39、亜季・・・大人になれなくて
何をなくしましたか?
39、何をなくしましたか?
吹き抜ける風もかすかに夏の匂いを含みだした5月の初め木々の緑と鮮やかな青い空の下、亜季は今一人歩いていた。都会にも自然の恵みが豊かな場所も残ってはいるが今亜季が歩いている坂道は騒がしい日常から抜け出して人々が集まる場所ではではない。
幼い頃母に手を引かれ歩いた坂道。
この坂を上りつめると亜季が通った幼稚園がある。ふと顔を上げ前方をみると見慣れたチャペルが昔と同じように静かにそして少し近寄り難い風格を備えて亜季の目に飛び込んできた。青い空から降り注ぐ光に輝く真白な壁が眩しい。
(ああ、あんなに綺麗だったかな?あれからもう随分時間が過ぎて・・・本当に人に与えられた時間なんて短いものなのかもしれない。あの頃は何を考えていたかしら?)
亜季は暖かさを増した初夏の陽射しと、真っ青な空と、木々の濃い緑の中で今の自分とこれからの自分を思い廻らしている。
旅立つ準備もほぼ整った。出発は2週間後。
(問題は父と母にどう話すか。今回はかなり慎重に動いたから母も何か感じてはいてもここまでは考えていないはず。父と母に事後承諾をどう迫る?
そしてもうひとつ・・・エリカ。エリカも何も知らない。今回のことは丈先輩しか知らない。朝香にさえまだ話していないんだから。)
亜季は小さな溜息をついた。目の前には懐かしい幼稚園の門が。日曜日だからもちろん子供達はいない。ブランコやすべりだいが太陽の光を浴びてキラキラと輝く。息付く命のないものにさえ太陽は束の間の命を与えるらしい。
亜季の中で芽生えた大きな夢が日を追う事に強く、逞しくなり膨らんでいく。亜季の夢ではなく夢の中に生きる亜季、それが今の亜季だった。そこにこの間母が見た寂しさがある事など今の亜季にわかるはずもなかった。
日々、困惑のなかで自信を捜していた亜季は今は過去の中にいた。多くの事が順調に進んでいるという気分を味わっている。
(人生の中でそんな時はそうめったにあるものではないのだから思いきり楽観的になってもいいのでは。黙っていても時が来ればいつか問題はしのび寄る。)
そんな事を考えて歩いているうちに分かれ道に立った。右に行こうか、左に行こうか・・・結局左の道を選んだ。
(もしかしたら人生ってこんな事の繰り返し?それにしても明日はエリカとの最後のライブになる。それが終わってから話そう。ママとの距離はあれ以来微妙に変わった気がする。パパはママがいいといえば大丈夫。あとは・・・立つ前に朝香と会いたい。でも今回はどうして朝香に話さなかったんだろう?
今までと同じではない自分を私は感じすぎてるかな。朝香の選んだ道がほんの少し退屈に思える。これを思いあがりだときっと誰かが言うだろうな。)
亜季は思わず小さな笑い声をもらした。
(そうね・・・それでもいい。思い上がりならいつか叩かれて泣くはめになるかな?失敗したら後にはそれこそ死ぬ程退屈な人生しか残っていないのかな?・・・わからない。ただいけるところまで行くしかない。)
瀬田の美しい坂道から小一時間、二子玉川の駅が見えてきた。車の行き交う音、隣を通り過ぎる人の話声、アスファルトと立ち並ぶビルの風景が現れ頭を満たしていた独り言はいつの間にか消え去り、心地いい自分だけの時間が終わってしまったことに突然気付く。少し悲しいけどあさってのエリカとのライブという現実にきりかえなければいけない。
そして現実は次の現実を連れて来た。改札の前でこちらに向かって来るエリカと淳の姿。こうして人ごみの中で見る二人はなかなかいい感じ。淳が亜季に気がついた。すぐにエリカが亜季を見る。あのライブからエリカも淳との結婚に向けて家に戻ることが少なくなっった。エリカの表情から棘が失せている。相変わらず情熱的な雰囲気は持ってはいるもののそれはエリカではない気がした。まさに棘のない新種の真赤な薔薇。
