爪痕と香りのもたらす残酷な朝

爪痕と香りのもたらす残酷な朝

 "それ"に気づくまでに、時間はかからなかった。新しいものを見つける度に、佐奈の胸の奥はきりきりと痛む。その痛みに気づかない振りをして、どれくらい経っただろうか。
「悠人、もう帰るの?」
「あぁ」
「そっか」
 朝ご飯一緒に食べたかったんだけどなぁ、と佐奈は小さく呟く。壁に掛かっている時計を見ると明け方の五時で、こんな時間に帰るくらいなら、それが七時になっても大して変わらないだろうにと思った。
「シャワー借りてくぞ」
「うん、いいよ」
 ワイシャツを肩にかけ、部屋を出て行く時にちらりと見えた"それ"。自分がつけたものではない爪痕は、彼の白い肌にやけにくっきりと赤く、綺麗に映えていた。

               * * *

 元々彼は束縛される事を酷く嫌っていた。それは"コイビト"になっても同じで、所詮自分も彼の周りに集まる女のうちの一人だと理解してからは、きりきりと痛む胸もごまかす事ができるようになったのだ。
「一番、なれたらな……」
 先に告白したのは彼の方だ。自分は遠くから眺めているだけで満足だったのに――それなのに、その意地悪な笑顔と時々見せる優しさで雁字搦めにされたから、"コイビト"という言葉にしがみつくようになった。"お前だけだ"なんて、耳に柔らかな言葉で惑わされ、縛られもした。
 その惨めさに、虚しさに、何度一人の夜を涙と過ごしただろう。自分の不器用さが嫌になる。割り切る事ができたらどんなにいいだろうと、何度もそう思った。
「おい」
「あ、シャワー、浴びたんだ」
「ん。いつも悪いな」
 濡れた髪から水滴が落ちる。なぜだかそれが妙な色香を孕んでいるように感じて、まともに目を合わせる事ができなくなった佐奈はふらりと視線を逸らした。
「なに、泣いてんだ」
「え?」
 慌てて頬に手をもってゆくが、そこに水の感触はなかった。彼を見上げれば、柔らかい笑みを泛かべている。
「泣きそうな顔をしてる」
「う、ううん。なんでもない」
「そうか」
 そうやって優しくするから、泣きたくなるのだ。堪えられなくなるのだ。噛んだ唇から、じわりと鉄の味が滲みる。
「なにを、そんなに不安に思う必要がある」
「別に……」
「念のために言っておくが、俺が心を許してるのはお前だけだ」
 ほらそうやって、残酷に穏やかな言葉だけを残して、行ってしまうんでしょう。ここで私はあなたに、"嘘吐き"なんて言える訳もない――佐奈は俯いたままありがとう、と零す。
「なら、そろそろ帰る」
 今日はなんの香りをさせて帰ってくるの? この前はラベンダー、その前はチェリー、もっと前は――。
「行ってらっしゃい」
「佐奈」
 低く甘い声が彼女の名を呼ぶ。それまで俯いていた佐奈は顔をあげ、彼と視線を交わらせた。
「好きだ」
 それとも"愛している"の方がいいか? 
 なんて、言葉だけを上手に操る彼がくつくつと笑って部屋を出て行ったその後、堪えきれずに流した涙は床に落ちた。

爪痕と香りのもたらす残酷な朝