スペースソルジャーズ〈10〉
原案 田頭満春
兵器考証協力 岡村智教
ページの途中に複雑な科学式が展開されるようなハードSFではありません。そもそもそんなもの書けません。スペースオペラです。大宇宙を駆け回る宇宙船と、武器を手に走り回るヒーローヒロインが、己の肉体のみを頼りに活躍する、純然たるスペオペです。
『スターウルフ』シリーズや、『ノースウェスト・スミス』シリーズなどを思い浮かべて頂ければわかりやすいかも知れません。
宇宙船や超兵器も登場しますが、あくまで主役は人間です。笑い、泣き、怒り、叫ぶ主人公たちの活躍を読んで頂けたらと思っています。ジャンルはSF冒険アクション、ですが、もう1つ付け加えることが許されるなら、「青春」小説にもなり得ているという自負もあります。
故・野田昌宏氏にこの作品を読んで頂きたかったと、心から思っています。
第4章 別れる
(1)
スプリッツァ、ラスキーン、レスサットⅣの3隻は、小惑星帯から星系の外に出て待機していたバートラム・サンダー、プワンソン号と合流した。
作戦発動から14.7時限が経過しようとしていた。
マキタとエレナはレスサットⅣからスプリッツァの医療室へと移された。
肝臓に溜まった自白剤などの毒はあらかた排出し終えていた。2人に皮膚に残った傷を赤外線系の治療ビームで乾かす作業と、自動オペ装置によるマキタの切られた腱、潰された左目、壊疽を起こした左肩の手術が行われた。切開した左肩からは、大量の膿とともに砕けた骨の欠片が幾つも転がり出た。セラミックの人工骨を組み込み、切られた腱は生体反応樹脂の糸で縫い合わせたが、完全に本来の骨に馴染み、ちゃんと筋肉を引っ張れるようになるには、もう数時限を要するだろう。
左目は治療、回復ともに不可能だとわかった。傷が癒えれば義眼を埋め込むことは可能だが、肉眼の与えてくれた独特の勘までを取り戻してくれそうにはなかった。
それに、あの少年の輝きも…。
「ま、仕方ないだろうな」コイケが言った。「もう片方は無事だった。そもそも命があっただけでも儲け物なんだ」
マキタも苦笑交じりに頷くしかない。
マルカム、ルスト、そしてアリーゼ・サロイが、スプリッツァの狭い医療室に集まってきた。
アリーゼは入ってくるなり、マキタの病床横に跪き、彼の右手を握り締めた。彼女の方は完全に回復したようだ。血色もよく、肌には艶が戻り、輝くばかりの笑顔に医療室の照明も明るさを増したかとも思えた。
彼女の看護のお陰で、カラバももう船を操るくらいまでには回復したらしい。女神様手ずからの看護だ。元気にならないわけがなかった。
だが…、
「マードックは…?」
マキタの言葉に、アリーゼは顔を伏せた。ルストの肩は震えた。その意味するところを先に悟ったのはコイケだった。
レイバーは、保たなかった…。
マキタはそれを信じようとしなかった。コイケが経緯を説明しても、それを事実として受け容れるのを拒んだ。それでもコイケ、アリーゼ、マルカムたちの表情に、それが避け難い事実であることを察した。オスカーまでもが沈痛な表情で俯いているとあっては…。
そう、コイケはスプリッツァ保管庫のありったけの血漿製剤を、レイバーのために置いて行った。レイバーはその使用を拒んだのだ。マキタが怪我をして帰ってきた時のために。
果たして、マキタは尋常ではない状態で戻ってきた。ルストが血漿製剤を戻しておいてくれなければ、手術も危なかったかも知れない…。
マキタは怒り、荒れ狂った。
未だ続く発熱も、手術後の痛みも、全部忘れて暴れた。身体を繋ぐチューブを引っこ抜き、薬台を蹴飛ばし、肩を固定するギプスを砕かんばかりの勢いだった。アリーゼを払いのけ、マルカムをも突き飛ばしたマキタは、アントランを連れてこいと絶叫した。手足の自由も利かないくせに、遂には立ち上がろうとさえした。
そのマキタを、包帯で巻かれた右掌だけで、コイケが制した。
気持ちはわかる…、コイケは目で言った。俺だって同じ思いだ。アントランをこの手で八つ裂きにしてやりたい。だが、この先証人になるだろうあいつを、ここで殺すわけには行かない。
それに、ルストたちが耐えているのだ。
バートラム・サンダー内にアントランを拘束しながら、何も出来ない彼らの気持ちも汲んでやってくれ…。
コイケの沈痛を読み取ったマキタは引き下がるしかなかった。
「とにかく、生きてて何よりだぞマキタ」マルカムが言った。マキタたちの帰還を、その場にいた皆が喜び合おうとした。しかし、寒々しい印象は拭えなかった。今ここにいる筈の顔、ともに歓びを分かち合う筈の顔がいない。レイバー、クエンサー、ソール、部下たち…。
誰もが半ば覚悟し、誰かがその運命に遭遇するとはわかり切っていたとは言え…。
「…でもな、とにかく終わったんだ」マルカムは声を殺して泣いているルストの肩を優しく叩いた。「クエンサーも言ってたじゃないか。俺たちは誰にも為し得ない仕事をやり遂げたんだ。それは素直に喜ぼうじゃないか。レイバーだって許してくれるさ」
男泣きに泣いているルストが頷いた。そしてコイケ、オスカーも。
マキタも頷き、ルストに謝り、上体をベッドに戻した。オスカーが各種チューブをその身体に繋ぎ直した。アリーゼが微笑みを浮かべ、もう1度その手を握った。
馴れ馴れしい態度…。
隣のベッドから、まだ少し残る熱のために潤む目で、エレナはアリーゼを見つめていた。
目覚めたアリーゼと会うのは初めてになる。飾り気のない人、でも女のあたしから見ても、とっても綺麗な人。
この人の妹なら、サビア・サロイって人も、きっと綺麗な人なんだ…。
でも、本当に馴れ馴れしい。マキタの手を、胸になんか抱き締めて、あんなに顔を近づけて…。妹さんの恋人だから?
それだけとは思えないわ。
自白剤の抜けた筈の神経がささくれだっているのがわかった。胸の奥を掻き毟られるような気がした。アリーゼを見つめる目が自然と険しくなるのが、自分でもわかった。かつてマイスコルの側にいたルイーザに感じた、いや、それ以上の苛立ち。気づかれたらどんな顔で見つめ返されることやら。
それでも、抑え切れなかった。そして抑えたくも、なかった…。
「…エレナの回復具合を見ながらだが、ひとまずタイラント星系に向かう。開放機構の面々を下ろさなきゃならん」コイケがエレナを見た。「それでいいんだよな?」
エレナは慌てて頷いた。
「それよりリッキー、さっきの話だ」マルカムが訊いた。「お前、こうなることを見越して、サビア・サロイに護衛をつけたのか?」
「見越してたわけじゃない」コイケはアリーゼにも語った、ギーンでの一連の出来事を簡略に話した。成程、それでか…、と唸るマルカムに笑いかける。「用心深くなっておいて、損をした試しがないんでな」
「しかしお前がそこまで全幅の信頼を置く護衛って、余っ程の…」
「あんたも知ってる奴だよ」
「俺も知ってる…? まさかとは思うが…」
「ああ、ベンソンだ」
「ベルグマン・ベンソンか!」マルカムはその美しい碧眼を剥いて震え上がった。マキタがベッドで馬鹿笑いした。コイケも失笑を漏らす。
「凄腕マルカムが何て顔だよ」「ギーンに帰るまで黙っていようかとも思ったんだがな」
「悪い冗談だぞリッキー。あいつだけは勘弁してくれ」
今度はコイケも大声で笑い出した。皆の上げる笑い声を聞きながら、エレナは眠りに落ちていた。回復途中だから当然と言えば当然なのだが、それを抜きにしてもエレナは疲れていた。開放機構内では誰にも見せなかったが、肉体も精神も疲弊し切っていたのだ。警報に邪魔される心配なしに眠れるのは、一体何時塊ぶりのことだったか…。
…目覚めた時、医療室は薄暗かった。
他の面々は引き上げたらしい。いや、話し声がした。
マキタのベッドの脇に、コイケとオスカーがいた。
「…マードックの取り分には、俺たちの報酬を上乗せする」椅子に座るコイケが、小声で言った。エレナを気遣ってのことだろう。「俺たちは必要経費だけで構わんだろ? スプリッツァのメンテナンス費と、食糧費…」
「充分だ」マキタが笑った。「今回の仕事で、報酬なんか貰えないよ」
「連絡は、辛いな」コイケは声の調子を一層落とした。「アイリーンには俺から伝える積もりだが…」
「そうだな。でも、大丈夫だよ。リックはマードックの息子だぜ」
マキタの言葉に、コイケはほっと息をついた。「そう、だよな…」
オスカーが持ってきたポットからコーヒーを注ぎ、コイケとマキタにカップを回した。それを受け取ったコイケが呟いた。「終わったんだな…」
オスカーがベッド脇のスイッチを操作し、マキタの上体を起こした。まだ握力のない彼の手に、コイケがカップを挟ませる。
「済まないコイケさん。あんたの誓いは破らせることになった。次元連動砲を…」
「それはいい。誓いも何も、あれを使わなきゃ、絶対に勝てない相手だったさ」
「何だよ無理しやがって。セリアに…」
「それはもう言うな。お前の方はどうなんだ」
「全然実感が湧かない」
「だろうな。でも、これから少しずつ湧いてもくるさ」コイケは労るような口調で言った。横でオスカーも、見たことのない柔和な顔で頷いた。
「この仕事を成し遂げるために、お前は宇宙に出たんだものな。そして、成し遂げた。そんなお前に、安易に実感が訪れて堪るか。噛み締めて、ゆっくり味わえばいい。お前にはその資格がある」
カップを口に運ぶマキタの肩を優しく叩き、コイケは立ち上がった。オスカーもマキタに微笑みかけ、コイケと並んで歩き出す。「コイケさん、身体を診て貰えないか」
「どこか悪いのか?」
「レーザーの直撃を受けたところが」
「ああ、そっちの身体ね。じゃあ今のうちに診ておこうか。よしよし、任せなさい…」
…2人が医療室を出て行った後、黙ってコーヒーを飲んでいたマキタの右肩がヒクッと、1、2度震えた。喉の奥で何かが詰まったような音が漏れた。
どこか、痛むの…? エレナは声を掛けようとした。
違った。薄明かりに見えるマキタの横顔に、エレナは声を引っ込めた。
マキタは、泣いていた…。
コイケの声が耳に蘇った。この仕事を成し遂げるために、お前は…。マキタの頬を、幾筋もの涙が流れ落ちる。エレナも一緒に泣きたかった。マキタと一緒に泣きたくなった。
コイケとオスカーが何も言わずに出て行ったのは、マキタがこうなることを見越していたからだ。確認する必要さえなかったからだ。全てわかっていたのだ。
ホントに…、掛け値なしにいい仲間だと思う。
あたしはこんな素晴らしい人たちに、仲間って呼んで貰えたんだ…。
エレナは声を殺し、マキタの横顔を見つめていた。
総統庁に突入する直前に決めていたことを、何とか果たさなくちゃ。タイラント星系に着くまでには…。
…一眠りしただけで、エレナは起き上がれるまでに回復した。微熱も下がったし、内臓もほとんど綺麗になった。外傷など放っておけば治る。
そもそも寝てなどいられなかった。やることは山のようにあった。まず、開放機構の生き残りを亡命移民としてタイラント星系に受け容れて貰わねばならない。その後彼らの住居を見つけ、取り敢えずの生活の手段も探さなければならない。保証人には先にタイラント星系に逃げ込んでいたかつての同胞を頼るしかないだろう。僅かながらの物資を送ってくれていた同志たちの1部だ。先に一旦、連絡だけは入れておいた方がいい。
ジャスたちも交え、エレナの纏めた案を踏まえ、タイラント星に詳しいクロムが、知り合いもいるという入国管理局に連絡を入れてくれた。かつての開放機構の同胞たちへの連絡を取るために、ジャスを連れ1足先にタイラント星へと赴く。マルカムと彼の部下たちも手伝いに同行した。
その間、エレナはスプリッツァ内の掃除や洗濯を引き受け、コイケの苦笑いを背に、甲斐甲斐しく働いた。そのコイケに料理の手ほどきを受けもした。掃除以外は初体験だったが、エレナは自分が意外に器用であることを知ったりもした。
時間も押し迫ってはいたのだが、船団はタイラント星系まで、ゆっくりと時間を掛けて向かった。タイラント星系が開放機構の面々受け容れに若干手間取ったためだ。それに彼らの大半が初の外宇宙旅行に、宇宙船酔いに見舞われていた。命に関わる症状はなかったものの、幼児や老人、妊婦のために、コイケが速度を落としたのだ。
