭に昇進するのに時間はかからなかった。母はネラ夫人に頼りきりだったらしい。舘の女主人としては情けないことだが、それも仕方なかったかもしれない、なにしろ嫁いでいきなり四人の子の母親になり、しかも末息子は──小さいトム兄さんのことだ──まだ乳飲み子とくれば。
 何役もこなすネラ夫人の働きぶりが眼に浮かぶ。専門職でもある料理人のかわりまでやってのけるのだ。実はわたくしはこう申すのもなんですが、ドーセットのご実家では料理人として重宝されていたのですよ、というのは滅多に聞けないネラ夫人の自慢で、わたしはネラ夫人の料理が食べられるのなら、料理人なんて何人だって馘になればいいと思っている。
 父に異変が起こったのは、六月のある日のこと。舘から見わたすと毛を刈られて丸裸になった羊たちの群れが、白い種をばら撒いたようだったのを憶えている。葉巻がどうしても父の口に入らなかった。葉巻はまるで父をからかうかのように、口の前を跳ねまわった。でも跳ねていたのは葉巻ではなかった。葉巻を持った父の手だった。
 このときわたしは笑ってしまった。てっきり父はふざけているとばかり思ったから。まだ四歳だったとはいえなんて愚かな女の子なのだろう、厳格だった父がそんな真似をするはずがないではないか。けれどもわたしは祖父母や曾祖母の死んだときの様子を知らなかったし、これこそがみなが恐れているアンヌ・マリーの呪いだなんて、つゆとも思わなかった。
 父が自分の意思で動けなくなるまで、それほど時間はかからなかった。魔女にとりつかれ、身体をのっとられてしまったのだ。幼いわたしは父を恐れた。だって、眼が、父の眼が──
 ネラ夫人が動くのは早かった。実は心中密かに対応策を練っていたのだという。そのころにはネラ夫人はすでにアンヌ・マリーの伝説について、忌まわしい呪いについて、熟知していた。祖父母たちの死について昔を知る人物を探し、一部始終を聞き出し、そうして半信半疑でいながらも、ふたたび魔女の呪いがはじまったときに備えていたのだ。
 八角塔が改築された。新しい下女も来た。その口の利けない大女を、ネラ夫人はわざわざ探し出して雇ったのだ。幼いわたしには彼女の四角い背中がとてつもなく大きく感じられた。動けなくなった父の体を抱え、どすどすと足音をたてて運んでいった。
 まもなく大きな物音がわたしたちを脅かした。屋上の八角塔から響いてくるのだ。叫び声も聞こえた。かと思えば大笑いのときもあった。お父様はどうして叫んでらっしゃるの、どうして笑ってらっしゃるの? わたしの問いにネラ夫人は、沈痛な面持ちでかぶりを振るばかりだった。
 父の世話はネラ夫人と下女のみでおこなった。わたしや兄、姉たちは、八角塔に近づくことさえ許されなかった。魔女の呪いから身を守るための決まりだ。呪いに侵された者にはけっして触れてはならない、とりついていた魔女が触れたところから入ってくるから。八角塔へのぼる階段は壁で隠され、扉は厳重に施錠され、鍵は舘じゅうのあらゆる鍵と同様、ネラ夫人が腰にさげて常に持ち歩いた。鍵を守る者がその家を守る。ネラ夫人は八角塔へ通じる鍵を守り、魔女の呪いに苦しむ父を世間からしっかりと隠して守り、わたしたちガルノートン家を守っていた。
 では母は? 母はどうしていただろう? 母は寝室にこもって泣き暮らしていた。自分の夫を世話するどころか、慰めの言葉一つかけようとしなかった。正直に明かしましょう。もうこのころから、四歳の幼子でありながらわたしは、母を軽蔑するようになっていた。母の悲嘆の理由がいずれ訪れる夫の死であったなら、まだしも理解できる。けれども母は、こんな忌まわしい家に嫁いでしまったおのれの不運を嘆いて、さめざめと泣いていたのだ。どこまでも愚かな、家族のお荷物でしかない母。その母の血がわたしにも流れているのかと思うと、口惜しくてたまらない。
 冬のさなか、父は息をひきとった。
 暗く悲しい季節は永遠に終わらないかと思われた。しかし、ぽっと光がともった。それは待雪草の小さな花束だった。ある朝、朝食室のテーブルに飾ってあったのだ。次兄のトムだ。雪におおわれたガルトムーアの、いったいどこに咲いていたのか。
 小さいトム兄さん。みんなのトム。トマス・チャールズ・ガルノートン。セカンドネームのチャールズは父からもらった。ぱっちりと開いた青い瞳。やわらかな巻き毛。小さな顎のハート型をした顔。兄さんに微笑みかけられたら、使命遂行中の天使だって羽ばたくのをやめて降りてくる。トム兄さんのささやかな贈りものは、わたしたちみんなのこころに灯をともした。母さえ寝室から出てきた。うっとりと浮かべた母の頬笑みに、わたしたち兄弟姉妹も笑った。母が歌った。春を呼ぶ歌だった。わたしたちも声をあわせた。父が亡くなってからガルトムーア・ホールにやっと家族の歌声が聞こえた。これはトム兄さんの魔法だ。魔法を使えるのは何も邪悪な魔女だけではない。
 今でも鮮明に思い出す。眼を閉じると目蓋の裏が真っ赤に染まる。トム兄さんをかこんでヒースの咲く丘でピクニックをしたあの夏の日。明日はガルトムーア・ホールを出て、寄宿学校へ預けられるという日だった。あのとき兄さんはまだ七つだったけれど、余所へ、それもなるべく遠くへ行かせるのは魔女の呪いを避けるためだった。
 燃えたつヒースの赤紫、賑やかなミツバチの羽音、それを追って駆けまわるトム兄さん。このときトムが履いていたウェリントン・ブーツは、ロンドンからわざわざ靴職人を呼んで仕立てさせたものだ。子どものうちから贅沢を覚えさせるのは感心いたしかねますとネラ夫人がしぶるのを、母がこう云って押し切った。いいえ、リンドリィ・セント・アグネスへ行っても恥ずかしくないよう紳士らしい身なりをさせてやらねば、トムもガルノートン家の立派な一員ですもの。
 そう、母の云うとおりだった。どんなに幼い子どもでも一族の血は流れている。そして宿命も受け継がれる。それがはっきりと証明されたのは、ピクニックから半月もたたない朝だった。リンドリィ・セント・アグネスの校長の話によると、食堂におりてきたトムの首が揺れていたそうだ。ひっきりなしに、まるで首振り人形みたいに。
 直ちに送り帰されてきたトム兄さんは、可哀相に自分の身に何が起こっているのか理解できておらず、ただただガルトムーアに帰って来られたのを喜んで馬車から降りてきた。そのときの歩きかたといったら! わたしたち兄姉妹は凍りつき、母は気を失った。アンヌ・マリー。性根の捻じ曲がった魔女。奇妙な動作は恐ろしい呪いのせいであるはずなのに、トム兄さんも父同様ふざけているようにしか見えなかった。頭はイヤイヤを繰り返しつつ、歩くと必ず三歩目ごとに片足が跳ねあがるのだった。紳士の証、最高級のウェリントン・ブーツを履いた小さな足が、まるで大道芸人の滑稽なダンスのように。
 トムは八角塔に運ばれるときいやがって泣いた。身をのけぞらせ腕をのばし、わたしたち兄姉妹に助けを求めた。でもわたしはその手を握ってあげることができなかった。そればかりか顔をそむけてしまった。なぜなら眼が、あんなにかわいらしかったトムの眼が、父とおなじように──
 きっとあれは魔女の眼だ。
 それからの成り行きは父の滅びてゆくさまを辿るようだった。八角塔から舘じゅうに伝い降りてくる物音、叫び、笑い声。
 やがて沈黙。
 父の死から二年とたたぬうちに、わたしたちはトムまで失ってしまった。
 二頭立ての貸馬車がガルトムーア・ホールに横づけされたのは、わたしが十二歳になった年のある夏の日だった。母の姉のエレン伯母様だった。少しでも母の気分が変わればと、はるばるドーセットの実家から呼び寄せられたのだった。母はすっかり塞ぎこんでいた。食事にも出てこず、夜は不眠を訴え、下女に薬草入りのお茶を運ばせて地下の厨房と三階の寝室とを何往復もさせるのだった。
 エレン伯母様はおおらかな女性だった。醸造所から貴族の舘に来てもまったく気後れせず、喋りたいときに喋り、笑いたいときに笑い、まるで生まれたときからこの舘で暮らしているかのようだった。伯母がわたしたちに笑いかたを思い出させた。伯母の明るさは舘に重苦しく垂れこめていた影をみるみる取り払っていった。伯母は母にももちろんその才能を発揮したから、母の憂鬱症が退散するのも時間の問題だった。というより母は単に誰かにかまってほしかっただけ、ただのわがままなのだ。だってそうでしょう? トム兄さんが死んでしまって悲しんでいたのは母だけではない。母は自分の悲しみにしか興味がない。母はいつだって自分しか見ていない。
 伯母のおかげでガルトムーア・ホールは、完全とまではいかないけれど──なにしろ小さいトム兄さんを失った痛手は大きすぎた──もとの生活をとりもどした。けれども、伯母は警戒すべきだったのだ。いくら母のエリザベスが情けないからといって、母親がわりにわたしたちに親身になったりせずに、あくまで客として振る舞い、ガルノートン家の問題にはいっさい口出しせず、ホップの収穫期がきたらさっさと実家へ帰るべきだった。
 伯母の影響をもっとも受けたのは兄だったのだと思う。わたしたち兄姉妹は一族の忌まわしい秘密のせいで世間とは隔絶されて育ってきた。遠いロンドンは夢で見るだけの街。ロンドンにはシーズンというところがあって、毎夜舞踏会が開かれているらしい。
 すると伯母が哀れみの表情を浮かべ教えてくれた。シーズンというのは場所ではなく社交界のシーズンのこと。毎年その時期になるとロンドンには国じゅうの貴族が集まってくるという。
 当時わたしはあと半年で十三歳で、長姉のユリアはもう二十だった。遅すぎると伯母は嘆くのだった。この家の人間はあなたたちを社交界にデビューさせないつもりなのかと。伯母が云うには、どんなに田舎に住んでいようが、いや領地が辺鄙であるほど、シーズンになったらロンドンへ出かけていって娘に社交界デビューをさせ、花婿を見つけさせなくてはならない。さもないと、と伯母は鼻に盛大に皺をよせて、あっという間にいかず後家よ、このわたしみたいにね。
 結婚なんて、このころのわたしには想像もつかなかった。むしろ夜毎のパーティーより一大イヴェントのダービーの話のほうにひきつけられた。いっぽう、シーズン中ロンドンに滞在する紳士たちの本来の目的は議会に出席するためと聞かされて、がぜん興味を持ったのは兄だった。兄のジョンはこのとき十八歳だった。一人前の大人として、ガルノートン家の当主として、自覚を持ちはじめてもおかしくなかった。それにジョンは、父も生前一年の半分は議会のためロンドンとガルトムーアを行ったり来たりしていたことを憶えていた。エレン伯母は、議員の中には父親亡きあと爵位を継いだ、まだ十五の少年もいると話した。ジョンの顔が輝いた。また伯母は、良家の子息はみなオックスフォードに入学するものだとも云った。ジョンももちろん大学に行きたかった。だけど兄のこころにも、やはりアンヌ・マリーの呪いが影を落としていた。呪いなんて迷信よと伯母は笑う。でも、もし魔女がオックスフォードまで追いかけてきたら? トムだって遠くの寄宿舎へ行ったのに逃げられなかった。
伯母は笑い飛ばした。おやまあジョン、あなたときたら死ぬ前から棺おけを注文する気? それにこれから大学で学問しようってひとが呪いやら魔女やら本気にするの?
 伯母がアンヌ・マリーに呪い殺されたのは、それからたった五ヵ月後だ。
母は半狂乱になった。父やトム兄さんが死んだときもこれほど取り乱しはしなかった。夫や息子の死を悲しみながらも、母は内心は安心していたのだろう。自分には呪いなど関係ない。魔女が呪っているのはガルノートンの一族だ、この身に一族の血は一滴だって流れていない。なんともあさましいがそれが伯母が死ぬまでの、母のこころの拠り所だったのだ。
ふたたび母は自分の寝室に閉じこもって阿片チンキと睡眠薬づけになった。兄も口数が少なくなった。ただ念願のオックスフォード行きは諦めなかった。黙々と準備を進めていた。瞳には重大な決意の表れである強い光をたたえて。兄を乗せた馬車が小さくなってゆくのを、わたしはいつまでも見送った。馬車が視界から消えたとたん、もう次に会える日を待ちわびていた。
 しかし、待ちわびる日々がまだしも幸せだったと、すぐに思い知ることとなった。二月もたたぬうちに、変わりはてた姿となった兄が送り返されてきたのだ。魔女アンヌ・マリーは獲物をしとめるためなら、はるばるオックスフォードまで出かけるのも厭わぬらしい。
 あの日。
 お兄様がついに亡くなった、そしてわたしがおのれのさだめを知った、あの日、あの朝。
 今でも鮮明に思い出せる。
 わたしはお兄様に最後のお別れをしようと、八角塔にのぼったのだった。そうしてネラ夫人に告げられたのだ。兄の死は幸福に転じると。魔女の呪いを終わらせる方法があるのだと。そしてそれはわたしにしかできぬことで、信じられぬのなら、どうぞこれを見てほしいと。
 兄の遺体の横たわる傍らで、ネラ夫人は透きとおるほどに頬を青ざめさせて、けれども背筋も膝もまっすぐのばし、立っていた。ひとは死ぬ決意で恥を忍ぶとき、顔が赤くなるのではなく血の気がひくということを、わたしはそのときはじめて知った。
 ネラ夫人は自分のスカートを、ペティコートごと腰のところまでたくしあげていた。足首のところに落とされて丸まっているのは長下穿き(ドロワーズ)だった。だから足はむきだしだった。さらに足は軽く開いていた。
 それをわたしは床に手をついて、下から覗いているのだった。そうするよう云われたからといって、なんという恥知らずな行為だろう! しかもすぐそばにお兄様が眠っているというのに!
「も、もう、いいわ。わかったから、早く下着をつけて頂戴」
 自分の顔に血がのぼっているのがわかる。わたしには死ぬほどの決意がないからだ。とはいえ誰がわたしを責められよう。わたしはおのれの秘密を知らされたばかりなのだ。
 わたしには、ない。
 スカートの中の足を、自然と強く閉じあわせてしまう。
 ネラ夫人は手早く身繕いをすませた。その顔をまともに見ることができなかった。それなのにネラ夫人は服の皺をひっぱって整えるのもそこそこに、話をつづけるのだ。
「どうです、ご覧になったとおりです。ユースタス様こそ、伝説が告げている特別な娘なのです」
「特別な娘ですって? 伝説って何のこと? 聞いたことがないわ」
 ええ、そうでしょうとも、ネラ夫人は深々と頷いた。そして遠くを、これまでの長い年月を、見つめる眼差しになった。
「長い話になります。お嬢様の部屋へもどりましょう」



