ペッパーちゃんのこと

 
私はその日、児童から集めたばかりの紙の束を抱え、教室の隅にある教員用机に座り、急いでその内容に目を通した。教室には他に誰もおらず、廊下には警察官や不安げな保護者たちの姿があった。
 理科でゆかちゃんと同じ班だった、ゆかちゃんは道徳の時○○くんとおしゃべりしていた、今日ゆかちゃんとは遊ばなかった…。
 案の定、そこに書かれていた情報はありきたりで小さなものばかりだ。当たり前だと思う。担任である私だって、クラス一人一人の行動を細かく把握することは難しい。
 ゆかちゃん…私のクラスの児童である今川由佳は、昨日の夕方、突然姿を消した。その失踪は、とても不可解なものだった。まず、算数で小テストを行った。放課後、点数が悪かった児童を教室に残し、補習授業。市川由佳もその中の一人だった。全員に指導が終わったのは、4時頃。しかし、初夏を迎える時節もあって外は明るく、通学路には人通りも多く、私はさほど心配することもなく、児童たちが教室を出るのを見送った。
 やがて校舎から児童の姿が消え、夕闇が迫ってきたころ、今川由佳の母親から怯えた声で電話が入った。娘が帰ってこない、通学路を探したが、どこにもいない。にわかに緊張が走る職員室。私が今川由佳と仲のよい児童の家に電話をかけ、男性教員たちがもう一度通学路を探す相談を始めた時、校舎内を見回っていた事務員が職員室に戻ってきて、私を呼んだ。中庭に女子用のランドセルがあるという。吃驚して見に行くと、確かに花壇が並ぶ敷地の片隅に、赤いランドセルが置かれていた。名札には今川由佳の名前があった。
 何故、こんなところに?
 私ははっとして昇降口へと走り、彼女の靴箱の中を覗き込む。そこにあったのは上靴ではなく、外靴だった。ということは、まさか…まだ校舎の中にいるのだろうか?帰り際に花壇に寄って、突然具合が悪くなって、トイレの中で倒れているとか…。
 しかし、その後いくら校舎を探しても、通学路を巡回しても、結局彼女の姿は見えないまま、一夜が明けた。現在は、夜のうちに学校から連絡を受けた警官たちが調べを続けている。当然学校は臨時休校だが、私のクラスだけ、保護者同伴での登校となった。朝の会だけを行い、事情を説明する。その時、昨日の今川由佳の様子について何か知っていることがあれは自由に書くようにと、紙を配った。
 二十七枚分あったその紙も、読み続けるうちに半分以下まで減っていた。相変わらず、ごく日常的な場面ばかりが続いていたが、ある児童の記述にはっと手が止まった。
 タイトルは、『ペッパーちゃんのこと』。昨日二人で交わした会話の内容だった。
 「昨日のお昼休み、ゆかちゃんと中庭でこわい話をしました。ゆかちゃんはペッパーちゃんの話をしました。ペッパーちゃんは夜まで学校で遊んでいて、いじげんの世界に引きこまれてしまった子です。中庭にあるミントの苗は、ペッパーちゃんが植えたもので、のろいがかかっているから、いたずらしたり、引っこ抜いたりしたら、ペッパーちゃんの世界につれていかれます。帰りは、ゆかちゃんと一緒に帰ろうと思ったけど、いのこりだったので、みきちゃんと帰りました。」
 その話の内容は、他愛もない、どこにでもあるような学校の怖い噂だ…いや、でも…。
 私は机に紙束を放り出し、急いで教室を出た。今川由佳のランドセルが発見された、例の中庭へと向かう。補習の時に聞いた彼女の言葉が、耳に蘇る。
 嫌だなァ、テストの点が悪いと、由佳のお母さんすごく怒るから。
 その言葉に私は、ちゃんと分かったんだから大丈夫よ、と諭した。
 ううん、怒られるの。帰りたくないな…。
 叱られるから帰りたくない?まさかそんな小さなことが失踪の理由?
いや、小さなことなんて言ってはダメだ。
大人だって叱責を受けるのは避けたい。それに、大人は自分でストレスを発散できる。日常からの逃げ道も作れるだろう。しかし、子供はそうはいかない。家と学校の往復。それだけが、子供たちの生きる世界だ。そこから出たら生きていけない。つまり、その世界が例えどんなに窮屈でも、嫌になっても、その日常からは逃げられない…。
 やがて中庭に到着した私は、今川由佳のランドセルがあった場所へと向かった。そこには確かに、やせたミントの苗が横一列に植えてあるが、一か所だけ不自然に間隔が開いている。覗くと、地面には小さな穴が…どうやら誰かが抜いて持ち去ったらしい。周囲を見回してみたが、抜かれた苗は落ちていない。
 その時、空から降りてきた生ぬるい風が、ゆっくりと草花を揺らした。私はただ、その光景を見つめることしか出来なかった。

ペッパーちゃんのこと

ペッパーちゃんのこと

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-19

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