そこにいる

そこにいる

 夜の闇が、そこにもひっそりと訪れていた。
 心もとない月明かりにぼんやりと照らされた、元、旅館。
 長年の雨風にさらされ、また、手入れをする者もなく、いまはただ、当時の面影のない、朽ち果てた建物。窓は割れ、壁は黒ずみ、長い蔦がそこをするすると上り詰めている。三階建ての、山奥にぽつんと取り残された、旅館。
 閉ざされたままの大きな玄関ドアの前に、一組の男女が立ちすくんでいる。
「ねぇ、ツグ。やっぱりやめようよ。わたしこわいよ」
 少年の袖をひっぱりながら、少女が言う。
 高校生くらいの、でもすこし大人びた顔付き。いまは眉を困惑の形にゆがませ、自分の前に立つ少年の背を見つめている。
「なに言ってるんだよ。心霊スポットに行きたいって言い出したのはノゾミじゃないか」
 肩越しに振り返り、少年――ツグが答える。ノゾミよりやや背の高い、小麦色の肌をした少年だ。運動系の部活に入っているのか、頭はさわやかな丸坊主。ときどき吹きくる生温かい、まとわりつくような風にも、その短すぎる髪は揺れることもない。
「たしかに言ったよ。でも、それは場の勢いというか、見栄というか……」
「ノゾミのその見栄のせいでわざわざここまで来たんだ。いまさら後戻りなんてできないよ」
「そんなぁ」
 
 昼休みの教室。生徒たちが思い思いにグループを作り、お弁当を食べている。
 そんなとき、ひょんなことから『夏=心霊スポット』という話題になった。
「ノゾミはそういうの苦手そうだよね」
「ほんとほんと。見るからに怖がりっぽいもん」
 言っては笑う仲間たちに、頬をふくらませたノゾミは必死に抵抗した。
「そんなことないよ! 心霊スポットなんて、わたしにとっては夏の風物詩だよ」
 風物詩とまで言い切ったノゾミに、仲間たちはまず驚き、それからにやっと笑って、
「じゃあ今度、行って写真撮ってきてよ」
 そんなからかい文句に、ノゾミは一度張った見栄をいまさら取り消すこともできず、
「いいよ。さっそく今夜行って撮ってきてあげるよっ」
 言って後悔したのだった。
 
 目の前には、大きなドア。木目の黒ずんだ、閉ざされたままのそれをじっと睨みながら、ノゾミは少年の服の袖をつかんだまま離さない。
「まったく。だからって、なんでオレが付き合わされなきゃいけないんだ」
「だって、女子に頼んだら、あの子たちにバレそうだもん」
 あの子たちというのは、ノゾミをからかった仲間たちのことだ。女子の情報網をあなどってはいけない。同じ女子であるノゾミは、それをよく知っている。
「だったら一人で来ればよかっただろ」
 この旅館は、地元から自転車で一時間強の距離にある。山の中腹に建てられているため、片道だけでもかなりの体力を必要とする。すでにふたりはへとへとだった。
「いやよ、こわいもん」
 嘆息するツグに、ノゾミは即答する。
 ツグは、やれやれと肩をすくめ、意を決してドアノブに手をかけた。
 知らず、ごくりと生唾を飲む。
 ノブを回す。鍵は壊されていて、ドアはすんなりと、しかしギィィ……と嫌な軋んだ音を立てて、ゆっくりと開いた。
 当然ながら、中は真っ暗だった。闇に目が慣れていないせいもあるが、何も見えない。
「うわ、真っ暗だな。ノゾミ、ライト点けて」
「う、うん」
 すでに空いた手に装備していた懐中電灯のスイッチを押す。
 途端、丸く浮かび上がった、荒廃した玄関。
 板張りの床はところどころ剥がされ、情緒を演出すべき調度品の数々は倒され、あるいは破壊され、いまとなっては物々しい雰囲気の演出に一役買っているようだった。
「ほら、ノゾミ。写真撮って」
 ツグに促され、携帯電話のカメラをセットする。フラッシュをオンにして、一枚撮る。プレビュー画面はぼやけていて、分かりづらかった。もう一枚。今度ははっきりと写る。しかし霊の類は見当たらない。ほっとして、先に進んだ。
 この旅館にはさまざまな噂がある。
 経営者が借金を苦にして自殺したとか、火事で何人か死んだとか、いまもなお、怪しい宗教団体がここで何かの儀式を行っているとか……。
 どれもありきたりで、笑ってしまうような噂ばかりだったが、実際にこの場に立ってみると、どれも本当のことに思えてしまう。震えながらきょろきょろと辺りを見回しながら、ノゾミは部屋に入るたびに写真を撮った。
(できれば……ううん、ぜったい写りませんように!)
 祈りながら一枚、また一枚と画像データを増やしていく。
 一階をひと通り回り終えたふたりは、二階に続く階段を上ることにした。
 足元は意外にしっかりしていて、うっかり踏み抜いてしまうことはなさそうだ。
 闇に慣れてきた目で二階を見上げていたツグは、ノゾミを振り返って言う。
「ノゾミ、ちょっとここで待ってて」
「えぇっ?! いやだよ、一緒に行くっ」
「大丈夫。危険がないか、ちらっと見てくるだけだから」
「でもっ……」
「オレが合図したらすぐ上ってこい。いいな?」
 返事を待たずに、ツグは走るようにして、すばやく階段を上っていった。
「ツグ……」
「ノゾミ、いいぞ」
「え? 早っ!」
 あっという間の視察だった。二階にたどり着いたと同時に声がかかった。
 だがノゾミにはありがたいことだ。こんなところにひとり取り残されるなんて、考えたくもない。急ぎ足で階段を上る。途中、脇に古ぼけた大きな鏡があった。見たら良からぬものが映っているような気がして、目をつぶる。すると――
「あ!」
 前に出した足が、階段につまずく。ぐらりと前のめりに倒れるノゾミ。
「あぶなっ」
 転ぶ寸前でツグが慌てて両手を差し出す。そしてしっかりと抱きとめ――なかった。
 ばったーん、と派手な音が鳴って、辺りに霧のような埃が舞い上がった。
 ふたりしてゲホゲホとむせながら、
「なにやってんだよ、ノゾミ」
「ご、ごめん……じゃなくて、助けてくれたっていいじゃない」
「すまん、間に合わなかった」
 しれっと返す、ツグ。
「まったくもうっ」
 口を突き出しながら、肌や衣服についた埃をパンパン払う。そんなノゾミをツグはじっと見つめている。ノゾミは気づかない。
 
