33、亜季・・・大人になれなくて

誰もどこかに親のかけら?

33、誰もどこかに親のかけら?

 丈を迎えての久々のライブまであと5時間。亜季は朝から落ち着かない。正直、ピアノについての心配は何もない。いや、むしろ日を追うごとに、ライブをする度に自分に向けられる客の反応が少なからず亜季に自信を芽生えさせていた。エリカとの微妙な関係もある意味では亜季のこの世界への情熱をもりあげる。

ただ、今日はあのリハーサルが尾をひいているのかエリカへの反発が苛立ちに変わっていた。数時間後、この家から エリカと共に出掛けるのさえ気が重い。

多分今日の救いは視線の先に丈がいてくれる事だけだろうと感じていた。
(それにしても・・・このままではエリカの思う様に私の心が流されてしまう。これではダメ。)


遠くから母の声が聞こえる。
「亜季、降りてきて。」

エリカが来てから母は亜季の予想を裏切るかの様にその声は毎日明るい。父はそんな母の心の内が見えず触らぬ神に祟りなしの構えを決め込んでいた。
それでもどこかしっくりこない言い知れない感情が時に表情や声に出てしまうところが父という人間を物語っていた。
(まあ・・・無理もないか。そもそもここで平然と大きく構えていられるくらい図太ければきっと浮気ももっとうまくできたかもしれない。
それにしても夫婦なんだからもう少しちゃんと向き合うとか、話し合うとかすればいいのに。
エリカもパパに対してはよそよそしいまま。血のつながった父と娘。ただ形がいびつだったけど・・・いったい親子って何?)

その時だった。今度はエリカの声。
「亜季さん、早く来て」

その声は優しげで穏やか。エリカは二つの顔を見事なまでに使い分けていた。重い腰をあげ階段をおりながらも頭の中のエリカへの想いが小さな独り言になる。
「二つの顔?・・・本当に?まだ幾つもあったりして。」


 キッチンではここ最近の光景が繰り返されていた。母がエリカの渡す皿にスープを入れる。それを受けてエリカが具の野菜が綺麗に彩られるように箸でササッと手直しをする。するとそれを見た母がすかさず言う。
「あら、綺麗だわ。もともとお料理のセンスがあるのかもしれないわね。」

この風景を母は何を考えてスケッチしているのか亜季には今もまるでわからない。
ただこんな娘との関係を望んでいたのかもしれないと亜季はたまに感じていた。
二人の様子をドアにもたれポカーンと見ていた亜季に「テーブルに運んでちょうだい。」と母がせかす。

平日の遅い昼食の家庭料理に三人の手はいらないと思いながらも亜季が動く。仕度が整い母とエリカが座った。ただ母の顔が浮かない。じっとテーブルの上を眺めてからこだわりのひとことが出た。

「だめよ、これ。スープ皿もパン皿も今日は白と淡いブルーにしたの。ティーカップもそれに合わせたの。なのにこのテーブルマット?まったく亜季ったら。気がきかないんだから。」

そう言うと母は別のテーブルマットを取りに行く。それを見てエリカがクスッと笑った。

考えてみればこんな母のこだわりの中で亜季は育ってきた。
この家の食卓で長い間食事はセンスだと教えられてきた。ただ今となってはその教えの正否は別にして亜季にはこれもまた自分と母の明らかな違いを確認するものでしかない。
親のルールはあくまで親のもの。子供がどこまで受け継いでくれるかは子供しだい。親の教えは時に淋しい。


「ところで今日のライブはどこで?」
突然の母の質問。

「南青山です。時間あればお母さんも来ませんか?今日は丈さんも一緒で。丈さん亜季さんのピアノが大好きなんです。ヴォ-カルの私なんて見えてないんじゃないかと思うくらい。是非いらしてください。」

エリカの言葉に亜季が呟いた。
「来るわけなじゃない。反対してるんだから。それにこういうの好きじゃないし、ママは。」

朝からの苛立ちが皮肉の響きを亜季の声に乗せてしまった。母がキリッとした目を亜季にむけた。
「別に嫌いじゃないわ。クラシックしか聞かないと思ってたの?ジャズも若いころは聞いたし、有名所わね。・・・そうね、たまにそういうのいいわね。行こうかしら。エリカさん、時間と場所あとで教えて頂戴。」

