36、亜季・・・大人になれなくて

誰も知らない微笑み

36、誰も知らない微笑

  セカンドステージはその殆どがラテンモード。丈の開放的な感性と生まれつきの明るさが聞く人達に日常を忘れさせ一瞬の幸せを与える。

始まりはリガード・ボサ。亜季も好きな曲だ。丈の与える幸せは誰よりもふさぎ込んでいた亜季の気持ちに輝きをを与えた。

心はそのまま素直に指の動きとなりあの最悪だった一度目のステージとはまるで違う音と切れのよさがステージから店内へと送られ、人の心と音というまったく別の世界にある二つが重なりあう。心が音を拾い、空間を満たし聞く者に響けば数分の曲が魔法になる。その瞬間を今亜季はその目で見届け、これまで眠っていた自分の中の力が躍りだすのを感じていた。

もちろんエリカの歌もこの大きな波にのる。いつもの神秘的な妖艶さに力強さが加わり怪しげなさわやかさという奇妙な印象を与えた。亜季とエリカと丈、三人の心がステージという狭い空間の中で本人達さえも気が付かないほど音を共有していた。

そしてステージが進むに連れて今、一つの魔法が多くの感情を亜季に呼びさます。
母と自分。いつも素直に人と交わらない自分。
頼りなく弱いと思われていた自分。幸せの世界にひたりながらそれが疎ましかった自分。自分を嫌い、自信を持てない自分。
そしてエリカ。幾つもの感情が無造作に指にたくされる。ただ不思議なことに一曲毎に自分が強くなるのを感じていた。

このステージの間、丈は愛するベースと同じくらい亜季をいとおしく見ていた。約45分のセカンドステージはこういったライブハウスには珍しく大きな拍手と歓声で終わり亜季の頬には心地いい汗がにじむ。丈からはよかったという笑顔のサイン。ステージを降りる間際みたエリカの目も初めて満足の光を放っていた。


ステージを降りた亜季に智香が走り寄る。
「すごい!よかった!・・・やっぱり亜季はこの仕事やるべきだね。エリカに負けてないもん。本当、ジャズを聴いてこんなに興奮したの始めて。」

「ありがとう。」

そう言いながらも亜季の目はいつの間にか来ていた淳と、楽しげに話すエリカに注がれていた。もちろん淳も亜季の気持ちが気になるのか幾度もエリカの肩越しに亜季を見ていた。次の瞬間エリカが亜季をまっすぐに見つめる。それが彼を促す合図でもあるかのように淳はこちらへと踏み出した。

 幾つものテーブルを通り過ぎ淳が亜季の前に立った。
「今日はいい演奏だった、本当に。もうプロだね。」

「まだまだでしょ。ファーストステージはひどかったの。いなくてよかった。なんか数時間の間に天国と地獄を見た気分。まあ。この気持ちのぶれが私らしいとも言えるけど。」

淳が見る亜季の表情にはあの日の電話から伝わった戸惑いは姿を消していた。

「おれ、今度独立する事にした。カメラマンという仕事はなんかサラリーマンという領域には似合わない気がしてさ。」

「ああ、エリカから聞いた。・・・頑張って。」

ふたりの間にはついこの間まであった自然な心の流れはもはやない。薄いベールの幕をお互い引いてしまったのだから。ただ、おかしな事に今日は亜季より淳に寂しさが滲む。
勢いの波に押され切り出した別れは小さな後悔という副作用がつきものなのだからこれも仕方がない。軽快な音楽が流れている店内に今この二人だけが止まった時間の中に静かに佇んでいる。亜季はうつむき加減の顔を上げ、淳の目を見つめて言った。

「結婚・・・決めたって。おめでとう。」

淳が受け止めた亜季の言葉の響きはまるで秋風がそっと髪を揺らすかのようにひんやりとそして優しく通りすぎた。

「ありがとう。・・・今が変わり時なんだ。亜季、頑張れよ。」

そういうと淳は静かに背中を向けエリカのもとに踏み出す。亜季は淳がくれたあの心地いい時間と淡い思い出を淳の背中にのせて淳の背中を見送る。それから丈の姿を捜して歩きだした。


カウンターの隅にいた丈は亜季の顔を見るとまるで何もかも知っていたかのように小さな声で呟くように言った。

「終わった?・・・次にいけそう?」

「多分。」

「そうか、よかった。」

「うん・・・次はいつ帰って来る?」

「いつも未定だ。でも、亜季が会いたいって叫んだら俺聞こえるからすぐ来るよ。」

「私そんな大きな声出ないよ。でも・・・ありがとう。」

ふと思い返せば一人を感じた時にいつも励ましてくれた丈がいた。大きな声とどこかずれた冗談が恋愛という亜季の中の風景とはあまりに遠くていつも先輩という距離を越える事はなかった。それが不思議なものでその丈の存在が今は恋も音楽も今を越える力を与えてくれている。