 魔女アンヌ・マリーが斬首されるとき、亡骸をこの城舘ガルトムーア・ホールに埋めてほしいと願い出たくだりは、お嬢様をはじめご家族がご存知の話でございます。そして、そんな望みなぞ聞き入れられるわけもなく、その顛末が代々ガルノートン家の皆様を苦しめてきた呪いであることも、ご承知でしょう。しかしながらここにもう一つ、ちょっとした、けれども重要な、逸話があったのです。
 かつてあんなにも深く愛しあったはずの領主に末期の願いも一蹴され、魔女アンヌ・マリーは高らかに宣言しました。ならばわたしの願いは呪いと転じるだろう、呪いは代々つづくだろう、一族の男と女がすべて死に絶えるまで。
 すると領主の幼い息子が泣き出したのです。息子の顔は領主によく似ており、魔女は一瞬ひるみました。ですが息子がしっかりとつかまっているのは領主の妻、つまり魔女の恋敵である女のスカートでした。さらには息子は手に持っていたがらがら(ラットル)を、いきなりアンヌ・マリーに投げつけたのです。アンヌ・マリーの脳天を割った最初の一撃でした。これを合図に、従者が棍棒で打ちつけたのです。
 どのような想いがアンヌ・マリーの胸によぎったのでしょうか。血まみれになりながらもアンヌ・マリーは、えもいわれぬ美しい頬笑みを浮かべていたそうです。かわいい子ね、うらやましいわ、わたしも子どもを産んだことがあったのよ。そうです、こっそり領主の食事に混ぜていた、領主の健康を守ってきた、例の秘薬の材料として産み落とした赤子のことです。
 慈愛といってもいい笑みを浮かべながらアンヌ・マリーは告げました。その子に免じて──領主の息子か、薬のために切り刻まれた赤子か、それはわかりません──呪いが終わる可能性をあたえてやろう。わたしの呪いが終わるとしたら、それはおまえの家に子の産めぬ女が現れ、その女が主となったときだ。石女だ。一族の子を産めぬ女、一族を途絶えさせる女。もし石女がこのガルトムーアの女主人となったら、わたしの魂ははじめて安らぎを得、そのときこそわたしは永遠の眠りにつくことにしよう。
 そうしてあとはお嬢様のご存知のとおり、魔女の首ははねられ、屍は捨てられ、どくろだけが舘にもどってきて、やがて宣言どおりに呪いがはじまったのです……



 ネラ夫人の話が終わっても、わたしは言葉が出てこなかった。椅子に腰を落として座りこみ、小卓に肘をついて額を両手で支えねばならなかった。
 石女。
 それがわたしなのだった。ネラ夫人がその身をさらして証明してくれた、この眼ではっきりと見た、わたしと夫人との相違。そしておそらくはわたしとその他すべての女性たちとの相違。わたしの秘密。今の今まで自分自身さえ知らなかった秘密。
 わたしは石女なのだ。
 その意味もよく理解していなかった。見たものの衝撃だけが眼に焼きついていた。わたしにはないものがネラ夫人にはあった──
 体がひどく軽くなってしまったよう、体の中身がからっぽになってしまったよう。そこにいるネラ夫人が、この部屋の風景が、遠い。妙に納得する。道理でマミーリアお姉様みたいに社交界や結婚に興味が持てなかったわけだ。
「奥様のお産の際、赤子のお嬢様をとりあげたわたくしの驚きがわかりますか? わたくしは震える手でお嬢様を産湯に浸からせながら思ったのでございます」
「何を」からっぽになってしまったわたしに、ネラ夫人の言葉がするすると入ってくる。
「ついに現れたと。伝説が告げていたとおり、ついに現れたのだと。このお子様こそ救世主、ガルノートン家を苦しめてきた呪いに終止符を打つのは、このかたに違いない」
 もっと云ってほしい。言葉でわたしの空虚をくまなく満たしてほしい。
「ユースタス様は特別なのです、魔女の呪いを終わらせられるのはユースタス様だけなのです、使命です、ユースタス様にしかはたせぬ使命、この崇高な使命のために、ユースタス様は特別な娘として、そのお体に生まれてきたのです」
 窓の外では陽がすっかり昇ったようだった。八角塔の小さな明かりとりから光が真っ直ぐに射しこんでいる。光の筋が照らしているのは傍らに横たわる、おぞましいほど変わりはてた兄の亡骸だ。
 心臓が強く、速く、打ちはじめた。胸がわななく。眼がくらむ。頬が濡れていた。涙が勝手に流れるのだ。震えが止まらない。寒いわけでもないのに。手の爪が小卓にひっきりなしにあたって、その音がなぜだか大きく響く。
 これほどの名誉があろうか。このわたしが魔女の呪いからガルノートン家を救う。二百年ものあいだ誰も成しえなかったことを、このわたしがはたすのだ。
 しかし、わたしのこころを占領しているのは歓喜ではなかった。わたしは恐ろしかった。ふってわいたあまりに大きすぎる希望は──ほんとうに希望なの?──得体が知れなくて恐ろしい。絶望なんかよりずっと恐ろしい。もともとわたしは絶望には慣れ親しんでいるのだ。わたしたちガルノートン家の者にとって絶望は旧知の友だ。
 だからわたしは疑った。それは恐れを解消するのにもっとも有効な方法で、人間の愚かな習性だった。
「でも呪いが終わるだなんて。そんな話、わたしはいっぺんだって聞いたことないわ」
「いかにもそうでしょうとも。伝説のそのくだりを隠したのはわたくしです。エリザベス様が憂鬱症で閉じこもっていらっしゃるのをいいことに、ユースタス様やお姉様がた、ジョン様にも、わたくしはその部分を伏せてきたのです」
「どうしてそんなことを」
「ユースタス様が伝説の告げる特別な娘だと確信したとき、わたくしはこころを決めたのでございます。他の誰にも、ほんの断片さえ、さとられてはならぬと。お嬢様にも知らせまい、そのときが来るまではと。秘密を完璧に守るためでございます」
「なぜ? だって、みんな、お父様やお兄様も、死なずにすんだのかもしれないのに」
「どうぞわたくしを罰してください、償っても償いきれない罪です、わたしは呪いを終わせられると知っていたのに、今の今まで口を閉ざしてきたのでございます。わたくしの身勝手で、あのおかわいいトム様まで見殺しにしたのです」
「ええ、そうよ、あなたの罪よ、あなたはガルノートン家を裏切ったのだわ」
「ええ、お怒りはもっともです、わたくしもまた魔女なのでしょう、非情な魔女です、ユースタス様に偉業を成しとげていただくためなら、なんだっていたします」
 睨みあった。だけどすぐにわたしのほうから眼をそらした。わたしの怒りは正当ではなかったからだ。だしぬけに暴れ出したこの激情は、ほんとうはネラ夫人への怒りではなかった。はじめておのれの秘密を知らされて、思いもよらなかったこの宿命をいったいどう受けとめたらいいのか。混乱して、混乱が耐えられなくて、怒りに変えて手近なところへぶつけているのだ。
 けれど頭の片隅では、ネラ夫人の行為を認め、納得もしていた。もし父や兄が生きていたら、わたしはガルトムーアの女主人になれるだろうか?
 これこそアンヌ・マリーの狡猾さだ。一族の子を産めぬ女が、家系を絶やすことになる女が、女主人になるなどありえない。
 だから先祖たちも、伝説が告げる呪いを解く方法を知っていても、石女を探し出して妻にする、などということはしなかった。父もそうだ。いずれ魔女に呪い殺されるとわかっていながら結婚相手に選んだのは、四人も子を産むことになった先妻と、そしてわたしを産んだ母だ。兄だって生きていたら健康で多産の家系の女性を望んだだろう。
 そもそもその家の娘が女主人になること自体ありえない。跡継ぎとなる男子がいるかぎりありえない。だからネラ夫人は待っていたのだ。秘密をひた隠しにし、じっと待っていた。ガルノートン家の最後の男子であるジョンが死ぬまで。
 ネラ夫人がわたしの手をとり、胸にかき抱いた。
「どうぞわたくしを信じてくださいませ。ユースタス様なら成しとげられます、いいえ、ユースタス様しか成しとげられぬのです」
一筋の光だった。穴に迷いこんだ野ねずみが、一筋だけ射す光を見いだしたら必死に駆け出すように、わたしもしがみついた。あたえられたこの使命に。石女であるわたしだからこそはたすことのできる使命に。
「誓ってください、お嬢様。伝説どおりにガルトムーアの女主人となって、必ずや魔女の呪いを終わらせると」
 頷いた。自分の意思よりも体が先に動いていた。
 ネラ夫人の顔がぱっと輝き、それから握りしめていたわたしの手にうやうやしく口づけた。それをわたしはぼんやりと、まるで夢の中の出来事のように眺めていた。
 ネラ夫人が膝を折って礼をし、出ていこうとする。
「どこへ行くの」
「ガルノートン家に忠義をつくさなかったわたくしです、重大な隠しごとをしてみな様を裏切ってきたのです。これ以上この舘にいさせていただくわけにはまいりません」
「待って」
 はじかれたように立ってネラ夫人をつかまえる。
「駄目っ、辞めないで」
「お嬢様はわたくしを恥知らずにするおつもりですか」
「じゃああなたは薄情者になるつもり? わたし一人でどうしろというの? あなた酷いひとよ、わたしだけに誓わせといて自分はさっさと去ろうだなんて。あなたも誓ってよ、誓って、誓いなさい、これは命令よ、わたしを守ると、必ずガルトムーアの女主人にすると誓って頂戴、お願い」
 わたしは両手の拳でネラ夫人を叩いていた。これではまるで駄々っ子だと自分で自分に呆れながら、でもやめられない。ネラ夫人はよけようとも防ごうともしなかった。わたしに打たれるままになっていた。そうして次第にわたしの拳は力を失っていって、それをネラ夫人の左右の手がそれぞれやさしく受け止めた。
「お嬢様、泣かないでくださいまし。何を泣かれているのです」
「わからない、わからないわ」
 ネラ夫人がわたしを抱きしめてくれた。わたしも絶対に離すまいと抱きついた。流れる涙の半分は安心したせいだった。ネラ夫人がわたしの背中をさすりながら、何度も繰り返してくれたのだ。
 もちろん誓いますよ、わたくしはお嬢様のおそばを離れません、お嬢様をお守りして、きっとガルトムーアの女主人にしてさしあげます。