タイラント星系の衛星軌道上に辿り着く頃には、また1時限が過ぎようとしていた。
…マキタは展望室に運ばせたベッドの上から、無事な右目で、彼方に輝くタイラント星系の太陽を眺めていた。
エレナの数倍の拷問に晒された身だ。回復には程遠かった。外傷は乾き、塞がり、手足の腱も繋がった。まだ左肩は上がらず、握力も戻っていないが、ナノプロテインとニューロン修復システムのお陰で、ぎくしゃくと歩き、物を掴める程度にはなった。タイラント星系を後にしたら、本格的にリハビリを開始する積もりだった。ギーンに戻る頃には、ハンディキャノンを握れるくらいにまでは回復するだろう。
しかし寝てばかりというのも気分がクサクサする。それなのにコイケもオスカーも、マキタにブリッジへの出入りを許可しなかった。今のうちにしっかり休んでおけということらしい。
その間1度だけスプリッツァから出た。バートラム・サンダーにて瞑るレイバーに会いに。ルストに付き添われて入った船長室に置かれた柩の中に、冷たくなったレイバーは横たわっていた。何も知らなかったマキタに仕事の1から10までを教えてくれたレイバー。厳しい先輩ながら、私生活ではマキタの兄貴分だったレイバー…。マキタはその手を取り、しばしの間涙に暮れたのだった…。
「………?」
マキタは展望室入り口に目を走らせた。条件反射的に右手が枕の下に伸びたが、すぐに止まる。
ポットとカップ2つを手にしたエレナが、入り口に立っていた。
「どうした?」
カップをテーブルに置き、棒でも呑んだようなぎこちなさで、エレナはベッドの側に立った。マキタの笑顔に笑い返しはしたが、変に強張った笑顔になった。
「どうしたんだよ?」
「何でも、ない」
「そうか。タイラント星系からの連絡が来たのかと思った」
「もうすぐ、来るだろうって、コイケは言ってる。コンマ2時限待って来なかったら、バートラム・サンダーを残すって…」
「そうか」マキタは片目を見開いた。「まさかお前、一発殴り返すってあの話を今…」
「まだ覚えてたの?」
思わず笑い出したエレナだったが、コーヒーを注ぐ動作は途方もなくギクシャクしていた。不思議そうな顔のマキタの前で、散々躊躇した挙句、エレナは態度同様の口調で切り出した。「…さっき、アリーゼ、さんが、来てたでしょ?」
「ああ、来てたよ」
「何を、話した、の?」
「何って? ああ、色々だよ」
「サビアさんの、こと?」
「うん、それもあったかな。おい、どうしたんだよ一体?」
マキタは屈託なく笑うだけだが、エレナの表情は只事ではなかった。「…帰ったら、サビアさんと、パートナーに、なるの?」
「まさか」マキタは右肩だけで肩を竦めた。「うら若き女性とは言え、相手は御大尽だぜ。俺なんかと釣り合いの取れる相手じゃないって」
「でも、コイケの話じゃ、サビアさん、あなたのこと…」
「この先もずっと旅しかない俺だよ。家庭を持っても、いつ帰るかなんてわかりゃしない。今日日の女のコたちは忍耐強くないからな。絶対出ていくか、さもなきゃ俺が追い出されるに決まってる」
そこまで聞いて、エレナの表情はやっとほぐれた。溜息は安堵以外の何物でもなかった。
「そんなこと気にしてたのかい?」
「だって…」エレナの膨れっ面が紅潮した。「このモテ男が、あたしを心配させるんだもん」
マキタはベッドの上から手を差し伸べた。エレナはアリーゼがやったようにそれを両手で握り締め、胸に抱いた。赤らめた顔を、今度は背けない。マキタを見つめ返す覚悟が、今はあった。
右手を引くと、エレナは苦もなく引き寄せられた。そしていきなりマキタの上体に覆い被さり、その襟元に顔を埋めた。
マキタは身を捩る。「くすぐったいよ」
エレナは駄々をこねるようにマキタの顎の下で首を振り、彼の背中を強く抱き締めた。強引で力任せのようでいて、それでも彼の怪我への加減は忘れていなかった。マキタは微笑み、甘えるエレナの肩や髪を撫でた。
「あたし、サビアさんに、勝てる自信、ない」エレナは呟いた。「だって、アリーゼさんにだって、完全に負けてる。でも、あたし…」
「負けちゃいないって」
「嘘だよ、そんな…」
「ホントだって。お前のハダカ見て、ムラムラ来ちゃったんだぜ、俺は」マキタは笑った。胸に感じるエレナの体温がどんどん上がっていくのがわかる。
「こんな筋肉だらけで、ゴツくて、傷だらけの身体のどこが…」
「俺にとっちゃ魅力だったんだよ」マキタは臆面もなしに言ってのけた。「もう2回見てるけど、何度だって見たいもんなあ」
顔を上げ、しばしの間マキタと見つめ合ったエレナは、そっと身を引き、再度ベッドの側に立った。静かに背中のホックを外し、ジャンプスーツを脱ぎ捨てる。
星々に浮かぶ展望室の中、タイラント星系の太陽に照らされた素裸を、マキタに晒した。
「これで、いい?」
マキタはもう1度手を差し伸べた。エレナはごく自然にマキタに歩み寄り、ごく自然に顔を寄せた。唇と唇の先端が触れ合い…、
重ねられた。
2人は星の海の中で抱き合った。
…エレナは裸の胸を、同じく裸のマキタの胸の上に重ねた。彼の左肩をいたわりつつ、体重を預ける。乳房が柔らかくマキタの胸板の上で潰れ、互いに汗ばんだ肌が音をたてる。
「…痛いか?」
「ううん、大丈夫」
実はまだ少し、疼きが残っていた。最初は裂けるかと思ったくらいだった。身体の中に、マキタの痕跡がつけられたのだと実感した。マキタのまだ硬い先端が体内で脈動し、微かに息づく度に、エレナの全身にも小さなおののきが走る。小さな喘ぎと吐息が漏れる。
と、エレナが微かな溜息をついた。
「どうした?」
「キャスに悪いなあ、って」
「それを言うなら、俺だってマイスコルに申し訳ないよ」
「バカ…」
何なんだろう、この満ち足りた思いは。
「…ふうん、じゃあ、お前のパイロットとしての才能を見抜いてたのは、実はお母さんだったわけだ」
「そう。父さんなんて、あたしにコクピットに座らせようともしなかったんだから。何しろあたしが産まれて、女だってわかった瞬間に、溜息ついたんだって」
「期待してたんだろうなあ。ずっと男の子を心待ちにしてて、ルネって名前まで考えてたんだ。お父さんを責めるわけには行かないな」
「うん、今はそう思ってる」
「お前、名前、変えようと思ったことないの?」
「1度ね、頼んではみたの」
「駄目だったわけね」
「意地悪。笑わないで」
「いいじゃないか。お前の名前なんだ。エリノアってのは?」
「母さんの名前を貰ったの。エレナって呼び名もね、母さんがそう名乗れって。そのせいで父さんと母さんの大喧嘩が始まったの」
「面白いねえ」
「でも、あたしの覚えてる2人って、大喧嘩の時と死ぬ間際の時のことしかないんだよ。それが寂しくて」
「俺よりマシだ。俺なんて親父の顔を直接見たこともないんだぜ」
「そうなの?」
「親父の奴、身重のお袋を放ったらかしにしたまま飛び出して、2度と戻らなかったって言うんだから」
「亡くなった、んだよね…?」
「ああ、つまらん死に方だったそうだ」
マキタの声が沈んだ。〈ザ・ソルジャー〉の名まで冠され、〈銀河の戦士〉と誉めそやされたマキタの父は、辺境の酒場で酔客と口論の末、酒場の主人に背中を撃たれて、死んだ…。
「どんな人も、いつかは死ぬんだね…」
呟いたエレナの背に、マキタはそっと右腕を回した。「俺は15の齢まで、親父のことを知らずに育った。お袋が伏せてたんだな。まあ、多分…」
「怖かったのよ。お父さん同様、あなたまで失うのが」
マキタは笑いながら、深く頷いた。
「それまでの俺ときたら、故郷を1歩も離れたことがなくてね。もちろん、宇宙での生活なんて、全く別世界の事だった。おまけにそんな自分に何の疑いも抱いてなかったし。
これでも故郷では秀才で通ってたんだぜ。頭脳明晰、スポーツ万能、喧嘩させりゃあ敵はなし…、信じてないな?」
エレナは笑いを噛み殺す。「頭脳明晰ってところ以外なら」
「うるさいよ。とにかく、お山の大将だったんだ。悩みもなかったし、痛みってものも知らなかった。殴られたり、怪我したりってこととは別の痛みがあるなんてことを、想像もしてなかったんだ。いつでもそこではナンバーワン、でもそこには、俺しかいないも同然だったんだけどね。
親父の存在を知らされた時には、物凄いショックだったよ。訪ねてきた親父の戦友がいてね。ああ、親父の死を伝えに来てくれた人だ。で、俺を見て言うわけだ。お父さんの若い頃そっくりだ、ってね。お袋ももう隠せないと覚悟して、俺に全てを語ったよ。
正直、許せなかった。俺自信が誰かのコピーだったってことに、我慢ならなかった。譲られた才能だ、優れてて当然だ、そう言われることに、そう言われる可能性があることに、我慢ならなかったんだ。
すぐに宇宙に出る気になったよ。認めたくなかった。俺が親父に、いや、親父じゃなくても、誰かに劣るなんてこと。
お袋? その時は流石に何も言わなかった。うん、多分諦めてたんだろうな。俺はすぐに傭兵の学校に飛び込んだ。正直、軽い気持ちで、しかも自信満々で」
それまでの自分自身の力を過信するあまり、故郷とはまるで違う世界に飛び込んだことに、想いが及ばなかった。いや、そんな想像力さえも、当時の自分にはなかったのだ。実の伴わない自信など自惚れにも劣る、そのことを思い知らされたのは…、
「何をやっても親父に勝てないと知った時だった」
傭兵学校での成績は、一般的平均を遥かに上回るものだった。体力、格闘術、模擬戦闘、ガス・爆発物取り扱い、銀河言語学、連邦圏内での法律、生物・植物学…、全ての科目に並外れた才能を発揮したものの、それが父の持つすべての記録の足元にも及ばないと知り…、
「俺は絶望しかけたよ。1時塊踏ん張って頑張った結果が、親父が傭兵学校に入りたての頃の記録にも敵わなかったんだ。あれは親父のことを知った時以上の大ショックだった」
自分の敗北を排他主義や嘲笑に置き換える傲岸さや卑屈さも持ち合わせていなかった。屈辱を正面から撥ね返すことしか考えなかった。生まれて初めて、自ら進んで必死になった。徹底的な訓練を己に課した。そして3時塊後、卒業の時を迎えた。
同期の中では文句なし、ダントツの首席だった。しかし、射撃以外で親父に取った遅れは、結局取り戻せないままでの卒業だった。その時以来、克服しようのない劣等感が、刻印のように身体に打ち込まれた…。
「誇りも何も、根こそぎ持っていかれた感じだったな。もちろん、今だって訓練は続けてる。でもな、もっとイヤだったのは、その後何をするにもどこに行くにも、親父と比べられることだった」
戦場に飛び出して以来、出会い、知り合った傭兵や連邦の正規兵誰もが、マキタを色つき眼鏡で眺めるのだ。〈ソルジャー〉の息子、それだけの事実が、他を引き離した実績をマキタに求めるのだ。全力の果ての勝利、命からがら勝ち得た成功も、誰からも当然視された。と言うより、失敗そのものが許されていなかったのだ。
「流石にいじけそうになったねえ。誰も俺を、俺として見てくれなかったからなあ。一時は本気で辞めることばかり考えてた。でも、負け犬呼ばわりされるだろうなとか考え出すと、それも嫌でね。
だから、と言うわけじゃない…、いや、やっぱりそうなんだろうな。俺は射撃に熱中した。その当時、親父の記録に勝っていた唯一の種目だったからな。コイケさんに」と、枕の下を指し、「こんな特製銃まで造って貰って、なけなしのプライドにしがみついてるって感じだった。
けどな、俺が結局辞めずにいられたのは、射撃のお陰なんかじゃない。コイケさんがいてくれたからだ。それに、オスカー、マードックやマルカムも。みんなが俺を助けてくれたから、俺もここまでやってこられたんだ。今回なんて、本当にそれだな。
親父か…。うん、やっぱり凄い傭兵だったと思うよ。でも以前は認めようとしなかった。粗探しばかりしてたな。〈スペースソルジャーズ〉ってのが親父のチーム名だったんだけど、昔の親父の仲間なんかが継げ継げって言うわけだ。俺に、その名を。もちろんその名は魅力だった。内心、欲しかったよ。ところが素直じゃないし、親父の七光だなんて言われるのも絶対に嫌だったから、〈スペースサルベイジャーズ〉なんて名前をつけて…。そう、名乗りたい裏返し。ガキか、ってね。で、1度つけたら、名前の変更が出来ないって後から知って、慌ててやんの。バカだろ俺?
