こころの闇
希望に胸膨らませ、やっと入社した会社でセクハラに会い、悩んだ挙句退社する事となってから、坂道を転げるように転落していく人生。
そこに待っていたのは……
序章
2015年春、川奈奈緒は期待と不安な気持ちでいた。今日は、やっと採用された三器産業株式会社の入社式である。
かなり大き目の会場で、会社内にある講堂のようである。舞台があり、緞帳が下されていて、新入社員は、パイプ椅子に座らされていた。人数にしてざっと見て百名くらいであるか?
周りを見渡すと、真新なリクルート姿の人で会場は一杯であった。
数名はもう仲良くなったのか、楽しそうに話をしているグループもあったが、ほとんどの人は真面目な顔をして、前を見つめていたり、手持無沙汰なのであろうか、スマホをしきりに弄っていたりしていた。
音楽が鳴りだし、会場は一気に静かになった。檀上の隅に司会者が立った。
「ただ今より、平成27年度入社式を開催いたします」と、同時に緞帳が左右に開き、中心に演台があり、マイクと水差しが置かれていた。
その向かって左側には、数名のいかにも偉い方、数名が座っていた。
いよいよ式が始まる。やや緊張していた。
胸には、胸飾りが付けられた恰幅の良い人が中央の演台の前に進んできた。
「ただ今より、三器産業代表取締役社長より、新入社員の方々に向けて、お祝いのお言葉を頂戴いたします」
「ただ今紹介に預かりました、三器産業の社長を務めさせて頂いております、三木英二と申します。この度は、数多くの企業の中から弊社を選んで頂き、ありがとうございます。
弊社は創業50年を迎える古株の会社でございます。こうして皆様のお顔を拝見させて頂きますと、活気に溢れた目をされている、非常に頼もしくまたしっかり働いてくれると、確信致しました。
今日はお祝いの日ですが、明日からは弊社社員として、幾度かの壁に会うと思いますが、是非乗り越えて頂きたい。
今日からは学生ではなく、社会人としての常識・責任感、そしてマナーを持って行動して頂きたくお願い致します。
本日は、誠におめでとうございます。弊社は諸君を大歓迎いたします。簡単ではございますが、以上で私からの挨拶とさせて頂きます」
会場から、パラパラと拍手は始まり、それに釣られるように会場全体の拍手となった。
「社長、どうもありがとうございました」
「続いて、役員の紹介に移ります。役職とお名前を頂戴したいと思います」
「総務管理本部長の山本です。よろしくお願い致します」拍手が鳴り響いた。
営業統括本部長、生産管理本部長の二名が続いて挨拶した。
「続きまして、新入社員を代表して大谷政史君、前に出て挨拶をして頂きたいと思います。よろしくお願いします」
「はい!」と大きな声がして、最前列に座っていた同期の挨拶である。
「本日は、私ども新入社員のために、このように盛大な入社式を催して頂き、誠にありがとうございます。
先ほどは、社長から様から、心温まるお言葉をいただき、身にしみて感激しているところであります。新入社員一同を代表して、心からお礼申し上げます……」
奈緒は、ボ~っとしており、内容をしっかり聞いていなかった。
「大谷君ありがとうございました。これで入社式は終わりますが、人事部の先導に従い、各々部単位で別会場へ移動をお願い致します。
本日は、誠におめでとうございます。拙い司会でございましたが、皆様お疲れでございました」
奈緒の名札には、総務管理本部経理課と書かれていた。総務管理本部の札を掲げている方に近づき、全員が集まるのを待っていた。
「総務関係の方は、揃われましたでしょうか?確認しますので、名前を読み上げますので、呼ばれましたら挙手をお願いします」
次々と名前を呼ばれ、奈緒も呼ばれ手を挙げた。
周りを見渡すと、営業関係の人数が圧倒的に多かった。その中の一人が、ジッと奈緒の方を見ていた。
見た感じは、悪くなく優しい目をしていたので、微笑み返すと、向こうも嬉しそうな顔をした。その時は、ただそれだけであった。
早々、総務関係者は講堂から移動し、小さな会議室へ誘導されて行った。総務関係者は、10名程で、その半数以上は女性であった。
その部屋の入口には「第一会議室」と書かれていた。いかにも会議室って感じであったが、椅子の並びは教室のように並べられていた。
「順不同で好きな場所に座ってください。出来れば前の方に詰めて頂きますと、私からの説明も聞きやすいとおもいますので、前から詰めていただけますか?奈緒は、一番、最後に入り、最後尾の席に着いた。
教壇のような机に立った方から説明があった。「私は、総務管理本部・総務本部・庶務課の伊藤ともうします。
(奈緒は心の中で、人事の人ではないのか~と、突っ込んでいた)皆様は、総務管理本部への配属となりますが、三ヵ月は仮配属となり、三ヵ月後に正式辞令が出て正社員となります。
今日はこれからのスケジュール説明と、仮の社員証をお渡しいたしますので、明日から必ずストラップに入れ、首から掛けて頂きますようお願い致します。
机の上にこれから二週間の研修を受けていただきますスケジュールと内容が書かれておりますので、持ち帰りしっかり読んでおいてください。
また、その間に健康診断を受けて頂く事、女性社員はこれから別室にて、制服用の簡単なサイズ測定をして頂きます。
今日入社されたばかりで、分からない事ばかりと思います。質問のある方がおられましたら、お受けいたしますので、遠慮なくしてください」
本当に何も分からないので、何を質問していいのかも分からない。
暫く経ち、「まずは入社時のご案内を読んで、分からない事があれば質問してください」と、言葉が終わらない内に一人が手を挙げた。「どうぞ」
「明日からの研修は、ここで行うのでしょうか?また、社員証にはICチップが付いておりますが、ビル入館時にあったゲートでこのカードをタッチすればよろしいのでしょうか?」
「説明不足で申し訳ございません。明日からの研修は、この場所で行います。まずは、会社の概要や業績、社是などの講習となります。
また、社員証の扱いですで、仰ます通り入館時、ゲートでこの社員証をタッチすれば、ゲートが開きます。JRの改札と同じと考えてください。
以上、他にご質問がなければ、男子社員はここに残って頂き、女性社員は、ここにおります者に付いて、別室へ行ってください」その方は、もちろん女性であった。
別室と言っても、隣の部屋で少し狭いかな?の感じであり、連れてきて頂いた方ってが一人ひとりの丈、袖丈、胸囲、ウエストを測ってくれた。
奈緒は9号サイズ、標準であった。控え室に居た数名が、指示通りにブラウス、スカート、上着、ベストを手際よく選んで渡された。
2組ずつ揃ってビニールに包まれていた。更衣室へ案内しますので、今受け取った制服を収納するか、気になる方は持って帰って洗濯してください。
しかし、明日からこれを着て頂きますので、洗うのは、1組にしてくださいね。笑いが起こった。制服は紺色を基調にしたシンプルなものであったが、スカート丈が短めなのが気になった。
「今はまだ春ですので、冬服を着用してください」その制服を持ったまま、更衣室と呼ばれる3Fにある部屋に案内された。奈緒は、ビニールを全て取り去り、ロッカーにあったハンガーに全ての服を掛けた。そして鍵を掛けた。
再度、総務部が集まった部屋に戻り、男性社員は、渡された冊子を読んでいた、ボ~ッと外を見ているもの、または談話しているグループがあった。
「今日は、お疲れ様でした。入社式という事もあり緊張して疲れておられると思います。これで解散と致します。くれぐれも、明日から社員証は忘れないで持ってきてくださいね。
会社に入ることができませんので」
皆は、起立し礼をして、外に出ていった。
午後の4時である。入社式が昼の1時からであったので、3時間も居た以上の疲れが奈緒の体に重く伸し掛かっていた。
疲れたので、早々に家に帰る事とした。本町駅から地下鉄に乗り、阿波座で降り10分も歩けば我が家である。
かなり近いから、「これからの通勤も楽だな」と、独り言のように呟きながら、自宅に戻ると、母が居た。
「早かったのね。疲れたでしょう、お茶とお菓子用意するわね」
「ありがとう。本当に疲れたわ」
「ご苦労さま。やっと決まった会社だから気合入れすぎたんじゃない?」
「そうかもね」
入社して
川奈奈緒が就職活動を開始したのは、大学3回生の頃であった。学生向けの就職セミナーにも何度も言ったし、会社説明会も数えきれない程行った。
卒業するのに必須の単位は落とせないので、勉強も頑張った。幸い必須講義の単位は取るとこができたが、2単位4回生まで持ち越してしまった。
「この度は弊社へのご就職希望して頂きありがとうございます。残念ながら貴殿の希望に沿う事ができない結果となってしまいました事を連絡致します。
今後ともご愛顧賜りますようよろしくお願い致します」と言う内容の手紙や、メールでの返答であった。
30社くらいから、断りの連絡があり、落ち込んでいた所、今の会社から採用内定通知書がきたのであった。飛び上がる程嬉しかった。
両親共喜んでその日の夕食は、豪華でお祝いパーティとなった。
しかし、友達の中にはまだ採用内定をもらっていない子が多い。学校では聞かれない限り、採用の内定通知が来た事は言わなかった。
まだ決まっていない人への配慮であった。4回生の生活は学生生活最後と言う事もあり、思いっきり遊んだ。友達とも卒業旅行へも行った。
京都にした。近いがほとんど行った事がなかったからである。期待に背かない、内容の旅行となった。三千院・清水寺・哲学の道・南禅寺・平安神宮・金閣寺・銀閣寺など著名な名所は回った。
京都に行って驚いたのが、外国人がすごく多い事であった。大阪ではこんなに外国人に会う事はない。
特に中国から来られている団体が象徴的であった。国民性なのか?自由気ままに行動する。その団体の後ろに付いたら、最悪であった。
日本人がいかに規律正しく行動しているのかを実感することができた。散策も遅々として進まないし、大声で、怒っているの?と勘違いするくらいのパワーであった
。しかし、嵐山での宿も素晴らしかったし、比叡山近くの宿も良かった。料理が京都らしく、食=美であった。京都に来ると、日本に生まれて良かったと感じる。
歴史もあるし、日本人の美徳と言う考えがいかに素晴らしい事であるかを痛感していた。味の表現も世界一らしい。歴史ある建物、京都弁の「ほっこりした」応対。
自分が別世界に居る錯覚を起こしそうであった。
無事4年間で取得する単位を全てクリアでき、晴れて卒業することができた。「学士」の称号を得る事ができた。
しかし、社会に出てすぐに役立つ資格は持っていない。珠算3級と習字1級くらいの資格しかない。これで社会に出てやっていけるであろうか?と言う不安は確かにあった。
写真も一杯撮った。今はスマホで気軽に撮れるので、便利である。いちいちカメラを出して写す必要はない。
気に入った風景、友達と今撮りたいと思えば、すぐに撮ることができる。
さて明日からいよいよ社会人一年生である。期待よりも不安の方が大きかった。
会社の始業は9時だから、家を遅くても8時20分に出れば間に合うなとか、今日渡された冊子を少し読んで、早々に眠りに就いた。
明くる日になり、興奮していたのかなかなか寝付けず、朝6時に起きたので寝不足である。母と一緒に朝食の用意をしている内に、父が起きてきた。
「いやに早いな。やる気満々じゃないか。最初から頑張りすぎると、途中で息切れしちゃうぞ」
うちの朝食は、パンと牛乳、目玉焼きとハム、サラダが定番であった
。リクルートスーツに着替え、会社に向かった。学校はもっと遠かったから、会社へはすぐに着いた。8時半である。会社のゲートでは、すでに多くの社員が、カードを翳し中へと入って行っている。
自分も同じようにカードを翳し、ゲートが開いたのを確認し中に入ると、ガードマンが「おはようございます」と元気よく挨拶してくれた。こちらも最初が肝心とばかりに、少し大きな声で「おはようございます」と返した。
「新入社員さんですね。よろしくお願い致します」えっ!新入社員か、分かるのか?5千名近くいる社員の顔を覚えているのであろうか?「こ、こちらこそよろしくお願いします」
ガードマンは笑顔で、敬礼してきた。何となく朝から清々しい気持ちで、更衣室へと向かった。
中では、数名が着替えをしていた。「おはようございます。新入社員の川奈と申します」と挨拶すると、古参らしきひとが「おはよう。どこに配属?」「まだ決まっていません」
「そうだったわね。元気があってよろしい、私は総務監理部財務課係長の山内です今後もよろしくね!」「はい!よろしくお願いします」最敬礼すると、クスクスと笑われた。
早々に、制服に着替える。やはりスカート丈が気になる。膝上数センチの丈。下着が見えないように気をつけないと……。
研修室へ向かう。すでに、3名くらい来て話していた。「おはようございます」向こうからも、「おはようございます」って返事され、手招きされた。
何かな?と思いつつ話に入っていくと、配属の話であった。「噂なんだけど、経理課に2名、財務課に2名、庶務課に2名配属らしいわよ」どこから聞いてきたのか?気にはなったが、「そうなんだ」と話を合わせていた。
「先輩の話によると、経理課の課長は、エロじじぃで、財務課課長は、堅物そのもので融通が利かないらしいわ。
庶務課の情報は入ってきてないのだけどね」物知りである。確かに、何処に配属になるか?は、奈緒も気になっている事である。三々五々と社員が集まり、始業ベルが鳴った。
研修室のドアが開き、昨日の担当の方(名前がまだ覚えられない)が、入って来た。
「皆様おはようございます」全員起立して、「おはようございます」と挨拶した。
「今日は、まず自己紹介から始めたいと思います」一瞬、周りがざわついた。
「でh、男性社員からお願いしますね。浅田君お願いします」指名された者が立ち上がり檀上へと向かって行った。
「浅田と申します。大阪府立大学経済学部出身です。学生時代は、バスケットばかりしていました。
ですので、辛うじて卒業できたって感じです。(笑が起こった。その笑に安堵したのか)バスケ以外は特に趣味はなく、寝て食べる事が好きです。どうそよろしくお願い致します」拍手が起きた。
「ありがとうございます。バスケしていたと言われる通り、長身ですね。
こうして、社会に出れば、人前で話す場面が増えてきます。今から慣れていく意図もあります。続いて……」次々と自己紹介が終わり、奈緒の番となった。
「私は、同志社大学の商学部卒業です。商学部は、女性が少なく、男性が圧倒的に多かったです。
趣味は、料理を作る事や手芸に興味を持っています。特技は特にありません。平凡な女の子です。性格は、人を押しのけては出来ないタイプです。どうぞよろしくお願い致します」大きな拍手が起こった。顔が真っ赤になっているのが、自分でもわかるくらいに。一通り自己紹介が終わり、研修が始まった。
初めは、社是・社訓の内容とその説明があり、三器産業の成り立ちから、現在に至るまでの歴史を教えられた。
元々は、味噌や醤油のような発酵食品を扱っていたが、発行技術を利用して医薬品部門にまでマーケットを広げて来た事。
事業所として国内はもちろん、北米、東アジア、欧州まで展開されていた。
いわゆるグローバル企業である。営業職でない奈緒は、本社勤務となり転勤することはないであろう。
海外に魅力はあるが、キャリアウーマンを目指してはいなかったので、本社勤務で十分であった。
お昼となり、社員食堂に行って驚いた。学生食堂とは大違いであった。
好きなメニューを選び、トレイに食べ物が入った入れ物で判定しているのか?瞬時に金額が表示され、社員証を翳すだけで、支払は給料引きとなるらしい。
それに、スペースがゆったり取られている。横に10名くらい座れる長机もあるし、仲間だけで食べられる5名掛けの丸テーブルもあった。
全てが白色を基調として、清潔感に溢れていた。何名くらい入られるのであろうか?その広さに只々圧倒されていた。
数名仲良くなった人達と一緒に食事をした。なかなか美味しかった。午後の研修までしばらく時間があったが、知らない場所でウロウロする事は、気が引けた。
昼の研修は、社内経理規定や人事規定の内容であった。しかし、ほとんど頭に入ってこない。興味がなかったからである。これらの説明で午後の時間は終了した。
友達となった人たちにお茶を誘われたが、疲れていた為丁重のお断りして、帰宅することにした。
後2日間の研修が終われば、仮配属の発表がある。どこに配属になるのか?すごく期待もあったし、不安でもあった。
三日間の研修か終わり、いよいよ配属の発表があった。その発表は、朝、研修室に行くと部屋の壁に貼られていた。
川奈奈緒「総務管理部経理課配属を命ずる」と書かれていた。
「経理課か~、簿記をもっとしっかり勉強しておけば良かった」と少し後悔した。
学生時代に日商簿記2級には合格していたが、資格試験の為の勉強であって、実践に使えるのか不安であった。
順番に配属場所へ、研修担当者が案内して行き、奈緒達(奈緒を入れて2名だが)は最後で、経理課へ案内された。
経理課は、本社ビルの2Fにあった。ざっと見て2~30名程いるようである。
研修担当者が、経理課と天井からぶら下がっている札のある場所で、少し離れた位置に座られている人の傍まで連れて行かれた。
「この方が、ここ経理課長で、山中様です」
「はじめまして、新しく配属となりました、川奈奈緒と申します。よろしくお願い致します」
もう一人も、名を名乗り挨拶した。山本彩絵である。
「お~、君たちか。ここが経理課で、第一係と第二係に分かれている。私は、課長を務めている山中順一です。
これからよろしく頼む。席は……川田係長、この子たちの席に案内してあげて。まぁ、仕事は追々先輩に教わりながら、覚えて行って欲しい。
私が入った頃は、算盤で計算していたが、今は全てコンピュータがしてくれるので、楽と言えば楽だけど、私には付いていけない。
余計な話はこれくらいにして、席に行って欲しい。紹介は、休憩時間に行うので暫く机の整理でもしていてくれ」
「かしこまりました」二人は最敬礼し、川田係長に従い、席へと向かった。二人とも並びで隣同士であったのが、少し嬉しかった。
隣の方は、伝票を仕分けしていた。ほとんどの人が無言でひたすらパソコンに向かって何を入力している。すごい速さだ!