 そのあとわたしたちは夢中になってこれからのことを話しあった。ネラ夫人はもう何年も前から、計画を立てては練り直し、準備してきたという。用意は万端整っている。新しくガルトン伯爵となる男性の居所はすでに探しあててあり、いつでもガルトムーア・ホールに迎えることができる。ただ気がかりだったのは、その人物は七十もすぎた年寄りだというのだが、それもネラ夫人にかかると私たちの計画にとって好都合となるのだった。
「結婚相手が高齢の御老人となればお姉様がたはきっと尻ごみなさることでしょう。それにユースタス様も余計な煩いがなくてすみますよ、晴れてご結婚されたあとの話ですが」
 何について云われているのか、愚かにもそのときのわたしはまったくわかっていなかった。
「ともかく、まずはジョン様のご葬儀ですよ」
 灰色の眼の中心点が針のように縮んでいた。



 そうして兄の葬儀が、第十六代ガルトン伯ジョン・ガルノートンの葬儀が、とりおこなわれた。
 一年前のことだ。
 今まであの出来事については、べつだん気にとめてはいなかった。忘れていたくらいだもの。だってわたしはネラ夫人を信じきっていた。ネラ夫人がわたしに嘘をつくはずがない、ネラ夫人がこうだと云えばそのとおりなのだ。だけどなぜだろう。ここにきて、妙にあの出来事がひっかかる。ひょっとするとあれは重要な意味があったのではないだろうか。
 葬儀は順調だった。何の落ち度もなかった。少なくとも最初のうちは。
 礼拝堂での儀式がそそくさとすまされたあと、兄の柩は柩持ちの手によって敷地の北のはずれ、一族の墓所へと運ばれていった。丘をおおうヒースが踏みしだかれて道ができる。その道を柩のあとについてわたしたちも辿る。母はネラ夫人に支えられてやっと歩いている。母も姉二人もうなだれて、その顔は服喪の黒いベールでおおわれている。でもわたしにベールは不要だった。悲しみとはすでに決別し、わたしが見据えていたのは未来だったから。
 弔いの行列がグロットー(人工洞窟)に到着した。半分は自然の地形の隆起、残りの半分は大小ふぞろいの石を積みあげたこの人口の洞窟が一族の霊廟だった。両開きの扉は鉄製で、分厚く重々しかった。さらに左右の扉の取っ手は鎖が巻かれ、南京錠がぶらさがっていた。南京錠はわたしの手のひらほどあった。
 ネラ夫人が進み出て、錠に鍵をさしこんだ。鍵はネラ夫人の腰に幾つもさがっているうちの一つだ。八角塔へのぼる際、隠し扉をあけるため鍵を選び出してさしこんだように、ネラ夫人はこのときも一瞬の迷いもなく、選ぶべき鍵を選んでいた。
 草の上に南京錠が置かれ鎖が山になって、そうして蝶番を軋ませながらグロットーの扉が開いていった。角灯を掲げ、まずネラ夫人が入っていった。それから柩を運んでいる園丁たちがつづいた。大の男のくせに及び腰だった。が、それも無理からぬ話。この墓所に納められている一族の遺体の死因は、ほとんどが魔女アンヌ・マリーの呪いなのだから。
 わたしと母と姉たちは外で待っていた。またもやここでも守られるべきは、例の決まりなのだった。魔女の呪いを少しでも避けたかったら、呪いで死にゆく者、死んだ者に、けっして触れてはならない。グロットーの真っ暗な口の奥、ネラ夫人の角灯だろう、あるかなしかの明るみが揺らいでいた。その位置がずいぶん低いのは、奥に進むにつれ洞窟は地下になるからだ。
 雲雀が鳴いていた。鳥の影が高くまぶしい空をよぎった。若草が風にそよぎ、そうすると根もとのぬかるみが覗いた。温められた泥の匂いはガルトムーアの春を告げる香りだったからわたしは嫌いではなかった。この日までは。
 最初はこもった音だった。まるでゴブリンが地の底で哭いているような──。姉たちの顔のベールが不安げに揺れる。
 グロットーの奥で揺らいでいた明るみがふっと消えた。そうして次の瞬間、わたしたちは知った。音はすさまじい悲鳴だった。男が叫びながらグロットーから飛び出してきたのだ。
 柩持ちを務めていた園丁だった。顔面が蒼白で、髪の毛も逆立っていた。その形相は地獄でも覗いたかのようだった。顎をがくがくさせて震えていた。違った。何かを云おうとしていたのだ。
 園丁は姉たちへ歩み寄った。マミーリアが悲鳴を発した。ユリアと二人抱きあってあとずさった。
 園丁は今度はわたしのほうに来た。髭にかこまれた口をぱくぱくさせる。言葉が聞こえた。しかしわたしはこんなことしか考えられなかった。なんという乱杭歯! 園丁は髪をかきむしった。
 いったい彼は何を訴えたかったのだろう。指さしているのは背後、自分が転げ出てきた霊廟だ。人口洞窟は真っ黒な口をあけているだけだ。
園丁は母へむきを変えた。お母様は呆然となっていた。園丁はふたたび必死に言葉をしぼり出そうとした。
とうとうお母様が叫び出した。お母様は両手で両の頬を押さえ、はしたないほど口を大きくあけて叫んだ。その声に園丁は飛びあがり、それから自分もお母様に負けない大声をあげた。
 二人の悲鳴はのどかな空を、高く、高く、のぼっていった。
 マミーリアは泣き出し、ユリアは失神した。わたしは泣きも叫びも、失神もしなかった。できなかった。だってほかのみんなが先にやってしまったから。それにわたしまで取り乱したら、誰が倒れたユリアを介抱するのだ。
 わたしがユリアを抱き起こしたとき、園丁は悲鳴をあげつつ走り去っていた。今や悲鳴は機械仕掛けじみた単調な繰り返しとなり、ヒースの丘をくだりきるころには、なぜだか笑い声になっていた。
 残りの召使いたちがやっと洞窟から出てきてくれた。洞窟の中で何があったというのだろう。しかし何か起こったわりには、一仕事終えて安堵したというようすだった。彼らは主人たちの惨状のほうにこそ仰天したようだった。お嬢様の一人は気を失っており、一人は泣きじゃくり、奥様は呆けて泥の上に座りこんでいるのだ。
「何をぐずぐずしているの、奥様とお嬢様をお舘へお連れしなさい!」
 最後に出てきたネラ夫人が叱りつけた。
「角灯の火が消えたんですよ、中が真っ暗になりましてね、それで園丁はびっくりして逃げ出していったというわけです」
 説明しながらネラ夫人は、洞窟の扉の鍵を閉めるのを忘れなかった。何度もゆすってきちんと施錠されたか確かめた。
「でも、あの怯えようはただごとではなかったわ」わたしは云った。「わたしに話そうとしたの、何かを必死に訴えようとしていたのよ」
「ユースタス様、マミーリア様をお願いできますか」
 ネラ夫人が母を立たせ、御者はユリアを抱きあげている。わたしはマミーリアにつきそった。
「園丁は何と云ったのだっけ、わたしったら確かに聞いたはずなのに」
 わたしはマミーリアをつれて、みんなと一緒に歩き出した。歩きながら自分でも知らないうちにつぶやいていた。
「園丁はグロットーを指さしていた。それにそうだわ、最初の悲鳴が聞こえたとき、確か灯りは消えてなかったはず、入り口から見えていたぼんやり明るいのが消えたのは、そのあとだったもの。洞窟の中で彼は何かを見たのではないかしら」
 どきりとなった。ネラ夫人が立ち止まって振りむいて、わたしにじっと眼差しを注いでいた。母とユリアは御者たちに運ばれて先に行ってしまっていた。
 ネラ夫人の唇の端があがり、微笑の形になった。どうしてこんなときに笑うのだろう。
「さすがはユースタス様、賢くていらっしゃる。よく気がつきましたね」
 わたしは前へ進めなかった。ネラ夫人もこちらには近づいてこなかった。わたしたちは七歩ぶんの距離をあけて対峙していた。マミーリアだけがわけがわからずおどおどしていた。
「よろしいでしょう、お嬢様にはほんとうのことを申しあげましょう」
 ネラ夫人のものいいはまるで戦勝の報告だった。
「あの園丁は触れたのですよ」
「触れたって、何を」
「ご遺体です」
 わたしの傍らでマミーリアが身を強張らせるのがわかった。わたしも息を呑みこんだ。
「お兄様の遺体をさわったというの?」
「いいえ。もっと古いご遺体です。あの男は不注意にも躓いたか何かで、棚に安置してあった柩に手をついたのです、その拍子に蓋が開いて──。ほかの者たちまで動揺させるわけにはまいりません、とっさにわたくしは角灯を消しました。おかげで大騒ぎにはならず、納体も無事にすますことができました」
 マミーリアがくずおれてしまった。わたしが助け起こそうとすると、地べたに座りこんで駄々っ子みたいに腕を振りまわした。
「厭よ、厭よ、舘に帰る、お墓はもうたくさん!」
 突き飛ばされてわたしも泥の上に転んでしまう。泥が顔にはねた。口に入った。それなのにネラ夫人は手を貸そうともせず見おろしていた。奉公人が主人であるわたしたちを見おろしているのだった。だけどわたしは叱ることもできなかった。ただでさえ上背のあるネラ夫人は、わたしたちの前に聳え立つ壁のようだった。威圧してねじ伏せ、そしてむこう側を隠す壁。
 泥の匂いが象徴するのはもはやガルトムーアの春ではない。疑惑だ。ネラ夫人はわたしに嘘をついたのではないか。
 グロットーの中で園丁はほんとうに遺体に触れたのだろうか。だって園丁がわたしに訴えていた言葉は、もっと違うことだったような気がするのだ。

