彼のほくろ
ほくろの話です。
彼は日頃から、ほくろで悩んでいた。
先ず、位置が悪い。
鼻のてっぺんで目立つ。
しかも、こんもりと盛り上がったタイプ。
何より、デカい。
このほくろのために、彼は多くの害を被った。
往来を行けば、すれ違う人は皆、彼のほくろを見、すれ違って後、くすくす笑う。
と言って、彼の顔――そのほくろがなければ、まさしく美形。
すれ違う人は皆、彼の美しい顔にうっとり見惚れることだろう。
僕は、つくづく惜しいな、と思った。
そのたった一つのほくろ、そのほくろが、全く彼の顔を台無しにしているのだから。
「いっそそのほくろ、手術して取ったら?」と、僕は彼に言ったことがある。
けれど彼は、
「バカな!」と、僕の提案を一蹴した。
身体髪膚之を父母より受く、敢えて毀傷せざるは――ではないけれど、彼は断固それを拒否した。
彼自身、そのほくろの害を重々承知しているが、生まれてこのかた、それはずっと鼻のてっぺんにあり続けている、ひょっとしたら、愛着のようなものがあるのかもしれない。もちろん、本人は否定するだろうけど。
彼は手持ち無沙汰な時、よくそのほくろを右手人差し指でぐりぐりしていた。
彼がほくろをまさぐる時――その顔は、妙にセクシャルだった。
まるで、そのほくろを愛撫しているかのように、僕には見えた。
「気持ち良いかい?」と、僕は一度、思わず彼に聞いてしまったことがある。
すると彼は、ほくろをまさぐったまま、
「触らせてやろうか?」と、言った。
その申し出は、笑いながらお断りしたけれど、僕はてっきり、触られているほくろが気持ち良いのかと思っていた。けれど彼の言い方から察するに、どうやらほくろを触る指、つまり触り心地が良いようだった。これは思わぬ発見だった。
ともかく、彼とほくろは切っても切り離せない関係だった。
仲間内で彼の話をする時(もちろん彼のいない時)は、先ず決まってそのほくろが話題にのぼったし、例えはデフォルメを得意とする似顔絵描きが彼を描くとするなら、おそらく彼の鼻の上のほくろをこれでもかと強調することだろう。早い話、そのほくろだけで、それが彼だと分かる。
要するに、『彼=ほくろ』であり、『ほくろ=彼』なのだ。
彼とは小中高と同じ学校だった。けれど大学は、僕は地元の大学に進んだのに対し、彼は東京の大学へと進学した。
それでも学生時分は、長期休暇には決まって彼は帰郷し、一緒に遊んだものだが、卒業後、彼はそのまま東京で就職、結婚、居を構え――今はもう年賀状のみの付き合いになり、かれこれ二十年余り経つ。
ところが、そんな彼から電話があった。
実に、二十年振り。
今から会えないか、と言う。
どこから掛けているのだと尋ねると、K公園側の公衆電話からだと言う。
不思議と思いながら、ならば家に来いと促すと、それは出来ない、と彼。
K公園で会えないか、と言うので僕は了承し、受話器を置いた。
K公園は、うちの近所にある小さな公園だった。
「こんな時間から、どこへお出掛けですか?」と、玄関で靴を履く僕に妻。
時計を見ると午後十一時。
「ちょっとコンビニに」と言って、僕は家を出た。
歩きながら、様々な疑問が湧いて出た。
確かにこんな時間。
それも二十年振り。
そもそも何故彼は帰郷しているのだろう?
まあ、彼と会えば全ての謎は氷解するだろう。
そう思い、僕はその足を速めた。
K公園に着く。
果たして、僕はベンチに腰を下ろす後ろ姿の人影を見付けた。
公園内の人影は、それ一つ。
おそらく彼だろうと思ったが、その後ろ姿――僕は彼と認めることをためらった。
マッチ棒とでも形容出来てしまう、その貧相な背中は、どうだ。
およそ、幸福な人生を送って来た人間のそれではない。
淪落、零落、堕落、凋落、転落――ともかくありとあらゆるものに落ちてしまったかのような人間の背中に見えた。
本当に、この背中は彼のものなのだろうか?
そっと静かに近付いて、恐る恐る、僕はその背中に声をかける。
振り返った彼を見て、僕は全てを理解した。
どこに落としたのだろう、彼の鼻の頭から、あの大きな黒子が消えていた。
彼のほくろ
ほくろを触りすぎると癌化するというのは、迷信らしいです。