 二階、三階の探索を終えた。
 独特のかび臭いにおい。舞い上がる埃。ギシギシと軋む床。荒らされた家具、調度品。心無い若者たちの、スプレーの落書きの数々……。
 それらを震える手で撮影し、現在二十枚ほどのデータが携帯電話にストックされている。
「さぁ、気が済んだかね、ノゾミ君」
「からかわないでよ。ねぇ、早く出ようよ」
「そうだな」
 ノゾミの提案に異を唱える理由などない。ツグはあっさりと頷いた。
 開けられたままの玄関ドア。
 観音開きのそれの片方だけが今も、ゆったりとした風にギィィ……ギィィ……と軋んでは揺れている。
 走るようにして外に飛び出したノゾミは、詰まった息を思い切り吐き、吸い込んだ。
 ぼんやりとした月明かりがやさしい。
 ほうっと息をつき、振り返る。
 しかし、ツグは玄関の向こう――廃墟の中から、じっとこちらを見つめていた。
「なにやってるの、ツグ。早く出てきなよ」
 声をかける。だが、ツグは微笑んで、首を振る。
「オレは最後の仕事がある。ノゾミは帰れ」
「え? な、なに言ってんのよ」
 焦ったように、ノゾミ。ツグは言う。
「お前に憑いた霊を、ここに足止めさせなきゃいけないんだ」
「バカなこと言ってないで、こっちにきなよ。幽霊なんてどこにもいなかったじゃない」
「いるさ」
 微笑んだまま、ツグ。
「もうこんな危険なところ、来るんじゃねーぞ?」
「ツグ……」
「じゃあな、ノゾミ」
 ツグが歯を見せて笑う。
 途端――ノゾミの意識は途絶えた。
 
 
 目を覚ますと、そこは自室のベッドの上だった。
 見慣れた部屋。机、本棚、ぬいぐるみ、ポスター……。
「ノゾミ、早く起きないと遅刻するわよっ」
 ドアの向こう、階下から母の声が聞こえる。目覚まし時計の針は、六時四十分を指していた。
 布団から出ると、パジャマを着ていた。
(夢、なの……?)
 寝起きのぼんやりした頭で、夕べのことを思い出す。
(ううん、夢なんかじゃない!)
 パジャマの下には、かすかに埃がついていた。右腕のひじには、かさぶたができている。階段で転んだときのものだ。
 机に置いてあった携帯電話を開け、データフォルダを見る。そこには二十枚ほどの暗闇の画像が登録されていた。闇の向こうにうっすらと見える荒廃した景色は、忘れられるはずもない、あの廃墟のものだ。
(やっぱりわたし、行ったんだ!)
 眠気も吹き飛び、部屋を出てどたどたと階段を駆け下りる。
「お母さん、お母さん!」
 台所で洗い物をしていた母は声に驚いて振り向き、ノゾミの剣幕を見てまた驚いた。
「どうしたの、ノゾミ?」
「あのね、お母さん! わたし夕べ、何時に帰ってきたか分かるっ?」
「知らないわよ、そんなこと。お母さん、夕べあなたがどこかに出かけてから、すぐ寝ちゃったもの」
 困った顔でかぶりを振る母。火にかけていたやかんがピーッと鳴って、ガスを止める。
(そんな……。じゃあわたし、一体どうやって帰ってきたというの……?)
 廃墟でのツグの顔を、そして言葉を思い出す。
「じゃあ、ツグが運んでくれたのかな……」
 ぽつりとこぼした言葉に、母はなぜか哀れむような微笑みを向けた。
「ねぇ、ノゾミ。いい加減、ツグミチ君のことは思い出にしたほうがいいわよ?」
 母を見やるノゾミ。
「思い出って、どういう意味?」
「そのままの意味よ」
 母は返す。
「ツグミチ君が事故で亡くなって、もう一ヶ月以上たつじゃない。ノゾミと仲が良かったのはお母さんも知ってるけど、それでもあの子はもう天国に行っちゃったのよ? あなたがしっかりしないと、ツグミチ君もあっちで心配しちゃうで……」
「ちがう!」
 弾かれたように、突然大声を上げるノゾミ。
「ツグは死んでなんかいない! だってわたし、夕べツグと……」
 思い出す。
 自分は本当に、彼の服を掴んでいたのだろうか。
 思い出す。
 なぜ彼は、ノゾミを置いて、先に階段をのぼったのだろうか。途中、脇に鏡があった。彼がそれに映らなかったのだとしたら……。
 思い出す。
 つまずいたノゾミを、彼はなぜ助けなかったのだろうか。手を差し出せない距離ではなかった。彼が物を掴めないのだとしたら……。
 思い出す。思い出す。思い出す……。
「だ、だってわたし、ツグと……」
 顔を真っ青にして、ノゾミはその場にしゃがみこんだ。母が慌てて駆け寄る。
「どうしたの、ノゾミ。具合でも悪いの?」
「わたし、わたし……」
 