ユースタス4 ねえ、ヒュー、僕の部屋へ行こうよ

 すっかりお湯が冷めてしまった。それでもまだわたしの体から、アンヌ・マリーの匂いがぷんぷん匂っているような気がしてならない。ここ数日、匂いが強くなったように感じるのはなぜだろう。とくにネラ夫人のことを考えると腐臭が漂い出す。ひょっとしてわたしは魔女に似てきたのだろうか。不信、裏切り、憎しみ、すべて魔女アンヌ・マリーお気に入りの装身具だ。
 びくっとなった。衝立のむこうにひとの気配がしたのだ。が、すぐに下女だとわかった。重たげな足音とのろまな動作、大きいほうの下女だろう。
 お風呂のお湯を足すように命じた。気配が寝室の奥の続き部屋へとさがりかけた。ふと、思い出す。「待ちなさい」わたしは衝立から顔だけ出して、
「おまえ、口が利けるそうね?」
 振りむいた下女の顔はどんよりしている。うつむき気味で、室内帽のつばが眼の下まで影を落としている。猫背なのは、こんな賤しい身分の女でも見た目を気にしているからだろうか、けれども大柄な体つきはどれだけ身をかがめても誤魔化せない。
「正直にお云い。話せるの?」
 のろのろと体もこちらにむけた。そしてやはりのろい動作で口をあける。わたしはあっとなった。
 舌がない。
 あるにはあるのだけど、下女の舌はひどく短かった。ひきつれて縮こまった小さな塊だった。舌の先がないのだ。
 これでは話せるわけがない。下女が喋っただなんて、やっぱりユリアの勘違いだわ。
 外が騒がしくなった。ネラ夫人が云い争っている。なんてこと! あれはブラッドの声ではないか。ブラッドがわたしの寝室の前まで来ている。部屋のドアをあけろと怒鳴っている。
「いいえ。たとえ伯爵様でもお通しするわけにはまいりません」
 ネラ夫人の声もひきさがらない。
 お湯をはね散らかして風呂桶から出ると、わたしは手早く下着をつけた。ドレスは一人では着られないので、とりあえずローブをはおった。香水を忘れてはいけない。下女の姿はもう消えている。仕方なく鏡台まで歩いていって自分でとった。勢いよくふりかけたら、むせてしまった。
 駆けていってドアをあける。顔だけ覗かせ、
「大丈夫よ、入ってもらって」
 ネラ夫人が真っ青になった。「ユースタス様!」ドアの隙間から体をねじこんでわたしを押しもどし、後ろ手で素早くしめる。
「正気ですか、裸で人前に出るなんて、もし秘密を知られたらどうなさる──」
「だってブラッドが来ているのでしょう、裸じゃないわよ、ローブを着たわ」
「なにもお嬢様が慌てて出てらっしゃらなくても」
「慌ててなんか」本心は明かしたくなかった。うまい理由が見つかった。「だってブラッドと二人きりになれるわ、こんなチャンスを逃すわけにはいかないでしょう」
 ネラ夫人はしぶしぶ頷くと奥の続き部屋へドレスを出しにいった。わたしはローブを脱ぎ捨て、両腕をあげて待っていた。
「急いで、ブラッドが行ってしまう」
 しかしどんなに急いでもレディの身支度には時間がかかる。ようやく髪を結いあげ、衝立でベッドを隠して部屋も整え、ネラ夫人が少々もったいをつけてドアをあけたときには小半時がすぎていた。
 ブラッドはまだそこで待っていた。わたしは胸が喜びでいっぱいになってしまった。ブラッドが両手で掲げて持っていたのは食事の乗ったお盆だ。
「わたしのために持ってきてくれたの?」
「何で食堂におりてこない」
 不機嫌そうなブラッドだった。ふくれっ面をし、態度も無愛想、でも頬がほんのり染まっている。
 わたしはここ何日か寝室に閉じこもっていたのだ。誰かと話す気にも、ものを食べる気にもなれなかった。とりわけネラ夫人とは顔をあわせたくなかった。けれどもそれをネラ夫人に悟られるのも、また厭なのだった。胸に巣食った疑念を、思いきってネラ夫人にぶつけるべきなのだろうか。だけどわたしにも引け目がある。わたしは秘密を持った。ブラッドとの口づけ、ブラッドへの想い。これは絶対にネラ夫人には知られたくない。秘密は弱み、秘密は足かせ、結局わたしにできたことは、せいぜい部屋に引きこもるくらいなのだった。
 でも、ブラッドはわたしの寝室まで来てくれた。食事を運んできてくれた。伯爵様が賤しい下僕みたいに。
 ネラ夫人がブラッドから盆を受けとり、丸テーブルに置き、覆い蓋を取った。大皿にパンもメイン料理も一緒くたにして乗せられてあった。ブラッドらしい。男の子って、ほんと乱暴だわ。
「冷めてしまいましたね、温め直してまいりましょう」
 そして部屋をさがるまえに、わたしに目配せするのを忘れなかった。うまくやれという意味だ。そんなネラ夫人の仕草がいちいち癇に障る。
「どうぞ、お座りになって」
 椅子を勧めるとブラッドは素直に従った。わたしもテーブルを挟んで腰をおろす。
 ぎこちない沈黙が流れた。何から話すべき? やはりまずはお礼を云うべきだろう。
「わざわざ食事を持ってきてくださってありがとう」
「なんで正餐室に来ない」
「それは──」
「おまえが風呂に浸かっているときは、あのつけつけババアがいつも外で見張っているのか」
「つけつけ?」
「ものいいがつけつけしてるだろ。ああ臭い」
「何ですって?」
「香水ビン丸ごとぶっかけたのか」
 とたん、顔に火がついたようになった。
「風呂に入るのにも見張りを立て、高価な香水も浴びるようにつける、ああ鼻が曲がりそうだ、まったく貴族のお嬢様ってのは」ブラッドの嘲笑だった。「この暮らしがさぞかし楽しいんだろうな」
 なぜ批難されるのかわからない。どう反論したらいいのかもわからない。
 ネラ夫人が料理を持ってもどってきた。不覚にもわたしは救いを求め、ネラ夫人に眼差しを送ってしまった。灰色の眼がほくそ笑んでいた。お嬢様うまくやっていますね? つい頷き返してしまう。
 絶望的な気分になった。この世でわたしの味方は一人もいない。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。やってきた新しい伯爵と結婚してガルトムーアの女主人になって、見事魔女から一族を救うはずだったのに。そのためだけにわたしは生まれてきたというのに。敗北だ。わたしは負けたのだ。おそらくブラッドとキスしたときに。
 丸テーブルに皿をならべおえると、ネラ夫人は給仕もせず、さっさと部屋から消えてしまった。気を利かせたつもりだろう。わたしは一皿ずつきれいに盛り直されたパンと肉料理を眺め、うちひしがれていた。蕪のスウプもあった。ウズラのパイから湯気がのぼっている。
 するとブラッドがフォークを取った。
「このウズラがすごく美味いんだよ」
 とりわけてくれるかと思ったら、なんと、自分の口に入れている。ぱくりぱくりと食べてしまう。まあ大きな口だこと! わたしはあっ気にとられ、それから笑ってしまった。
「わたしのために持ってきてくれたんじゃなかったの」
「すごく美味いんだ。おまえも食べてみろ」
「わたしはスウプにするわ、ウズラはちょっと苦手なの」
「そうなのか、こんなに美味いのに。じゃあ仕方ないな、僕が全部食べてやろう」
「そうしてくださると助かるわ」
 嘘だった。ウズラのパイは好き。でももりもりと頬張るブラッドをもっと見ていたい。おなじ嘘でもこちらの嘘は、どうしてこんなにうきうきしてくるのだろう。ブラッドったら、顔にソースがついてる。
 たちまちパイは半分になり、四分の一になって、皿に描かれたワタスゲが現れた。これは我がガルノートン家の紋だ。皿のワタスゲは格調高く、四角い枠で装飾してあるけれど、この野草はガルトムーアのどこにでも生えている。綿穂で大地が白い絨毯のようになるところをブラッドにも見せてあげたい。
「おまえは部屋に閉じこもって損したぞ、夕べは肉のローストが出た、何の肉か知らんけど」
「あなた、お肉が好きなのね」
「そのまえの肉と豆のプディングも最高だったな」
「ネラ夫人よ」
「何だって」
「料理はネラ夫人がつくったのよ。どうやら新しい料理人が見つからないようね」
 意味がわからないらしいブラッドに説明してあげた。
「今までの料理人は解雇されたのよ、ほら、あなたがはじめてこの舘に来た日の正餐が失敗だったから。それ以来ネラ夫人が腕をふるっているというわけ」
「でもあのとき僕は、料理が気に入らなかったわけじゃなかった」
「奉公人が馘になるのは珍しいことではないわ、ことに料理人は。ネラ夫人は料理に関してとくに厳しいのよ、なにしろ自分自身がもとは料理人だったんですもの。実を云うとわたし、料理人が馘になると嬉しいの、だって次が決まるまでネラ夫人の料理が食べられるんですもの」
 しかしブラッドはフォークを叩きつけて置き、
「馘にしたのは僕のせいだっていうのか!」
 わたしは慌てた。何かいけないこと云ったかしら。大急ぎでこれまでの会話を思い返してみるけれど、ブラッドの怒りの理由がまるで見当つかない。
 みじめだった。なぜこのわたしが、気品も教養もない、レディにたいする口の利きかただってなってない、ガツガツ食べて意地汚いブラッドなんかに振りまわされなくてはならないのか。なにより自分が情けなかった。なんて愚かな娘。キスされたくらいでのぼせあがって、相手の顔色や言葉の一つ一つに右往左往している。
 席を立ち、歩いていって衝立のむこう側へまわり、ベッドの脇の呼び出しベルの紐を引く。ベルの音はこの部屋では聞こえないが、奉公人のいる地下では、いかにも苛々した音色で鳴り響いていることだろう。
「どうしてなの」
 テーブルにはもどらず、衝立のところに立ったまま、訊いた。
「教えてくださらない? あなたはわたしのことをどう思ってらっしゃるの、嫌いなの? そうなんでしょう? わたしに怒鳴るし罵るもの。なのにどうして食事を持ってきたりするの、どうしてわたしのこころをかき乱すの?」
 笑っている。
「もういいわ、結構! わたしのことはどうぞ放っておいて頂戴」
 笑いが消えた。恐ろしいほどに熱い眼差しになった。
「放ってなんかおくものか」
 眼差しに灼かれ、灼き殺されてしまいそう。
「憎ったらしいやつ、何にも知らないくせに。でも憎いはずなのに、」
 椅子から立ちあがる。わたしのほうへやってくる。
「美味しい肉料理が出ると一緒に食べたくなる」
 ブラッドはもう目前だった。手をのばせば触れられる距離だった。わたしは衝立の後ろにあとずさった。なのにかまわずに追ってくる。衝立のこちら側はもっとも私的な領域だというのに。
「何も知らないですって?」やっとわたしは云った。「何のこと?」
 一瞬、ブラッドが迷う素振りを見せた。何を云い、何を云うまいか、というような。
「すべてさ。僕のことも知らなかっただろ」
「あなたこそ。わたしのことをご存じだった?」
「知ってたさ、一年前から」
「ああ、お兄様が亡くなったときね、相続についての便りで知ったのでしょ」
 また笑われた。厭な笑いかた。どうしてそんな顔をするの、どこまでひとを馬鹿にしたら気がすむの。
 押された。といっても軽くだ。とはいえ不意だったので、わたしはすとんと腰をおろしてしまった。
 ブラッドが身をかがめてくる。口づけされるのだと思った。だから少しあおむいて眼を閉じ、待っていた。
 怖かった。けれど期待のほうが勝っている。まず最初にキスをして、それから? それから? 手が落ち着かなくさまよって、そして触れた。シーツの生地だ。なんてこと! 今、わたしが座っているのはベッドではないか。ベッドの上! それはとてつもなくいけないことのように思われた。だけどいっぽうでは、これ以上ぴったりの場所はないと思っている。目蓋のつくる闇は甘い。そして苦しい。わたしの唇はさみしいまま。どうしたの、何をためらっているの、意気地なし!
 と、妙な感じがして、わたしは眼をあけた。ブラッドの顔は眼の前だ。
「どうした」
 わたしは視線だけめぐらせて見まわし、
「いいえ」
 ふたたび眼を閉じる。アンヌ・マリーに見られているような気がした、なんて云えるわけがない。
 そのとき、ドアのあく音がした。ブラッドの顔がさっとさがった。
 ドアといってもあいたのは、わたしたちが使う廊下への出入り口ではなく、部屋の奥、続き部屋にある奉公人専用ドアだ。さっきベルを鳴らして呼び出したから、裏階段をのぼってやってきたのだろう。大きいほうの下女が、どたどたと続き部屋を抜けてこちらの部屋に入ってきた。そのときにはもうわたしもブラッドも、衝立で隠されたベッドの領域から出てきていた。顎でぞんざいに丸テーブルの上を指してやる。口を開くのも忌々しい。せっかくの機会をよくも台無しにしてくれたこと。
 わたしは下女が料理を片づけるのを横目で見ていた。そしてふとブラッドへ視線をやり、驚いた。
 ブラッドが下女を見つめている。ひどく熱心に。下女の顔を、全身を、つぶさに眺めまわしている。
 その熱のこもった眼差しに気づいたのだろう、下女も顔をあげブラッドを見た。わたしは見逃さなかった。一瞬、わずかだが、普段はどんよりと鈍いその眼に感情の色がさした。下女はすぐさまうつむいた。盆を持ってそそくさと続き部屋へ行こうとする。
 盆からフォークが落ちた。皿も落ちた。分厚い絨毯のおかげで割れることはなく、ただ低い音がした。ブラッドが駆けよって落ちたものを拾う。わたしは叫んでいた。
「何をやっているのよっ」
 下女はびくんとなって、慌てて頭を何度もさげる。口が利けないので動作で許しを請うているのだ。けれどもわたしが叫んだ相手はブラッドなのだ。下女など眼中になかった。ブラッドを睨みつけていた。
 しかしブラッドはわたしをまるで無視し、下女の持つ盆へゆっくりと、皿とフォークを置いた。
 置きながらまた下女の顔を覗きあげ、見つめる。しげしげと、こちらが赤面してしまうほど。こんなこと許しておくわけにはいかない、なんとかしなくてはならない。だけど下女にむかって出ておいきと金切り声をあげるには、わたしのプライドは高すぎた。
 あたふたと下女はさがっていった。足音が騒々しくて、床が抜けそうで、わたしは不快でたまらなかった。
「ブラッド、あなた、いやしくも伯爵でしょう、下女の落としたものを拾うなんて何を考え──」
「名前は?」
「何ですって?」
「彼女の名前だ、何ていうんだ」
 心の底からブラッドを軽蔑した。
「存じません」
「隠すのか」
「ああ思い出しましたわ、彼女の名はリンリンリン、呼び出しベルの音ですわ」
「なぜ隠す」
「なぜですって? なぜ、わたしが隠さなきゃならないのよ、あれは下女よ、荷車やほうきに名前があって?」
 生まれてこのかた、下女を名前で呼んだことがない。名前などあったっけ? わたしの用の足したおまるを洗う者が、名前を持っているなんて考えたこともない。必要ないではないか。わたしの寝室が清潔に保たれ、ほしいときに湯が運ばれ、毎晩ベッドが整えられてあれば、それで結構。
 ブラッドがわたしに返してよこしたのも軽蔑だった。ものも云わず出ていってしまった。ドアが音高く閉じられるのをわたしは睨みつけた。それからくずれるように椅子に腰を沈めた。
 思い知らされていた。そしてそれは、わたしがはじめて知ったことでもあった。あの下女も女なのだ。どれだけ不器量だろうが、どれだけ身分が賤しかろうが、男性から見れば女なのだ。
 そしてもう一つ知った。お腹の底にあとからあとから湧いてきて、身をよじらせるほどわたしを苛む感情、これは嫉妬だ。



