合鍵のコンテクスト
砂漠の夢をみていた。風が起こるたび、地表から舞い上がった砂がトシオを包む。気づくと暮れの頃になっていて、トシオの体は動かない。いつものことだ。口内に無遠慮に侵入している砂の味を感じながら、温度を失いつつある砂の上にただ横たわっている。そしてまた灼熱の陽が照りつけるころ、喉の渇きとともにトシオは夢のなかで目を覚ます。
そうすると雨が降ってくる。これもお決まりのパターンだった。きつい陽射しはさしたまま、周りはうるさいほどの雨音で満ちる。無限にも感じられるほどに水は降ってくるのに、それは一滴もトシオの口に入ることはない。ひたすらに渇きに耐えながら、砂を巻き上げる雨滴を感じている。
空から落ちる雨粒が、弾丸のように砂丘の面をえぐっていくのを、ただただ見ていた。
砂漠の夢をみるときは、たいてい起き抜けの目尻に涙が浮かんでいた。はじめてこの夢をみた三歳のときから、今になってもそれは変わらない。
雨粒が傘をたたき、アスファルトをたたき、植え込みの葉をたたく。何度も繰り返しみる夢は、現実の雨によっても想起されるのだった。雨の日はきまって頭痛がする。
雨は耳鳴りも連れてくる。サラサラと水の流れるような音と、バタバタと雨滴が地面に落ちて跳ねるような音が混ざった不協和音が、屋内に入っても続くのだ。快調とはいいがたかったが、彼はそれを特別嫌っているわけでもなかった。
足を止めたところは、実家から歩いて五分も離れていない邸宅だ。濃い緑の格子でできた門を勝手に開け、庭の敷石を踏む。降りやまない雨で濡れた敷石は微妙な色合いに光っていた。門から玄関まで歩きながら、種々の鉢植えを横目に見た。壁にはツルバラがつたっている。家主の性格を反映したように丁寧に剪定されたツルバラは、どれもそろって八分咲きだった。
閉じた傘の水滴をかるく切って、インターホンを押す。押すだけ押したが、応答を待つ気はなかった。合鍵を鍵穴に差し込む。
開錠するのとほとんど同時に、玄関ドアが向こうから開いた。白いワンピースを着たニイナの姿があった。栗色の髪の長さは最後に見た時から変わっていない。相変わらず神経質に切り揃えているのだろう。
二回瞬きをして、トシオに言う。
「どうしたの、履きつぶされた靴みたいに疲れた顔して」
手入れのされた花の植木鉢やツルバラのつたう外観とは裏腹に、家の一階は殺風景だった。居間には揃いの椅子と机、窓際にはドライフラワーが飾ってあるが、色合いでいえば外のものとはやはり比べものにならない。
「一階の風呂場は使わないで」
前を歩いていた振り返りながらニイナが言った。
「今あたらしい子たちの髪の毛を染めてるから。二階のシャワーを使って。あと、私の部屋の作業机にも触らないで。引き出しもね。開けてもいいけど中のものは動かさないで。作りかけの眼球とか、指、並べてるから」
「あぁ、うん」
自分の心配ごとに気を取られて生返事だったが、幼馴染は相変わらずなようだったのでトシオは少し安堵した。
二階の部屋は階下の簡素さとはうってかわって、ものが多くひしめいていた。たたみ一畳分は優に超えるであろう大きさの作業机の上には、作りかけの人形の腕が置いてある。壁の一面をまるまる利用してつくられた書棚には隙間なく本が詰まっている。遮光カーテンを備えた窓のそばにある棚には臙脂の厚布がかかっていた。その中にはきっと何体もの人形が鎮座しているはずだ。
これだけ物が多くても、整然と並べられた諸々が進路の邪魔をすることなく整頓されているのは、やはり本人の性格に依るところなのだろうか。
「人形作りは金になるのか」
「まあ、おかげさまで」
嫌味ではなく、純粋な興味をもってトシオは訊いた。
「たぶん、あなたほどではないにしても、そこそこ。ほとんど受注生産だから……ドールは靴みたいにコンスタントに注文が来るわけじゃないし」
ニイナの作業部屋を抜けると、左右にドアがある廊下にでた。
「突き当りの部屋を使って。トイレとシャワーはあっち」
それぞれを指さしながらニイナは言った。
「出入りのときは君の部屋を通らなきゃいけないのか」
