最終章 亜季・・・大人になれなくて

大人になりたいですか?

 大人になりたいですか?

  夢は時に興奮を伴う。はやる心は時間の流れがもどかしく時を追い越す。ましてこれまでいつも自分の迷いに振り回されていた人にはその反動が大きい。

出発を3日後に控え亜季は未知の世界への期待を毎日少しずつふくらませ以前は胸を掠めた不安も今では忘れ去られていた。

大人への階段ははばたく翼と自由に飛ぶ強さを亜季に与えた。
ただそこには日々の安定した生活を求め賢く生きる知恵はまだ存在していない。

人は誰でもある瞬間真逆の感情を自分という一つの心の中に抱え込む。多分その真ん中を歩けば摩擦の少ない穏やかな人生が送れるのではないかとうっすらと感じてはいる。
でも、たいていの場合心はどちらかに傾くものだ。そして振れ過ぎた振り子が人生の方向を決定ずけてしまうという神様のいたずらが舞い降りてきた人。それが今の亜季かもしれない。


 あれほど気になっていた母の反応はあまりにもあっけなかった。穏やかでしかも笑顔までそえて
「そう。決めたことなら仕方ないわね。」の一言。

父はいつもの事だが母がいいといえば反対はしない。子育てというある種の難行を長年母に任せてきた以上それが自分の役割と心得ているのだろうか。

いずれにしても母の言葉で亜季のピンと張りつめた緊張は解け,あとはただ・・必ずジャズピアニストとして成功と栄光を手に入れる・・という一つの道だけが残った。

一つの願い、一途な思い・・・それも悪くはない。ただそんな思いに駆られた人の周囲にはそれを危ぶみ、心配する人達が出てくるものだ。


母は今こう思う。
(人生が一本道なんてあり得ない。この子はもともと繊細すぎる。そのくせ頑固。
亜季・・・あなたが抱えた人生はあなたを強くするのかそれともあなたを壊してしまうのか・・・?
本当はね言いようのない心配が私の中で渦巻いているの。きっと少し前の私だったら猛反対。親の心配とあなたの為という名のもとにね。でもあなたは気がついているのよね。親がそんな事を言う時には意外と親の安心を優先させていると。
そう・・・確かにそれもまんざら間違ってはいない。でもね、本当にあるのよ。辛い人生を生きてほしくはないとか幸せになってほしいという思いは。
ただ亜季の人生は亜季が歩く。あなたが選んだ仕事は私にはまるで想像のつかない世界だから何もしてあげられないけど・・・どうか繊細な優しさと寂しさはなくさないでほしい。何故ならそれがあなたの最大の良さであり、時には最大の武器にもなるはずだから。最近の亜季は強くなったようだけど・・・これまでの亜季を否定せず前を見て歩きなさい。)

こんな母の気持ちをもちろん亜季は知らない。時を追う人は他人の心を置き去りにしがちなものだ。


 出発の日。空港に向かう車の中で父が亜季の目を見る事もなく言った。

「向こうではきっとたいへんな事がいっぱい待ち受けているんだろうけど・・・たまには連絡するようにな。あまり我を張りすぎるな。人生に方向転換はつきものだし。まあ・・・応援はするけど。」

これが父の心配と励ましを込めた言葉だったがもはや亜季の心はもうここにはない。ずっと遠くニューヨークに飛んでいる。だから返事もどこかそっけない。

「うん、わかってる。でも簡単には諦めない。向こうには大学の先輩も結講いるし生活はなんとかなる。あとは・・・どうやってこの世界に自分をアピールするか・・・今考えなくちゃいけないのはそれだけなの。よけいな事に時間と気持ちを使いたくないし。」

何気なく言った言葉が父には寂しく響く。二人の会話を黙って聞いていた母は窓の外の景色を見ながら小声でささやいた。
「あなたは何かを落としてしまってる・・・早く気が付くといいけど。」


 空港に着き搭乗の為のお決まりのコースをおえれば後はロビーでの別れがあるだけ。亜季を見送る為に何人かの友人と朝香と丈。

亜季の姿を見るとこの日の為にわざわざ日本まで迎えに来た丈が父や母に挨拶をする。何故彼がここまで来てくれたのか父や母は知らない。

そもそも亜季自身その意味をわかっていない。

丈はといえば・・・そう、頼まれたわけではないがただ亜季への思いに心の向くまま行動してしまったというところだろうか。
丈の中では頼りない亜季を未知の土地で支えていくのは自分だと思い始めていたのは確かだったのだから。


亜季と朝香はスッポリと深いソファーに腰をかけ話込んでいた。

「本当に行くんだ。・・・なんか信じられない。だって、亜季がこんな決断をするなんてさ。向こうに私はいないからね。大丈夫かな?」

「電話もできるし、インターネットならテレビ電話で顔も見られるし。まあ、すぐに生身の朝香に愚痴を言えないという不便はあるけどさ。
でも朝香だってそのうち子供でもできたら私どころじゃないでしょう。今日は朝香からの独り立ちの記念日かも。」

