愚者の烙印
背中に視線が突き刺さる。
「ほら、あの人よ」
「あぁ、試合の前日にバカやって、右足骨折した」
「ホント、バカよね。禁止されてるバイクに乗ってさ」
廊下の隅の小声が、いつのまにか声高になっている。
同調する周囲の視線と嘲笑。
そんな日が・・・続いた。
辻有人が、その病室に通い始めて二ヶ月が過ぎた。若葉が萌える頃から、季節は移り夏が来る。
個室の名札は、「坂上柚」のまま、色あせていた。
有人が右足を骨折する一ヶ月前、一人の女の子が交際を申し込んできた。その頃、全国大会を目指すバレー部のエースとしてチームを引っ張っていた有人に、熱狂的な視線を送る女子生徒は多かった。
中でも容姿、性格共に目立つタイプの相田理沙は、バレー部男子のアイドル的存在で、狙っている男子も多かった。
そんな彼女からの誘いを断る理由は見つからず、有人は交際の申し出を受けた。
バレー部エースとしての有人との仲を自慢していた理沙にとって、有人の事故は大きなショックだったようだ。
一時、有人も別れ話を持ち出したことがある。
理沙の気持ちがどうだという理由ではなく、有人自身、その事故の傷の深さに耐えるのがやっとだったからだ。彼女の心配などする余裕はなかった。
骨折が完治しリハビリを始めた頃、有人は理沙に連れられて、その病室を訪れた。
坂上柚は、同じ高校の同級生で、しかも理沙とは小学校以来の友人だという。
有人には、学校での彼女の記憶はなかったが、柚の方は有人のことをよく知っている様子だった。
選手生命は絶たれても、せめて杖を使わない程度には治したかった有人は、時折柚の病室を訪ね、理沙と柚の会話を気晴らしにリハビリを続けた。
自然、柚の病室が理沙とのデートの場所になってしまった。
「あれ、まだ理沙のヤツ、来てないのか」
軽いノックと挨拶の後、ドアを開けると、いつもの笑顔が返ってくる。
「今日は、特別早いのね。辻くん」
柚は出窓に座り、外を眺めていた。有人が近づいて横に並ぶと、ガラス越しに病院の大きな正門が見える。陽光に映えて眩しすぎる。もうすぐ陽が落ちる。大通りのイチョウ並木は青い葉を茂らせ、時折ふく風になびいていた。
「毎日見てるね、ここから」
先程、自分の歩いてきた道を見つめて、有人は苦笑した。
「そう言えば、俺、この窓を下から見上げてみるってこと、したことなかったな」
俯き加減で歩く癖を思い浮かべると、頭痛がする。杖なしで歩けるとは言え、時折右足を引き摺ってしまう自分の歩みを自覚すると、やり切れない憤りにかられた。
馬鹿なことをした。後悔は役に立たない気がした。
柚は、窓辺に座ってなお、微かに見上げる程の丈高い少年を気遣うように、優しく見つめて微笑んだ。
「私、ここから見る景色って大好きなの。特に、夕陽が沈むこの時間が大好き」
何の躊躇いもなく、「大好き」と口にする柚の視線の向こうを、有人もまた見つめた。
「毎日、俺が歩いて来るのも見えるワケ」
「見えるわ。辻くんはすぐにわかるの。背筋をピンと伸ばして真っすぐ歩いているわ」
「真っすぐ・・・」
聞き咎めて、有人は右肩越しに彼女を見つめた。夕陽に映えて、紅色に染まった横顔が歪んで見えた。
「真っすぐってことはないよ。この足じゃ・・・」
自嘲して皮肉ると、弾かれた様に柚は振り返り、大きく目を見開いた。
「辻くん・・・」
「以前と同じように歩こうと思っても、右足は言うことをきかないんだ。普通に歩けないんだから、真っすぐ歩くなんて、とうてい無理だよ」
有人は言い捨てて、夕陽の向こうを凝視した。視界が紅に染まる。
バレー部のエースと騒がれていた自分が、一夜明けるとバレー部を廃部に追い込む愚か者と後ろ指を差される身となった。容赦のない視線から逃れようとしても、不自由な右足に気をとられ、動くこともままならず、いつしか心が不自由になっていた。
何も言えない。誰をも咎められない。自分自身が正しいと思えない。そして、すべてを否定するようになった。
そんな感情が、時折刃になって襲い掛かる。
