助走
書くことって。
どんなことでもプロって持続が必要なのだろうな、と思う。
スポーツ選手だと、いつも試合で最高のパフォーマンスを期待されているし、ちょっとの失敗も許されない。
日々の鍛練や自己管理の持続。
物を書く人は、時流に乗ったりしたら、常に次作を求められて、それに答える作品を生み出したら、また次を・・・と要求され続けて、それでも書き続けられる人がプロとして生きていけるのだろうな。
私の書くことは、日々考えていることだったりメモを取ってそれについて深く掘り下げたりした上で、書いている訳ではない。
何か漠然と考えていても、すぐ忘れてしまってまた何かの機会に頭に浮かんでもまた忘れる。
人と会話しても、どういう内容だったかあらすじは覚えていても具体的にどういう言葉を使ったかは忘れてしまう。
ふいに「書きたい気持ち」が浮かんでくるだけ。
今はそうした感情から離れて随分になるけれど、誰かに恋をした(ような)気になると、俄然文章量が増える。
10代の頃は、遠くの憧れの存在に対して、それはもう書きまくっていた。
あのエネルギーはたいしたものだった。
詩のようなものも、歌のようなものもすいすい浮かんでくる。
逆に歌えないような相手は恋の対象にならない。
身近にそういう存在がそうそういる訳ではないので、やはり遠くの手の届かない輝いている存在が対象になる。
そんな乙女な時期の経験でも、それなりに何かの役にはたっているのだろう。
書くことで苦労したことがない。
誰かに手紙を書こうと思って、筆が止まったことがない。
メールでかなりの長文でもキーを叩くそばから次のことが浮かんでくる。
「。」と打ったら何も考えなくても次の分を打ち始める。
人と比べることがないので、そうしたことはごく当たり前のことだと思っていた。
思考のスピードとキーを叩くスピードが、程よくマッチしている。
ところが、自宅でパソコンを使うようになって、同居の人間がメールを作るのにしばらく時間をかけているのを見て「はて?」と思った。
そんなに長いメールでもないし、誰かのメールへの返信なのだから、私なら先ず時候の挨拶から始まり、相手のことや家族のことを尋ねる一文を続けて、本題にはいり、結びの言葉を加えて終わり。
簡単なことに思える。
それが出来ないのは、同居の人間が文章を作る能力が人一倍劣っているのか、慎重すぎるのか。
あるいはもしかして、こうしてすらすら文章を作れるのは何かの能力なのかも・・・とふと思った。
10代のころの、あの指を傷めることも無く何ページも書き続けた経験が、何かになっているのかも。
今は書きたい!ということがらが浮かばないので、ただただこうしてエッセイという区分けにはしているけれど、エッセイとも思えない文章を作っている。
助走訓練みたいな気持ち。
ひたすら文章を作って、それを公開することに慣れて、次はもう少し丁寧な文章を作るようになるかもしれない。
小説めいたものを作るようになるかもしれない。
その為の訓練。
助走