CHICO 3

- Ⅲ -

「そう言われましてもね、奥さん」
 目の前の男が額の汗を拭いた。でっぷりと太った身体を古ぼけたスーツに押し込めている。着るというよりも巻くと言った方が正鵠を射ているかもしれない。
「我々も決して手を抜いている訳ではないんですよ。それはご理解いただきたい。何しろ、手がかりが全くないわけですから……」
「妹と姪からお話はお聞きになったんです?」
「とうの昔に。しかし、肝心の息子さんが失踪した状況だけがぽっかり抜け落ちておりましてね。姪っ子さんはあの年だ。ただでさえ自分が見たものを正確に人に伝えることができない上に、彼女も被害者の一人なんですからこちらとしても無理はできません。思い出したくないものを思い出させるわけですから」
「姪を絞り上げろと言っている訳ではありません」
「ええ、ええ……わかっていますとも」
 男はふうふうと息をしながら、また額にハンカチを当てがう。
「妹は何と?」
 ハンカチの動きが止まる。男は応接室の扉をちらりと見た。人気がないことを確認するような仕草だった。声のトーンを落とす。
「眼を離した隙にいつの間にか姿を消していた。あの人混みだから不審な人物がいなかったとまでは言えない。これが精一杯です」
 男のハンカチが再び動き出す。
「いずれにしても新たに物証を押さえるか証言でも取れないと、にっちもさっちもいかんのですよ」
 それをするのがあなたたちの仕事のはずでしょう。
 風船のように膨らんだ男の腹から、顔に視線を移す。目尻と口角をわざとらしいまでに下げきった男の顔が眼につく。これだから役所は好かない。
 私は静かにたっぷりと息を吸った。
「四日前に息子らしい子供を見ました」
「何ですって?」
 パチンと男のワイシャツのボタンが弾け飛んだ。
「息子かどうかはわかりません。でも、背格好が失踪したときのままの子供を、私、見たんです」
 男が身を乗り出す。脂ぎった禿げ頭がランプの光を反射して輝いた。
 私は、あの日、窓越しに見た子供について仔細に語った。娘と電話をしていた時に唐突に現れたこと、恐らく四人連れで、全員が一様に祭の正装をしていたこと。追いかけはしたものの裏通りに入ったその時には姿が忽然と消えていたこと。近隣の住民は妙な格好をした子供を見ていないこと。その全てを伝えた。
 男は唸ると、ソファに沈み込んだ。ハンカチを持ったまま顔を覆った。
「なぜ、もっと早く我々にお教えいただけなかったんですか」
 それは私が警察を最初からあまり信用していないからです。日が経つにつれ不信の度合いは、ちょうどあなたのお腹のように際限なしに膨らみ続けているからです。
 頭の中で言葉が奔流を為した。だが、警察相手に喧嘩を吹っかけるわけにもいかない。もしかすると夫に会えるかもしれないが、息子はどうなる。戻ってきた時に肉屋もパン屋も空き家にしておくのか。とはいえ、皮肉の一つもぶつけたい気持ちではあった。
「本当に、お知りになりたいですか」
 考えあぐねた末のやんわりした皮肉だった。男はまたハンカチで額を拭っている。目を合わせようとはしなかった。
「お察しいただけませんでしょうか」
 男は腿を叩いた。
「わかりました。捜査本部長に今のお話は伝えます。場合によっては後日、あなたに聞き取りをお願いするかもしれませんが、よろしいですね」
「そうなる前に息子を見つけてくださると、幸いです」
 男はソファから立ち上がると、応接室の扉を開ける。私は目礼をして部屋を辞した。扉はすぐさま閉じられる。何かを思い切り蹴飛ばす音が聞こえてきた。
 廊下を早足で歩きながら、私は奥歯を噛みしめた。
 穀潰しめ。
 絵に描いたような田舎の警察である。とことん頼りにならない。事件らしい事件は滅多に起こらないという環境は、見方を変えれば不幸なことである。殺人も窃盗も失踪もこの町では皆無だった。仕事と言えば交通違反の取り締まりが関の山、その交通保安の程度も都会の警察署には比肩し得ない。言うなればままごとのようなものだ。そのくせ、建物だけは豪奢で威厳のある造りだから、まさに張り子の虎という表現がお似合いである。
 正面玄関のガラス扉を半ば突き飛ばすようにして開けると、大理石の外階段を降りる。雨は相変わらず降り続いていたが、傘を出すのが億劫だった。うっかり足を滑らせないように注意しながらもなるべく早足で階段を駆け下りる。最後の一段を降りて視線を戻す。
 足が止まった。
 妹がひらひらと手を振っていた。