そして、そんな時、親父の唯一の敗北の事実を知った…」
それが、あたしたちの星での…、エレナは頷いた。
「…いつかそこに行って、親父を打ち負かした相手と戦って、勝つのが夢になった。思ったより早く来たけどね、その時が」
「実現できたのね、夢が」
「ま、半分、ね。夢は持ち続けておくもんだよな。まあ、あのグランザーに勝とう、勝てるって思ってた時点で、物凄い思い上がりだったと思うけどね。下手すりゃ親父に勝とうって以上の思い上がりだった」
「お母さんは、今は?」
「健在だよ。でも、帰ってないなあ。故郷を離れて以来、1度も。連絡は取ってるよ。最近妙に愚痴っぽくなってきたけど」
「そりゃそうよ。出来の悪い息子が、実は親不孝者でもあったとくれば」
マキタはエレナの尻をつねった。2人揃って笑い出す。
ところが、な…、マキタは言った。「最初、親父を引き摺り下ろすことばかり考えてた俺だけど、近頃少し変わってきた。
素直に凄い奴だったんだな、って言えるようになってきた。
評価できるようになった、ってのとは少し違うかな。わかるようになってきた、って方が合ってるな。
宇宙に出て、当分経ってからのことだね」
エレナは優しく問いかけた。「何かあったの?」
「何もない。ただ、宇宙は広いなって実感しただけ。いや、ホントだよ。冗談じゃないんだ、これは。
宇宙が広いってことは知ってたよ。わかってる積もりだった。実は全然わかってなかったんだね。身体が実感していなかった、って言うか、何て言えばいいんだろ。
つまりだな、俺は宇宙に出て、その広さって奴を、自分の小ささを実感することで、初めて知ったんだけど…、俺の言いたいことわかる?
広いんだ。でも、暗黒じゃない。奥深い蒼い色でさ。どこまでも奥行きがあるんだ。俺にとっての永遠だ。実際に宇宙に出なけりゃ、この実感は湧かなかったろうな。
その果てしない宇宙の中で、俺って人間がどうしようもなく小さく見えてさ。
何も出来ないんじゃない、何でも出来るんだ。自由なんだ。訓練の時、初めて独りで飛び出したんだけど、途方に暮れてねえ。解放された、どこまでも自由な…、でも、それを味わう余裕もなくて、ただ大声で泣いてた。理由はわからないんだけど、とにかくただ泣けてきて…」
エレナは返事の代わりに、マキタを抱きしめる腕に力を込めた。
「子供みたいだったね。欲しかった玩具を手に入れても、それをどう使っていいのかわからない、みたいな…。
解放されてる、って理屈をつけられるようになったのは、随分後になってからの事だった。コイケさんのお陰? うん、それは大きいな。とにかくその自由さが怖くてねえ。何でもやれって、宇宙が煽るんだよ。バクテリアみたいなこの俺に、何がやれるって言うのか。不安だったのは、何も出来なかったらそうしようってことだったね。自分の小ささとか弱さとかが、試されるような気がしてねえ。
何も出来ないことが、内心わかってた。それを認めるのが怖かったんだろうな。
今は違うよ。何も出来ないのは同じだけど、それでも何とかしようって思ってる。今でもジンリッキーで飛び出すと感動するんだよ。解放された、って思えるんだ。親父へのコンプレックスからも、親父の息子であるって事実からさえも、自由になれる気がするんだ。
このちっぽけな俺が、この大宇宙の中で何をやれるか試してみたい、どこまでやれるか宇宙に見せてやりたいって思うわけだ。
で、ふっと考えた。宇宙に出たことがある奴なら、この解放感が味わえないわけがない、ってな。お前もそう思ったことないか?
多分、親父もそうだったんだ。
だからお袋を放ったらかしにして、平気な顔で駆け回っていられたんだ。それだけ魅力的だったんだろうな。その結果、宇宙の片隅のこの1銀河の歴史に、名を刻むに至った。
それもたった1人の力で、ただ1代でやってのけたんだ。
俺はやっぱり、〈ソルジャー〉の名は継げない。俺を俺として認めてくれてる仲間がいる以上、俺自身の力で頑張っていきたい。
…死んだ人間に対抗意識を燃やし続けてどうするんだって言う奴もいる。でも、生きていようがいまいが、親父は俺の目標なんだ。少しは理解できるようにもなってきたけど、初志は変わってない。
今回の仕事で、やっと親父と同じ土俵に立てた気がするんだ。俺は俺のやり方で、この先も親父に挑戦し続けるよ」
包帯に覆われていない右目が、展望室から一望できる星々を映した。眼差しの少年の輝きには、一点の曇り、一点の濁りも宿していなかった。
エレナはマキタにしがみついた。彼の温もりを体に覚えさせておこうとでもするかのように、全身でマキタを抱き締めた。
「あなたのこと、忘れない…」
目尻に涙が溜まってきた。泣きやすくなってしまったのかな、あたし…。
「おいおい、まるでお別れの台詞じゃないかよ」マキタはエレナの顔を覗き込んだ。「俺、また来る積もりなんだけど」
エレナははっと顔を上げた。
「言っただろ、俺は親父を追い続けるって。いつの日にか必ず追いつく。必ず追い抜く。それを証明するために、もう1度グランザーと戦うんだ。正々堂々、1対1で、な。
夢の半分は叶った。次はもう半分を叶える。あんなザマで終わっちゃ、やられ損もいいとこだしな。
次は必ず…。まあ、相手があいつだから、偉そうなことは言えないけど。でも、負けないくらいの力と経験を養って、きっと帰ってくるからな、俺は」マキタはエレナの両目を見つめ、既に密着した腰をもっと強く引き寄せた。「その時はまた、つき合ってくれ。もう1度あの突入を、2人でやってのけようぜ」
「ああ、マキタ…」
更に深く押し入ってきたマキタに、新たな疼きがエレナの奥に走った。しかし溢れ出るものが、その痛みを熱とともに散らしてしまう。散った疼痛は悦びとなって、身体の中心を駆け抜けた。
これからは、独りだ。あたし独りでの戦いが始まる。星系外に散った仲間を集め直すか、或いは新しい同志を探し、資金を蓄え、スペースサルベイジャーズに負けない質と量の伴った開放機構を復活させ、ここに戻ってこなければならない。
何度も壁に突き当たるに違いない。挫折も味わうだろう。だが、エレナは思う。きっと成し遂げる。あたしが挫けたままで終わったら、戻ってくるマキタはどうなるのだ。
そう、あたしは独りだけど、独りじゃない。銀河のどこかでマキタと繋がってる。かけがえのない仲間とも出会えた。
いつの日にか、この仲間たちとあの総統庁に挑む。マキタと2人揃って、総統庁への比翼の突入を再現するのだ。
エレナの中で、マキタが弾けた。エレナの口から叫びが漏れた。汗と、荒くなった呼吸、同じリズムを刻む2つの心臓の音を聞きながら、エレナは唇で、マキタは唇をまさぐっていた。
これが、満たされるって、ことなんだ。
マキタ、あなたの目の中に、宇宙が見えるよ。あたしにも、永遠が見える…。
この先、何万光年離れようと、この永遠が見え続ける限り、あたしはあなたと一緒だよ…。
タイラント星系の入国管理局から、亡命民受け容れ許可の報せが届くまで、2人は求め合い続けた…。
…開放機構の生き残りたちは、バートラム・サンダー提供の救命艇に乗り込み、船団と別れた。
スプリッツァのカタパルトに、コイケ、オスカー、マルカム、アリーゼ・サロイ、そしてマキタが並んだ。
整備され、磨き上げられたグレイハウンドの前で、エレナは4人と固く手を握り合い、最後にマキタの前に立った。
瞳が潤んでいた。肩が震えていた。そして羞じらいもあった。マキタがその肩を軽く叩き、頷いて見せた。エレナはそのマキタにしがみついた。
抱擁。
「約束だからね」
「ああ、約束だ」
…タイラント星系にまっすぐ消えていくグレイハウンドを、マキタとコイケはスプリッツァのブリッジにて見送っていた。オスカーが2人とマルカム、アリーゼにコーヒーを注ぐ。
「いい子だったな…」
コイケの言葉に頷いたマキタは、カップを手に取った。
「意地っ張りで、頑なで、ひたむきで、それでいて素直で、優しくて、笑顔が純粋で…、上手く言えんが」
「得意の詩はどうしたんだよ」
「うん」コイケは僅かに口ごもった。「俺は今後一切、他人の言葉では喋らないことにしたよ」
そして、言った。「あの子はお前に似てたんだな…」
マキタは小さく笑った。「あいつは俺なんかより余っ程凄いよ」
2人の背後でコーヒーを味わうアリーゼが、その整った顔を悪戯っぽい笑みで満たしていた。これって明らかに浮気よね。サビアが知ったらどんなことになるかしら…。
グレイハウンドはタイラント星の表面に点となり、やがてメインスクリーン上から消えた。
マルカムは自船に、アリーゼはカラバのプワンソン号に戻っていった。コイケがマキタとオスカーの肩を叩き、寄せ集めコンソールに腰を下ろした。「さあ行こう。残り時間もギリギリだ」
コイケの号令一下、船団は出発した。タイラント星系を遙か後方に眺める宙域にまで一気に進み、そこから一斉に跳躍航行に入る。各種ディスプレイ、スクリーンを満たしていた星々がその光量を増し、遂には全画像を白濁させた。座標表示は4次元コンパスに任された。点映しているのは解析ディスプレイと遠距離レーダースクリーンのみとなる。
マキタは尚も、白濁したスクリーンを見つめていた。
あばよ、そして…、
またな、エレナ。
そしてブリッジのシートの1つに腰を下ろした。コイケ、オスカーがそんなマキタに、肩越しの笑顔を送ってきた。
マキタも笑顔を返し、パネルの1つに向かい合った。
(2)
…どれだけの時が過ぎた頃だったろうか。
突然、船団の全船内を警報が揺るがした。慌てて各種計器のチェックに走る各員の足元を、物凄い振動が揺るがした。
「何が起こった!」
“前方空間に重力曲線発生…!”
