十七年ぶりの悪女

 肌寒い日、バス停で考え事をしていると、年配の女にものを尋ねられた。
「あの、あなたは江東区の図書館にお勤めの方ですか」
 とっさのことに直樹は、
「いいえ、違います」
 慌てて手を振った。
「どうも、失礼致しました」
 女は恐れ入ったように引き下がった。一分ほどしてバスが来た。土曜日の午後で、二時過ぎまで会社に残っていた。後ろの席から改めて前のほうを見ると、女は知的で上品な雰囲気を感じさせた。何故あんなことを聞いたのだろう、何か訳でもあるのか。しかし、彼女の質問は必ずしも見当違いではない。直樹は二十代の頃、区立図書館の司書をしていたが、勤務先は江東区ではない。その前は民間の会社に勤めていた。推測を荒唐無稽なほど巡らしているうちに、よもやと思いながら、
(あの女の人は、瀬田みどりさんではないだろうか)
 思考が行き着いた。さきほど一目見た感じは似ていなくもない。あの頃四十代だったから六十代になっているはずだ。年格好はこんなものだろう。淡いコートの後ろ姿は違うような気もする。明瞭な答えが出ないまま、バスは門前仲町に着いた。直樹は降りたが、女はそのままだ。駅前停留所から十数分のところに住まいがある。台所のテーブルに座ってコーヒーを飲みながら、さっきの女に思いを馳せた。四谷の会社に勤めていた頃から長い年月が経っている。当時、みどりさんは未婚だったが、現在も独りだろう、そんな感じしか受けなかった。家族と一緒に過ごしているようには思えないのだ。しかしどうあれ、もっと丁寧に受け答えすればよかった。彼は年長のみどりさんに淡い恋心のような感情を抱いていた。しかしあれでは拒否しているようなものである。この何日間、仕事が多忙を極めており、気ぜわしかったからだろう。
 一ヵ月ほど過ぎて、六月というのに例年にない暑さが続き、雨よりも夏日が多く、遠くの空には積乱雲がよく見られた。酒の好きな直樹は家では値段の安い発砲酒を飲むことがあり、酔うと女ッ気が欲しくなった。ある日、酔い覚ましに窓から近くの大きな倉庫を見下ろしていたら、夕闇の中に中年男が長椅子に座って、全裸の女を横たわらせていた。ハッとして目を凝らすとマネキン人形の半身だった。ただ休んでいるだけで、セックスをしているわけでも、むろん遺体でもなかった。驚かすない、と直樹は呟きながらそのおかしな光景に苦笑いを浮かべた。郵便受けを見ていないので、階下に降りて集合ポストを覗くと、女名のハガキが来ていた。差出人を見たとたん、
「なんだい、こいつ」
 軽蔑とも嫌悪ともつかぬ気分を覚えた。四谷の印刷会社に勤めていた頃の同僚だが、唐突であり、馬鹿馬鹿しい感じがした。まるで醜女の亡霊が出てきたようなものだ。年数を数えると十七年が過ぎている。

 突然のお手紙で恐縮です。先日、私と同じ月島に住んでいる瀬田みどりさんが訪ねて来られ、田辺直樹さんのお話が出ました。森下駅周辺のバス停であなたに似た人を見かけ、声をかけたら人違いだったということです。それがきっかけで当時の話で盛り上がりました。あなたと親しかった小林昌代さんは子供が三人いますが、大きくなったとか、田辺さんも結婚して、幸せになっているとか、でも、家庭的なイメージがないから独身って感じがしたとか、色々と俎上にのぼりました。みどりさんはフリーの校正の仕事をしながら、俳句を作っています。私は新橋の会社に勤めていて、それなりに充実して過ごしております。時々二人でお互いの家を行き来したり、喫茶店でお茶したりしています。そちらの住所や電話番号はあなたと親しかった同僚のFくんからお聞きしました。
                      井口聖子

 想像した通りみどりさんで、これには驚いた。だけど、こんな手紙をわざわざ寄越すのは親切心なのだろうか。聖子は直樹を快く思っていないはずだ。ただちに返事を出し、あの時の独り者風の男は自分に間違いないと簡単に記してやった。
 二、三日したらみどりさん本人から電話がかかってきた。彼は驚喜して、真っ先に自分の迂闊さを詫びた。
「先日は、気がつかなくて、ごめんなさい」