 わたしは眠りの深みに沈んでゆけず、意識の岸辺を行きつもどりつしていた。神経はくたくたに疲れているはずなのに、安らぎの波からわたしを引きもどすのは、おのれがブラッドに嫉妬しているという屈辱だった。
 事態はどんどん逆の方向へ行ってしまう。ブラッドがわたしを欲しがるべきなのに。
 寝台から起きあがった。ガラス筒の中で蝋燭がまだ燃えている。すると思ったより遅い時刻ではないようだ。下女に香草茶でも持ってこさせようか。ローダナムはこんなときのためにあるのだろうが、わたしはネラ夫人に阿片チンキを飲んだら頭が鈍くなると云われて育てられてきた。実際常用している母を見ればそれも頷けて、ローダナムが堕落への第一歩であることは明白だ。
 呼び出しベルを引こうとして気がついた。声が聞こえる。
 くぐもった声は何を云っているのかわからなかった。ただ穏やかな感じではなかった。気味が悪いのは、外の廊下の話し声ではないのだ。確かに壁をへだてて聞こえてくるのだけど、声の主はこの部屋の内側にいるような気がしてならなかった。たとえば衣裳箪笥の中とか……
 ぞくっとする。まさかアンヌ・マリー? また魔女のどくろが隠れている?
 先週までのわたしだったら、半泣きになってネラ夫人を呼んでいただろう。だけど今夜のわたしは、足音を忍ばせて声のするほうへ近よっていった。
 声は続き部屋から聞こえた。やはり衣裳箪笥? 続き部屋は収納用の小部屋で、箪笥や長持が置かれ、ホーロー桶も入浴しないときはそこにしまってある。
 どういうことかしら。
 声は衣装箪笥の中からではなく、続き部屋の壁の反対側で響いている。その壁には壁紙をはって目立たないようにしたドアがある。ドアは奉公人専用で、裏階段に通じている。アンヌ・マリーではないことはすぐにわかった。というのも聞き覚えのある声だったからだ。しゃがれているのに高い声、耳にざらざら触るこの声、ブラッドだ。
 持っていた蝋燭を吹き消す。音を立てないよう慎重にドアをあけた。
 真っ暗だった。一歩踏み出し、考え直してスリッパを脱いだ。そろそろと幾段かおりてみる。足音がしないかわりに、ざらついた板が裸足の足裏に痛い。階段は急で螺旋になっていた。下のほうに薄ぼんやりとした光が見えた。手燭の灯りだった。
「おい、返事くらいしてくれよ」 
 響いたのはブラッドの声だった。灯りが揺れた。瞬間、ブラッドの姿が照らし出された。誰かの腕をつかまえている。
「僕を拒む権利はないはずだ」
 つかまれた相手が逃げようとする。灯りを持っているのはその人物だ。思わず眼を疑ってしまう。あの大きな図体、下女ではないか!
 この瞬間までわたしはまだ信じていたのだ。ブラッドが好きなのはこのわたしだ、わたし以外の誰かに云いよったりするはずがない、下女ですって? 冗談でしょう。
 烈しく揺らめく蝋燭の光に、必死に拒む下女と、しつこくからむブラッドが見え隠れした。下女のいかつい体のせいでブラッドはよけいに幼い少年に見えた。なのにおこなわれているのは淫らな密会。吐き気がする。
 何かがぶつかる大きな音がした。とうとう下女がブラッドを突き飛ばしてしまったようだ。でも暗くてよくわからない。
 しばらくまごついていたようすの蝋燭が、そろそろと進み出した。床に伸ばされたブラッドの足が照らし出された。
「ああ平気だ。でも、できたらもっとやさしくしてくれないかな」
 ブラッドの軽口に蝋燭はさっとさがる。
「いいさ、急がないよ。ぼくはこのガルトムーア・ホールにも来れたんだ、そしてこれからずっとここにいるんだから」
 蝋燭が遠のいた。どんどん下へ降りていってしまう。逃げるように。
「おい! 手燭を置いてゆけよ」叫んでブラッドは舌打ちをした。
 すると蝋燭の光が止まった。光はそのままで、下女が階段を走りおりてゆく足音だけが遠ざかっていった。
 わたしに見えるのは、階下の闇に浮いている小さな光の点だけだ。おそらくブラッドも同様のはずだ。ブラッドが立ちあがる気配がした。光にむかっておりはじめた。足を踏みはずした。階段の一段か、たぶん二段。そういう音がした。くそっ、というブラッドの悪態も聞こえた。わたしは同情しなかった。それどころかいい気味だと笑ってやった。きっと神様が罰を下されたのだ。
 足をひきずっておりてゆくブラッドの靴音が止まった。闇の中にぽつんとあった手燭の光が浮きあがる。それからまた靴音とともに光がこちらにのぼってきた。
 わたしは慌てて身をかがめた。このまま息を潜めていようか、それとも自分の寝室にもどるべき? ところが蝋燭の火は方向を変えた。途中の通路をわたりべつの部屋へつながる階段をのぼり出したようだ。
 のぼってくるにつれ見えてきた。ブラッドは手燭とは反対の手に陶磁のポットを持っている。そしてある匂いがぷんとわたしの鼻にとどいた。カミルレの香りだ。とするとあのポットの中身はカミルレのホットワインか。まえにネラ夫人は何と云っていたっけ──伯爵様はヒュー・ヒュゲットのすすめで白ワインづけのカミルレやら、毎日せっせと奥様の寝室に運んでいますよ──それではブラッドは、これからお母様の寝室へゆくつもりなのだろうか。なんという厚顔無恥。今さっき下劣にも下女を誘惑し、肘鉄をくらったばかりだというのに!
 わたしは密かにブラッドのあとを追う自分を止められなかった。