「仕方ないわね、そういう造りだから。母が亡くなったときに改築したの」
「邪魔じゃないか?」
「仕事の時間はだいたい決まってるんでしょ。べつに気にしないわ」
「……彼女たちのことなんだけど」
トシオが切り出すと、ああ、と思いだしたようにニイナは頷いた。
「トイレの向かいの部屋をつかうといいわ。空いてるから」
「ありがとう」
最大の懸念事項が解決されて、トシオは肩の力を抜いて溜息を吐いた。目下彼の頭を悩ませていた彼女たちの問題が、ニイナの家の合鍵を入手することで対処できたのは、不運続きの彼の一週間のなかで唯一の幸運ともいえる。
「私もひとのこと言えないけど」
ニイナは歯を見せて笑った。
「相変わらずだね」
「まあね」
つられて、トシオの頬も緩んだ。
『彼女たち』が到着したのは、ニイナの家の合鍵を使い始めて二日目のことだ。大量の段ボール箱を積んだトラックを確認して、トシオはようやく一息ついた。
「よく来たね、よかった。もう二度と会えないかと思った」
トシオは熱っぽい声で段ボール箱のなかみに囁いた。
『彼女たち』というのは、大量の靴だ。それも女物に限る。ラベンダーにレモン色、煉瓦のように鈍い朱色から闇夜のような黒、ザクロに似た紅寄りの赤から夕闇に映える濃紺。色とりどりのそれらは材質もさまざまで、本革、合皮に合成繊維、エナメルからスエードまで。
「大げさね」
ニイナが呆れたように目を細めた。
「恋愛において最も大事なものはストーリー性だからな」
面倒臭そうに呟いた。
「ロミオとジュリエットをみてみろよ。……でも、僕は彼女たちを愛しているからね」
どこか諦めたような声音で続ける。
「ほんと困ったよ。一階だからってあそこまで派手に水漏れさせられることがあるとは思わなかったし」
災難だったわね、とニイナは他人事のように言う。実際、他人のことだからしょうがないのかもしれない。
トシオの住んでいたアパートは築二十年の安普請だったが、窓から見える景色と、職場の工房に近いことがトシオは気にいっていた。けれどこのあいだ、二階の住人が風呂場から水を溢れさせてひどい水漏れをおこした。
皮は湿気を嫌う。靴――彼女たちという方がトシオにとっては適切だ――を保管していた場所にも被害は及び、彼は大家が壁紙の張り替えや諸々の修繕の手配をするまで仮住まいを探していた。
「すみませんねえ」
トシオの部屋を担当した不動産屋の彼は、人の好さそうな恰幅のいい中年男性だ。頭頂部はそろそろ薄くなりはじめ、地肌が透けて覗いている。申し訳ない、との意をあらわすようにも、これは参ったな、というようにも眉尻を下げ、気弱そうに顎をさすっていた。
「それにしても、こんなにたくさん靴を保管されてたんですね」
「……そういう仕事ですから」
ああそういえば、と思いだしたように彼はうなずいた。
どれもこれも女持ちの靴ばかりで、不審に思っただろうか。もともとトシオは人嫌いではなかったが、『彼女たち』に向ける愛情と比べれば、その何分の一ほども人間に対する親密になりたいという欲望は持ち合わせていなかった。ただ、人と妙な確執をつくっても、平穏な暮らしの障害になるので、できるだけ他人とはつかず離れずいたいと思っていた。
「これから大家さんに連絡をして、天井も壁紙も張り替えとなると、やはりしばらくかかると思うので……申し訳ないのですが少しのあいだだけ、別のところで生活していただくことになります。こちらでお部屋をお探しになりますか? もちろんそのあいだの家賃はいただきませんし、ホテル等をご利用でしたら、こちらでその費用は負担しますので」
不動産屋はすでに用意していたクリアファイルから、この近辺の空き物件やウィークリーマンションの広告を出した。
トシオはそれを見ながら、
「……実家か、友人の家にいられると思うので、そっちに頼ってみます」
ニイナのことを思い出していた。
不動産屋の彼は安堵したような笑顔で、さようですか、と答えた。
「年頃で独り身の子の家に男をやるのは、あまり気が進まないんだけどねえ」
叔母はそれを親指と人差し指でつまみあげ、よく確かめるように顔の高さまで上げた。
