彰子と元治

バサバサバサ・・・・

鳩?と一瞬元治は思った。

背後で無数の鳩が天に向かって羽ばたいてゆく。

そしてすぐにクックックと笑った。

振り返ってみるまでもない。

夕刻。第10レースが終わった競艇場。地面を覆い尽くす無数のはずれ舟券が風に舞って音を立てているのだ。



俺はもうずいぶんと前から気づいていた。そう元治は思った。

俺は気づいていた。競艇は後悔の人生レースだと。

競艇レースは単純だ。6艇が一斉にスタートして、最初にやってくるターンの場所。1周回目の第1マーク。そこで勝負がつく。競輪や競馬のように、最終周回の最終コーナーを回ってからが勝負ということはない。1周目の一番最初のコーナーが勝負どころなのだ。そこでしくじったものは取り返しがつかない。そこで一番ケツになったものは、何周まわってもトップになる可能性はゼロなのだ。しまったと思っても、前を行く舟をにらみつけながら、唇をかんで屈辱を味わい続けるしかない。

なんだか俺の人生に似ている、と思ったのは、競艇をはじめた直後の二十歳前だった。

高校受験に失敗した。地元山口の進学校を受験したが不合格だった。見栄をはるなと友達に言われた。直後、歌手になろうと思って上京した。鼻が低かったので、工員として働き、こつこつと貯めた金で整形手術をした。オーディションを何度か受けたが駄目だった。二十歳のころには京都に流れ着いた。そしてタクシードライバーになった。

自分の35年間の人生を振り返ることなどほとんどない。しかし、もう、ずうっと、何に対してかわからない憤りが、自分の心の奥底にある。その憤りの気持ちが、自分を修羅にさせる、そう元治は思った。

1973年。数年前大阪万博が終わり、世の中はずいぶんと華やかになった、世間が明るくなればなるほど、俺の心は荒んでゆく。飴細工のように間延びした時間の中を、おれはなんだか知らないが必死にもがいている。若さという豊饒を感じながら、どういったわけか、時間がないと焦っている自分が滑稽だった。



元治は先ほどから気づいていた。目つきの悪い男が3人、ずっと自分のほうをうかがっている。競艇場に来るのも、これが最後になるかもしれないなと、漠然と思った。

元治はふと、彰子のことを思った。俺は昨日、彰子と電話で話した。俺は彰子に冷たく言い放った。睡眠薬を飲んで自殺しろ、と。俺と一緒にいたいと言って、電話口で女は泣いていた。自分の冷淡さがとても不思議だと元治は思った。俺はこの女を愛しているだろうか? ちょうど10歳年上のこの女と知り合ってもう8年になる。8年前、バスに乗っていて、たまたま以前タクシーに乗せたことのあるこの女を見つけて声をかけた。清楚で奥ゆかしい感じの小柄な彰子は、俺の知っているどの女ともタイプが違って見えた。そして、今でもはっきり覚えているのだ。自分から声をかけておきながら、どうか俺を相手にしないでほしいと思ったことを。無視してほしいと思った。不思議にとても嫌な直感があった・・・



先ほどから自分のほうを見つめていた3人の男が近づいてくるのを元治はぼんやりと眺めていた。そして観念したように目をつぶった。



天井に近いところにポツンとある窓から見える満月が美しいと彰子は思った。小さな部屋で月明かりに照らされながら、彰子はひとりぽつんとしていた。秋の気配が窓から忍び込み、彰子の鼻孔の奥をくすぐった。

彰子は先ほど刑事から聞いた言葉を思い返した。元治には奥さんと子供がいた。初めて知った事実だった。しかしそのことを知っても動揺はなかった。不思議に当然のことのように思われた。そしてもう一つ知った事実があった。自分が、銀行で横領した金の総額が9億円に至るということだった。3億円ぐらいまでは明確に意識していた。でも最近は不思議なことに、自分が不正に引き出している他人の預金の金額にまったく無頓着になっていた。まったく麻痺してしまっていた。

