雨がやんだら(9)

   三十二

 梅雨入り早々の〝中休み〟は翌日になっても続き、フォード・ファルコンは念願だった澄み切った青空の下、V8エンジンの轟音を響かせて、靖国通りを西へと軽快に進んでいた。もっとも、事務所を出る前に確認した天気予報によれば、今日のうちに天気は下り坂となるようで、彼女の機嫌も時間が経つにつれて悪くなるであろうことは、容易に想像ができた。この車は、つくづく私と相性が悪いらしい。
 事務所を起つ前に、パソコンを確認すると、尾藤に依頼しておいた調査の結果がメールで送られてきていた。約束をした〝朝一〟に間に合わせてくれたのだ。そう、あの男は、ああ見えて、なかなかの律儀者なのだ。だからこそ、私と違って経営者として成功しているわけで、こうしてオーストラリア製の車を私が〝足〟にしているのも、そのおかげなのだが。
 そして、尾藤のメールに書かれていた調査結果は、昨日の岡辺との会談で生じた疑念を晴らしてくれるのに充分な内容だった。
 新宿を抜けた後、環状七号線の高架をくぐる辺りで、渋滞に巻き込まれたことを除けば、車は順調に流れていて、ほぼ予定通りに北裏の交差点を右折することができた。先日、下山文明の元を訪れる際に、同行者と落ち合うために使ったときと同じルートだった。
 しかし、今日の待ち合わせ場所は、三鷹駅前ではない。三鷹駅まで続くバス通りを途中で外れて、路地へと入る。〈武蔵野郵便局〉の裏手に回り、目指す駐車場へとファルコンを乗り入れた。見慣れたトヨタ・センチュリーの隣にファルコンを停める。面会の約束をした相手は、すでに到着しているようだ。
 車を降りてから、煙草をくわえてブックマッチで火をつけた。奥にある鉄製のドアの向こうは、確実に禁煙だ。しかも、煙草を喫っているところを見つかろうものなら、〝田舎のヤンキー〟扱いをされてしまう。私は木陰に身をひそめて、ゆっくりと煙草を喫った。
 時間をかけてできあがった喫い殻を、携帯用灰皿に押し込んで、鉄製のドアを開ける。先日訪れたときよりも、薄暗い感のある廊下を先に進むと、先日訪れたときのように、ロビーの真ん中に女がひとり立っていた。来客者が車で来ることを、まったく予想していなかったようで、彼女は私に背を向ける恰好で、立っていた。
 少しは荷を下ろすことができたのか、最後に見たときよりもピンと伸びた女の背中に声をかけた。
 森真砂子が、慌てて振り向いた。今日は、長い黒髪を無造作に後ろで束ねて、チャコールグレーのスーツを身につけていた。声をかけたのが私だと気づくと、真砂子の表情からは驚きの色が消えて、校則違反の常習者を見つけたときのようなあきれ顔へと変わっていった。
「今日は、車でいらしたんですか?」
 私は頷いて応えて、真砂子へと歩み寄った。
「でしたら……そう言ってくだされば、よかったのに」
 声に張りが戻っている。一日とはいえ、休暇を取ったことが功を奏したようだ。
「こいつは、失礼しました」
 悪さを見破られた生徒よろしく、素直に頭を下げると、真砂子は柔らかな笑みを見せた。
「それで、みなさん、お揃いですか?」
「はい」今度は顔を引き締めて頷き、真砂子が言った。「和泉君にも、残ってもらっています」
「どうやら、お待たせしているようですな」
 歩き出した私に、慌てて真砂子がついてくる。顔を曇らせてはいるものの、〝なぜ?〟〝どうして?〟と、あれやこれやと詮索してこなかった。彼女も、私がどういったタイプの人間であるのかを、理解し始めてくれている――そう好意的に解釈することにした。
 ロビーを横切り、『管理人室』とプレートが貼られたドアを、無礼を承知でノックせずに押し開けた。
 白髪頭の大男――清水が、管理人室に入った私を出迎えた。この前と同じサーフボードと椰子の木がデザインされたオレンジ色のTシャツを着たクセっ毛の長い髪をした男――和泉はデスクに座って、フライドチキンを食べていた。
 遅れて管理人室に入ってきた真砂子は、部屋に濃く漂う揚げ物の匂いに、眉をひそめていた。
 清水は立ち上がると、食事を続ける和泉の肩を軽く叩いて、奥へと引っ込んだ。私をここに呼びつけた張本人、つまりは彼らの主人に、私が到着したことを伝えに行ったのだろう。和泉は、残り三分の一ほどになったフライドチキンを、慌てて口の中に押し込んだ。
 和泉が朝食には似つかわしくない揚げ物を飲み込むのを待っていたかのように、清水に伴われて理事長の林信篤が姿を見せた。和泉が慌てて立ち上がる。
「美味しかったかい?」紺色のストライプスーツを着た林が、和泉に声をかけた。
「はい」和泉の唇はグロスを塗りたくったかのように、油でテカらせていた。
 フライドチキンは、林の差し入れらしい。林のセンスの無さをなじるべきか、和泉の食欲を讃えるべきか。
 林は和泉と清水を椅子に座らせてから、口を開いた。「今日は、経過報告をするだけ……じゃないんですか?」
「ええ、そうです」
「だとしたら、ここである必要は、ないんじゃないですかね? 森君は別としても……彼らに聞かせるような話ではないと思いますが?」清水と和泉の間に立った林が、不満を漏らした。
「いや、清水さんと和泉さん……おふたりにこそ、聞いていただきたいんですよ」
 和泉は目をしばたたかせ、清水は呆けたように口を開けて、こちらを見つめてきた。
「……なら、早く話を始めてください。和泉君は、夜勤明けで疲れているところを残ってもらっているわけだし……清水さんは、仕事の最中ですからね」
 林の言葉に、清水は仰々しく頷いた。和泉は目をしばたたかせて――なんのことはない。彼は襲いかかる眠気に耐えているだけなのだ――林を見上げる。
 こみ上げてくる笑いをこらえるため、我ながら芝居がかっていると思いつつも、大きな咳払いをひとつして、間を取らねばならなかった。
 私は言った。「――さて、花田博之君の件なんですが……」
 〝花田博之〟という単語に反応して、今度は林が軽く咳払いをした。得意先の前で、相手の商売敵を褒めちぎってしまった〝うかつな営業マン〟をたしなめるような仕種だった。
「ご依頼の花田博之君の件……」私は構わず話を続けた。「まァ、彼の居場所ですが、あと数日で、どこにいるのか、はっきりとわかるようになります」
「本当ですか?」声を上げたのは、最後に管理人室に入ってきた真砂子だった。
「ええ。それだけの情報が、手に入りました」
「そうなんですか……よかった」真砂子が目を輝かせる。
 清水は呆けたままで、和泉は相変わらず目をしばたたかせていた。そして、依頼人であるはずの林は、表情を変えることはなかった。
「あの……それで、花田君は、どこにいるんです?」真砂子の口調には、さしたる反応を見せない男たちへの戸惑いの色があった。
「彼は、母親と一緒にいます」
「お母様と……ですか?」
 私は真砂子に頷いて応えた。
「お母様ということは、桜樹よう子さん……ということですね?」ようやく林が口を開いた。
「そうです。もう、引退していますから、花田洋子さんと言った方がいいでしょうね」
「そうでした。それで、花田君が、お母様と一緒にいる……ということは、本当のことなんでしょうな?」
「ええ。本当のことです。それに……今ここで、嘘をついたところで、なにも始まらんでしょう?」
「……確かに、そうだな。それでだね、彼女は今どこにいるんです?」
「まァ、落ち着いてください」矢継ぎ早に質問をしてくる林を制した。「私は、ここですべてをお話しします。だから林さん、あなた方も嘘はつかないで欲しい」
「それは、どういう意味かね? きみに花田君の家庭環境について、詳しいことを話さなかったのは、事実だよ。だが、それは生徒の個人情報だからであって、おいそれと他人に教えるようなことじゃないと、判断したからだよ……まさか、それを根に持っているんじゃないだろうね、きみは?」
 林の言いぐさに、いくつかの罵詈雑言が即座に浮かんだものの、不思議と腹は立たなかった。彼に向かっては、憐れみの感情を強く感じ始めていた。
 ――おかげで、余計な揉めごとを起こさずに済みそうだ
 私は言った。「そういうことじゃァない。林さん、あなたが、私に依頼をしたのは、姿を消した花田博之君を捜すこと……でしたが、本当のところは、違うんじゃァないですか?」
「なにを言い出すんだ、きみは? 私が頼んだのは、花田君を捜すことじゃないか…なァ、森君、そうだよな?」
「はい、そう……です」依頼人である林の代理として、私と行動をともにしていた真砂子は、おずおずと首を縦に振った。
 おそらく、彼女も私の言っていることの意味をわかっていない。それ以上に話を理解できていない清水と和泉のふたりは、矜迦羅童子と制叱迦童子のように、間に立った主――林と私へ交互に視線を走らせていた。
