CHICO 4(完結)

- Ⅳ -

 ちーん、という間の抜けた音がしてオーブンが止まる。
 母が店を切り盛りしていた頃から、業務用のオーブンも家庭用オーブンと同じような音を立てるのが私には不思議に思えてならなかった。母にそのことを伝えたら、他にオーブンらしい音ってないんじゃないかしら、と至極まっとうな返事が返ってきた。
 オーブンを開けて、本日二回目のシナモンバゲットを取り出す。
 普段、最後に焼くのはパン・オ・ショコラと決めていたが、その日の私はパン・オ・ショコラを焼かなかった。溶けたチョコレートの香りに誘われてあの得体の知れない客がまたやってくるような気がしたからだ。しばらくパン・オ・ショコラを焼くつもりもなかった。少なくとも、あの雄牛の子供が誰なのか判明するまでは、店先にはバゲットを増やして誤魔化すつもりでいた。
 シナモンと砂糖の香りが厨房に広がる。ステンレスパンにクッキングシートを広げて、手早くバゲットを移し替える。軽くゆすって粗熱を取る。
 私はミトンを両手にはめると、シナモンバゲットが乗ったステンレスパンを片手に売り場へ向かった。
 売り場は真っ暗闇である。私は手探りでランプのスイッチを探した。
 数日前にあの異様な客と対面した時以来、ランプは一部しか修理できていなかった。急場凌ぎに入口付近のランプだけはその日のうちに交換しておいた。店の「顔」が暗いようでは、ただでさえ陰気な町並みに立つパン屋は一層湿っぽく感じられるからだ。
 じっ、という音に一泊遅れて、ガラス戸がほの明るく照らされる。
 その瞬間、息が詰まった。
 ガラス戸一枚を隔てたすぐ傍で、雄牛の頭をした少年がじっとこちらを見据えていた。
 夜の空気をたっぷりと含んだ町に少年の身体は溶け込んでいる。闇夜を背景に雄牛の頭蓋骨だけが禍々しく浮かび上がっていた。その黄ばんだ頭蓋骨に穿たれた二つの眼窩は一層深く真っ暗で、相変わらず表情を伺い知ることはできない。
 私はまじまじと店の外に立つ子供を眺めた。子供も底の見えない昏い瞳でじっとこちらを見つめ返す。身体が動かなかった。
「エドワード?」
 顔を見せてほしい。被り物を取ってにっこり笑ってほしい。元気な顔でなくてもいい。傷だらけでもやつれていてもエドワードならばそれでいい。だからその毒々しい被り物を脱いでほしい。そんな不気味で重いだけのものを後生大事に身につけていても得るものは何もないのだ。
「あなた、本当にエドワードなの?」
 雄牛の子供は身じろぎ一つしない。聞こえていないのかもしれない。
 私は、音を立てないようにショーケースにトレイを置くと、声を張り上げた。
「返事して。エドワードなんでしょ?」
 石造りの壁に私の声がこだまする。だが、子供は何の反応も見せない。ただ彫像のように佇んでいるのみだった。
 私は静かにカウンターの外に出ると、抜き足差し足でガラス戸に近づいた。距離が徐々に詰まっていく。やがてガラス一枚を隔てて私たちは向かい合った。
 お互いに言葉はなかった。雄牛の頭蓋骨は私の顔に向けられている。
 ふと、子供の頃の記憶が蘇る。昔、学校の遠足で郷土資料館へ行ったことがあった。展示されていたのは古代人の生活様式で、その時も、今と同じような格好でガラス越しに何かの動物の骨格標本を眺めていた。その時と同じだ。相手との距離は限りなく近いのに、何を考えているのか読み取れない。口も利かない。問いかけることもできない。
 私はかぶりを振った。なぜ、今更になってこんな記憶が蘇るのだろう。
 扉の取っ手に手を伸ばす。
 その瞬間、エドワードが踵を返した。
「待って!」
 咄嗟に私はドアに体当たりすると表へ飛び出した。エドワードは明け方の町へ向かってどんどん走っていく。咄嗟にその後を追った。サンダル履きだったが、気にしてなどいられない。
理由が解らなかった。いつから店の前にいたのか。なぜ、私が名前を呼んでも応えなかったのか。どうして、私の元から去ろうとするのか。だが、今は湧いては尽きない質問に拘泥している場合ではなかった。
 ここでエドワードを見失うわけにはいかなかった。
 あれほど血眼になっても見つけ出せなかった息子が、ようやく現れたのだ。追いかけねばならない。そして両の腕でぎゅっと抱きしめてあげたかった。この三年で訊きたいことは山ほどできた。料理の腕は錆びてしまった。けれども私は息子の好きな献立を目一杯振る舞ってやりたかった。
 夢でありませんように。
 人違いでありませんように。
 そして、私の幻覚でありませんように。
 祈るような気持ちで私は息子の後塵を拝した。