「姉さん。久しぶり」
 久しぶりに見る屈託のない笑顔がやけに眩しかった。
 妹と落ち合った私は、噴水広場の近くにあるスペイン料理屋に入った。妹によるとつい先週に新規開店した店らしい。相変わらず耳が早かった。
「よくこんな店、知ってたわね」
「あー、やっぱり姉さん、私の話聞いてなかったでしょー」
「話?」
 身に覚えがない。
「前に電話したじゃない。あの時、私はちゃーんと説明しましたよーだ」
「そうだったかしら」
「言ったわよー。この店人気だから、早めに行かないと混んじゃうかもしれないって」
 だが、妹の情報とは裏腹に店の客はまばらだった。たった一組、窓際のテーブルで静かに食事を摂っている客がいる。子連れの女性だった。雨のせいかもしれない。妹にとっては願ったり叶ったりだろう。
「それにしても、私が警察署にいるってよくわかったわね」
「まさか。偶然よ偶然」
「道に迷ってたとか?」
「お生憎様。この辺りだけは裏道がないから助かるわ。建物も大きいしね。実家のあたりとは大違い。私、今じゃもう一人で実家に帰れないかも」
 ウェイターが来て注文を取った。年若い男だった。妹はオリーブと芽キャベツのサラダと子羊のソテーを頼んだ。特に食べたいものがない私もそれに倣う。
 ウェイターが言ってしまうと、妹は水を一口含んだ。
「警察の人は何か言ってた?」
「別に。いつもどおりよ」
「進展なし?」
「そう。お役所仕事。台本があるのねきっと」
 難しい顔をして捜査本部長にかけあうと言った男の顔が思い出される。ブラフだ。大方、相手からは、ありもしない話で役所を焚き付けようとしているものだと誤解されたに違いない。私が話は誰にも知らされることなく、あの男の中で完結する。私が警察署にすぐ行かなかったのは、こういうところに理由がある。つまり、私は警察を信用していない。
 やがてオリーブと芽キャベツのサラダがやってきた。わーお、と妹が手揉みする。そしてナプキンも敷かずに大口を開けた。よほど楽しみにしていたのだろうか。思わず苦笑が零れた。
「そんなにお腹減ってたの?」
「とっても」
「あなた、ちゃんと食べてるの?」
「それ、姉さんにだけは言われたくないわよ」
 妹は手にしたフォークで私の手許にあるサラダを指した。
「手が止まってる」
 妹の指摘どおり、私はサラダに手をつけていなかった。正直なところ食べる気が起きなかった。妹のきまぐれに便乗したはいいものの、やはりどうも外食というのは落ち着かなかった。とはいえ一人頑なに食事を拒むのも大人げない。私はのろのろとナプキンで膝を覆った。
「毎年思うんだけど、この街の祭りは本当にお祭りって感じがしないわね。誰かのお葬式みたい」
「真面目なハロウィンだと思えばいいんじゃないかしら」
「ハロウィンにしたって愛嬌がなさすぎるわ」
 初めて食べる芽キャベツからは春の残り香が漂っていた。最近、手抜きで食事を済ませている身には薬のようにすら感じられる苦みだ。
 与太話に花が咲いた。妹が話し、私は聞く。私から話すことは特になかった。十年一日の如く私の生活には変化がない。どれもこれも、家に帰り着けばたちどころに忘れてしまうような、益体のない話ばかりだ。
 けれども妹は決してお互いの子供の話題には触れなかった。先日、電話で話した時と同じだ。万華鏡のように目まぐるしく変わる表情の裏には、腫れ物に触るかのような気遣いが見え隠れした。
 ひとしきり妹が満足するとたちどころに沈黙はやってきた。
妹のサラダはすっかり平らげられていた。所在無げに足をぶらぶらさせながら降りしきる雨を見つめている。その横顔は魂を抜かれたかのように締まりがなかった。何かを考えあぐねているようにも見えるし、今まさに眠りに落ちようとしているようにも見えた。
 妹が足を組む。
