みかんジュース

 朝起きたら、泣いていた――まあ、そういう話です。

 目覚まし時計の、ベルの音。
 目を開けると私、何故だか泣いていた。
 こういう時は、おそらくきっと、こんな夢でも見たのだろう。


 病室で、お母さんはマンガ本を読んでいた。
 お母さんは私に気付くと、枕許にマンガ本を閉じて置き、
「いらっしゃい、マユ。ずいぶん、久し振りね」と、はっきりこけた頬で、微笑んだ。
 私は、後ろ手でそっと戸を閉めながら、
「来ちゃった」と、恥ずかしがる。
「じゃあ、突っ立ってないで、こっちいらっしゃい」
 そう言うと、傍らの丸椅子をぽんぽんっと叩いてみせる。
「……うん」
 静かに私、お母さんの許へ。
 そうして丸椅子に腰掛けようした私の目に映ったのは、ベッドの反対側――黒いエプロンドレスの、ショートボブの女の子。
 床に腰を下ろし、壁を背もたれにして、熱心にマンガを読んでいる。
 それは、幼い私――四つの私だった。
「マユ?」
 小首を傾げるお母さんに、
「……何でもないよ」と言って、私は丸椅子に腰をおろす。

 お母さんは、とうの昔に死んでいる。
 享年、二十九。
 そうして、今の私も二十九。
 私は、だから物心ついた状態でお母さんと話した事はなく、全く何を話して良いのか、分からない。まさか同年代の友達とするように話せる筈もなく、ためらううちに、沈黙……。

