心のテレポス
クラスメイトを見て思う。彼らは輝いていて羨ましい。白い歯を見せ合って、まるで自分達が世界の中心にいるみたいに、楽しげで無邪気で何にも考えていないように見える。それは僕にはできないことだから、妬んだり腹を立てたりもした。もしかして上手に会話できない僕を笑っているんじゃないだろうか、そんなことも考えた。そして同時にこんな僕が話題に上がるわけがないと、自意識過剰はやめろと、自分に言い聞かせた。僕にとっての高校生活は地味だが平和、良くも悪くも何も起きない、そんなものだった。だからその日のことは高校生活で唯一の事件であり冒険である。
その日、僕は親戚で女子大生のユキと映画に出掛けていた。ユキは茶髪をショートカットにしていて白いダメージジーンズを履いていた。彼女の趣味は全国各地の映画館めぐりをすることで、僕はよく映画に連れ出された。
映画館のロビーで僕がどの映画を見るつもりか尋ねると
「行けば分かるわ」とユキは思わせぶりに微笑んだ。それはいたずら好きな女の子がする類の微笑みで、大抵の場合、男の子には試練が待っていた。
ユキはチケット売場の列には並ばずに、その脇にある「staff only」と書かれた扉を開けた。僕の言葉を待たず手を引っ張り無理矢理その中に入ると、ユキは「走って」と声を掛けた。
狭く暗くじめじめした廊下には黴臭い絨毯が敷かれていた。右へ左へと廊下を駆けていく。手を引かれながら走るのは難しいと主張した時には、もはやどこから帰ればいいのか見当がつかなかった。
「見たい映画があるのよ。でもその映画を見るためには裏道を行くしかないの」
ユキは、どこに問題があるのか分からないし、問題があったとしても構わないといった様子で平然と話した。
「それにきっとあなたも気に入ると思うわ」
正直僕は後ろめたい気持でいっぱいだった。もし係員に見つかったらどうしようとか、もしかしたら警察を呼ばれるかもとか、真っ当な考えが浮かんでいた。けれどその日はユキの強引さと、何も起きない日常に飽きていたこともあって、この親戚の悪巧みに乗ってしまおうと思ったのだ。
「なら仕方ない。裏道の案内は小悪党に任せるよ」
そう言うと、ユキは僕の耳をつねった。
「あなたも言うようになったじゃない」
ユキの顔には苛立たしさと嬉しさが入り混じっていた。
迷路のような通路の脇に一直線にのびた細い階段があった。長い階段で終わりが見えない。降りていくと壁がいつの間にかコンクリートからレンガに変って、階段自体もごつごつとした岩を積み上げたものに変っていった。随分複雑な道を進んできたが、ユキは自分達がいまどこに居て、どこが目標地点かを正確に把握しているようだった。
「ここね」とユキが言うと、カードリーダーにカードを読み取らせた。そして指紋認証を済ましていく。彼女がどのようにしてセキュリティを突破したのかは知らない。ただただ僕はその行動力に呆れるばかりだ。
レンガで造られた扉が開くと白い広々とした通路に出た。その白さは病院の無菌室を思わせるどことなく不健康な白さだった。通路を行った先には、巨大なドーム型の空間が広がっていて、その中央に簡素なセミダブルのベッドが置かれている。ユキに従い僕はベッドに近づいて、質問をなげかけた。
「ここが映画館? スクリーンはどこにあるの?」
ユキは一つ目の質問には答えずに、二つ目の質問にこう答えた。
「スクリーンはここよ」
そうやって頭をトントンと人差し指で指した。
「これから見るのはあなたの頭の中にあるもの。あなたの奥に隠されたあなたの真実、その欲望よ」
饒舌に語る彼女の話を統合するとこういうことだった。ここにはその人が本当に見たいと思っているものを映像にすることができる装置があって、ユキは僕の頭の中を覗きたいのだと言う。
僕は興味半分怖さ半分といった心持ちだった。もし仮に本当に自分の見たいものを映されるとして、それを見てしまっていいのだろうか。後悔しないだろうか。僕には戸惑いがあった。
けれどユキは強引に僕の頭に装置の一部分であるヘルメットを被せた。
「フェイクであってもいいのよ。ここまで来たからには協力してよね」
そう言って僕の返事を待たずに装置の電源を入れてしまった。すっと身体から力が抜けて僕はベッドに倒れこんだ。
「上映は一度きり」という声がやたらと耳に絡みつく。
ぷかぷかと水の上を浮いているような、全身から緊張が解けて、なんとなく気持ちのいい状態が続いた。僕はお酒を飲んだことが無かったけれど、これがきっと酩酊状態というものだろう。
鼓膜を揺さぶる拍手の大音量で意識を取り戻す。顔を上げると大勢の人が僕に声援を送っていた。身体がふらついて、頭がぐらぐらする。僕は演台に立っていた。テレビで見た大統領の演説広場のような空間だ。十万人を超えるであろう人だかりに、十台以上のカメラが僕の一挙手一投足を見守る。秘書のような人がこちらに歩み出て屈託のない笑顔で言った。
「お好きなことを仰ってください。あなたはこの世で最も祝福された人物なのですから」
僕の身体は縮みあがり、軽いパニックを起こしていた。こんな大勢の前で話すことは僕のような人間にとって苦行でしかなく、穴があれば迷わず入るし、影武者がいればむしろ交代したいくらいなのだ。