自分にできるのか?不安となったが、隣から山本彩絵が「筆記用具やゴム印、印鑑、ノートがあるね。片づけましょう」と言う言葉に促されて、自分の机の引き出しにサット備品を収納した。
10時の休憩時間となり、課長から紹介があった。「皆そのまま聞いていてくれ、今度経理課に配属になった。
川奈奈緒さんと山本彩絵さんだ、皆可愛がってくれ。また、二人の歓迎会は来週の金曜日を予定している。
後は幹事に任せるのでよろしく。休み時間なので、簡単にこれで終わりとする」二人は前を向き、そのまま名乗り最敬礼した。
「はじめまして、私はここの主任の山田と言います。これから、私の元で経理課の仕事を徐々に覚えて行ってもらいます」優しそうな女性であった。
顔つきが、タレントの堀北真希に似ている美人である。
「よろしくお願い致します」
「まぁ、徐々にね。皆最初は何も分からないのが当たり前で、一年くらい経つと何とかできるようになるわ」
「一年もかかるのですか?」
「ええ、経理は四半期ごとに決算処理して、本決算が来年の3月締めで4月処理でしょ。一周しないと、この仕事は覚えられないから気楽にいきましょう」
「ご迷惑をかけないよう、頑張ります」
「早速だけど、目の前にあるパソコンの操作をやってみましょうか?電源を入れて」
「ここのボタンを押せばいいんですか?」
「そうそう。暫くすると画面に「ようこそ画面」が表示されるわ。パソコンの操作はできるよね?」
「出来る!程ではありませんが、自宅で学生時代レポート提出や、ブラウジング、メールくらいしかしていません。SNSはもっぱらスマホです」
「弊社のシステムは、AD(Active Directory)サーバで管理されているようだわ。私は詳しくないけど。ユーザによって、使用できるプログラムが制限されているとか……。
経理システムは確か……SAPとか言うのを使っているわ」
ADだのSAPだの言われても、ちんぷんかんぷんであった。
一通りのパソコンの起動、シャットダウン方法、後勘定科目一覧なるものをもらっていろいろ話している内に、終業となった。
「今日は、おつかれさまでした。また明日も頑張りましょう」
「こちらこそ、一日私共に教えて頂きありがとうございました」
主任と別れると、すぐに近くに居た女性社員が寄ってきた。
「私須藤って言うの。よろしくね。ところでね、うちの課長には気を付けた方がいいわよ。ハワハラ・セクハラ大臣だから」
急にそのような事言われても、どのように返事したらいいのか?分からない状態であった。
「何人も被害に合っているので、一応注意してね」
「ありがとうございました」二人で顔を見合わせた。お互い頭を傾げただけで……、まだその魔の手が自分に降りかかってくるとは、想像すらしていなかったのである。
「キャッ!課長止めてください」って声が聞こえた。経理の女性社員がお尻を撫でられたらしい。
「これは本当に気をつけないと、なるべく近づかないようにしよう」と終業後に嫌な場面をみせられ、気分が悪くなりながら帰途へと就いた。
嫌なものを見てしまった!帰りの電車でも家でも気分が悪かった。
会社であんな事をするなんて!いくらグローバル企業とは言え、一気に憧れていた世界が現実を見てしまった事で、やる気が萎えかけていた所、友達から電話が入り、近況など報告し合った後、今日のセクハラ行為を話した。
友達は、「どこでもある事よ。私も何度も体触られたし、直接誘われた事もあったよ。
丁重にお断りしたけどね。でも、奈緒が行っている会社は、コンプライアンス違反は×じゃないの?ひどいようだったら、周りの人に相談してみたら?」
「そうね。相談してみるわ。ありがとう」電話を切った。そして眠りに就いた。
翌朝も30分前に出勤し、ガードマンさんが元気よく挨拶してくれた。
昨日の事は忘れるようにし、清々しい気持ちで職場へ向かった。始業ベルが鳴ると、主任が近づいて来て、いよいよそのSAPシステムの使い方を教わった。
ほとんどのデータは、すでに取り込まれていて、それに添付されている伝票と照合する事を行った。添付伝票内容と自動仕分けさて内容の確認である。
勘定科目は少々分かるが、一つ一つ主任に確認して、データ確定を行っていく。ただひたすらその作業をその日は行った。気を張り詰めていたせいか?肩がカチカチになっていた。
今日はいよいよ私達の歓迎会の日である。
課長は、朝から上機嫌であった。いつもは、部下を叱咤する声を何度か聞いていたが、今日は、何でもいいよ!で済んでいるようだ。
サラリーマンになると、飲み会が唯一の楽しみになるのかな?ちょっと寂しい気持ちがした。
奈緒も仕事に大分慣れてきて、余程変な伝票が流れて来ない以外、主任に聞く事はなかった。
自分が確認したデータはもちろん主任の承認を得て、係長・課長の承認を受け、実データとして取り込まれるので、その度に主任の手を煩わせるのも気が引けた。
終業ベルが鳴った。今日すべき仕事はすでに終わっていた。終業20分経った頃、課長が立ち上がり、「幹事今日の準備はOKかな?私は少し遅れていくので、若い人達で先に行っていてくれないか?」
「かしこまりました」
「では、仕事が終わっている人から出発します。まだ終わられていない方は場所(地図)と連絡先を書いた紙をお渡ししていますので、万一来られない事が分かり次第連絡して頂きますようお願いします。
では、行ける方は私に付いて来てください。新入社員の方は、私と一緒に行きましょう」
名前すらしらない(ネームプレートを見れば武田とあった)幹事に付いて行く。いくつかの角を曲がりながら、門構えからして高そうな店に案内された。
「予約していました、三器産業です」
「はい」と女将さんであろうか?いかにもと思わせる和服の着こなしであった。
「お伺いしております。また、平素は弊店をいつもご愛顧賜りありがとうございます。席はすでに用意できておりますので、どうぞこちらへ」女将らしき人が、案内してくれたのは大広間であった。
和食の店らしい。有名なのであろうが、奈緒は知らなかった。
幹事が「主賓である川奈さんと山本さんは、どうぞこちらの席にお座りください。他の方はご自由に好きな場所にお座りください」
奈緒達は、上座の席に座らされた。席一つ開けて二人は座った。他の人たちも上着を脱ぎ、飲み会モードで、どんどん座って行った。しばらくすると、課長が現れた。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
奈緒達の間に座った。
「お待たせしてすまない」
「では、只今より経理課に配属になられました、川奈様と山本様の歓迎会を開催致します。まずは山中課長のご挨拶と乾杯の音頭をお願いします」
スクっと課長は立ち上がり「今年も新しいメンバーを迎える事が出来、非常に喜ばしい事である。成長する会社は、若い人が元気な会社と言われている。
少々の失敗など気にせずどんどん新しい事に挑戦して欲しい。では、お二人を経理課として大歓迎する事で乾杯したいと思う。ご唱和お願いします。乾杯!!」
あちこちで「乾杯!」の声が上がった。奈緒達は一礼して、課長とグラスを重ねた。
「これからよろしく頼むね」
「こちらこそ、初めは皆様の足を引っ張ると思いますが、一日も早く皆様と同様に会社の戦力になるよう努力致します」
「頼もしい言葉だね」と、二人の肩をポンポンと交互に軽く叩いた。
「では、乾杯も終わりましたので、主賓である川奈様と山本様を囲んで、無礼講とは言えませんが、楽しい会としたいと考えております」座るとすぐに仲居さんを呼び、料理を運ぶよう指示していた
。また、ビール・ウイスキー・焼酎のセットも会場の脇にセットされた。
「川奈さんはどこから通っているの?」課長である。
「阿波座って駅から通っています」
「ほ~、それは近くていいね。ボクは、高槻の方からJRで来て、梅田で乗り換え会社まできている」
何故か、奈緒の方ばかり向いている気がする。
そこで奈緒から「山本さんはどこから通われていますか?」と、課長の注意を山本さんに向けた
「堺から通っています。課長と同じくJRですが、天王寺で地下鉄に乗り換え会社まで通っています」
「そう、堺って遠いようで交通の便はいいからそんなに時間はかからないよね」
「ええ、40分くらいです」
社員が次々と奈緒達の所に集まり、まず課長のグラスにビールを注ぎ、奈緒達にも勧めてくる。
お酒はそんなに飲めないので、舐める程度でグラスを出すと、「もっと開けてから」
と言われ、課長が「無理示威しちゃダメだぞ」と言いながら、満面の笑みを浮かべていた。
一通り、挨拶の名の元の、ビール注ぎが終わり、それぞれの席に戻って仲間内で好きに飲んでいた。
結構な人数である。会社をよく知らないが、20名くらいは参加してくれているようだ。
「先日説明したように、経理課には、第一経理係と第二経理係があって、その上が経理部となっている。
経理部の下に経理課と財務課がある組織だ。今度、経理部長に挨拶に行こう!仕事での連絡は、基本電話でする事になっているんだが、緊急の事もあり携帯のアドレスを教えて欲しいのだけど。
もちろん、緊急以外に連絡はしない」
奈緒は躊躇したが、上司の命令は聞かざるを得ない。奈緒と山本さんはそれぞれのメールアドレスを課長に教えた。
「ありがとう。私はスマホが使えなくてね。機械音痴なのだ。ほら、ガラケーだろ」まだ、ガラケーを使っている人が居るんだと分かっていたが、少し驚いた。
奈緒の周りは全てスマホだからだ。LINEやFacebookはスマホが使いやすい。「おい、川田!」係長を呼びつけた。
「せっかくこうして新しいましてやこんなに美人の新人が入ったので、ボクを入れて写真を撮ってくれ」
「かしこまりました」と言い、係長はスマホで課長を中心に写真を撮ろうとし「撮りますよ」の言葉と同時に、課長は奈緒と山本さんの肩を抱き引き寄せた。
「これで、撮ってくれ」「では、撮ります」フラッシュが2度程光り、写真が撮られた。撮り終わっているのに、奈緒の肩に乗せている腕を下してくれない。「お酒は弱いのかな?」
「ええ、学生時代はコンパで飲む程度で、そんなに飲む機会もなくて、慣れていないのかも知れません」
「じゃ、ボクがこれから教えてあげよう。社会人となると、この職場でも仕事上飲む機会が多くなる。慣れておかないとね」
その時奈緒は気づいていなかったのであるが、係長がシャッター音を消し、課長と奈緒を写真で何枚か撮っていたのであった。
数時間、ほとんど料理に手を付ける事が出来ず、会は閉会となった。料理を食べられなかったのは、課長がずっと奈緒の肩を抱いていたからであった。
また、顔を寄せて来てキスしようとしてくるのを、辛うじてかわす事が出来た。苦痛でしかなかったが、歓迎会を開いて頂いている事で、何も言えなかった。
課長がトイレに立つ時も、酔ったふりなのか?本当に酔っているのか?奈緒の太ももを支えにして立ったり、座ったりしていた。その時も、分からないように、太ももを撫でていく。
奈緒はただ我慢していたので、誰も気づいていないようであった。また、立つふりをして、奈緒の髪の毛の香りを嗅いだりした。山本さんは、他の人と会話に夢中になっていた。何で私だけ?
「そろそろ時間が参りましたので、これでお開きとします。二次会へ行かれる方は、ご自分のお財布と相談して行ってください。今日は、お疲れ様でした」
奈緒は課長から二次会に誘われたが、かなり酔ってしまった事を理由に丁重にお断りした。
「じゃ、二次会に行く者、ボクに付いてこい」数名が課長の後を追った。その中には女性は一人もいなかった。
「大丈夫だった?」主任である。
「課長は、コンプライアンス違反常連者なので、チラチラ見ていたら肩を抱かれていたわね。
嫌だったでしょ。よく我慢したわ。経理課だけじゃなく他の課の女性も被害に合っているの。気を付けてね」
「誰も、会社に言わないのでしょうか?」
「後の仕打ちが怖いから言えないの。コンプライアンス関係している人はほとんど課長に抑えられているから」
「部長もご存じじゃないのですか?」
「ええ、部長は事なかれ主義で、課内の揉め事は、課内で解決しろ!と、言う考えの人だから」
「私どうしたら、いいのでしょう?」
「皆経験している事だけど、いつまでも黙っている訳にはいかないようね」
「会社に抗議しますか?」
「また、皆と話しておくわ。なるべく課長には近づかない事ね」
「わかりました。出来るだけ近づかないようにします」
「ごめんね。力になれなくて……」
「いいえ、お心遣いありがとうございます」
「もう帰る?」
「ええ、疲れちゃった」
「今日の事は忘れて、お風呂入って、寝ちゃい事ね。じゃ、気を付けて」
「では、ここで失礼します」奈緒は、帰路についたが、まだ課長の腕の感触が肩に残っており、不快な気持ちでいた。
家に着くとメールが入った。
「今日はご苦労さん。明日からも仕事頑張ってね」課長からであった。あんなに、緊急の時のみ、メールは使わなと言っておきながら、もう私用で使ってきている。
更に不快な気持ちとなり、飲めないお酒を飲み、無理やり寝る事にした。魘されていたのか?夜中に目が覚め、時間を見ると午前2時半であった
。一流企業に入社したのに、セクハラに合うなんて、想像もしていなかったので、そのショックは大きく奈緒の心に鉛が溜まったような、大声で叫びたくなるストレスに襲われていた。
暫くウトウトとしたであろうか?目覚まし時計が鳴り、ベッドから起き上がると、軽い眩暈がした。食欲もない。
母が「どうしたの?元気ないわね。会社で何かあった?」
「ううん、何もないよ。新しい仕事で慣れないから疲れているのかも?」
「そう、無理しないでね」
「分かった。今日は、ちょっと食欲ないので朝食いらないわ。着替えて会社に行って来る」
「気をつけてね。しんどくなったら、休み取って帰ってきなさいよ」
「大丈夫。そんなに頑張らないから」
「行ってらっしゃい」
「行ってきま~す」と、母親の前では元気な素振りを見せていたが、会社へ向かう足が重く感じていた。
いつものように、始業30分前に入り仕事の準備をしていた。
始業にならないと、システムも動かないので、パソコンを立ち上げても、インターネットの閲覧は禁止され、ブラウザを立ち上げても表示しない。
仕方ないので、スマホを弄っていた。次々に社員が出勤してきた。「おはようございます」「おはよう、昨日はお疲れ様」次々と挨拶を交わしていく。
始業5分前に、課長が出勤してきた。無視していたが、ジ~っと奈緒の方を見ている視線を感じていた。背筋に寒気が走った。
「おはよう!」課長が奈緒に向かって声を掛けてきた。「おはようございます」と、俯き加減で返事した。
「何だ、元気がないようだな!昼飯元気の付くもの食べに行くか?」
「ありがとうございます。申し訳ございません、友達と一緒に食べる約束しているもので」
もちろん、ウソである。
「そうか!残念だな、また今度な」
「申し訳ございません。よろしくお願い致します」辛うじて、誘いを断った。心臓がドキドキして止まらない。
「顔色が悪いわよ。大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
「課長に近づかない事、これしか自分を守る方法はないわ」主任である。
いつものように、パソコンで伝票をひらすら処理して行く。すごい数の振替伝票を発行するが、そのほとんどはシステムが自動で行ってくれているので、確認程度で済む。
仕事の方は、コツを掴んできたので、苦痛はなかったし、仕事に集中する事で、課長の存在を忘れる事ができた。
この日は何事もなく終了し、久々に大学時代の友と会う約束をしていた。「久しぶりだな~」と考えるが、卒業して半年も経っていない事に、驚く自分がいた。
もう何年も会っていないくらい、これまでの間に色んな事がありすぎたかも知れない。
梅田のイタリアンの店で会う約束だ。ゆっくり行っても間に合うのだが、早く会社から離れたくて、走るように駅に向かい電車に乗った。
相変わらず、御堂筋線は混雑している。民営化を目指して、初乗りの値段を下げたのも影響しているのかも?など考えているうち、梅田駅に着き、
歩いても10分もかからない場所にその店はあったので、約束の時間より20分も早いが中に入る事にした。暫く待つと、友達も来てくれた。「久しぶり~」思わず立ち上がり、彼女を迎えた。
「久しぶりだね。卒業してそんなに日にちは経ってないけど、学生時代とは違うよね」
「学生時代は、何か時間を持て余していたようだったわね。会社務めとなると、一週間・1ヵ月経つのが早いよね」友達の大友直子が言った。
「直は、会社どこだっけ?で、何の仕事をしているの?」
「私は、介護関係の会社に入って、今資格取る事が求められているの。だから、仕事しながら勉強って、キツイわ。勉強は学生で終わりと思っていたから」
「介護関係の仕事!大変だろうけど、これからどんどん需要が増える分野だね。頑張っているんだ!」
「奈緒は?」
「バイオ関係の会社で経理している。それでね、課長からセクハラ受けているの」
「え!セクハラ!コンプライアンスとかしっかりしているんじゃないの?」
「一応形だけあって、その人は特別みたい。被害者が結構いて、気をつけるように言われているんだけど、どう気をつけるのか?わからないわ」
「立派な犯罪じゃない!警察に相談したら?」
「会社辞めるなら、そこまでできるけど、せっかく苦労して入った会社なので、両親にも心配かけたくないしね」
「それ、泣き寝入りする!って事?」
「泣き寝入りじゃないけど、先輩から課長にちかづかないように、って」
「私なら、警察行っちゃうわ」
「証拠があれば、刑法にも民法にも引っかかる事よ」
「ん。暫く我慢してみる。それでもダメだったら、会社辞めるわ」
「辞める時は、告訴してやればいい!」
「ごめんね、嫌な話ししちゃって。ず~っと悩んでいたんだ」
「私の連絡先知っているよね。何かあったらすぐに連絡頂戴」
「ありがとう。話して、少しスッキリしたわ」
その日は、ゆっくり寝る事ができた。
翌日会社に行くと、皆が集まってワイワイ言っていた。何事か?と輪の中に入ると、事もあろうか、歓迎会で盗撮された奈緒の写真が人のスマホに写っていた。
驚いて、「それ何ですか?」
「ツイッターだよ。誰かがこの間の歓迎会の時に写真をネットにアップしたみたなんだ。でも、ヒドイよね。
川奈さんが、後ろに倒れかけている所なので、下着が見えているよ」
「え!私の写真でそんな恰好の物がネットに流れているんですか?」
「これは本当にヒドイ!ネットに一度流れれば、デジタル・タトゥーと言って絶対に消せなくなる!」
奈緒は眩暈がして、その場で倒れてしまった。あまりのショックで、それからどうなったのか?目を開けた時は、病院のベッドの上であった。
「気がついた?」主任が付き添ってくれていた。「大丈夫?」
「訳が分からなくなって、それから私どうなったのでしょうか?」
「会社で倒れたので、救急車を呼んだわ。で、ここは大阪南病院」
「主任が付き添ってくれたのですか?ありがとうございます」
「当たり前よね。あんな写真をいきなり見せられたら、驚くよね。許せないわ!きっと課長がした事だわ」
「ツイッターで人を特定できないです」
「しかし、奴しかあの場に居ていたメンバーではいてないわ」
「仕事で迷惑ばかりかけて申し訳ございません」
「ううん。そんな事気にしなくていいの。でも、このままじゃ気が収まらないわね。で、具合はどう?」
「気分が悪いです。とても今日は働けそうもないので、休ませてください」
「休むのはいいのだけど、あなたの事が心配。先生は、精密検査しないと分からないけど、多分精神的なものだと言っていたわ」
「主任。私は、大丈夫なので仕事に戻ってください」
「でも、まだ顔色悪いし、気になるから」
「お気持ちは、ありがたいのですが、気分が優れなくて、こうしてお話ししているのも辛いのです」
「ごめん。気が付かないわね、私って。じゃ、会社戻るけど、夕方また来るわね」
「ありがとうございました」寝たまま頭を下げた。言った通り、人と話す事も苦痛であった。
医師が現れて、いろいろと質問された。
「どのような状況で、倒れられたのですか?」
まさか真実を伝え難かったので、「気分の悪い物を見たとたんに、意識がなくなっていました」
「良ければ、その気分の悪い物って何ですか?」
「言わないといけませんか?」
「個人的内容で言いたくなければ、それでも構いません。言って頂いた方が、治療方針が立てやすくなります」
「そうですか……」
「血液検査では、特に異常となるような所見はなかったので、何かストレスを感じられているのかな?と思いまして」
「確かに、上司からセクハラを受けた事があります。一度だけなのですが」
「年齢からみると、入社されたばかりでいきなり、セクハラを受けるとショックですよね」
「ええ、確かにショックでした。それ以降食事に誘われたりしましたが、断っておりました。それが……」
「それが?」
「原因か分かりませんが、私の写真をネットに流されました。上司がしたか?は不明です」
「なるほど、精密検査は必要ないかもしれませんね。暫く抗不安薬を処方しますので、出来れば会社は休まれた方がよいと思います」
「そうですね。今の状態で会社に行く勇気はありません」
「かしこまりました。診断書を書いておきましょう。そして、あなたの会社へ送っておきます」
「ありがとうございます。よろしくお願い致します」医師は、笑顔を作り「無理に頑張ろうと思わないようにね。症状が悪化する可能性がありますから」と、言い病室から出て行った。
このまま会社を休み続けなければいけないのか?不安で一杯であった。
病院で精算を済ませ、処方箋をもらい薬局へ行き、処方箋を渡した。
処方された薬は、「ソラナックス」であった。
楕円形でピンクかかった色の錠剤であった。
薬剤師から、車の運転は控えるように、またお酒も出来れば止めて欲しい、また危険を伴う作業も控えて欲しいと言われた。
抗不安薬って何だろう?と、考えながら帰りは、用心の為にタクシーで帰宅した。