エピローグ
ギーン代表評議会本部ビル最上階、第1会議場にて。
ジュドー星とラビド星代表による和平調停の最終会談が開かれる瞬間が訪れた。
白いタイルの眩しい、広い窓の大会議場に、ジュドー星代表サビア・サロイと副特使にして内務省特別補佐官リンゲ・マーロイ、ラビド星代表にして軍参謀本部第3議長デリ・ネッツガーウィンとその副官とが入場、巨大なテーブルを挟んで向かい合った。正面に座るのは調停役として出席したギーン評議会総督と、副総督カスト・ヴァクトルン。部屋の2つある出入口周囲と広い窓の手前には、熱核ライフルを抱いた武装警官20人が並んでいる。廊下やエレベーター前、階下の警備を含めると、総警官数は400人に上った。陣頭指揮を執るのは、あのごつい顔の指揮官だ。しかも例の自動監視マシン〈ギーガン〉も、今は麻痺ビームではなくレーザーを撃つモードで待機していた。
マーロイはさりげなく頭を廻らし、席上の面々を見た。
連邦から派遣された貴族出身の、事なかれ主義で知られるまだ歳若い総督は、青い顔でしきりに水のグラスを口に運び、そわそわとヴァクトルンに話し掛けていた。家柄と血統の良さだけで世を渡ってきたこの腰抜けは、このような重大事に直面したことがないのだ。当然それを処理する能力もないというわけだろう。
鳥のような顔をしたラビド星人ネッツガーウィンと視線が合った。密かに目配せする。ネッツガーウィンも目で頷きを返してきた。
最後にマーロイは、サビアの横顔を窺った。
どういうわけか、昨日までの憔悴がほんの少し回復しているように見えた。眠れでもしたのだろうか。しかしいくら化粧で誤魔化しても、やつれと陰りとは消しようがなかった。
マーロイは目の前で組んだ掌の下で、小さく唇を歪めた。
この1時塊、まさに大車輪で動きまわってきた。
それももうすぐ終わる。この先自分には、連邦政府の重要ポストと輝かしい出世の道、そして大富豪としての未来が待っている。
つい1時間前まで残っていた不安も消えた。ネルソン・サロイに育てられてきたマーロイは、多少は人を見る目も養ってきた。最初は嘗めて掛かっていたマキタという傭兵が、実は只者ではないと気づいた瞬間には内心慌てた。彼を挑発し、警官隊に撃たせたのも、咄嗟に考えた策だったわけだが、あえなく失敗した。管制官を装った殺し屋に襲わせもしたが、これも失敗した。
下手をすれば連中、アリーゼ救出にも成功するかも知れない…。
ともに作戦を練った連邦の高官たちは、それは絶対に有り得ないと断言した。だがマーロイは気が気ではなかった。アントランはもちろん、その若い身体をさんざん弄んだメリサをも信用していなかったが故に。
2人の将来を誓うなどと言葉巧みに騙し、犯しに犯し抜いたメリサだったが、その縋るような眼差しが、実は嫌で嫌で仕方なかったのだ。愛してなどいなかったが、一時はアリーゼまで射止めた彼だ。田舎臭さを残す小娘に注ぐ愛などあろう筈もなかった。
そして傭われ者たちは間に合わなかった。ジュドー星はラビド星の手に落ちる。
後は、サビアさえ亡き者にしてしまえば…。
ここ1時塊だけの話ではない。これまでずっと、この日のために立ち回ってきたのだ。
ジュドー星首脳の補佐官として、あらゆる仕事をこなしてきた。生意気な小僧だと言われながらも、言いつけられた仕事は必ずこなしてきたし、どんな仕事も厭わずに引き受けてきた。そんなマーロイを、ほとんどの閣僚たちは好感の眼差しで見守ってくれていた。口や態度は偉そうだと毒づかれながらも、サロイ家のために身を粉にして働く男だという評価を得て久しい。その裡で彼が養い、培ってきたものを知りもせずに。
思えば本当に長かった。施設からネルソン・サロイに引き取られて以来、己の感情を右顧左眄の作り笑いの中に封じ込めたことも度々だった。時折己の本性が剥き出しになるのを抑え切れないこともあったが、仕事を共にしてきた多くの閣僚・同僚たちには、彼が実のところ何を考えているのかなどわかりもしまい。
マーロイは信用だけは勝ち得てきたのである。
サビアが自分亡き後のサロイ家後継者の座にマーロイを指名していたとしても、古い顔以外、反対を唱える者もいないだろう。現に、今いる古株連中にうんざりしている若手閣僚の中には、ジュドー星の未来はあんたが担うべきだと面と向かって言ってくる者すらいるくらいだ。
そう言った面々を結集させ、己の後ろ盾とすべく立ち回り、手を回してきた1時塊でもあったのだ。
もっとも反対を唱える者には、速やかに舞台から退場して貰う積もりでいた。サリバン・ロールイにそうして貰ったように。今のマーロイにはその手があった。
サビアとアリーゼに署名させた偽造書類は完璧だった。サロイ家の莫大な財は必ず手に入れる。連邦もそれには目を瞑るという密約は出来ている。彼らの欲しているのはジュドー星の資源だけだからだ。あの財があれば、目も眩むばかりの贅沢な暮らしだけではない、連邦内での出世も思いのままだ。
解せないのは、ルベスターの雇った連中の約束が未だ果たされていないということだった。
腕は確かだというルベスターの太鼓判に、高額の頭金も惜しまなかったのだ。本来ならサビアは不慮の事故で既に死んでおり、この会議にはマーロイ1人が全権大使として出席している筈だった。管制官を装ったあの殺し屋たちも、ルベスターの手の者だ。まあ、あの時はマキタたちの方が一枚上手だったわけだろうが。
しかしサビアまでがまだ生きている。サビアがよく眠れるようにと、ベッドを運び込み、それに合わせてスイートルームを改装し、ジュドー星代表団の泊まるホテル各室のレイアウト変更までした。全てサビアを不慮の事故に、誰にも疑われない自然さで巻き込むためであった。
確かに睡眠薬に毒薬が混じっていたり、シャンデリアが落ちる事故が起こったりした。ところがそのどれもが子供騙しの細工にしか見えなかった。そんなことをする連中に、ルベスターがあれだけのカネを払わせるものだろうか。
まあ、いい。アリーゼは間に合わず、今や調印の時を迎えた。カネを払っている以上、ルベスターも約束を違える男ではない。サリバン・ロールイを自殺に見せかけて暗殺してのけた連中の手際は見事だった。サビアも遠からず、そう、恐らくはギーンにいる間に始末されるだろう。待っていればいいのだ。自分であろうがサビアであろうが、今はラビド星の提示する書類にサインさえすればいいのだ。
最早この会談を邪魔できる者はいない。例のごつい顔の指揮官は、その上司も含め買収してある。汚職警官は存在しただけで死刑となるこのギーンでの贈賄だ。バレないための細心の注意と、別荘型の豪華なリゾートサテライトを丸ごと1つ買えるだけのカネを要した。しかし結果として警備は完璧だ。誰であろうと会議場に入れるなという命令は徹底されている。もしこの瞬間、宇宙港に到着した誰かがここに駆け込んでこようとしても、数百丁の熱核ライフルか、〈ギーガン〉のレーザーの餌食となることだろう。例えそれがアリーゼ・サロイであっても、だ。
総督は邪魔にさえならない。唯一何かしそうなのはヴァクトルンだけだが、自慢の子飼いの傭兵たちも、この警備を掻き分けて飛び込んでもこられまい。伝説の傭兵部隊の一員だったとか言うヴァクトルンだが、引退して久しい老いぼれに何が出来る。
俺の勝ちだ。ネルソン・サロイに拾われる前から、優秀さでは頭抜けていたが、独善・専横的だった彼は多くの敵を作った。彼を目の敵にする役人の息子に小便を飲まされたこともある。その時に誓った。いつの日にか誰にも負けない権力と財を得て、味わった屈辱を何百倍にもして返すことを。
ジュドー星の要職に就いた時、あの役人の息子には心行くまで意趣返しが出来た。泣き喚くそいつの顔を見下ろすことが途方もない快感だと気づいたことで、より大きな権力への渇望と執着とが生まれた。そして今も彼の心を乾かし続けている。俺は補佐官などで終わる人間ではない。この手でもっと大きなものを掴んでやる…。
それが、もうすぐ叶う。マーロイの唇が歪んだ。頬が緩みそうになるのを抑えるのに苦労したからだ。
…そのマーロイの隣で、サビアはじっと、白い大理石のテーブルを見つめていた。
あの声が耳を離れない。
“大丈夫。坊やを信じな。”
それはついコンマ3時限前に聞いた言葉。
そう、コンマ3時限前、ホテル〈スターインペリアル〉の彼女の部屋で。
サビアは眠れぬ夜を過ごしていた。
外を走る車が分厚い壁に走らせるほんの僅かな振動にも神経が過敏に反応し、カーテン越しの小さな灯りも眩し過ぎた。
調停引き伸ばしの口実に病気を偽りはしたが、今のサビアは本物の病人に見えた。恐らく限界が近いのだろう。身体も、心も…。
もうすぐそれも終わる。
後、コンマ3時限で、最終調停会談が始まる。
もう引き伸ばせない。15時限の猶予を20時限に引き伸ばすのに、ジュドー星は全ての外交的手段を使い切っていた。これ以上の譲歩を求める時には、それはジュドー星のラビド星への敵対の意思と見做す、とまで言われていた。
主要な閣僚、側近たちを交えた協議でも、打開策は何1つ出てこなかった。
そして、スペースサルベイジャーズは未だ戻っていなかった。
計画によれば、半時限前には戻ってこなければならない筈だった。サビアは何度もヴァクトルンに連絡した。
信じて待て、ヴァクトルンはそうとしか言わなかった…。
疲れた。
心底、疲れていた。
何も出来なかったのか。
結局私は、母の、継母の言う通り、サロイ家の血を汚す者でしかなかったのか…。
マキタ、駄目だったの?
あなたを信じた、そして今も信じている私はどうなるの? どうすればいいの?
誰も生還できなかった閉鎖星系から、人間1人を救出してこいなどと言う方に無理があったの? あの人のお父さんは生還したと、ヴァクトルンは言った。だからあの人もきっとやる、とも。
でも私は、いつまで待っていればいいの?
もう、これ以上は…。
死にたい…、その思いが頭をよぎるのは1度や2度の話ではなかった。そうすれば、重荷を下ろせる、そんなことを考えてしまう。甘美な誘惑に思えてしまう。警備の間を抜け屋上に出ることは出来るのだ。そこから身を躍らせる自分の姿が、それこそ1時間おきに思い浮かぶ。
だが、今は、まだ…。
少なくとも、会談が、終わるまでは…。
マキタ…。
私の、初めての男…。
薄明かりだけを点けた部屋、ベッドに俯せに横たわるサビアの意識が、マキタのことを考え始めた。これまではそうすることで、自分を圧し潰そうとするものを一時的にでも忘れられた。しかし今や疲弊し切ったサビアの神経は、マキタの面影をも現実逃避の道具にしてしまいそうになる。いけない、私は直面するものから逃げ出そうとしている。それはわかっているのだが、流されていく自分を止められない。
こうやって待っていると、すぐにでもマキタが帰ってきそうな気がする。この部屋に、姉さんと一緒に入ってきそうな気がする。嫌だな、化粧も弾いてしまうような、今のやつれた顔をマキタに見せるの。でも多分、駆け寄ってしまうだろう。ああ、姉さん、遅かったじゃないの。どんなに心配したと思ってるの? 姉さん、この人がね、私の大事なマキタよ…。
半ば没我状態に陥っていたサビアは、ドアロックが何者かによって解除されたことに気づかなかった。
音もなく開いたドアから、4人の男たちが侵入してきた。
いつもなら来訪者をブザーで、侵入者を警告音で報せる給仕ロボットが、その作動を止めていた。正確には、管制室からのコントロールで一時的に麻痺させられていたのだ。監視カメラを兼ねるセンサーも、今は壁の映像しか記録していない。
4人の男は紺色の制服を着込んでいた。ホテル出入りの修理工たちの制服だ。但し彼らの持参したものは工具ではなかった。
大柄で青白い顔のナガン星人は細いワイヤーロープを、バセット星人の小男は無針注射器を手にしていた。リンガ星系人とフォビア星人は消音器付きの短針銃を腰だめに構えていた。
男たちに両手両足を押さえつけられた時になってやっと、サビアは我に返った。リンガ星系人が彼女の両手両足首にタオルを巻いた。ナガン星人がその上からワイヤーを巻き、ベッドに括りつける。こうすれば手首足首に痕が残らないと知っての、熟練の縛り方。
ただ茫然とするサビアには抵抗する間もなかった。もっとも抵抗したところで、身体にはろくな力も残ってはいなかったわけだが。
「手こずらせてくれたぜ」バセット星人がその嘴を上下に動かした。「たった1人を、それもこんな女1人を片づけるのに、ここまで苦労したのは初めてだ」
何を言っているの、この人たちは…?
ナガン星人がサビアの顔を覗き込んだ。「悲鳴を上げたかったら上げてもいいぜ。誰も来ねえ」
リンガ星系人が笑う。「お前さんの護衛は、全員おネンネの最中だ」
サビアは初めて恐怖の面持ちを浮かべた。バセット星人が肩を竦めた。「殺しちゃいねえよ。連中が死んじまったら、余計な疑いを招く」
その言葉の意味するところを、サビアはおぼろげながらに察した。この連中は、護衛が眠らされている間に、私に何かしようとしている?
