白煙のむこう

「ストレス溜まってるねぇ」
顔を上げると、彼女が頬杖をついてこちらを見ていた。
からかうように口許を上げて、ころころと喉を鳴らす。
僕は左手で持っていた煙草の、今にも落ちそうな灰を落とし、また口許に運ぼうとして灰皿に押し付けた。
「仕事大変そうだね。ちゃんと食べてる?」
静かに伏せた睫毛が長い。正面から見てもハッキリとした顔立ちは美しいのだと思う。
彼女に抜かりはない、はずだ。
なのに、僕は彼女になにも見出せずにいる。こんなになにもない人はいるのか、と。
まあ、ぼちぼちかな、と答えてコーヒーを啜った。
「異動して一週間でしょ、まだ慣れないよね。見事に知らない人ばっかりみたいだし」
私が言うことではないか、と彼女は再び笑った。僕もつられて笑う。

ーーーあなたは、

君は、そう言った。
いつもそう言われるたびにいらいらして、そんなんじゃない、と語気を強く反論した。
ふざけんな、と、眼つきを強張らせて震える声で君は怒った。
ふざけんな、ふざけんなよ、と泣きそうになりながら、煙草の箱に手を伸ばした。白地に黒の文字が浮かんだ、くしゃくしゃのセブンスター。

また強い煙草吸ってるな。
そう言うと、眉間をくっきり寄せて面白くなさそうに煙草をふかした。
いいじゃん、と吐き棄てる姿は、生意気な中学生が喫煙しているものとなんら変わりなく、だけどしっかり大人びた君の姿がちぐはぐで面白かった。
別に咎めているわけじゃないよ、とからかうと、むっとして黙り込んでしまった。

なんで君はいつもいらいらしているんだ。
いつか、君が封を切ったばかりのセブンスターをぐしゃりと掌で握ったときに訊いた。
してない。
してるじゃん。
うるさい。
それきりなにを言っても黙ってしまった。僕はひたすら声を挙げて笑っていたし、君は冴えない顔で煙草を吸っていた。

僕たちって一体なんだろうね。
君はいつも黙っていて、ねえ、と僕が訊けば、なにか言った?ととぼけた。
いつも白い煙が、君のことを半分覆っていた。僕は君のことを知らなかったのかも知れない。


「あなたはなにも変わっていない」
ーーー聞き覚えのある声音だ。僕を責めようとする、君の声によく似ている。
「気付いてよ、…いい加減」
はっとして顔を上げる。
見上げると、飾り気のない黒いTシャツを身に纏った君が立っている。
「なんで… ここに」
君は黙って僕を見下ろしている。
じゅっと小さな音がした。テーブルの上の紙ナプキンの上に灰が落ちて、焦げている。
君が踵を返そうとして、僕は無意識に立ち上がって君の腕を掴んだ。
その瞬間、息を呑んだ。今にも死んでしまいそうなほどに頼りない、細い腕だった。
並んで立つと信じられないくらいに背丈も低くて、
「…気付かなくてごめん」
君は強くなんてなかったことに、僕はずっと気付かなかった。当たり前のように甘えてしまったことに。
君はひとりで生きていけるんだ。
そうやって置いてきてしまったことに、白煙に巻かれて気付かないふりをしていただけだったことに。
君はゆっくり振り返り、険しい顔付きでじっと僕を睨んだ。
つかまえた手を静かに剥がして、胸ポケットから取り出した煙草を僕に押し付けた。
くしゃくしゃのセブンスター。


「おーい、ぼうっとしすぎ」
彼女が僕の顔の真ん前で手を振る。
え? ああ、ごめん。夢でも見てたかも。
「はは、ひどいなあ。灰、落ちるよ」
彼女が氷だけになったアイスコーヒーのグラスを傾ける。
左手に持ったセブンスターは今にも灰が落ちそうだった。慌てて灰皿の上で落とす。
視界に入った紙ナプキンが、焦げていた。
「お店、もうちょっとで閉まるよ。とりあえず行こ」
彼女が伝票を持ったので、慌てて火を消して席を立った。

またのお越しを、と店員に見送られて店を出る。
「このカフェ、いいねー。珍しく優さんから行きたいって言ったから、正直どんなところかと思っていたけど」
だろ、昔しょっちゅう来ていたんだ。

振り返ると、窓際にちいさな影があった。黒いTシャツから覗く華奢な腕。
白い煙が、ふわふわと漂っていた。


fin.

白煙のむこう

白煙のむこう

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-20

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