「よく降るね」
「そうね」
 そしてまた、会話が途切れる。窓の外を車が一台走り過ぎていった。
「ひとつ訊いてもいい?」
「何?」
「電話したじゃない私。ランチでもどうって。あの時の姉さん、すごく変だった。急に黙りこくったりずっと生返事してたり」
 ぎくりとした。まさか妹から水を向けられるとは思わなかった。
 ひょこりひょこりと姿を現したエドワードが脳裏をよぎる。この際だ。妹には私が見たものを話しておくべきだろうか。あしらわれることはないだろう。だが、妹は私と違って何にでも心を揺さぶられる人間だ。正直に話したことで、逆に気味悪がられたり、妙な心配をされるかもしれない。それだけは御免被りたかった。
「姉さん、私ね」
 その時、ウェイターが割って入った。二人分の子羊のローストがテーブルに並ぶ。料理は何食わぬ顔で湯気を立てている。ソースの立てる香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。ほっとして、威勢良くフォークを手に取った。
「来たわよ。お待ちかねのメインディッシュ」
 だが、妹は子羊のローストを一瞥したきり、手をつけようとしない。明らかに様子がおかしかった。やがて妹はテーブルに肘をつくと、組んだ手に額を預ける。
「姉さん、私、前からずっと思ってたの」
 俯いたまま、妹は続けた。
「エドワードが失踪したのは私のせいだって。娘だけが戻ってきた時は本当に自分のことしか考えられなくて、全然、姉さんがどんな気持ちだったか考えてなかった」
 藪から棒に何を言い出すのだろう。
 だが、口を挟むには妹の雰囲気はあまりにも剣呑で、私は大人しく次の言葉を待った。
「私が浮かれてたから。子供みたいに。保護者気取りで」
「……あなたのせいじゃないわよ」 
「姉さんを誘ったのが気まぐれだなんて、真っ赤な嘘。本当はずっと言おうと思ってたことがあって。でも、姉さんがどう考えているかわからなくて。蒸し返すようなのも嫌だった。それに謝ってどうにかなる問題じゃないんだけど……本当にごめんなさい」
 組んだ両手がぐっと握り込まれる。
 複雑な気分だった。
 妹を恨んでいるつもりはなかった。妹の厚意に甘えた自分に責任があるのだと思っていた。一方で、もし妹がもう少し目を光らせてくれていたら、と思うこともままあったから、本心では妹の魯鈍な部分に歯軋りしていたのかもしれない。
 自然と口が動いていた。
「電話をもらった時、エドワードを見たの」
 妹が頭を上げた。
「窓の外でひょこひょこ歩いてた。他に三人友達がいたわ」
「本当に? 本当に見たの?」
「ええ。本当にエドワードだったかはわからないの。追いかけたんだけどね。いろいろあってね。見ただけなのよ。私も驚いた」
 妹は呆けた顔でじっとこちらを見つめていた。
「だから、今は時間を作ってエドワードを探してるの。あんまり良く眠れてないし食事もおざなり。でも、この町はそんなに広くないから、私が諦めさえしなければそのうち会えると思うの」
 警察は頼りにならない。遠隔地に住む妹の手を借りるわけにもいかない。夫は塀の中で、手がかりはない。絶望的な状況を物ともしないかのごとく口の滑りだけは良かった。これでうまく作り笑いができていれば、と祈るような気持ちで妹の顔色を伺った。
 妹はまた顔を手で覆い隠した。長い息を吐く。
 食事を終えた客が席を立つ音が背後で響いた。靴音を高く響かせて私たちのすぐ側を通って勘定へ向かう。子供の背丈は私の記憶にある息子より少し高く感じられた。息子の背丈も私が見ないうちにあれくらいにまで伸びているのだろう。
 掠れた声が耳朶を打つ。
「何か言った?」
 小さく頷く。
 洟をすすりながら面を上げた妹は、憑き物が落ちたような笑みを浮かべていた。 