私に何かあっても、護衛が気づかなかったとしたら、それは単なる事故でしかない。
誰かの差し金? ラビド星の?
果たして、バセット星人の持つ注射器を満たすのは、半覚醒催眠誘導剤であり、彼はそれを使ってサビアに後催眠を掛け、自殺を演じさせようとしていた。もちろんサビアがそれを知る筈もない。
「まさか同一の家相手に、同じ手を2回使わなくちゃならなくなるとはな」
「ああ、僅かでも疑いを招かないためには、同じ手は避けたかったぜ」ドアを窺っていたフォビア星人が振り返り、苛立たしげに言った。「しかし打つ手という打つ手をことごとく駄目にされた。爆弾も、ここに突っ込む筈だったトラックも、全部オシャカにされたからな。とうとう〈百足〉までパーにされた。あれは高かったんだぜ。お前の護衛は本当に大した連中だよ」
「手引がなくちゃ、眠らせることも出来なかっただろうからな」
爆弾? トラック? 何のこと? 〈百足〉って、何? そう訊こうとした時、突如脳裏に蘇った光景があった。
ちょうどこんな時間、ちょうどこんな独りの時、私は不気味な機械に襲われそうになったんだ。暗がりの中、その私を、誰かが助けた。私はそのまま気を失って…。
目覚めた時にはベッドの中にいた。部屋にも自分にも何の変化も異常もなく、サビアはそれを夢だと思い込んでいた。今の今まで。
あれは、夢では、なかった…?
「だが、もう終わりだ」バセット星人が笑った。「そう心配そうな顔をするんじゃねえよ。すぐに終わる」
「どう、して…」
「楽になれるんだぜ」
サビアは大声で警護を呼んだ。誰も応えてはくれなかった。男たちの言ったことは事実だった。侍女たちの控室にも、誰1人として動く気配はしなかった。
フォビア星人がそのサビアの口を塞いだ。頭を枕に押しつける。バセット星人が彼女の髪を掻き分け、首筋を探った。
私、ここで、死ぬの?
嫌、死にたくない。突然涙が溢れた。ここで私が死んだら、ジュドー星は終わりだ。結局私はサロイ家の面汚しで終わってしまう。
会談が終わるまでの猶予を下さい。
神様、お願いです。でなければ私はこれまで何のために耐えてきたのか。何のために生きてきたのか。後コンマ3時限だけでいい、時間を下さい。サビアは固く瞼を閉じた。
せめてもう1度、マキタに逢わせて下さい…。
「簡単な仕事にしちゃあ、報酬が大きいと思ってたが…」
「ルベスターからはたんまり追加料金をふんだくるさ。あいつのバックについてる奴の目星もついてる。口止め料込みでだ」
そう言ったバセット星人が注射器を持ったまま、ふと顔を上げた。サビアの両手を押さえるフォビア星人が振り返った。
その大きな黒い影は、音も気配もなく、サビアのベッドの横、灯りの側に立っていた。
入ってきた、のではない。最初からそこに立っていたのだ。
4人組とて並の連中ではない。彼らは請負暗殺のプロとして、裏社会では確固たる評判を築いていた。ジュドー星の護衛どころかヴァクトルン配下の傭兵部隊の目を盗む手際、サビアを縛り上げた鮮やかさ、彼らは熟練の殺し屋だった。
その面々が、最初からそこにいた巨体に全く気づかなかったのだ。
不可視シートを纏っていたわけでもない。黒い影はそんなものがなくても、熟練の殺し屋相手に自在に気配を消すことが出来た。
そこまでの桁違いの存在だったのだ。
黒い風が吹いた。4人は顔に、身体に、何かを感じた。
巨体がいつの間にか、ベッドの反対側に移動していた。それに気づいた4人は、やっと反応らしい反応を示すことが出来た。短針銃を持つ2人が振り返ると同時に、銃が床に転がった。それを握る腕ごと、だ。
悲鳴を上げようとしたリンガ星系人は、口の代わりに切り裂かれた喉をパックリと開いた。血飛沫は数メートルを走り、妙に乾いた音を立ててカーペットに降り注いだ。その血を半身に浴びたフォビア星人は、仰け反った瞬間に両腕と、そして頭とを床に転がすこととなった。
これも巨漢のナガン星人が影に飛び掛かろうとした。上体が泳いだ。
既に胴体を真っ二つにされていた。
転がった上体に蹴躓き、下半身が倒れ込んだ。濡れ雑巾が叩きつけられたような音が聞こえた。血溜まりの中に、ナガン星人の内臓がぶち撒けられたのだ。
仲間3人を瞬時に失ったバセット星人は流石に慌てた。注射器を持つ手が震えた。
黒い風が吹いた。その手が肘の先から切り離された。注射器毎、サビアの上に落ちる。
黒い影は身体を捻った。
一直線に飛んだ電磁サーベルが、そのバセット星人の腕を、後方の壁に縫いつけていた。
バセット星人の血でドレスを汚されたサビアは、ようやく悲鳴を絞り出せた。
それも長くは続かなかった。腕を切り落とされたバセット星人が、痛みにも気づかぬかのように茫然と、黒い影を見つめているのを見たためだ。
サビアも首を回し、黒い影を見た。
黒のマント、山高帽、身長は優に2メートルを超えている。そして横幅も同じくらいあった。巨漢に対し、よくビヤ樽などという形容が用いられるが、この影に関しては球と呼んだほうが良さそうだった。こんな体躯がよくもまあ、あれだけ俊敏に…、
そして思い出した。私が〈百足〉とやらに襲われた時、助けてくれたのはこの人だ!
この人が、ずっと、私を…。
バセット星人が呟いた。「…ベンソン」
影のことを知っているらしい。
「なぜ、あんたが、ここに…」
肚に溜め込んでいた気を、笛のような音を鳴らして吐いた影は、マントと山高帽の間からニヤリと笑った。唇には鮮やかな紅色。「あたしはねえ、このお嬢ちゃんの護衛なんだ」
この声にも聞き覚えがある。そして、漂ってきた体臭にも。
この人は、女の人…。ああ、そう言えばあの時も同じことを思ったんだった。
武装した6人が部屋に入ってきた。サビアの護衛につけられていた、ヴァクトルン子飼いの選抜傭兵部隊だ。バセット星人は目を剥いた。馬鹿な、眠らせた筈だ…!
傭兵たちはサビアと黒い影――ベルグマン・ベンソン――に一礼し、音もなく3体の屍を運び出した。
ベンソンは顎と呼ぶにはあまりにも厚い肉塊をバセット星人に向けてしゃくり、言った。「そいつは殺すんじゃないよ」
「わかってます。証人ですよね。我々に薬を嗅がせた女はどうします?」
「泳がせておきな。多分ヴァクトルンも同じ命令を出すだろうさ。コンマ3時限後には一網打尽だ」
傭兵たちに続いて、部屋に入ってきた作業服の兵士たちが血に浸されたカーペットを取り替え、壁と床とを磨き上げた。仕事を片づけ、バセット星人を連れて部屋を出るのに、僅か10分。
壁から刃渡り150センチはある電磁サーベルを引き抜いたベンソンは、それを一振りした。
縫いつけられていたバセット星人の腕が、熱処理ダスターに飛び込んだ。握られていた注射器は既に回収されていた。サーベルは刃を引っ込め、ベンソンの腰の鞘に収まった。
サビアには一振りに見えたが、一振りではなかったらしい。サビアの手首を縛っていたワイヤーロープも切断されていたからだ。
ベルグマン・ベンソン。銀河傭兵連合の中では数少ない女傭兵の1人。出身地も経歴も一切不明という人物だが、その腕前と、それによって築いてきたキャリアは、GMLでもトップレベル。マキタの父がいない今、もしかしたらGML最強ではという評価もある。それが証拠に彼女は、自ら気に入った仕事のみを選べるクラスの傭兵だ。その風貌と服装からついた仇名は〈へびつかい座の魔女〉。電光石火の電磁サーベルの一閃はマキタの早撃ち以上に知られ、恐れられている。
そして彼女はつい数時塊前まで、性別の上では男だったのだ。戒律の厳しい母星の軛からやっと離れられ、ようやく念願だった女になれたのだ。マルカムなどは外見も男だった時代のベンソンを知り、1度ならず言い寄られたこともあるが故に、余計に怖がっている。
そのベルグマン・ベンソンが、ベッドの上で気を失いそうになったサビアを抱き止め、顔を覗き込んだ。
「大丈夫だったかい?」
醜い肉厚の顔の中では小さいだけのその目だが、放たれる優しい光にサビアは気づいていた。暖かい、光…。
…あいつらは前々からあんたを狙ってた。ちょこちょこと変な動きもしてたさ。ホテルのライフラインに爆弾を仕掛けたり、外を通るトラックに細工したり。その度にそれを解除して回ってたんだ。でも、毒薬騒ぎとシャンデリアの落下だけは防げなかった。御免ねえ。あんたに怖い思いさせた上に、一番近しかった侍女を病院送りにさせちまった。「でもねえ、あいつらの尻尾を掴むには、今の今まで泳がせておくしかなかったんだよ」
「前々から、私を、護って下さって…」
「リッキー・コイケにね、知ってるかい? 坊やの…、マキタの相棒のあの子にね、頼まれていたんだよ。あんたを護ってやってくれ、って」
「マキタ! マキタから連絡はあったんですか?」
ベンソンはその太い頸を振った。
サビアの身体がベッドの上で力を失った。へなへなと崩れ落ち、ベンソンの腕の感じる重さが倍になった。
「しっかりおし」
「私、もう、駄目です…」サビアは目を閉じ、首を振った。同時にベンソンの体臭を吸い込むことになる。「随分待ちました。耐えても来ました。でも、もう、もう駄目です」
「ヴァクトルンから話は聞いてるよ」ベンソンは言った。「辛かったろうね。でもね、駄目だよ。あんたがここで投げ出したら、頑張ってる坊やはどうなる? 一体誰のところに戻ればいいんだい?」
幼子を諭すような口調と声音に、サビアはだんだん落ち着きを取り戻してきた。そして、気づいた。この人の体臭が私を落ち着かせる。香水と、体臭。何だかとても懐かしい匂い。そう…、サビアは思い出した。
まだ小さかった頃にしか嗅いだことのない、本当の母さんの匂いと同じ…。
「いいかい? 坊やを信じな。あの子はね、女の子との約束は破ったことがないんだよ」ベンソンは微笑み、サビアを優しく抱き締めた。
「ああ、可哀想にね。こんなに痩せちまって」
それを耳にした瞬間、苦悩が、重荷が、一時的にではあろうが全て、サビアの裡から消え失せた。
サビアは泣き出した。驚き、半ば当惑しながらも、ベンソンは精一杯の優しさでサビアの背中を撫でた。
「大丈夫、坊やは必ず戻ってくる。こんな可愛い子を放ったらかしにする男じゃないよ。もしそうだったら、アタシがアレをちょん切ってやるさ」
泣きじゃくりながら、サビアは言った。「それは、駄目です」
ベンソンの高笑いを聞きながら思った。そうだ、信じなくては。一瞬でも疑った自分を恥じた。私はあの人の前で、信じると誓ったのだ。サビアは心の中で素直に頷いた。涙はいつまでも止まらなかった。1秒泣く毎に、素直だった頃の自分が戻ってくるような気がした。
泣き続け、延々と泣き続け、やがて泣き疲れたサビアは、ベンソンの厚い肉に顔を埋めたまま眠りに落ちた。無心の寝顔に微笑みかけたベンソンは、サビアを抱いたまま、寸分の隙もない警護の姿勢を取り続けた…。
数時限ぶりに取れた熟睡のお陰で、サビアはどうにか血色を取り戻し、この最終会談に臨めたのだった。
硬い表情のままテーブルを見つめる眼差しには、ある決意が漲っていた…。
「さて…」
ラビド星代表ネッツガーウィンが鼻に掛かった高い声で言った。
「時間のようですな」
サビアが俯き、身を固くした。ヴァクトルンも身じろぎし、総督が呻いた。
「う、うむ、まあ…」
マーロイも姿勢を正した。
総督がもつれそうになる口を開いた。「で、では、只今より…」
その時、
会議場のドアを、何者かが叩いた。
それも生半可な叩き方ではなかった。分厚いロンズデーライト超合金のドア扉はビームランチャーの連射にも耐え得る代物なのだ。それが何度も叩かれた。密閉された室内に、ガツン、ガツンという物凄い音が響く。明らかに何らかの武器による、意図的な攻撃だ。総督の護衛が外に通じるインターフォンのスイッチを入れた。スピーカーから響いた怒声と銃声とが、総督始め中の面々を震え上がらせた。
その轟音がピタリと止んだ。同時にインターフォンからの音も。会議場にいる全員が、視線を扉に走らせた。
その瞬間、
爆発のような震動と音とともに、超合金の扉が内側にくの字に折れ曲がった。
壁と枠の方が耐え切れなかった。ミシッ、という音を立て、扉は会議場の中に倒れ込んだ。3人の武装警官と自動監視機械〈ギーガン〉も1機、転がり込んでくる。3人の制服はボロボロに裂け、海藻のように体に纏わりついていた。手にした熱核ライフルはバラバラになるか銃身が折れ曲がるかしていた。巨大な目玉に似た〈ギーガン〉も、完全に死んでいた。
床上で揺れていた扉がその揺れを止めると同時に、白いタキシードスーツに身を包んだオスカー・シュートがゆったりとした足取りで、会議場の中に入ってきた。スーツの袖をまくり上げた右腕が、銀色に光り輝いている。セカンドフェイスへの部分変身。低い唸りに、銀色の光が縦横にブレて見える。
音波砲が未だ臨戦稼動状態にあるのだ。
立ち止まったオスカーは、氷よりも冷たい目で、周囲を一睨みした。
「な、何者、だ?」総督が口の隅から涎を垂らし、呻いた。
「侵入者だ!」「警官隊! 何をしている!」
ネッツガーウィンとマーロイの叫びに、入口近くにいた武装警官5人が一斉に、熱核ライフルの銃口を上げた。
耳では捉え切れない音が壁、天井、窓、そしてその場にいた全員の骨に反響した。テーブルがビリビリと震え、出席者たちの服から埃が舞い上がった。
宙に舞った5人の警官たちが、次々に床に落下した。
5人とも手にしたライフルに1発ずつ食らっていた。銃身が折れ、機関部が壊れ、部品が床に散る。彼らの制服の、ズタボロになった切れ端が、ゆっくり床に舞い落ちた。
もっともオスカーもこれで手加減している。会議場室内でこれ以上音波砲の出力を上げれば、出席者全員の耳を潰し頭蓋骨を砕きかねないからだ。本気で撃てば一撃でひん曲げられられる扉にも、数発を要したのだ。
「動くなっ!」
慌てて反撃に移ろうとした他の15人の動きを、オスカーの声が封じた。
ごつい顔の指揮官だけではない。警官隊全員が感じた。秀麗な顔を研ぎ澄ませ、自分たちを睨むこの男の目は何だ。この男は自分たちを人間とは見ていない。単なる障害物としか見ていない…。
ロビーや階下、廊下の警官隊はすべてやられたのか?