「やっぱり、田辺さんだったのね」
「後からもしかしたら・・・とぼくも思いました」
「あの日は、芭蕉記念館に行ってきた帰りなの」
 直樹の姿を見た時、別人かもしれないと不安を覚えながら近づいて行ったのだが、あがっていて、すぐに名前が浮かんでこなかった。
「何でもいいやと、きっかけをつかむつもりで、あんな風にお尋ねしたの。図書館にお勤めと聞いていたものだから」
「図書館にいたのは、だいぶ前だから、ぼくも忘れていました」
「今は別のところなの」
「働いているところは工場です。いくつかの仕事を変わって、やっと落ち着きました」
「結婚なさっているでしょう」
「いいえ、独身です」
「あら、そうなの。私も人のことは言えないけど」
「三十七になると、手遅れです」
「聖子ちゃんも、まだなの」
「あの女は悪女だから、仕方ないですよ」
「まあ、そんなことを言うもんじゃないわ」
 話がつきず、機会を見て会う約束をした。直樹はいつだって変化があって、現状から抜け出したいと考えている。それでいて人とあまり付き合いたがらない。が、みどりさんとなら交流してもいい。
(だけど、あの会社はままならず、無様な姿をさらけ出したな)
 いつも自分の存在価値のなさに屈辱を感じていた。将来への見通しなどまったくなく、しかし何とかしなければと焦っているだけだった。小林昌代と親しくなり、ホテルに誘うようになった。お世辞にも美人ではないけれど、肉付きのいい体をしていて、官能的だった。二人の交際は秘密にしていて、昌代にも口止めさせた。直樹は欲望のままに誘い、ベッドでは猥褻の限りを尽くした。昌代はあの頃、二十二の直樹より五歳上くらいでセックスが好きでどんな要求にも応じた。だが定時制に通っていた聖子は感づいているような口ぶりで冷やかした。
「あんたたち仲がいいわね」
「普通だよ」
「やっているんじゃないの」
「人のことはいいから、自分も彼氏をつくれよ」
 顔をジロジロ見てやった。色が黒くてそばかすだらけ、唇が分厚く、どんぐり眼のずんぐりした小柄な体つき。しかも、スレていていいところが一つもない。女として何のためにこの世に生まれてきたのか、と言いたくなる。年上の直樹にはちょっかいを出し、揶揄をしたりして、目障りな女でしかなかった。受動的な直樹をくみしやすいと考えているのだろう。
「田辺くんは頭は悪くないけど、社会性がない」
 ガキのくせに大人のような口を聞く。
「そういうお前は何だ、美的価値はあるのか」
「私はこれでも胸の形はいいんだよ」
「全然そうは見えないぞ」
「その他にも美点はあるもん。あんたには見えないけど」
 聖子は負けていない。しぶとい女で、どことなくパワーを秘めている。昌代とはできるだけ離れてやり過ごし、同僚に見つからないようにした。が一緒に帰る場合もあり、そういう時は彼女はよく喋った。ある日、会社が終わって駅に向かっていると、年の離れた姉がいて、その姉は内緒だけど、女子刑務所の刑務官をしていると打ち明けた。
「テレビで観るけど、珍しいね」
 直樹は興味深そうな顔つきをした。
「変な話を聞くわ。あのね、長年、刑務所にいる女が出所したら、教えて欲しいという男がいるの。金銭的に援助したいと言うんだけど、そういう女は飢えていると思っているのよ」
「本で読んだけど、死刑になる直前の女を譲り受けて、セックスしたがる男がいるそうだ。中世のヨーロッパの話だけどね」
「私が聞いた話では、人を殺した女を世話をしろというのもいるんだって」
「怖くて、刺激があるのかな」
 昌代とはどんな会話もできて、気を遣わなくて済んだ。そうは言うものの、彼女なりに屈折していた。母親は義母だとかで、まともな愛情に恵まれず、けれど性格は明るくてよく笑った。その笑い方は自己防衛しているのかもしれない。かつて男と一時期、同棲した経験もある。将来は介護師の資格を取るのが夢だそうだ。