 ――お前に憑いた霊を、ここに足止めさせなきゃいけないんだ。
 
 ――もうこんな危険なところ、『来る』んじゃねーぞ?
 
 
 教室に入ると、すぐに仲間たちが出迎えてくれた。
 一様に興味津々といった顔付きで、まっすぐにノゾミを見つめている。
「分かってるよ。はい」
 携帯電話の画像データ一覧を開いて渡す。
 仲間たちは「すごい、ほんとに行ったんだ」「うわ、マジすごいよ、これ」「これってオーブ? 埃?」「見直したよ、ノゾミ!」なんて口々に言い合いながら、わーきゃーとデータを眺めている。
 そんな彼女たちから離れ、ノゾミは自分の席にかばんを置いて座った。両手で頬杖をついて、大きなため息をひとつ。教室の喧騒は今日も相変わらずで、しかしノゾミにはそれがどこか遠い風景のように感じられた。
(ツグ……)
 一ヶ月前、ツグは死んだ。
 野球部でレギュラー入りを目指していた彼は、人一倍努力していた。丸坊主に野球帽。学校も部活も休みの日だって、彼はひとりで走って、素振りをして、筋トレをしていた。
 その日も彼は遠くまで走って、へとへとになって帰っていた。足が重く、思うように歩けなかった。
 横断歩道で、信号を無視した車が飛び出してきた。彼は一歩も動けなかったらしい。
(でも、ツグは……)
 たしかに昨夜、ツグはノゾミと一緒にいた。
 誘った覚えはない。気がついたら当たり前のように――いつものように、隣にいてくれたのだ。
 うるんだ目をごまかすため、さりげなく上を向いた。
 目を閉じる。
 まぶたの裏には、にっこりと微笑むツグがいた。
(ツグ……)
 そのとき。
「きゃあ! なにこれっ」
 離れた位置で携帯電話を取りまいていた仲間たちが大きな声を上げて、ノゾミのもとに走り寄ってきた。
「ノゾミ! ここ、なにか写ってるよ!」
 目を見開いて、気持ち悪そうに携帯電話を差し出す仲間たち。ノゾミはその画面を覗きこんで――
「ぷっ!」
 思わず吹き出した。
 そこには――
 
『がんばれ』
 
 撮った覚えのない、最後の一枚。
 玄関先でガッツポーズをとる人影と、観音開きのドアに書かれた、行ったときはなかった落書きが写っていた。ぼんやりと写る人影の、丸坊主の頭。
「あははは!」
 堪えていた涙が、どっと流れ落ちる。
 そんなノゾミを、仲間たちは心配そうに見つめている。
「あはは、がんばれって……何をどうがんばるのよ……」
 涙は止まらない。溢れては流れ、流れては落ちる。
 ツグはいた。たしかにいたのだ。怖がるノゾミを支え、最後まで一緒にいてくれたのだ。
「ありがとうね、ツグ……」
 
 翌日にはもう、その画像は消えていた。いつの間にか、すっと消えてしまった。
 あれがツグからの、最後のメッセージだった。
「また心霊スポットに行ったら、ツグに会えたりして……」
 そんなことをつぶやくと、どこかから「もう来るなって言っただろ!」なんて声が聞こえてくるような気がして――
「うっそだよん」
 さもいじわるそうに笑うのだった。

そこにいる

そこにいる

「心霊スポットなんて、わたしにとっては夏の風物詩だよ」

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-18

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