帰ると、母が「大丈夫?会社からあなたが倒れたと聞いたので、病院に行こうとしたら、今日帰られるそうですって聞いて待っていたのよ」
「大丈夫、疲れかな?眩暈がして倒れただけだから。薬も貰ってきたし、お医者さんも暫く会社休むように、って言われたので、明日から休むわ」
「そう?大丈夫なの?どこか悪いって、お医者さん言わなかった?」
「精神的に疲れていると言われて、体はどこも悪くないわ」
「そう、ならいいけど。暫くゆっくりしなさい」
「うん。そうする。疲れたから、部屋で休んでいるね。用事があったら呼んで」
「それがいいわね。とりあえず休む事が大事よね」母はかなり心配しているようだ。
しかし、本当の事は言えない。これ以上母に心配はかけたくないから。もう大人なんだから。
部屋で、パジャマに着替え、ベッドで横になる。目を瞑れば、恐怖心が出て闇は不安であった。
処方して頂いた薬を飲むと、自然と眠りに就いていたようだ。スマホの着信音で目が覚めた。
「大丈夫かな?会社で倒れたと聞いて驚いている。昼過ぎ病院から連絡があり、医師から暫く休むようにと言われたが、どこか悪いのかな?」課長からであった。
無視しようと思ったが、また嫌がらせされるのも怖いので、「大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ございません。
先生が言われる通り勝手申しますが会社休ませてもらいます」と返信した。
「分かった、診断書が出ているので、有休が足らなければ、ボクが何とかするから、ゆっくり休んで欲しい」と、また返ってきた。
「あんたの仕業じゃないの!セクハラまでして、人の写真(恥ずかしい場面)まで、ネットに流出させて!最低!」心臓がドキドキして息苦しくなった。
食欲はなかったが、両親に心配かけまいとして、無理して半分くらい食べた。シャワーを浴び、薬を飲むと急激な眠気に襲われ、そのまま寝てしまった。
朝起きても、頭が重たい感じがする。体に異常はないのだが、精神的な苦痛も耐えがたいものであった。
何もする気が起こらない。本も読みたくない。テレビも見たくない。精神を安定させないと、と思い自分の好きな曲をスマホでダウンロードし、小さな音で聴いていた。
昼食も食べられなかった。母は、かなり心配しているようだ。
夕方になり、来客があった。主任である。
早々に自室へ案内し、お茶を出した。
「川奈さん、大丈夫?」
「ご心配とご迷惑をおかけして申し訳ございません。病院で「パニック障害」と言われました。
その治療薬も貰っています。大丈夫と言えばウソになります。主任には何でも話せますから、来て頂いて気が楽になりました。ありがとうございます」
「そう言って貰えると、来た甲斐があったって事でうれしいわ」主任は笑いながらそう言った。
奈緒も釣られて笑っていた。久しぶりに笑った気がした。
「しかし、奴が居る限り復職は難しいよね。何とかならないかしら?」
「あまり表沙汰にしたくないのです。人は噂好きだから、そうなったら本当に会社に居られなくなってしまいそう」
「そうよね。ここで戦っても、会社側は揉み消そうとするでしょうね。一社員の事など考えていないのが現実だから。
ちょうど明日からゴールデンウィークだからゆっくり休めるわね」
いろいろ、会社の事は避け、楽しい会話をして主任は帰って行った。
「優しい方だな。社会には色んな人がいる。学生時代は、気の合う者としか付き合っていなかったので、嫌な思いはあまりした事はなかったな~」
夕食も少し食べただけで、薬で寝る事ができた。
翌日も、とても会社へ行ける状態ではない。そこで、父が帰宅してから両親と会社を辞めたい事を相談した。
「せっかく入れた会社なのに、何故辞めるの?」母はすごく心配していた。
「理由を聞かないと、何とも言えないな」父の意見である。確かに、ただ辞めたいだけなら、小さな子供と一緒である。
しかし嫌だから辞める、その理由は言いたくなかった。
「こうして精神的な病気になるくらいのストレスを与えられ、今の会社に行く事により、病気も悪化しそうなので」
「どんなストレスなのだ?」
「一言では言えないわ。自分の精神的弱さもあるのかも知れない。このまま続けられる自信がもうないの。分かって欲しい」最後の方は涙声となっていたのが、自分でもわかった。
「奈緒の人生だ。親といえども、一人前になった子供の言う事に反対はできないな。見放すわけじゃない!親はいくつになっても子供の味方だ。
例が悪いが、罪を犯してしまったとしても親は自分の子を守る」頼もしい!また、ありがたい言葉であった。
「我儘ばかり言ってすみません。自分で決めた事なので、後悔しないつもり」
「分かった、奈緒を信じるよ。でも、本当に治るまで、家で養生する事にしろよ」
「ありがとう、お父さん・お母さん。違う仕事を見つけてそこで頑張れるようにします」
「無理はするな!」
両親が理解してくれた事で、かなり気持ちが楽になった。医者から、この薬は自分の判断で、飲むのを止めたり、多く飲んだりしては絶対にいけない事を言われていたので、
その日も、久しぶりに夕食を完食し、シャワーを浴びた後、薬を飲み熟睡する事ができた。
友達の大友直子に連絡を入れた。
「私、会社辞める事にしたわ」
「そう。奈緒が決めたのなら、友達として応援するわ」
「ありがとう。辞めるって決めてから、体調も良くなっているの」
「じゃ、決断してよかったじゃない」
「表沙汰にして、戦う元気もないしね」
「奈緒なら、いくらでも仕事見つかるよ。さっきも言ったけど、応援するからね。何でも言ってきて」
「ありがとう。助かるわ」直子が友達で良かったと、つくづくそう思った。
翌日、早速「退職願」を書いた。
「一身上の都合により、退職したくお願い申し上げます。 平成27年5月7日」ゆっくり丁寧に書いた。割り切ったつもりでも、書いている内に涙が滲んできた。
課長のセクハラが無ければ、何も考えないで写真をネットにアップしたのであろうが、今問題となっている「デシタル・タトゥー」。
一度、アップしてしまうと、消す事ができなくなってしまう事を知らないのであろう。それが無ければ……。楽しい職場生活があったかも知れない。
連休明け、始業時間より遅れて会社へ行き、そのまま課長席に向かい、「退職願」を渡した。
「どういう事だ?何故辞める?」
「一身上の都合です。お世話になりました」言って、課長に背を向け、会社から出て行った。後でどうなろうが私には関係ない事。最後に、ガードマンさんに「お世話になりました。今日で退職します」
「えっ?まだ入ったばかりじゃないですか!どうしてですか?」の言葉を聞きながら、最敬礼して会社を後にした。寂しさはあった。しかし、清々しさの方が大きかった。
退職してから
病院に行ってみようかな?症状も出ていないし、薬止められるかも?と考え、行く事にした。
予約はあったが、薬を止めてよいと医者に聞きたくて行った為、待合室で1時間以上待たされた。待っている間、雑誌を読む余裕もでてきている。
「川奈様~、お待たせしました。どうぞこちらへ」看護師さんから声がかかった。
「体調はいかがですか?」
「ストレスの元となるものと、決別してきましたので、すごく気分も良いし、症状もでていません」
「それはよかった……、決別?」
「はい、会社辞めました」
「すごい決断だね。医者からすると、ストレスの元となるものから離れるのが一番良いと言えるのですが、生活もありますので言えませんでした」
「採血した結果も以前と同様に、問題となるような数値はありませんでした。動機や冷や汗もかかなくなった?」
「ええ、以前ここに連れて来られた時のような症状は、今は一切ありません」
「じゃ、少し弱めの安定剤を処方しましょう。それで、もう症状が出ないようでしたら、服薬は止めてもらってよいです」
「ありがとうございました。本当にお世話になって、感謝しています」
「ボクは、医者だからそれが仕事だよ。複雑な社会になって行っているよね。
昔は、このような精神的な病は、ほとんどないくらい、社会全体がゆっくりしていたからね。
脅かすようで申し訳ないけど、一度このような病に罹ると、フラッシュ。バックと言って、急に思い出して同様の症状を繰り返される方が多いんだ。
だから、もしそうなったら、いつでも来てください。お大事に」
最敬礼して、診察室をでた。処方箋を薬局に持っていくと、今度は「デパス」が処方されていた。
薬剤師さんも、薬の説明書を読んでいてくださいね。くらいで、特に注意するような事はなかった。
前の薬に比べて、遥かに効き目が弱い物のようであった。
病院からの帰りは、鼻歌でもでそうな楽しい気分であった。一人でお茶でも飲んで行こうかな?以前の自分ではないような、体がすごく軽い。
オープンテラスでお洒落なお店があったので、紅茶(ダージリン)を堪能した。この種類の紅茶が大好きだった。
香りもいいし、鎮静効果もあるのか?心が満たされていく感じを、体の細胞1つ1つが受け止めてくれているようだ。久しぶりにゆっくり落ち着いている自分を感じていた。
主任からの連絡だと、奈緒が辞めた事が大問題になり、内部監査人に課長が呼ばれたそうだった。
周りの人も順番に呼ばれ、主任は正直に事実を伝えたと聞いた。数日後に、その結果が出そうだとも。
もう私には関係のない世界。どうなろうが、知った事ではない。この事件がきっかけで、会社がよくなったいいとは、考えていなかった。
連絡をもらったので、主任にはお礼のメールを入れておいた。
一からやり直しかぁ~。世に言うフリータでいようかとも考えたが、安定した仕事がしたかった。
明日から「ハローワーク」に通おう!と決心した奈緒であった。
その日は、久しぶりに夕食を作ろうと考え、母にその旨伝え、食材を探しに近くのスーパーへ行き、「シチュー」がいいかも?
5月で昼間は暖かいが、夜はまだ寒いので、「父も喜ぶかも?」具材を買い、早々にシチューを作り始めた。父はいつも7時半か8時には帰ってくる。
「迷惑かけたからな~」心ばかりの、親孝行である。母も奈緒が元気になって喜んでくれていた。父が帰ってきたので、三人で食卓を囲み、夕食を食べている。
「ウマイじゃないか!このシチュー」
「美味しい?良かった、お母さんとお父さんの為に頑張って作ったのよ。いっぱいあるからね」
「奈緒の手料理、久しぶりだもんな~」父は上機嫌であった。いままで、これが普通の生活と考えていたが、まさか自分がこんな目に合うとは、想像もしていなかった為、普通である事の幸せを噛みしめていた。
数日後、主任から再度連絡があり、課長は懲罰会議に掛けられて、懲戒免職は免れたものの、半年の減俸20%とかなり厳しいお咎めを受けたと言う内容であった。
「ざまを見ろ!」と奈緒はもう思わなかった。悪い事をすれば、それに見合う罰則が与えられるのは当然の事で、新聞で読んだ○○容疑者懲役10年の実刑を言い渡された。
の、内容と同じ感じしか受けなかった。関係ない人がどうなろうが、奈緒にはどうでもいい事であったからである。
しばらくハローワークに通うが、なかなか自分に合った仕事の募集はなかった。
仕方がないので、アルバイト情報を探し、近所の花屋さんがアルバイトを募集していたので、連絡し、履歴書を持ってお店まで行くと、明日から来て欲しいと即決であった。
奈緒にとってはありがたい話であった。
花屋さんで働くのも楽しそう、切り花のアレンジなども勉強できるし、あんな会社辞めて良かったとつくづく思っていた。
花屋さんの朝は早いが、奈緒は9時出勤で閉店の18時までの勤務であった。時給も普通以上あったのも嬉しかった。
「まず花の名前を憶えていかないといけないね」女将さん。
9時に出勤すると、卸から仕入れた花が届けられたばかりであったので、女将さんの指示通り花を並べていった。
初めての花屋さんでの仕事である。頑張らないと……。朝は比較的お客さんは少なく、昼過ぎからポツポツとお客さんが入ってきた。
アレンジを買う人、鉢植えを買う人、仏花を買う人様々であった。
お昼休憩を取り、結構お客さんが来るのだな~と、自分では今まで花など、母の誕生日などで買う程度で、そんなに買った記憶がない。
しかし、結構売れていく。夕方になると、OLやサラリーマンの人達が多く来られる。
会社での制服と違いジーンズにTシャツエプロンを付けて、気軽に動けるし、座ったままの仕事より、動き回っている方が、奈緒には合っていたのかも知れない。
数習慣そのお店で働けてもらい、簡単なアレンジも教えてもらい、お客様の予算に合わせ、切り花を選んでいく事も覚えていった。
「奈緒ちゃん、なかなか筋がいいわね。そろそろ一人で、お店任せられるかも?」「一人で、ですか?まだ無理ですよ。女将さんのように、手際よくできません」「大丈夫!奈緒ちゃんなら、すぐにできるようになれる!」嬉しかった。
初めは、花の香りで咽ていた、季節により変わっていく、生き生きとした花を見ているだけで、精神的に安定してきている。もう、薬は飲んでいない。
ある日の夕方、いかにも紳士って人がお店に来て、「妻の誕生日なんだ。
適当にそうそうバラを中心に1万円くらいの花束作ってくれない?」「かしこまりました。奥様にプレゼントですが!素敵ですね」
「いや~、何十年も一緒にいるとね。あまり話す事もなくなって来て、たまには花でも贈ろうかな?と、考えただけ。しかし、前から何度か来ていたけど、ボクの事覚えている?」
奈緒には、記憶がなかった。しかし商売なので、「もちろん!存じ上げていますよ」
「うれしいな。こんな美人に覚えてもらえるなんて、ボクは2駅向こうの銀行に勤めているんだ。立派な中年だけどね」
「中年だなんて、まだまだお若いですから、女性社員が放っておかないじゃないですか?」
「そう!と言いたいところだが、これが全然モテない。妻帯者だから、当たり前か~」
「はい!できました。少しオマケしておきました。奥様の為に」
「ありがとう、そこの真紅のバラ1本もくれる?」「はい!かしこまりました」
「ではお勘定を」「1万と500円です」
「ありがとう、この1本のバラは、君にプレゼントだ」「私に?」「そう!いやなら捨ててくれ」
「イヤな事ないです。すごく嬉しいです」
「そう、良かった。喜んでもらえて」
「初めて会った人に、こんな事言うのは気が引けるのだが、今度一緒に食事でも行ってくれませんか?おじさんと」
「本当ですか?ええ、喜んで」
「じゃ、決まり!また、ここに来るね。その時に正式に誘うから。今日は、誕生日だから早く帰らないとね」ウインクしながら、その紳士は去っていった。
嫌な思いをした前の会社の課長と違い、清潔感溢れる方であったので、承諾してしまった。
心の傷が残っていたので、彼氏を作る気持ちすら起こらなかったのに、何故、あの方のさそいを受けてしまったのか、自分でもよく分からなかったが、とにかく清潔感が気持ち良かった。
数日、お店を一人で任されるようになり、かなり忙しい日を過ごしていた。お客様を待たさないように、また一人ひとりに丁寧に対応する事を心掛けた。
お蔭で、奈緒を指名して、花束を作って欲しいだの、花の育て方を教えて欲しいと言うお客様も出てきて、毎日が楽しかった。「すごいわね。半年で一人前じゃない。
もっと大きな花屋さんが人を欲しいって言っていたけど、行ってみる?」
「いいえ、私は女将さんのお店が好きなのです。いろいろ教えてもらったし、まだまだ恩返しも出来ていませんから」
「そう、私に気を遣う事はないわ。その花屋さんで認められたら、自分の店を持つのも夢でなくなるのだけど……」
「自分の店は夢ですが、まだまだと思っていますし、さっきも言いましたように、この店・女将さんが好きなのです」
「そう言って頂けると、光栄ね。せっかくのチャンスなんだけどな~。無理にとは言わないわ。私も奈緒ちゃんがいなくなると、寂しいもんね。頑張りましょう~」
「ええ、よろしくお願い致します」
毎日が楽しくて仕方がない。こんな気持ちを味わうのは、学生時代以来だ。「人生って何が起こるか分からない、嫌な事もあれば、楽しい事もある。
一時の地獄のような生活はウソのように無くなっていた。
そんなある日、例の紳士が本当にやって来た。内心「冗談で言っている」と考えていたのだが、本当に来店しに来たのである。
「こんにちは、バラは元気にしている?」
「ええ、大切に育てていますから、元気ですよ」
「それは、良かった。お店は何時までなの?」
「18時までです。後は女将さんが夜の時間働かれています」
「今週の金曜日、お食事でも行きませんか?」
「はい!金曜日ですね。空けておきます」
「彼氏とのデートが入ったら言ってね。と、メールアドレスを裏に書いた名刺を渡された。みずほ銀行、執行役員と書かれていた。名前は小山啓二とあった。
「役員さんなのですね。偉いさんなんだ!」
「執行役員だから、たいした事ないよ。責任ばかり重くて、給料は安い!本当の偉い方は、電車通勤などしていないよ。
でも、電車通勤でよかった。あなたのような、明るく美しい人と知り合えたのだから」
「美しくなんでないですよ。この花達の方が遥かに美しいと思っています」
「その、純粋な心も素敵だな~。あ~、また真紅のバラ1本包んでくれる?」
「はい!かしこまりました。どうぞ、これでよろしいでしょうか?」
「ありがとう。また、君へのプレゼントだ。私は、花の事はよく分からないのだが、この真紅のバラが大好きでね。存在感があるのがいい」
「私も、バラは大好きです。赤いバラの「花言葉」知っていますか?」
「いや~、知らないのだ、恥ずかしいけど」
「あなたに恋焦がれています。です」
「お~、まさしくその通りじゃないか!」と言って、頭を掻いた。奈緒の顔も真っ赤になっていた。
「では、金曜日に。ここまで、迎えに来ます」
「はい!お待ちしております」
同世代の子と付き合う気もないので、おじさまくらいが、頼りがいがあり、心の相談も出来るかも知れないと考えていた。何となく心が軽い。
この店で働いていて良かったとつくづく思った。
金曜日となった。定刻の18時ジャストにその人はやってきた。少し待ってもらい、奈緒は、仕事着ではなく、花柄のワンピースに着替えた。「お待たせしました」
「いいえ、いつものエプロン姿と違って一段とエレガント感が溢れていますね」
「そんな、普段着で申し訳ございません」とペロッと舌を出した。彼も高級なスーツに身を包み、上着のポケットにはチーフが覗いていた。流石に着こなしている。
「では、行きましょうか。お好みのお店はありますか?」
「特に、最近は出掛けませんので、何処がいいのか?分かりません。お任せします」
「了解!では、軽くワインの美味しいお店をご案内しましょう」
タクシーに乗り、20分位走った所にその店はあった。地下にあるようで、鉄製の階段を下り、ドアを開けて中に入った。
「いらっしゃいませ。今日のお客様は、お仕事関係?」行きつけの店らしかった。主人らしき人が、不躾にそう聞いてきた。
「今日は、プライベート!マスター内緒でね」
「かしこまりました。では、こちらへ」
と、店の一番奥の席に案内された。
「いつものワインと、料理はお任せで」
「承知しました。今日は特別な日のようなので、昨日仕入れたフランスからのワインをお出ししましょう。私のお墨付きです」
「マスターはワイン通だからな。任せたよ」
ワインは赤ワインであった。
マスターではなく、ソムリエと呼ばれる方が、グラスのワインを注ぐ。
小山さんは黙って、グラスを持ち、クルクルと液体を回しながら、香を確認して、少し啜るようにワインを口に入れ、口の中でしばらく味わい・香を確かめている。いかにも場馴れした、
その仕草に「さすが、叔父様って感じ」と心の中で呟いていた。「いいワインだね。これをお願いします」テスティングに合ったようだった。
ソムリエは、私のグラスにワインを注ぎ、そして彼のグラスにもワインを注いだ。
「では、改めて乾杯しましょう。二人の出会いに」軽くグラスを合わせ、二人でワインを一口飲んだ。
芳醇な香りが口腔を満たす。ワインの事はわからないが、きっと高級なワインだろうな。と想像していた。
次々と料理が運ばれてくる。特にオマールエビの料理とスペアリブの料理が美味しかった。生まれて初めて食べる味である。きっと色んなお店を知っていて、料理には詳しいのだろうなと、考えていた。
「すごく美味しいですね。ここの料理」
「気に入ってもらえて嬉しいよ。ボクもここの料理は最高と思っていたので、誘ったよ」
「ありがとうございます。私のような者に、このような高級な料理また、ワインまで頂き恐縮しています」
「そんな事ないよ。素敵な人だから、ボクも素敵な時間を過ごせて楽しいよ。さて、お腹も一杯になったので、お酒でも飲みに行く?」
「私お酒弱いのですが……」
「任せておいて、酔わせて変な事しないから」
「信頼しています。そんな方じゃないと思っていますから」
「じゃ、後少しだけ付き合ってくれるかな?」
「ええ、お付き合いします」
外に出ると、酔った頬に夜風が当たり心地良かった。頼りがいを感じていて、且つ好意まで生じてきたので、そんなつもりはなかったのだが、彼の腕にすがりついてしまった。
「ん?どうしたの?酔った?」
「ごめんなさい。酔ったのもありますけど、ちょっと話聞いて頂けますか?」
「ボクで良かったら、喜んで聞かせてもらうよ」奈緒を振り払わずに、さりげなく空いている手で、髪の毛を2,3回軽く撫でてくれた。
奈緒も応えるように、掴んだ腕を更に強く抱きしめた。この人に、自分の心に残っている闇を取り除いて欲しかった。
またタクシーに乗り、しばらく走った後、二人は降りた。繁華街から少し離れた場所であった。彼が立ち止った先には「Bar・Lover」と看板があった。
「恋人かぁ、私には縁のない事だな」と考えながら、彼の後に付いて行った。店内はテーブル席もあったが、カウンター席に向かって行ったので、それについて奈緒も彼の横のカウンター椅子に座った。
ここも行きつけのお店らしく、マスターと親しげに話していた。
「何飲みますか?」