 あの会社で好きになったのは何といっても瀬田みどりである。彼女は二階の調整室という部署にいて、直樹はそこで校正の仕事を手伝うこともあった。みどりさんは昼休みになると、いつも本を読んでいて、ひっそりしていて、陰りのようなものを感じさせた。主任がいない時は二人だけで雑談をした。女子大の英文科出身だけに知識が豊富で、その年齢の人なりの魅力があって、世間を知らない直樹に親切にしてくれた。
「田辺さんは岡山県出身よね。あなたの実家の住所を教えて下さい」
「どうしてそんなことを聞くんです」
「男の人は、すぐに会社を辞めて、どこかへ行ってしまうからよ」
「そんなに簡単に変わりませんよ」
「でも、当てにならないわ」
「その時は、教えますから」
 直樹は嬉しそうに笑い声を立てた。それから間もなく、大分寒くなって、上着を着るようになった頃である。退社時間を過ぎてから特注のパンフレットを刷るので、学校が休みの聖子も手伝った。昌代は主任と得意先に届けに行っている。
 大きなテーブルで仕上がった製品を整理していると、聖子がそばに来て、
「田辺さんは将来は何をするつもり?」
「さしあたり、司書の資格を取るよ」
「向いているかもね」
「聖子は何をやるんだ」
「キャリアウーマンを志すわ」
「無理だよ」
「自信はあるわ。恋愛も沢山しようと思うの」
「それも、どうかなあ」
「田辺さんもそうでしょう」
 ニヤニヤしながら尻をつねり、黙っていたら掌を這わせ、しまいには前のほうにも伸ばしてきた。
「おい、止めてくれ」
「いいじゃん、これくらいのこと」
「人を甘く見るなよ。俺を尊敬しているなら、触ってもいい。でも、馬鹿にして見くびっている」
「あんた、男として魅力あるよ」
 聖子が思わせぶりに笑い、直樹が白けていると、そこへ昌代達が配達から帰ってきた。
「ケリがついたら、帰ってもいいぞ」
 主任が指示した。そしてまた用事があるのか、せわしなく出かけた。直樹は後片付けをしながら、先に着替えを終わった昌代を呼び止めた。
「もうすぐだから、待っていな」
「私も一緒に帰る」聖子が幼児的な声を立てる。
「お前は一人で帰れよ」
「イヤだ」
 六時過ぎに会社を出た。JR四谷駅から電車に乗ると聖子も付いてきた。京王線の幡ヶ駅で降りると、途中のコンビニに立ち寄って、飲物やおつまみを買った。木蓮が植わったアパートは粗末な一Kでゴタゴタと物が置いてあり、どうにか三人が座れ、ビールとジュースで乾杯した。昌代は終始直樹に寄り添うようにしていて、聖子がいても遠慮しなかった。
「私も恋人が欲しいな」
「飢えているから、つくったほうがいいよ」
「クラスメートにタイプの子がいるの」
「だったら、付き合えよ」
「誘ってみるわ」
「相手がオーケしたら奇蹟だよ」
 そんな話をしながらジリジリしていた。このところ禁欲しているので、昌代を思いっきり抱きたいけれど、聖子がいては何もできない。そこでこう頼んだ。
「聖子、ちょっとだけ外をぶらついてきてくれないか。昌代と話があるんだ」
「何で私だけ除け者にするのよ」
「十五分くらいしたら、すむから」
 聖子はふて腐れたように出て行った。いなくなると、ベッドに上がり、急いで昌代の衣服を剥いだ。
「あの子、どこで時間を潰すのかしらん」
「気にしなくてもいいよ」
 直樹も真っ裸になった。すると壁に張りつけたポスターのアメリカの水着姿の女優がニヤリ笑ってこちらを見たような気がした。あたかも、
「大胆ねえ」
 言わぬばかりの笑顔である。
 十分も過ぎたら足音がした。あの歩き方は聖子だろう。
「このままでいいよ」
「私、恥ずかしいわ」昌代が毛布を引き寄せた。
「いいから」
 直樹がわざとめくって構わず攻めた。ドアを開けて聖子が戻ってきた。彼女は猫を抱いていて、壁にもたれて座った。そいつはアパートをうろついているのでよく見かける。そして撫でながらしばしばこちらに視線をくれ、顔を紅潮させている。昌代は押さえ切れずに喘ぎ声を立てた。その度に彼は聖子を盗み見た。やがて憤怒とも興奮ともつかぬ顔つきをして出ていった。しばらくして昌代が下着を付けていると、猫がベッドに飛び込んできて戯れた。
「よし、よし、ご免ね」
 昌代が手を伸ばして抱いてやった。
「さぞかし、聖子はタンタロス状態だったろうな」
「タンタロスって何」