 ぱらり――四つの私の、ページを捲る音ですら、病室内には大きく響く。

 とりあえず何か話題を見付けないと、とおろおろする私に、
「うめぼしは、どう? ちゃんと食べられるようになった?」と、不意にお母さん。
「うめぼし?」 
「忘れた? あなた、大人になったら食べるって言ってたじゃない」
「……ああ!」 
 私、思い出す。
「言った。私、確かに言ってた。思い出した」
 あの頃の私は、酸っぱいものがてんで駄目だった。それで言い訳で、大人になったら食べるって、いつもお母さんにそう言って、困らせてた……。
「食べれるよ。私今、大人だし」
 さも当然とばかりに、私。
「じゃあ、みかんは? あなたみかん――みかんジュースも駄目だったでしょ?」
「みかん、ジュース……」
 それは、嫌な思い出。
「いつだったかしら、私がみかんジュース飲んでたら、あなたちょうだいちょうだいってうるさくて……。酸っぱいよって言ったのに、大丈夫って言うから渡したら、あなた口にしたとたん、ふふっ、悪役レスラーの毒霧みたく、ブーって噴いたでしょ? それからあなた、わんわん泣き出して――」
 そこまで言って、お母さんは思い出し笑いする。
「あれは――」
 記憶を、辿る。
 あの時、確かお母さんは白のブラウスに、マキシ丈のベージュのプリーツスカートを合わせていたっけ。そうして、みかんジュースを美味しそうに飲んでいた。
 その時、私の手にはバナナジュース。私はいつもバナナジュースを飲んでいた。
 だけど、お母さんが、あんまり美味しそうにみかんジュースを飲んでいたものだから、私も飲んでみたくなったのだ。
 それで私はお母さんにせがんだ。
 お母さんのプリーツスカートに張り付いて、ちょうだいちょうだいって、せがんだ。
 お母さんは、マユちゃんには酸っぱいよって言ったけれど、それでも私があまりにせがむものだから、遂に根負けし、膝を折って、みかんジュースを差し出してくれた。
 けれど、ストローで一口吸い込んだとたん、私はあまりの酸っぱさにびっくりして、みかんジュースを思いっきり噴き出してしまう。
 そのせいで、お母さんの真っ白なブラウスがみかん色に染まってしまい、それで私は、大泣きしてしまったのだ……。
「……お母さん、私今、いくつだと思ってるの?」
「いくつ?」と、間髪入れず聞き返す。
「女性に普通、それを聞く?」
 お母さんは、子供みたいにくすくすと愛らしく笑う。
 そんな姿が見れて、私はなんだか嬉しかった。
 きっと私は、こういうお母さんの姿を見たかったのだろう。
 だからこそ、私はこんな夢を――。
 けれど、不意にそれは悲しいほど、自然に咳へと取って代わる。 
 私は、苦しそうに咳き込むお母さんを前にして、ただおろおろするばかりで、大丈夫の一言も出て来なかった。
「大丈夫?」
 そう、お母さんに声を掛けたのは、四つの私。
 マンガ本から顔をあげ、大きな瞳で、心配そうにお母さんを見ている。
 お母さんは、呼吸を整えながら、
「……うん、大丈夫、何ともないよ。マンガ、面白い?」
「うん」
 それで思い出したのか、四つの私はマンガ本に視線を戻す。
 お母さんの様子、大分落ち着いてから、
「大丈夫?」と、やっとで私。
「そんな泣きそうな顔、しないの。マユはもう、大人なんでしょ?」
 そう、今の私は、大人だった。
「うん、もうお母さんと、同じ歳」
 それが悲しく、辛かった。
「じゃあ、なおのこと、しっかりしないとね」
 私は、それに答えず、
「若いね、二十九って」と言った。
「そうかしら?」
 お母さんは頬を撫でながら、
「お肌はとっくに曲がり角」と、冗談で返した。
 爪がぼろぼろの、その指先。もう、お肌云々じゃないだろうに……。
 けれど私は、
「だねっ」と、笑って同意する。
 お母さんは、今度は咳き込まないよう注意深く微笑すると、それから、四つの私の頭を撫でる。その痛々しい手で、とてもとても、いとおしむように。
 けれど四つの私は、そんなお母さんの手を、迷惑そうに払いのけ、
「もー、なに?」と不満げな顔をする。
「……お母さんね、癌なんだ」
 ひどく、何でもないことのように言う。
「がん? がんてなーに?」
 無知で無神経で、無邪気な子供――四つの私。
 私はその頬桁を、出来るなら力一杯ぶってやりたかった。
 けれど、私と私の間には、お母さんの横たわるベッド。
 お母さんは、小リスのように首をかしげてみせる四つの私に向かって微笑むと、   
「マユちゃん、ジュース飲みたくない?」
「飲みたい!」
 間髪入れず、バカみたいに四つの私。
「だって」と、お母さんは私を見る。
 私は、ふうっと息を吐き、気持ちを整理する。
 そうして財布から、百円玉を一枚取り出した。
 ふと見ると、年号は平成22年。
 我が夢ながら、ディテールがいい加減、と苦笑する。 
「おばちゃん?」
 いつの間にか、ベージュのマキシ丈のプリーツスカートに、四つの私がへばりつき、私を見上げていた。
「おば、ちゃん?」
 思わず、顔が歪む。
「お姉さん」と、訂正したのはお母さん。
「二十九は、まだまだお姉さん」
 ことのほか、お母さんは『二十九』を強調する。
「はい、言ってごらん。おねえさん」
 あまつさえ、繰り返させる。
「おねえ、さん?」
 そう言って、私を見上げるその顔は、どことなく納得しかねるといった表情。
 私は黙って百円玉を、その小さなてのひらに握らせた。 
