37、亜季・・・大人になれなくて

変わり時

37、変わり時

 時間の経過は時に速くて、時にもう止まってしまったのではないかと思う程遅い。よく人は歳を重ねた後に「本当にあっという間だった。」と言うがその間にどれだけの事を感じ、何を得て、何を捨て、人生の終わりに何を手にするのだろうか。

結局のところ与えられた時間の大半は他人と自分の摩擦をいかに少なくして安らかに日々を送るかということに費やされる。それでも長い人生では一度か二度は譲れない意地にも似た感情が噴き出す場面があるかもしれない。

  暖かくぼやけた春の風が街を通り抜ける。学生というひとつの枠から解き放たれた亜季と朝香が今ここにいる。

一人は花嫁という名の幸せを美しく身にまとい、ひとりはそんな友人を笑顔で見つめながら心の中であのライブの日に始めて芽生えた希望という一種の欲をかみ締めていた。


綺麗な朝香に送る曲は「Let`s Fall In Love」

ピアノを弾く中で朝香との4年間が亜季の横を優しく通り過ぎていく。女にしても、男にしても友情は永遠ではない。この先の人生の進め方で近くもなり、遠くもなる。ただ友情と呼ぶには振り返った思い出は優しいほうがいい。

ふと顔を上げ朝香を見た亜季にその友達はいつもと同じ微笑で頷いた。そして亜季もしっかりと頷いた。これまでのような自信のなさそうな表情ではなくやっと目的地が見えたという輝きの眼差しで。


 明日の朝新婚旅行に発つ二人の為に二次会も十一時には終り、それぞれが「おめでとう。」「幸せに。」の言葉をたくして去って行った。

最後に亜季が残りもう一度朝香を見つめた。

「朝香、本当に綺麗・・・こんな綺麗だったかな?」

「何言ってんのよ、今頃。私だもん。きっと結婚式場の花嫁、ベスト3には入るわね。」
そう言うと笑いながら亜季を見た。

「今日はありがとう。あのピアノよかった。・・・亜季、何かいい事あった?いつもと顔が違う。」

「いい事かどうかはわからないけど自分の進む道が見えた気がして。」

「そう。やっぱりジャズピアニスト?・・・頑張ってよ。落ち着いたらライブ見にいくからね。エリカは一緒?」

「うーん、暫くはそうかも。でもわからない。私は私のやり方で進む。」

「そうか。でも・・・何かあればいつでも来てよ。家は遠くないんだからさ。ああ・・・私がマネージャーやろうかな。」

「何言ってるの。お給料なんて出せる身分じゃありません。それにそんな暇ないでしょう。・・・でも、なんか訳がわからなくなったらきっと電話する。」

「そうだよね。亜季はすぐ方向を見失うから。・・・近いうちにまた会おう。本当だよ。」

朝香はこの日始めて亜季が遠くなるかもしれないと感じていた。だから何度も念を押したのかもしれない。

「イタリアからの手紙待ってるね。じゃあ、そろそろ行くね。」

そう言い残して亜季は店を後にした。外に出ると春の暖かい小雨が降り出した。日比谷の駅まで数分。亜季はぬれるのも悪くないと思った。

すべて起きる現実をそのまま受け止めたい。それが今の亜季だったから。うれしいことも、悲しいことも、時に他人への怒りや憎しみさえもそのまま感じとりたい。これまで自分の中の湧き上がる醜い感情をただ見まいと必死になっていた自分にふりまわされたくなかった。


一番信頼できる女友達の結婚。そこにはうれしさとほんの少しの寂しさがあった。人の幸せを願うという感情には本当であれば本当であるほど言葉にはできない寂しさを含むものかもしれない。

信号が赤になり立ちとまった亜季に近いうちにまた会おうと言った朝香の声が一瞬駆け抜けた。
そして信号は青に。

歩き出した亜季の胸に刻まれた確かな一歩は・・・私は近い内にニューヨークに飛び立つ。ジャズピアノで一流を目指したい。
それならば今のまま日本にいてだめかもしれない。行かなければ・・・必ず行く。それも5月の初夏の風が吹く頃には。またママが悲しむかな・・・でも、私は行く。)

37、亜季・・・大人になれなくて

37、亜季・・・大人になれなくて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-14

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