「林さん……あなたは、花田洋子さんを捜していたんだ」
「私が花田洋子さんを捜していた? どうして、私が彼女を捜さなければならないんだね。当学院での花田君の保護者は、花田浩二さんと恵子さん……それだってきみは、もう知っていることじゃないか。馬鹿なことをいうもんじゃない。どうして、そんなことを言い出すんだ?」いつまでも言い訳を繰り返して、謝罪の言葉を発しない生徒を諭すような口調だった。だが、林の顔は上気している。
「まァ……そう慌てずに、私の話を聞いてください」まずは気色ばむ林をなだめねばならなかった。「博之君の実家――千葉の古い漁師町ですが、そこで聞いたんですよ。少しクセっ毛の髪の長い若い男が、花田洋子という女性について、聞き込みをしていたとね」
 和泉が眠そうな表情のまま、こちらを見つめていた。どうも、自分のことが話題になっていると、気づいてはいないようだ。
 私は続けた。「その後に、博之君のお母さん……洋子さんが、かつて所属していた芸能事務所の社長に会ったんですが……」林の脇に腰を降ろした清水が、目を背けて顔をしかめているのを、私は見逃さなかった。「そちらの方にはね、白髪頭の大男が、洋子さんの近況について、調査をしに来たそうなんですが――」
「待ちなさい」林が私の言葉を遮った。「きみは、花田君を捜していたんだろう? どうして、彼のお母様について、勝手に捜しているんだね?」真砂子に目を向ける。「森君、きみは、彼が言っていることを、知っているのか?」
 真砂子は「いいえ」と首を振った。
 花田博之の故郷を調査したことは、真砂子に伝えてはいる。ただ、その詳細を私は教えてはいない。もっとも、教えない方がいいこともあるのだが。
「私は言ったはずだよ。彼の保護者なり、親御さんに接触するときは、私か、森君が必ず同行するよう手配して欲しいと……」
「では、林さん。どうして彼らは……いや、あなたはどういった理由で、彼らを使ってまでして、博之君のお母さん、洋子さんの周辺を調べ回っていたんです?」
 金のかかった仕立てのいい紺色のストライプスーツの前を閉じて、居住まいを正すだけで、林は気難しい顔のまま、なにも答えようとしなかった。
「まァ、いいでしょう……」私は質問を変えた。これなら、林でも答えられるはずだ。「ところで、下山文明さんが〈聖林学院〉を使って、イベントをプロデュースすることが決まったそうですね?」
「本当なんですか、学院長?」声を上げたのは、真砂子だった。
 林の左に座る和泉は、声にはしなかったものの、「マジかよ」と口を動かした。清水は、なんの反応も示さなかった。真砂子に言わせれば、下山文明は〝若い人たち向け〟のイベント・プロデューサーなのだ。私より年上の清水が、その名を知らなくてもしょうがない。私とて、つい最近までは知らなかったのだから。
 ひとつ息をついてから、林が答えた。「……森君には、まだ伝えていなかったね。おととい、決まったことなんだ」
「そうでしたか……それは、当学院にとって、喜ばしいことですね」言葉とは裏腹に、真砂子の顔は曇っていた。「ですが、下山さんのことと、今回の花田君の件と関係あるんですか?」率直な疑念を私にぶつけてくる。
「森君の言うとおりだ。そのことが、きみにした依頼とどう関係があるというのかね? だいたい、きみはその話を、どこから聞いたんだ」真砂子の援護射撃を受けた林が、語気を強めた。
「林さんが花田洋子さんの周囲を調査していたこと、博之君が失踪をしたこと、そして、私が博之君を捜すよう依頼されたこと、すべては下山さんが〈聖林学院〉でのイベントを〝無償〟でプロデュースすることに繋がっていると、私は睨んでいます」最後に、この稼業での最低限のルールを、忘れずにつけ加えておく。「それと、下山さんの件は、ある筋から聞いた、とだけ答えておきます」
「下山さんが、無償で?」と真砂子。
「……ああ、下山さんのご厚意でね」
 林の回答に、真砂子の顔が晴れることはなかった。どうやら、私が説明するしかなさそうだ――
「なんでも、先代の理事長さんが、バブルのときに手を出した不動産への投資が、随分と焦げついているそうじゃないですか。そこに、林さん、あなたが代替わりをした際に行った設備投資も重なって、〈聖林学院〉の経営状況は、世間で語られるほどいいものじゃァない。実際のところは、自転車操業なんだそうですね」
 上着のポケットには、私が口にしたことを裏づける資料――〈聖林学院〉の経営状況が、びっしりと記載された尾藤からのメールをプリントアウトしたものだ――がある。ただ、越後の縮緬問屋のご隠居よろしく、印籠替わりにかざす必要はなさそうだった。肩を落とした真砂子は、唇を噛み締めてうつむいてしまい、背中から炎を立ち上らせそうな佇まいの林は、血走った目で私を睨みつけていた。
 私は続けた。「今をときめく下山文明さんが、そんな経営状況の悪い〈聖林学院〉で、イベントをプロデュースする……それも、無償で。それは、話題になるでしょうなァ。となると、来年は、入学希望者は増えるんじゃないですか? まァ、言うなれば、あなただけ丸儲けすることになるんだ」
「口に気をつけなさい」低い声で林が言った。「私を誰だと思ってるんだ」
 確かに林の言うとおり、〝依頼人〟に対する口の利き方ではない。
「これは失礼しました。どうも、私は口が悪いようで……」軽く頭を下げる。「しかし、下山文明さんの〝ご厚意〟を引き出すために、なにをしたんです? 林さん」
 林が口を開くことはなかった。しかし、私の言葉は的確に林の急所を突いたようで、林は目を剥いて、こめかみを振るわせていた。
 私は言った。「清水さんたちの調査で、あなたもご存じなんでしょうが、花田洋子さんは、決して褒められるような人ではなかった……まァ、今ここで、それを詳しく話すつもりは、ありません。ただ、あなたは、そんな彼女のことを、下山文明さんから金を巻き上げる……いや、失礼。彼女のことを、下山さんから〝ご厚意〟を引き出すために、取引の材料にした。違いますか?」
 林は脂ぎった鼻の頭を右手の人差し指で掻いた。目を閉じて、鼻を鳴らして笑う。「……それが、どうかしたのかね。こちらに有利になるよう、いろいろと材料を集めるのは、交渉事をするに当たってのセオリーじゃないのか?」
 林がようやく本音を口にした。人間、素直が一番だ。ただ、地金を見せた理事長の発言は、真砂子にとっては信じられないものだったようで、彼女は呆然と立ちつくしていた。もっとも、私にとっては、この方がなにかとやりやすいのだが。
「きみは、そんな私に腹を立てているのかね?」
「腹は立ててますがね、そのことが理由じゃない。〈聖林学院〉を維持していくことは、あなたにとってなによりも大事なことなんでしょう。それに、学校がつぶれてしまったら、森さんや、そこのおふたりは路頭に迷ってしまいますからね。綺麗事ばかり言ってはいられないでしょうなァ」鋭い視線をぶつけて、口を開こうとする真砂子を制して――悪いが、今はあんたを構っていられない――私は続けた。「私が腹を立てているのはね、林さん……あなたが、博之君を利用したことなんですよ」
「花田君を利用した……どういうことなんですか?」と真砂子。
 グウっと喉を鳴らして、林は彼女から目を逸らした。答えを求める真砂子が、周囲を見渡す。林の両脇に控えるふたりの眷属が答えられるわけもなく、私が話を続けねばならないらしい。
「下山さんとの交渉を進めていく中で、自分の立場をさらに有利にするため、林さんは、花田洋子さんの過去だけじゃない、彼女が今どこで、なにをしているのかを探ろうとしたんです。ところが、彼女の行方は、杳として知れなかった。そこで、林さんはひとつ手を打つことにした」
 真砂子が眉間にしわを寄せていた。話の先を促されている。
「下山さんに、洋子さんを捜させようとしたんです。博之君の名前と、大江という人物の名前を使ってね」
「ひょっとして……」真砂子も、山中湖畔のログハウスで読んだメールのことを思い出したようだ。
「そう、あのメールです。おそらく、大江という名前は、洋子さんの古里を調べている間に、耳にでもしたんしょう……その名前を使って、下山さんにメールを送ったんです。いかにも、洋子さんが博之君に会いたがっているかのように装ってね」私は上着の内ポケットから紙を取り出して、真砂子に渡した。「そこに、二通のメールが書いてあります。一通は、下山さんの下に届いた〝大江〟なる人物からのメールです」尾藤に頼み込んで、下山から転送させたものだった。