それなのに、この夢ときたら……。夢? そこまで僕は考えて、これが現実の出来事では無いことを思い出した。そうか、これは単なる夢だ。それならば。
「みなさんこんにちは。僕は普通の高校生です」
こんな出だしの話でも観衆は両手を挙げて喜び、心の底から興味津々といった様子で僕の話に聞き入っていた。そして頭の中に声の洪水が流れ込んできた。
「こんにちは。お話がんばってください」「普通の高校生なわけないだろう。謙遜はよせよ」「どこら辺が普通なの?」「わりと渋い声をしていますね」
数万人の声が聞こえた。耳から入ってくる音ではなく頭に直接響くようなおかしな音だ。こんなに声が聞こえたら処理が追いつかなくて気持悪くなりそうなものだが、全くそのようなことはなく、むしろ明晰に人の声が聞こえるのが心地よかった。そこでは全ての声を聞き分けることができたし、その一つ一つに返事をすることも可能だった。秘書のほうを向くと、頭に秘書の声がした。
「これはこの世界でテレポスと呼ばれているものです。音だけではなく、イメージやムービーを送ることもできますよ」
そう言うと、世界中の人がテレビやラジオの前で僕の話を聞いているイメージを送ってきた。僕はいよいよ調子づいてこれまで誰にも話したことのないことを話し始めた。
「昨日、僕は宇宙のことを考えていました」
この一言にも多くの返答が来た。
「宇宙は広がり続けていると言われますが、本当は一定の大きさでしかなく、外側には人間より遥かに大きくて優れた知的生命体が、僕らを監視しているのでは、と思いました」
「それが君の思う神の似姿ってわけ?」「僕も同じこと考えてました」「人間を神秘的に思わないところが唯物論的だね」「映画でもそういう話あったな」
どうして、こんなくだらない話にみんな真剣に向き合ってくれるのだろう。
すうっと一筋頬に涙が流れた。一粒の涙に引かれて、頭の中のこんがらがった糸がするするとほどけていくようだった。
そうか、人は誰しも自分に向き合って欲しいのだ。会話やコミュニケーションといったものはその手段に過ぎず、本当にしたいことはその人の大事なものに触れること。それは結局、心を開き耳を傾けることだった。
「どうしてそんなこと考えついたんだい?」「もっと話してくれよ」「宇宙の外側には何も無いって考え方もあるけど、それについてはどう思う?」
僕は手を挙げて言った。
「もう大丈夫だよ、ありがとう、ユキ」
電源を落とすように周りの景色が黒く消えた。カクン、という音がして、僕は現実に復帰する。
「随分早かったけど、もう良かったの?」
ユキはベッドの縁に腰掛け、僕の頬にハンカチを当てていた。
「あれ以上やると大切なものを忘れてしまいそうだったから」
ベッドから起き上がって身体を動かした。肩を回して伸びをする。
「それに、あの続きなら、こっちでも出来るし」
僕は立ち上がって、ユキに手を差し伸べた。白くぽっかりと開いた空間に二人だけでいると、なんだか自分が特別な登場人物のように感じられた。
そう、と短く返事をしてユキは僕の手を取った。
「実は私は何回もこの装置を人に使わせているのだけど、あなたのように優しい世界を構築した人は初めてだったわ」
僕はそっぽを向きながら答えた。
「そんなことないよ。僕は単なる甘ったれだ」
ユキはくすくすと笑う。そうして僕らはお互いの目をじっと見つめあった。それだけでもう十分だった。僕にはユキの心の声が聞こえた気がした。きっとユキは僕のことを心配してくれて、ここまで連れてきてくれたのだ。
「今度はユキの頭の中を見せてよ」と言うと
「私はもう見てしまったから」と返ってきた。ユキはベッドから離れて出口に歩いていった。直接声で聞くことはできなかったが、心の声では彼女の音を聞いていた。つまり彼女は、悩んだり迷ったりしている人に自分の本当にしたいことを見せることで、その人の役に立ちたいと考えているのだ。
「人の心を覗き見するような顔はやめなさい。それともテレポスが使えるようになったのかしら?」
振り向いてユキは両腕を組んで尋ねた。僕は首を横に振って、彼女の横を通り過ぎた。
「そんなもの使わなくたって、ユキが優しいことは知ってるから」
僕はスキップをしたい気分だった。進みだした足は軽く、彼女の案内なしにもここから地上へ出られる気がした。そう、ユキがここまで僕を連れてきたことが、悪意であるはずがない。「お人よしね」とユキは言ったけど、僕は気にしなかった。そうして元居た場所に戻っていった。
ふとしたきっかけでクラスメイトと話をして友達になった。会話はぎこちなくて不完全で思いの数%すら届かない。けれど僕は心を開いて耳を傾けた。相手と真剣に向き合うと心の声が聞こえる気がした。相手にも僕の声が届いたと思ったときはテレポスとユキのことを夢として話すことにしている。そうすることで僕はユキから貰ったものを返せると思うから。テレポスがもう一度使えるなら、世界中の人に僕はユキの話をするだろう。あなたの本当に見たいものを見せてくれる優しい人の話を。
心のテレポス