「神話に出てくるんだ。神の怒りを買って、果実を目の前にして食べさせてもらえず、飢えに苦しんでいる奴のことだ」
「難しいことを知っているわね」
「あの図々しい女はあれでいいんだ」
 時間が遅くなったので、昌代を駅まで送って行った。
 次の日、会社で聖子と顔を合わせると、睨みつけ、底意を秘めているような表情をした。その顔は何かで見たことがある。インドネシアで掘り起こされた土偶に似ている。
「故意に見せつけたわね」
「勝手に付いてきて、しかも時間前に来るからいけないんだ」
「いやらしいといったらないわ」
「あれが大人の世界なんだ」
「露出狂っぽいよ」
 嘲笑的な笑みさえ浮かべた。だがそれからというもの、職場の雰囲気がよそよそしくなり、社員の中に薄笑いを浮かべる者もいた。聖子が話したに違いない。直属の係長は、
「お前と昌代のことは聞いたぞ」いくらか非難がましい。
「未成年には毒だよ」
 総務課の課長は苦笑した。社員の間では評判が立っており、直樹寄りの同僚もどことなく遠巻きに見ている。昌代は病気と称して会社を休みだした。瀬田みどりは、
「自重しなさい」
 注意した。社全体に排他的な空気が満ちていて、どこにも身の置き所がなかった。辞めて行かざるを得なかった。会社には未練はなかったが、みどりさんと別れがたい気持ちだった。

 あれから長い年月が過ぎた。今働いている会社は事務机の組立工場で、入社して三年目になり、主任の肩書きがついた。直樹はできるだけ妥協や下手に出ることも心がけるようになった。敵対する者もいたが、同僚にはできるだけ気を使った。個人的に仲のいいのが似たような年齢の松尾である。
「直さん、恋人できたかい」
「年上で、心に思っている女性はいるがね」
「わあ、いいな。でも何だね、この会社は独身ヤローが多いね」
「ここだけの給料じゃ、食っていけないからだよ」
「うちのおふくろがさ、お前が結婚しないと死に切れないって言うんだ」
 松尾は母子家庭で、母は息子にはいい嫁をもたせたがっている。松尾は美男でも醜い訳でもなく、性格は明るいほうで、貯金はしっかりしている。苦労しているので金にこだわりがあった。
「松ちゃんはどんな女がお望みだね」
「普通の女であれば十分だ。贅沢は言わない」
「そう言っても好みはあるだろう」
「家庭的な女がいいね」
「それなら、沢山いるよ」
「それが、いなんだよ」
「チャンスは意外なところにあるもんだぜ」
「その意外な出会いに期待しているよ」

 夏の暑さが衰えだした頃、みどりさんからどこかで会いませんかとメールが届いた。句集が仕上がったので、差し上げたいと言う。十日後に新宿で待ち合わせすることにした。彼はみどりさんのような年配者でもいいから、恋愛に似た関係になりたいと思っている。手を握ったり肩を抱いたりしたら、どんなに素晴らしいだろうか。
 九月下旬の土曜日、新宿のカフェで待ち合わせた。一度顔を合わせているので間違えることはないだろう。ほぼ定刻に三十代の女が現れ、ニコニコして挨拶をした。
「お久しぶりです。井口聖子です」
「えっ……なんだい、誰かと思ったよ」
「びっくしたでしょう」
「仰天したよ」
 聖子はセルフサービスの飲物をテーブルの上に置いてから、腰を下ろすと、自分が来た訳を話した。みどりさんは具合が悪くなって、入院したから代わりに句集を渡して欲しいと頼まれた。
「そういうことか」
「私もあなたに会えるのが楽しみだったの」
「それは誠に光栄です」
「何よ、その言い方は」
「でも、見違えたな」
 アイシャドーは濃くて、口紅も赤々と塗っていて、色黒の顔が白っぽく見える。聖子とはいえ一人前の女になったのだろう。
「いま、いくつ」
「三十四歳」
「そんな歳になったのか。女盛りだな。ハハハ」
「そういう田辺さんは」
「おじさんだよ」
「成熟したわけね」
 聖子は忍び笑いをする。そして忘れないうちに渡しておくわと、句集の入った紙袋を差し出した。抜き出してみるとうろこ雲の浮かぶ挿絵のある表紙である。田舎の母がシニアの俳句教室に通って句作しているから無関係ではない。パラパラめくってから、
