延々と団地
団地は広く、遍く、延々と。
太古、迷宮と言わしめた九龍城でさえ、決して足元にも及ばせないこの団地群は、九龍城のような雑然とした建築美の一塊すら窺わせず、ひたすら建造アルゴリズムに従った直方体の景色を拡大している。迷宮――これは誤った表現であった。この団地群は決して迷宮などではなく、ただの広域な団地に過ぎないのだ。
少年の頃、蹴飛ばしたボールが階段に落ち、何と無しにそれを追い掛けて下ると、そこはやはり団地の一区画に変わり無かった。ボールを拾っては蹴り、拾っては蹴りを繰り返している内に、私は方向感覚を失い、きっと知らないであろう場所に辿り着いた。どうにかして来た道を戻ろうと、曖昧な記憶を紡ぎ寄せて灰色の廊下を進んでみたが、やはり変わり映えしない景色ばかり。同じ所を堂々巡りしているような気がしてくる。大抵の廊下の両脇は、最低限の強度を備えた鉄扉が等間隔に並んでいる。しかし、ボールを抱えた数時間の彷徨の末、欄干が片方に伸びる場所に辿り着いた。欄干の向こうには空っぽの空間を隔てて対面の廊下が見え、女性が一人、扉脇の観葉植物に水を遣っている。また、その上の階の廊下も見える。一人の男性が歩いている。更に上も辛うじて見える。しかし、それ以上は壁の表面ばかりで、壁に凹む廊下の様子は一切窺えない。上空は延々と壁であった。また、見下ろした先も延々と壁。つまり、団地は上下に無数の階層を成していた。その消失点は、真っ暗ではあるが存在するようである。
いくら彷徨えど、元の場所に還ることは叶わず、しかし、本来ならば「還る」などというのは、てんでおかしい話だった。私の親は複数いた。複数というのも、きっと無限に等しい。久遠の昔に形成された私の属するコミュニティーは、数時間ばかりか、数百年の時を以てしてもなお、脱出するのは困難を極めるものだった。悠久の時の運命より、偶然にも顕現したここ一帯のゲノムの収斂は、一見エントロピーの法則を打ち壊しているように見えるけれども、あくまでこれは偶然であった。何億年と経てしまえば、未だ偶然にも拡大を続けるこの相似遺伝子コミュニティーも消滅しているに違いないのだ。といっても、当時の私はまだ子供で、何億年も時を経るとか、そういった類いのことは考えもしなかったし、ましてや考える必要など皆無の中の皆無だった。よって私は脳裏に焼き付けていた絵画の表札ばかりを探しあぐね、帰属の容易い一帯であるが故、難なく発見に漕ぎ着けることができた。子の帰りを待つ母親が玄関扉を締め切ってしまうことなどあるはずもなく、私は扉を開け、ほんの半日前とさして内装の変わらない家に帰宅したのである。
その家には私とまるでそっくりな子供がおもちゃで遊んでおり、私は双子ではなかったが、そういったことはよくあることなので、全く意に介さず彼と遊戯に徹した。それからおよそ半時間のち、また一人、今度は私と似つかなかったが、少年が扉を開け、私達の輪に加わった。母親はキッチンで夕食の手筈を整えていたが、もう一人増えてしまったので慌てふためき、しかし殆ど完成に近い料理をもう一人分追加するのは苦しいことだったので、新たな副菜を加えることにより事なきことを得た。真四角のテーブルをちょうど四人で囲み、私達は夕食を済ませた。父親は帰ってこなかった。きっと今日はそういう日なのだろう。これもまた、私にとってよくあることだった。
それから私達は寝入る前にセカイヘ祈りを捧げる。
