陳暦(ちんごよみ) 第6章 占領後 (アメちゃんとレーション)
戦後の事、日本人が一番「貧乏」としらされ住む家も金もない時代
誰も助けてはくれなく、「戦争孤児」がどんどん増え誰を恨むわけ
でもなく「食う」ことに全精力を傾けた。
着衣は真っ黒、顔も真っ黒痩せ細った人人人の時代だった。
アメちゃんとレーション。(駐留兵はMPだった)
20年11月、大曽根の三菱重工の元宿舎が進駐軍に接収されて軍人の宿舎となり、そこへガラスをはめに
親父と私、弟三人で毎日通った、朝まだ大半のアメリカ兵は折り畳み間易ベットに寝ている8時半いつもの
ように宿舎内の窓ガラスが割れていないか見回るのが日課だった。
「カム、オン、プッテイング、グラスボーイ」とあちこちから声がかかる、起床したアメちゃんから呼び出
しで大忙しだった。
窓ガラスが割れているから交換を頼むで、中にはカービン銃で、わざとガラスを割る兵隊さんも現れて、呼
ばれるたびに飛んで行く、と「オーカマンボーイ」と呼んで「レーション]とゆう携帯食事ボックスとゆう
中には、「タバコ6本」「肉の缶づめ」「ビスケット」「粉末ジュース」などがはいっていた、タバコはラ
ッキーストライク、キャメル、チェスターと決まっていた。
ロウソクのようなもので防水した箱で、朝、昼、夜の3食があって戦時に対応していちいち「飯盒」で焚い
た日本兵との差では「戦争に負けるのも当たり前」だと思った。
部屋ごとにドラム缶が置いてあってそこには食べるのに飽きてしまったレーションが山と捨てられていた、
或る日は「拳銃」と弾丸とが捨ててあったこともあった、後から聞いた話だが「拳銃」は個人用のもので
日本兵の「規則、規則」で縛られ自由の国との差がありすぎて自由の国の良さが解かるようなきがする。
いちいち何事も縛られた国と何事も自由な国「こんな国と喧嘩しても勝てるわけがない」とも思った。
さすが危険物は拾はなかったが、レーションは腹ペコの私たちにはめったに食べられないよい贈り物もで
あった。
MPとゆう腕章をつけた兵隊が多く駐留していたからここは憲兵隊かと思うと何だか気色がわるかったが
一人一人の兵隊さんはいつもニコニコしたいい人に見えたので毎日が「ギブミー」の日だった。
或る日見回り中「カマン、ユー」とゆうので行ってみると「アイ、ウオント、キクのシイ」と云われて
「アイシー」と返事したもののキクの海とはいったいなんだろうで困った、英訳辞典をどう調べても「しい」
にはこまった揚句別の米兵に尋ね尋ねして一週間過ぎてようやく欲しがる物が判った。
「菊の種」のことだった、早速菊の種を手に入れてその兵隊さんにあげた、非常に喜んでくれた。
上前津方面に行くので、毎日栄町の闇市へ寄って帰るのが日課だった。
そこでクジラの味噌煮込みと握り飯を腹一杯食って雁道へ帰って来た、ただここでは寝るだけだから「春の屋」
とゆう、前旅館だった父の友人の家へ帰る。
ギブミーチョコレートの時代で3か月この宿舎へ通った。
その後は名古屋GHQ(前、某保険会社)だったビルのガラスをはめに行った、ここはやたら「アメリカ女性」
の出入りが多く、服装も一般人で何を仕事にしているのか見当もつかなかった、がある種の婦人だと後から聞いた。
今思い出しても何をしていた婦人か判らない。
陳暦(ちんごよみ) 第6章 占領後 (アメちゃんとレーション)
まだまだ続きます。
是非お読みください。