  突然のメール失礼いたします。
  貴兄が花田博之君の父君であられるということで、
  連絡させていただいた次第。
  花田博之君の母君が、是非とも博之君に
  お会いしたいとのこと。
  何卒、博之君にお伝えくださいませ。
  大江拝

「――そして、もう一通は、昨日の夜、林さんから私のところに届いたメールです」

  先日の依頼について、報告を受けたく連絡した次第。
  近日中、出来得れば明日にでも、現状を報告していただきたく。
  まずは貴兄の予定をご連絡ください。
  よろしく願います。
  林拝

「これが、なにか?」二通のメールに目を通した真砂子が言った。
「二通とも、文体が似ていると思いませんか?」
 真砂子がもう一度、二通のメールに目を通した。「言われてみれば……似てますね」
「不思議なものでね、メールの文体ってヤツは、署名の仕方だとかなんとか、人それぞれクセみたいなモンがあるんです。そう……筆跡みたいなモンですよ」
 真砂子は手にした紙を林に差し出したが、彼は手渡された紙を見ようともしなかった。
「こんなもの、証拠になるのかね?」
「ご安心ください……証拠になんざ、なりゃしない。そもそもが、他人の空似ってことも、あるでしょうから」
 林は私の言葉を聞いて、あきれたといった風に首を横に振り、手にした紙を握りつぶすようにして丸めた。
「ただね……林さん」私は、自分の唇の端が上がっていることに気づいていた。そう、北町奉行よろしく、桜吹雪を披露するのは、これからなのだ。「実を言えば……もうひとつ気になる証言がありましてね」
「気になる証言?」
「ええ。これは、博之君を捜している最中に聞いたことでしてね、博之君は立ち寄った店で……下北沢にある〈ポットヘッド〉という店なんですが――」〈ポットヘッド〉がロック・バーで、博之はそこで酒を飲んでいたなどと、余計なことを口外するつもりはない。「その店で、博之君はしきりと、誰かにつけられていないか、気にしていたそうなんです。まァ、店の人に博之君は〝まいたから、大丈夫だ〟と告げたそうですが」
「それが、どうしたのかね」と林。
 私は林には答えずに、和泉に訊いた。「二週間前、私とここで話をしたときのこと……覚えていますか?」
 和泉は目頭を右手の親指と人差し指で揉みながら、ゆっくりと首を横に振った。
「和泉さん、二週間前にあなたは、こう言ったんです。博之君を捜したけど、〝まかれてしまった〟とね。実は、そのことがずっと気になってたんですよ」
 和泉は目頭を揉むのをやめなかった。私の言葉が耳に届いていないはずはない。彼は、自分の犯した失態に気づいていないだけだ。
「あのねェ……誰かを捜して見つからなかったとき、〝まかれた〟とは、普通は言わないんだよ」私は和泉に言った。「〝まかれた〟ってェのはね、〝誰かの後をつけて見失った〟……そんなときに言う科白なんだよ」
 林の脇に座る和泉が私を見上げた。上手い言い訳が見つからないのか、ただ睡魔のせいで頭が回らないのか――この際、どちらでもいいのだが――口をパクパクとさせるだけだった。
「まァ、そのおかげで、博之君を捜すために、私が雇われることになったんでしょう」
 呆けた顔をして話を聞いていた清水が、天を仰いだ。「やっぱり、あんた……現役なんだな。俺たちじゃァ、叶わねェや」ゆっくりと立ち上がる。林より頭ひとつ分高いところから、林に向かって言った。「この人の言うとおりだ……なァ、学院長さんよ、もう正直に話しちまった方がいいんじゃねェか」
 清水が伝法な口調で語ったのは、虚勢を張ったのではなく、悪びれることで、失態を犯してしまった若者へ優しさを示したのだろう。
 彼らの雇い主である林は、若者を慰めるでもなく、脂ぎった鼻を今度は左手で拭い、右手に握りしめていた紙を事務机の上に放り投げた。そして、さして乱れてもいない髪の毛を両手で撫でつけてから、目を細めて私たちを見渡す。林の口元が歪んでいた。本人は笑っているつもりなのかもしれない。しかし、和泉には凶悪に見えたのか、顔を背けてしまい、真砂子には醜悪に映ったのか、眉間にしわを寄せて目を伏せてしまった。
 清水は表情を変えなかった。かつて私と同じ稼業であったろう彼は、往生際の悪い小悪党が地金を見せる場面に、幾度となく立ち会ってきたのに違いない。
 林が言った。「きみの言うとおり、下山文明と交渉をする上で、花田洋子と息子の名前を使ったよ。だけどね、私は脅したわけじゃァない。何度も言うようだが、今回の件は、あくまで下山さんの〝ご厚意〟によるものなんだから……そう、彼が言い出したことなんだ。そこを履き違えてもらったら困るよ」
 清水が「学院長、あんた……」と呟きを漏らした。
「きみたちにも聞かせたかったね。あの〝天下〟の下山文明が、昔の女房の名前を出した途端、おろおろと狼狽えたんだからね」そう言って、林は唇の隙間から、ククっと笑い声を漏らす。「相手の弱いところを突く……いいかね、これがビジネスで成功するコツなんだよ」
 本人は金言でも述べているつもりなのだろうが、〝安定した〟自転車操業の個人事業主である私には、なにひとつ響いてこなかった。それよりも、ログハウスのミニ・バーで外聞もなく酔態を晒した著名なプロデューサーの姿が思い浮かんだ。それは、真砂子も同じようで、彼女は脳裏に映るビジョンを振り払うかのように、首を横に振った。
 清水は気の毒そうに林を見下ろし、和泉は椅子を引いて、林から二歩分だけ遠ざかった。
 林は続けた。「しかし、まァ、花田洋子って女も、ひどい女だね。元アイドルで、古くからある網元の家の娘だとかで、地元じゃァお高くとまっているらしいんだが……地元だろうが、東京だろうが、股のゆるい遊び好きの女だって評判じゃないか。〝盛りのついた〟イヌやネコでもあるまいし……こんなことなら、花田からの寄付金だって、もう少し――」
 不意に林が言葉を途切らせた。