 奉公人専用の出入り口にこんな使い道があったとは。わたしは裏階段に潜み、隠しドアをほんの少しだけあけて、覗き見していた。
 ここもつくりはわたしの寝室とおなじで、わたしの隠れているドアは箪笥や長持の置かれた続き部屋にあった。寝室との仕切りのカーテンは、ブラッドが続き部屋を通り抜けたとき半開きにしておいてくれたから、天蓋付き寝台のあるあちら側をこうして窺うことができる。見えるのはベッドの半分、足のほうだけだけど。
 お母様は横になっているようだった。眠っているのかもしれない。毎日、昼も夜も区別なく夢うつつなのだ。わたしの視野から消えていたブラッドの姿がまた現れた。ベッドのそばに立った。ポットはもう持っていなかった。佇んでいる。
 お母様がお休みになってらっしゃるのなら、殿方がいつまでも居座るべきではない。それなのにブラッドはいっこうに部屋から出ていく気配を見せなかった。ただベッドの頭側へ、わたしのほうからは陰になって見えないけれどお母様の顔のあるあたりへ、じっと眼を落としているのだった。
 ブラッドがベッドへ腰をおろした。そこに眠るひとを起こさぬよう、とても慎重な動きだった。眼差しは母へ注いだままだ。
 ブラッドの体が徐々に傾いていった。それにつれブラッドの上半身はわたしから見えなくなっていった。そしてとうとうブラッドの足が、思い切ったようにベッドの上に、さっとあがった。ブラッドが母のベッドに身を横たえたのだ。わたしは卒倒しないよう、しっかりとドアにつかまらなくてはならなかった。どれだけ眼を凝らしても隙間から覗けるのは、ベッドにのばされたブラッドの足だけだ。
 これ以上ここにいてはいけない、見てはいけないものを見てしまうことになる、覗き見などやめて直ちに自分の寝室に帰るのだ。
 しかしわたしの手はドアをあけた、音を立てぬようこっそりと。
 足も勝手に歩き出す。狭い続き部屋を、家具に身をよせながら進む。そして寝室との仕切りとなっているカーテンまで来ると、わたしはその陰に入った。
 ブラッドは先ほどの状態と変わりなかった。母のベッドの、母の隣に寝そべっている。といっても体は上掛けシーツの外で、横むきになってシーツごしに母に添い寝している。お母様のほうは首もとまですっぽりとシーツにくるまれて、規則正しく寝息をたてている。いつものごとく阿片チンキの誘う眠りに浸っているのだろう。
 わたしは自分でも知らないうちに両手で胸をおさえていた。こうしておさえていないと、自分がバラバラになってしまいそうだった。ブラッドの、なんともいえないあのやさしい眼差しはどうしたことだろう!
 眼差しがいっしんに注がれているのは、お母様の顔だ。ブラッドは切なげに眉をよせ、唇を結び、お母様をひたすら見つめている。信じられない。あれがわたしを罵るおなじブラッドなのか。下女相手に不埒な真似をするブラッドなのか。ときおりブラッドは指でお母様の髪を梳くのだ、丁寧に、そしてとてもいとおしげに。
指に髪がひっかかった。ブラッドは注意深く髪から指を抜いた。そして自分の荒れた手を見て、悲しそうな顔になった。
 とても見ていられない。間違いない、ブラッドは母のことが好きなのだ。そうだ、なんでもっと早く気づかなかったのだろう。ブラッドはわざわざ自分で野ニンニクをつみに行った。はじめての正餐のときも、お母様が倒れると大変な慌てようだった。わたしとの口づけも下女を誘惑したのも単なるお遊び。ブラッドが真に愛しているのは、わたしの母エリザベスだったのだ。
 馬鹿な娘! 声なき哄笑でおのれを嘲る。そして憎んだ、母を、ブラッドを、世界じゅうを。この傷つけられた誇りをどうしてくれよう。
 一刻も早く逃げ帰りたい。自分の寝室に飛びこんで、ベッドにもぐって、こころゆくまで泣きたい。ところが身を翻しかけたわたしを、あるものが引きとめた。それは背後で鳴ったノックの音だった。わたしが隠れているこの続き部屋の隠しドアではない、仕切りカーテンのむこう、わたしたち主人側が普段使う寝室の扉が叩かれたのだ。
 ベッドのブラッドが跳ね起きる。扉は返事を待たずに開いた。つかつかと入ってきたのはヒュー・ヒュゲットだった。
「具合はどうだい」
「気持ちよく寝てる」
「阿片チンキはやめられないみたいだな」
 ヒュゲットはベッドに歩みよるとシーツを無造作に持ちあげた。母の手をとって脈を診た。シーツをもどし、今度は眠っている母の目蓋をめくってみたりした。ヒュゲットの診察は不愉快極まりない。ブラッドもわたしとおなじ感想を持ったようだ。
「こころがこもってない、医者なら病人にやさしくしろ」
「病人ねえ。この御婦人は日々の憂さをワインとローダナムで紛らわしているだけさ、しいていえば貴婦人病か、まったく期待はずれだよ。おや、機嫌を損ねたかい」
 ブラッドは返事をしなかった。ヒュゲットはくすくす笑っていた。医者のくせになんて不真面目な。もしゃもしゃした髪の毛もだらしない。とても櫛を通しているようには思えない。ときどき眼鏡のガラスに光があたって奥にある眼が見えなくなるのも、胡乱な感じがする。
 ヒュゲットは小卓のほうへ行って、そこに置かれてあった陶磁のポットの蓋をとった。匂いをかいだ。「カミルレか。どうせ飲んでもくれないだろうに」
「いいんだ」
「またそんな強がりを云って」
 あっとなる。ヒュゲットがいきなりブラッドを抱きしめたのだ。
 ヒュゲットは背が高く、それに体つきも大人の男性だった。なにしろ倒れた母を軽々と抱きあげて運んでいったくらいだ。ブラッドのほうは背はわたしと変わらないし、どうかするとわたしよりも華奢かもしれない。だって初対面のときわたしが思いっきり平手打ちしたら、ソファへ倒れてしまったのだ。ヒュゲットに抱きすくめられたブラッドは、可哀相なほど頼りなげだった。
「涙は俺の胸でふいていいぞ」
「じゃ遠慮なく鼻水ふいてやる」
 ブラッドが身をよじってもヒュゲットの腕の中ではたいした抵抗にはならない。それどころかヒュゲットは面白がっているようだった。やおらブラッドに口づける。それは恋人どうしの長い口づけだった。口づけはブラッドがこらえきれなくなって、後ろの椅子に腰を落とすまでつづいた。自分の見ている光景が信じられない。
 さらにわたしが愕然となったのは、口づけのあとヒュゲットがブラッドの前で跪いたのだ。さながら姫君に愛を乞う騎士のように。ヒュゲットはブラッドの足をかかえこむようにして抱きしめ、恭しく片足ずつ撫で、愛おしそうに頬ずりをし、だんだんと手と顔を、靴先から上のほうへとのぼらせてゆくのだった。
「やだよ、こんなところで」ブラッドの声はうわずっていた。
「君の大切な御婦人は、ローダナムのおかげで朝までぐっすりさ」
「やだってば」
「そうか、じゃ、また次の機会に」
「意地悪」
 見ていられなかった。わたしは顔をおおって、カーテンの後ろにしゃがみこんでしまった。聞こえてくるのは衣ずれと、それよりかすかな、でも熱っぽい息遣いだった。
 あそこで今おこなわれていることは、わたしがあれほど知りたいと願っていた、だけどネラ夫人は断固として教えてくれなかった、だから想像してみたけれどただただもどかしいままだった、キスの次にくる段階だ。それをブラッドはあろうことかヒュゲットと──どうしてなの、どういうことなの、男どうしで? ああ厭だ、だってブラッドはわたしにキスしたのよ、でも下女も誘惑しようとした、そのうえ真に慕っているのはお母様。なのにヒュゲットとですって? もう頭がおかしくなりそう!
 ガタッ、と何かが動いた。わたしの足が立てかけてあったホーロー桶を蹴ってしまったのだ。仕切りカーテンのむこうの動きが止まる。
「誰かいるのか」
 ヒュゲットの靴音が近づいてくる。逃げなくては! 奉公人専用のドアは? 駄目だ、間にあわない。目にとまったのは長持だ。蓋を開けてもぐりこむ。母のドレスのふんわりしたスカートがつぶれてしまったけれど、かまっている余裕はなかった。
 長持は籐を編んでつくられたものだったので、網目を透かして外のようすが窺えた。続き部屋に入ってきたヒュゲットの足が歩きまわっている。長持のそばまで来た。網目のすぐ前だ。ひたすら息を殺す。
 そうしているうちわたしは気づいたのだ、わたしの肩にあたっている硬いものに。そっと手でさぐってみた。思わず声をあげそうになった。握りしめた拳を押しあててどうにか呑みこむ。震えて、涙が出てきた。わたしは肩の下にあるそれが何であるのか、よくわかっていた。これは長いこと恐れ慄き、憎んできたものだ。
 ブラッドの呼ぶ声がした。甘えた声だった。
「ねえ、ヒュー、僕の部屋へ行こうよ」
 網目に透けていたヒュゲットの足が去っていった。部屋が暗くなり、忍び笑いと扉のしまる音がした。そのあいだわたしはずっと、肩の下の硬い丸みに手を置き、撫でていた。
丸みはなめらかだったが、あるところでギザギザの切り口があった。指を入れたら丸みの中は空洞で、断面は薄いとわかった。切り口をなぞると、子どもの手のひらほどの円を一周した。硬く丸いものは割れていて穴があいているのだ。
 わたしは狭い長持の中、縮こまって、これにすがっていたといってもいい。これにたいする恐怖はどこかへ吹き飛んでいってしまい、むしろわたしはこれの存在に慰められていた。わたしのこころをさんざんに痛めつけた光景を、これもともに見ていたのかと思うと、抱きしめてやりたい。
 アンヌ・マリー、こんなところに隠れていたのね。
 母の長持の中で衣にくるまれ潜んでいたのは、魔女のどくろだった。

ユースタス5 それこそ僕がこの舘に来た目的の一つさ

 朝、寝室に入ってきたネラ夫人がわたしを見たとき、その灰色の眼がはっと開かれた。
「どうなさったのです、お嬢様」
「あら。わたしがどうかして?」
「今朝はことのほか美しくていらっしゃいます、とてもすがすがしいお顔で。さては何か進展がございましたか、ブラッド様とのあいだに」
 返事のかわりにわたしは頬笑んで見せた。進展は確かにあった、わたしとガルトン伯爵ブラッドとのあいだに。
「ユースタス様、仮病でしたのでしょう?」
「何ですって?」
「寝室に何日もこもって姿を見せなかったのは、ブラッド様の気をひく作戦だったのでしょう?」
 一瞬迷ったが、そうよと返事する。そして続き部屋へ、そっと視線をのばす。
 そこにはアンヌ・マリーのどくろが隠してあった。帽子箱の中だ。夕べ母の寝室で見つけたのをこっそり持ち出し、ちょっと覗いただけではわからないようにパメラ帽をかぶせ──ベルベットの薔薇がついたわたしのお気に入りだ──、さらに箱にリボンをかけて封蝋を押しておいた。
 あれはわたしとブラッドの結婚式の日まで大切にしまっておくつもりだ。結婚してもわたしはこの体には指一本触れさせない。キスもさせない。それ以上のことなどもってのほか。ブラッドは激怒するだろう、それでも妻かと罵るだろう。そうしたらわたしてやるのだ。どくろの入った帽子箱を。新妻からのささやかな贈りものよと。そしてガルノートン家の忌まわしき秘密、魔女の呪いについて、とくと聞かせてやるのだ。ブラッドはどんな顔をするだろう、気も狂わんばかりに怯えるだろうか。そしたらわたしは思いきり嘲笑ってやる。ほらほら、死にたくなかったらわたしの慈悲にすがりなさい。
 これがわたしのブラッドへの復讐だ。今から楽しみだこと。
「見ていてネラ夫人。わたしは必ずやガルトムーアの女主人になって見せる。魔女の呪いはわたしの代で終わりよ」
「ええ、もちろんですとも。そのためにわたくしはお嬢様を、こうして大切にお育てしてきたのですから」
 抱きしめられた。体をすっぽりとネラ夫人にくるまれる。なんだか幼いころにもどったよう。わたしをやさしくしめつける腕。わたしの顔を受けとめている胸。この腕と胸しかわたしは知らない。熱を出したとき一日じゅう看病してくれたのは、母ではなくこのネラ夫人だった。悪夢に泣いて目覚めた夜中、駆けつけてくれたのもネラ夫人だった。
「そうね、そうね、あなたはわたしのお母様よ」
「もったいないお言葉です」
「いいえ、わたしはわたしを産んだ母より、あなたを母だと思っていてよ」
 ほんとうに、ここ最近のわたしはネラ夫人の恩を忘れ、なんと恥知らずであったことだろう。そうだ、あの園丁のことだって、わたしは何をあれこれと疑心暗鬼になっていたのだろう。一族の納体所であるグロットーから園丁が飛びだしてきたのは、遺体に触れてしまったから。ネラ夫人がそう云うのだから、そのとおりなのだ。ネラ夫人がわたしに嘘をつかねばならぬ理由など、あるはずがない。
 なんとしてもブラッドと結婚しなくては。ガルトムーアの女主人にならなくては。わたしの大事なお母様、ネラ夫人のために。