今、こうして立っているのも、ほぼ左足の力だ。右足は添えているに過ぎない。
「私が代わってあげられたらいいのに」
小さな小さな消え入るような声が届く。
「私、小さな頃から運動なんて出来なくて、この上足が動かなくてもあまり変わらないから平気」
柚は、そう言って笑った。今にも向こう側が透けて見えそうな、そんな笑顔だった。
有人はしばらく無言で柚を見つめたが、おもむろに苦笑して首を横に振った。
「ごめん。坂上だって、ツライのに。入院して結構長いよな。病気の方はどうなの。櫂さんは、なんて言ってるの」
「お兄ちゃんは、もうすぐ退院だろうって言ってる。体調が安定してるから、医師と掛け合ってみるって言ってるの」
「じゃ、学校でも会えるようになるってことか」
一瞬、自分でもホッとするくらい明るく笑って柚を見ると、柚の無邪気な笑顔が返ってきた。
「辻くんが笑ってくれた」
「え」
「この病室で、初めて笑ってくれたのよ。気付かなかったかな」
問われて、有人は口ごもった。柚はまた笑って、窓の外に気付いた。
「あ、理沙が来るわ」
小さな鈴を転がしたような澄んだ声で、窓辺から降りた柚は、短く呻いてうずくまった。
「どうしたんだ、坂上」
胸を押さえて崩れた柚の身体を抱きとめるように支えて、有人は狼狽した。
「とにかく、誰か呼ばないと」
柚よりも青ざめた顔を上げて、ナースコールを見た有人を、柚は止めた。
「大丈夫――」
「坂上、大丈夫って・・・、大丈夫じゃないだろう。いったいどこが悪いんだよ。いや、そんなことは後だ、とにかく誰か呼ぼう――」
「いいの。大丈夫だから。いつものことなの。時々こうなるの。本当よ。すぐにおさまるから――」
柚の言う通り激しく上下していた肩も落ち着きを取り戻し、胸を掴んでいた指も次第に力を抜いていく。
「本当に、大丈夫なのか」
左腕で抱きとめるように覗き込みながら、有人はまだ半信半疑だ。間近にある柚の顔を凝視する。
この病室に通い始め、これまで、こんなことは一度もなかった。柚はいつも笑顔が絶えず、時折病人であることすら忘れてしまうほど明るい。有人のほうが、よほど病人に思えるほどだ。
まるで、現実に殴られたようだ。
「本当に・・・」
言葉を募って問い質す自分の声に、場違いな一声がかかった。
「あっ、辻くんが浮気してる」
戸口に現れた相田理沙は、頭の先から抜き出したような声で叫んだ。表情は明るいがどこか棘がある。
「なに、抱き合ってるの」
言われて、有人は気付いた。そう言われても仕方のない格好で、柚を支えているのだ。
「違うよ。これは――」
あれこれ言い訳を口の中で唱えながら、柚をベッドまで支えてやると、柚は小さく「ごめんなさい」と顔を背けた。
有人が経緯を説明すると、理沙は柚の傍で寛いだ様子で、
「柚ったら、あんな低い所からも下りられなくなったら、ヤバイわよ。大丈夫なの」
と、心配しているのか、追い討ちをかけているのか分らない。いつもの軽口だと思えば良いのかもしれないが、さすがに有人は顔を曇らせた。
「理沙。坂上は病人なんだから、もう少し気を遣ったほうが良いぞ。親友なんだろ」
彼女を家まで送る途中、有人はそう切り出した。
時折、有人の右足のことにまで触れる理沙に、いつかは言いたかった一言が口をついて出た。
理沙は、あからさまに不貞腐れた。
「ひどい。私はただ、柚に気をつけて欲しかっただけなのに」
「それは、わかるけど、言い方があるだろう」
眉を顰めて睨むと、理沙はニヤリと笑って有人を見上げた。組んでいる腕に力を入れた。
「柚のことが気になるの」
「そりゃ、毎日彼女の病室で待ち合わせているんだ。気にならないって言ったら嘘になるだろう」
「へぇ・・・それだけ」
「ついでに、どうして彼女の病室でわざわざデートの待ち合わせをするのか訊きたいよ」
「ふ――ん。いまさら・・・」
理沙は、意地悪く笑った。有人の腕が重くなる。背の高い有人にまるでぶら下がるようにして歩く理沙が言った。