   三十三

 林を黙らせたのは、平手打ちだった。
 誰よりも素早く動いた右の掌が、林の頬を力一杯に打ち抜いていた。
「恥を知りなさい!」真砂子が林を叱りつけた。元古典の教師だからというわけではないだろうが、随分と古めかしい言い回しだった。
 清水と和泉は〝番犬〟としての契約は結んでいないようで、突然〝噛みついた〟真砂子を取り抑えるような真似はしなかった。むしろ、和泉などは真砂子の突然の行動に、首をすくめて小さくなっていた。
 そうなると自然、真砂子を引き下がらせるのは、私の役目ということになる。私は彼女の肩に手をかけた。思ったよりも真砂子は素直に後ろへ下がった。念のため、真砂子と林との間に入って立つ。
「ご自分が、なにをしているのか、わかっているんですか?」私の肩越しに真砂子が問い詰めた。
「きみこそ、自分がなにをしたのか、わかっているのかね」左の頬を押さえた林が答える。
「わかっているつもり……いいえ、わかっています」
「だったら、どうするつもりだ?」
「退職届を提出します」
「退職届? 馬鹿なことを言うもんじゃない」左頬を押さえたまま、林は真砂子を睨みつけた。「クビだ、クビ……即刻、解雇に決まってるだろ」
「わかりました。後日、私物を引き取りに、伺わせていただきます」
 それだけを告げると、真砂子は踵を返して管理人室を立ち去っていった。後に残されたのは、私も含めたいい歳をした男たちと、間の抜けた沈黙だった。
 〝まぬけ〟な静寂を破ったのは、この部屋で一番年嵩の清水だった。林を間に挟んで、和泉に声をかける。「今日は、もう帰っていいよ」
「いいんですか?」和泉が答える。そういえば、和泉の声を今日、初めて聞いた。
 清水が頷いて応えると、和泉は立ち上がって奥へと引っ込んでいった。
「遅くまで、ありがとな」和泉の背中に声をかけて、清水も後に続く。
 そしてまた、〝まぬけ〟な静寂が戻ってきた。私にはこの静寂を破る気はまったくなかった。林に一礼をして、真砂子が出ていったドアに向かって歩き出す。
 声をかけられたのは、ドアノブに手をかけたときだった。
「きみは……見た目以上に、腕利きなんだな」
 振り向いて、軽く頭を下げた。余計な前置きがついていようと、褒め言葉はありがたく頂戴しておく。
「どうだね、私の元で働いてみないか? 今よりも、もっと稼げるようにしてやる」
 胸を反らして立つ林の頬から脂ぎった鼻にかけて、真っ赤な手形がきれいに浮かび上がっている。
 こみ上げてくる笑いに耐えながら、「結構です」と答えて、別の提案をされないうちにと、私は管理人室から出ていくことにした。傷心の理事長の相手は、清水に任せることにする。
 ロビーに出てみると、真砂子の姿は見当たらなかった。早々に帰宅してしまったのだろうか。
 その代わりというわけではないだろうが、入口の覗き窓から隠れるように、四つん這いになって忍び込もうとしている少年がいた。半袖の白いワイシャツにグレーのスラックス――〈聖林学院〉の制服を着ている。
 博之と相部屋の少年――池畑は、覗き窓を通り抜けると、そっと立ち上がった。靴音を響かせないよう気を配りながら、摺り足で歩き出す。三歩進んで、池畑はようやくロビーに大人が立っていることに気づき、息を呑んで目を丸くした。
「どうした。授業は始まってるはずだぞ」管理人室に悟られぬよう、そっと声をかけた。
 声の主が私だとわかると、池畑はニヤリと例の笑みを漏らした。「五限の世界史で使う史料集を、忘れちゃってさ……」
「それで、わざわざ戻ってきたのか?」近づいてくる池畑に訊いた。
「オカバヤシのヤツ、そういう忘れ物にうるさいんだよ」オカバヤシというのは、世界史の教師のことだろう。小さく毒づいてから、池畑が当然の質問をしてきた。「ねえ……なんで、ここにいるの?」
「ちょっとした報告をしに……な」
「報告……それって、博之が見つかったってこと?」清水より若く、和泉よりも充分な睡眠をとった脳細胞は察しがよく、的確な質問を続けた。
「まァそうだな……もう少しってとこだ」
 池畑は「ふーん」と唸った後、灰色の脳細胞が導き出した私の回答に対して「なんだか頼りないなァ……」と、率直な感想を漏らした。
「……とにかくだ。もう少しで、博之を見つけられる。これだけは確かだ」
「そうなんだ。早くみつけてくれよな……じゃァ、俺、急ぐから」池畑が、私の肩をポンと叩いた。
 ――生意気なガキだ。
「ちょっと待て」池畑を呼び止めた。「お前、またあそこから出てくつもりか?」入口を指差す。
 面倒くさそうに振り向いた池畑が、首を縦に振る。「だって……今日、学院長が来てるんだろ? 裏口から出てってたりしてさ、バレたらやばいじゃん」
 久しぶりに、正しい〝やばい〟を聞いた気がする。
 管理人室のドアを見やりながら、池畑に言った。「しばらくは大丈夫だ」
「マジで?」
「ああ。もし、お前と出くわすようなことがあったとしたら、俺がなんとかしてやる」続いて、柄にもない説教が、思わず口をついて出た。「……あとな、コソコソと上っ面だけ取り繕って、結果だけ出そうなんて、せこい真似はするな」
「うん。わかった……」
「とにかく、早く行ってこい」私はしょげかえる池畑の腰を叩き、部屋に行くよう促した。
「じゃァ、頼んだぜ」池畑は例の笑みを作った後、生意気な口調で答えた。
 足音を立てないようにしながら、急ごうとするせいで、パッサージュで進む馬のように、ぎこちない〝急ぎ足〟で階段を上っていく池畑の後ろ姿を見届けてから、私はロビーの奥へ向かった。
 鉄製のドアを開けて外に出ると、駐車場に人影があった。無造作に髪を後ろで束ねた女は、梅雨の〝中休み〟の終わりを告げるように、雲のかかり始めた空を見上げていた。
 なにかを思い詰めていたのか、女――真砂子は私が声をかけると、先刻のように慌てて振り向いた。
「どうしました?」
「あ、あの、車のカギをどうしようかと……」右手に握っていたセンチュリーのエンジンキーを示す。
「返してくれば、いいんじゃないですか? まだ、管理人室にいると思いますよ」忘れ物を取りに戻ってきた少年と、彼と約束をした私にとっては、その方がなにかと〝都合〟がいい。
「ですが……」真砂子が口ごもった。
「その辺のことは、あまり気にしなくて、いいんじゃないですかね」
「そういうわけには、いきません」真砂子は私の提案を、ピシャリと断った。
 啖呵を切って管理人室を後にした手前、今さら戻って顔を合わせたくない――という彼女の立場も、わからないではなかった。
 うつむき加減の真砂子が訊いてきた。「……あのォ、他人事だと思ってませんか?」
「いや、そんな風には……」歯切れの悪い科白を口にしてしまったのも、視界の端に鉄製のドアが開いたのが見えたからだ。
 真砂子は気づいていない。一度、姿を見せた池畑が、慌ててドアの向こうに引っ込んだ。私は池畑との約束を守らねばならず、話題を変えることにした。
「ところで……森さん」
「なんです?」固い表情で真砂子が答える。
「さっきの管理人室でのことなんですが……」
「それが、どうしました?」
「あなた……暴力に訴えましたね」
 真砂子が、顔をくしゃくしゃにしてうつむく。
 ――作戦成功
「いやァ、なかなかいいビンタでした」私は続けた。「もっとも、あなたに叩かれるようなことを言った方に、問題があるんですがね」
「――申し訳ありません。お恥ずかしいところを、見せてしまいました……」耳を真っ赤にさせて、絞り出すように彼女は言った。
「あなたがそう思うのなら、これから起こることを、見逃してやってください」
「見逃す? なにをです?」
「まァ、お願いしますよ」
 両手を合わせて拝む私を見て――我ながら芝居がかった仕種だ――少しだけ口を尖らせるようにして、真砂子が頷いた。「わかりました……見逃します」
「ありがとう」私は小さく開けたドアから顔を覗かせる池畑に向かって、親指を立てた右手を高く掲げた。
 私の合図を確認した池畑が、ドアを勢いよく開けて飛び出してくる。真砂子とすれ違い際に「森さん、ごめんね」と言って、一気に駐車場を駆け抜けた。私へのお礼はなかった。
 真砂子が気づいたときには、池畑は門を通り抜け、学校に向かって路地を走り出していた。
「池畑……君?」真砂子が少年の後ろ姿に呟いた。
「忘れ物をしたみたいでね。世界史の授業で使う史料集……とか言ってましたよ」
「そういう……ことだったんですね」真砂子があきれ顔でため息をついた。
「ええ。そういうことです」私は微笑みを返して訊いた。「……さて、そのカギはどうするんです?」
 真砂子は右手のエンジンキーに視線を落として、束の間考え込んだ。そして、唇を結んで大きく頷くと、手にしたセンチュリーのエンジンキーを、駐車場の茂みに向かって投げ捨てた。
「随分と、暴力的なことをしますね……」
「いいえ。暴力でありません。暴力というのは、もっと理不尽なものなんでしょう?」真砂子が挑むような目で私を見つめてくる。
「そうですよ」真砂子が言ったのは、先日訪れた際に私が言った科白だった。
「これは……そう、ただの嫌がらせです」
「嫌がらせね……最初っから、そのつもりだったんじゃないですか?」
「さァ、どうでしょう?」真砂子は私から視線を逸らした。「……ところで、駅まで送っていただけませんか?」
 今度は苦笑を返して、私は「どうぞ」と言って、フォード・ファルコンの助手席のドアを開けてやった。
 しかし、真砂子は〈聖林学院〉の男子寮、誠真寮を眺めたまま、動こうとしなかった。
 駅まで送ってくれ、と言い出したのは、彼女なのだが――私はファルコンに寄りかかり、煙草をくわえた。愛煙家を〝田舎のヤンキー〟呼ばわりする少年は、学校へと続く道を走っている。ブックマッチを使って、火をつけた。
 真砂子が、再びこの建物を見る機会は訪れるだろう。しかし、今日とは違って映るに違いない。今日の景色を心に刻みつける真砂子の後ろ姿を見守りながら、煙草を喫った。
 私が煙草を喫い終えるのを見計らったかのように、真砂子がこちらを向いた。煙草を携帯用灰皿に押し込み、助手席のドアを開けてやる。
「さて、行きますか……」
「はい。お願いします」真砂子が頷いた。
「あァ、そうだ……」上着のポケットから三枚目の紙――これが最後の一枚だ――を取り出して、真砂子に手渡した。
「これは?」
「まァ、読んでみてください。昨日の夜、私のところに届いた〝本物〟の大江さんからのメールです」
 私は運転席へと回り、エンジンキーを捻った。ファルコンのエンジンは一発でかかり、センチュリーを駐車場に残して、重低音を響かせながら、〈聖林学院〉の男子寮を後にした。
 でかい図体のファルコンが、狭い路地を抜けるまでの間、真砂子は私から受け取った紙に目を落としていた。ファルコンはバス通りに入り、右手に〈武蔵野郵便局〉が見えた頃、真砂子はすべて読み終えていた。そして、〝彼女〟を無傷で返さねばならない私にも、ようやく会話を交わす余裕ができた。
「そこに書いてあることが、現状わかっていることです」
「では今、花田君は……」
「ええ。彼は、洋子さんと一緒にいます」
「そうでしたか……」
「後は、直接会って確かめるだけです」
 渡した紙を丁寧に三つ折りにする真砂子の手が止まった。
「この商売やってるとね、信じられるのは、自分の目だけになってしまうんです。それに……」
「それに?」
「彼には直接、一言言わずにはいられなくてね」
「なにを言うんです?」
 道路の左端をフラフラと走る原付を、ロードレーサーとかいうタイプの自転車が追い抜こうとしていた。この手の自転車に乗っているヤツは、ペダルを漕ぐことに夢中になって周囲が見えていないことが多い。原付を追い抜けるスピードで走っているのに、バックミラーさえつけていない。そのくせ、この自転車を引っかけてしまえば、法律上の責任は私にかかってくることになるのだ。原付と自転車を追い抜く間だけ、運転に集中することにした。
 二台の二輪車がバックミラーに映ったのを確認して、私は答えた。「実のところ、なにを言うかは、まだ決めてません」
「そうですか……いや、そうですよね。わたしも、花田君になんと言ってあげればいいのか、今は思いつきません」
 私の拙い回答について、真砂子は責めようとはしなかった。いや、大江からのメールを読めば、誰もが私と同じ回答になってしまうに違いない。
 真砂子が訊いてきた。「ところで、学院長はこのことを?」
「いいえ。彼には、まだ伝えていません」
「あの……あんなことが、あったからですか?」真砂子は殊更、恐縮していた。
「そうじゃない。あなたの言う〝あんなこと〟が、なかったとしても、伝えられなかった」
「どういうことです?」
「山中湖で約束したでしょう? 博之君のことは、最初にあなたに報告すると」
 真砂子から言葉は返ってこなかった。彼女は黙ったまま、三つ折りにした紙を見つめていた。
「どうしました?」
「……ごめんなさい。わたしは、あなたとの約束を破ってしまいました」
「わたしとの約束?」
「ええ。私も下山文明さんをお訪ねしたとき、花田君のケアをする……そう、あなたと約束をしましたよね」
「あァ、そうでしたね」
「わたしが、学校を辞めてしまったら、それもできなくなってしまいます」
「どうでしょう? まだ、約束を破ると決まったわけじゃない」前を走る軽トラックのブレーキランプが光ったのに合わせて、ギアをセカンドに落とした。「彼のケアをするのは、なにもあの学校だけとは、限らんでしょう?」彼女の視線を感じていたが、フロントガラスの向こうに視線をやったまま続けた。「〈ヴェルマ〉だってあるんだ。やり方はどうだって、博之君のケアはできる」
「〈ヴェルマ〉ですか……でも、それでは、花田君に校則を破らせることになります」
「心配しなくていい。あなたは〈聖林学院〉の職員ではないんだから。堂々と校則を破らせればいいんだ」
 赤信号に合わせてフォード・ファルコンを停めた。ようやく視線を助手席に運ぶ。
「そうですね」
「そう……あなたも〝性悪女〟のひとりになればいい」
「ちょっと待ってください」顎を上げて、挑発するように私を見つめてくる。おどけた口調で続けた。「〝性悪女〟じゃありませんよ」
「なんと呼べばいいんです?」
「ファムファタールとお呼びください」
「ファムファタールね……よく言うよ」
 思わず漏れた私の悪態に、真砂子はいたずらっぽい笑みを、顔いっぱいに作って返してきた。