「お酒の事知らないのです」
「じゃ、サワーで」「マスター、ベースは少な目にね」マスターがOKサインを出した。
「ボクは、ジントニックを」
「いつもの物ですね。承知しました」
店内は暑くもなく、寒くもなく丁度いい空調設定がされていた。それでもマスターはキチンとネクタイを締め、ベストを着ていて感じが良かった。
「このお店も、良く来られるのですか?」
「たまにね、気が向いたら、一人で来る事が多いけどね。カウンターが好きなんだ。一人と言うのもあって、自分の世界に入る事ができる。
ここのマスターもそういうボクの邪魔は決してしない。どうも有名なお店で修行したみたい。だから、お客さんに対する姿勢が他の一般のショットバーの感じじゃない所が気に入っているんだ」
「どの世界も生き延び、続けるって難しい事なんですね」
「そうだね。皆、必死で頑張っているよね。普通の人が普通の生活が出来ないようになっているのが、悲しい現実だよね」と、言いながら、グラスを持ち一口飲み、それが喉を通って行くのを、楽しんでいるように見えた。
大人の男って感じである。奈緒も一口飲み、その爽やかさに、ジュースじゃない?って思うくらい、柑橘系の香が口の中を満たしてくれた。
静かなジャズが流れている。その雰囲気だけで、奈緒は全てを話そうと決心した。
「さっき言った、話なのですが、聞いて頂けますか?」
「うん、いいよ」
「今は花屋さんに勤めているのですが……ご存じですよね。その前に会社務めしていたのです。
東証一部上場の所謂、大企業だったのですが、配属された先の課長からセクハラを受け、またネットに自分の写真を流出されて、精神的に可笑しくなって、結果退職しました。
今でも、安定剤は飲んでいるのですが、今の仕事は楽しくて、二日に1度くらいの間隔で服薬しています。
花屋さんで働いている間は、大丈夫なのですが、夜ひとりになると、フラッシュ・バックと言うのでしょうか?嫌な事を思い出して寝られず、悪夢で目が覚める事がしばしばあすのです」
「そんな大会社で、セクハラが許されるのですか?今の時代は、コンプライアンスだとか、EAP制度導入している企業は多いはずなんだけど。で、訴訟したとか?」
「いいえ、そこまでは考えませんでした。友達にも相談したのですが、揉み消されるだけだから、結局もっと嫌な思いをすると思うから止めた方がいいって」
「他人事のような言い方で申し訳ないが、世の中そうなのかも知れませんね。しかし、現実、あなたはまだその傷を抱えて生きている。どうすればその傷を治す事ができるか?を考えましょう」
「ありがとうございます。甘えていますけど小山様なら私の心の傷を癒してくれるかな?と思っています」
「ボクは、その大きな傷を治せる名医じゃないけど、サポートする看護師さんにはなれるかな?自分で言うのも変なのだけど、持論として出来ないかも知れない事を気安く受けないようにしている。相手に対しても失礼だしね。
しかし、一度引き受けたからには、全力で対応するよ」
「本当に、初めての食事会で、甘えた事を言った私が厚かましいのですから」
「いいや、話してくれてありがとう。またボクを選んでくれて光栄に思っているよ。奈緒ちゃんの傷が治せるよう、最大の事をするつもりだ。
約束!今後、前の会社の事は一切話さない事!いつまでもマイナスな過去を心に残すごとに、どんどん焼き付いてそれこそ刺青みたいに、取れなくなってしまう。早く心の中から、闇が消えるよう頑張ろう!」
「ありがとうございます。話して良かったです。いつまでも引きずっていたらダメですよね。忘れられるように頑張ります」
「恋をすれば、すぐに忘れられるよ。冗談だけど、そんな気持ちにもなれないのはよくわかるから」
「確かに、今の私には恋する心の余裕と言うか、闇が消えない限り人を愛せないと思います」
「確かに、深い傷を負ったのだからね。ゆっくり時間をかけて、心の傷じゃなかった闇って言ったよね、それを消しゴムで丁寧に消して行こう」
「ありがとうございます。こうして話を聞いて頂くと、闇は消えて行くと思います」
「じゃ、そういう事で、確かに請負ましたので、お任せください。やると決めたら、最後までやり抜く男ですから。恰好良すぎるかな?」二人で大笑いした。
「そうそう、そうして笑うのも大事だよね。笑う門には福来る!人生いろいろあるけど、生きていれば、良い事もある。死を選んじゃそれで終わり。チョン!」首を手のひらで切るマネをした。
その言い方が面白かったので、奈緒は、更に大笑いした。お腹が痛くなる程笑った。いい人と出会えてよかったと心からそう思った。
「さて、今日はこれくらいでお開きとしましょうか。話も聞けたし、また会えそう感触を受けたのでボクは満足、お腹いっぱいです」
「あははは、お腹いっぱいですかぁ?。今日はありがとうございました」
外に出て、タクシーを捕まえ「家まで送るよ」の言葉に、「今日は甘えちゃいます。とことん」行先を運転手さんに伝え、タクシーは間もなく奈緒の家の前に着き、
「今日はありがとうございました」「こちらこそ、またね」最敬礼をして、タクシーが見えなくなるまで、見送っていた。
季節は、夏に突入し蝉が耳鳴りするくらいの音量で、周りで鳴いている。
これまでに小山とは数回会い、遊園地へ行ったり、公園で話したり、2,3時間も喫茶店で話し込んだりして、もちろんその間、小山は奈緒に対して性的な要求は一切してこなかった。
それもあり、奈緒の心の闇は消えつつあった。毎日が楽しい!生きているという実感を噛みしめていた。
そんな時であった。花屋の女将さんが慌てて店に来て、「奈緒ちゃん大変よ!」
「どうしたのですか?そんなに慌てて、何かあったのですか?」
「あったも何も、小山さん交通事故に合われて、救急車で運ばれたそうよ」
「本当ですか?」顔色は真っ青になっていた。「何故女将さんがその事を知っているのですか?」
「彼の奥さん、私の友達なの。それで奥さんから連絡があり、どうしたらいいか分からない、と聞いたのよ」
「そんな!重体なのですか?」
「詳しくは聞いてないけど、奥さんからの連絡だと、かなりの重症らしいわ」
「病院はどこでしょうか?」
「大阪南病院!すぐに行って」
「はい!お店すみません。今日休ませてもらいます」
「そんな事どうでもいいから、早く行きなさい!」
奈緒はタクシーを捕まえ、病院まで走って行った。心臓が飛び出しそうだ。走ってもないのに、呼吸が荒くなる。運転手さんが「大丈夫ですか?」と心配するくらいであった。
病院の受付で、患者の名前を告げ、何処に行け会えるのか聞いた。「病室は3Fの308号室です。
しかし、今は面会謝絶です」「そんな!会えないでしょうか?」「ご親族の方でしょうか?」「いいえ、親しくしている者です」
「わかりました。先生と連絡取ってみます」
「よろしくお願いします」
「先生の許可が下りました。でも、30分を限度としてくださいとの事です」
「わかりました」エレベータがあったが、少しでも早くと、階段を駆け上がった。
308号室部屋の患者プレートには「小山啓二」と書かれていた。
静かにドアをノックした。中から「はい」と声が聞こえたので、スライド式のドアを開けた。
奥様であろう、狼狽しているのが、見てとれる。「あの、どちら様でしょうか?」
「花屋でアルバイトしている者です。小山さまには、いつもお花を買って頂いて……」それ以上説明できない。
疑われるのも彼に失礼だ。「そうですか。お見舞いありがとうございます」と話していると、彼が急に苦しみ出した。
ベッドサイドのモニターがアラーム音を出している。医師と看護師が走って中に入って来た。「すみません、緊急ですので外に出ていてもらえませんか?」
「はい」と言うなり、看護師がカーテンを素早く締め、別の看護師がアイロンのような物がのっている器具を運びこんできた。
モニターのアラーム音は鳴りっぱなしだ。「アド投与!」「はい」医師の声で緊迫しているのが分かる。知らない同士であったが、手を取り合って、中の様子を伺っている
。何かに掴まっていないと、倒れそうな気持で、お互い手を取り合っている。「電気ショック用意!」医師の声がハアハアと言う呼吸と同時に発せられている。
心臓マッサージをしているのであろうか?「皆、患者から離れて!」「バシッ!」と言う音が聞こえた。「次、150まで上げる。離れて」また「バシッ!」と聞こえた
。「医局長を呼んできて!」「はい」看護師が走り出して行った。まもなく中年の医師も走って病室の中に入った。「バイタルは?」「……」専門用語でわからない。
「K投与!アドは入れたのか?」「はい」「分かったそのまま続けて」
「帰ってこい!」若い医師の声が聞こえる。30分くらい経ったであろうか、汗だくの医師と中年の医師から中に入るよう呼ばれた。
看護師たちは、そそくさと器具を持ち立ち去って行く。聞きたくない!瞬間そう思った。
「どうぞこちらまで」小山の横まで通された。
唇が真っ青だ、それに口角が割け血で滲んでいた。目は閉じている。まだ生きているように見える。
「最善の処置を施しましたが、只今午前11時45分死亡を確認しました」医師は手を合わせた。「し・ん・だ??」奥様はかなり取り乱していた。
「主人は死んだのですか?」
「はい、蘇生術を出来る限り行いましたが、残念です」そこに、警察官が入ってきた。
「南署の○○です。被害者はなくなられたのですか?」
「はい、運ばれた時はすでに内臓破裂状態でしたので。検死に回されますか?」
「いえ、その必要はありません。承知しました。奥様、後でお時間を頂きたいと思います」
「主人が死んだんですよ!」嗚咽と共に吐き出された。
「お気持ちはお察しします。何時間でもお待ちしますので、捜査のご協力をお願いします」
「……」奥様は無言であった。ただ、小山さんに縋り付き、泣き叫んでいた。奈緒も同じように、縋り付き泣き叫びたかった。
しかし、奥様の手前、遠慮し、声を殺して嗚咽していた。涙がとめどなく流れた。泣くしかできない。こんないい人が何故死ななければいけないの?信仰はなかったが、神を恨んだ。
通夜は夜に執り行われた。その日は生憎の雨であった。故人を天が悲しみ涙を流しているような雨であった。
執行役員であったので、社葬となっていた。奈緒は近くまで行ったが、中に入るのを躊躇していた。
そこに、花屋の女将さんが来て「どうしたの?お通夜に来たのでしょ。さぁ、中に入りましょう」促されて会場へと入り、一般受付で、香典袋を渡そうとしたが、「お気持ちだけ頂きます」と、返された。
確かに受付の横には、「誠に勝手ながら、御香典・御献花の儀はお断りされて頂きます」と書かれていた。
参列者名簿に名前を書き、通夜会場へと歩を進めた。大きな会場であったが、ほとんどの席が、人で埋まっていた。社葬なので会社関係の人が多いと想像していたが、それにしてもかなりの数の方が参列されている。
祭壇に目をやると、彼が笑っている写真が中央にあり、黒枠で囲まれたものであった。その周りには、主に白い花で埋め尽くされていた。
祭壇の横に並んでいる方々が親族であろう。親族もかなりの数の方が参列されていた。近くに座っている方が、「まだ犯人は特定できていないらしいわよ」
「ひき逃げって事?」
「それも分からないんだって。状況証拠や事故を見た人によると、小山さんは確かに青信号で横断歩道を歩いていた所に、白いワンボックッスカーがノーブレーキで撥ね飛ばしたと聞いているわ」
「最近の警察能力はスゴイから、現場での証拠品からすぐに、車種など分かるって聞くけどな」
「すぐに捕まるでしょう。罪を犯しておいて逃げているって許せないわ」と、話声が聞こえた。
まもなく時間となり、司会がスタンドマイクの前に立ち「本日は、お忙しい中また、足元の悪い中、故小山啓二の通夜の為にご参列頂き誠にありがとうございました。
では、皆様合掌にて、ご導師様の入場をお迎えください」皆、合掌して下を向いている。「ご導師様、ご入場!」
ご導師様と言っても、先頭の方が手に持った鐘を鳴らしながら、そのすぐ後に紫の法衣に身を包んだいかにも高僧って感じの方、最後にもう一人合掌しながら入場されてきた。
係りの方が手際よく、ご導師様がちゃんと座れるよう、椅子の調整をし、導師が腰かけるのを手伝っていた。
大きな鐘の音の後、読経が始まった。マイクも付いていたが、三人で読経されているので、かなりの音量だ。奈緒は、静かに小山の事を思い出していた。
出会ってから、奈緒の心の傷を治してくれると言い、「まだ完全に治っていないんだよ!」って叫びたくなった。
傷は徐々に小山の優しさで治ってきていたが、闇は更に大きくなっていっているのを感じていた。焼香が始まった。焼香台に焼香炉が10個は並べられていた。
この数だから、当然な数である。奈緒も焼香の為に並んだ。奈緒の番が来て、しっかり写真の彼を見る。
「ゆっくり休んでください。ご家族の為に一所懸命働いて来られ、私の心の傷もほぼ治してもらいありがとうございました。早すぎる!もっと、あなたと語りたかった」合掌と同時に大粒の涙が流れてきた。
後から後から流れ出て来る止める事はできないので、ハンカチで押さえながら、ご親族に一礼して、そのまま会場を出て行こうとすると、係りの人から「粗供養」と書かれた小さな紙袋を渡された。
「ありが……」と言ってはいけない事を思い出し。「恐縮いたします」と言い直して、会場を後にした。
涙は止まったが、虚脱感に襲われた。「大切な人を亡くすってこんなに悲しい事なのだ!」別れたなら、また会えるかも知れない。
しかし、もう決して会えない事は、言葉に言い表せない心臓を締め付けられるような、お腹の底から湧きあがる悲しい思い。体全体が悲しみで覆われている。
早々に帰宅し、自室で思いっきり泣いた。大声を出して泣いた。家族に聞こえないよう、枕で口を覆い思いっきり、全身を震わせ泣いた。数時間泣いていたであろう。
思い出し、スマホに残っていた、彼の写真を見て、「何で死んだんだよ!」
「私の心の傷を治すって言ったじゃないか!」
事故だから、仕方ない事なのだが、事故、故に悔しさ・後悔・懺悔・色んな感情が奈緒の心を支配していた。
その日は、一晩中スマホに写っている彼に向かって話かけた。当たり前だが、写真は笑っているだけで、返事はない!分かっていても、ずっと話かけた明け方まで。
誘惑
花屋のバイトに行く気はしなかったが、女将さんに迷惑掛けたくなかったので、花屋に向かった。花屋は開いていて女将さんがおられた。「今日は休むかと思っていたわ。大丈夫?」
「ええ、ご迷惑を掛けたくなかったので」
「こんな時だからね、落ち込んで起きられないか?と思っていたわ」
「そこでお願いがあるのですが、来週から1週間お休み頂いてよろしいでしょうか?」
「来週から?いいけど、どうするの?」
「心の整理も兼ねて、旅行にでも行こうと考えています。目的地は決めていませんが」
「旅行かぁ~、分かるわ、その気持ち。私も行きたいけど、一人じゃないと意味ないわね」
その日は寝ていなかったが、普通に接客し、一日を終える事ができた。
仕事中、しばしば彼の事を思い出したが、来週ゆっくり彼の事、自分の心の闇を真摯に向き合おうと考え、仕事中は彼を頭の中から追い出していた。
あっという間に、一日が終わり帰路についた。家に帰り、「何処に旅行へ行こうか?」と考えていた。何気なく手にした旅行の雑誌に「伊勢。志摩」が紹介されていた。
たまたま見つけた雑誌に運命を感じた。「お伊勢さんがいいかも?」日本を代表する、天照大神を祀っている神社だ。そこへ行く事に決めた。
その日は、薬に頼り寝る事ができた。
インターネットで、近鉄特急「しまかぜ」に乗りたかったが、座席はすでに満席であったので、「アーバンライナー」の一人席を予約した。
宿はどこがいいかな?と雑誌のページを捲っていると、一枚大学時代の写真が落ちてきた。
そのページには「鳥羽国際ホテル」が初回されていた。海に近いリゾートホテルのようだ。古びたいかにも旅館をイメージしていたが、写真が出てきた事で何かまた運命を感じ、このホテルに決めた。
宿泊料は若干高めだったので、空き室はすぐに抑える事ができた。明日、もう一日、花屋で働けば、明後日から旅行へ行ける。
目的は、彼の思い出をしっかり頭に焼き付け、自分の心の闇を消す事であった。すでに、旅行へ持っていく荷物の用意はほぼできている状態である。
「では、女将さん勝手申しますが、一週間のお休みを頂きます。よろしくお願いします」
「あ~、ゆっくり行っておいで、お土産買ってきたら怒るからね!全部自分の為にだけにね」
「お言葉に甘えさせてもらいます。明日出発します。何かありましたら、携帯の方へ連絡頂ければと考えております。では、行ってきます」
「気を付けてね。女の一人旅は、特にね」
「はい、ありがとうございます。では」と、花屋を後にした。自宅へ帰り、最終チェックして、宿さえ決まっておれば後は気の向いたまま行動しようと考えていた。
念の為に、旅行雑誌を購入していた。
上本町駅から鳥羽までの特急は限られていた。12時50分発の特急に乗る。鳥羽まで3時間少しの乗車だ。
一人席にしたので、隣に誰かが来る事はない。スマホで音楽を聴きながら、ウトウトしかけていた。
近鉄電車は山の中を走っている。車窓を見ても、変り映えのしない風景ばかりで、少し寝てしまっていたようだった。
新幹線は何度か乗った事がある。そのスピードの違いに、これ特急?と、失礼な感想を漏らしていた。
やっと鳥羽駅に着いた。駅前だけにお店があり、少し離れると何もない感じがした。
駅前にホテルのシャトルバスが停車していたので、手荷物一つで乗り込み、バスはまもなく発射した。乗って座りゆっくりしようと考えている間に、ホテルに到着した。
豪華なホテルである。たまに贅沢もいいかもね。嫌な事が立て続けに起こった為、自分の心を癒したかったから、ちょうど良いホテルを選んだ事に満足していた。
フロントで宿泊手続きを済ませ(ネットで予約していたので、簡単に済んでよかった)
ルームキーを受け取った。ベルボーイが近づいてきたが、大した荷物でないので自分で持って、部屋まで案内してもらった。オーシャンビューはスイートルームしかなかったので、ハーバービューの部屋に案内された。
「ありがとう」と、早々にベルボーイに帰ってもらった。早く一人になりたかったからである。
カーテンを全部広げ、ホテルからの景色に満足した。ベッドに洋服を着たまま、大の字で寝てみる。
固さもちょうどいい感じであった。靴を脱ぎ棄て、ストッキングも脱ぎ、素足で部屋を歩きまわす。自由を満喫できている感じがする。
夕食までまだ時間があったので、素足にサンダルを履き、ホテル周辺を歩いてみた。海以外何もない所であった。
浜辺まで歩いて行き、浪打際で座り込み、潮風に吹かれていると、今までの嫌な事が、本当は小さな事だった錯覚に陥ってしまいそうになった。
広い海、ただ引いては返す波を見ているだけで、何を悩んでいたのか?大きな地球の、ここは一部の場所なのに、こんなに広い。
自然の静かな顔を見て、人間の小ささを実感していた。ここは別世界なので、そう感じてしまうのであろう。この壮大な環境で、いかに自分の心の闇を消すことができるか、模索しようと思った。
「あすは、伊勢神宮に行こうかな?」と、決めたら、お腹が空いてきた。
ホテルへ戻り、部屋で着替えて、レストランへ行った。伊勢エビをメインとした料理を注文した。
「小山さんのように、こういう場所に慣れていて、ワインも楽しめるような大人になりたいな~」と考えている内、料理が運ばれて来た。
本場の味であるので、大阪で食べる味と全然違っていた。美味しい!新鮮さが違う。エビの身も弾力があり、甘かった。
「小山さんのマネしてみようか?」と思い、グラスワインを頼んだ。もちろん白ワインである。ブドウの味が残っている爽やかなワインであった。
お腹も一杯になり、少し酔ったので、夜風に当たりたくなった。ホテルの周りにはちらほら人が散策している。
「これなら安心かな?」アベックが多いのが気になったが、今の自分には無縁の事と、見ないようにした。一頻り散策した後、部屋へと戻り、大浴場があると聞いていたので、そちらに向かった。
観光ホテルは浴衣姿がOKなのだ。男性はほとんど浴衣を着ていた。さすがに、女性なので、洋服のまま大浴場へ行き、その広さにも驚いたが、夜景で漁船であろうか?明かりが海の上のあちこちで点滅していた。
静かな海の夜景もいいものだな~と思い、結構長湯をしてしまった。その日は部屋へ戻り寝る事とした。
翌朝起きてテレビを付けると、小山さんをひき逃げした犯人が逮捕された事をニュースが伝えていた。
飲酒運転がばれるのが怖くて逃げていたと言う。人の命を奪っておいて、自分の身が可愛いのか!憎しみを感じた。
しかし、犯人に仕返しをしようとは思わなかった。警察車両から伺える人相は、本当に凶悪犯のように見えた。その後ニュースで本人の写真も公開されたが、普通の人であった。
何故そのまま出頭しなかったのか?人を殺したかも知れない恐れで隠れていたのであろう。人間の業を見た気がした。
同じレストランで軽く朝食を済ました後、ホテルにタクシーを依頼し、伊勢神宮へと向かった。
休日と言う事もあり、結構な人がいた。観光ではないので、内宮には寄らずに外宮へと向かい、神殿に向かって小山さんの冥福を祈り、合わせて頂いたお礼も伝え、
自分でまだシコリのように残っている心の傷を自分で治す事を約束した。ガイドに書かれていた通り、二礼・二拍手・一礼して参った。
日本古来の神社である為、いろいろ逸話があるようであった。龍神の話・魔除けの門符の話などなど。
逸話であるにせよ、天照大神に纏わるお話なので、団体旅行で来ている客に紛れてガイドさんの話を聞いていた。
外宮を出た所には、「おかげ横丁」と言う通りがあったが、その人の多さに寄るのを断念した。
日本の国を作られた、神様が祀られているのでお守りだけ買って、タクシーでまたホテルに戻った。その日は、部屋の浴槽を使い、疲れたのか、すぐに眠りに就いてしまった。
この旅の目的は達成できたのであろうか?