「柚って、小さな頃からあの調子だから、友達っていなくって、お見舞いする人もゼロに近いの。だから、私が行ってあげようかなと思って。辻くんも、もうバレーができなくてヒマなんだもの。ボランティアだと思えば良いじゃない」
返す言葉は見つからなかった。理沙の声が頭の上を素通りしていったようだ。脳裏に先程間近に見た柚の瞳が浮かぶ。済んだ黒い瞳を真っすぐ向けていた。あの目はどこかで見たことのある目だった。
見舞いがゼロに近い・・・。確かにそうだ。病室に訪れるのは、自分と理沙。そして彼女の兄の櫂とその恋人の佐与子くらいなものだ。休日はご両親がいるのだろうが、学校では彼女の噂などとんと聞かない。
それでも柚には、陰に籠もるところはなかった。
「だめよ、辻くん。私のことだけ考えるの」
彼女の自宅が近づいた暗がりで立ち止まり、唇を重ねる。お決まりのように交わすキスの意味を、有人は疑問に思うようになっていた。せがまれるまま身体を傾け、細い腕を肩に感じながら、乾いた唇を重ね合わせるだけのことに、いったいどういう意味があるのだろうか。日ごとに重く感じられる彼女の熱い指先が、何を言いたがっているのか、・・・わからない。
「また、明日ね」
理沙は晴れやかに笑って、家の中に消えた。
そう――、また・・・明日。何故か、やり切れない。
相変わらず、学校は居心地が悪かった。
廊下を歩けば、自分の動きに合わせてヒソヒソ話と後ろ指が移動する。
教室にいても、そこかしこで噂話が流れる。
「まだ、引き摺ってるね」
「バレー部、廃部は免れたけど、実質活動休止状態だってさ」
どうでもいいことだと思いたかったが、音は否応無しに思考に突き刺さる。
毎日通る下駄箱の横の掲示板。校内新聞が張り出されている。一時は、そこにバレー部の記事があった。大きく載せられた写真には、いつも辻がいた。その記事を生徒が読んで、辻に声をかけてくることが多々あった。
だが今ではバレー部の記事はなく、文化部の催しや町の行事など、小さな記事が幾つか載る程度だ。
教室の自分の席で物憂げに窓の外を見ると、眩しい日差しが鬱陶しい。
「なに黄昏てるんだ、辻。病気か」
ぞんざいな物言いで近付いて来た中沼譲が、見下すように傍に立った。
「暗いぞ、お前。気が滅入るじゃないか。パァッと干しちまえ」
「部活はどうなってるんだ、中沼。お前が主将だろ」
「辻がいないんじゃ、練習しても無駄だよ。せめてお前のその足がマトモなら良かったんだがな」
「・・・悪いな・・・」
地声でバンバン言い返す中沼に、有人は罪悪感を感じた。
自分さえしっかりしていれば・・・。あの時、くだらない誘いに乗らなければ・・・。
そんな思いがいつも頭と心にひしめいている。だが、中沼に言ったところで、何も解決はしない。
辻と共にバレー一筋できた中沼だ。辻を補佐して部を支えてきたし、実力も五分五分。牽引力で言えば、辻より秀でているだろう。
そんな中沼が、ここ最近あまり素行が良くないことを職員室で耳にした。事実何をしているのかは証拠がなく、万事事なかれ主義の学校側はすべてを有耶無耶にしているが、かなりヤバイ遊びにも手を出しているらしい。
だが、こうして以前と変わらず声をかけてくるのも中沼一人くらいなので、有り難いと思わざるを得なかった。
辻が黙り込んだのを見て、中沼は謝った。
「俺が悪かったよ。気にしないでくれ、辻。その右足、元通りになるといいな」
立ち去り際小声で謝る中沼に、有人は何も答えられなかった。
放課後は、飛んでいくように病院へ向かった。日増しにそんな感情が強くなる。
怪我をする前は、何かに急かされるという感覚はなかった。どちらかと言えば、のんびりしていたほうだ。だが今は、ジッとしていると落ち着かない。かといって、動けば嫌でも右足の不自由さを感じて自己嫌悪に陥る。
逃げられない。
そんな気持ちも、何故か柚のいる病室では感じなかった。以前よりも確実に「自分」を把握していられるのだ。