   三十四

 真砂子は三鷹駅前でフォード・ファルコンを降りしな、「〈ヴェルマ〉に寄っていくつもりなんですけど、一緒に行きません?」と誘ってきた。
 彼女の誘いは、丁重にお断りした。真砂子の〝これから〟を助言するのは、〈ヴェルマ〉の女主人の方が適役だと思ったからだった。それに、例の〝カツスパ〟で胃もたれをするのは、もうごめんだ。
 少し寂しげな顔をして去っていく真砂子を見送って、三鷹駅前を後にした。
 帰路に井の頭通りを選んだのは、ほんの気まぐれだったのだが、見事に失敗をした。吉祥寺駅前でぶつかった渋滞を抜け出すのに、随分と時間を取られてしまった。
 ――なにかの〝ばち〟にでも当たったのか?
 井の頭通りから方南通りを抜けて西新宿に入る頃には、十二時を回っていた。
 前を行く型落ちのブルーバードを見て、この近くに事務所を構える男のことを思い出した。この稼業の先輩にあたる男で、多少偏屈なところがあるものの、間違いなく腕利きだった。久しぶりに、彼の事務所に顔でも出そうかとかと思い立ったが、やめておくことにした。彼のことだ。このファルコンで乗りつけようものなら、「お前はチンドン屋にでも、鞍替えする気か?」と、私を冷ややかな目で見るに違いない。
 靖国通りに入ってしまうと、車を停めて昼食を摂れるような店は限られていたので、ファルコンとともに因業ババアがオーナーの駐車場まで戻ってきた。昼食は事務所の近所にある立ち食い蕎麦屋で、かき揚げ蕎麦をたぐって済ませた。
 事務所に帰ってから、私はデスクで淹れたてのコーヒーを飲みながら、煙草を一本喫った。今日のところは『黒いチューリップ』の続きを読むほかは、やることはなさそうだった。昨晩、本棚で見つけた古い文庫本に手を伸ばす。
 ドアがノックされたのは、『黒いチューリップ』を十ページほど読み進めたときだった。
 私は、短くなった三本目の煙草を灰皿で揉み消しながら「どうぞ」と答えた。
 ドアを開けて入ってきたのは、同じフロアに事務所を構えている鈴木だった。鈴木は、デスクに座る私を認めると、「なんだ、今日はもう戻ってきてたんだ……」とばつが悪そうにした。
「ええ。今は連絡待ちの状態なんです」
「ここのところ、事務所空けてる日が多かったろう?」
「そうですね」
「結構、大変仕事なのかい?」鈴木が訊いてきた。濃い茶色のスラックスに淡い茶色のシャツ、そして濃紺のネクタイをしているせいか、引退間際の保安官にでも尋問されているような気がした。
「はい。なかなか、手強い仕事でしてね」私は〝老保安官〟に正直に告白をした。
「そうなんだ……」鈴木は難しい表情を崩そうとはしない。
「なにかあったんですか?」鈴木は、単に暇つぶし程度のことで、他人の事務所を訪れるような男ではない。
「あァ、あのね。あんたを訪ねて来た人がいるんだけど……今日は、いないよって答えちゃったんだよね」
「気にせんでください。私は今の仕事で、手一杯ですから」
「そうそう……名刺をもらってるんだよ」シャツの胸ポケットから名刺を取り出すと、デスクの前まで歩み寄って、私に差し出した。
「いつ頃……来たんです?」
「一時間ぐらい前かな……」
 ちょうど、かき揚げ蕎麦をたぐって戻ってきた私と、ちょうどすれ違った恰好になる。
「どこかに行くとか、言ってませんでした?」
「ええとね。この街にくるのも久しぶりだから、ちょっと古本屋でも巡ってみるか、とか言ってたから、まだこの辺にいるんじゃないかな。それにね、あんたがよく行くお店……なんて言ったっけ、ほら――」
「〈オリオンズ〉ですか?」名刺に視線を落としたまま――いや、名刺から視線を外せなかった。
「そう、その〈オリオンズ〉にも、顔を出してみようかな……なんて、言ってたよ。その人も、あんたみたいに、常連さんなのかね?」
「どうなんでしょうねェ……」鈴木には申し訳ないが、私の答えは空返事になってしまっていた。
 すべては、鈴木の差し出した名刺に、こう記されていたからだ――
 〈花勝水産 代表取締役社長 花田浩二〉
「なんか、もうちょっと気を利かせとけば、よかったかな?」恐縮した鈴木が、私の顔を覗き込んできた。
 表情が柔らかくなるよう努めて、上着のポケットに花田浩二の名刺をしまった。「いいえ。充分です。助かりました」
「そうかい? それならいいんだけど……じゃ、私は失礼するよ」
 事務所を去る鈴木に丁重にお礼を伝えてから、私はコーヒーを飲み干して、事務所を後にした。事務所のある雑居ビルから歩いて三分もかからないはずの〈オリオンズ〉までの道のりが、やけに遠く感じられた。
 色褪せたというより、古ぼけた〈オリオンズ〉のドアを開けると、昼休みの時間はとっくに過ぎているはずなのに、店の中は客で埋まっていた。それもすべては、〈オリオンズ〉が今どき珍しく分煙されていないため、〝田舎のヤンキー〟などと、日夜、不当な差別を受ける愛煙家たちの溜まり場になってしまっているからだった。
 店の中を見渡すと、マスターの村田――ニコチン中毒者たちにとって、〝博愛主義者〟とは、誰あろう彼のことだ――は、店を去るのを名残惜しそうにする黒木という男に、釣り銭を渡していた。
 常連客ばかりの店の中で、ひとり見覚えのない顔があった。水上という営業マンが、二杯目の生ビールを飲み始めている――彼は今日の仕事は諦めたのだろうか――テーブルの奥で、四十代後半といったところだろうか、黒いジャケットを着た男が、読書にいそしんでいた。近所の古本屋で買ったのだろう、カバーのかけられていない文庫本の表紙には、『熱帯樹』とある。テーブルの上には、飲みかけのコーヒーと使い捨てのライター、そしてハイライトの箱があり、その横の灰皿には喫い殻が二本あった。
 空いた席に案内しようとする村田を無視して、黒いジャケット姿の男が座るテーブルの前に立った。後ろに流した長めの髪が黒々としていた。そのせいで、歳は同じはずのかつての義弟、下山文明よりも若々しく見えた。
 私が声をかけると、男――花田浩二は、読んでいた本から目を離して、緊張した面持ちで私を見上げた。縁なしの眼鏡の奥にある切れ長の目が――花田洋子と博之によく似ている――「お前は誰だ」と問うている。
 私は名刺をテーブルの上に滑らせた。「先ほど、私の事務所にいらしたそうですね」
 読みかけの文庫本に栞を挟んで閉じると、浩二は私の名刺に目をやった。
「午前中は、不在にしていたもので……すいません」
 浩二が少しだけ表情を柔らかくして、立ち上がる。私とそう変わらない背丈だった。
「いや。こちらこそ。出張帰りに予定を確かめもせず、突然お訪ねしたわけですから。申し訳ありません」浩二は恐縮して一礼した後、辺りに目を配った。
 二杯目のビールを飲み続けている水上を除いた店内にいる人間の視線が、私たちに集まっている。〈オリオンズ〉で、ここまで馬鹿丁寧なやり取りをする客はいない。この店は、仕事の打ち合わせの場ではなく、むしろ打ち合わせで疲れたものたちにとっての〝憩いの場〟なのだ。
「どうでしょう? 私の事務所は、ご存じのようにすぐ近くです。そちらで、用件を聞くというのは?」私は提案した。「この店ほどじゃないですが、美味いコーヒーをご馳走しますよ」
 最後の一言が余計だったようだ。村田が聞こえるように咳払いをする。振り向くと、村田は私たちを睨みつけていた。
 束の間、思案をした花田浩二は「そうしましょう」と言って、私の提案に同意した。文庫本をジャケットにしまい、勘定書を手にする。
「荷物は、それだけですか?」浩二は出張帰りだ、と言っていたのだが。
「ええ。出張先から自宅に送っておきました。どうも、手荷物というのが嫌いでしてね」
 マスターの村田が、もう一度咳払いをした。「用がないなら、とっとと出て行け」と、口に出さない分だけのお行儀は備えているらしい。
 村田の言外の〝脅し〟に気づいた浩二は、「先に、外で待っていてもらえますか」と言って、カウンターへと向かった。
 私は〝怖い目〟をした村田に見送られて、〈オリオンズ〉を後にした。
 勘定を済ませた浩二が、〈オリオンズ〉から出てきた。その背中に村田が愛想良く「また、おいでよ」と声をかける。この短い間に、村田の機嫌を直せるのも、右肩上がりの業績を残す社長の為せる業なのか。
「行きましょう」私は店を出てきた浩二に声をかけ、事務所へと歩き出した。
 事務所にたどり着くまでの世間話でわかったことは、浩二の出張先が三重県の鳥羽市であったことと、私が村田の機嫌を損ねたのは、〝美味いコーヒーをご馳走する〟という科白ではなく、私がなにも注文をしなかったから、ということだった。しばらくの間は、食後のコーヒーをタダであずかろうなどと、期待しない方がいい。