セカイはいわば複製機である。一介の凡人が偶然産み出したに過ぎないこの産物は、偶々生まれた場所が団地であったために、止めどなく団地を複製し続けている。いつかセカイは惑星を覆い、古来から保たれた遺跡も、古来から受け継がれた文化も悉く置換せしめ、惑星はただ団地の星と成り果てたのである。団地は到底破壊できず、壁を壊そうにもすぐに修繕が施される。といっても、その修繕は見るに杜撰なものでああった。例えば、元は平だった壁を壊してみると、まるで腫れ物が浮かび上がるように、ひとつのコンクリートの立方体が傷口を埋めるように現出し、突兀とその余剰分を廊下に突き出させるのである。当時百億にも満たなかった人間は、団地の破壊を試みた折に、そのような現象に何度も出会して、やがて感付いた。これでは、私達の住める場所が失われるだけだ、と。その後人類は、団地を破壊しめる別のアプローチを試みたが全て失敗に終わった。
団地が惑星を覆ってから、行き場を無くしたセカイは、団地を上へ上へと伸ばし始めた。その加速度的伸長は、既に人類が追い付くには不可能な速度であったし、また、団地を建立する際の質量をセカイはどこから得ているのかというのも一切が謎に包まれていた。そして、更に奇異なことが一つ。団地は下にも伸びていた。人類は閉塞感に満ちた階段を下ったが、下れど下れど団地の景色は変わるところを知らず、殊更に、惑星の中心に至る気配も全くしなかった。人類は痛感する。我々が住まう世界は、何の比喩でもなく団地に成り代わってしまった。
幸運にも、食料について彼らが心配することは何もなかった。仮に自室の食料が尽きてしまったとしても、セカイが新たに増築した部屋へ赴けば、そこの冷蔵庫に備蓄されていた食料を恣にできるのである。また殊によれば、団地は更新されているようである。構築されてからおよそ一週間のスパンで、団地は元の状態にリセットする。つまり、煩雑に修繕された壁も、この際には完全な平に改められ、冷蔵庫の食料も当然ながら、増えたもの減ったものに関わらず、人間を除いた全てを一週間前の状態に巻き戻す。
食料の問題は解決されたが、倫理の面では彼等はまるでなっていなかった。むしろ、緑の惑星であった頃よりも、悪化しているように見える。しかし、それは当然の成り行きであると言えるだろう。当時の人間にとっては団地そのものの閉塞感が尋常でないストレッサーとなり得、彼等に凶行を走らせたといっても過言ではないのである。
凶行と言えば、緑の惑星時代ならば専ら殺人や強盗が一番に挙げられただろうが、団地の世界に於いて、強盗に関しては全く発生する余地が無かった。というのも、仮に金品を盗んだとして、ここは生産能力が更新により悉く刈り剃られた世界、金が金としての意味を成しておらず、売りつけるどころか、その意図でさえ消滅が余儀なくされている。欲しい物は、大人しく空き部屋から奪えば良い。わざわざ諍いを生む必要など無いのだ。故に、殺人の次に置かれるも凶行とは、強盗ではなく、強姦の類であった。娯楽物が限られこの世界では、姦淫で女を虐げることが、最もストレスの捌け口となる方法だったのである。
そうのような裏があり、人類は瞬く間に増えた。終息に向かっていた筈の人口増加が再び爆発的なものに変わった。しかし、だからと言って困ることなど何も無い。前の地とは異なって住む場所は無限にあるし、同じくして食料問題など全く起こりようもない。人々は決して貧窮に喘ぐ事などなく、あるとすれば、それは背徳な快楽と、閉塞の恐怖のみによるものだった。
やがて、人々は土地を求めて広漠な団地を散開する。進めば必ず人は減り、定期的に移動すれば、半永久的にか細い人脈で日々を嗜むことができた。そのように、彼等は一縷の安息も掴まんと足早に元の地を離れていく。