今日はそれでも寄り道をした。花屋の店頭で迷った挙句、財布に適う分だけの小さな花束を造ってもらった。照れくさい。
いつものように病室を訪れると、柚はいなかった。傍を通った看護師に訊くと、検査に行ったという。もうすぐ終わるだろうと言われ、有人はそのまま病室で待った。
女の子の部屋とはいえ、病院だ。殺風景で色気はない。
彼女がいつも座っている窓辺に寄って、外を眺めた。病院へ訪れる人々の行き来が見える。目を細めて部屋を見返ると、床頭台に写真が一枚飾られている。彼女の兄、櫂が写した夕陽に映える学校の写真だ。
「あれ、柚がいない」
ひょっこりとノックもしないで現れた理沙が、少々不機嫌な顔をした。
「また、からかってやろうと思ったのに・・・」
まるで肩透かしを食った様子だ。一人ふくれている。
「坂上は検査だって、看護師さんが言ってたよ。それより理沙、この頃来るのが遅いな。何をやってたんだ」
待ち合わせの時間を決めた覚えはないが、同じ学校の同じクラスだ。授業が終わって真っすぐここへ来るなら、同行してもいいはずだ。だが理沙は、有人が途中花屋でさんざん迷う時間の上、一人でぼんやりと物思いにふける時間分ずれている。
問われた理沙は、有人の顔を笑って一蹴した。
「また難しい顔しちゃってさ。良いじゃない、どうでも――。それより何なの、その花束。柚に買って来たの。可愛いじゃない。匂わせてよ」
言いながら、有人の身体に触れるほど近づいた。
「この頃、辻くんって、柚に優しいわよね。私をポイして、あの子に求める?」
「――何、言ってるんだよ」
「花なんか買って、いそいそと駆けて来るくらいだもの。柚の為なら、その右足も百万馬力ね」
「やめろよ、理沙。花が潰れる――」
胸の前で持つ花束などお構いなく抱きついてくる理沙から、花束を庇うと、ふいに首に細い腕が巻きついて口を塞がれた。
いつものような、ただ唇を重ねるというような軽いものではない。
理沙はまるで有人の頭を抱き締めるように背を伸ばし、深くくちづけた。
右手で花束を庇い、左足一本で踏ん張る有人に、このくちづけを楽しむ余裕はなく、何故か避けようと試みたが、それも叶わなかった。
ほんの一瞬だ。
有人の視界の隅に、人影が映った。柚だと分かるまでに二秒あった。
背筋が凍った。
「理沙、離れろ」
花束を放り出し、右足までも踏ん張って理沙を引き離した有人は、そのまま右足から崩れ、壁にしたたか後頭部を打ち付けて尻餅をついた。
小さな悲鳴に重なるように、柚の後ろにいた青年が走り寄った。
「何やってんだ、お前。大丈夫か」
口調は間が抜けていたが、表情は険悪だった。
柚の兄、櫂は肩に下げていた大きなバッグを床において、有人の傍に膝をついた。
「足を、ひねったのか」
「いえ、大丈夫です。すみません、無様で・・・」
打ち付けた後頭部を撫でながら言うと、櫂は大きく息をついた。
「別に、格好はいいよ。何でもないなら、良かった。柚、心配しなくてもいいから、落ち着け。佐与子、悪い。柚をベッドに座らせてくれ」
有人に手を貸す櫂が、振り返って声をかけたが、柚は戸口に立ちつくしたままだ。その傍で、櫂の恋人の佐与子が支えている。
「本当に、大丈夫なの、辻くん・・・」
柚の方が、倒れてしまいそうだ。
「みっともない」
腰に手を当てて、うざったそうに理沙が言う。
有人は、苦笑で肩をすくめた。
「ちょっとバランス崩しただけだよ。坂上、今日は花を買って来たんだ。適当に束にしてもらって――」
と続けながら床を見下ろすと、花束は無惨に散っていた。所詮、安物だ。
「・・・ごめん」
有人は、詫びた。花束と同じに、何か大切なものを傷つけたような気がする。
血の気の引いた顔で花束を拾い上げた柚は、今にも泣き出しそうだ。
有人には、どうしていいかわからなかった。
「そりゃ、気にしすぎてるだけだと思うよ、俺は」
柚を看護師に任せ、ロビーまで下りて来た四人は、自動販売機の横に落ち着いた。
櫂はコーヒー片手に、有人から目を離さない。真っすぐな視線が屈託なく有人を見つめる。