あり得る…、この男の早業を見せられた今、指揮官も警官隊も思っていた。こいつになら400人どころか、その倍の武装警官が片づけられてもおかしくはない。男の目が発する、肩から立ち上る凍るような殺気がそれをわからせた。
マーロイもネッツガーウィンも、そしてサビアも、オスカーのことは知らない。もしかして帝国のテロリストが我々を人質に? ネッツガーウィンと総督は逃げ腰で立ち上がった。
その時サビアは、壊されたドアの向こうに立つ黒衣の巨体を見つけていた。ベルグマン・ベンソンが私を見守っていてくれているんだ…。
そして、
そのベンソンにエスコートされて会議場に入ってきた人物を見て、そのサビアも立ち上がった。
1人悠然と座ったまま、ヴァクトルンが言った。「主賓の到着だ」
アリーゼ・サロイはその声に、場内の面々に向かって、艶やかに一礼して見せた。
「姉、さん?」
サビアは茫然と呟いた。自分の声が妙に遠くの方から聞こえるのを感じた。ちゃんと眠った筈なのに、疲労がとうとう、こんな幻まで私に見せ始めた…。
もう、私も限界みたい…。
それもじきに終わるわ。後少しよ…。
この会談が終わり次第、サビアは自分の命を絶つ積もりでいた。
楽になれるんだぜ…、殺し屋の1人はそう言った。その言葉に魅せられたわけでも、逃げ出したくなったわけでもない。前々から考えていたことだった。
アリーゼがこの会談までに戻らない時は、つまり死んだということであり、ジュドー星が連邦の手に落ちる時でもある。同じように連邦の陥穽に嵌った星々の辿った道を見れば、ジュドー星の臣民たちがこれから荊棘の道を歩かされるのは明らかだ。それを招いた自分に、おめおめ生き延びる資格があるとは思えなかった。姉と、全てを失くした中で、生きていけるとは思えなかった。
何よりアリーゼが戻らないということは、マキタも生きてはいないことを意味した。アリーゼを救い出せなかった時には絶対に逃げ出すだろう、などとマーロイは言っていたが、マキタがそんな男ではないことはサビアが一番わかっている。
マキタの戻ってこない世界に生きていたって、もう仕方がない…。
ベンソンに慰められ、励まされ、その胸で思い切り泣いた後も、決心は変わらなかった。最後のこの瞬間まで、マキタのことを信じていた。今も信じている。だが、心が逃避を始める程、疲れていたのも確かなのだ。
今やその疲労が、こんな幻まで自分に見せ始めたのか…、一瞬そんな風にさえ思えた。
崩れかけたサビアの肩に手を掛け、支えたのは、誰あろうアリーゼだった。
自分を受け止め、抱き寄せた腕の感触に、サビアはやっとこれが夢ではないのだと納得できた。
「姉さん…」
アリーゼは優しく、そして力強く頷き返した。サビアはもう目を開けていられなくなった。瞼を閉じた瞬間、はらはらと涙がこぼれ落ちた。姉の体にしがみつき、わっと泣き出す。
「馬鹿ね。こんなところで泣く人がいますか」
アリーゼが柔らかく妹を叱った。その目も潤み、声とて震えてはいたが。
「済まん。待たせた」
サビアははっと顔を上げた。この懐かしい、声。
ずっと待っていた、どんなにこの声を聞きたいと思っていたことだろう。
「だが、まあ、どうにか間に合ったみたいだな。許してくれ。この通り無事に、アリーゼ・サロイをお連れしたぜ」
床の扉の前に、マキタが立っていた。
笑顔を浮かべ、あの少年の眼差し――左には黒い眼帯をしていたが――を輝かせ…。帰ってきた…、サビアは潤み、ぼやけるばかりの視界の中にマキタを追った。この人は約束を守った。
私のために、帰ってきてくれたのだ。
「もう少し余裕を持って着く筈だったんだが、途中でちょっとした事故に遭ってね」
ヴァクトルンが訊いた。「待ち伏せでもされたか」
「そんな生易しいもんじゃなかった。俺たちの航路の真っ正面で、ルッヘル星が爆発しやがったんだ」
「何とね」
ルッヘル星は銀河でも指折りの高質量を持つ恒星だ。そして最も古い恒星の1つでもある。「で、爆発とほぼ同時に超新星化しやがった」
「あの航路を通ってきたわけか」成程な、道理で時間を食ったわけだ…、ヴァクトルンは頷いた。「ブラックホール化までは?」
「1時塊は掛からないだろうって、コイケさんは言ってる」
「またしてもこれで、銀河主要航路が1つ潰れたわけだな」
「ホント、全く住みにくい世の中になったもんだよ」マキタは笑った。口調は冗談めかしてはいたが、実は大変だったのだ。突然の出来事だったし、船団は跳躍航法の真っ最中だった。
だが、それでも乗り切った。危機を危機だと思えない程、今のこのチームは一丸だったのだ。自信があった。もっと大きなものを乗り越えてきたという自信が。
ヴァクトルンはマキタの無事な右目に、それを見た。
マキタはサビアにも笑い掛けた。そして、「さあ…」
微笑みを消した。
「始めろよ。これでキャストも全員集合だ。なあ、マーロイさん」
どういうことだ、ネッツガーウィンに目でそう非難されたマーロイも、気の毒なくらい狼狽していた。
「ここか?」
「おう、こっちだマルカム」
長身のマルカムに引っ立てられ、小太りの小男が会議場に引き摺り出された。両手首はワイヤーロープで縛られ、口には毒を飲まないように樹脂製の轡を噛ませてあった。マーロイの顔がますます引き攣った。
マルカムが皆に小男を紹介した。「口利き屋ルベスターだ」
「調停会談とやらは中止だぜ」マキタが言った。「ネタは上がったよ。こいつも吐いたし、殺し屋も吐いた。アントランなんか、証言に証拠品までつけてくれた。あんたと連邦との密約の証拠を、だ」
「嘘だ…」
「嘘かどうかは、連邦警備隊に判断して貰おうじゃないの」
「近いうちに…」ヴァクトルンが言葉を継いだ。「ガストーク・シェルファ閣下から直々に、ラビド星にも通達が行くだろうて」
「それもきつぅ~い奴が、な」
今度顔色を変えたのはネッツガーウィンだ。ガストーク・シェルファ。連邦中央評議会議長。鉄血にして剛直、馴れ合いと腐敗を芯から嫌う政治家の中の政治家――そんな意味ではブレハム・グランザーと似ているかも知れない、とマキタは思った――。彼に連邦のためという言い訳は通用しない。私欲に絡んだ横暴を嫌悪する彼にこの事態が知られたら、ラビド星首脳の顔が一新するだけでは話は済まないだろう。
果たして何人の連邦中央評議会議員、閣僚官僚たちが、永久追放の憂き目に遭うことやら。
ネッツガーウィンが呻いた。「ヴァクトルン、あんた最初から、シェルファ閣下に…」
「何だ、連絡が早過ぎると? サビアの暗殺未遂騒ぎが起きた時から、儂は疑っておったよ。この件が単なる紛争の和平調停ではなく、連邦の御偉方が絡んだ背任事件なのではないか、とな。だからスペースサルベイジャーズが仕事に掛かった時点で既に、シェルファ閣下にも経緯をお報せしていたんだ」
「連邦の臣下であるあんたが…。連邦のためを思うのなら、たかが非同盟星系の1つや2つ…」
「弱者を踏み台にして血塗れの道を歩むことが連邦のため? 笑わせるな」ヴァクトルンはせせら笑った。目先の利益しか考えない連中の愚挙が、この世界の未来を先細らせていることもわからんのか。「連邦ののためを思うから、1000年後の子孫たちに己の所業を誇りたいからこそ、黙って見過ごせないものもあるのだ。それを忘れるな」
そして、唖然とした顔で成り行きを見守る総督に向かって一言。「さて、終了です総督。後程、この件に関しての報告書に御署名願います」
「くそおっ!」マーロイが叫んだ。「貴様らに、貴様らなんぞに邪魔されて堪るかああっ!」
ごつい顔の指揮官に命じる。「何をしてる! 早くこいつらを片づけろ! 全員だ!」
「全員? それは私たちもということですか?」アリーゼがサビアを背後に庇い、冷ややかに訊いた。
逆上し切ったマーロイは構わず続けた。「何をしてる! お前にあの大枚を握らせたのも、こんな時に備えてのことだ! 早くやれ!」
指揮官は顔を顰めた。よりによってこんな時にそんなことを口走るとは…。そして素早く状況を見て取る。部下たちはオスカーに射竦められ身動きもままならない。空気は明らかに自分たちに不利だ。何よりも表情を全く出さないヴァクトルンの眼差しが恐ろしい。
誰の口を塞げばいいのかは明らかだった。塞いでしまえば如何ようにも言い逃れは可能だ。指揮官はマーロイにアレスター社製レーザーガンの銃口を向けた。次の瞬間、
全身をズタズタにされ、吹っ飛んでいたのは、指揮官の方だった。
ヴァクトルンの杖に仕込まれた短針銃が唸ったのである。
指揮官のレーザーガンが床に落ちた。それを掴もうとしたマーロイの鼻先をマッハの銃弾がかすめた。同時に落雷の轟音が、ただでさえ音波砲にダメージを受けている皆の耳を弄した。
きりきり舞いの末、無様に引っ繰り返ったマーロイの顔が痙攣した。ハンディキャノンの弾丸は壁に大穴を空けたのみに終わったが、衝撃波はマーロイの鼻を砕き、頬に大痣を作っていた。
空薬莢が床に落ちる涼しげな音が響いた。血を噴き出したマーロイの鼻先に、ハンディキャノンの巨大な銃口が突きつけられた。
哀れっぽく顔を上げたマーロイは、再度マキタの目と視線を合わせることになった。閉鎖星系暗殺部隊を睨み据え、拷問の達人ハイマンを威圧し、ブレハム・グランザーと正面から向かい合えたその眼差しが、今、怒りに満たされていた。
「最初に会った時から、あんたは虫の好かない奴だったよ」
マキタは言った。あんたの一挙一動全部が癇に障った。こんなことは珍しいんだ。だから俺なりに、その理由を考えてはみたんだ。
多分、あんたの中に、俺と似たものがあるのを見たせいだろう。
表面では隠し、取り繕っていても、心の裡にやるせない劣等感を抱えてもがきながら、必死に頑張ってた時分のあんたの姿を、俺は無意識に感じてた。理解できた。だからこそ虫も好かなかったし、好かないながらも認めていたんだと思う。あんたが真っ当に頑張るだけの男だったら、俺もいつかあんたのことを、素直に称賛できたかも知れない。いつの日か並んで酒を酌み交わせる日も来たかも知れない。しかしあんたは真っ当に頑張ることを止め、他人を踏み躙る路を選び…、
「俺の掛け替えのない仲間を死なせたんだ」
殺される…、止まらぬ鼻血を押さえるのも忘れ、マーロイはマキタを見上げていた。腰の下から力が抜けた。生暖かい感触が股間を浸した。スボンに染みが広がっていく。
ああ、俺はあんたを心のどこかで、認められるだけの奴だとわかっていたんだよ。だから尚更許せなかった…、マキタは言った。「あんたを殺すことばかり考えて帰ってきた」
ヴァクトルンが言った。「撃つなよ、小僧」
「わかってる」相変わらずの鮮やかさでハンディキャノンをホルスターに収めたマキタは頷いた。「撃たないよ。殺さないでおいてやる。あんたにはすぐに楽になって貰っちゃ困るってことに気がついた」
肚の底から絞り出すような声だった。