 雑居ビルの古いエレベータに浩二を乗せることについては、さすがに躊躇をしたものの、五階まで階段を使わせるわけにもいかなかった。代々続く網元の跡取りは、ガタガタと音を立てて止まるエレベータに、驚きを隠せなかったようで、エレベータを降りるなり「修理は、されないんですか?」と訊ねてきた。
「動いている限りは、修理はしない……そうですよ」大家である因業ババアが、私に言った科白のまま答えた。
「そうなんですか……」ハンカチを取り出して、浩二が額の汗を拭いた。冷や汗なのか、脂汗なのか。どちらにせよ、いい思いはしなかったようだ。
 事務所のドアを開けて、浩二を応接セットに通す。来客用の灰皿を用意して、私は申し訳程度の流しに向かった。パーコレータに残ったコーヒーを温め直してから応接セットへと戻り、ハイライトに使い捨てライターで火をつける浩二と向き合う恰好で、腰を降ろした。
「あの店より美味い、とは言えませんが……」コーヒーカップを浩二の前に置いた。
「ありがとうございます」と言って、浩二が洗練された手つきでコーヒーを飲んだ。「お世辞抜きにして、美味しいコーヒーです」
 今度は私が浩二にお礼を告げて、黄金比率のブレンド――キリマンジャロが「2」、モカが「1」、ブルーマウンテンが「3」――で淹れたコーヒーを飲んだ。今日の出来は、〈オリオンズ〉より〝やや劣る〟程度。要するに、上出来だ。
 美味いコーヒーを飲んで、弾みがついた。まずは軽いジャブを放つことにする。
「ところで……〈オリオンズ〉のマスターのこと、ご存じなんですか?」
「ええ。学生の頃、大学が近くにあったものですから、よく通っていました」
「学生の頃……というと、三十年ほど前?」
「そうです。あの頃、村田さんは入店したばかりで、マスターは稲尾という方でした。先ほど、村田さんに、そのことを話したんですが、稲尾さんは三年ほど前に亡くなられたそうで……」
 村田が〈オリオンズ〉の二代目だということは、初耳だった。
「だけど、三十年ですか。もうそんなに経つんですねェ……」幸司は感慨深げに言って、ハイライトを吹かした。肺の奥まで喫い込まずに、煙を吐き出す。「四十になったのを期に禁煙したんですが、久しぶりにこの町に来たら、あの頃のことを思い出して、つい買ってしまったんです。だけど……ダメですね。やっぱり、ハイライトは、きついです」
「まァ、あまり無理をなさらずに」煙草をくわえて、ブックマッチで火をつける。私はつい最近、禁煙することを、自らに禁じていた。
「歳なんですね、私も」浩二は苦笑をこぼして、まだ長い煙草を灰皿に押し込んだ。
 ――世間話もここまでだ
 出張先の三重から千葉に戻る道すがら、わざわざ私の事務所を訪れたのだ。そろそろ、本題を切り出さねばなるまい。
「それにしても、三十年前といえば……あなたは、バンドをやってたんじゃないですか? 妹さん……花田洋子さんと」相手の懐まで深く踏み込み、重いストレートを撃つ。「その花田洋子さんは、桜樹よう子という芸名のアイドルだったそうですねェ」吐き出した紫煙の向こうで、浩二の顔が険しくなった。勇気を持って、追い打ちをかける。「今日は、妹の洋子さんのことで、いらっしゃったんでしょう?」
「ええ、そのとおりです」険しい顔のまま、ためらうことなく浩二は答えた。「あなたは先日、ウチの副社長、副社長といっても、私の家内なんですが……妹の件で、家内を訪ねてきたそうですね?」
 すかさず、質問を返してくる。しかし、それは想定の範囲内のことだった、
 私もためらうことなく答えた。「ええ。確かに、お伺いしました」
「博之のことを、捜していると……家内に訊いたそうですね?」
「はい。あなたの甥御さん、花田洋子さんの息子さん……博之君が、行方不明になっている、ということで、依頼を受けました」質問には正直に答える。というより、嘘をつくまでのこともない。
「本当のことを言ってください。博之をダシに、洋子のことを捜していたんじゃないですか?」浩二の口調は丁寧なものだったが、正面から私を見据える切れ長の目には、怒りの色が濃くにじんでいた。
「違います。むしろ、その逆です」浩二の詰問をかわして、〝ストレート〟に言った。「洋子さんのことをダシに、博之君を捜していたんです」
 渾身の反撃――といっても、軽口めいたものだが――を聞いた浩二がため息をこぼした。ハイライトをくわえて、使い捨てライターで火をつける。ニコチンの精神安定剤としての効果は、一度味をしめてしまうと、忘れられないものなのだ。
 あまり深く喫い込まずに、二回ほど煙草を吹かしてから、浩二が訊いてきた。「依頼人というのは、誰なんです?」
「申し訳ありませんが、その手の質問には、答えられません」
「守秘義務ですか……」煙草を口に運びかけた右手を止めて、浩二は腕を組んだ。
 古河に言わせれば、私の稼業に守秘義務というヤツはないそうなのだが――とにかく、私が〈聖林学院〉理事長兼学院長、林信篤の名前を出さなかったのは、守秘義務からでも、林をかばったからでもなく、午前中の男子寮での出来事を、この場であれこれと思い出したくないからだった。
「博之君……彼を見つけるのが、私の仕事です。それは、金だけの問題じゃァない」
「お金の問題じゃない?」腕を組んだまま浩二が言った。
「ええ。博之君を待っている人たちがいましてね……」〈ヴェルマ〉のファムファタールたち、男子寮で出会った悪ガキたちの顔が、脳裏をよぎった。「私は彼らに博之君を見つける、と約束してるんです。まァ、約束を破る男でありたくない……ただ、それだけのことです」
 浩二は組んでいた腕をほどいて煙草を一服すると、目を閉じた。
「実を言えば、博之君と洋子さんが、どこにいるのかを、私は知っています。今はふたりに会えるか、どうかについて、大江さんからの連絡を待っている状態です」
「大江? どうして、大江があなたに?」
「岡辺元信さん……洋子さんが芸能人だった頃の事務所の社長さんですよね?」短くなった煙草を灰皿で消した。「その岡辺さんに、大江さんと取り次いでもらえるよう頼んだんです」
 まだ三分の一も喫っていないハイライトを、灰皿で荒々しく揉み消して――もったいないことを――浩二は、下唇を噛んだ。煙草をくわえていたら、フィルターにきっちり歯形が残っていただろう。
「大江さんには……洋子さんのことについて、口止めをされていたようですね」
「身内のことを、ベラベラと他人に話さないよう頼むのは、当然のこと……では、ないですか?」
「確かに、仰るとおりです」縁なし眼鏡の奥にある切れ長の目――本当に、洋子と博之にそっくりだ――を正面から見据えた。「では……どうして、洋子さんのことを、奥さんに伝えていないんですか? そして、博之君にすら教えなかったのは、どうしてなんです?」
 ――さあ、フィニッシュ・ブローのタイミングだ
「あなたはどうして、そこまでして洋子さんのことを、隠そうとするんです?」私は質問をたたみかけた。
「なぜ、そんなことが、気になるんです? あなたの仕事は、博之を捜すことでしょう? 妹のことは……洋子のことは、関係ないはずだ」浩二がテーブルの上に置いたハイライトに伸ばしかけた右手を止めて、グッと握りしめた。その後で、心を静めるのに、ニコチンではなくカフェインを選択した。開いた右手をコーヒーカップへと運ぶ。
「博之君の失踪騒ぎになった原因だからです。あなたが、博之君に洋子さんのことを教えていれば、こんな騒ぎには、ならなかったはずです」騒ぎの元になった何人かの思い出したくない顔がちらついたので、私も精神安定剤の血中濃度を上げなければならなかった。新しい煙草に火をつける。「……もっとも、そのおかげで、私は仕事にありつけたんですがね」
「でしたら……なおのこと、あなたは知らなくてもいいんじゃないですか? なにも知らなくても、お金は手に入るんでしょう?」
「いやァ……性分なんですかねェ。理由もわからないまま、仕事をするのが、気に入らないんですよ」
 ――さて、依頼料は、誰に払ってもらうつもりなんだ? 探偵
 ふと浮かんだ疑問は、煙にして吐き出した。「それとも、なにか他人に言えない理由でも?」
 正面の浩二が、眉間にしわを寄せた。私にとっての精神安定剤は、彼にとっては副流煙以上の毒物なのか。いや、違う。ただ単に、私の口が悪いだけだ。
 浩二が大きく息をついた。「しょうがありません。お話しします」眉間に寄ったしわが消えている。「誤解されるのも、嫌ですから」
 私はコーヒーを一口飲んで、浩二が話すのを待った。