「ありがとう、お姉さん」
 とたん、四つの私ははじけるように笑い、真っ白で並びの綺麗な歯を見せる。
 全く、我ながら現金な子。
「自販機の場所は、分かってる?」と、苦笑しながら私。
「うん」と答えるが早いか四つの私、もう、病室の戸を開けて、廊下を右に走った。 
 病室を出て、廊下を右。
 突き当たりに、エレベーター。
 その傍らに、それはある。
 そこできっと、あの百円玉は紙パックのバナナジュースに化けるのだ。
 開けっぱなしの病室の戸を閉める私に、
「やっとで、ふたりっきりね」と、お母さん。
「何、考えてるの?」と、私は冗談を言いながら、振り返る。
 けれどお母さんは、真面目な、それでいて悲しそうな顔をしていた。
「……お母さんね、癌だったんだ。肺癌」 
 指先で、真っ直ぐ伸びる黒髪をもてあそびながら、お母さん。
「……うん」
 遺影のお母さんは、はっきり癖毛。
 私もそれを受け継いでいる。
 だからその髪は、かつらなのだ。
 抗癌剤の、副作用。
「……知ってるよ。お父さん、だからタバコやめたんだ。未だに、吸ってない。以前は、あんなにばかすか吸ってたのに。……全く、今さら遅いよね」
「……あなたの為を思ってでしょう?」
「だったら、もう少し痩せて欲しいな。お父さん、タバコやめたせいで、これから二十キロくらい太っちゃうんだから。一緒に出掛ける時、少し恥ずかしい」
 二人して、静かに笑う。
「……今のこの時間が、どんなに大事で貴重な時間なのか、今の私はよく分かる。けれど、あの頃の私、四つの私は、何も分かってなかったな。病室で夢中にマンガなんか読んでて、今だって、ジュースジュースって――ほんとバカみたい。バカみたい、だけど――」
「だけど?」
「今の私より、ずっと立派だね」
「……そんなことないよ」
 お母さんは、左右に首を振ってくれる。
「……でも、さっきだって――お母さん咳き込んだ時、私お母さんに、何も声かけてあげられなかった。ただびっくりしておろおろするだけで、だけどあの子は――」
「マユ――」
 お母さんは、私の言葉を遮った。
 それから、優しく、諭すような口調で続けた。
「あの子は――言わばあなたの理想なのよ。あの時こうあるべきだった――ていうね。何故ならこれは、あなたの見ている夢なんだから。理想と比べたって、仕方ないでしょ?」
「それは、そうだろうけど――」
「それから、さっきから気になってたんだけど、あなた自分のこと、ちょっと美化しすぎ」
 お母さんは、くすくす笑う。
「え?」
「四つの時のあなた、あんな可愛らしい服なんか、絶対着なかったじゃない。私は、まさにああいうフリルの一杯付いた、女の子らしいお洋服、あなたに着せたかったのにな」と、お母さんは何だか恨めしそうに言う。
「そう、だっけ?」
「そうよ。あなたいつも男の子っぽい服装で、だからいつも男の子に間違われて。膝小僧は擦りむくは――普通に鼻だってたらしてたんだから」
「は、鼻って、それは嘘だあ」
「ほんと。あっ、思い出した。歯だってそう、あれは嘘――」
 お母さんは、嬉々とした表情で、矢継ぎ早に私の嘘を指摘していく。まるで、間違い探しでも楽しむように。
「歯?」
「そう、歯――歯並び。四つの時のあなた、もっと透きっ歯だったんだから」
「で、でも、今の私は、歯並び綺麗なほうだよ――」
「だからよ。子供の歯と大人の歯で、本数が違うでしょ? だから子供の時はむしろ透きっ歯なほうが良いの。それはしっかりあごが発達している証拠。大人の歯の生えるスペースがあるってこと」
「へえー」と、私は素直に感心する。
「それにしても――」
 お母さんは、私をじっと見つめる。
「何?」
「そんなだったあなたが、今じゃそんな格好するだなんてね――」 
 しみじみ言う。
「似合わない?」
「ううん、とっても素敵、良く似合ってる。そのブラウスの襟元のフリルも、マキシ丈のプリーツスカートも、まさに私好み」 
「……当たり前だよ」
 小さく呟く。
 今、気が付いたけど、私のこの格好、あの時のお母さん――私がみかんジュースを噴き掛けてしまったあの時の、お母さんの服装そのものなんだから。  
 ガラッと、病室の戸が開く。
 四つの私が戻って来た。
 出て行った時と、全く同じ姿のままで。
 結局、私の理想補正は解かれてなかった。
 けれど、その手にあったのは、紙パックのみかんジュース。
「マユちゃん、バナナジュースじゃないの?」と、お母さん。
 私と同じ疑問を、ぶつける。 
 四つの私はもじもじしながら、
「お母さん、みかんジュース好きでしょ? だから、はい、あげる」と言って、両手でみかんジュースをお母さんに差し出した。
 ああ、この子は――幼い私は、どこまでもどこまでも私の理想そのものだ。
 羨ましくって嫉妬して、その頬をぶってやりたくなるほどに、いとおしい。
 だけどそんなマユちゃんの申し出を、
「気持ちだけ、ありがとう。だけど、私は良いの。マユちゃん、どうぞ飲んでちょうだい」
 お母さんは、やんわりお断りする。
「え?」と、マユちゃん。
 お母さんは、意地悪そうに笑ってる。
 マユちゃんの表情に、はっきり陰が差していた。
 ここに居る、誰もが知ってる事実。
 マユちゃんは、みかんジュースが大の苦手。
 だから、その顔は今にも泣きそうだった。
 そんなマユちゃんを見ながら――ああ、そうか、そう言うことなんだ、と私はこの夢の意味を理解する。