「一生、負け犬の苦しみを味わい続けろ。あんたにはそれが一番堪えるだろう。夢を追うのに他人を踏み台にした報いだと思うがいい」
マーロイはこの上ない惨めな顔で、マキタから目を背けた。誇りも、自負も、全てが雲散霧消していた。
警官隊を押しのけて入ってきた、ヴァクトルン子飼いの傭兵部隊が、指揮官の死体を片づけた。これもヴァクトルンが呼び寄せていた連邦警備隊の捜査員たちが、マーロイとルベスターを連行していった。彼の息の掛かった側近や侍女たち――サビアの護衛たちに眠り薬を盛った1人も含め――は既に逮捕されていた。退去を命じられたラビド星代表団は、後に届くであろう処分に怯えながら、マキタを憎悪以上の眼差しで睨み、護衛を従えて立ち去った。武装警官隊も、腰を抜かした総督の帰宅警護を口実に、外の警備はそのままに、会議場から逃げ出すように出て行ってしまった。
「…そうかい、レイバーも死んだのかい」ベンソンが言った。「いい男はみんな早死にするねえ」
怖がるマルカムに代わり、その相手をするのはオスカーだ。
「そう言えばオスカー、リッキー坊やはどうしてあたしに残れって指示したんだい? まさか最初から全部わかってたのかねえ?」
「いや、最初は漠然とした疑いから始まったんだそうだ」オスカーはコイケから聞いた例の話をベンソンに語った。
それだけの理由から、ここまでを読み取ったわけかい…、ベンソンは嬉しそうに首を振った。「相変わらず大したアタマだ。それに決断力も加わってきたね。いいリーダーになってきたじゃないか」
その会話を背に、マキタは姉妹の前に歩み寄った。
アリーゼに支えられたサビアが、潤んだ目でマキタを見つめていた。彼女の前に立ったマキタが言った。
「待たせて済まん」
サビアは首を振った。「信じていました」
マキタは頷いた。その指がサビアの頬を撫で、僅かに乱れた前髪を掻き分けた。「それでも、辛かったろ」
何か応えようとしたサビアだったが、声が出なかった。胸が一杯になって…、
「痩せたな」
その言葉に、遂に我慢できなくなった。サビアはマキタの胸に飛び込み、その背を抱きしめた。マキタも右腕だけで、サビアを優しく抱き返した。サビアの掌が、マキタの左肩を未だ固めるギプスを探り当てた。怪我を…。それに顔色もまだ悪い。痩せたのは私よりこの人の方だ。それに、美しかった少年の目の片側を覆う、黒い眼帯…。
大変な仕事だったんだ。
でも、この人は帰ってきた。約束通りに、姉さんを連れ戻してきてくれた。これでジュドー星は救われた。
私のために…。サビアは胸を締めつける思いに浸った。生まれて初めて味わう思い。生まれて初めて感じる充足感。言葉にすれば、それはただ“幸福”としか呼べないものだったけれども。
これから先、私はこの人と生きていくんだ。
私の、男と…。
「…ところで」マルカムが訊いた。「シーエメラルドはどこだ?」
「そうだ。私もそれが知りたかった」オスカーもアリーゼを見た。
アリーゼはこの会議場に手ぶらでやって来たのだ。もう役割がなくなったシーエメラルドとは言え、まさか失くしてるなんてことは…。アリーゼはそんな2人ににっこりと微笑み、頭を両掌で挟んだ。その長い髪を引き毟る。
サビアが息を呑んだ。
アリーゼの髪が、根元からごっそり抜けた。中から、地肌まで透けて見える程の、思い切り短髪にした形の良い頭が現れた。
「姉さん、その、髪…」
「似合う? メルヴィル号に乗る前に自分で切ったの」
安心できる宝石の隠し場所が欲しかったの。頭のサイズに合わせて硬質樹脂で枠を作ってね、その上に髪の毛を編み込んだんだけど、髪の毛はほら、自前なのよ…。アリーゼはそう言って鬘を裏返した。薄いヘルメットとなった硬質樹脂の裏側に、黒いシートが張られていた。マキタがキャメロン・ボウイの店で買ったものとは種類こそ違っていたが、探査波防御シートであるのは間違いなかった。
24粒の宝石は、そのシートに並べて縫いつけられていた。
今は生身に戻した右手でそれを受け取り、オスカーがマルカム、ベンソンとともに覗き込んだ。
宝石の中に見えるのは、紛れもなく海の輝きだった。青く透明な色が、光が、1粒1粒の中でうねった。流れた。波紋まで生んでいた。3人の頭の隙間から差し込む照明の角度、覗き込む角度によって、その深さが変わるのがわかった。ある1粒ではそれが見下ろす海面の色になり、別の1粒では見上げる海面となった。石の中で乱反射した光の一筋が、3人の顔と、四方の壁に波を映し出した。どの石も決してその表面だけで輝かなかった。輝きの底が見えなかった。凡百の宝石と根本的に違うところだ。
「まさに本物の海だな」マルカムが感に堪えぬと言いたげに首を振った。「それも、生命のいる海だ。今俺の周囲で魚が泳ぎ出しても、俺は驚かないぜ」
ベンソン、オスカーともに頷いた。
その背後でアリーゼが、呆気に取られるサビアを前に、子供のようにはしゃいでいた。「何しろ私ってノロマでしょ? もしものことがあったら取り返しがつかないから、宝石を絶対身につけていようって思ったの。バレないようにこれを外して頭を洗うのが一苦労だったわ。この裏地はね、探査波防御シートなの。石と一緒に私が縫いつけたのよ」
「よくそんな手を思いつきましたね」マルカムが訊いた。「密輸業者が昔使った手ですよ」
「星を発つ前に相談したら、ヴァクトルンが教えて下さいましたわ」
「だろうねえ。こんなことを考えつくのはお嬢ちゃんやお姉ちゃんじゃ無理だわ。ねえヴァクトルン」
「儂がギーンの副総督になったばかりの頃、彼女の父親には世話にもなった。謂わば恩返し。アイディアくらいはお安い御用さ。まさかアリーゼが本当に実行するとは思わなんだが」
そう言って皆を笑わせたヴァクトルンは、マキタに向き直った。
マーロイを泳がせるためにサビアたちには伏せていたが、傭われ軍団が閉鎖星系を脱した直後に、ヴァクトルンはその一報を受けていたのだ。
「…どうだった、父親を打ち負かした男との対決は?」
「あんたの言った通り、凄い奴だったよ」
「だが、お前は逃げなかったそうだな」
マキタは屈託なく笑った。「逃げる隙がなかったんだよ」
「まだ、父親の名を…、〈ソルジャー〉の名を継ぐ気にはならんか」
一点の曇りもない笑顔で、マキタは応えた。
「それだけは死んでも御免だね」
ヴァクトルンはいつものように肩を落としはしたが、その目の中に、これまでにない温かな光が宿ったように、マキタには思えた。
「報酬は早いうち頼むわ。あちこち要り用なんでな」
「すぐ払う」ヴァクトルンは小さく笑った。「また来いよ」
「今度は騙し討ちはなしにしてくれよな」
その背後で、アリーゼがサビアの耳元に唇を寄せていた。何かを囁いている。それを聞いていたサビアの目が吊り上がってきた。唇がわななき始めてきた。マキタを見つめる目に、剣呑な光が宿ってきた。
「ヴァクトルン!」発せられた声は金切り声に近かった。「この男を捕らえさせて!」
マキタはサビアを振り返った。
「どうしたんだ?」
「どうしたですって? よくも抜け抜けと…。あなた、仕事中に随分派手な寄り道をしたみたいね!」
寄り道…?
「私が、身も細る思いで待っている間に…。ヴァクトルン! 早くあなたの部下にこの男を拘束させて!」
喚くサビアの後ろで何食わぬ顔を装っていたアリーゼだが、堪え切れずに笑い出す。マキタは合点した。
エレナのことをサビアに吹き込んだのだ。
「俺を捕まえて、どうするんだ?」
「ジュドー星に連れ帰るわ。自由を制限して、一生私の側にいさせる。2度と変な女に引っ掛かるようなことがないように」
サビアの声には切迫があった。目の光にも只事ではないものが。
本気だった。
「止めてくれ」マキタは正面ドアの方に後退った。「俺から宇宙を取り上げる積もりかい? それは俺に死ねって言ってるのと同じだよ。実際そんなことになちまったら、俺はすぐに死んじまうだろうし」
「止まりなさい!」サビアが命じた。「逃げられると思ってるの? 無駄よ。必ず追い詰めさせるわ。銀河系の中にいる限り、一生お尋ね者にして上げる。何してるのヴァクトルン、早くこの人を捕まえさせて!」
「頼むから止めてくれ。なあ、俺は君に会えてよかったと思ってる。君は実際素敵な女だ。その、美しいままの君を、美しいまま俺の中に残させてくれ。壊させないでくれよ。俺は君がそんな女だったなんて思いたくない」
サビアは泣きそうな顔になった。
「俺、行くよ」マキタは含羞んだように微笑んだ。背を向ける。
「またな」
「待ってマキタ…」サビアはマキタを追おうとした。私、あなたが好きなの。こんな思いを感じたのは初めてであり、恐らくこの先こんな思いを抱かせてくれる男は現れないだろう。それがわかった。直感できた。この人をこのまま行かせたくない。行かせてしまってはならない…。
「行かないで!」
だが、追いかけても無駄なこと、マキタを縛りつけることは出来ないことはサビア自身、実はわかっていた。
マキタが会議場を後にした直後、サビアは姉にしがみつき、辺り憚らぬ大声で泣き始めた。
マルカム、ベンソンもマキタに続いて出て行った。オスカーは宝石の縫いつけられた鬘をアリーゼに返そうとした。
アリーゼが首を振った。「それはあなた方のものです」
「いいのですか?」流石のオスカーも躊躇した。シーエメラルドの価値が、彼にもわかるが故に。
「1度はなくなると思っていたものです。報酬とは別に、収めておいて下さいまし」アリーゼは妹の背を撫でながら言った。「私どもからの御礼の気持ちです」
オスカーは姉妹と宝石とを交互に見つめ、頷いた。鬘を懐に仕舞い、マキタを追う。
サビアは泣き続けていた。アリーゼは優しく妹を叱った。「いつまで泣いてるの」
「好きなのよ姉さん、私、あの人のことがどうしようもなく好きなの…」
「また会えるわ」
サビアが涙に濡れ、化粧も崩れた顔を上げた。「本当…?」
「だってあの人、言ったじゃない。またな、って」
持ち前の茶目っ気と言えばそれまでだが、思えばサビアにエレナのことを吹き込んだりしたのも、あんな人に出会えた妹へのジェラシーだったかも知れない。人を見る目に長けたアリーゼは、人との出会いも才能であると常に思ってきた。そんなアリーゼにしてみてもマキタは素晴らしい男であり、彼のような男に出会えなかった時点で、自分はサビアに負けたのだと素直に思えた。そして、
臆面もなく彼を好きだと言い放てる今のサビアは輝いて見えた。
妹の肩を軽く叩き、アリーゼは笑った。
「本当に羨ましい子よ、あなたって」
ヴァクトルンが哄笑した。
親父の名は、死んでも継がない、か。
寂しい気もした。しかしコイケの言う通り、それは所詮、己の老いの夢にしか過ぎないのだろう。かつてマキタの父が歩んだ道、それは誰の力も借りず、切り開いてきた道だった。
今、マキタも1人で歩もうとしているのだ。それを誰が止められよう。
誰が変えられよう。
ヴァクトルンは小さく呟いた。
よくやった、小僧!