「もちろん。うれしいです。叔父様は・・・無理ですよね・・・?」

「仕事で遅いと言ってたから。そのうち気が向けば行くかも。・・・見て欲しい?」
母の最後の言葉が心なしきつく響く。

「別に。ただ、まあ一度くらいはいいかなと。一応・・・父ですから。」
エリカの返事にも隠しきれない棘がある。穏やかな日常を演じながらも二人は胸の奥でまだ戦いをやめてはいない事を亜季は今、確認していた。

「それに今日は淳も来るのよ。」
亜季の思惑など関係ないと言わんばかりにエリカが嬉しそうに言った。

「淳?・・・どなた?」
何も知らない母に子供に説く様に話すエリカ。顔には笑顔がこぼれていた。

「ジャズが好きで。でも好きになったのは最近らしいんですけどね。もともと亜季さんのピアノが好きで。で、よくライブに顔を出していたんです。」

「そうなの。聞いた事なかったから・・・それにしてもエリカさん嬉しそう。」

そこでエリカは女優顔負けのはにかみを見せる。
「ああ・・・実は私と淳、結婚の約束をしたんです。はっきりと。」
そういいながらエリカの目は亜季を見ていた。

「そう・・・おめでとう。よかったわね。これで亡くなったお母様も安心。主人もね。もちろん私も。」

「・・・でも亜季さんはあまり嬉しくないようで、ね?」

亜季は何も答えなかった。母がエリカをジッと見つめた。

「亜季がうれしくないなんてあるわけないと思うけど。もしそれが本当ならどうしてかしら?」

「多分、知らない間に私と淳が近付いていたから?まあ、亜季さんの心の中まではわかりませんけど。
亜季さんはもしかしたら淳のことが好きだったのかも。」

その言葉は誰に向けられたのか?
亜季の心がピリピリ痛い。母はそんな娘が苛立たしい。
暫く黙ったまま亜季をみすえていたがガラッと声のトーンを高くする。

「楽しみね、今日のライブ。二人ともいいものを聞かせて頂戴。」

そういいながら空になったパン皿を抱えキッチンへ行こうとしたそのく間際に一言、一言確かめるようにはっきりとふたりに向かい言葉を残した。

「どんな恋愛も、どんなに素晴らしい結婚も人間は勝手ですからね。だからできる時は人を大切に、傷つけないようにすること。ただ、人生にはどれ程人を泣かせても欲しい幸せが目の前に出てくる時もあるでしょう。あなたのお母さんが主人と出会った時みたいにね。
でもねエリカさん、誰かが大きな不幸を抱えるかもしれないと知っていてかきまわすからには自分のリスクも覚悟しておかないと。もちろんあなたはお母さんとは違うでしょうけどね。
もう一度言っておきますよ。人を不幸にしてでも手に入れたい幸せがある時はすべてのリスクも覚悟して飛び込みなさい。
それから、亜季。よくは知らない世界だけおそらく大変な世界でしょう。実力と人気の世界。サラリーマンの妻だった私にはある種怖い世界ですよ。だから本気その世界で生き抜くつもりならもっと強くなりなさい。本当に好きな人ができた時はむざむざ取られるような隙を見せるようじゃとても無理。
仕事も、恋愛も、結婚もすべて現実の中で起きる辛い夢なんだから。そう・・・あなたは弱すぎる。」

そう言うと母は静かに背中を向けた。

その後ろ姿にエリカがささやいた。
「もちろんそんなことわかってる。でもすべてのリスクと最後に手にする幸せ・・・そのどちらが多いのか。私にはそれが問題。リスクは恐くない。」

その言葉を聞いた瞬間震えと共に亜季に見えたもの。

それはエリカがいつもバカにするエリカの母の姿だった。
ずっと疎ましいとバカにした母からエリカが受け継いだもの。
それは勝ち取る事への執着。

一方、亜季は母の守り抜くという頑固さを嫌いながらもそのかけらが血となり自分の体に流れているとはまだ気付いていなかった。

33、亜季・・・大人になれなくて

33、亜季・・・大人になれなくて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-12

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