「ゆっくり読ませてもらうよ」とバッグに収めた。
「田辺さん、まだ独りだってね」
「そうだよ」
「彼女はいないの」
「付き合っていたけど、別れた」
「私、後釜に座ろうかしらん」
「冗談は止めてくれよ」
 だが前と違って化粧や衣服で色っぽく見える。ジーンズに紅色のブルゾンという軽快な格好も悪くない。若くも見えるが、どことなく幼さを感じさせる。
「聖子は俺に怒っているだろう。エッチなところを見せちゃったから」
「別に。ただフラッシュバックみたいにあの時の光景が甦るわ」
「ああいうことは、とっくにすましたろう」
「さあねえ」
 聖子は終始笑みを浮かべて、直樹と再会したのが楽しそうである。彼女の経歴を聞くと、定時制からさらに二部の大学に入って卒業した。今は輸入雑貨を扱う会社の庶務課に勤めている。自分と違ってまともに生きているなと感心した。直樹は適した仕事が見つからず、転々として来た。
「俺、大げさに言えば適応障害だよ」
「人間関係が苦手でしょう。でも、根は真面目なのよね」
「いや、不良だよ」
「そういう要素はあるけど」
 仕事以外にこれといった趣味はなく、したがって生き甲斐というほどのものはない。人生の核心に迫っておらず、停滞したまま長年過ごしているような気がしている。今は社会そのものが空疎になっているから直樹一人のせいではない。
「ところで、みどりさんはどうなんだい」
「軽い脳腫瘍みたい」
「軽いならいいけど」
「大丈夫そうよ」
 聖子とは一時間ほどで別れた。あんなに嫌っていたのに年月を隔てているせいか、印象もかなり違ってきた。といって会話の端々に小憎らしい要素がないわけではない。
 聖子と十七年ぶりに出会って以来、変なことが起こった。夕方散歩していたら、年配の女に公園を訪ねられてどきッとした。一週間前にそこで焼身自殺があったから身内ではないかと思った。道順を説明するのが面倒なのでご一緒しますと答えた。
「この間、人が亡くなったのですが、お知り合いの方ですか」
「いいえ、そのことは知りません。私はただベンチに休みに行くだけです」 
六十くらいの色の浅黒い女を案内すると、直樹も退屈しているから一回りして帰ると言うと、
「それなら、あなたもここににお座りなさい」とベンチに片手で示した。
「ここは、始めてですか」
「引っ越してきたばかりなの」
 女は無口そうに見えたが、自分から私は独り者なんですよと話した。
「そうは見えませんね」
「私は男性と縁遠くて、結婚もしないし、恋愛もしたことがないの」
決して醜いわけでもない。それにしても独り者なのに所帯づれしたような風貌をしている。が、そういう雰囲気に直樹は安心感を覚えた。
「でも恋愛でなくとも、男と付き合ったことはあるでしょう」
「そりゃ、お茶くらいは飲んだわ。でもそれだけ。珍しいでしょう。だから、六十一になるのに生まれたままの体よ」
「そりゃ、勿体ないなあ」
 話が長々とはずんだ。その夜は直樹のアパートに誘った。宅口絹子という女は淡々としていて、初セックスを喜んでいる風でも恐れている風でもなかった。彼は六十代の女とのセックスに興奮した。翌日、仕事がありますからと女は朝早く帰った。
「ありがとうございました。ご迷惑をかけました」
「いい思い出になります」
「私もあなたに会えてよかった」
「また遊びに来てください」
 直樹は心から言った。彼女が帰ってから、これはみどりさんとの予兆かもしれない。彼女ともいい間柄になりたいと思った。歳の差など関係ないのだ。げんに彼は六十歳の女と二十五歳の男という組み合わせを知っている。
 何日かして聖子からメールがきた。
『みどりさんに伝えたら、とても喜んでいました。私は田辺さんにお目にかかり、お友だちになれてよかったです。今後ともよろしく』 
 別に友達になったわけではない。思うだけなら向こうの自由である。直樹は、みどりさんに早くよくなるように伝えてほしいと書いておいた。それに対して返信方々何やら送ってきた。先日、安く手に入れたドリップコーヒーをお送りします。他意はありませんので気にしないでください――