確かに雄大な自然に触れ、自分の小ささを実感した。また伊勢神宮に行き、大神に約束もした。
しかし、今は心の奥底に隠れているが、完全にその闇がなくなったとは言い難い気持ちであったのは、正直な気持ちであった。
旅行自体には意味があったが、やはり私には人と触れあって、この闇を追い出すしかないな!と、思うようになっていた。
翌日は、帰阪の日となっている。思い出を伊勢に捨て、明るくなってまた来週から、元気に女将さんの所へ行こう!と決めた。
また近鉄特急に乗り、大阪へと向かった。
夕食用にスーパーで買い物をし、しばらく上本町界隈を当ても無く歩いていた。
すると、気配を感じ振り向くと、フードを被って顔が見えない長身の男が立っていた。
「おねえさん、疲れていませんか?疲れが取れるいい物があります。要りませんか?」片言の日本語である。
外国人だとすぐに分かった。「いいえ、要りません!」キッパリ断ったつもりであったが、ずっと後ろをついて来る。
交番に飛び込めば良かったと、後になって後悔しているのだが、その時は、心にスキがあったのか?やはり、完全に心の闇が消えていなかったのか?
「あの~、警察呼びますよ!」って言っても、「そんな怖い事言わないでください。あなたの為に楽になるものを差し上げようと思っているだけです」
「差し上げる?何でしょう?」
「こっちに来てくれますか?」と、ビルの陰に誘導された。
「これを差し上げたくて、ストーカーのような事してすみません」男の手には、ビニールの小袋があった。
「これは何ですか?」男は、「これを舐めれば、元気いっぱいになり、嫌な事全て忘れる事ができます」と、笑顔で言った。
受け取ってしまった。男は、黙って走るようにその場を離れて行った。袋と一緒に、メールアドレスがかかれたメモも付いていた。
捨ててしまおうと思ったが、悩んでいる事を全て忘れられる魔法のような物かも知れないと、その時はそう感じていた。
家に帰り、夕飯の材料を母に渡し、男から手渡された小袋を開け、中身は白い粉のような物であった。薬指でほんの少量取り、舐めてみた。
しばらくすると、本当に元気になった。「本当に魔法の薬?」奈緒は、幼すぎて、それが覚せい剤である事など、知る由もなかった。「お母さん一緒に、夕飯つくりましょう!」
「どうしたの?さっきまで、疲れた~って顔していたのに」
「うん、なんだかお伊勢さんのご利益かな?元気が溢れてきているの」
「そう、助かるわ。私も毎日の食事作りに疲れ切っていた所。一緒じゃなくて、お願いできる?」
「ええ、任せておいて!」不思議であったが、それが薬の作用だとは全然気づいていなかった。
ルンルン気分で、三人分の夕食をあっと言う間に作り上げた。そこへ、父が帰ってきて、「美味そうじゃないか!」
「私が作った、酢豚よ。いっぱい食べてね」
もう安定剤もいらないかも?と、思うくらいエネルギーがわき出てくる。
「あの人、実在の人ではなく神様が私に贈り物を渡す為に遣わされた、使者なのかも?」と、本気でそう思っていた。
友達にその事を正直に話した。すると友達は。「それって、ヤバイのじゃない?持っている事が違法な物じゃないの!」
「持っている事が違法って?」
「奈緒は何もしらないのね。芸能人がたまに問題を起こしている、覚せい剤じゃない?」
「覚せい剤って?聞いたことはあるけど」
「お婆ちゃんから聞いた事あるわ。戦争時代「ヒロポン」と呼ばれ合法的に使われていたって。
その結果依存症が強い事が分かって、国が使用を禁止した薬よ!」
「じゃ、私が受け取った物がその、覚せい剤って事?」
「確証はないけど、白い粉でしょ。で、少しでも舐めたら、すごく元気になるって、かなり確率的にそれが覚せい剤であるわ」
「どうしよう?」
「すぐに捨てなさい。一般ゴミと一緒に出せば分からないわ。で、少し舐めただけだよね」
「一昨日と昨日と今日も舐めたわ」
「え!もっと早く相談してくれればいいのに。でもそのくらいじゃ、依存症にはなってないわ。必ず捨てるのよ!
もう、絶対に舐めちゃダメ。分かった!」友達の形相で、かなりヤバイ薬であり、持っているだけで犯罪となる!体が震えてきた。
怖くて……。
確かに捨てようと考えた。しかし奈緒は捨てられなかった。今までの不遇に対し、自分なりに努力したつもりであったが、ことごとく裏切られた。
もう、そこまで奈緒の心は病んでいたのである。少しのつもりであったが、白い粉は無くなって来ている。
我慢できなくなり、メモのメールアドレスに、フリーのアドレスを作り、薬が欲しい事を伝えた。すぐに返事が来た。
「明日の午後7時、上本町のあの場所で渡す。ただし1つ1万円要る」と返信があった。
奈緒は指定された場所に行った。誰もいない。「騙されたのかな?」と、考えていると前に会った男が何処からともなく現れ、手を出した。
お金を渡せ!とすぐに分かったので、お金を渡すと、同じ小袋を手渡し、すぐに消えてしまった。破滅の人生が待っているのは分かっていた。
しかし、今の奈緒を救ってくれるのは、この白い粉しかない!と考えるようになってしまっていた。
いつものように、花屋へ行き普通に働いている。「奈緒ちゃん、旅行へ行って良かったんじゃない?最近すごく元気だもの」
「ええ、きっとそうだと思います」
「でも、無理しないでね。いろいろあったから」
「ありがとうございます。自分の体ですから、体調には気をつけます」
「こっちも助かるわ。奈緒ちゃんが来てくれるようになってから、固定客が増えているのよ」
「そうですか!余計に元気でちゃいますね」
「来月から、昇給するわ」
「本当ですか?ありがとうございます」
「こちらこそよろしくお願いします」
異変に気付いたのは、母であった。「奈緒、最近痩せてない?体の具合で悪いところない?」
「全然ないわ。反対に前より体が軽くなって動きやすくなっている」
「そう、そうれならいいのだけど……」
「お母さんには、何でも言ってね」
「わかったわ。心配かけてごめんね」
ネットで調べると、覚せい剤を吸引する用のパイプがある事を知り、違法なものを売っていいのかな?と思いながら、注文した
。数日でそのパイプは届いた。使用方法まで書かれていた。あくまでも、タバコを吸う為の物として説明があり、タバコ用のパイプである事を強調していた。
「タバコも依存性がある薬物じゃない?」アメリカのどこかの州が、大麻を許可した事をニュースで見た事がある。
タバコより、依存性がなく体にも害がないからである。日本も税金を取る為に、公明正大にタバコを販売している。財務省が裏で動いているのであろう。
反対に同じ役所なのに、厚生労働省は、タバコ撲滅に動いている。矛盾している。確かに、厚生労働省も財務省から睨まれたら、予算が取れなくなる。
だから、本気でタバコを無くそうとしていない。タバコの葉を栽培している農家もある。それを販売しているJTがある。
国からして、国民に害のあるものを、税金の為だけで合法としている。覚せい剤の依存性もタバコ並みである事をネットで調べた。
何処で合法か違法を線引きしているのであろうか?
舐める程度であったのが、パイプを手に入れた事により、より強烈にその効果に体が喜んでいるのが、実感できた。
舐めるよりパイプで吸引した方が、ダイレクトに肺から血液に入り、脳に届くのであろう。すごく元気になれる。
ヘロインやコカインのような麻薬ではない。と、自分に言い訳を与えて、月に1回が月に2回吸引するようになっていた。
当然だが、病院で処方される薬は必要としなくなっていた。向神経薬も法律で厳密に規定されている。医療で使う以外は、認められていない。
合法と非合法それは医師が決めれば合法。それ以外は非合法!医師が覚せい剤を自分に投与していたと言うニュースを見た事もあった。
故に、合法・非合法の基準に納得できない。自分が覚せい剤を使っている事をただ正当化したかっただけなのかも?知れない。
一度吸引するだけで、気分爽快になった。それが一日も続くのである。奈緒はいつでも止める事ができると考えていた。
ネットで調べれば、その恐ろしさを知る事ができたであろうが、しなかったと、言うより出来なかった。
いつものように働いているつもりであったが、女将さんから、「そんなに頑張らなくていいのよ、お客さんは喜んでいるけれど」
「普通に働いているつもりなのですが、異常にみえますか?」
「異常って程ではないわ。しかし、傍で見ているとそこまでしなくても?と思う事がしばしばあるわね」
「じゃ、少しセーブします。頑張りすぎて息切れしちゃ何もならないですからね」女将さんも、奈緒も笑った。
「お疲れ様でした」今日の仕事は、終わった。まだまだ働けるのだが、時間過ぎてまで働く事を女将さんは、奈緒の体を思って止めていた。
「そろそろ、薬が無くなりそうかな?メールしてみよう!」と考え、メールすると、いつもと同じく、すぐに返事が来て、前と同じ場所・時間で会う事ができた。「1つではなく、2つか3つ欲しいのですが」
「いいですよ。3つ要りますか?3万円になりますが」
「お願いします」何度も、呼び出すのも申し訳ないし、使う量が増えてきたようであったので、余分にストックしておきたかった。
シャワーの後、体重計に乗ってみると、4Kgも痩せていた。「そんなに、仕事したかな?でも、痩せた分だけ体が軽くなりより動けるようになっているからよしとするか!」
体重減が覚せい剤によるものだと、奈緒は微塵にも感じていなかったのである。
この薬のお蔭で、絶対に忘れる事ができなかった小山さんの事も忘れる事ができている。
今、やっと自分の心の闇がなくなったと実感して、それが奈緒にとってすごく嬉しい事であった。
「1つ1万円かぁ。高いな~、これじゃバイト代直ぐに無くなってしまうわ」
「他に、もっと割のいい仕事見つけた方がいいかな?女将さんには申し訳ないけど……」
奈緒は、ハローワークに再度通ったが、奈緒が思っているくらいの給料がもらえる仕事は見つからなかった。
「仕方ないけど、もう小山さんの事も忘れる事ができたので、この薬を止めれば、今のバイト代で十分生活出来、家にもお金を入れる事ができるな」と考え、止める事とした
。しかし、一度その効果を知った体が拒絶反応を示してきた。まず、「今直ぐに吸いたい!」何とか我慢した。数日したら、寝られなくなってきた。
体の皮膚の下で虫が這いずり回るような、感じとかゆみがすごかった。知らぬ間に掻き毟ったのであろう、からだのあちこちから、傷が出来血が滲んでいた。
「吸いたい!」気持ちは、我慢でやり過ごす事ができたが、虫が這いずり回る不快感は、さすがに我慢できるものではなかった。癒されていた筈の心がまた破壊しそうになった。
どうしようもなくまたメールした。
例のように、いつもの場所・時間に会い今度は5つ買ってしまった。「あの~」
「なんでしょうか?」男が立ち去る前に、腕を掴み、話しかけた。
「お金がなくなってきたのです。いいお仕事ありませんか?」
「ありますよ!時給1万円~頑張れば5万円稼げます!」
「本当!ヤバイ仕事じゃない?」
「やばくないですよ!皆、しています。お金持ちになれます」
「今度連絡する時、紹介してもらっていいですか?」
「よろこんで。役に立てれば嬉しいです」相変わらず、片言の日本語だ。
「どこの国の人かな?」と腕を話すと、走るように男は消えていった。
薬を吸引する事が、奈緒の生活の一部となってしまっていた。立派な常習者である。
「あんなに言われていた事の約束破ったので、友達にも相談できないな」病院に行けば、治してもらえるのであろうかと、瞬間思うだけで実行できなかった。
吸引後の幸福感は、奈緒の心を闇から解放し、もっと頑張ろうという気持ちを与えてくれていた。
もう二度と、あの虫が這いずりまわり、耐え難いかゆみさらには、幻覚まで見た経験した事は大きかった。
たった一度の誘惑に縋りついた為に、これから払う奈緒の代償は想像を絶するものになろうとは、微塵も考えていなかった。
水商売
ついにお金が底をついてしまった。しかし、薬を止める事はできない。
思い切ってメールする事にした。また直ぐに返信があり、今度は、違う場所、梅田にある「リッツ・カールトンホテル」のレストランであった。
「何で場所が変わるんだろ?しかし、著名なホテルであるから大丈夫か!」と、奈緒は指定された時間にホテルに着いた。
メールでレストランに着いたら、「大山大悟に会いに来た」と言うように指示があった。
レストランの入り口に立っている係りの人に、その名前を告げると、「伺っております。どうぞこちらへ」と店の中に案内された。
男性が一人で座っているテーブルまで誘導された。見た感じ、上品な服装で、髭を蓄えていたが、悪い人には見えなかった。
「ああ、いらっしゃい。お待ちしておりました。初対面なので自己紹介します。
大山大悟と申す者で、芸能プロダクションの社長をしております。
申し訳ないですが、今は名刺を切らせていましてお渡しできませんが、決して怪しい者ではありません」
「川奈奈緒と申します。どうぞよろしくお願い致します」奈緒は緊張しまくっていた。
「まぁまぁ、そんなに緊張しないでください。芸能プロダクションと言っても、テレビや舞台などで活躍しておられるタレントを抱えている訳ではございません。
どちらかと言うと、夜に男性とお酒を飲みながら、お話しするホステスさんをお店に紹介する仕事です」
「ホステスですか!」
「ええ、しかし後ろにプロダクションがついておりますので、もっぱら高級クラブばかりがお客さまです。夜の仕事は初めてですか?」
「ええ、会社務めとバイト(花屋さんですが)しか経験したことがないです」
「初めてでしたら、いきなりお店に出るのは無理ですね。しばらく練習してからお店に出るようにしましょうか?」
「はい、その仕事が彼の言っていた、高給が貰えるお仕事なのですね」
「そうです。しかし、お店に来られるお客様との肉体関係はご法度となっておりますので、その辺はご安心ください」
「体を売る事はないのですね!」
「もちろん。あなたのようなお綺麗な方でしたら、少し練習するだけで、日に5万円イヤ、それ以上稼ぐ事ができるようになります」
「そんなにもらえるのでしょうか?ただ、お酒の相手をするだけで」
「はい、その通りです。お客様と変な関係になりますと、店の名前に傷が付くような、高級クラブばかりですから。いかがですか?そのようなお仕事で良ければ紹介いたしますが」
お金が欲しかったので、「はい、お願いします」と答えてしまった。
「それは良かった。今日は面接でもあったので、一目で合格でした。後はあなたの決心だけでしたので。では、さっそく練習ではないですが、お腹空きましたね。何か食べましょう」
「……」
男が手を挙げると、ボーイさんが近づいてきて「いつものコースをお願いします」
「かしこまりました」と言い、ボーイが立ち去るのと入れ替わりに、小山と行った店のように、ワインを持って男の横に立ち、ワインの口を切りだした。
「今日はテイスティングはなしで、お嬢様から注いでください」
「かしこまりました」と言い、奈緒の前のグラスに、赤ワインが注がれた。
続いて男のグラスにも注がれ、「これからの、あなたのご活躍を期待して!」とグラスを合わせた。
小山と一緒に飲んだワインより、より深い味わいのある物であった。
お店からしてそうだが、きっと高級ワインなのであろう。
「お酒の注ぎ方や水割りの作り方は、慣れれば直ぐにできるようになります。
基本は、自分の事はなるべく話さないようにして、お客様の話を聞く事を覚えてください。
お客様が話しだされたら、相打ちやもっと話を聞きたいと言う姿勢で接客してください」
「はい、わかしました」
「そこ!いきなりで申し訳ないですが、分かりましたは×。かしこまりました。が基本です」
「はい、かしこまりました」
「そうそう、できるではないですか」
「さぁ、料理が冷めないよう、食べましょう」
「はい、いただきます」テーブルマナーもチェックされているようで、基本が大体知っていたが、ナイフ・フォークを持つ手が震えた。
「気にしないで、美味しく頂きましょう。さっきも申しましたが、面接合格ですので」
「はい、申し訳ございません。反対にお気を使わせてしまって」
大山は大きく頷きながら、食事を進めていた。
「言い忘れていました。一応履歴書を出して頂けますか?ボーイを呼び、メモとペンを要求した。
「ここに書いた住所に送って頂きますと助かります。事前に言っておけば良かったのですが、面接と言うのもありましたので」
「はい、承知いたしました。後日送らせて頂きます」
「よろしく」と言って、料理の半分くらい残し、「用事がありますので、途中ですが失礼します。ごゆっくりしてから帰ってください」
奈緒もそうゆっくり食事を楽しむ気分でなかった為、少し残し早々に帰宅した。
その日のうちに、いままでいっぱい書いた履歴書を再度書き、写真も残っていたのでそれを貼り付け、所定の場所へ内容証明で郵送した。
後は向こうからの連絡を待つだけである。
やはり粉をパイプに入れ、ランプで加熱する方法を止める事はできなかった。
確かに全てがバラ色の世界に見えて、活力に溢れる感触は最高であった。
数日後、相手から連絡があった。売ってくれている人(売人)にメールで何度か連絡していたので、奈緒のメールに届いた。
内容は以下の通りとなっていた。「この度は、弊社へのご入社ありがとうございました。つきましては、研修として梅田にある○○ラウンジにて行いたいと考えております。
8月8日午後6時に来て頂きますようお願い致します。尚、場所は添付しておりますファイルをご参照ください。では、当日お待ちしております。
追記:当日は普段着で構いません」いよいよ、夜の仕事をする事となった。
お金の為とは言え、両親にどう言おうか?を考えていた。カレンダーを見ると、8日まで一週間もなかった。早々に両親の承諾を得たい。
25歳で大人とは言え、親に心配はかけたくなかったからである。実際、覚せい剤を使っている事ですでに両親を裏切っている事は重々承知していた。
翌日父親が帰ってくるのを待って、両親に話す事にした。
「今まで花屋さんにバイトで行っていたけど、今度友達がしているお店が人手不足で手伝って欲しいと言われているの。
ラウンジなんだけど、お客さんのお酒の相手をする事なのだけど、その店で働く事を許して欲しいの」
父親は、「ホステスみたいな仕事だな。承諾する事はできない!」母も「私も反対だわ」であった。
予想していた事であったので、「しばらくの間だけって言われているの。友達を助けてあげたいの」と食い下がった。
母が「しばらくって、どのくらい?」
「はっきりいつまでとは聞いてないのだけど、求人出しているので、補充が入るまでで、この世界は出入りが激しいから、数週間で終わると思っているの」
父母は、「数週間であれば、人生経験にもなるだろうから」と何とか了解が出た。
但し、今月までが約束させられた。
8日となった。行く前に、所謂「あぶり」をしてから、行った。その店は雑居ビルの3Fにあり、ドアをノックし「どうぞ~」の声を聞いた後、扉を開けると内装は豪華そのものであった。