 朝の鳥がひねもす小さな声が薄墨色の空に彩りを添えている。埃と紫陽花の香りが清浄な空気の中を漂っていた。町は静かに眠り続けている。
 その薄氷のような静寂を靴音が蹂躙していく。
 エドワードは飛ぶように大通りを駆けた。息子が生まれた時に夫が息子のお尻を撫でながらのたまった言葉を思い出した。この子は下半身がしっかりしている、いい短距離選手になるよ、と彼は言った。親馬鹿の妄言ではなかったということか。
 不意に小さなスプリンターが右手を伸ばす。
 何のつもりだろうと訝る間もなく、右手はアパートの壁に沿って伸びているパイプシャフトを掴む。ぐるりとエドワードの身体が回転し、私の視界を外れた。
 あっと声が出た。たたらを踏みながら顔にかかる髪を払いのける。横路を駆けていく小さな背中がはっきりと見えた。迷わず脇道へ踏み込むと、途端に明け方の薄暗い路が更に暗くなった。
 飛び込んだ先は路というより建物同士の隙間だった。あちこちに割れた瓶の欠片が散乱し、石畳の割れ目から生え出した雑草は茶色く乾涸びて頭を垂れている。饐えた臭いがした。
 鼻の奥がつんと痛んだ。悪臭のせいではない。目尻を拭うと指が涙を掬った。それで初めて私は泣いていることに気がついた。理由はわからない。涙でぼやける視界を頼りに私は徐々に遠ざかる後ろ姿に食らいついた。
 エドワードはひたむきに前を向いているかと思うと、思い出したように横道へ飛び込んで行く。まるで嘲弄するかのようだった。軽業師のような身のこなしに私は何度も足を滑らせそうになった。
 胃液の味が口一杯に広がっている。顎が上がり始めていた。
 その時、水音が聞こえた。噴水の音だった。
 とするとこの辺りは噴水広場の近くということになる。
 妹との会話が思い出される。妹は確か言っていた。あのスペイン料理の店で。
 この辺りだけは裏道がないから助かるわ。建物も大きいしーー
 賭けるしかない。
 サンダルを脱ぎ捨てるとがん、という鈍い音がした。硝子でも踏んづけようものなら一巻の終わりだったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。仕事着のエプロンも投げ捨てる。
 そして私は近くの、おそらく噴水広場に最も近いであろう横道に入った。
 私の見立てが正しければ、この道をずっと進むとエドワードの正面に先回りすることができるはずだ。確証はなかった。エドワードより先に道を抜けられるかも自信がなかった。だが、弱音を吐いてどうなるというのか。
 走れ。
 何も考えずにただ走れ。
 いつのことかは思い出せないがそう遠くない昔、裏通りで私は誰かに追い縋っていたような気がする。からから、という何か車輪が転がるような音も記憶に残っている。あれはなんだったのだろう。そして私はその誰かに追いつけたのだろうか。何も覚えていなかった。
 横路が終わるーー