そういうと亜季の顔にはにかみがよこぎる。朝香は少し離れた場所で亜季の両親と話す丈に目をやった。

「ところで先輩なんで来たの?ニューヨークからでしょう。で、また亜季を連れてとんぼ返り。んんん・・・かなりだね。やっぱりジャズ研の噂は確かだった。亜季は・・・どうなのよ?結婚とか考えてる?」

朝香の質問に亜季が目を丸くした。
「まさか!もちろんいい人だし、今は頼りにしてる。でも恋とか結婚とかそんなの考える余裕はないもん。先輩だってわかってるはず。それにね私の好みの顔じゃないの知ってるでしょう?私はこれからは・・・仕事も恋も妥協しない。決めたの。」

そう言い切った時の亜季の表情が誰かに似ていると朝香は直感した。
(誰だっけ・・・?エリカ?なんだか亜季の元気は空回りしそう。)


その時だった亜季の前にエリカが立った。
エリカを前に亜季も立ちあがり二人の別れの前の会話が流れだした。

「来てくれたんだ。ありがとう。」

「これが最後になるかもしれないでしょう。まあ、向こうで成功すれば同じ世界で顔を合わすことはあるかもしれないけど。でも・・・私は・・・もしかしたらこの仕事やめるかも。淳の仕事優先かな。」
そこにはもうかつてのエリカはいない。

「そうなの?・・・いい奥さんになるの?」

「いい奥さんかどうかはわからない。でも、ふたりでひとつの夢を追うのも悪くないかなと少し思いはじめてる。」

「・・・やめてしまうのは残念だけど、エリカの人生だから。まあ、私は必ず成功の芽を持って戻ってくる。」

「頼もしいわね。」

この二人の会話には以前とは違う空気が流れていた。
亜季がエリカで、エリカが亜季になってしまったような妙な空気。

「でも、暫くは続けるんでしょう?新しいピアニストは見つかった?」

「そうね、とりあえずのところはね。ただ・・・あなたとのようなバランスというわけにはいかないけど。」

その時のエリカの表情に朝香は寂しい優しさを見ていた。
(この心もとない優しい空気は亜季のものだったのに・・・なぜか今この二人は入れ替わってしまったみたい。)

亜季も二人の間に今までとは違う緊張を感じていた。
(あれほどこの仕事での成功を熱望していたはずなのに。)
妙な話だが裏切られたような感情が亜季の中を通り抜けていった。
「なんだかエリカは変わったみたい。あの強くて、したたかなあなたはどこに行ってしまったの?」

エリカの口元に笑みがこぼれた。

「そうね。自分でもこんなの想像もしなかった。でもね・・・人生って一つの道だけじゃないのよね。こだわりだけじゃ欲しいものは得られな気がしてきて。まあ、とにかく頑張って!」
エリカの顔はいつになくすがすがしい。亜季にはそのすがすがしさが亜季が得た強さにも増して力強く見えていた。

エリカは亜季に軽く微笑むと母のところへと向かった。

亜季はエリカの背中を見ながらかつてあれ程大人で、魅惑的で恐怖までも抱いた時間が虚しいと感じていた。それなのになぜか揺れる心を抑えつけしのびよる疑問にしっかりとふたをしていた。


  搭乗案内のアナウスが響く。

「亜季、大丈夫?・・・戻って来た時は必ず連絡してね。」
その一言にはいつもの朝香の優しさが詰まっていた。

父と母、朝香、幾人かの友達に見送られ今丈がの手荷物をさりげなく持ち亜季の手を引いた。

父の少し寂しげな笑顔。
母の心配を含んだ穏やかな笑み。
朝香の切なさを込めた表情。
すべてが亜季を受け止める。その横を亜季は振り返らずすり抜けて行く。

遠くでエリカが静かに見送る姿を見て一瞬足を止めたものの何かを振り切るように心を夢へとつなぐ。

亜季の背中を見送る母の口から言葉がもれた。
「亜季は・・・これから始まるのかしら。どんな大人になるのかしら?」

その横で朝香が母の言葉に応じるかのようにささやいた。

「どんな大人?・・・迷う大人でいてほしい。勝手だけど。」


 夏の太陽が亜季の心を熱くするのか夢だけが心を満たす。おそらく今の亜季に彼らの心は届いていない。でも青く晴れわたった空にも白い雲がいずれ浮かぶ。亜季は空を見上げて雲を探した。ついこの間まで亜季は空を見上げ流されていく雲を追うのが好きだった。流れていく雲が自分の迷う心のようで。

遠くに白い雲が真綿のようにやさし気に浮かんでいる。その亜季の姿を見て丈が言った。

「亜季は本当に空を見るのが好きだね。それとも雲?」

しばらく黙ったままの亜季がポツンと言った。
「雲は嫌い。雲が好きだった私はもういない。」

そう言うと亜季は丈の手を静かに払い独り前へと歩きだしていた。

最終章 亜季・・・大人になれなくて

最終章 亜季・・・大人になれなくて

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-17

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