「お前の右足はもう完治してるんだろ。そりゃ、単なる骨折って訳じゃなかったんだ、多少は大目に見るさ。だが、完治したって言われて、リハビリ受けて無罪放免になったんだ。激しい運動は無理でも、気にするほどじゃないと思うぜ」
柚とよく似た黒目がちな澄んだ目の青年は、よく通る澱みのない声で言い切る。
「お前、ただ庇ってるだけだよ。右足は駄目だと思ってるだけだ。以前と同じようにやってみろ・・・とまでは言わないが、過保護にはなるな。甘やかしてばかりいると本当に動かなくなるぞ」
はっきりとした口調だが、気遣いが端々に見える。
有人は、この優しくて潔い五歳年上の青年に好感を持っていた。気取らず、いつも変わらない笑顔で話しかけてくれる彼の存在に感謝した。
その隣で、真山佐与子は黙って櫂の横顔を見ている。櫂と彼女が付き合い始めたのが、五年前だという。ちょうど、有人や理沙、柚の今の年齢だ。
彼女もまた、櫂について柚の病室を訪ねることが多かった。二人の場合も柚の病室がデート場所と言っても良さそうだ。時折有人や理沙と同じ時間になり、櫂と理沙が掛け合い漫才になるのを、残りの三人が黙って呆れるという構図が出来上がる。
「でも、櫂。辻くんの足って、単純に折れたのとは違うんでしょ。バイクに押しつぶされる感じだったんだから、今、この状態まで戻っただけでも良かったんでしょ」
お茶のボトルを両手で握り締めて、佐与子は有人の足を気遣った。
「そうよ、櫂さん。辻くんは重症だったんだもの。いいじゃない、今のままで」
理沙はただ、面倒くさい様子だ。両足を投げ出して背もたれにもたれきっている。櫂のおごりで買ったジュースも飲み干して、空き缶を指先でもてあそんでいる。
櫂はしかし言い切った。
「いや、足の問題じゃないよ。気持ちの問題だ。足のことばかりに囚われて、あまりに陰に籠り過ぎてる。しんどいぞ」
「・・・すみません」
有人は小さく謝った。他に言い様がない。自分がいることが重荷になっているのだとしたらどうすればいい・・・。
櫂は俯いてしまった有人を見下ろし、暫く思案していたが、ポンと手を叩くと、
「よし、お前。カメラやれ」
と言って、大きなカバンを開けると、幾つかあるカメラの中から小ぶりのものを取り出した。
柚の入院費用の為、昼夜働く両親の分まで柚を気遣う櫂は、バイトと専門学校の傍ら写真を撮り続けている。題材はいつも「柚が喜ぶもの」だ。人物も風景もすべて、柚の為に撮り、それをネタに話をする。柚が一番喜ぶことだ。
恋人の佐与子は被写体になることはあっても、カメラマンになることはないという。
「突然、なんなんですか」
弾かれた様に顔を上げた有人の鼻先に、カメラが突きつけられた。
使い込まれたものだということは、一目で分かる。
「お前、もう少し自分以外のものに目を向けろ。一人で生きてるんじゃないんだからな。何でもいいから、ファインダー覗いて、被写体おさめろ。何も考えず、ただ写せばいい」
そう言うと、とっととカメラの説明をし始める。
「そんな・・・急に・・・」
狼狽える有人に、少し憂いのある苦笑を浮かべた佐与子と、憮然とした理沙が映る。
「櫂。そんなに強引に進めても、辻くんが困ってるわよ」
「やってみればいいんだよ。動けば何か、違ってくるさ」
「櫂さん、辻くんは私とのデートで忙しいんです。カメラなんてやってるヒマないわ」
不機嫌を露わにした口調で理沙が有人を櫂から引き離すと、櫂は一層笑顔で返した。
「じゃ、理沙ちゃんを写せばいい。辻、理沙ちゃんをモデルに撮ってみろよ。とにかく動くんだ。被写体のことだけ考えろ」
「そう言われても――」
「とにかく、自分以外のものを意識しろ。いいな」
と、櫂は念を押して有人にカメラを押し付けた。
両手で受け取った有人はただ、途方に暮れるだけだった。
「え―――。今日もカメラ持って歩き回るの。やだ――」
理沙は喚いた。
櫂が有人にカメラを渡して一週間。放課後になると、有人は憑かれたようにカメラを構え、撮り続けた。
