やわらかな籠
「またダメだった。今月も」
少しだけ目をあげ、そうか、とだけ呟き、史則は手に持った新聞に再び目を通す。
史則と結婚して3年。彼のそういう言葉少なな態度が、知春を責めないようにとの心遣いからくるものなのはよくわかっていた。
はじめは控えめな優しさだと思ったその態度も、今はそれがたまらなく嫌だった。
史則と結婚して3年。不妊治療を初めて1年。今日は生理がきていた。「失敗」の証。
史則と知春は同じ大学のサークルで出会った。なんとなくはじめは寡黙で近寄り難い雰囲気だった史則だったが、 サークルの運営を通じて話していくうちに、彼は歴史や、文学、映画など、様々な分野の知識や深い見識を持っていることがわかった。
控えめで、思慮深い。そんなところに知春は惹かれたのだった。
知春が史則に告白するかたちで、晴れてふたりは2年生の後半から付き合うようになり、お互いに就職して3年が経ち、史則が関西に転勤になったのを機に、知春は勤めていた中小企業の一般事務の仕事を退職して結婚した。
共通の友人や知人から、ふたりはおしどり夫婦だと思われている。
「わかってると思うけど、来週はかあさんの誕生日だから」
朝食の箸をすすめながら、史則はぽつり、とつぶやくように言った。
これは、お義母さんの誕生日に連絡を一本入れろ、ということだ。
「…わかってる」
知春はそう答え、食欲のないまま、なんとなく目玉焼きを箸でつつく。
お義母さんに電話をしたら、不妊治療について、またあれこれ聞かれるだろう。
―今回も失敗した。そう答えざるえない。
お義母さんにどんなことを言われるか、想像しただけで気が重い。
卵の黄身がどろり、と溶けだして、皿を汚した。
毎年、義母の誕生日になると知春がいつも電話をしている。史則はなぜ自分で電話をしてくれないのだろう。
そんなことをいえば、彼は困った顔をして、「仕事があるんだよ」と答えるに違いない。
だから知春も聞いたりはしない。彼がどんなことをいうか、手に取るようにわかるから。
「気を遣わないでなんでもかあさんに言ってくれよ。お前のお母さんでもあるんだからさ」
史則は口癖のようにいうけれど、私とお義母さんは他人だ。史則という人間を通じて繋がっているだけの、他人。
―こんなことを言っても無駄だ。そう思いながら、思わず知春の口から言葉が飛び出す。
「お義母さん、また失敗した、っていったら、なんていうかしら」
案の定、史則は眉のあたりに困惑を浮かべて、「そりゃ心配するだろ。孫を何より楽しみにしてるのはかあさんなんだし」
そう淡々と答えると、ごちそうさま、といって立ち上がり、史則は服を着替えにリビングと部屋続きの和室へ向かっていった。
あなたはどうなの。こどもが欲しいのはあなたの意志なの。
私達の子供なのか、お義母さんのための子供なのか。知春は、もう分からなくなってきている。
史則はきっとこんな風に答える。「結婚したんだから、当然だろ。かあさんだって孫をほしがってるんだし」
まるで「どうして空は赤くなるの?」と延々と聞いてくる子供を相手にした時のような、困った顔をして。
知春の友達には、既婚者がほとんどいない。サークルの仲間内で真っ先に結婚したのが史則と知春のふたりだった。
史則は普段は温厚で優しい人だが、夜の生活を断ると途端に不機嫌になる。
史則が寝たあと、リビングで後片付けをしていたら、たまたまついていたパソコンの画面を見てしまったことがある。
“妻がセックスを拒否します。これはセックスレスでしょうか。”
そんなタイトルの書かれた画面に目が釘付けになり、マウスで画面をスクロールをすると、 どうやら史則がネットの相談サイトに投稿していたようだった。
“自分はこんなに我慢をしているのに、専業主婦をしている妻がセックスを拒否する理由がわからない、なぜなのか理解出来ない”ということが、何十行にも渡って、つらつらと書き連ねてあった。
―たかが3日で。セックスレスって。
知春がたまたま気分が悪く、そうした気分になれず、史則の夜の誘いを3日続けて断ったことがある。
知春は怖くなり、それからはどんなに自分の気分が乗らなくても、我慢して受けいれるようになった。
子作りのためにも。
ただでさえ休日の史則には気を遣う。
普段激務の史則を休ませてやりたいというのもあるが、怒らせたり、不機嫌にさせることが何より怖い。
史則は一度機嫌を損ねると、いつまでもずっとふさぎこんでしまうのだ。
くるしい。
くるしい。
誰にも相談できない。
リアルな夫婦生活の悩みを相談されても…と戸惑う友人の顔が目に浮かぶ。
それか、相談したところで、ノロケだと受け取られるか、一般論で流されるに違いない。
「史則くん、知春のことを思ってる証拠じゃない」
「浮気とか、風俗行かれるより全然マシじゃない?」
「贅沢な悩みだよお。私なら羨ましいとともっちゃう」
仲が良かったはずの友人たちが、そんなことをいうのがありありと想像できてしまうのも、くるしい。
子供なんかほしくない。いや、ほしいのかすら、今の私にはわからない。知春は強くそう思う。
いやそもそも、友達も、知り合いも誰一人いないこの場所で、私は誰を頼ればいいのか。
子供という未知なるものを、育てていけるのか。たった一人で?
ふたり分の朝食の食器を台所に下げ、蛇口を捻り、水を流す。皿に残った醤油のシミが、たちまち薄められて消えてゆく。
ネクタイを締めながら史則が現れた。
知春は急いでタオルで手を拭き、ネクタイを締めるのを手伝う。
「治療のことだけど」
ネイビーブルーに斜めのシルバーのラインが入ったネクタイ。結ぶのがなんだかいつもより手間取る。もどかしい。
「あんまりうまく行ってないようなら、かあさんに相談するのもいいだろうし」
「うん」
「また次もあるんだから、落ち込むなよ」
「うん」
少し曲がったネクタイを史則が自分で直しながら言う。
もう生理もとっくの昔に上がってしまった53歳の義母に、何を相談すればいいのか。
「わたし達の時代はそんなことなかった」
そう永遠と聞かされ続けることで、一体何が解決するんだろう。知春はぼんやりとそんなことを思う。
史則は背を向けて玄関まで歩いていく。
知春は何も言わずついてゆく。
これは、新婚時代から惰性で引き摺っている習慣だった。
「じゃあ、いってくるから」
ドアが開いて、明るい外の世界が見える。今日は快晴だ。
「いってらっしゃい」
史則は少しだけ振り返り、知春のその言葉に目でこたえた。
ゆっくりとドアが閉まる。 鍵を締める。 再び部屋は暗くなる。
ああ、そうこうしてる暇はない。
今日の献立を考えなくちゃいけない。今年のお義母さんへのプレゼントは、何がいいんだろう。
去年お花とワインをあげたとき、チクリと嫌味を言われたっけ。
あとはお洗濯もして、お風呂も洗って…
そうして、知春の意識は日常へと戻っていく。
end
やわらかな籠
小説を書きました。というか、生まれて初めて、書“け”ました。
絶対無理だ、と思ってた小説が書けました。(普段は詩や短歌、俳句ばかり書いてます)
処女作ってやつかもしれません。
そして別にこれは実体験とかではありません。