つまみ上げられた先で揺れる鍵は、電灯の光を反射して鈍く光った。トシオの生家は件の水漏れアパートから車で三十分ほどのところにある。一人暮らしをしているのは、その物件が単純に職場の工房に近いからということからだったが、『彼女たち』を実家の狭い自室には収めきることができなくなったから、という理由もあった。
ニイナは叔母の友人の子だ。
「こいつは大丈夫でしょう。靴にしか興味がないんだから」
兄がそう言って笑った。
「どうしてこんな子に育っちゃったのかしら」
「母親の愛情が足りなかったのかな」
唇をすこしだけ歪めて自嘲するように言うと、叔母はまあ、と口元に手を当てた。
「そんなこと言わないで」
言いたくもなる、と口に出しそうになったのをトシオはこらえた。トシオと兄の母親は、トシオが三歳のときにどこかの男とどこかに消えた。書き置きのひとつも置いてはいかなかった。トシオが砂漠の夢を見始めたのもちょうどこの頃からだった。
母親がいなくなってからは、父親の妹であるところのこの叔母がなにかと世話を焼いてくれた。仕事で遅くにしか帰らない父親の代わりに洗濯や炊事をやってくれたのもこの叔母だし、授業参観にも来ていたことをトシオは幼少の頃の記憶としてよく覚えている。パーマのあたった髪と、甘い香りのする化粧、ふくよかなからだつきと笑ったときにできる目元の小じわは、トシオにとって三歳までの記憶の女性よりもはるかに母親らしいものだった。
叔母には子どもがいない。そういう病気なのだと聞いていた。もしかしたら叔母は、子どもをつくれない代わりにトシオたちを自分の子のように可愛がってくれていたのかもしれない。
トシオには明確な初恋の記憶がある。
はじめて好きになったのはその叔母の靴だった。小学校五年生の晩秋だ。学校から帰ってきたトシオが、玄関で靴を脱ごうとすると、そこにある叔母の靴が目に留まった。その存在を認めた瞬間、小学五年生の彼の背筋に生まれて初めて味わうような電流が走った。雷に打たれたような衝撃、あるいは心に嵐が訪れる心境とはこういうことをいうのだろうか。口が急速に乾いて、次に彼の心を侵食したのは小学五年生にして初めて感じるような照れと恥じらいだった。『彼女』の目の前から身を隠したいという、密やかに芽生えた懸想の相手に対する羞恥心。春の雪崩のような感情の奔流に彼は滑落した。一目惚れの衝動に動転したトシオは、そのとき脱いだ自分の靴を抱えて二階の部屋に駆け込んだことをよく覚えている。
質素な、けれど上質な材質でできた黒いパンプスだった。柔らかな牛革のそれには丁寧でしっかりとした縫製がなされていて、トシオには彼女が貞淑ながらも可憐な表情をしながら佇んでいるように見えた。
要するに、つまり、トシオは彼女に恋をした。トシオにとって初恋の相手はその牛革のパンプスだった。
そのときからトシオの趣味は変わっていない。
「僕も女に生まれればよかったのに」
誰に言うでもなくトシオは呟いた。二階のトイレの向かいの部屋、ニイナに使わせてもらうそこは、強い陽射しも入らず、ひどい湿気もたまらない良い環境だった。靴棚とシューツリーをひたすら並べて、そこに『彼女たち』を整列させる。
「そうしたら、いつだって好きなときにこの靴が履ける」
「女に生まれてたら男物の革靴が好きになってたかもよ」
茶化すようにニイナが言った。ドアのそばで腕を組んで、トシオが『彼女たち』に触れる様子を見ている。
「はは、あり得る」
『彼女たち』の点検もしながら、トシオは手を動かす。レモン色のオープントゥ――彼女にはヘレナと名前をつけていた――の甲の部分に掠れたような傷が見えた。運搬の際にどこかに引っかけてしまったのだろうか。大した怪我ではないが、手当が必要だ。トシオは靴を人間の女性のように扱う。むしろ、実物の女性より尊重していたといってもいい。
「いちばん最初に恋をしたのは叔母の靴なんだ。小学五年生のとき」
「小学五年生? 生まれたときから靴フェチなわけじゃなかったの?」
ニイナが目を見開いて言った。本気で驚いているようだった。