元治に初めて会ったとき、彼はとてもかわいかった。端正な顔立ちをしていたけど、男前というよりまだ少年のようなあどけなさがあった。声をかけられてわたしはとてもおどろいたけど、彼の真剣なまなざしに打たれた。この子はどうしてこんなおばちゃんに声をかけたのだろう。そう思うとおかしかった。そしてわたしたちはすぐに仲良しになった。元治はわたしにとって初めての男だった。あらゆる意味で。物心がついたころからわたしは父親をしらない。愛人をつくって家を出て行った父を母は憎んでいた。その憎しみが、わたしに伝染したのか、この年になるまで男に縁がなかった。元治と付き合い始めたころ、わたしは本当に彼が愛おしくてしようがなかった。わたしは彼が求めることは何でもしてあげた。彼に抱かれながらわたしは、甘味な陶酔を味わった。その陶酔は未来への希望に満ちていた。

でも、付き合い始めてすぐ、元治はわたしに金を求めてきた。最初は小遣い銭程度だった。私は言われるままに元治に小遣いをあげた。元治がうれしそうな顔をするのが私の幸せだった。あのころは、本当に彼の喜ぶ顔が見たい一心でお金を上げた。彼が当時からその金をギャンブルに使っていることは知っていた。「俺は競艇の神様や」と彼はいつも豪語していた。彼が競艇の神様かどうかはわたしの関心事ではなかった。ただ、そう発言するときの彼の生き生きとしたまなざしが好きだった。

この8年間、そんな幸せな気持ちが持続してきたわけではなかった。元治の金銭の要求はだんだんとエスカレートしてきた。数万円が数十万円になった。数百万円になるまでそんなに時間はかからなかった。わたしが銀行にある他人様のお金に手を付け始めたのはそのころだった。最初は全くの他人様のお金というわけではなかった。当時たまたま定期預金の勧誘をしていた時、ある老人と知り合った。老人はわたしにとても好意をしめしてくれ、どんどん預金をしてくれた。わたしは、あろうことか、この老人の預金を、偽造証書をつくって引き出してしまった。最初は数十万円だった。一回きりのつもりだった。そしてすぐに返すつもりだった。でも元治の要求に抗えず、それが数回になった。この老人は、勧誘されるまま小切手で銀行に預金してくれた。その入金の都度、わたしは偽造証書でお金を引き出し、元治に貢いだ。最初は、すぐにも口座に戻すつもりだった。元治がそういったから。一発あたったらすぐにも返せる。それが元治の口癖だった。その口癖が、もうすこしだけ何とかならんか? に変わっていった。「じいさんからもっと金引っ張ってこれない?」と逢瀬の際にわたしの耳元でささやいた。その息遣いが今でもよみがえってくる。それはまさに悪魔のささやきだった。老人のほうもだんだんと露骨になってきた。銀行にもっともっと預金してあげるから・・・とわたしに見返りを求めた。わたしは求められるままに老人と肉体関係をもつようになった。張り裂けそうな思いを胸に、わたしは元治のためとがまんして、この老人との逢瀬も重ねた。この老人からは結局数千万円預金してもらい、すべては元治の手に渡った。わたしは元治をよろこばせたかった。でも彼の心はすでにわかっていた。あるとき私は決心して彼に打ち明けた。この老人から金を引っ張ってくるために、この老人と肉体関係を持ったということを。かれはただ一言、「そうか」と言っただけだった。元治の言葉には感情がなかった。その時初めて、わたしは、自分がしてきたことの愚かさに気づいた。しかしもう後戻りできなかった。一度手を付けてしまったお金の帳尻を合わそうと思っているうちに操作した金額が何億円にもなってしまった。すべての金を私は元治に貢いだ。自分のためには一銭も使わなかった。

でも・・・と彰子は思った。わたしはあの時、こう思ったの。騙され続けることにしようと。これから先も、ずっと騙され続けたいって。あたしはいったい何がほしかったのだろう。あの人と一緒にいたかった?別れたくなかったから? あの人と日常を共有したいから?

でも、ほんとは、もうずっとあの人と別れたかったのかもしれない・・・そう彰子は思った。でもできなかったのは、元治と日常を共有してしまったからかもしれない、とそう思った。日常という舞台には、舞台裏という逃げ場がない。だからもうずっとそこに留まっていなければならないのかもしれない・・・そして、ふと元治にとっての日常ってなんだったんだろう・・・とも思った。

私は本当は彼のことは何も知らない・・・と彰子は、はじめてそう思った。

彰子と元治

彰子と元治

彰子は銀行から横領した金を元治に貢いだ・・・ 掌編小説です。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-19

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