 会った時、コーヒーが好きだから、一日に三杯くらい飲むと話したからである。三日後にキリンマンジェロが宅急便で届いた。開いてみたら百二十袋もあるので呆れた。
 ありがとう、一応礼を書いて送信し、でもほどほどにするもんだと付け加えておいた。するとすぐに返信が来た。
「私、あなたに特別の思いがあるの。男女の秘密を見てしまったくらいだから」
 恐らくからかい半分に書いているのだろう。松尾に三分の二ほど分けてやった。
 急に寒さがやってきた土曜日の午後、バス停の近くで聖子と行き合った。何でここでばったり行き合ったんだろう。多分先にきて、待っていたに違いない。松尾と帰る途中だった。
「どうしたんだ」
「高橋商店街で大道芸をやっているから、見に来たの」
「これから始まるんじゃないの。早く行ったほうがいいよ」
「付き合わない?」
「俺は用事がある」
 すると松尾が助け船を出した。
「直さん、そんな冷たい言い方はないよ」
「お友だちなの」聖子はいい笑顔で聞いた。
「せっかくだから、二人でお茶を飲んで、いけばいいのに」
 松尾が聖子の肩を持った。その時、アイデアが浮かんだ。聖子を松尾に押しつけたらどうだろう。悪巧みの気持ちがないわけでもないが、それ以上に二人はお似合いかもしれないと思ったのだ。
「じゃあ、三人で行こうか」
「俺がいてもいいのかい」
「松ちゃんが付き合ってくれなきゃ、俺はお断わりだ」
「是非、ご一緒しましょう」
 聖子も乗り気である。森下駅界隈の甘味処に入り、初対面同士を紹介してやった。聖子は愛想がよく、お喋り好きの松尾にしては神妙である。
「松ちゃん、もっと語れよ」
「俺、緊張しているよ」
「彼は面白い男でね、ジョークがうまいんだ」
「私はそういう男性って好きよ。深刻ぶった男なんて、好みじゃない。松尾さんには好感が持てそうね」
「彼は苦労しているから、誰に対しても優しいよ」
「井口さんは大学出のエリートだけど、案外気さくなんだねえ」
「エリートじゃないわ」
「でも、ぼくなんかとも話が合いそうだ」
「確かに相性が合っているよ」
 直樹はそそのかした。松尾は丁寧に応対し、雰囲気を壊さないように気を使っている。第三者が余計な口を挟まないように傍観していると、二人の間に親密な感じが伝わっているように見える。雑談を費やしてから、そろそろだなと切り出した。
「俺、先に失礼するよ。あんたら大道芸を見に行ったらいいよ」
「それもいいわね」
 聖子は同意し、三人は店を出た。すでに道路の一角に珍妙な化粧をした女の芸人が人形の紳士を抱いて姿を見せた。女芸人は愛しあっているとも歪みあっているとも思える仕種をして笑わせている。直樹は一人で帰りながら結ばれるかもしれないと想像した。彼らが恋愛したりセックスしたりする可能性もあるとしたら、松尾が聖子を受け入れるかどうかにかかっている。翌週の月曜日に松尾が真っ先に報告した。
「はっきり言って、のぼせたよ。ビンビンきたね」
 逆説をいっているわけではなく、大真面目である。聖子と松尾は総体的にいって、偏差値は似たようなものである。松尾はやや皮肉めいたところもあるが、広い心の持ち主だから、うまい具合にいくかもしれない。
「気に入ったら、これからも付き合えばいいよ」
「本当にいいの。聖子さんも本気なんだ」
「いいカップルになりそうだね」
「しばらく交際してみるよ」
 二人とも恋愛や結婚を夢見ている。聖子に至ってはまたとないチャンスに違いない。
「俺は応援するよ」
「恩に着る」
 松尾は生き生きしている。そのせいか、俳優ばりの色男のように見えた。心理的には役者になり切っているのかもしれない。

 退院して自宅療養しているみどりさんからメールがあって、体調は元通りになったとあり、その中に、
「聖子ちゃんは恋人ができたとかで、張り切っています」
 という言葉が添えてあった。恋人たちが誕生して一ヵ月半が過ぎているが、どうにか順調に行っているようである。へたに聞かないほうがいいので黙って見守っている。松尾も自分から話をしなかった。饒舌家の松尾が沈黙していると気になった。それに聖子への好奇心があった。間もなくして、