一つは、右足のことも周囲の視線も忘れられたから。二つ目は、自分の写した写真を見る柚が、喜んでくれたから。
始めの数日は、有人が写した画像を、柚の病室で理沙が腐して櫂が褒めて、柚が笑顔で喜ぶという連携が続いた。
櫂はひたすら褒めた。有人が写した理沙のポーズがどのようなものでも、どんなにブレた画像でも、とにかく有人を褒めて次の被写体を楽しみにして見せた。
そして柚も、あまり言葉にすることは少ないが、有人の写す風景を心待ちにしているのがわかった。
有人にとっては何気ない風景が、柚の目には違って見えるようだ。以前は工事中だった道路は舗装されている。街路樹は趣きを変え、日差しはその強さを影の濃さで表す。夕陽の位置も、柚が学校で見た夕陽とは違っていた。あらゆるものの変化、それが柚を楽しませる。
「病室で寝てばかりいると、景色は白い天井だもの。毎日、同じでしょ。でもこうして色々なものを、辻くんが撮って見せてくれると、ここでこんなことしたとか、ここはすっかりキレイになってるとか、いろんなことを思い出せて嬉しい」
眩しそうに画像モニターを見つめる柚を、有人はもっと見ていたいと思った。こんなことで喜んでくれるのなら、いくらでもしてやりたかった。
初めのうちは、文句を言いながらも付き合っていた理沙は、被写体が彼女自身から風景に代わった頃から、不満をぶちまけるようになり、やがて柚の病室へも顔を出さなくなった。
「今日も理沙は来ないの?」
柚が気遣うと、思い出したように有人が周囲を確認し「そういえばいないね」と素っ気なく答える。
「多分、女子同士でどこかへ行くって言ってたから、来ないんじゃないかな。学校でも話すことが少ないけど、あいつは賑やかなグループの中心にいるようなやつだから、特に寂しそうでもないし、却って俺と一緒にいるよりは楽しいんじゃないかな」
それよりも、と言って、また病室を見回した。
「櫂さんは、今日いつ頃来るかな。俺、訊きたいことがあるんだけど」
気になる画像を幾つか見返しながら、有人は思案顔だ。ベッドの足元側の椅子に前かがみに座り、どこが悪いんだろうと独り言を言っている。
ベッドサイドに座って小首を傾げていた柚が、目を細めてその姿を見つめていた。
「思うようにぼかしたいと思っても、上手くいかないんだよな。櫂さんに訊けばわかるかな」
どうやら「ただ撮る」だけではおさまらなくなっているようだ。少し近視の入った目を細めて、カメラ自体と画像を凝視する。
「お兄ちゃんは、今日は遅くなるって言ってたわ。辻くんとはすれ違いになりそうだって言ってた。何が知りたいの。私でわかるかな」
「櫂さんは、ピントは自動だからシャッターが分かればいいって言ってたけど、なんだか物足りなくてさ。撮った風景や花も、もう少し違った画像にならないかなと思って色々いじってみるんだけど、なんだか上手くいかなくて」
どこをどう写したいか、一つひとつの画像を腕を伸ばして柚に見えるようにして語ると、柚も前屈みになって頷いた。
聞き終わると、柚は「あのね」と顔を上げて有人を見つめると、突然カメラの説明が始まった。
「ちょっと、待て。坂上。待てって」
最初は唖然と聞いていた有人は、ようやく正気に戻った顔で柚の言葉を遮った。
「坂上、お前、カメラ詳しいの?」
「そんなに詳しくはないわ。お兄ちゃんがカメラ好きだから、お兄ちゃんの話を聞いてるだけ。それで――」
尚もカメラの説明を続ける柚を、有人は再度遮った。
「待て、坂上。俺は覚えられないから・・・待てよ」
慌てて柚にカメラを押し付けると、病室の端に放り出していたカバンの中をガサゴソとかき回してペンとノートを引っ張り出した。
「悪い、坂上。最初からもう一度言ってくれないか」
有人はそう言うと、椅子に戻ろうとして何を考えたのか、ベッドサイドに端然と座っている柚の横に移ると、肩が触れるほどに近づき、柚の手の中のカメラをのぞきこんだ。
「レンズの話からだっけ」