   三十五

「花田の家は、あの町で一番古い家柄なんです」
「なんでも……あの辺りの網元だったそうですねェ」
「そうです。記録に残っている限りでは、寛保三年からですが……そのときの当主が、三代目だということですから、実際はもうちょっと昔になるんでしょうね」
 寛保三年――私は、なけなしの知識を絞り出して訊いた。「それは……江戸時代ですか?」
「ええ。江戸時代の中期です。寛保三年は、西暦に直せば、一七四三年になります」
「だとすると、二百五十年以上続いてるわけですか……」
「まァ、網元なんて制度は、戦後になって漁協ができたりして、廃れてしまってます。そこで、私の曽祖父が〈花勝水産〉を創業したんです」
「なるほどね……それで、今となってはあの町で一番の金持ちだ、というわけですね」
「町一番の金持ち……誰が、そんなことを?」私の軽口に、浩二は少し語気を強めた。
 束の間、考えて「あなたの従姉だという方です」と答えた。同じようなことを証言した、雑貨屋の親子の名前は伏せておく。親戚の発言ならば、後々まで尾を引くことはないだろう。
「加根子さんか……あの人にも――」〈カネコ〉の加根子は、浩二にとっても思い出したくない顔らしく、彼は後に続く言葉を飲み込んだ。おそらくこう言いたかったに違いない。
 ――あの人も、困ったものだ……
 なんにせよ、あの雑貨屋が、店をたたまなければならないような事態は避けられたようだ。
「町一番の金持ちであろうと、なかろうと……戦後も、〝花田の家〟は、あの町の歴史ともにありました」浩二が言った。「曾祖父や祖父は、赤字覚悟で地元の漁協からは、敢えて高い値段でいろいろと買い取っていたそうです。今も赤字覚悟……と、まではいかなくても、地元を優遇しています。そうやって、あの町を支えること……それが〝花田の家〟の役割なんです」
 大層なことをサラリと言ってのけているのだが、不思議と鼻持ちならないという風には感じられなかった。これが浩二の言う〝歴史〟というヤツなのだろうか。もっとも、身内である加根子にしてみれば、この辺りが〝お高くとまって〟感じられるのかもしれなかった。
「ただ……その分だけ、あの町の人たちが、私たち〝花田の家〟を見る目には、厳しいものがあります」
 私は煙草を一服してから訊いた。「でしたら、洋子さんが芸能界に入った……なんてことは、大騒ぎになったでしょう? 大変だったんじゃないですか?」
「大騒ぎ、ですか……いや、洋子はあまり売れなかったものですから、そこまでの騒ぎには、なりませんでした。むしろ、下山と別れた後、博之を連れて戻ってきてからの方が、大変でした」そう言って、浩二は小さく笑った。「私が言うのもなんですが……洋子は、あの華やかな世界に入れるぐらいの女でしょう? 目立つんですかね……なにかと、噂の的にもなりました。だから、洋子も周囲の目に晒されていることが、耐えられなかったんだと思います」
 煙草を喫いながら話を聞く私の前で、コーヒーで喉を湿らせた浩二が表情を固くした。
「なにが、あったんですか?」
「そこをつけ込まれたんでしょうね。加根子なんかと遊び歩くように、なったりして……そのせいで、あんなくだらない男たちと――」浩二が、グッと奥歯を噛み締めた。
 浩二の顔と声音に浮かんだ憎悪は、彼自身が口にした〝花田の家〟の歴史が言わせているのだ、と思うことにする。そして、その歴史の重みが、加根子に対する――とうとう、浩二も彼女を呼び捨てるようになっていた――罵詈雑言を、浩二の喉元に留まらせているのだろう。
 浩二は深く息を吸い込んでから言った。「ウチの家内とも、しょっちゅう揉めごとも、起こしていました。家内は、〝花田の家〟について、よく理解してくれています。だからこそなんでしょうが、洋子に注意を促していたんですが、洋子は余計に反発をしたりして――」
 落ち着きを取り戻したとはいえ、憎悪の色が消えない浩二の言葉を継いだ。「――〝花田の家〟の名を汚すようなことを続けた……ということですか?」
「そうなりますね」と浩二。私が〝花田の家〟という言い回しをしたのが、気に入らなかったようで、彼の口調にトゲがあった。
 私は気にせずに言った。「ですが……その華やかな世界に入るよう、洋子さんの背中を押したのは、あなたでしょう?」
 浩二が私を正面から見た。その〝怖い目〟が、早く続きを話せと強く訴えている。
「岡辺さんから、聞いています。洋子さんがデビューするまでの経緯についてね」
 浩二が顔を赤くして、右手で首筋をさする。憎しみからではない。その証拠に、彼はばつの悪そうな口調で「困ったな……」と呟いた。
 私は煙を吐きながら、「そういう稼業なんです」と答えた。
「そんなことも、知ってるんだ」浩二は苦笑を漏らした。「あなたに隠しごとは、できないようですね」
 小さな笑みを作り、私は頷いて応えた。
「仰るとおりです。洋子にデビューするよう説得したのは、私です」浩二はしきりに首筋をさすっていた右手を下ろした。「正直に話をすれば、私は若い頃、あの町を出たくてしょうがなかった。先ほどの話とは矛盾するかもしれませんが、父に言われた〝花田家の歴史〟というヤツに反発もしていたんです。洋子以上にね。だから大学も、就職先も東京を選びました。趣味でバンドを続けたり、絵を描いたりして、東京での生活を満喫していたんですが……就職して、一年ぐらいしてからですかね、父が倒れてしまって」
 浩二がコーヒーを飲み干したので、私はお代わりを注ごうと立ち上がった。パーコレータには、まだ二杯分は残っているはずだ。
 浩二は「もう、結構です」と私を制して、告白を続けた。「まァ、そのときは大事には至らなかったんですが、倒れた父の見舞いに来たりしているうちに、いろいろと考えましてね。家のことをなにひとつせずに、東京で暮らしている私は、小言ひとつ口にしない父や母に甘えているんじゃないか……とね。それで、あの町に戻ることに決めました。どうこう言っても〝花田の家〟を、私の代で途絶えさせるわけにはいかないですから」
 ――また〝花田の家〟だ
 胸の裡で沸き立ち始めた感情を抑えるため、煙草を喫って浩二の言葉を待った。
「ちょうど、その頃です。私たちが、岡辺さんからスカウトを受けたのは」
「バンドの名前は、ブラック・ブッシュ……でしたか?」
「いいえ。ミラーズです」浩二が、即座に否定した。眉をひそめている。
 アイリッシュ・ウイスキーと同じバンド名、とだけ覚えていたことが、失敗だった。彼の青春を汚すつもりはなかったのだが――とにかく、他人の話はちゃんと聞いておけ、ということだ。
「まァ、そのミラーズですか、スカウトされるぐらいですから、相当に人気があったんでしょうねェ……」この場をなんとか取り繕う。
「どうなんでしょう? 私たちは、それこそ趣味でやってましたからね……だからこそ、洋子をメンバーに加えたわけですから」
「洋子さんは、最初からメンバーではなかったんですか? その……ミラーズの」
「洋子が高一の夏休みのときです。新宿でやるライブの直前に、ヴォーカルをやっていた女の子が、突然辞めてしまったんです。それで、洋子を代役として呼ぶことにしました。兄の私が言うのもなんですが、洋子は歌が上手かったものですから」
「その日から、洋子さんがメンバーになった……と?」
「私も洋子も、そのとき限りの代役のつもりでした。洋子は人見知りする気の小さい子でしたし、洋子自身もあまり舞台に立つような真似はしたくないと言っていました。ですが、ステージに立った洋子は、まったく違って見えたんです。あの大人しい洋子が……私もびっくりしました」
 ――気の小さい人間ほど、〝舞台映え〟するんだ。そういう人間ほど、舞台の上じゃ開き直って、別の人格になれるんだ
 岡辺の観察力は、間違っていなかった。だからこそ、彼は芸能事務所の社長を務めていられるのだろうが。「それに、前のヴォーカルの子のときよりも、ライブが盛り上がったんです……それで、洋子を正式なメンバーに迎えることにしました。最初は嫌々のようでしたけど、ライブを重ねるにつれて、洋子の輝きは増していきました。兄であり、メンバーでもある私から見ても、眩しかったんです。そんな洋子を見ていたら、洋子はあの古ぼけた町に縛られちゃいけないって、思い始めました。岡辺さんからスカウトされたのも、ちょうどその頃だったんです」
「それが、岡辺さんの事務所に入るよう説得した理由なんですね……」
「はい。ですが……その後の洋子のことは、あなたもご存じでしょう?」
 〈カネコ〉や〈ポットヘッド〉で耳にしたことを、この場であれこれとひけらかすつもりは毛頭ない。私は根元まで喫った煙草を灰皿で消しながら、なにも言わずに頷いた。
「売れる、売れないは、どうでもよかった。私は輝いている洋子を見ていたかったんです。ただ、それだけなんです。それなのに……すべてが上手くいかなかった。結婚も、あの町に戻ってきてからも――」再び浩二が奥歯を噛み締めた。今度はエナメル質の削れる音が聞こえるような気がした。
 彼は沸き上がる憎悪に耐えているのではない。胸を焦がす別の感情に苛まれているのだ。
「あなたが、説得をしていなかったら、洋子さんは違う暮らしをしていた……そう思われているんですね?」
 私の問いかけに頷いて、浩二は続けた。「……私の洋子が、あんな生活をするようになったのも、すべては私のせいなんじゃないか? 今はそう考えています。だから、静かな暮らしを手にした洋子を守ってやりたいんです。それに、洋子の人生を狂わせてしまった男として、ふたりきりになる時間が欲しかったんです。もう遅いかもしれませんが、罪滅ぼし……そういったところです」
 ――罪滅ぼし
 桜樹よう子が所属していた芸能事務所の社長から聞いたときと、違う響きがあった。同じ言葉なのに――
「洋子さんのことを、ひた隠しにしたのは、それが理由ですか?」
「そうです。おそらく、ウチの家内がこのことを知ったら、洋子のところに押しかけて、一悶着起こすでしょうから」浩二がようやく表情を柔らかくした。身内の恥をごまかすのに、誰もが作る曖昧な笑みが張りついている。
「では……なぜ、博之君には伝えなかったんです?」
 浩二の顔から、張りついた笑みが消えていた。
 私は言った。「彼は洋子さんの息子なんだ。一悶着起こすはずがない」
「当然、博之にだって、後々伝えるつもりでした。ただその前に、私と洋子のふたりだけの時間が、私には必要だったんです」
「なぜです、それは?」
「洋子に確認しなければならないことが、あったんです」浩二の声が上ずっている。
 興奮気味の浩二に、私は訊いた。「あなたたち兄妹にとって、重要なことなんですか?」
「ええ、私たちにとって、重要なことです」ひとつ間をおいて、浩二が言った。「私は博之を養子にしたい、と考えています」
「養子……ですか?」
「私たち夫婦には、子供がいません。家内も、もういい歳ですし、これから先、子供は望めないでしょう……だから、博之を正式に私の息子にしようと考えています。これからのことを考えたら、博之を養子に迎えることこそ、洋子への罪滅ぼしになります」
 ――それが〝罪滅ぼし〟になるのか?
 口に出かかった言葉は、コーヒーで飲み込んだ。確証もないことを、口にするものではない。
 カフェインの力を借りてから、私は別のことを訊いた。「……奥さんは、そのことをご存じなんですか?」
「家内には、まだ伝えていません。でも、反対はしないと思います。花田の血は、確実に残るわけですから」
 〈花勝水産〉の応接室に飾られた博之の写真。それを愛おしそうに眺める恵子――浩二の言う〝花田の血〟はさておき、彼女は反対をしないはずだ。
「洋子さんは?」
 浩二はゆっくりと小さく首を横に振るだけだった。
 私はもう一度訊いた。「洋子さんは、なんと答えたんです?」
「〝なにを今さら〟って、鼻で笑われました」浩二が自嘲の笑みをこぼした。
 私は浩二を応接セットに残してデスクに向かい、デスクの端に腰を乗せた。これを終了の合図だと思ったのか、浩二もソファから立ち上がる。「いろいろと、お騒がせをしてしまったようで……ご迷惑をおかけしました」
 懺悔室から出てきた信徒のように、浩二の顔は晴れやだった。もっとも、私は神父ではない。ただの探偵だ。浩二は〝なにか〟を勘違いしている。
 浩二が訊いてきた。「それで……あなたは、洋子のところへ?」
「ええ。それが私の仕事です。博之君を待っている人たちに、確実な情報を伝えなければならない……ただ、それだけです」
「そうですか……わかりました。岡辺さんも、大江も、あなたのことを信用しているんですよね。でしたら、私もあなたを信用します」
「ありがとうございます」条件付きとはいえ、信用されたのなら、お礼を述べなければならない。
「それでは、私はこれで失礼します」浩二が応接セットのテーブルを指差した。「煙草……もしよかったら、喫ってください」
 デスクの端に腰を乗せたまま頭を下げると、浩二は踵を返した。
 浩二を見送る気にはなれなかった。ただ、訊いておきたいことはあった。「ひとつ……訊いても、よろしいですか?」
「なんです?」ドアノブに手をかけた浩二が振り返る。
「血液型を教えてください」
 浩二が眉をひそめた。突然の質問に、戸惑いを隠せないでいる。
「こう見えて、私は血液型占いに凝ってましてね。会う人、会う人に訊いてるんです」
 ――よくもまァ、しれっと嘘が並べられるもんだ
 我ながら感心して、嘘がバレてしまわないうちに続ける。「それで、訊いた血液型をデータベースにしています。結構ね、仕事に役立つんですよ」
「面白いことをされてるんですね」浩二が言った。
 口調から血液型占いを会社の経営に役立るつもりがないことは、明らかだった。まあ、所詮は嘘なのだから、しょうがない。
「わかりました。お教えします」浩二は、わがままなお願いをする子供をあやすように言った。
「ご協力に感謝します」
「私の血液型は、AB型です」微笑みをたたえたまま、浩二は続けた。「博之と、同じなんですよ」