「赤ん坊のころから変態だったわけじゃない。君だってそうだろ」
トシオはすこしだけムッとして言い返した。
「私は変態じゃないわ」
「よく言うよ」
トシオからすればニイナのドールに対する偏愛もさしてトシオのそれと差はないように思われたが、口論でニイナに勝てる気はしなかったので、荒立てるようなことはいつもしなかった。
「……まあ、黒いパンプスを履いてたんだよね。叔母は。牛革の。それをどうにかして触りたかったし、その匂いを嗅いで、噛んで歯の痕を残したり、うっすら付いた泥のあとをなめとってみたかった」
「どうにかして手に入れたの?」
寝かしつけのおとぎ話のつづきをねだるような顔つきでニイナは言う。
「いや、触るところまではできたんだけど。ちょうどサンダルで買い物に出かけてた叔母が帰ってきて。そのときまさに口をつけようとしてたところだったから、怒られた」
「だから自分で女物の靴をつくるようになったの? 履きもしない、売りもしない靴」
「そうかもね」
トシオが職場にしている工房でつくる靴は基本的にオーダーメイドだ。既製品として売り出す靴もあるが、長くそこの店主をしているオーナーの腕を買って特注の靴を、と来る客の方が多かった。
足にも個性がある。ひとりひとり顔のパーツや手指の長さが違うように。甲の高低や幅の差異、土踏まずの深さから指の反りまで。骨格が違うのだから当たり前といえば当たり前だが、トシオにとって足の個性というものは顔や性格以上にその人間を表すものだった。
「靴が好きなんだ、って正直に告白したら、なんだか気の毒そうな顔をして、お古のもう履いてないっていうペールグリーンのミュールをくれた。……『彼女』よりも清楚さには欠けていたけど、可愛かった」
「叔母さんもきっと、どうしてこんな子に育っちゃったんだろう、って気持ちだったでしょうね」
「いえてる」
眉尻を下げてトシオは笑った。
アパートから運んだすべての靴が並んだ。
「こうしてみるとなかなか壮観ね」
だろう、とすこしだけ得意げな気持ちになる。
「いま僕を夢中にさせてるのは彼女なんだ」
トシオはそう言って靴棚の一番目立つ位置においたラベンダー色のハイヒールを手に取った。
「……ずっと暗いところに閉じ込めてごめんね。……そんなに怒らないでくれよ。僕だって悪いとは思ってるんだ」
相変わらずだ、とその様子を見てニイナは思った。まるで人間の女の機嫌をとるように、靴に話しかける。傍からみればひどく異常な趣味だろうが、幼いころから見慣れた幼馴染の姿にはむしろ安心感さえ覚えた。
自分のドールに対する愛情も第三者からみればこういう風に映るのだろうか。ニイナは傍から見た自分というのを想像したことがなかった。その必要もないと思っていたからだ。誰に何を言われようと、他人に迷惑をかけない範囲で自分が満足であればそれでいい。その点において、おそらく二人は似通っていた。だからこそ、この期限付きの同居も問題なしに成立したといえる。
トシオは基本的に同時にふたりを愛することはない。飽きるまで睦言を囁き、愛情をそそぎ、そろそろ潮時かと思うと、その靴は押入れで丁重に保管されることになる。その間に、トシオは新しい靴をつくる。そのときは訪れる春を待ちわびるような気持ちで、鳥が求愛の歌をうたうときのような浮かれた気分になる。
トシオは靴を愛していて、人間はそれほどでもなかったのだけれども、ときたま靴のイメージにぴったりと合う生身の女性を見つけることもあった。靴屋にきた客や、職場までの通り道にあるコンビニの店員、休憩に入ったカフェのホール担当、などなど。トシオは「女性にやさしい」という評判を周囲から得ていたし、他人に親切そうにするのは彼にとってそう難しいことではなかった。
しかし、付き合うとなると長続きしないのだ。その理由はトシオも自覚していた。
「僕がつくったこの靴を履いてくれ」
と言うと、大抵の女は喜ぶ。私のために靴をつくってくれたのね、と。しかしトシオが靴を履いた女の足元に跪き、靴を履いたその足に愛おしげに話しかける姿をみると、大抵の相手は気味悪がって逃げていくのだった。なによ、私じゃなくて靴がいいのね、というような捨て台詞を吐くこともあった。しかも、それはたしかに事実だったので、なおさらどうしようもなかった。