そしてエリカもまた亜季がどこか違っているのを感じとっていた。確かに柔らかい空気は変わらない。でも瞳は解放と自由に輝いている。ちょっと右に首を傾け笑顔を見せるその挨拶も以前のまま。ただその表情のなかにある強さと一瞬の冷たさをエリカは見のがさなかった。
「亜季、何をしてるの?こんなところで。」
「久々の散歩。」
「そんな古風な趣味があったなんて知らなかった。」
棘は消えても言う事に可愛げがない。でも、これがエリカだから仕方がない。横に立つ淳が亜季に微笑み、エリカを見て「じゃあ、俺行くから。」
エリカの返事もいたって簡単。「わかった。じゃあ8時に渋谷のいつものお店で。」
淳は亜季にサッと右手を上げ一人去っていった。数秒二人で淳の背中を見送る。
「よかったの?なんか私が邪魔したみたい。」
「全然。知り合いの個展を見に行くんですって。」
「ふーん。」
次の言葉を出す前にエリカは亜季の顔を見た。エリカの表情が亜季にささやく。次に飛んでくるエリカの言葉は皮肉か嫌味に決まっていると。
「それにね・・・淳は亜季の事、もう何も気にしていないから。亜季に邪魔される事なんてないのよ。」
(ほら、来た。別になんの意味もなく言っただけなのに。いつもはここで黙っていたけど・・・置き土産もいいかな。)
「当たり前よ、気になんかしない。だってよく考えたら私達付き合っていたというのとも違うし。ただ、淳が何度も好きだっていうからそんな気になっていただけだもの。」
最後の言葉を投げかけてエリカをそっと見る。もちろん一言返したいところだがエリカの頭にあさってのライブの事が浮ぶ。亜季にもこの先話をしなければいけない事があるという事実が頭をかすめる。結局今はこれ以上この問題には触れないのがいいというところに納まった。まるで無言のうちに二人が交わした約束のように。
「時間ある?」とエリカ。
「まあ、あるといえば。・・・ライブの事?明日のリハのこと?」
「とにかくどこか入らない。」
10分後二人はコーヒーを置いたテーブルで向き合う事になった。最初に口を開いたのはエリカ。
「ここのところ帰ってないけど叔母さん何か言ってる?もちろん連絡はしてあるけど。最初の約束は約束だから。」
「別に、何も。それにその約束もどうなのかな。もういいんじゃない。」
「もういいって?どういうこと。許してもらえたの、この仕事する事。」
「そうじゃないけど。いつまでも過去にこだわるのもどうかって母も考えているんじゃないかしら。」
亜季はあの日の母の言葉を思い出していた。
「そう・・・・。」
不思議なことに何故かエリカの顔が悲しげにくもっている。それが愛情であれ、憎しみであれ吐き出す対称を見失う事の空虚感がエリカを襲っている事を亜季は気が付かないでいた。と言うより以前の亜季ならもう少し繊細な想像ができただろう。今は夢の実現にはやる興奮に繊細さが押しつぶされていた。
エリかは大きく息を吸い込んで話しを別の方向へと切り替える。
「ところで今後のことなんだけど。」
「今後?」
「そう。いつかも話したように暫くはあなたのピアノが欲しいの。だからこれからどんな風に動くかあなたの意見も聞いておきたいの。」
ここで亜季の思考は一時的に止まってしまった。その後には洪水のように様々な思惑が入り乱れる。
(ああ・・・今話したらどうなるだろう?近いうちに話すつもりではいたけど。私がニューヨークに行くといったらエリカはどんな反応をするだろか?