大きなシャンデリアがあり、真ん中に6畳くらいで円形の舞台があり、その周りには、いくらするのだろうと思うような応接セットが20セットくらいあった。
全てが白色を基調にしてセットされていた。応接セット同士の間には、座るとお互いの顔が見えないよう、配慮されている。
「おお~、良く来てくれた。早速だけどママ、この子に合うドレスあるかな?」「探してまいります。さあ、こちらへ」ママと呼ばれた方に促されて付いていった。
店の裏側は、右に行くと厨房らしき部屋があり、左に行くと従業員が着替える部屋と、化粧台が5台横に並び、テーブルと椅子が数客あった。
着替える部屋へ案内され、「今日からこのロッカーがあなたが使える物ね。
それとドレスだけど、標準より少し細めね。探してくるね」と言い、暫く待っているとママが戻って来て、「これが似合うかな?着てみて」姿見の前で、下着姿になり、ドレスを着た。
こんな豪華な衣装のような服は着た事がない。
遠目でママが「横向いてみて、今後後ろ、また横、そして前を向いて」言われた通り、クルクル回ると「まぁ、少し大き目だけど、似合っているわ。今日は練習なので、お化粧はしなくていいわ」
「はい、かしこまりました。ありがとうございます」
「では、練習しましょう」
「はい」
「いい返事ね。その調子で」
「ありがとうございます」
お店に戻ると、大山が「お~、見違えるようじゃないか!君に決めてよかったよ。
きっといっぱいお客さんが付くな。では、私がお客様の役をするので、初めは好きなようにして。その度にママが教えてくれるから」
「はい。よろしくお願い致します」一礼した。大山が、中央フロア近くの応接セットに座った。
すると、ママがすでに用意されていたお客様ようのセットがトレイの上に乗っていたのを、奈緒に渡した。
「これを持って、まず床に膝をついて、中腰でトレイセットをテーブルに置いて」言われた通りにした。
「その後、ようこそいらっしゃって頂きありがとうございました。と一礼するの」その通りに行った。大山は見ているだけである。
「それからおしぼりを広げ、半分に折って、お客様にお渡しするの」ここまでは、難なくできた。
「お客様によって、飲まれるお酒が決まっている事が多いのだけど、それは追々覚えていくといいわ。
初めてのお客様へは、「どのようなお酒をお召し上がりになられますか?」と聞いて。今日は普通のウイスキーとしましょう。
銘柄を指定される方もおられるので、それもお聞きしてね」「はい、承知しました」
「ウイスキーの水割りを作りましょう。まずグラスに氷を3つくらい入れて、ウイスキーを注ぐ…、そうそう、そしてミネラルウォータをグラスの8分目より少し下くらいまで入れて、タンブラーでかき混ぜて。
この時タンブラーはグラスに当てないよう気をつけてね」
中腰のまま、ここまで行うだけでかなり疲れてきた。「最後にお客様に、横に座ってもよいか?聞いて承諾頂いてから座る事」
「はい」
大山に向かい「お客様、横に座らせて頂いてよろしいでしょうか?」
「おお、いいよどうぞ」と大山が前を通れるように空間を開けた。
立ち上がり、そのまま前を通ろうとした時「ダメ!決してお客様の前を横切らない事。どうしても前を通らないといけない時は、前を通ります。
失礼いたします。と言うの」「はい、もうしわけございません」と言い、応接セットをクルリと周り、大山の横に座った。
「お疲れさま、何とか合格だな。筋がいいようだ。後は気楽に話しようか。ママもお疲れさま。一緒に少し飲もう」
「は~い」とママも、普段モードに戻り、大山の横に座った。「この子なかなか筋がいいわね。練習だけじゃなくて、私の店に欲しいくらいよ」
「そうだろ。俺の目に狂いはなかったな。しかし、うちの会社の社員だ!簡単には渡せないな」
「また~、そんな事言って、レートを上げようとしていない?」
「ハハハハ~、ママが気に入ったなら、しばらくここで働かせてもらうか?そうだ、いいか?」
「はい、社長のおっしゃる通りに致します」
「じゃ、決まりだな。しかし、本採用は1ヵ月の様子みてからだ」
社長は、ママの耳元で何かをしゃべっている。「分かったわ。商談成立ね」とママが聞こえるように言った。
「明日から働いてもらうわ。実践兼ねて、お客様を接待してね。日給は、1万円でいいかしら?」
「そんなに貰えるのですか?」
「あら、稼いでいる子はその十倍はいくかな?」
「そうなのですか~、すごいですね」
「あなたも、この店でNo1になれば、夢じゃないわよ」
「はい、頑張ります」
「この世界は、芸能界とよく似ているの、生き残る為には、時には非情にならなくてはいけない事を覚えておいてね」
「非情になる……ですか」
「ええ、上を目指すならね。人を蹴落としてでも、平気にならないとこの世界では無理ね」
「厳しいのですね。会社務めより遥かに厳しいわ。時間内働けば良いでは、お給料もらえないわよ」
「よくわかりませんが、頑張ります」
大山が今度は奈緒に向かって耳打ちした。「例のものが欲しかったら、俺に言えばいい。欲しいだけ渡すよ。
代金は給料から引いておくから」と、奈緒の腿をポンと叩いた。
「もう少ししたら、お店の子達が出勤してくるわ。しばらく、私のサポートに付いてくれる?」
「はい、かしこまりました」
しばらくすると、お店の従業員(ホステスさん)が出勤してきた。
「おはようございます」
「おはよう、今日から新しく入った、川奈さん……源氏名を決めないとね…名前が奈緒だから「ナミ」でどう?」
「はい、いい名前です。ありがとうございます」
「ナミちゃんね。私はユリよろしくね。ママに名前付けて貰えるって特別ね」ウインクしながら、更衣室に入って行った。
普通の女性だ。30分後その人が店内に入ると見違えるように変身していた。「化粧ひとつで、こんなに素敵な女性に変われるのだ!」
次々と従業員が出勤してきて、早々に変身し店の方にやってきた。今からミーティングがあるらしい。
「今日は、特別なお客様はなしね。それと今日から新しく入った「ナミさん」みなさんよろしく教えてあげてね」
拍手が上がった。
奈緒も深々と頭を下げ、「何も知りませんのでご指導の程よろしくお願い致します」
それで、ミーティングは終わり、各々自分の持ち場に行き、お客様が来られるのを待っていた。
そこに、一際お嬢様のような方が、中年の紳士と共に入店してきた。
よく言われる「同伴出勤」である。この人がきっとこの店のNo1であろうと、奈緒は感じていた。
時間は、夜の7時半くらいであった。ラウンジに来られるお客様は、もう少し後になってからくるのかな?と考えていると、一人の結構若い人が入店してきた。
「マ~さん、お久しぶり」ママが挨拶して、お客様には決まったホステスがいるのであろう、「シズカさん、よろしくね」「はい、いらっしゃいませ。
本当にひさしぶりですね……」慣れたものである。そのホステスは、自然にその人に付き相手をしていた。
ママが、「あの方は、IT関係の社長さん。若手だけどやり手で、業界ではかなり有名な人らしわ。うちの店のAランクのお客様」
「そうですか、人生の勝ち組の方なのですね」
「うちの店に来られる方は、その勝ち組の方がほとんどよ。男は、甲斐性がないとね」
「そうそう、ナミちゃんって決めたので、もう名刺屋さんに頼んでおいたわ。明日にも届けてくれるって。それまでは、口頭で挨拶してね」
「ありがとうございます。これからも色々教えてください」
その日は、ママの横に付き、なるべく目立たないようにして閉店となった。
午前2時であった。「お疲れ様~」と、次々に皆が帰って行く。ママが、「今日は疲れたでしょう。練習と言いながら、いきなり実践だったものね。
普通は、ここで練習して、大山さんが他のお店に売り込みに行くの。
店に紹介料を貰っているのが彼の仕事……それだけじゃないみたいだけど、あまり彼には関わらない方がいいわ。
素性は、その内分かると思うわ。私の口から聞いたとなれば、私がこの世界で生活できなくなってしまうからね。お疲れさま。
これ、今日の分。帰りのタクシー代もバカにならないからね」と、1万円が入った封筒を渡された。奈緒は、着替えて帰る事にした。
翌日正式に花屋さんを辞める事を女将さん
に告げた。
「勝手な事を言って申し訳ございません。今日から来られなくなります。お世話になりありがとうございました」
「そう、残念だけど、奈緒ちゃんも自分の人生があるものね。仕事が見つかったの?」
「仕事とは言えないかも?知れませんが、友達のお店のお手伝いをすることになりました」
「体に気を付けてね。最近痩せているようだけど、大丈夫?」
「大丈夫です。ありがとうございます。女将さんもお元気で……」薄らと涙が滲んできた。
「何かあったら、いつでも来てちょうだい。それと、またここで働きたいなら大歓迎よ」
「本当にお世話になってばかりで、お返しもできず申し訳ございませんでした」
「ああ、これ持って行って」と、店にあった結構高価なアレンジを渡された。
「最後の最後まで、お気を遣って頂きありがとうございました。遠慮なく貰います」
「元気でね」「はい」花屋の女将さんと、別れた。
お世話になりっぱなしで、申し訳ないと思いつつ、お金の為かぁ~と、自堕落な気持ちになっていた。
夕方5時半には家を出て、梅田に向かう。帰宅する大勢のサラリーマンとすれ違う。
皆が、奈緒を見ている。失礼な人では、覗き込むように、ジ~と見て来る人がいていた。
派手な格好はしていないつもりであるが、ママからもらった香水が、いかにも水商売をバラしていたのであろう。
店に着くとすでに、ママが来ていたので、挨拶をして掃除する。すでに教わっていたので、初めはぎこちなかったが、慣れてくればコツを覚えた。
ママは、仕入れた食材を確認して、厨房の料理人に指示を出していた。ラウンジなので、フルーツが主な食材であった。
夜の7時半開店である。すでにミーティングは終わっていて、ホステス達が、入口で並んで待っている。自分に自信をなくすくらい、美人揃いだ。スタイルもよい。
モデルでも十分通用するのではないか?と、思うくらいの方々である。今日はお客様が多かった。
そう言えば今日は木曜日。明日はもっと多くなるんだろうな!と考えていると、ママから呼ばれ、お客様の傍に行き、膝をついて挨拶し、横に座らせて頂いた。
「この方はね、貿易をされている社長さま」
「新しくうちに入ったばかりなのですが、言い子なので、可愛がってください」と、一礼して他のお客様の方へ行ってしまった。
「サポートじゃないの?」と不安になりながらも、お客様を退屈させてはいけない。「私何も知らないもので、貿易って具体的にどのような物を扱われているのでしょうか?」
「いろいろやっているよ。自前の船も数十艘あるな。24時間のどこかの海か港で、うちの船はフル稼働だ」
「すごいですね。世界を股にお仕事されているって」
「ほとんどの主要都市は行ったな。若い頃はね。今は本社にいて、余程の事がない限り動く事がなくなった。
会社を大きくしていく間は楽しかったな」見るからに紳士である。
それなりの地位まで上り詰めた方は違うな~と感心していた。来ているスーツも素人目にも高級品だと分かるものである。
「おひとりで、今の会社を作られたのですね。すごいエネルギーですね」
「いや~、好きだったから出来たんだよ。学生の頃から、旅をするのが好きでね。
それが高じて、各地の商品を日本に仕入れるようになっただけだ」水割りが少なくなったので、水割りの追加をした。
「申し遅れました、私ナミと申します」名刺を出すのと一緒に名乗った。
「ナミさんか~、いい名前だ。この商売は初めて?」
「ええ、初めてなので、失敗ばかりです。こうして、自分の事をお話しする事もご法度なのです」
「ここはいい店だよ、スナックのように女の子を目当てに通っている客は少ないんじゃないかな?」
「失礼ですが、皆様遊び慣れてられていると言うか、大人の方って感じです」
話している内に、ママが戻って来た。「離席して申し訳ございません」奈緒は、一礼してその場から去った。
少し疲れたので、店の休憩室に入り、驚いた。2,3名のホステスが、注射しているではないか!腕にではなく、内腿に打っていた。「それ何ですか?」
「あら、あなたもしているんじゃない?シャブよ。この店の子ほとんどしているわよ。あの大山の紹介の子は、必ずしているわ」
「はい、私も覚せい剤、しています。お金が無くなってきたので、売人に相談したら、大山さんを紹介されました」
「そうでしょ~。あの大山は相当なワルよ」
「本当ですか?見た感じ、紳士にみえますが……」
「こっち!(頬を指で切るマネをした)」暴力団って事なのか?奈緒は怖くなってきた。
「気づいた時は、この薬の奴隷。この薬の為なら何でもしてしまう、悪魔のような薬よ」
注射をしたからであろうか、皆元気が出てきているようだった。「注射を使うのですか?」
「あなたは、どのように使っていたの?」
「パイプで吸っていました」
「まだ、可愛い方ね。その内、私達のように注射じゃないと、効き目を感じなくなってくるわ」
「よく腕に打つ人多いけど、商売柄腕むき出しのドレス着るじゃない?だから、見えない所に打つの」
「アブリが効かなくなったら、言って。注射器もいくらでも手に入るわよ。感染が怖いから、針は変えているけどね」
「あのさ~、シャブ打ってするセックスが、スゴイの知っている?」
「いえ、男性とは縁がなくて……」
「今度、機会があれば試してみて。最高に燃えるから」
「そうですか、機会があればそうしてみます」
と言い、店に戻る奈緒の後ろで、女達の笑声が聞こえた。
心の中で「大山さんはヤクザなの?そして、この薬は止める事ができないの?」自分の撒いた種!
こうなったら、とことん落ちるとこまで落ちてもいい!とさえ考えるようになっていた。
大山が店に顔を出した。ママは素早く大山に縋り付き、耳元で囁いている。ママが手招きした。
「何の用事だろ?」と考えながら、大山の座っている席へ向かった。
「礼儀はいいから、横に座ってくれ!」
「はい、かしこまりました」
「今まで渡していた薬は、ほとんどニセ物に近いくらい薄めて作っている奴だ。純度の高い物は、少量で、それ以上の幸福感を味わえるぞ」
「皆、同じ物ではないのですか?」
「商売だからな。そう易々と高純度の物を最初は売らないよ。徐々に体を慣らして行かないとな」
「このお店で働かれている方は、ほとんどその薬を使っておられるのでしょうか?」大山が奈緒の口を塞いだ。
「余計な事を言うものじゃないよ。誰がそんな事を言ってたのかな?」
「聞いた訳ではありません。お店の中で薬を使っているのを見ただけです」
「そうか~、まぁ客に見えなければいいけどな。でも、お前はするな!万一警察が来たら、全員捕まるぞ」
「分かりました、お店には持ってきませんし、つかいません」
「やぱり、出来がいいな。
よく分かっているじゃないか!で、ご褒美として高純度の物を上げよう」と、大山は、見た目は同じ白い粉が入った小袋を奈緒に渡した。「お代金は?」
「だから、ご褒美と言っているじゃないか!」
横から、ママが「貰っておきなさい」
「わかりました。ありがとうございました」
「あはは~、次はタダではないぞ!」
「承知しております」
ママが、「ナミちゃんもかなりお店に慣れてきたので、お客さんを付けないとね」
「お客さんを付ける?」
「そう、もう何人か、ナミちゃんを指名していいか?と言われているのよ。
でも新人だから、指名が続くと先輩の嫉妬があるから断っていたのよ」
「そうなのですか。指名されるとどうなるのですか?」
「何も知らない子ね。指名されると、その子に指名料が入るの。
この店ではご法度だけど、店を出たら、何をしようが私は関知しないわ」
「ママの言われる通りに致します」
「優等生みたいな子ね。今日店締めたら時間ある?」
「ええ、時間はありますが、何の用事でしょうか?」
「私が誘うと、ビックリするわね。あまり考えないで、ナミちゃんが頑張っているから私からもご褒美したくてよ」
店の閉店時間となり、皆は早々に帰っていった。
ママが着替えて出て来るのを待っていた。「お待たせ。お腹空いている?」「いえ、結構食べましたから、お腹は一杯です」
「じゃ、飲みに行こうか?」
「はい」
タクシーに乗り、暫く走った所に、バーがあった。見るからに高級そうな店構えであった。
ママは慣れた感じで、ドアを開け中に入っていく。その後を奈緒は追いかけた。
「いらっしゃいませ。ママさんお久しぶりです。お元気そうでなによりです」バーテンが挨拶する。結構顔なじみなのかも知れない。
「何飲む?」
「カクテル、お任せでお願いします」
「じゃ、私もマティーニ貰おうかな?」
「はい、かしこまりました」と言い、バーテンダーは慣れた手つきで、シェーカーに注ぎ、8の字を描くように、シェーカーを振る姿が様になっている。
「お疲れさま~、乾杯しましょう」
「お疲れ様でした」と、グラスを合わせた。
「急に呼び出してごめんね。今日はナミちゃんともっと親しくなりたくて呼んだの」
「ありがとうございます。ご指導よろしくお願い致します」
「相変わらず、堅いわね。今日は、ママの立場は忘れて、仲良くなりたいな~」
「そう言われましても、ママはママですから」奈緒は戸惑っていた。どう対応していいのかが、分からないのである。
「まぁ、ゆっくり飲みましょう」
「はい」しばらく雑談している内に、酔いもあったのか、緊張も解れ気持ち良くなってきていた。
「そろそろ帰りましょうか?」
「はい」
「自宅は遠かった?良かったら、私のマンションに来ない?」
「えっ?いいのですか?」
「もちろんよ。ナミちゃんが良ければ大歓迎よ」
「伺わせて頂きます」
「わぁ、嬉しい。修学旅行を思い出しそうね」
「そうですね」
タクシーに乗り暫く走ると、ママのマンションに着いた。
大阪駅が再開発され新しくできたマンションで、グランフロント大阪オーナーズタワーである。
見るからに高そうなイメージであった。オートロック式であり、多分部屋番号と暗証番号を入力すると、玄関が開く仕組みなのであろう。
エレベータも連動していた。そのまま乗り込んだ。48階のボタンを選んでいた。
最上階である。心地よいくらいに靴が沈み込む絨毯を進み、部屋に入った。リビングだけでもすごい広さである。
「ゆっくりして頂戴」と、ママが言うなり、服を脱ぎ始めた。見ないように気をつけソファーに座っていると、下着姿となったママが後ろから近付いてきて、奈緒の肩に手を置き、髪を撫で始めた。
また緊張で、奈緒は体を堅くした。そのまま顔を後ろ向きにされ、いきなりキスをされた。
ビックリして奈緒は眼を丸くして、されるままでいるしかなかった。
ママの舌が奈緒の口の中を探ってきた。
更に、ママの手が奈緒の胸を弄ってきている。
「はぁ~」吐息と共に、口を離し、「奈緒って可愛いわ。私好みよ。
これから私がする事を受け止めてね」「……」何と答えたらいいのか?