 午後になると雲が切れて温かくなった。窓から見おろすムーアは光にあふれ、鳥たちは姿を見せずともどこかでさえずっている。どこもかしこも申しぶんのないのどかな昼下がり。ところがわたしは椅子を蹴って立った。
 額を窓へ押しつけて覗く。人影が二つ、丘を横切っていく。こそこそと落ち着かない足取りは、まどろむ昼下がりにまったく似つかわしくない。ブラッドとマミーリアだった。
ブラッドとマミーリア? なぜあの二人が? 
 すぐにそれは愚かな疑問だと自分を笑った。破廉恥なブラッドが今度はお姉様に云いより、結婚を望んでいるお姉様もここぞとばかり誘いに乗ったのだ。
 部屋を飛び出した。階段を駆けおり外へ出たときには、ブラッドとマミーリアは舘の反対側へ姿を消そうとしていた。急いであとを追う。
 が、ふと気になって振りあおいだ。誰もいない。ガルトムーア・ホールの石壁に陽があたっているだけだ。
 きっと魔女だわ、どこからかアンヌ・マリーがまたこちらを見ているのだわ。
 ブラッドとマミーリアは近づいたり離れたりしながら進んでゆく。先を行くのはマミーリアだった。そのあとをブラッドがついていった。ときおりマミーリアが立ち止まって待つとブラッドが走って追いつく。腹立たしいことにそうやって二人で戯れているのだった。
 やがて岩場が見えてきた。うんと大昔に巨人たちが食事したテーブルといったふうの、平たい岩の集まりだ。その陰へマミーリアはするりと入った。ブラッドもあとにつづいた。
音を立てないよう近よっていく。岩はわたしの背丈よりも高い。手をつくと陽射しの温かさに反してひやりとする。声が聞こえてきた。
「よせっ、やめろ」
「姉妹の中で一番美しいのはだあれ」
「僕はこんなことしに来たんじゃない」
「お墓なんかよりわたしを見てちょうだい」
「おまえが案内するっていうから」
「わたしを選んで、お願い、何でもしてあげるから」
「やめろ、やめろ、やめろってば!」
 ほとんど地面といっていい低いところから、二つの硬直した顔がわたしを見あげていた。しかもその一つ、ブラッドの顔は逆さまだった。つまり、ブラッドが地面にひっくりかえっていて、そこにマミーリアがのしかかって、ブラッドを組みふせる格好だったのだ。
 マミーリアはボンネットがとれかかり、髪もほどけていた。ブラッドの口のまわりには口紅が、押しつけられた唇の跡が幾つもついていた。首にも、ボタンがはずされそこから覗く平たい胸にも、べたべたとついていた。マミーリアはマミーリアで、ショールも上着も脱ぎ捨てている。
 気が遠くなりかける。あろうことか誘惑しているのはお姉様のほうだった。いくら結婚したいからといってなんと恥知らずな。
 さらに混乱したのは、ブラッドは本気で嫌がっていたのだ。というのもわたしを見て、明らかに助かったという表情を浮かべたのだ。これが昨晩、誰彼かまわず手を出していたのとおなじ人間だろうか。
 先に声を発したのはブラッドだった。「早くどけ!」それでもマミーリアは動けずブラッドの上に乗ったまま、大きく開いた眼をせわしなく動かしていた。おそらく頭まで隠れられる穴を探していたのだろう。
「どけよ!」
 ふたたび怒鳴った。マミーリアが飛びあがって立った。起きあがってブラッドはさらに罵った。
「このブタが。よくもふしだらな真似をしてくれたな、おまえに比べたら売春宿の梅毒持ち女のほうがよっぽど淑女だろうよ」
 みるみるマミーリアの眼に涙がもりあがってきた。それでも懸命にこらえている。確かにマミーリアには軽薄なところがある。聡明とも慎み深いとも云いがたい。でも、お姉様はまぎれもなくガルノートン家の一員で、貴族としての誇りをちゃんと持ちあわせていた。これ以上恥を重ねぬよう、取り乱す姿をけっして見せなかった。上着を拾いあげて身につけ、帽子を直しショールを巻くと、
「わたし、これで失礼しますわ」
 膝を曲げてお辞儀をしてから去っていった。そしてその後ろ姿が私たちに見えているうちは、みっともなく走り出したりはしなかった。
「ほんとうに酷いひとね」
「襲われたのはこっちだぜ」しきりに顔の口紅をぬぐっている。
「あなたがそうさせたのではなくて? あなたがまた期待をもたせるようなことをしたんでしょう」そうでなくてマミーリアがあんな真似をするはずがない。
「僕はただ、墓に案内してやると云われてついてきただけだ。そしたらあの雌ブタがいきなり──」
「口を慎みなさい! レディにむかって失礼な」
「これはこれは失礼しました、岩陰で男を押し倒すのがレディのたしなみとはつい存じませんで」
「あなたにひとを責める資格があるのかしら」
「どういう意味だ」
 返事はできなかった。こたえたりしたら、裏階段で下女にはたらいた狼藉、母の寝室でのこと、ヒュー・ヒュゲットとのいかがわしい関係、すべて覗き見していたと白状しなくてはならなくなる。でも、それにしても妙だ。どうしてマミーリアを拒んだのだろう。これほど節操のないひとなら機会を逃したりはしないだろうに。
「あなたというひとがわからないわ、」言葉が勝手に出てくる。「あなた、何をしているの、何を考えているの、あなたはいったい誰を愛しているの」
 ゆっくりとわたしのほうへ近づいてきた。
「僕が誰を愛してるかって?」
「やめて」耳を押さえてあとずさる。「聞きたくないわ、そんなことどうでもいいわ」
 わたしはこのとき唐突に悟ったのだった。昨夜わたしが覗き見ていたブラッドの行状のうち、もっとも打ちのめされたのは、どんな汚らわしい行為でもなかった。わたしの母エリザベスに添い寝していたときの、なんとも切なげな姿こそ、わたしの胸を抉ったのだった。もしブラッドが、ヒュゲットや下女やそしてわたしに対してもそうであったように、お母様との関係も単なる遊びだったのなら、わたしもこれほど深く傷つけられたりはしなかっただろう。または、相手がお母様ではなくユリア姉様だったら、いいえ、マミーリア姉様だったとしても、これほどやりきれない思いはしなかったに違いない。なんでお母様なのだ、なんでお母様なのだ、なんで! わたしはお母様をとくに好いても憎んでもいなかった。お母様など、わたしにとって取るに足らない存在だった。いないも同然だった。あのひとはいわば舘の奥で鎮座している、ときどき埃をはたいてやるときにしか思い出さない装飾品。なのに、どうして今になって、こんな形でわたしの前に立ちはだかるのだ!
「あなたはどうしてガルトムーア・ホールに来たの」
 ブラッドが現れたせいで、わたしのまわりがどんどん変わってゆく。ユリアは恋に落ち、マミーリアは娼婦の真似事までやった。ネラ夫人が疎ましい存在になり、さらにはまったく眼中になかった母までが突如わたしを脅かす。
「なぜ僕がガルトムーア・ホールに来たかって?」
 浮かべた笑みは挑むかのようだ。
「本来いるべき場所にもどっただけさ」
 失望した、予想どおりの返答に。
「財産めあてね、それがあなたという人間よ」
「おまえこそ僕を責められるのか? 結婚相手に選んでもらいたくって、這いつくばって御機嫌取りしてたのは誰だったっけ」
「あなたと一緒にしないで頂戴、わたしにははたさなければならない使命があるのよ」
「へええ」
「いつかあなたにもわかる日が来るわ。わたしはガルノートン家を守らなければならないの、そのためにわたしはあなたと結婚するのよ」
「ガルノートン家を救うだって? こりゃまた大きく出たな」
「そうやって好きなだけ馬鹿にしておればいいわ。いずれ必ずあなたはわたしに泣いてすがることになる」
「それは呪いのことか?」
 鳥の声が消えた。風もやんだ。わたしは息を吸いこんだまま吐くのを忘れ、ただ汗だけが一筋、背中を流れ落ちた。
 ブラッドがもう一度、ひと言ひと言、区切って云った。
「おまえは、魔女アンヌ・マリーの、呪いのことを、云っているのか」
「あなた、知っていたの──」
 だがブラッドの表情からは何も読みとれない。
「誰から聞いたの、マミーリア? それとも下女? これだから賤しい奉公人は。ああ違うわ、あれは唖者だもの」
 ブラッドの眼つきが哀れみに変わる。怒鳴りつけられるより酷い侮辱だ。わたしは云い放つ自分を止められなかった。
「もう遅い、手遅れよ。あなたももうガルノートン家の一員ですもの、魔女の呪いからは逃れられないわ。あなた、さぞかし後悔したでしょうね。天から幸運がふってきて伯爵様になれたと思ったら、なんと魔女のご膳にのせられてしまったんですもの」
「馬鹿な娘だ。呪いだなんて、ほんとうに信じているのか」
 今何と云ったのか。一度目蓋をとじ、また開いてからまじまじとブラッドを探る。
「おまえは騙されてるんだよ。魔女の呪いなんて存在しないんだ」
 あんまり馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。「信じたくないのね、そうでしょうとも、それがあなたにできるたった一つの抵抗ですもの」
「墓に案内しろ」
「何ですって、墓?」
「一族の墓だ、遺体は納体所にあるんだろう、中に入って調べるんだ」
 納体所とはグロットー(人工洞窟)だ。そういえばブラッドはさっき、マミーリアに墓に案内してもらうつもりだったと云っていた。それに野ニンニクをつみに行ったときも、納体所についてしつこく訊いてきた。
「グロットーを調べるですって?」
「墓はグロットーか」
「納体所の中に入るって云ったの?」
「案内しろ」
「駄目よ! グロットーは駄目、禁じられているわ」
「誰がそう云った」
「誰って、みんなよ、ネラ夫人も云ってるわ、決まりなの、魔女に呪われてしまうわ」
「呪い? 呪いなんてないんだよ、魔女なんて作り話さ。グロットーへ行って調べなきゃ」
「何を調べるというの、そんなことネラ夫人が絶対に許さないわ、作り話? あなた今、作り話と云った?」
「ネラ夫人!」突然のブラッドの剣幕だった。「ネラ夫人、ネラ夫人、ネラ夫人! どうしておまえはネラ夫人のいいなりなんだ!」
 飛びかかってきて、わたしの肩を押さえつけ、そしてがくがくとゆする。
「おまえったら自分の頭で考えたことはないのか、黙って殺されるのを待ってるつもりか」
「痛いわ、離して」
「呪いだって? いいだろう、おまえは呪いが怖い、じゃあどうしてここにいるんだ、何で逃げ出そうと思わない、こんな陰気な舘、さっさと飛び出せばいいじゃないか」
「逃げるだなんて、」ブラッドの腕を振りほどいた。
「卑怯者のすることよ! わたしはユースタス・ガルノートンよ、ガルノートン家の娘よ、ガルトムーアはわたしたちガルノートン家のものよ、それを放り出せだなんて、あなたそれでも第十七代ガルトン伯爵? 第一、逃げても無駄よ、兄のジョンはオックスフォードまで行ったけれど、結局呪われて死んだわ。魔女の呪いはガルノートン家の宿命なのよ。だけどわたしは死ぬのを黙って待ってなどいない、アンヌ・マリーの呪いもわたしの代かぎり、きっとわたしが終わらせてみせる」
 しかしブラッドは呆れ果てている。それどころかせせら笑っている。
「なんとも勇ましいことだな、で、どうやって?」
「まったく腹立たしいことだけれど、あなたと結婚するのよ」
「は? 結婚?」
「そうよ、呪いを終わらせるために、どうしてもわたしたちは結婚しなくてはならないのよ。わたしはあなたと結婚して、この、」と両腕をひろげて示す。「ガルトムーアの女主人になるの、なぜならわたしは──」
 云い淀んだ。これ以上秘密を明かしていいものかどうか。ブラッドはにやにやしている。
「わたしは? 何だってんだ? ガルトムーアの女主人になる? どうしてそれで呪いが終わるんだい?」
「伝説よ。ちゃんと伝説があるの、ネラ夫人が云ってたもの」
「またネラ夫人か」
 舌打ちだ。
「一つ教えてくれ。魔女アンヌ・マリーの話は誰から聞いたんだ?」
「誰って──。古くから一族に伝わる伝説だもの、幼いころから知ってたわ」
 また舌打ち。
「だからその伝説とやらをガキだったおまえに、誰が吹きこんだかって訊いてるんだ」
 このひとはどうしてこうも下品なの。
 けれども考えてみた。しかし思い出せない。当然でしょう。自分の名前をいつ、誰から教わったかなんて、憶えているほうが不自然なのだ。胸をはって云ってやる。
「魔女の伝説は歴とした事実よ、わたしがユースタスであるというのとおなじくらいね」
 けたたましく死を予言する不吉な鳥の鳴き声が、わたしの耳を打った。ブラッドの哄笑なのだった。なんて厭な笑いかたをするのだろう。まるで魔女が笑っているようだわ。このひとこそ魔女と呼ぶべきではないこと? わたしを滅ぼしに来た魔女。
「おまえがユースタスであるとおなじくらいか、こりゃ傑作だ」
「またわたしを侮辱するのね、それがあなたの目的なのね、わたしを馬鹿にして楽しんでいるのね」
「ネラなんだろ? 訊かなくたってわかってたさ、おまえに出鱈目を吹きこんだのはネラだ、よく思い出してみろ、そうだろ?」
 わざわざ思い出すまでもない。魔女の伝説はネラ夫人からも聞いた。それのどこがおかしいというのか。祖父母はとうに亡くなり、父も呪いに倒れ、母はあのとおり病人同様、家のきりもりとまだ幼かったわたしたち兄弟姉妹の世話を、一手に引き受けたのはネラ夫人だった。ネラ夫人はどんなに忙しくても子ども部屋にやってきて、わたしたちを寝かしつけてくれた。子守唄や物語を聞かせながら。
「あなた、まさかネラ夫人を疑っているの?」
「ネラが伝説をでっちあげたんだ」
「馬鹿馬鹿しい。アンヌ・マリーはいたのよ、いいえ、いるの、今でも舘のどこからか、わたしたちガルノートン一族を呪いで苦しめているの」
「苦しめているのはネラだ、呪いはネラの仕業なんだ」
「何を云うの、呪いは二百年も前から代々つづいているのよ、呪いで死んでいった祖先たちが、すなわち魔女の存在の証よ」
「死人に口なしって知らないのか」
「証拠はまだあるわ、これこそはっきりした証拠よ、わたしこそ伝説の──」だけど先をつづけられない。
 魔女も呪いも嘘であるはずがない。だってわたしがいるもの、伝説が伝えたとおりわたしが生まれてきたんだもの。でもどうやって証明すればいい? わたしが特別な娘であることは一目瞭然だけど、わたしにネラ夫人を真似てスカートをまくれというのか。
 このとき、素晴らしい閃きがわたしに起こった。
「あったわ! あれよ、あれこそアンヌ・マリーが確かにいたという証拠よ!」 
 怪訝そうなブラッドにわたしは頬笑みを送ってやった。
「ついてらっしゃいな。魔女に会わせてさしあげますわ」