 鐘の音が響いた。桃色に染まる朝の町に轟く音色はエドワードを祝福しているようにも、私を嘲弄しているようにも聞こえた。

 石畳を靴底が滑る。エドワードの足が止まる。追いついた。
 だが、息が続かない。喘ぐ合間に唾を飲むと鉄の味がした。耳鳴りもひどく何も聞こえない。両膝に当てがった手の甲に汗の雫が垂れ落ちた。ちょっと休ませて、という叫びを無視して、私は息子を睨めつけた。
 不思議なことに息子は呼吸が一切乱れていない。身じろぎひとつせず、ただ洞窟のような眼窩を向けている。何を考えているのかわからなかったが、私の隙をついて走り出すような真似はしないだろう。
 エドワードに歩み寄った。エドワードは黙って私を見上げている。息子が私の目の前にいる。親子のふれあい。普通なら当たり前の状況を私は一度失った。そうして今はまた、息子が着ているシャツのボタンを数えられるほど近いところにいる。エドワードの肩に触れた。三年越しに息子の身体は骨張っていて熱かった。
 なんと声を掛けていいか解らなかった。もしエドワードを見つけたら言ってあげたい言葉はいくつもあった。けれどもいざその状況になると用意していた言葉からは全部演技めいた陳腐さが感じられて、とても口に出す気にはならなかった。どうしたらいいのだろう。
 すると、それまで一言も口を利かなかった息子が何かを呟いた。
「ごめんね。ママ」
 消え入るようなか細い声は確かにそう言った。
 凝り固まっていた心が溶け出す音が聞こえる。
 私は息子を抱きしめた。抱きしめながら何かを喚いた。何を口走っているか自分でもわかっていなかった。恐らくエドワードに伝わってもいないだろう。私はただただ泣き喚きながらエドワードの体を強く引き寄せた。
 静かに腰周りに腕が回された。
 が。
「あ、いた」
 素頓狂な声が響いた。驚いて振り返ってみるとブルネットを風に煌めかせた少女がこちらに向かって大手を振っていた。
「お母さぁん!」
 明らかに私に向かってその手は振られていた。だが、こんな娘は知らない。私の子供は今私の隣に居るこの子だけなのだから。
 華やいだ声に満面の笑みを浮かべた黒髪娘が、足早に近づいてくる。自然と身体がこわばって行くのを感じた。息子も私の背後に隠れている。嫌な予感がした。
「もー、目を離したらすぐどっか行く癖治した方がいいよ? これじゃどっちが子供か解らないじゃない」
「あなたは」
 誰、と言い終わらないうちに少女は私の手を取る。
「何を」
「帰るに決まってるじゃない。こんなとこで何すんのよ」
 完全に人違いをしている。それもただの人違いではない。敢えて人違いをしているのだ。膝を付き合わせるほど距離を詰めて、それでもなお人違いであることに気づかないというのは明らかにおかしい。何かを意図して私を「母親」に仕立て上げている。しかし何が目的なのだろう。
 私は娘の手を振りほどこうとした。だが、相手は涼しい表情で私の手首を強く握りこむ。耐えきれず悲鳴が漏れた。娘はガイ・フォークスの仮面のような微笑みを絶やさないまま、手首を掴む力だけを徐々に強めていく。
 まずい。このままだと本当に厄介なことになる。
 咄嗟に空いた方の手でエドワードをかばった。寝間着の裾がぐっと引っ張られる。その様子を見て娘が初めて笑みを引っ込めた。
 途端、私はいとも簡単に黒髪娘の側に引き寄せられた。腕がねじり上げられる。華奢な体つきからは到底想像できない膂力だった。
 気づくと娘が背後に立っていた。そして、私の半歩前では息子が佇立している。
 なんとも無様な格好で息子も前に晒されていることが屈辱的だった。全身は汗だくで足は素足である。その上、なぜか私は腕を絡め取られている。まるで犯罪者のようだ。顔がのぼせたように熱くなっていく。
 雄牛の頭骨がまるで首を傾げるようにこてんと傾く。息子は声を発しない。だがその仕草はあまりにも多くのことを物語っていた。
 ぼくのママじゃないの。
 ぼくを置いて行くの。
 ママの横にいるのは誰なの。
 私はあなたのママだし、あなたを置いていくつもりはないの。この子は全然知らない子なのよ。だが、娘は半ば突き飛ばすように私をその場から引き剥がす。
「さあ、帰るよー」
 腰に添えられた手は有無を言わせなかった。まるで連行される犯人と警察官のようだった。堪らず振り返る。エドワードはうなだれていた。握りこんだ両拳は小刻みに震えている。店の前でエドワードに会ってから初めて見る人間らしい仕草だった。
「エド……」
「振り返っちゃ駄目」
 一転して剣呑な声音が突き刺さる。
「殺されるわよ」
 殺される。誰が。誰に。なぜ。
 わからない。
 娘は私を急き立てる。途中、何度も石畳に足を取られた。だが娘は力を緩めない。結局、娘の意のままに操られて私は裏通りから連れ出された。
 通りを出た瞬間、町の喧噪が一斉に襲いかかってくる。通りを抜けた先は案の定噴水広場だった。