ママに嫌われたくない思いが強かった。
「いいのね」念を押されたので、「はい」と答えてしまった。
そのままベッドへ連れて行かされ、ママの愛撫が始まった。奈緒も緊張が解け、感じてきていた。
「ああ~」声を止める事ができない。
処女ではないのだが、女性からの愛撫は、女性だからであろう、感じる所を心得ていた。
全て脱がされ、奈緒の局部まで舐めてくる。
「イヤ~、ダメです、イキそうです」耳元で「いいのよ、逝って。きれいな体だわ。ますます好きになっている」奈緒は絶頂を迎えてしまった。
「今度は、あなたが私にして」と言い、軽くキスしてきた。どうすればいいのか?わからないので、正直に「教えてください」と申し出た。
「いいわ、まず私の乳房を揉んで、乳首を口で吸いながらね」言われる通り行った。
「いいわ~ナミ上手よ。続けて~」大きな乳房であった。女の奈緒から見ても魅力的なバストであった。
ママは奈緒の頭を掴み、自分の局部へと導いていく。そのまま言われる通り、ママの茂みに隠れている唇に自分の舌を這わせた。
「ああ~、いい~」ママが喘いでいる。少し嬉しくなってきた。ママに喜ばれなくてはと、考えていた。茂みは綺麗な形に整えられている。
「ちゃんと手入れされているのだな~」また、局部もきれいな色をしていた。指で割れ目を広げてみると、真紅の襞が現れた。
その中にも舌を入れていく。「気持ちいい~感じるわ、ナミ!」中でしばらく舌を躍らせた後、その先にある突起物を舐めまわした。
「クッ!ああ~、ああ~~、もっと~」そこが感じるようだ。クルクルと円を描くように舐め、ツンツンと突く。
「イ、イクわ~」ママが吠えるように叫ぶと、ガクガクと体を痙攣させ、「はぁはぁ」と呼吸が荒くなって、奈緒を上まで持ち上げ、口づけをしてきた。
奈緒の髪を撫でながら、「良かったわ。ナミ!これからもお願いね」「はい、いつでもママの言われる通りにします」
「可愛い子」とまた口づけしてきた。
後は、浴槽で女子高校生のように、シャワーを浴びながらじゃれていた。
夜中の4時を過ぎている。「このまま一緒に寝ましょ」「はい」と二人とも全裸のままベッドに入り、眠りに落ちた。
朝、奈緒が起きると、ママはすでに起きていて、朝食の用意もできていた。
「起きた?おはよう~」「おはようございます。
すみません、寝坊してしまいまいした」「あなたの寝顔も可愛かったわよ」何だか気恥しかった。
「ああ、それと二人の時は、「ゆかり」と呼んで」ママの本名は、佐藤由香利であった。
「いいのですか?」「ええ、二人だけの秘密よ」何だかすごく強い味方ができた気がした。
朝早く起きたので、昼間に時間ができた。「デパートだけどいいお店があるの、一緒に行かない?」「喜んでお付き合いします。ゆかりさん」
「やっぱり、「さん」付けは止めて。「ゆかり」でお願い」戸惑いながらも、甘えて、「おつきあいします。ゆかり」「うん、行こう~」ママは大はしゃぎであった。
ママに気に入られてよかったと後になって感謝する日がくる事など奈緒は知る由もなかった。
「ここよ!」「ナミに合うかな?と思って」
高級洋服店であった。店員が走り寄って来て、「佐藤さまなら、外商部を向かわせますのに」
「ちょっとね、気分がいいから、お店もみたかったので、しかしいい店ね。店長さんおられる?」走って来たのは、デパートの従業員であった。
まもなく、雑誌から出てきたような方が現れた。店長らしかった。
「この子に合う服を選んで欲しいの」
「かしこまりました。お嬢様ですか?」
「何言っているの、私そんなにお婆ちゃんじゃないわ。店の子よ」
「失礼しました。お店の方を連れて来られるのは初めてな事でしたので」
奥の方に連れていかれた。普通の店のように服はディスプレイされているが、値段が書いていない。
見る人が見れば分かるのかな?」
いろんな服がテーブルに並べられた、ママが「やっぱり私が選ぶわ。ナミは私の大事な友達だものね」
「ありがとうございます」と言いながら、支払が気になっていた。ママにおねだりしていいのであろうか?
「これいいんじゃない?」ママが選んだのは、清楚なブラウスと言っても、前繰り・袖・衿は豪華に刺繍されている。
それと、水色のプリーツスカートであった。「アクセサリーも欲しいわね。偽物はダメよ。
ちゃんとした物を付けて欲しいわ」「あ、はい」他に3着違うタイプの服を選んでくれ、支払はママのカードであった。
噂で聞いた事があったが実物を見るのは初めての「チタンカード」であった。次は、アクセサリー売り場へ行き、ダイヤのネックレス・24Kのイヤリング・本真珠のネックレスも買ってくれた。
「これくらいにしましょうか?お腹空いたわ」「こんなに買って頂きありがとうございました」深々とお辞儀した。
軽く食事した後、店に二人で向かった。なんと腕を組んできたのには驚いたが、もうママのする事は何でも許せるし、受け入れる事ができる。
店に着くと、まだ誰も出勤していなかった。
ママは奈緒の顔を手で挟み、口づけをしてきた。「今度また楽しみましょうね」「喜んでゆかり」
「そうそう、よくできました。今日もよろしくね~」相変わらずママは上機嫌であった。
また助けてくれる人が出来た喜びは大きかった。「これで、覚せい剤からもさよならできるかも?」
次々と社員が出勤してきた。相変わらず皆さん綺麗な方ばかりだ。
そうなのに何故ママは私を選んだのであろうか?不思議であった。いつものように、ミーティングを行い、お客様を迎えた。
ここで働くようになり、収入は10倍以上となっていた。高濃度の覚せい剤は、本物であった。ほんの少量で、効いてくる
。しかし、止めないと!と心に誓い始めていた。大山から買ったのは、2回であった。代金は10万円である。2袋で。相変わらず、休憩室へ行くと、ホステス達は注射をしていた
。内腿を見ると、内出血の後があちこちにあった。見て見ぬふりをして、雑談に参加する。「最近来なくなったでしょ、前田さん。
どうも会社倒産したらしいわよ。債権者から逃げる為に、夜逃げしたらしいわ」「そうなの?すごく儲かってて、何度も食事ごちそうになったわ」
「それとね、大山に騙されないようにしないといけないわよ」
「どういう事?渡し達にシャブ売っているじゃない。完全にイカレタ者は、海に沈めるって。それと、お金払えなくなったら、平気でヘルスへ転売だって」
「そうなの?うちの店では聞いた事ないのだけど」
「他の店の子から聞いたの」
「うちは、まだそこまでのめり込んでいる人いてないじゃない」
「そうね、確かに!」
「出来る者なら、シャブ止めた方がいいわね」
「そうね。そういう施設もあるらしいわよ」
「でも、それは犯罪者で捕まった人を更生する為に作られたものじゃない?」
「裏には裏の施設があるらしいよ」
「ふ~~ん」と、誰彼なく、おしゃべりに夢中であった。
そこに「ナミさん、ご指名です」とアナウンスが入った。「じゃ、行ってくるね」と、ナミは休憩室を後にした。
店に戻ると、見知らぬ人が待っていた。「ナミと申します。よろしくお願い致します」名刺を渡した。
「はじめまして、石黒と言います。こちらこそよろしく!」
「ご指名頂きありがとうございます。でも、何故私の事を知っておられるのでしょうか?」
「しばらく通わせて頂きますので、いずれ正体を明かします。
今日は普通のお客さんとしてお付き合いください」客のプライベートな事を聞くのは、ご法度である。
「かしこまりました。では、楽しく飲みましょう」
「ナミさんって言うのだね。このお店は長いの?」
「いいえ、まだ半年も経っていません。
素人って言ってもいいくらいで、気が付かない事があると思いますが、失礼のないよう、お相手させていただきます」
多くの客は、さりげなく女性の体に触れてくるのだが、石黒は一切そういう行為をしなかった。
しばらく雑談した後、「また来ます。その時に正体をあかしますね」
「ご指名ありがとうございました。必ず教えてくださいね。
ご来店ありがとうございました」石黒は、軽く手を挙げて、帰っていった。「誰なのだろう?初めて会う人なのだが?」
また休憩室で、皆と話していると、すごく気になる事を話していた。
「大山さんの手下で、シャブの売人していた人が警察に捕まったらしいわよ」
「え!私達にまで、芋づる式に摘発されないかな?」
「別のグループらしいので、すぐに何かあるとは考えにくいけど、気を付けた方がいいわね」売人が捕まるって、余程大規模な捜査が行われたに違いない。
末端から捕まっていく。この世界によくある、「尻尾切り」で、組織の上まで摘発される事は少ない。
「止めたくても、止められないのよね」「そうそう、一度この快感を知ってしまったら、底なし沼のように……」「ねぇ、やっぱり、もうシャブを止める事にしない?」
「そうね、仲間がいれば頑張れるかも?」
「捕まったのは、セレブ相手に時間を持て余している奥様に売っていた売人らしいって」
「普通の人も騙されていくのね」
「セレブならお金いっぱい持っているから、いくらでも買えるものね」
「お~、怖い!やっぱり、止めよう」
「うん、また相談しましょう」と、皆が話しているのを横で聞いていた。
奈緒は「ママに相談してみようと決めていた」
数週間後、お店に石黒がやってきた。また奈緒を指名してくれた。
「お久しぶりです。お待ちしておりました。今日は、石黒様の正体を教えて頂けるのでしょうか?」
「うん、そのつもりで来たんだ」
「私を何処でお知りになられたのでしょう?」
「ボクは、亡くなった小山さんの後輩なのです。
小山さんからあなたの事を良く聞いていましたので、あの堅物の小山さんが惚れた女性ってどんな人だろう?と、急に亡くなられたので、お伝えしたい事もあって、探しましたよ」
「そうだったのですか、小山さんにはいっぱいお世話になったまま、お返しも出来ずに悔やんでおりました。
小山さんが私の前にあらわれなかったら、きっと自殺していたと思います」
「そうだったのですか!小山さんは人の面倒看のいい方で、後輩はほとんど尊敬していたのと思っています。
私もその一人です」
「小山さんに関して、伝えたい事ってなんでしょうか?是非教えて欲しいです」膝が乗り出していた。
「小山さんもまさか、事故死するとは考えてなかったのでしょうが、
遺産って程でもないのですが、ボクに万一の事があったら、これをあなたに渡して欲しいと頼まれていました」
石黒が持っていたのは、1カラットくらいのダイヤが付いている指輪であった。
「小山さんは、家庭を大事にされていましたが、あなたと出会って初めて恋をしたと言っていました。
奥さんとは恋愛結婚と聞いていましたが、そうではなかったようです」奈緒は、自然と涙が溢れてきた。
そんなに私の事を考えてくれていたのだ。
親身になってくれたのは、肌で感じていたけれど私は甘えてばかりだったと後悔していた。
愛情を育む対象ではなかった。妻帯者と言う事が大きかったからである。
まるで中高生のようなプラトニックなものと感じていた、小山さんは違っていたのを知り、その愛に応えられなかった事が自分の未熟さであると感じていた。
頂いた指輪を大事に、ハンカチに包みバッグの中に収めた。
「わざわざありがとうございました。
小山さんのお気持ちも伝えて頂き、それに応えられず自分の事ばかりをぶつけていた事を恥ずかしく思っています」
石黒は、奈緒の手を取り「ボクがこれから、小山さんの代わりになりたいのです。ナミさんが良ければですが」
「小山さんの代わり?今の私には考えられません。お時間を頂けますか?」
「待っています。いつまでも。小山さんが愛した女性を知りたいのです。
前回お伺いしていろいろお話させて頂き、小山さんが愛した理由が分かりかけています。よろしくお願い致します」いままで、恋愛で男性と付き合った事がなかった奈緒は、ただ戸惑っていた。
あの時は、自分に起こった事で闇を作ってしまい、それを小山さんが晴らしてくれた。その恩を忘れず、この人と付き合えるであろうか?奈緒の心の中の小山の存在は大きすぎた。
「今日はそれを渡すのと、告白する事が目的でしたので、これで帰ります。また来ますのでよろしくお願いします」
「え?もうお帰りですか?あ、はい承知しました。またのご来店をお待ちしております」石黒は帰って行った。後ろ姿をずっと見送っていた。
「ママに相談したい事があるのですが」と、急に切り出したので、ママは驚いた様子で、「何かしら?ここでは言えそうもない事のようね。またうちに来る?」
「よろしいでしょうか?」
「ナミなら大歓迎よ」
「ありがとうございます」
店が終わった後、いつものようにタクシーに乗り、ママの自宅へ向かった。車の中では、ママは無言であった。
「どうぞお入りください。ナミ」
「お邪魔します」
「コーヒー淹れるわね。それでいい?」
「はい、申し訳ございません」
ソファーに座り、ママがコーヒーを一口飲み切り出した。「相談ってなにかしら?」
「実は、私を救ってくれた大切な人を亡くし、自堕落になっていて、心に隙間があったとその時の自分の状況を解釈しています。
そんな時、覚せい剤の売人に声を掛けられ、それを受け取ってしまいました。それから、覚せい剤を止められなくなったのです。
覚せい剤を買う資金が欲しくて、大山さんにあのお店を紹介してもらったのです。違法って分かっています。
だから止めたいのです。
自分で一度止めようと努力しましたが、ダメでした。それで、ママに相談して何としても覚せい剤を止めたいのです」
「ありがとう、正直に話してくれて。あのお店の子はほとんどあなたと同じ状況で来ているわ。
私は覚せい剤をしていないけど、店の中で隠れて、覚せい剤を打っている事も知っているわ。
こんな事をしていたら、あの店も長くないな~って思っていた所。止める気があるなら、止められるわ。私も協力するし。
それと、扇町の当たりで新しいお店を見つけているの。私もママを下りて、あなたにその新しい店のママになってもうらおうか?と考えているわ」
「新しいお店ですか?しかし、今は覚せい剤を止める事が私にとって一番重要な事なのです。ママをさせて頂けるなら、しっかり覚せい剤を止めてからにしたいです」
「そうよね。まず敵を知らないとね。対処法も変わってくるでしょう?」
「はい、まず持っている覚せい剤を全て捨てます。そこからどんな離脱症状がでるか?分かりませんが、壁を乗り越えないと何も始まらないと覚悟しています」
「エライ!ナミ」ママが口づけしてきた。
すんなり受け止める事ができた。今の私にはママに縋るしかない。自分一人で覚せい剤を止める自信はなかったからである。
「私が最後まで、ナミの面倒を看る!私を信じて話してくれて、嬉しいわ」ママは奈緒を抱きしめた。
また、ママは興奮してきたようだった。「ナミを抱きたいわ」「ええ、私も」と答えると、ママはすごく喜び、奈緒の服を脱がせていった。
奈緒を全裸とし、自分もそそくさと、着ている物を脱ぎ、全裸となった。いつみても、ママの体は美しい。美術館で展示されている、
彫刻のようだ。そのままベッドまで手を繋がれ連れていかれ、寝かされた。
「ナミのバストは、羨ましいくらいに綺麗よ」鼻にかかった声で耳元に囁かれるだけで、奈緒は感じ始めていく。
乳房を揉まれただけで、ジュンとあそこが濡れて来るのを感じた。奈緒もママの乳房を揉む。
「いいわ~、上手よ」ママに乳首を吸われながら、ママの乳房を更に強く揉む。
奈緒の口からも声が出てくる「ああ~、気持ちいい~」ママは再度口づけし、舌を絡めながら、奈緒の秘部を弄ってきた。
「こんなに濡れているわ」指を中に入れられ弄られると、グチュグチュを言う音が聞こえてくる。
「ママ~素敵~、そこ感じる~」「そう?ここはどう?」と、陰核に触れられた途端、ビクンと体が動き、全身に電流が走るような快感に包まれた。
「今日は、あなたの為におもちゃ買っているの」と言うと、ベッドから離れ、小さな引出から男性器の形をしたものを持ってきた。
ママはニッコリ笑いながら、奈緒の傍で添い寝してきた。「ナミはそのままでいいからね」と言い、奈緒の脚を広げ、両膝を立てた。されるままでいると、奈緒の局部に何かが当ってきた。
「きれいね、ここも。入れちゃうわよ」「はい」ひんやりしたものが、中に入ってきた。ママがスイッチを入れたようだ。
それはクネクネと動きだした。すごく感じてきた。
「ああ~、ああ~、ダメ~、イク~」
「可愛いわ、ナミ!」挿入したまま、ママは奈緒の陰核を舐めまわしてきた。
もう限界を超えてしまった。「イッちゃう~~~~」と叫び、奈緒の体はガクガクと震え、何度も震えた。
「気持ちよかった?大好きよナミ」ママは、おもちゃを引き抜き、再び口づけしてきた。
今度は奈緒が上になり、ママを責めた。ママがおもちゃを奈緒に手渡す。おもちゃは、グイングインと音を立て、蠢いている。
それを持ち、ママの膣口にあてがい、浅く挿入する。奈緒も同じようにママの陰核を舐めまわす。
そして、一気に挿入した。「うっ!」とママは呻き、更に抜き差ししていくと、「あ~~、いいわ~、感じる~、熱いわ」と言いながら自分の乳房を揉んでいる。
おもちゃは、すっかり濡れて、ママのお尻の下にシミを作っていた。
出し入れする度にクチュクチュと音がする。「ああ~~、イク~~~!」と叫び、ママの体もガクガクと頂点を迎えたようだった。
「はぁはぁ」とまだ余韻に浸っているようであった。
おもちゃを放りなげ、二人で抱き合い、口づけを何度も繰り返した。
「私が、ナミを救うからね」「お願いします。ゆかり」「ああ~、名前呼んでくれた~。好きよ」「私も、です」そのまま二人でベッドに倒れ、口づけを続けていた。
「このまま時間が止まればいい!」と思うくらい、幸せな気持ちでいた。1時間も口づけしていたかも知れない。
それは、永遠の至福の時であった。甘いママの口臭に酔いしれ、強く抱き合って口づけを繰り返していた。
ママの前で宣言した通り、持っていた覚せい剤の袋を駅のトイレで袋を破り、袋も一緒に流した。「これで。キッパリやめるわ」と心に誓った。
そしてお店に行き、メンバーが集まったが、一人足りない。
「風香(ふうか)は?」別のホステスが、口に人差し指を立て、「シ~~」と言った。
何があったのであろうか?後で、他のホステスに聞くと「大山にヘルスの方に回されたみたい」と聞いた
。「お金の為なら何でもするんだから!奴は!」皆怒っていた。
「一日に数人相手をしないといけないくらい、厳しい所と聞いたわ」
「可哀そうに!」
「ね、皆もう止めようよ!」と誰かが言った。
「あんな奴の奴隷になるなんてまっぴら御免だわ」「そうだ!そうだ!」ママも呆れていた。
「さて、開店よ。皆、今日も一日よろしくお願いします」皆も、「よろしくお願いします」と言って、それぞれの持ち場に散っていった。
いつもと変わらない営業が始まり、そして終わった。奈緒は、帰宅する事にした。