 浩二が事務所を出ていった後も、私はデスクの端に腰をかけていた。しばらくの間、頭の中を整理してみたが、まとまらずにいたので、応接セットに残されたコーヒーカップを片付けることにした。浩二が残していった煙草は、上着のポケットに入れておく。
 それから、自分のマグカップにコーヒーのお代わりを注いで、デスクに戻った。『黒いチューリップ』の続きを読む気にはならなかった。なにやら落ち着かずにいたので、椅子から離れて窓辺に立ち、窓を開け放った。窓の向こうに広がる空は、午前中よりも雲がかかり、今日の夜には再び雨が降り出しそうな気配だった。
 ――洋子にはね、ずっと想いを寄せる人がいたそうだ
 すっきりとしない空を眺める雑然とした頭の中で、昨日の岡辺の言葉が響いていた。
 ――下山君との結婚だって、ひとつのきっかけにしようとしたに過ぎないってね
 ――洋子が想いを寄せる相手は、彼女との距離を縮めようとはしなかった。
 ――最後の最後まで、助けようともしなければ、蔑んで離れようともしなかったそうだ……
 バンド――ミラーズといったか――のメンバーになるとき、〈オカベ・プロダクション〉に所属するとき、下山文明と出会うことになる番組に出演するとき、睡眠薬に依存してしまった彼女が〈ポットヘッド〉から救い出されるとき、花田洋子の傍らには、常にひとりの男の存在があり、彼は〝兄として〟洋子を支え続けてきた。
 ――洋子は、なにかにつけてある歌を口ずさんでいたんだ
 花田洋子が口ずさんでいた歌『リリーマルレーン』――あの歌は〝故郷に残した恋人〟に想いを募らせる兵士の歌だ。
 ――私の血液型は、AB型です。博之と、同じなんですよ
 無性に煙草が喫いたくなった。ワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出して、一本くわえた。ブックマッチで火をつけた後、上着のポケットにハイライトをしまっていたことを思い出した。
 取り出したハイライトの箱には、まだ十本以上は残っていた。
 煙草を半分ほど喫い終える頃、先刻から胸に湧いているのは〝疑念〟ではなく、ただの〝下衆の勘ぐり〟であることに気づき、私はくわえ煙草のまま、浩二が残していった煙草の箱を右手で握りつぶした。
 握りつぶしたハイライトの箱は、〝下衆の勘ぐり〟とともにゴミ箱へ投げ捨てた。

   三十六

  ご連絡が遅くなりました。申し訳ありません。
  花田洋子さん、博之君との面会の件ですが、
  明日の午後ならば、時間が作れるかと思います。
  ただ、当日の状況によっては、こちらの都合を
  優先させていただきますので、この点ご理解ください。
  なお、添付したファイルは、当院までの地図です。
  お越しになる際に、ご活用ください。

  宗方五郎記念病院
  ホスピス・グループ・リーダー
  大江信也

雨がやんだら(9)

雨がやんだら(9)

海を臨めるはずが、窓の向こうは五月雨に煙ってしまっていた。 ベッドに横たわる女の傍らに、その少年は腰かけていた。 私の今回の依頼は、彼を捜すことだった――

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-11

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