いくら不変な団地とて、彼等の娯楽が姦淫の類に限られていた訳ではない。複製の母体たる団地は、元が広かったから、様々な部屋を有していた。例えば、第三棟の302号室には――エンジニアが暮らしていたのだろうか――狭い床に何本ものコードが敷かれ、複雑に絡み合いながら部屋の奥に続いている。部屋の奥には何十器もの筺体が積載され、互いにコードで接続し合ったり、外から入ってきたコードとも結びついたりしていた。が、稼働はしていない。電気が足りないのだ。発電機の設置場所は疎らであり、よっぽど偶然にも、何台もの発電機が近接して生成された地帯でないと稼働するのは不可能だった。発電機は、電灯や家電に使われて然るべきで、幾台のコンピュータに電力を割く余裕など殆どないのである。また、四棟の103号室には、多くの玩具が取り揃えられている。住民は子沢山だったと見える。ここは『玩具の間』と呼ばれ、子育てに手を伸ばし始めた夫婦がよくこの間に訪れて、いくつかの玩具を拝借している。この他にも、様々な部屋があり、通称で呼ばれるものもあれば、特に目も向けられない無名の部屋もある。それらの中で一際有名な部屋を紹介しよう。そこは第一棟の305号室だ。我々は『書痴の間』と読んでいるが、ここには太古に記された数々の書籍が積まれている。ここには智があった。明瞭に書き表された、厳粛なる智が。セカイに於いては、文献を作成するなどと言うのは無意味に等しい行為である。なぜならば、それは最大でも一週間しか保たれないからだ。何についても口承でしか情報を伝え得ないこの世界では、このような書物はとても価値の高いものだった。全ての人間はここから教養を得、幸いにも無知を横暴する事無く、極めて道徳的な生活を送ることができている。また、これらの本は消えやしないし、一種の安心して嗜める娯楽としても最適なものだった。
幼い頃の私が、どうしてここに通わずにいられるだろうか。姦淫など遠い昔の話で知るはずもないし、『玩具の間』で遊ぶにも限界がある。ある日、母親が『のりものずかん』という本を持ち出してきて、夜分に私に読み聞かせた。私は喜んだ。見たことも無い『車』が、見たことも無い『空』の下で、悠然と走っている。よく弄んでいたミニカーには無かった造形。ショベルカーや、トラクター。それから私は自発的にそれを読み耽り、ある時から、両親に他の絵本や図鑑を要求し始めた。両親は私の手を引っ張り、『書架の間』へと連れていった。そこには沢山の本があった。絵本や図鑑は古ぼけた段ボールに仕舞われていて、両親はそこから数冊拝借して私に差し出した。私は喜んで、ページを捲る。この瞬間こそが、私の遊戯への志向が、玩具から本に、完全に転換した時だった。それから『書架の間』の表札を覚え、自らの足でそこへ向かう事は珍しいことでは無くなった。
成長するに従い、私の読み耽る書は、絵や写真が多く添付された物から何処を見ても活字ばかりの物へと変遷した。灯る電球の下で、毎日が活字の中。私は教養を得た。身長に相応しい多くの知識を備えた。
両親は老け、慣習として私は別居することとなった。第1棟の501号室で自炊の毎日を暮らす。501号室の前居住者は、結婚して2棟の方へと移ったらしい。私が結婚したら、その時は何処へ行くのだろう。誰々と結婚した際、何処の部屋に移住するのか。そのマニュアルは全て頭の中に入っている。同様の人間が多く住まうこの一帯では、そのような事が慣習化されていた。他の慣習もある。その一部は既に述べている。幼子の当時、私は表札だけを頼りに母親の下に帰った。私の求めていた表札は、たった一つしか存在しない訳ではなかった。同様の絵を掛ける部屋がコミュニティーの至る所に点在していた。そこには必ず、私の両親が住み、両親もまた私を実の子だと認識していた。親と子の関係は、そのゲノム配列のみにより決定づけられる。だから私の両親は、何光年離れた所の、私と全く同じゲノム配列を保持する"私"の両親と言っても、何の差し支えも無いわけである。故に、幼子の私は、どの両親の下にも帰ってよい。だから、偶然にも私と同じ遺伝子の"私"が同じ部屋に帰ってきてしまうのも、有り得ない話ではないのである。また、夫婦の間柄でもそうだ。夫は、自分の住まいを表す表札の部屋に帰りさえすれば、なんら問題は無い。だから、同じ部屋に同じ夫が一人の妻の前に現れるのもいたっておかしな話では無い。