「うまくいっているみだいだね」何気なく聞いてみた。
「あの女、理屈っぽいね」意外にも不興な顔つきをした。
「そういう面はあるな」
「それによく見ると、ひどいお面をしているよ」
 持て余すような口吻である。
「でも、手くらい握ったろう」
「ああ、それくらいはね」
「キスもしたのかい」
 直樹は率直に聞いた。
「いや、していない。口が臭いんだ」
「どんな女だって、口臭のする時ってあるもんだ」
「あの女は特にひどい。顔を近づけて話すから、よく分かる。この間なんか臭い息を吐きながら、私は結婚相手に処女を捧げるつもりよ、なんて言い出した」
「ハハハ。やっぱり、処女だったのかい」
 もっとも今の世の中では決して珍しくない。聖子の場合、欲求があるのだが、相手に恵まれないのだろう。極限状況ならともかく、まず男をその気にはさせない。
「いつだったか、俺んちに連れて行ったんだ」
 すると母親は苦々しい顔つきをした。松尾は母と二人暮らしで、親はしきりに身を固めてと勧めていたにもかかわらず、聖子を一目見て、とたんに難色を示した。ああいう女性だったら、犬か猫でも飼ったほうがいいわ、そのほうがよっぽど可愛い。もっとも魔除けになるかもしれないと――そんな風に言われると、急激に熱も冷めてしまった。最初は新鮮だったけど、どうやら化粧や服装や話術に幻惑されていただけらしい。時間が経つと段々とアラが見えてきて、好意も遠のいてしまった。
「だったら、ただの遊びでもいいだろう」
「まあね。彼女も抱かれたがっていたから」
「そうだよ、聖子だって割り切れるはずだ」
「だけど、あんなにやりたいと思ったのに、本人を前にしたら、その気にならないんだ」
「抱いてあげるのも一種の博愛主義だよ」
「聖子もすげえ積極的だった。何だか焦っているみたいだ」
「男というものは欲望のためなら、年齢や美醜を問わないもんだけどね」
「でも、例外はある」
 それなら仕方がない。二人の関係はどうなったのか何も言わなかった。いずれにしろ聖子は依然として処女ということか。気の毒だが、彼は思わず笑ってしまった。
 年末年始はどこにも行かず、アパートで過ごした。直樹は男らしく振る舞いながら寂しがり屋である。寂しいとやたら女との性について考えてしまう。正月が開けた頃、聖子が電話をかけてよこした。
「松ちゃんとはどうなったの」
「別れたわ」
「千載一遇の機会を逃したね」
「そのうち、チャンスが巡ってくるわ」
「希望を持って生きているね」
「私は希望を捨てたことはないわ。たとえ、あるかないか分からなくも未来に託すの」
「聖子らしいな」
「ところで、みどりさんが会いたがっていたわ」
「近いうちに予定している」
「みどりさんはいいわ。決まった人がいて」
「決まった人って、彼氏かい」
「そうよ」
「ほんとかよ」
「妻子のいる男性だって」
 予想もしなかった。彼女は未経験だとばかり思っていた。何と浅薄なものの見方をしていたのだろう――と自分の不明を恥じた。
「賢いのよ。ちゃんと実のある人生を生きているんだから」
 突然の話に拍子抜けしてちょっとの間沈黙した。だけど、これが当たり前の人生であって、少しも珍しくないのだ。俺に決まった女がいないだけだ――それから軽くウイスキーを飲んでベッドに横になった。聖子が妄想の中に出てきた。全裸で立たせて、その醜い容姿や表情を眺めてシュールな気分でオナニーをした。聖子の(したた)るような粘液を想像しているうちに倒錯的な快感が突き上げてきた。終わるといつものように空しいような静謐(せいひつ)な気分になった。

十七年ぶりの悪女

十七年ぶりの悪女

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-12

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著作権法内での利用のみを許可します。

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