見下ろした有人の視線の間近に、柚の前髪があった。一瞬有人の顔を見上げた柚は、すぐに小さく身を縮めて赤くなった頬で俯き、病室の端っこを指差した。
「辻くん・・・あの、さっき、ノートを取り出した時に何かが飛んで出てきたんだけど」
確かに何かが転がっている。
小さなクマだ。
「あぁ、カバンの奥に入ってたんだな」
柚から離れてクマを拾い、それを手に戻ってくると、有人は苦笑して大きな手の平に乗った小さなクマを柚に見せた。背中に鎖がついており、キーホルダーになっている。
「このクマ、理沙がいつもポケットからぶら下げているクマと一緒・・・」
柚が気付いて、手の中にあるカメラのデータを探して、見つけた。
有人が撮影した理沙の画像は、アップのものから全身のものまで数えられない程あるが、その中に、理沙のポケットから飛び出すようにして宙を舞うピンクのTシャツを着たクマが写っているものがあった。
「理沙とまったく同じものなんだ。あいつが欲しいって言ったゲームの景品でね。偶然二つ取れたから、一つは俺に持ってろって言われてカバンに入れっぱなしだった」
なるほど、有人の言う通りカバンに入れっぱなしだったようで、クマはいびつに捻れ、少しくたびれていた。茶色の布で出来たクマは、シャツを着ていた。ピンクのTシャツ。短い四肢を伸ばして座れる。画像のクマと瓜二つだ。
「辻くん、ここ、ほつれてるわ」
有人から受け取って見つめていた柚が、クマの背中に気付いた。Tシャツの裾から、糸が出ている。捲って見ると、背中の縫い合わせがほつれている。
「これ、直してもいいかな」
柚に見上げられ、気のない返事で了承した有人も、嬉しそうに裁縫道具を出してきて、ほころびを直し始めたのを見て暫く無言で見つめた。
肩の下まで伸びた髪を左耳の下でまとめ、奇麗な色のパジャマに薄いストールを膝にかけている。細い肩と手首を見ても、全身的に細身であることは容易に想像できる。
小さく細い指先で針を動かしながら、柚はカメラの説明を始めた。針の動きは緩やかで、中々ほころびは直りそうにないが、カメラの説明はスムーズだ。
有人が知っていることも知らないことも区別なく、丁寧に機能を伝える。櫂に手渡されてから一週間。よく分からずにいじっていた機能も、柚の説明で納得がいった。
「なるほどね、やっぱり知らなきゃいけないんだな。色々・・・」
必死に書き取った紙面を見ながら、もう一度確かめるようにカメラを手に取った。
「はい、できたわ。クマさん、少しは元気になったかな」
カバンの中で押しつぶされていたようなくたびれ感を直すように、柚はクマを両手でしっかりと撫でて揉んで、中の綿を膨らませるようにした。クマの表情が少し明るくなったようだ。
「辻くん、この子の写真を撮ってみて」
「それを? ただのクマだよ」
素っ気なく返したが、柚はまったく聞いていない。
「そうだ。この子と一緒に、記念撮影して欲しいな」
そう言って、枕元に置いてある白いウサギを有人に示した。そのウサギも頭の後ろにチェーンがついていて、ぶら下げられるようになっている。
「これと一緒に写してもらっていいかな。そうだ、辻くん。クマさんに似合うと思うから」
と、ウサギの背中についているファスナーを開けると、中から取り出したものを有人に見せた。
金色のコインにイニシャルが入っているペンダントだ。櫂が柚の誕生日に贈ったものだという。
「このウサギもお兄ちゃんが買ってくれたの、お守りにって。小さなものなら背中に入れられるの」
「へぇ、そうなんだ。で、彫られてるのはAだけど、誰なの? 櫂さんじゃないし、坂上はYだよね。・・・好きなヤツのイニシャル?」
何気ない問いは、自分の胸に楔を差した感覚を与えた。なんだ、これ・・・。
「これは・・・『エース』。元気になるおまじない」
誰のイニシャルでもないのだと言う柚の言葉が、少しはにかんでいた。小さな手でペンダントを握り、胸に当てる姿を見れば、彼女がどれだけそのペンダントを大切にしているか分かる。
