約束の場所
山奥にひっそりと身を潜めるトンネル。
もうそこを通るものなどないのであろう。びっしりと生えた濃緑色のこけと、風化したコンクリート。車がようやっと一台徐行できるくらいのちいさな穴の先は、暗くてなにも見えない。
そんなトンネルの前に、男は立っていた。
年の頃は二十代後半だろうか。短く切りそろえられた清潔そうな黒髪に、気弱そうな顔立ち。グレーのスーツに身を包み、先ほどからずっとトンネルの先を見つめている。
男は何度か躊躇した後、思いきったようにトンネルへと一歩を踏み出した。
が、不意に。
「待てよ」
頭上から声が降り、驚いて見上げる。
そこには、トンネルの上に腰掛けてこちらを見下ろしている少年がいた。十歳ほどだろう。坊主頭に汚れたランニングシャツと短パン。裸足に直接履いているスポーツシューズはぼろぼろで、片方が足から脱げかけている。およそ今どきの子供像からはかけ離れた少年だった。
「お前をこの先に行かせるわけにはいかない」
男を見下ろしたまま、少年は言う。
「お前にはまだ、この先に行く資格がないんだ」
少年をしばしまじまじと見上げていた男は、あっと叫んで言葉を返す。
「お前……ユウスケかっ? ぼくだよ、ぼく。酒井マサキだ!」
「知ってるよ」
男――マサキの呼びかけに、しかしユウスケと呼ばれた少年は冷淡に返答する。
「知ってるよ、マサキ。久しぶりだな」
「ああ、何年ぶりだろう。またお前に会えるなんて嬉しいよ」
マサキは顔をほころばせる。
「待ってて、ユウスケ。ぼくもいま、そっちに行く」
トンネル脇の斜面を登ろうと近くの木に手をかける。が、しかし、
「来るな」
ユウスケはやはり、マサキに対して辛辣な態度をとる。
木から手を離したマサキは、悲しそうにユウスケを見上げた。
「どうしたんだよ、ユウスケ? ぼくたち、約束しただろう。いつかきっと村に帰るって」
「ああ、約束した。たしかに約束したさ」
「じゃあ、なんで行かせてくれないんだ?」
マサキの叫びがトンネルの中で反響する。
ユウスケは一瞬悲しげな表情を見せ、そしてすぐに消した。
「言っただろう、マサキ。お前にはまだ、この先に行く資格がないんだ」
「何だよ、資格って!」
なおも食い下がるマサキを、ユウスケはただ黙って見下ろしている。
「もういい! ぼくは行くぞ。お前が止めたって無駄だからなっ」
スーツのジャケットを脱ぎ捨て、荒い足音を立てながらトンネルへと進む。トンネル内の電気は遠い昔に切れてしまったのだろう。中は何も見えない、真の闇だった。
すると――突然、後ろから引っ張られて足を止める。
振り返ると、いつの間に降り立ったのか、そこにはマサキのシャツを握るユウスケがいた。
「ユウスケ……」
ユウスケは自分よりはるかに背の高いマサキを見上げていた。
「駄目なんだよ、マサキ。お前はまだこの先に行っちゃ駄目なんだ」
シャツを握る手に力がこもる。それはユウスケの意思の固さでもあった。
「……わかったよ、ユウスケ。ぼくはまだ、この先には行かない」
ユウスケの肩に手を置き、屈んで視線を合わせる。
「ぼくは戻るよ」
にっこりと微笑むマサキ。その表情は、どこか晴々としていた。
トンネルとユウスケに背を向け、今となってはもう道なき道を、ゆっくりと歩きだす。
「マサキ」
呼び止められて、振り返る。ユウスケは悲しそうに笑っていた。
「大きくなったな」
そんなユウスケに、マサキも微笑んで返す。
「あれから二十年だ。大きくもなるさ」
そして――暗闇が訪れた。
二十年前。
その村は山奥にひっそりと隠れるように、だがたしかに存在していた。
無医村であるそこは当然のごとく、薬の類は十分な量が常備されていない。よって、ユウスケの肺炎も悪化の一途を日々たどっていた。
「ユウスケ、生きろ! 死んじゃ駄目だっ」
病床の脇には幼いマサキ。人の体温とは思えない、熱いユウスケの手をずっと握っている。
「約束したじゃないか。ぼくたち、大人になったらこの村を出ていっぱいお金を稼ぐって。そしてこの村に戻ってくるって」
ユウスケの息は荒く、目の焦点もあっていないようだった。マサキの声が届いているかも疑わしいくらいだ。
不意に、マサキの手が握り返される。
「ユウスケっ?」
「約束……だな……」
天井をぼんやりと見つめたままユウスケは微笑み――そして静かに、永遠に、目を閉じたのだった。
マサキが目を覚ますと、そこは病室のベッドの上だった。
白い天井。白い壁。白いカーテン。あらゆる白色が、逆にトンネルの闇を思い起こさせた。
「あなた、気がついたのね!」
ベッドの脇から、涙で目を腫らした妻がこちらを心配そうに覗き込んでいた。
うまく笑えたかは分からない。だが、妻は安心したように喜びの涙を流し、枕もとのナースコールを押した。
「あなた、事故に遭ったのよ? 憶えてる? ……いえ、思い出さなくていいわ。今はとにかく、早く元気になれるようにがんばりましょう」
マサキは思う。
自分は一体、どれだけ妻に心配をかけたのだろうか。愛する者を残して、自分はどこへ行こうとしていたのだろうか。
――ありがとう、ユウスケ。ぼくはやっぱり、そっちにはまだ行けないよ……。
不器用に手を動かし、妻の手を握る。
それはとてもあたたかく、生きる力に満ちていた。
約束の場所