8℃

1

 かちちちちち、と、窓を開けて、ベランダに出た。

 ガラスに直接手をついたせいで、汗、油、それから水蒸気のスタンプ。いつも目的ばっかりを優先してしまう。

 普段ならこんなこと、気にしないのに。今日は違った。

 その時々にしか、見えないことがある。気分とか、天気とか、体調とか。いろんな要素が合わさって、その瞬間だけあたしの前に現れる。

 それを今まで、いくつ見過ごしてきただろう、いい加減に思っていただろう。その数が、ポップコーンみたいに膨らむ。

2

 たばこを一本取り出して、見よう見まねで口にくわえて、ライターで火をつける。

「ライター、どうして持ってるんだろ」

 考えかけて、「あっ」と思って、思考をシャットした。でも、すっかり分かったあとだった。

 煙を吸い込んで、空に向かってゆっくり吐きだす。ただでさえにじんでいた月が、うす青い煙でますます見えなくなった。風が冷たい。

 それから煙はミルクみたいに、8℃の空気に拡散する。今ここにある空気が何年後かに地球の裏側に到達するとか、そんなのはたぶん嘘っぱちだ。

 あたしはどこにも行けないのに、あたしはどこへも行けないのに。

3

 遠くに見えるマンションの明かり。階段フロアの電気だけがついていて、それが縦に並んでいるのは、まっすぐすぎる背骨みたいだ。

「だからあなたはそんなに猫背なのよ」

 長い間の習慣が、良くも悪くもその人をつくっている。

4

「どうしてこんなことに、なっちゃったんだろ」

 そうつぶやきながら、それがただの言葉でしかないことも、分かっていた。

 沸騰しているお湯に手を突っ込めばやけどするし、走っている車の前に飛び出せば、ひかれてケガをする。

 それを承知の上でやった挙げ句、「どうしてやけどしたんだろ」とか、「どうしてひかれたんだろ」とか、言ってるようなものだった。

 頭のなかで、お湯に手を突っ込んで熱がっている彼、車にひかれて痛がっている彼、を想像して、ちょっと笑ってしまう。笑わされる。

「ああ、もう、まったく。昨日の今日でも、かわいらしいんだから。たぶん今日の、明日でも」

 こんな時間でよかった、とあたしは思った。笑ったり泣いたり、にやにやしたりめそめそしたり。そんな変な様子はきっと、誰にも見られていないだろう。

5

「どうしてこんなことに、なっちゃったんだと思う?」

 無関心そうに見つめている、猫に向かって聞いてみる。

 答えは、たぶんあたしが思ったのと同じだった。だから、耳を傾けようともしなかった。

8℃

8℃

  • 小説
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-13

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