…マキタたちがマッシュの店に着く頃には、報酬は既に振り込まれていた。
ソールとクエンサーの取り分は、コイケの指示で彼らの信託口座に振り込まれた。マッシュの店にはコイケを除くメンバー全員が集った。回復したカラバ、ベルグマン・ベンソンもだ。噂を聞きつけた運び屋や傭兵たち、マスターのフロスまでも乾杯に加わりたがった。
マキタはそこで大いに、キャメロン・ボウイの〈タッカーの店〉の優秀さを喧伝できたのであった。
「向こうではゆっくり話も出来ないかも知れないから、今言わせてくれ」ルストが言った。レイバーのチームは当分の間、マルカムと行動を共にするとのことだった。「今後いかなることがあっても、俺たちはあんたたちへの協力を優先させる。覚えておいてくれ」
マルカムとは次を約する必要さえなかった。固く拳を合わせた後、マルカムとレイバーのチームは、一足先に出発していった。
「俺はもう御免だなあ」残ったクロムが首を振った。「実入りはよかったが、あんたらの仕事はきつすぎだ。俺は運び屋仕事に戻るよ」
クロムの長年の相棒カラバは、何と彼とのコンビを解消することになった。ベルグマン・ベンソンともども、サロイ家姉妹にすっかり気に入られてしまったカラバは、高額の報酬でジュドー星での姉妹の警護を依頼されているのだと言う。もちろんカラバは報酬など度外視して大喜びだった。
だが、ベンソンは言った。「まあ、当分の間、だね。確かにサビア嬢ちゃんは可愛いよ。でも、どうせいずれは退屈するに決まってる」
「あんたはホントに根っからの傭兵だよなあ」
「フン、ヒヨッコだったあんたがいっちょ前のことを言うようになったじゃないか。親父さんに見せたいよ。ああ、たまには嬢ちゃんに会いに来るんだよ」
2人はサビアの侍女エルダが退院し次第、ともにジュドー星に向かうとのことだった。エルダも随分とマキタに会いたがっていたらしい。
…スプリッツァに戻ったマキタとオスカーは、その足でブリッジに入った。
「コイケさん、風呂釜は届いたかい?」
マキタの顔を見るなり、留守番のコイケが笑い出した。
「何なんだ一体?」
「何なんだ、だと?」コイケは堪え切れぬ笑いに身を捩り続けた。「笑わずにいられるか。“美しいままの君を、美しいまま残させてくれ。その気持ちを壊させないでくれよ。” ああ、真似するだけで歯が浮く」
「また盗み聴いてやがったな」
俺は君がそんな女だと思いたくない…、と、身振りまでつけての口真似を続けたところで、コイケは遂に爆笑した。「よくぞその域に達したと思うぞマキタ。お前なら今の時代でロミオになれる」
「それはやめた方がいいコイケさん。ソウさんのことだ。銀河のあちこちで数ダースのジュリエット相手に、“恋人と呼んで下さい”などと言いかねない」
オスカーの軽口がとどめを刺した。コイケは寄せ集めコンソールのシートで七転八倒し、とうとう転げ落ちた。床でヒイヒイ悲鳴を上げるコイケを、マキタは憮然と眺めているしかなかった。顔を背けたオスカーの肩までもが震えていた。
「出港許可が下りた。行こうソウさん、コイケさん」
「そうだな。行こうぜコイケさん。いつまで笑ってやがるこの野郎」
「シラクスⅢだ」床に転がったまま、コイケは言った。
マキタの顔が和んだ。ベーム星系シラクス第3惑星。レイバーの故郷であり、彼の息子リックと妻アイリーンとが待つ場所。マルカムとルストたちはレイバーの亡骸を届けるために一足先に出発していた。スプリッツァは船体や風呂などの修理が残っていたために遅れて合流することになっていたが、その間にもGMLの中核を成す傭兵たちや連邦軍からも、御悔みと葬儀出席の意思を伝える連絡が次々と届きつつあった。立派で盛大な葬儀になることだろう。彼の死を伝えたコイケの通信に大泣きしたアイリーンだったが、葬儀の場では誇り高き軍人の妻として、気丈に振る舞ってくれることだろう。
「胸を張ってマードックに最後のお別れをしてこよう」
コイケの言葉にオスカーとマキタは思いを込めて頷き返した。
スプリッツァは発進した。限りない星々の彼方に。
「…ほーう」
食事の後、オスカーがコーヒーとともに、シーエメラルドをテーブルに並べた。嘆声を発したのはコイケだ。チーズケーキを切る手を止め、宝石を覗き込む。
シーエメラルドはリビングの強くはない照明にも、深海の輝きをもって応じた。「流石だな」
「だろう?」
「うん、素晴らしい。この質素なリビングに、とんでもなく豪華な核が出来た感じだ」コイケは切り分けたチーズケーキを皿に並べた。1つを口に放り込み、「しかしマキタ、お前こんなもの貰ってどうする気だ?」
それなんだよ…、マキタも困ったように言った。「サロイ家ン百時塊のお宝を、ホイホイ売り捌くわけにもいかないしな」
「やれよ。そして今度こそサビアに殺されてしまえ」
「ひでえや」
…ギーンの姿が各種ディスプレイから消えようとする頃、宝石を眺めながらの長いコーヒータイムを、警報が中断した。
コイケがディスプレイの1つを見上げ、言った。「待ち伏せされてるな」
レーダースクリーンが画像を、解析ディスプレイが詳細を出した。該当データあり。ラビド星船籍、B級戦闘艦〈グリフォン〉2隻。そしてC級戦闘艦6隻。既に戦闘態勢を整え、こちらに砲座を向け終えている。
「何だよ、せっかく風呂に浸かれると思ってたのに」
「前方の散状ガス雲内に潜んでいる」
「目的はやっぱり俺たちかね」
「それ以外にあるか。スプリッツァが出港するのを待ってたんだ。俺たちの進路を見極めて…」
「先回り、か」
マキタはラビド星代表だったネッツガーウィンの顔を思い出していた。去り際にその顔は言っていた。このままで済むと思うなよ…。「街のチンピラみたいな顔で出て行ったと思ったが、いきなりの意趣返しとはねえ」
「連中にすれば、お前は疫病神だろうからな」コイケはコーヒーを飲み干し、銅製のマグカップを伏せた。「このまま帰ったりしたら、あいつ自身の面目が丸潰れだろうしな。手土産の積もりなんだろ。
で、どうするね?」
「そりゃあもちろん」マキタはこの上なく朗らかな声で言った。「あちらさんがやる気満々なんだ。遠慮なく蹴散らしてやりましょう」
全くお前は…、コイケは苦笑した。「たまには戦いを避けようとか言ってみる気にはならんのか」
「時と場所と、相手によるよ」
「この刹那主義者めが。オスカーはどうなんだ?」
「私はソウさんに賛成だ。こちらの行く手で既に戦闘態勢を取っている連中を前に、戦いを避けようというのも無茶だと思うぞ」
「それでこそ我が相棒」
「仕方ない奴らだ」コイケはぶつぶつ呟きながらも、いそいそとコンソールをいじり、最初に武装をチェックする。「よし、行け!」
「待ってました!」
マキタとオスカーはブリッジを飛び出した。その際やはりマキタは、床のコードに派手に蹴躓く。
カタパルトからジンリッキーと、セカンドフェイス・オスカーとが発進すると同時に、敵艦隊がガス雲内から攻撃してきた。
グリフォン級戦闘艦からの光線が宇宙の闇を裂いた。オスカーは反転し、ジンリッキーはエレナ直伝の螺旋飛行であっさりと回避する。なかなかの威力を持つと思われる主砲だが、所詮スプリッツァの防御シールドを脅かす程ではない。閉鎖星系の防衛艦隊、帝国のデビアスが持っていた威圧感も覚悟もない。
他の艦も攻撃に加わった。しかし…、「なんてバラバラな攻撃だろうね。纏まって撃てば少しはまともな破壊力も出るだろうに」
“お先にソウさん。”
「おっ、ずるいぞオスカー」
2隻のグリフォンはスプリッツァに任せ、1人と1機はC級艦に狙いを絞った。それぞれの標的にまっしぐらに突き進む。
スプリッツァの原子砲がグリフォン1隻の鼻面を一撃にて凹ませた。2発目が艦上の砲座群をなぎ払う。その彼方ではセカンドフェイス・オスカーの銀色の輝きが一際強くなった。超高熱線がC級艦の船体を切り刻み始める。
“無駄な流血は避けよう。逃げる奴は逃がしてやれ。”
「わかってるよコイケさん」
応えながらマキタはジンリッキーを回頭させた。C級艦1隻の対宙砲座がジンリッキーを追って、吠えた。重力がまだ左肩に少々堪えたが、ジンリッキーはそれらをあっさりと回避する。屁にも感じられない攻撃だった。
エレナとともに潜り抜けてきたものを思えば。
マキタは眼帯を外した。左目義眼が光る。同時に視界に敵艦の姿、データ、距離、宇宙での座標までもが現れた。そして手足を含む全感覚が、ジンリッキーのコクピットと一体化していった。ただでさえ速かった反応速度が倍加していた。コイケ特製のこの義眼のお陰で、これまで以上にジンリッキーを自在に操れるようになったのだ。
どうせコイケのことだ。この他にもいろんな仕掛けをしているに決まっている。
それを確かめられるのは、次の冒険の舞台になるだろう。
ヒラリヒラリと光線を躱しつつ、マキタはジンリッキーの小口径原子砲で、敵艦砲座を1つずつ粉砕していった。全身に伝わる衝撃だけが、あの時と一緒だった。
エレナ、今頃どうしている?
この時少しだけ、彼女を残してきたことを後悔した。だが、彼女には彼女の戦いがある。彼女の戦いが待っている。エレナの信念を、俺の都合と願望とで捨てさせられなどしないのだ。
彼女のことだ。必ずや開放機構を再興し、閉鎖星系に2度目の戦いを挑むことだろう。
その時までに俺は、あのグランザーに勝てるだけの力を身につけているだろうか?
いや、必ず身につける。そこまで自らを追い込み、鍛え上げる。
そしてもう1度、エレナの前に立つ。そう、いつの日にか必ず、あの微笑みを抱き締める。
それまでは…、
光線の1本がジンリッキーをかすめた。おっと、感傷と空想に浸っている場合ではなかった。マキタは目前の砲座群を原子砲の掃射で黙らせた。今は…、
ジンリッキーはC級艦のブリッジ前に飛び出した。叩き込めるだけの原子砲光弾を叩き込み、離脱した。遥か背後でセカンドフェイス・オスカーが2隻目の戦闘艦を料理し終え、そのまた向こうではスプリッツァが1隻目のグリフォン級戦闘艦を爆沈させていた。コイケ、オスカー、マキタの歓声と雄叫びが通信波の中で木霊し合う。
マキタは操縦桿を倒した。そう、今は目前に迫る敵艦を墜とすだけだ。彼の前には敵戦闘艦と…、
そして、果てしない大宇宙とが広がっているだけだった。
完
スペースソルジャーズ〈10〉
田頭満春、岡村智教に感謝を捧げる。
そして和田高義にも。