 車の走る音。自転車が駆け抜ける音。人の話し声。昼食時へと向かうカフェから漂う香ばしい香り、それに太陽の日差し。どれも随分久しくお目にかかっていなかったような気がした。
 私の手を引きながら闊歩している。ちらりと見えた横顔はひどく気むずかしげな表情だった。
「あの」
「黙って。私がいいって言うまで喋らないで」
 交差点を渡り、警察署の前を通り過ぎる。寺院の裏庭を突っ切って、劇場前の階段を上ると、再び狭苦しい路地に入る。何度か道を折れてから市場を横断し、広い通りに出た。
 おもむろに手が離された。
「ここならいいでしょ」
 解放されたのは市立病院の前だった。砂色の建物が立ち並ぶ中で病院の建屋だけは、やや煤けた灰色をしていた。車寄せには何台かの乗用車が停まっている。その乗用車に乗り込む人や降りる人で、辺りはざわついていた。
 ブルネット娘の手は車止めを手で示した。
「座りましょ」
 私はおずおずと腰を下ろした。娘は一つ大きな伸びをして、晴れてきたね、と誰にともなく独りごちた。つい先刻までの殺気立った雰囲気が嘘のようだった。その豹変っぷりが逆に不気味である。いいとは言われていなかった。だが、今なら口を利いても問題ないのだろう。
「どういうことなの」
 ブルネットが振り返る。表情はどこか晴れやかだ。癪に障る。
「エドワードはどこにいるの? やっと会えたのよ。三年間も探し続けてやっと会えたの。なんであなたは私の邪魔をしたのよ」
 娘は左手を頭に添える。答えに窮して頭に手をやっているように見えた。だが、そうではなかった。
 黒髪がずるずると娘の頭から剥がれていく。ブルネットの下から現れたのは、ショートカットの流れるような金髪だった。娘は手櫛を入れて髪を整えると、真正面から私を見据えた。
「あなた……」
その顔には見覚えがあった。以前、店にパン・オ・ショコラを買いに来た娘だった。
「覚えてくださっていたようで、嬉しい」
「忘れるわけないじゃない」
「でも、私の忠告はすっかりお忘れになっていたようですね」
 溺れる者は藁をも掴むというあれか。だが、今はそんな戯言などどうでもいい。
「エドワードをどこにやったの?」
「エドワード?」
「あなたも見たでしょ。牛の骨を被った子供よ。息子なの」
「あれはあなたの息子なんかじゃない」
 娘の声に湿ったものが混じった。
「私だって顔を見たわけじゃないわ。けれどもあんな格好しているのは、私の息子くらいなものよ」
「そういう意味じゃないわ」
 娘はブルネットを指に引っ掛けてくるくると回した。ウィッグだったらしい。
「じゃあ、どういう意味」
 娘は私を一瞥した。年の離れた妹を疎ましげにあしらうような眼光だった。
 ブルネットの回転が止まる。
「本当に知りたい?」
「え?」
「本当に知りたいの、って訊いてるのよ」
 娘の碧眼に何かが映り込んだ。赤とオレンジ色をした光の粒だ。さながら火花のような光の粒は不規則な動きで娘の光彩を漂う。
「三年間もの間行方不明だった人間が、ある日ひょっこり帰ってくるだなんて、そんなのはおとぎ話の中だけの話よ」
「じゃあ、あの子は誰なの?」
 娘は目を見開いた。そして音高く口笛を一つ鳴らした。
「信じられない。やっぱり人間って大馬鹿ね。聞いてたとおり」
「……何?」
「悪魔を祀るだなんて惰性でやっていいことなんかじゃないわ。私は大目に見る方だから特にあなたたちをどうこうするつもりはないけど、他の連中が知ったらからかってやろうぐらいは思う」
 娘は石垣から立ち上がった。手にしたウィッグを放り投げる。娘の手を離れたそれの毛先に一瞬だけ橙色の光が灯ると、瞬く間に全体が炎に包まれた。
「相手はやっぱり、あなたみたいにすっかり冷静さを失った人間かしらね」
 風が吹いた。ウィッグの灰を攫っていく。
 店に飾ってあった絵画を指し示した時、目の前の少女はひどくおかしそうに笑った。
 そしてこうも言った。悪魔については一家言持ちだと。
 相手の言うことがにわかには信じられなかった。
「かく言う私もね、あなたのパンが不味かったらあなたを助けたりなんかしなかった」
「助ける?」
 娘は半身になると自分の背中を指差した。
「背中。診てもらった方が良いよ。あと少し遅かったら悪戯くらいじゃ済まなかったんだから」
 手をやると、刺すような痛みが走った。
 驚いて脇腹を見やると、傷が三本並んでいた。明らかに刃物でつけられた傷ではない。強いて言うなら獣の爪でひっかかれたような傷だった。抉れた肉片が腰骨のあたりからぶら下がっていた。
「あなた、本当に……」
 視線を戻すと、娘の姿は跡形もなく消えていた。

CHICO 4(完結)

CHICO 4(完結)

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-07-12

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