エリカも行きたいのはやまやまだと以前言っていた。ただ、まだそれだけの資金がないから仕事をこなして貯めてると。当然いい気はしないだろう。
でも、淳と結婚するんだから当面は考えていないのかもしれない。)
亜季の長い沈黙にエリカは何かを見ていた。
(もしかして、また私ひとり取り残される?みんなそうだった。私の前から消えて行く時は隠すような、そして哀れむような空気で私を包み込む。この空気が大嫌い。何度味わっても慣れる事はない。)
「亜季、どうなの?」
二人が出会うという今日の偶然の流れは亜季の意志よりも強かった。話さなければならない場面がもとから設定されていたかのような展開が亜季の決心を促す。
「・・・その事だけど、私ニューヨークに行くの。父にも母にもまだ話してないけど。今度のライブが終わったらエリカには話そうと思ってた。」
エリカの頬が心なしか紅潮したように見えた。亜季が恐れていたのはエリカの感情の波の激しさ。亜季も確かに起伏は大きいが大方は自分に向かう。
エリカはその波をストレートにしかも激しく外に向ける。そしてこれまで亜季はその波に幾度も飲み込まれていた。そのせいかエリカに話す時は母にもまして時と場所を選ばなければと考えていたのにまったく予想もしないドラマが始まってしまった。
エリカはグラスの氷を口に放り込みぼんやりとテーブルを見つめている。亜季も無表情にそんなエリカをみつめる。次に起こることをあれこれ考えながら。
「それは・・・つまりもう私とはできないという事?」
予想できなかったエリカの落ち着いた声。
「少なくとも暫くは。急でごめんなさい。これまでいろいろ教えてもらった事には本当に感謝してる。この世界に私を引っ張ってくれたのはエリカさんだし。でもこのままだと・・・甘えちゃうから。」
黙って聞いていたエリカが口をはさんだ。
「そういう見え透いたのはいらない。やっぱり本場で学びたい。そうでしょう?羨ましい。それがすぐできるなんて。」
これまでにないエリカの素直さと落ち着きに亜季は困惑するばかりだった。そのうち感情が爆発するのではという予想もこの日はあっさり裏切られた。
エリカは最後まで冷静で穏やかさを保つ。
「もう準備は?・・・いつ、立つの?」
「2週間後。これから父と母に理解してもらう大仕事があるけど。」
エリカが始めて見せた優しい微笑み。
「大丈夫よ。この間のライブをみたお母さんならこれまでとは違うでしょう。・・・それじゃ、私はもうあの家を出てもいいのね。淳との結婚もあるしいいタイミングかも。ライブが終わったらいいピアにスト捜さなくちゃ。明日、3時からのリハ遅れないで。」
何もかもが新しい感触だった。エリカがすっと心に入ってくる。エリカが席を立つと亜季も立ち心から頭を下げた。
「本当に勝手を言ってごめんなさい。」
亜季の元を去る間際エリカが呟く。
「なんだか何かが落ちたみたい。私にとりついていた熱い感情が冷えていくの。どうしてだかわからないけど。」
そう言って店を出て行くエリカを目で追いながら亜季はあの日の少女のような母を思い出していた。
そのままもう一度座りコーヒーを手にする。予期せぬ出来事が続き疲れたのか体中の力が抜けていく感覚に襲われていた。ボンヤリとしていた亜季の耳に隣のテーブルから会話が漏れてくる。まだ若い二人。ほんの数ヶ月前の亜季と朝香のようだった。大学生なのだろう。就活について話しているらしい。
「本当にアパレル業界に絞るの?」
「うん、そのつもり。」
「だってあやは声優になりたかったんでしょう?」
「前はね。でも人は変わるよ。それに現実は甘くないしさ。大学出たら自分の食べる分は自分でというのが我が家の方針なんだって。今まで聞いた事なかったけど。」
「それって声優をやめさせる口実じゃないの。」
あやと呼ばれていた本人よりその友達の方が不満気だ。
亜季の中に懐かしさがよぎる。思い出を抱えたまま店を出たくて立ちあがった時だった。さっきまで不満気だった友達がこう言った。
「私はもう子供の頃から漫画家になるって宣言してたから絶対なる。あやはさ、いつもこれでいいのかなんて迷ってばかりいるからそこにつけこまれるの。これなんだって前面に出して戦いも厭わない姿勢を見せると相手もかわるよ。もちろん変わらない人もいるけど。そこがあやの優しさでもあるけどそれじゃ自分のしたい事できない。本気度を見せないと。それでもわかり合えない相手は捨てるくらいの強さと冷たさも持たないと。」
店を出ると朝香の顔が浮んだ。
(いつか朝香もあの子と同じような事を言ってた。・・・母が変わって見えたのも、エリカがいつもと違うと感じたのも私の中の変化がそうさせているのだろうか。時に冷たく割り切る事ができる程の覚悟と強さがあれば恐れるものはないだろうか。私がわたしの夢を実現する為にそれは必要だろうか?多分必要。親子、友達その中の誰かを傷つけたとしても?・・・それでも私は自分が求めるものを求めたい。)
自分という燃え盛る火の中にいる亜季は少しずつ迷う優しさを封印しているようだった。
39、亜季・・・大人になれなくて