一度話を整理しようか。
私が住まう一帯の地域は、同じ顔、同じ体を持った人間が多く集っている。これは、間違いなく偶然であり、数学的に述べると「極端に少ないゲノム配列パターンを元としてこの一帯に群が形成されている」ということである。人間のゲノム配列パターンは限られているが、その全てを網羅するとなると、巨大数に匹敵する数字となる。また、その塩基の総数が増減しないとして、人間はこの無量大数以上の組み合わせの中で、新しい人間を日々生み出している。例えば、足し算に於いて、実数に実数を加減したとしてもそれは実数だろう。決して虚数にはなり得ない。そのようなものである。このとき、人間が取り得る全てのゲノム配列から、ある一定の規則をもってパターンを選出してやると、いくら人間がこれらの中で交配を繰り返したとしても、彼等のゲノム配列は、その選出したパターンの中に帰結する。それは、整数に整数を加減したら必ず整数になるようなものである。私が住む一帯に起きている事も、ちょうどこの通りな事だ。そして、選出されている配列パターンは、きっと十本の指で数えられる最大の数―― 一〇二四 ――の半分にも満たないだろう。つまり、私が住む一帯の人相は五百種類にも及ばない。そして、新しい人相が生まれることもなく、およそ何光年の範囲に渡って、同様な人間が住まわっている。
――わかるだろうか? このような世界が成立するためには、ひとつ条件を加えなければならない。それは、DNAの塩基配列エラーが全く発生しないことである。もし、一度発生があれば、その相似遺伝子コミュニティーは瞬く間に形を変える。もし、整数の加減が基本となる群に、少数がたったひとつでも仲間入りしたとしたら、最早それは別の群を形成するだろう。我々の体は不完全なので、突然、親から受け継いだ遺伝子にエラーが混淆することは十分にあり得る。例えば、余計な塩基が挿入されたり、必要な塩基が削除されたり、ある塩基とある塩基が入れ替わったり――。そのような事が我々のコミュニティで発生すると、正に、整数群に飛び込んできた少数。我々のコミュニティは、致命的な瓦解を余儀なくされ、その人相は元の何倍にも膨れ上がる――。が、そのような事は全く起きていない。ましてや、染色体異常による先天的障害でさえ皆無だ。
ここから考えられる事は、セカイは唯の複製機では無いようである。今日の我々までに伝承する憶測では、セカイは人間のゲノム配置の偶然的変更、または染色体の過不足等を認めない、それを防止する働きを持っているようだ。
故に、何兆年と昔から人間の姿は変わっていない。『書痴の間』には当然生物学の本も置かれており、そのどれもが『進化論』を支持している。ところが、現在に限ってはそれは覆されている。別の書架に並ぶ宗教学の主張――人は神の創造物であり、未来永劫その形を変えることは無い、我々が元は猿だったなどと言うのはキチガイの言葉である――が罷り通っている。私個人の見解として、私はどちらに加担するつもりもない。確かに、私が太古の技術社会に生まれたとしたら、熱狂的に進化論を支持しただろうが、今のようにセカイが世を遍く支配せしめる世界――セカイを一種の〝神"として看做すことは容易だ――に生まれた身としては、最早決めかねる問題なのである。
人を人たらしめるゲノムの固定。
人を人たらしめるエラーの是正。
セカイは人間を人間たらしめる為にあらゆる手を尽くして現在の法則に秩序を帰結させている。
私達は、この世界に満足している。決して不平など洩らさないし、むしろ信仰の対象でもある。
なんと素晴らしい世界だろうか! 私は『書痴の間』に入り浸る度に、そのように感嘆した。そう、間違いなく素晴らしいのだ。これ以上なく、悦びの至る処だった。