すると後ろから、ママが「一人で大丈夫?完全に止められるまで、うちで暮らさない?」「いいのですか?正直一人では自信がなくて」「ナミはいつでも大歓迎よ」
ママの言葉に甘える事にした。
ママの自宅に着いた。
「お店で聞いたのですが、風香さん飛ばされたのですか?」「そうみないね。私に断りもなくよ。
だからそろそろあの店も他の人に譲ろうと考えているの。シャブ中ばかりでしょ、あ、ごめんなさいナミの事を言っている訳じゃないからね。
ナミは止めようと努力しているものね」
「禁断症状とかは、ないの?」
「これと言ってないです。ただ、脳が欲しがっているのは事実ですね」
「タバコも麻薬に近い、依存性があると聞くからね。でも、この間お医者さんに聞いたの。その答えは、体から完全になくなり、それが当たり前になれば離脱できる。って、当たり前の話よね」
「ママがついてくれていると、考えるだけで頑張れます」
「嬉しいわ。そう言ってもらうと」
「お腹空いてない?」「ええ、大丈夫です。お店で色んな物頂きましたから」
「そう、じゃ、シャワーでも浴びできたら?」
「ママから、どうそ」
「ママじゃないでしょう~」
「すみません、ゆかりからどうぞ」
「イヤミなおばさんのようね。言わせておいて、ちょっとしたい事あるから先に入って」
「では、お言葉に甘えて」
「ごゆっくり~」
奈緒がシャワーを浴びていてよく聞き取れなかったが、ママが誰かと電話で話ししているようであった。
奈緒は気にせず、ゆっくりシャワーを楽しんでいた。そこへママが入って来た。
シャワーキャップを被っている。ママが来た事で、奈緒は期待に胸を躍らせていた。「また可愛がってくれるのかな?」期待通りに、ママは奈緒の後ろから、抱きついてきた。
奈緒の首筋に唇を這わせて、指で乳首を捏ねながら、乳房も揉んできた。
「ゆかり~素敵よ~」女性の性の奥深さを実感していた。
「奈緒が、ゆかりを洗ってあげる」
「お願い~」
シャワー室には、何故かエアーマットレスがあった。
そのエアーマットレスにママを横たえ、ボディシャンプーをたっぷり使い、素手で全身を洗っていく。
乳首や局部、意外だったのが、お尻の蕾にも敏感に反応していた。
「ヘルスごっこしましょう!」
「ヘルスごっこ?どうするのですか?」
「ナミ、マットの上で仰向けになって」ママは棚から、液体の入ったボトルを取ると、蓋を開け、粘度の高そうな液体を奈緒の体に垂らしてきた。
触った感じは、トロトロなのだが、ベトベトはしていない。
奈緒の全身にかけた後、ママは奈緒の体の上に乗り、液体の感触を楽しむように、上下に動きだした。
ヌルヌルの液体なので、気持ちいい摩擦であった。
「変な気持ちになっちゃいます」
「ヘルス嬢が使う、ローション・オイルよ」
「初めて見ました」
「こうして、男の人の上で体を滑らせ、たまにペニスに刺激を与えてあげるの」
「何でもご存じなんですね」
「セックスが好きなだけかな?それも女性が大好き。代性ともするけどね」それでなくても、奈緒の局部からは、濃厚な液体が溢れているのに、その液体は同じような、感触であった。
一頻り、二人でローションを使って、お互いの体を愛撫して、ママが逆向きに乗ってくると、奈緒の局部に指を入れてきた。
ズブズブって音を立てながら入ってくる。もうそれだけで、堪らなく感じてしまっている。奈緒もママの局部に指を入れていく。
「何度見てもきれいな局部だ」と感じていた。
お互い愛撫し、絶頂を迎え、後はきれいにシャワーで流して、ガウンを着て、スパークルングワインで乾杯した。これもきっと高価な物であろう。
「こうしていると、覚せい剤の事も忘れるわね」
「確かに、ゆかりに可愛がってもらったら、覚せい剤など要らないと感じています」
「良かった。誤解しないでね、ナミ以外の人とこういう事していないと」
「信じています。でも、何故そんなに私によくしてくれるのですか?」
「ナミが好きだからよ。それだけ」
「嬉しいです。素敵なかおりに、そう言われると認められ、自分に自信が出てきます」
「そうよ。自分に自信を持つ事が大切。そうすると、余計な誘惑を排除できるわ」
「ありがとうございます」
「いいえ、久しぶりにこんな素敵な相棒が出来たので、私も元気をもらっているのよ」
心の中で「相棒かぁ、素敵な響きだな」と呟いていた。その日も、二人で抱き合って眠りに就いた。
久しぶりに、石黒が店にやって来た。
「仕事が忙しくて、なかなか来られなくて申し訳ない。良い返事がもらえるかな?」
「石黒様のお気持ちは、非常にありがたい話なのですが、訳あって今は誰ともお付き合いしたくないのが本音です。申し訳ございません」
「アチャ~、振られたか~」
「いいえ、石黒様が嫌だとは申しておりません。理由ははっきり今は言えませんが、お付き合いする程、いろんな事がありすぎて心に余裕がないのです」
「小山さんの事を引きづっているとか?」
「その事もあるかも?知れません。心が落ち着いたら、お受けするかも知れませんが、今は申し訳ございません」
「分かりました。根気よく待つ事にします」
「我儘を申して、申し訳ございません」
「人、それぞれ、いろいろあるものね。普通に生活する事が、いかに素晴らしい事か?分かってない人が多すぎますね」
「仰る、通りで普通に生活するのが当たり前と考えていた時期もありました。
その時は、退屈だな~と、考えておりましたが、いざいろんな事を経験しますと、何もない普通の生活がいかに幸せなのか、よくわかりました」
「じゃ、また来ます。と、言っても今仕事すごく忙しく、毎日終電で帰っています。ですから、いつ来られるか?わかりませんが、必ずきますので、急かしたりしませんから」
「申し訳なくって。私を待つより良い人が現れるかもしれませんよ。石黒様なら、女性が放っておかないでしょう」
「そんな事ないです。全然モテなくて」
「ご謙遜半分と聞いておきます」
「お足を止めて申し訳ございません。お疲れの所わざわざご来店ありがとうございました」
「では、また会いましょう」石黒の後ろ姿に両手を合わせた。
終章
薬を止めて、1か月くらいになる。油断は禁物である。ママのお蔭で、禁断症状も軽くて、止められる自信が湧いてきた。
「ねえ、ナミ。この店他人に譲って、前に話していた、扇町のお店二人でしない?」
「二人で、ですか?」
「そこのお店は、ここのように広くないからラウンジにはできなくて、スナック形式のお店にしようかな?と、考えているの」
「ここのお店は、大山さんは関係ないのですか?」
「大山さんは、私を利用しているだけ。この店も私の物よ。適当にお付き合いしておかないと、この業界は難しいのよ」
「それを聞いて安心しました。大山さんがこのお店を牛耳っているのか?と勘違いしていました」
「決めたら、早く動くのが私の性格なの。
女の子たちには、それなりの退職金みたいなのを渡せば、文句言わないでしょ。
知り合いにこの店やってみたいって、言う人がいるの、実はもう半分くらい話は進んでいるの」
「ああ、あの時電話していたのは、その相手なのか~」と心のなかで呟いていた。
翌日、ママは早々に店を止める事を皆に伝え、それなりのお金を皆に渡す事で、文句を言う人は誰一人いなかった。
残りたいのなら新しいママに頼むからとも付け加えていた。
閉店は今月いっぱいまでと決めて、それからママはほとんど店に来なくなり、どこかで商談をしているのであろうと想像していた。
その半年後に、その店に警察が踏込み、覚せい剤取締り法違反で、多数のホステムが逮捕され、潰れてしまった事を、奈緒は1年後に知る事となった。
ちょうど新しいスナックも軌道に乗り、常連のお客様も付いて、ほぼ毎日店が満員状態であったため、多忙としていた為、そのような情報を気にする時間も無かった事が事実であった。
「ママはツイテいるのか?商才があるのか?その難からきれいに逃れられたのであった。
スナックでは、ママは和服を見事に着こなしている所が、人気の元であった。
「ママは美しいから、そのような格好されても、似合います……と、いうか、着こなされていますね」
「ナミから言われると、更にうれしいわ」
ママの手料理も人気の一つであった。
小さいと言っても、カウンターに10席、テーブル席が4人掛で6組もあった為、二人ではとてもお客さんの相手はなかなか出来なかった為、知り合いに援助を頼む事としたと、ママから聞いた。
新しく働きに来る人を見て奈緒は驚いた。花屋の女将さんではないか!
「何故、女将さんがお手伝いを?お店忙しいのではないのですか?」
「忙しいのだけど、由香利から頼まれたら、来ないわけにはいかないじゃない」
「女将さんとママさんは知り合いですか?」
「知り合いもなにも、実の姉妹よ」
「え!ママは女将さんの妹さん?」
「そうよ、聞いていなかった?」
「初めて聞きました」
「あら、しゃべっちゃダメだったのかしら?」
「別にママは隠していた訳じゃないと思います」
そこに、ママが仕入れた物を持って、店にやって来た。
「元気?お姉さん!」
「元気よ。でも奈緒さんに私達が姉妹だって事言ってなかったの?」
「ええ、隠す事でもないし、あえて言う事でもないと思って」
「まぁ、偶然よね。あなたから奈緒ちゃんの事聞いて、是非あなたのお店に置いてあげてとお願いしたものね」
「お姉さんから頼まれなくても、私はナミ……奈緒さんを雇っていたわ。素晴らしい人だから」
奈緒は、何が何だか分からなくなっていた。
「女将さん、花屋さんの方は大丈夫ですか?」
「昼間花屋やって、早めに閉めて、ここを手伝うわ。奈緒ちゃんがいていたら尚更じゃない!」
ママが、「さあ、おしゃべりはそれくらいにして、開店の準備お願いします~」
二人は声を合わせて、「は~~い」と答えた。
助っ人が、まさか花屋の女将さんとは!しかし、女将さんであった事を感謝し、人の縁と言うものを感じていた。
奈緒は、水商売を1ヵ月と父母と約束していたのだが、結果はラウンジで半年、またここスナックでいつまで働くか?分からない為、実家を出ていた。
自宅の傍のマンションである事で、父母はしぶしぶ了承してくれていた。
2LDKの小さなマンションであったが、一人で生活する事の自由を満喫していた。
それもママがいてくれたからである。「スープの冷めない場所」くらいの距離であるので、お互い何かあると、連絡する事になっていた。
その日もお客さんで店は満員であった。
「新しい人が入ったの?」
女将さんが「よろしくお願いします」と一礼していた。
口の悪い客も居て、「若い子が入った方が、繁盛するんじゃない?」すかさず、
ママが、「年齢を重ねた女性の良さが分からないのかな?しばらく通ってみて、その良さを実感してもらえると信じています」と切り返していた。
微笑ましい姉妹愛を垣間見た。ラウンジと違い、一人から得られる収入は少ないが、スナックによくある、カラオケも導入していたので、その収入は意外に大きかった。
また、女将さんが歌うと、プロじゃないのか?と思えるくらい、上手であった。
特に、演歌を歌わすと、店の中がシ~~ンとして、皆が聞き惚れている状態であった。その口の悪かった客も、「素晴らしいね。プロの歌手を生で、それもタダで聞けるとは嬉しいね」と喜んでくれていた。
数か月、楽しい日が続いたであろうか、突然あの石黒が店にやって来た。
「探しましたよ。ひどいな~、お店行ったら全然変わっていて、ママもナミちゃんもいてなかったよ。このショック分かってくれる?」
奈緒は、「ごめんなさい。急に決まった事で、石黒さんの連絡先も聞いていなかったので、申し訳ございません」
「まぁ、居場所が分かったんで良かっただけどね」
ママが、「全員役者は揃ったわね。今日は店「貸し切り」にするわよ!」奈緒は何の事を言っているのが、全然理解できていなかった。
ママが口火を切った。「今は亡き、小山さんの意志を受け継ぎ、私達はここに居てる奈緒ちゃんを陰で支えてきたつもりです。
憔悴しきった、奈緒ちゃんを見て、まずうちの姉が小山さんに頼み、元気になれるよう手伝って欲しいとお願いした事から始まります。
初めは、小山さんはボクにはそういう事苦手だからと、断りを入れられましたが、奈緒ちゃんが花屋さんで必死に働く姿を見て、人間として惚れ込んだようで、自分から名乗り出てくれました。
小山さんが、事故で亡くなられたのは想定外でしたが、それまでに私たちに、まるで自分が死を迎えるのが分かっていたかのように、奈緒ちゃんの事をよろしくお願いします。
と、ある意味遺言でもありました。奈緒ちゃんは、小山さんが亡くなられてから自堕落となり、覚せい剤まで手を出してしまいましたが、それも必要な経験であったと、今になってそう思います。
しかし奈緒ちゃんは、しっかり更生しています。いっぱい嫌な事があり、人間不信に落ち込んでいたと想像します。さて、そこで明らかにしたい事がここにあります」と、
手紙らしき物を広げた。
「奈緒ちゃん今でも元気に暮らしていますか?ボクは、あなたの一途な姿を見て、初めは助けて上げたいと言う気持ちでしたが、何度かお会いしている内に、あなたに好意を持っている自分がいました。
しかし、ボクは妻帯者です。できれば一緒になって、一生かかってもあなたを守っていきたかった。
でも、先ほどの理由により、断念せざるを得ません。
そこで、花屋の女将さんと後輩である石黒にボクの意思を継いでもらうようお願いしました。
この手紙を女将さんに託します。奈緒ちゃんに見せるのは、女将さんが決める事でしょう。過去は、言葉に言い表せないくらい辛い経験をされましたが、人間一人では生きていけません。
常に誰かの世話になりながら生きている物です。未熟なボクが大人の女性を苦しみから救うなんて出来ないかも知れません。
しかし、自分の出来る事はしようと決心しました。あなたが、人間として素晴らしい方だからです。
あなたなら、辛かった事を過去の物とできる人です。微力ながら応援したく、思い筆を手にしました。
愛と言うには、無責任な事はできません。しかし、ボクはあなたを愛しております。
これだけは、事実です。あなたの為なら、自分の人生を掛けてもいいとも思っております。末筆ながら、一緒に、乗り越えて行きましょう。 小山啓二」
奈緒は、大泣きに泣いていた。
こんなわたしを、こんなに思ってくれていたのか?それなのに、私は自堕落になり、犯罪者になりかけた。女将さん・ママ・石黒さんと言う方に見守られていたのに!
「女将さん~」奈緒は、抱きついて泣きじゃくっている。
「私は、こんなに素晴らしい人と出会い、亡くなってしまいましたが、その後も私は見守られていた事を今知りました。大馬鹿者です。
皆様、ありがとうございます。初めは、女将さんにお世話になり、その後は、ママが本当に親身になって私の面倒を看て頂きました。
ママには、足を向けて寝られません。一度は、覚せい剤にまで手を出してしまいましたが、それもママが助けてくれました。
体を張って、私から覚せい剤の存在すら忘れさせてくれました。ママ……」鳴き声で言葉となっていない。
今度は、ママに縋り付き泣きじゃくっていた。ママは優しく、頭を撫でてくれている。
「あ~、俺は何もしていない事になるじゃないか!」石黒が、むくれたように発言した。
「そういう事ね。仕事忙しいかも知れないけど、先輩の小山さんがあなたにも奈緒ちゃんの事を託したのよ。結果は、今までは何もしていないわね。
しかし、あなたの出番はこれからよ。小山さんの意志を継ぎ、奈緒ちゃんの一生を見守ってあげなさい」
「え?ボクでいいのですか?奈緒さん」
「返事は、しばらくお付き合いしてからで、どうでしょうか?」
「だよね。どんな男かも分からないし、小山さんには足元にも及ばないけど、精一杯先輩が愛した人を幸せにできるよう、頑張ります」
ママが、「さぁ~、今日は飲みましょう!奈緒ちゃんの幸せの為に!」
「ありがとうございます。こんなに素晴らしい方に囲まれて私は幸せです」
ママが近づいてきた。「石黒さんは、真面目すぎるくらいだから、付き合うなら奈緒ちゃんがリードしてあげてね。
それと、彼と一緒になっても、たまに私と一緒に楽しみたいな」
「もちろんですよ。ママ。ママがおられなかったら、私今頃警察に捕まっています。それと(小声で言った)ママの愛撫は忘れられません」
「ありがとう~、それを聞いて安心したわ」ママと女将さんの手料理が並べられた。どれも、美味しそうでどれから手を付けたらいいのか?迷うくらいであった。
このまま、この人達と常に一緒に過ごして行きたいと、奈緒は心の中でそう呟いていた。
宴会は、永遠に続くような雰囲気であった。
奈緒は一人で店の外に出て、今まで自分に起こって来た事を思い出していた。
希望を胸に入社した会社での、上司からのセクハラ・パワハラに悩み結局せっかく入社した会社を退職せざるを得なくなり、花屋さんでバイトし出した。
会社では、誰も信頼できなかった。言葉では、優しく話かけてくれる方もおられたが、結局自分で解決しないといけない薄い人間関係であった。
学生時代の友達も親身にはなってくれたが、それを解決する所まで傍にいれくれなかった。最後まで奈緒を見守ってくれていたのは、小山さんだけであった。
出来るならもう一度会いたい。
会って、思いっきり甘えて、抱きつきお礼を言いたかった。
空に向かって、奈緒は心の中で思いの丈を叫んだ。
「小山さん、私もあなたが好きでした。決して手を出さなかった、抱いて欲しかった。
それくらいしか、恩返しができなかったです。あなたが大好きだったから、抱いて欲しかった。
あなたがいてくれたお蔭で、私は、私の心の闇を消す事ができました。人生何が起こるか分からないですね。あなたの、ちょっとした仕草を今でも鮮明に覚えています。
全てが私の事を思っての事と思っています。そんな素敵な人が何故、事故に合わなければいけないのでしょう?神様を恨みます。
しかし、あなたが生きていたら、お互い不幸になっていたかも?知れませんね。
だって、私もあなたと一緒になりたいくらい、愛していました。
あなたの奥様から、あなたを奪い取ろうとしたかも知れません。これで良かったのでしょうか?あなたを決して忘れません。
あなたの笑顔・頭を掻く癖・柔らかなあなたの体臭、これからの人生、あなたと共に生きていきます。
そんな勇気もあなたは私にくれました。小山さん……できるなら、もう一度でいいから会いたい!」涙が頬を伝い、口に入り少し塩辛い味がした。
「奈緒ちゃん。ボクはいつもあなたの傍にいている。奈緒ちゃんを守るのはボクだ!だから悲しまないで」コトッと、店の前に置いていた石が転んだ。
「分かったわ。小山さん。いついつまでも奈緒の傍にいて、見守ってください。悪い事をした時は、叱ってください。愛しています」
夜空に流れ星が尾を引いて流れて、消えた。小山さんが答えてくれているように……。
奈緒の涙は乾き、店内に戻って行った。
「何していたの?さぁ続きを始めましょう~」大好きなママが奈緒の肩を抱き、ママも泣いていた……
こころの闇