 わたしがブラッドを招き入れたのは自分の寝室だった。
 ブラッドを待たせて、続き部屋から帽子箱をとってくる。うやうやしく丸テーブルに置く。ブラッドの疑わしそうな眼差し。笑みをもってわたしはそれにこたえる。
箱のリボンをほどく。封蝋が割れて落ちる。蓋をあける。現れたのはベルベットの薔薇。
「帽子じゃないか」
 ブラッドったら、気が早いわ。
 静々と、もったいをつけて帽子をとりのけた。
 箱の中には石のような艶のない、黄ばんだ丸いものが覗いている。それには穴があいている。穴のふちはギザギザで、罅も入っていて、割られたためにできた穴だとわかる。
 箱からとり出して、ブラッドの前へ突きつけてやった。
「これが伝説で語られている魔女、アンヌ・マリーよ」
 ところがブラッドは驚きもしない。虚勢をはっているのだわ、意地っ張りなひと。どくろの頭を指さして説明してやった。
「この穴をご覧なさい、伝説ではアンヌ・マリーは斬首される前に頭を割られたの。最初は愛する領主の幼い息子にがらがら(ラットル)を投げつけられて、次に従者の棍棒で。そうして処刑されたあと、切り落とされた首だけが城にもどってきたのよ。呪いがはじまったのはそれからよ。どう? このどくろはまぎれもなくアンヌ・マリーよ、これでもあなたは魔女の呪いは嘘だと云うの」
 ふんと鼻を鳴らしてブラッドは笑った。
「これがアンヌ・マリーねえ……」
「みっともなくってよ、ちゃんと証拠があるのだから潔く認めなさい」
「では僕も見せてやろう。ついてこい」
 ブラッドはわたしをつれてふたたび舘の外へ出た。もしやまたグロットーへと云い出すかと心配したら、舘の壁にそって歩いて裏へまわった。
「奉公人の出入り口じゃないの、こんなところに何があるというの」
「せっかちだな、黙ってついてこい」
 その狭い裏口の扉を開くとすぐ階段だった。さっさとブラッドが入っていく。だけど階段は地下へおりてゆくのだ。地下は身分ある者が行くべきところではない。
「どうした」
「わたしに奉公人の領域に行けというの」
ブラッドはため息をついた。
「中には入らない、ここだ」
 それでもわたしは出入り口から動かずに見おろしていた。
ブラッドが立っているのは階段をおりきったところだった。そこから先は細く暗い通路なのだが、足もとの瓦礫がさらに狭くしている。瓦礫は左右の壁にかためて積みあげられていて、かろうじて通り抜けられるといった状態だ。
「ブラッド、何をしているの」
 瓦礫に足をかけ、壁の石と石とのあいだに爪を立て、のぼっている。
「何をする気? 危ないわ」
 両腕をかかげて天井をさわっている。
 階段を少しだけおりて、でもようすがわからなくて、またおりて、とやっているうち、ほとんど下まで来てしまっていた。
 ブラッドは天井をはずしていた。天井はその部分だけ板がわたしてあった。崩れ落ちたのを修繕したのだろう。壁によせてある瓦礫はその残骸なのだろう。
 ブラッドははずした板の隙間から天井裏へ頭を入れた。
「ほら、あった。受けとれ」
 投げ落とされたものを反射的に受けとめて、けれども悲鳴とともにわたしは放り出した。
 どくろだ。
 しかし、床に転がって横むきになって止まったそれに、今度は声を失った。
 頭のてっぺんが割れて穴があいている。
 わたしが帽子箱にしまっておいたアンヌ・マリーのどくろとおなじだ。まったくおなじだ。
「まだあるぞ」
 どくろがまた落ちてくる。一つだけではない、二つ、三つ、四つ──
 わたしの足もとにどくろが幾つも転がった。全部、頭に穴があいていた。
 ブラッドが天井裏から顔を出した。
「見てみろ、まだうじゃうじゃあるよ、ほら、おいで」
 吸い寄せられるように、わたしはさし出されたブラッドの手を握った。
 ブラッドにひっぱりあげられ瓦礫の山をのぼる。息をとめてそろそろと、黴臭い天井裏へ頭を入れた。あっとなった。いったい幾つあるの。十? 二十? 三十? 
 わたしが頭を入れているところから光が射しこみ、また壁の継ぎ目だろうか、そこからも細い光が幾筋か射しこんでいて、交差する光の帯を埃が舞っていた。光はか弱いながらも、無数の丸みを照らし出していた。すべてどくろなのだ。穿たれた穴もやはり無数にある。穴に闇が凝っている──
ずり落ちるように床へおりた。ブラッドは軽やかに飛びおりた。わたしは感謝するべきだろうか、ブラッドが皮肉を云わなかったことに。たとえば、へえアンヌ・マリーって大勢いたんだ知らなかったなあ、というような。
 階段を駆けのぼった。一刻も早くこの場を去りたかった。外に出て振り返ると、ブラッドは床のどくろをすべて天井裏にもどし、板をきちんとはめているところだった。なぜそんなことをしているのだろう。
 なぜ、どくろがあんなにたくさんあるのだろう。
 なぜ、ブラッドがそれを知っているの?
 ブラッドが手の埃をはたきながらやってきた。
「これでわかったろ? 魔女の伝説も魔女の呪いも嘘だって」
 ブラッドの云うとおりなのだろうか。アンヌ・マリーなどという魔女は最初からいなくて、呪いも嘘だというのか。
「あのどくろは誰なの」
「それをグロットーへ行って調べるのさ」
「グロットー──、グロットーに何があるというの」
 けれども、そう問い返しながらも、わたしの脳裏にふたたびよみがえってきた。兄の葬儀のとき、グロットーから飛び出してきた園丁は何を訴えていたのか。何か恐ろしいものを見たのではなかったか。
「グロットーに何かが隠されてるはずなんだ、呪いの正体がわかるような何かが。ヒューをつれてきたのも呪いを調べるためさ」
「呪いの正体ですって? ヒュー・ヒュゲットをつれてきた?」
 まじまじと見る。そこにいるのは背丈はわたしとそうかわらない、額に巻き毛を垂らし、頬にはそばかすが目立つ、ジレとタイとウェスコートという高貴な身分の服装が窮屈でたまらないといった少年だ。
「それこそ僕がこの舘に来た目的の一つさ」
「目的──」
「暴きに来たんだよ、魔女の呪いなど、スーザン・ネラのつくり話だってね。僕はネラの陰謀から僕の城をとりもどしに来たんだ」
 ブラッドの瞳が燃えている。そのうえ浮かべているのは不敵な笑みだ。これからおのれがガルトムーア・ホールに巻き起こすであろう事態を、面白がってさえいるのだ。
 眩暈がする。そばの壁に手をつき、倒れないようにと精一杯足を踏みしめる。
 そのときだった。確かに感じた。視線だ。アンヌ・マリー! 魔女がわたしたちを見ている! 
 やはり魔女はいるのだ。アンヌ・マリーは舘のどこかにいる。
 首をめぐらして探す。ガルトムーア・ホールの壁。窓。かろうじて屋根だけ見える八角塔。遠くの途切れ途切れになった城壁の名残り。また手前にもどって荒れはてた薬草園。プラムの木と奉公人用の外便所。
 さっと影がひっこんだ。「誰っ」すぐさま追う。外便所の裏側に隠れたはずだ。
 ところが下女だった。白痴の小さいほうの下女だ。はらわたが煮えくりかえる。よりにもよってこの娘がなんだってここにいるのだ。下女はすっかり怯えたようすで、小屋の板塀にくっついてしゃがみこんでいる。
「お立ち! 立ちなさい、こんなところで覗き見してたのね!」
 いいえ、いいえ、と下女は首を振る。
「嘘をおつき! 隠れたくせに、立ちなさいったら──」
 戦慄がわたしの怒りを突き抜けた。
 今のは何? 
 誰? 誰が叫んだの? これこそ魔女の叫びではないのか。
 しかし、あたりは静まりかえっている。幻聴だったのだろうか。
 いいえ違う、その証拠にブラッドも青ざめ、下女も耳を押さえてうずくまっている。
 陽射しは傾きはじめていた。その黄金色が祝福のようにガルトムーアの隅々まで降り注いでいた。正餐がはじまる時刻だ、そろそろ着替えをしに寝室にもどらねばと、場違いな心配がわたしの頭をかすめたとき──
 悲鳴がふたたびムーアを切り裂いた。
 下女が飛びあがった。恐怖のあまりこの言葉しか出てこないのか「アレ、アレ」と悲鳴の方角へ指さし、それから今度は自分の胸を叩いて、あたしはこれを知らせに来たんですと訴えた。
 下女のさすほうを見る。ブラッドも首をねじる。悲鳴とともにわたしたちの前に転がるように現れたのは、マミーリアだった。
 マミーリアは叫ぶ。よろよろと進みながら、何度も、何度も叫ぶ。血を吐くように。
 倒れた。地に伏して、それでも叫んだ。きっと絶望への最後の抵抗なのだ。マミーリアの手が大地に爪を立てていた。
 ブラッドが駆けよろうとする。
「駄目よっ、行っては駄目」
 振りむいた眼差しがなぜだと責める。でもわたしは烈しくかぶりを振る。
「絶対に彼女にさわらないで」
 マミーリアは震えていた。その震えかたは尋常ではなかった。手足や胴がまるでべつべつの意思に操られているように、全身の振動が統一していない。ことに首は気まぐれな風に弄ばれる金鳳花みたいに、右に傾いたかと思えば、ぱっと上、そしてゆるゆると項垂れ、またぱっと仰向くのだった。
 それでもマミーリアは渾身の力でもって顔を正面にむけた。首の出鱈目な揺れにさからって、必死にわたしたちのほうをむいた。わたしは思わず悲鳴をもらしてしまった。ブラッドもうっとなった。
 マミーリアの眼。
 青い美しい瞳。
 ああ、でも、どこを見ているの。
 焦点を定めようとしても、マミーリアの瞳は油の上にでも浮いているかのように流れてしまう。しかも右眼と左眼、てんで勝手な方向へ。
「魔女の呪いよ」
 自分の発した声を、わたしは他人のもののように聞いていた。
「アンヌ・マリーがマミーリア姉様にとりついたのだわ」


第1部 了

                                                                          

ガルトムーアの魔女 第1部 

ガルトムーアの魔女 第1部 

わたしの名前はユースタス。わたしは特別な娘。一族を救うために生まれてきた。 十九世紀初頭のイングランド、ヒース生い茂る荒野ガルトムーア。領主である伯爵家は魔女の呪いに怯えていた。二百年前に斬首刑にされた魔女アンヌ・マリーによって一族は代々呪い殺されてきたのだ。最後の男子だったユースタスの兄も死んでしまった。その死に様はあたかも魔女に体をのっとられ弄ばれ、魂を吸いとられたかのようだった。 一家を救えるのはユースタスだけ。ユースタスがここガルトムーアの女主人になれば、呪いを終わらせることができると伝説が告げているのだ。だがそのためには新たに相続人となった遠縁の男の妻にならなければならない。まだ14歳なのに。しかもその男は……

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  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-07-22

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  1. プロローグ 伝説は真実だと証明してみせましょう
  2. ユースタス1 だったらお姉様はひっこんでらっしゃればいいのだわ
  3. ユースタス2 わたしは確かにこの眼で目撃した、魔女アンヌ・マリーのどくろを
  4. ユースタス3 ともかく、まずはジョン様のご葬儀ですよ
  5. ユースタス4 ねえ、ヒュー、僕の部屋へ行こうよ
  6. ユースタス5 それこそ僕がこの舘に来た目的の一つさ