 私の今の格好。
 マユちゃんが、みかんジュースを買って戻って来たこと。
 二つが繋がった。
 そうして、私がこれから何をすべきかも。

「マユちゃん」
「なに?」
 半べそかいているマユちゃんに、
「そのみかんジュース、良かったらお姉さんにちょうだい。かわりにハイ、もう百円あげるから、好きなの買って飲んで良いよ」と、私は百円玉をもう一枚差し出した。
「本当? ありがとうお姉さん」
「どういたしまして」
 マユちゃんは、私から受け取った百円玉を眺めながら、
「何か、お礼がしないと――」と、呟く。
「いいよ、そんなの」
 だけどマユちゃんは、ちょっと考えて、それからパっと晴れやかな表情で、
「そうだ。お礼に私の頬、お姉さんに一発ぶたせてあげる」と、言った。
「え?」
「だってお姉さんは、ずっとそうしたかったんだよね?」
 四つの私は、にこりと笑う。
「そんなこと……」
「……分かるよ。だってお姉さんは、大きな私。大人になった私なんだから」
「あ……」
「つまり今の私は、あなたの理想で創られている。許せなかったんでしょ? 今のあなたは、この時の私自身を」
 私は、笑った。
 全くこの子は、本当に私の理想そのもの。
 私は、この時の私に、きっと本当は、こう言いたかったのだ。
「そんなことないよ」と。
 私は、つまりこの時の私を――自分自身を許したかったのだ。
「本当に?」と、念を押す四つの私。 
 そんな四つの私の頭を、私はさっきお母さんがしてみせたように、優しく撫でる。
「くすぐったいよ」
 そう言うけれど、拒まない。
 まるで日溜まりの中で丸くなる猫のように、四つの私はなすがまま。
 私は、きっと本当は、こうされたかったんだ。
 一頻り撫で回し、そっと、その手を戻す私。
「もう良いの?」と、四つの私。
「うん。もう、目覚ましが鳴る時間。それに私、最後にやることがあるから」
「そっか。じゃあ、頑張ってね」
 そう言って手を振ると、四つの私は病室の戸を開けて、廊下を右へと走って行く。

 ――頑張ってね、か。

 さすが、私自身。
 これから私がすることは、お見通し。
 やっぱり、開けっ放しにされた戸を閉めながら、私、一つ気合いを入れてから、振り返る。
「お母さん!」
「うん?」
 四つの私から託された紙パックのみかんジュースを、私は印籠みたくお母さんに突き付ける。
「いい? ちゃんと見ててよね」
 私は、紙パックにストローを挿すと、お母さんの前で、みかんジュースを一気に吸い込んだ。
 やっぱり、みかんジュースは酸っぱくて、目に、涙が浮かぶ。
 それでも私は我慢して、全部飲んだ。
 今の私が、大人なんだよって、お母さんに証明してあげるため。
「……どう?」と、涙目で私、お母さんを見た。

 だけど、ここで無情にも、目覚まし時計のベルの音――。   


 おそらくきっと、そこで私は目が覚めた。
 これが涙の理由だろう。
 目覚まし時計のベルを止め、手の甲で、涙を拭う。
「マユ、起きなさい。今日部活の朝練でしょ、遅刻するわよ!」
 階段下から、かしましい母の声。 
「はーい」と、私、間延びした返事をする。

 ちなみに私の母、三十九歳。
 息災。
 ついでに私、十三歳。
 中二。

 え?
 みかんジュース?
 私は全然、平気ですけど?  

 あ――でも、お父さんにはもう少し痩せて欲しいってところだけ、本当。

みかんジュース

 以前書いた『何センチ?』と『知ってるの』の続き書いてたら、何故だかこんな話になってしまいました。

みかんジュース

朝、目覚めたら泣いていた。 そんな時は、きっとこんな夢でも見てたんじゃないかな――という話。 6811文字。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-19

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著作権法内での利用のみを許可します。

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