例外はニイナくらいだ。ニイナは幼い頃から近所の住人である年の近い幼馴染としてトシオのことを知っていたし、トシオのその性的指向もよく知るところであったから、自分の靴にトシオが愛情を表明するような場面を目撃しても何も言わなかった。
最大の理由は、彼女も彼女でドールを愛していたことにあるのだろう。男を好きにならない女と、女を好きにならない男。
日光が入らないようにしっかりカーテンを閉めた部屋で、ドールを棚から出して、ひとりひとりにニイナは話しかける。これは彼女式の毎朝の挨拶だった。それをみて、自分のことは棚に上げたようにトシオは言う。
「どうしてこんな子に育っちゃったんだろうな」
「あら、私は母親からたくさん愛情をもらったわよ」
トシオのことを見透かしたような顔で、ニイナはフンと鼻を膨らませた。
「だから、この子たちにも愛情をわけてあげるの」
「不毛だろ」
「まちがってもあなたみたいな靴男に言われたくはない台詞ね」
人形の栗色の髪を梳きながらニイナは皮肉っぽく笑った。
その日は雨が降っていた。トシオがいる部屋は北に面していて、雨が降ると家の外壁に反響した雨粒の音がひどく生々しく響いて聞こえた。
「頭痛がする」
「風邪薬ならそこの棚に」
作業台の上においたパーツを丁重に削りながらニイナが言った。集中しているようで、顔を上げることもない。トシオは作業がひと段落するまで、ニイナの部屋で彼女の背中を見つめていた。
「君はなんでそんなに人形が好きなんだ」
「そうねえ」
いつになくニイナはのんびりした口調で言った。
「強いていえば、ドールは私を裏切らないからね」
正直な回答だと思った。
「ひとつお願いがあるんだけど」
すこし躊躇いがちに、トシオは言葉をつづけた。
「『彼女』を履いてくれないか」
件のラベンダー色のハイヒールのことか、とニイナは見当をつけた。
「『彼女』はあの水漏れがおきる二日前に完成した靴でね」
トシオは頭痛に眉根を寄せながら続ける。
「工房からうちに持って帰ったんだけど、バタバタしていてぜんぜん二人の時間がとれなかった」
ニイナは黙ってトシオの話を聞いていた。それに、とトシオは続ける。
「靴はやっぱり人に履かれてこそなんだ。脱ぎ捨てられて、さびしそうにしているだけの靴には生気がない。僕に返事もしてくれない」
「……いいわ」
昔からこんなことは何度かあった。ニイナの家にトシオがいくと、玄関には靴箱に収納されたニイナと母親の靴がたくさんあった。トシオがその中にはどれだけの靴が入っているのだろう、とパイン材の靴箱に釘付けになっていると、ニイナはそれを察して靴箱を開け、なかの一足を手にとってみせた。そして二人はニイナの部屋でふたりだけの、ふたりだけが理解できる嗜好の時間を過ごした。
その代わり、ニイナは自分で人形に髪や、目や、服を与え、顔のパーツを絵筆で描き込むときのように、トシオを座らせて鬘をかぶせ、手製の服を着せ、化粧をして顔をつくる、そういう遊びをしていた。これもお互い様、の延長だ。
雨音は屋内まで響く。ツルバラは大丈夫だろうか。ニイナはふとそんな心配をした。
「災難だったね、びっくりしただろう……君は水に触れたことはなかったね。でも、もうあんなことはさせないと約束するよ。ここに来たばっかりで、混乱しているかもしれないけど、大丈夫だよ。もうすこししたら家に帰れるからね」
「……本当に相変わらず、なにも変わってないのね」
「君はしゃべらないでくれないか」
トシオは不機嫌そうにいった。この、ふだん穏和なこの男が不機嫌さを露わにするのは、ニイナが知る限り、トシオが話しかける靴を履いた女がしゃべる場面しかなかった。それから、もうひとつ挙げるとするならば、目にする道行く女の靴が汚れているとき。どちらにしても、トシオが興味があるのは靴(を履いた女の足)であって、その女本体ではない。幼馴染はそれをよくよく理解していた。