ひとりだから強くならないととよく言うがそれは嘘。寄り添う人がいるから強くなれる。そんなことを今亜季は丈の横顔をみながら感じていた。

「そういえば・・・母はどうしたかな?」
亜季が店内を見回す。

「さっき帰ったよ。あの妙に元気な従姉妹さんと。わざわざ挨拶にきてくれた。・・・心配なんだな、娘が。」

「そう。知らなかった。」

「俺はさ、もう半ば勘当だから最近会う事もないけどまるで気にならないかと言われたらそうもいかないんだな。だけど、難しいよなぁ・・・親子って。お互い嫌いじゃないけどかみ合わないっていうのがどうにもちくちく突きささるんだよな。それでもいつかわかるのかな・・・?俺に子供ができて、歳をとったら親の気持ちとかっていうのが。まあ、わかりたいようなわかりたくないような・・・こういう事考えると一気に老け込むな。」
そう言いながら丈はビールを飲み干した。

(そう。嫌いじゃないけど母の言葉は突きささる。いつもちぐはぐ。)

亜季は今、やっと気がついた。ふざけたような丈の言葉はいつも自分の思いに添っていたと。


 その時だった。淳が帰ったのかエリカが亜季の隣に座った。一瞬の沈黙をおいて亜季を見ず言葉だけを投げる。

「本当にいいの?」

「何が?」

また少しの沈黙。

「淳との結婚。」

「もちろん。・・・私と淳は少しの間気が合っていただけかもしれない。」

そう言う亜季にエリカの目が厳しくなった。そして溜息交じりに言い放つ。

「それ、とても残酷。あなたも、あなたのお母さんも同じ。わめく事も涙も見せず気持ちの整理をつける。何もなかったような顔でね。それほど強いくせして見た目は弱々しい純粋さまで装える。恐いわね。」

このエリカの言葉は亜季にとってあまりにも意外だった。何故こんなことをという思いが満ちてくるのと共に得体の知れない強さが自分の中に湧くのを感じていた。

ただ、亜季の直感が心の中でこう繰り返す。
(今は何も言わない方がいい。何かを言えばつまずく。)

ただ黙ったままエリカを見つめる亜季。エリカの中の亜季を打ち崩せないというじれんまが募る。その矛先は丈に向いた。

「丈さん、あなたが思う程この人は弱くはない。そしていつも自分を愛してくれる人だけにしか興味がない。気をつけた方がいいんじゃない。」

激しいまでのエリカの矢に突然丈が笑い出した。
「ある意味みんなそうだよ。でも・・・まさかそれをエリカから聞くなんて最高のジョークかな。確かに亜季は弱くはない。亜季の弱さは自分勝手の裏返しかもな。でも重要な事は一つ。弱さを演じているかそうでないかという事だけなんだ。亜季の場合あふれ出す弱みを隠せないだけだ。
まあ、自分では隠してるつもりかもしれないけど。そこがまだ子供かな。でも弱さを吐き出せる人間はいつか強くなる。」

エリカの顔に妙な苦笑が滲む。

「どうしてわかるの?演じてないって。」

「わかるわけじゃない。ただそう感じているんだ。その意味でいえば君は強さを演じすぎる。だから弱さに対して必要以上に敏感になる。でもエリカは自分で思う程強い女じゃない。強い女は吠えない。だけど結婚も決めたなら少しは肩の力を抜いてもいいんじゃないか。」

その最後の言葉がエリカの感情を波立たせた。

「丈さんは何もわかってない。だから残酷なのよ。すべてを持ちながらそれを享受しない人種って。後ろにはいつだって戻る道がある。万一この世界で食べていけなくてもかまわないでしょう?やっぱり甘かったと言って帰ればいい。万一成功したら親の反対がどうとかそこそこの苦労話でもする?・・・笑える。ここから人生を始める人間もいるのよ。豊かさといい人生をもとめてね。」

エリカの語気はしだいに荒く、痛々しい。それを鎮めるように丈が穏やかに口を開いた。

「でも、エリカにだってこれまで生きてきた土台があるだろう?」

「ないわ。少なくとも帰る家はない。戻る場所はない。だからそれが欲しい。その為の結婚をする。余裕がほしいの。そして必ずこの道で成功する。そうしないとなんの為の人生かわからいの。」
エリカの声はどこか悲痛なまでの響きをおびていた。

亜季への勝ちたいという強い思いも私の人生の起点はここからだという願望を含んだ信念に押されたものなのだろうか。丈とエリカの間にはもう理解という言葉は存在していないようだった。二人の間に灰色のわだかまりが漂う。

そして最後にエリカが言った。
「ああ・・・やっぱり丈さんもお坊っちゃまだった。」

こうして丈とエリカの話は終わりを向かえた。当初の当事者だった亜季は去って行くエリカをぼんやりと見つめた。
ただ、その亜季の顔に誰も見た事のない大人びた笑みが浮かんでいた。

36、亜季・・・大人になれなくて

36、亜季・・・大人になれなくて

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-12

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