 クラッチバッグから財布を取り出すと、妹にその手を押さえられた。
「ここは私が持つから」
「でもこの店は」
「忙しいけど、業績はそこそこなのよ。うちの会社」
 妹はさっさと財布からクレジットカードを抜き出した。思ったとおりだ。私は財布を仕舞わず、紙幣を新たに二枚取り出す。
 案の定、妹のクレジットカードを見たウェイターは首を横に振った。クレジットカードを扱うための端末が店には備え付けられていないとのことだった。この町では未だに現金払いが主流である。先客の親子も現金決済で店を出て行った。
 阿呆のように口を開ける妹の脇から、紙幣を三枚、カウンターに乗せる。
「ここは私が持つから」
 妹は参ったとばかりに肩を竦めると、先に店を出た。
 機械式のレジががちゃがちゃと音を立てる。小さなベル音が鳴ってウェイターの手が小銭を握った。
「ごちそうさま」
 掌に小銭が落とされる。
 その感覚には覚えがあった。温めたパン・オ・ショコラ、壁にかかった絵、そして瞬く店の照明、笑い転げる例の客。
 目の前のウェイターが爽やかな笑顔を作る。
 先日、店にパンを買いにきた客がウェイターの格好で立っていた。絹のような髪を耳に掛けるとにこやかに挨拶をする。
「こんにちは」
 足に根が生えたようだった。なぜこの店にいるのか。偶然の一言で済ませるにはあまりにも出来過ぎた話だ。何か悪質なペテンにかけられているような気がする。
 ウェイターはこわごわと辺りを伺うと、カウンター越しに身を乗り出した。
「ごめんね。びっくりさせちゃって。おばさんが心配になってつい、ね」
「ひょっとして私を尾行しているの」
 質問ではなく確認のつもりだった。だが、ウェイターは人差し指を交差させてバツの字を作る。大嘘だ。
「家から殆ど出ない、って言ってたじゃない」
「昨日からここで働いているんです。嘘じゃありません」
「注文を取りに来たウェイターさんはどうしたの。それから随分厨房がお静かなようだけど、皆さん職場で堂々とお昼寝するのかしら」
食事の間中、客席を行きつ戻りつしていたウェイターは若い男のウェイターだけだった。いつの間にか厨房からも人の気配が消えていた。
「……おばさん、頭の回転が早いんですね。すごい」
 しばし、お互いに睨み合った。
 ウェイターは顎を突き出して涼しい顔をしている。その態度からは、店で会った時に感じた品の良さは完全に消えていた。まるで別人のような態度は無闇と神経を逆撫でする。しかし、ここで変に絡んだところで得るものはない。知らず、小さな舌打ちが飛び出した。
「用なら手短に済ませて。人を待たせてるの」
「じゃあ、早速。おばさんが私の忠告を忘れてない?」
「溺れる者は藁をも掴む」
「ちゃんと覚えてくださってるのね。でも、上辺の意味しか理解できてないみたいで残念」
「察しは良くても超能力者じゃないの、私は」
「でも、本当は薄々勘付いてる」
「だから、何のことよ。私は超能力者じゃないの」
 ウェイターはじっと翡翠色の瞳で私を見据えた。不遜な態度と相まって、本当にわからないのかと問いかけられているように感じた。視線のいやらしさから逃げるように目を逸らすと、妹が不思議そうにこちらを覗き見ている。
「あんまり嫌がらせみたいなことをして嫌われるのもイヤだから、これ以上は何もしないけど。でも、明け方には気をつけて」
「前にも同じ事を行っていたわね」
「文字通りの意味よ。明け方には特に用心して」
 いつの間にかウェイターの眼差しが真剣なものへ変わっていた。鼻につく横柄な態度はなりを潜めている。だが、言っている内容が雲を掴むようなものだから、今ひとつ説得力に欠ける。妹が目で何かを合図している。それでようやく踏ん切りがついた。
 私は受け取った小銭を財布に入れると、入れ違いに札を一枚、ウェイターの顔に放った。ウェイターは一瞬だけたじろいだ素振りを見せたが、器用に指で紙幣を挟みとる。
「何これ?」
「チップという名の買収よ。それだけあれば充分でしょ」
 私は振り返ることなく店のドアを開けた。
「もう、私の前に現れないでちょうだい」

CHICO 3

CHICO 3

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-07-12

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