少年の頃に戻ったかのように、ニイナは部屋で靴を履き、トシオはそれに跪いていた。きちんと折り込まれた白いシーツの面が、ニイナの身じろぎで微妙な陰影の調子をつくる。足の先には『彼女』がいた。
「僕は、これまでたくさんの女性を愛してきた……そういう意味では、僕は誠実じゃなかったかもしれない。でも、今日からはきっと君だけだからね……」
ニイナが見下ろすトシオの目は、どろりとした熱情を孕んでいた。
「でも、言っておくけど、君がほかの男に色目を使ったりしたら、そのときは……わかっているだろうね。僕はこう見えて、嫉妬深いんだ」
雨音のみが響く静謐な部屋に、とつぜん静かな殺気が満ちる。
「わかってる、わかってるよ。君がそんなふしだらな女性じゃあないってことは……でも僕は不安なんだ。君はとてもうつくしいから……ごめんね。君を信じきれない弱い僕を許してくれ。僕とずっと一緒にいてくれるって、永遠に、そうだって約束してくれるかい」
熱情を孕んだ目は、純粋な狂気と愛情が入り混じって、きらきらと輝いていた。トシオはぴちゃ、と舌先で薄紫のつま先に触れた。なめしたての革の匂い、新品の靴の匂い。呼気が熱を帯びて、ニイナの足首を撫でる。両手で包み込むようにアウトソールに触れ、ヒールをなぞる。その手つきには慈しみがこもっていた。吐く息が熱い。トシオは完全に自分の世界に入り込んでいた。そこには彼と『彼女』しかいない。耳鳴りがする。
「君はずっと僕のものだ。永遠にぼくのものだ。こんなにも君を好きなんだ」
高熱にとろけたようなまなざしでトシオは睦言を囁き続ける。この時間を邪魔されることが、彼にとっては人生で一番いやなことだったし、この時間が彼にとってはまっとうな愛情表現の時間だった。砂漠の夢が彼のなかで想起する。喉が渇くのに、雨滴はひとつも口に入らない、あの満たされない感覚。幻想のきつい陽射しで背中が焦げるように熱くなって、自分が見ることのできない太陽の存在に背筋を震わせた。
はぁっ、とひときわ高く呼吸の音が部屋に響く。
局部には触れずに吐精していた。
「仕事でしばらくロンドンにいたことがあってさ」
「へえ?」
どういう街なの。ニイナは尋ねた。
恋人同士の情事のあとのような、しかし実態はそれとはちがう、妙な気怠さを帯びた午後にも雨は降り続く。
「まず、ご飯は基本的に味がついてない。食卓に調味料が置かれてて、自分で塩なんかを振って調整するんだ。でもやっぱり、下味のついてない具材っていうのは、ちょっとね……。それから、僕のいた時期はずっと雨が降ってた」
トシオは懐かしむように目を細めた。
「やわらかくて、細かい雨が絶え間なく降るんだ。雨粒が当たったのかもわからないくらい、やわらかい雨。霧みたいになってる日もあったし、そんなときに窓を開けっ放しにするとひどかったよ。部屋じゅう水浸しになったみたいにびちゃびちゃになるんだ」
「……あなたにはタイムリーな記憶だね」
確かにそうだ。苦笑いがこぼれた。
「ねえ」
トシオは伏し目がちにニイナを見遣った。
「僕が先に死んだら、彼女たちもいっしょに棺にいれてくれる?」
「……覚えておくわ」
ニイナにはこの幼馴染が不安をかかえたちいさな子どものように見えた。迷子のまま、自分の行き着くべきところを知らずにいる。それに対して憐みや愛しさを感じたわけではなかった。なぜならばそれは自分も同じだったからだ。生きながら、自分がどこに行き着くべきかわからず途方に暮れた、迷子の子どものような感覚。いうなれば親近感のような、むかし靴棚から出した靴を履いて、部屋で撫でさせたときから続く奇妙な友情のようなものが、二人のあいだには安らかに横たわっていた。
「ねえ」
おもむろにニイナは声をかけた。
「私たち結婚する?」
ベッドに腰掛け、足をぶらぶらと揺らしながらニイナが笑んだ。
「それもいいかもしれない」
それで、どこか外国にでも行こうか。
「私、海外も好きだわ。ドールのメーカー本社もあるし。イギリスとか……」
夢のように都合と心地のいい空想にトシオは微笑んだ。
砂漠と違って英国の雨は砂も混じっていないし、優しく降る。
合鍵のコンテクスト