セカイ創世時の人間は、何兆年も時が進んだ今の私達の暮らしを見た時、きっと首を傾げるに違いない。
セカイは不変であり、唯一変わる物と言えば、人間の分布。また、一週間以内の諸物の位置のみに限る。
太古の人間は、不変であることを恐れ、常に前進を続けていた。これは『書痴の間』から学ぶに、幸福を求むるが故であり、その貪婪さと言えば、誰もが底を知り得ない物であった。しかし、そんな永劫的な欲望にも終止符を打つ方法が存在する。否、それは時間の問題に過ぎなかった。簡単な話である。人類が技術の至高、哲学の至高、ありとあらゆる学術的面に於いて至高なる場所に辿り着いた時、人間は貪婪の求道を止めるのである。至極に登り詰めた彼等が幸せの骨頂にあるのは当然のことであり、ましてや、彼等が有する権限が徹底的に平等化されているというのは、語るべきでもない。人間の欲望を唯一抑止する方法――それは、早急に物事の限界まで辿り着き、彼等を納得させることなのだ。
人間にはそのような背景があり、我々は確信する。
――セカイは英断を果たした。
彼があらゆる学術的面に於ける限界を引き下げてやることで、人類は瞬く間に真の平等と幸福を得ることができた。誰もが、団地の中に生活を帰結させ、一週間の更新ルールにより、技術が進歩することも決してない。誰もが智を平等に得ることができ、誰もがそれ以上に考察を重ねることができない。
こう説明を付ければ、何故人々がセカイを崇拝しているのか納得できよう。我々は知っているのである。我々は不幸ではない。セカイの発生は決して人類の望まぬ所ではなく、むしろ楽園とも呼べる聖域の誕生なのである。ここは明らかに、人類が那由他の時を経て至るはずの場所。そうであるにもかかわらず、セカイは、本来ならばもっと劣った世界で生きる筈だった我々に、完全なる人類の調和を添えて、楽園にて生を歩ましめた。幸運も幸運。何と欣ばしいことか!
こうして、今日も私は就寝を前にして、セカイに祈りを捧げている。特別な義務があるわけではないが、このようにすることで、我が子に感謝という道徳心を教えることもできるし、私自身、心の内に爆発する感嘆を辛うじて発露せずにいられている。熱烈なセカイ信者の私とて、信仰心をお構いなしにひけらかすのは、なんとみっともないことか。
このように私が心中で思惟を巡らしている内にも、セカイは団地を拡大し続けている。人間もそれに倣い、限られたゲノム配列の中で新しい人間を生み出している。そういえば、最果ての人類――何兆年も昔に生き別れた人類の末裔――は今頃何をしているのだろう。無限に広がる空虚な部屋を埋め尽くそうと、まるで太古の人類のように直向きな努力しているのか、それとも、ただ惰性に従い、我々と同様の暮らしをしているのか。私が考えるに、これは後者だ。我々の思想は、何億年も前から口承により届いているはずであり、同じくして、彼らの生活も我々の耳に届いて然るべきである。彼等の生活が私の耳に届いていないという事は、取るに足らない、言うに当たらない生活をしていると類推できる。だから、我々と同じように『書痴の間』で学び、敬虔な信仰をセカイに捧げ、平等なる世界に感嘆の叫びを上げているに違いないのである。
最早、私を含める全人類には、未だ団地が建造されているような遠方の彼方の情報など知ることもできない訳だが、もし、この重層の建築物が全宇宙を制覇したとき(もしかしたら、それはもう完了しているのかもしれない)、この世界には一体何が起こるのだろう。
私の予想では、何も起こりはしない。
このように、あまりにも巨大に広がり過ぎた団地は、あくまで団地として、恒久に、この空間に遍く鎮座し続けるのである。
延々と団地
果てまで続く同じ景色を夢想して書きました。
読んでいただきありがとうございました。