柚はクマを手にとった。ネックレスのまま首に巻きつけるのを躊躇ったのか、ペンダントヘッドを外して裁縫道具の中から青色の可愛いリボンを取り出すと、器用に細工をしてクマの胸に下げた。小さなクマの胸で、大きな金メダルが輝いている。
小さなクマを机に座らせて、ウサギを隣に置く。
それじゃ、とカメラを構えた有人がシャッターを押す瞬間、柚はその手を止めた。少し眉をひそめてモデルを見つめる。
「なんだか、可愛くない」
「はぁ?」
「ウサギがへたって、可愛くない。・・・そうだ」
ウサギの背中のファスナーを開けると、自分の拳をウサギの背中に入れて深さを確かめた。隣にいる小さなクマが丸々入る大きさだ。そこへ手元のハンドタオルを丸めて押し込むと、ウサギはふっくら太った。
もう一度、小さなクマの横に寄り添うように、大きなウサギを置くと、柚は期待を込めて有人を見上げた。
奇麗に撮ることができるとは思わないが、柚がしてくれたカメラの説明を実践するかと有人も苦笑で、色んな角度から何枚も写した。
「金色のペンダントがキマッテルね。リボンの青が男の子っぽくていいな」
モニターに写る画像を見ながら、有人が物言わぬ二匹に声をかけ、楽しそうに柚がポーズを変えていく。
そしてその画像を話題に、二人並んで面会時間終了まで笑って過ごした。
「櫂の提案は、バッチリだったようね」
ある日、病院の庭に座り込み、小さな雑草に咲いた花を写していた有人に、佐与子が背後から声をかけた。
長い髪を束ねて、あまり化粧気のない細い顔は、会う毎に陰りを増しているようだ。
「どうかしたんですか、佐与子さん。顔色、悪いですよ」
立ち上がって有人が問うと、佐与子は目を細めて微笑した。
「まぁ、私の顔色を気遣うなんて、本当に櫂の提案はアタリね。ありがとう。でも、何でもないのよ」
困った有人を笑顔で慰めるように、佐与子は頷いた。
だが、その表情に表れた深い悲哀のような影はなくならない。
最近は、柚の病室で櫂に会うことは少ない。そして佐与子も櫂に会うことは少なくなっているという。
忙しい櫂をずっと見守ってきた佐与子に、理沙の声が重なる。
つまんない。
――錯覚なのか・・・。
「確か、佐与子さんは――大学生」
「まだ親のスネをかじってるわよ」
「櫂さん、忙しいから大変ですね」
バイトと専門学校の合間、櫂は時間を惜しむようにカメラを構えて被写体を収める。柚の病室には一日一回必ず顔を出しているようだが、時間は不規則で長い時間は居られないようだ。
「櫂とは、中学時代から付き合ってるの。その頃すでに柚ちゃんが入退院を繰り返していたから、櫂が忙しいのは慣れてるわ。櫂が、柚ちゃんのことをすごく大切にしてるのは、見ればわかるでしょ。何もかも柚ちゃんを中心に回ってるのよ、櫂の世界は。私はただ、そんな櫂を見てるだけ」
かすれた小声が、辛うじて聞こえる。
「櫂は、優しすぎるのよ。でも、・・・一番は柚ちゃんなの。他の誰でもない」
そう言って、佐与子は黙り、有人も無言だった。
数分後、櫂が現れるまでの僅かな時間、有人は冷たくなった風を頬に感じながら、カメラを構えたまま立ち尽くしていた。
それから数日後、櫂が専門学校を休学したと柚から聞かされた。
「櫂さんが自分で選んだの?」
柚は頷くだけで、言葉にならなかった。
「櫂さん、夢を捨てて辛くないですか」
柚の病室で久しぶりに会った櫂に、有人は単刀直入に問うた。
カメラの勉強をして、プロになりたいと言っていた櫂。どんなに忙しくても学校とバイトを両立させていた櫂が、何故そんな選択をしたのか。
櫂はいたって明るい表情を保っていた。反対に有人に向かって「どうしてそんなことを聞くんだ」と言わんばかりに飄々と答えた。
「俺、夢は捨ててないよ。夢を叶えるのに年齢制限はないし、いつだって追えるさ。ただ今は、今しかできないことをしているだけだよ」
柚の隣に座り写真を見せながら、あっさりしている。
「佐与子さんは、心配してるんじゃ・・・」
いつか会った顔色の優れない佐与子の横顔が脳裏をよぎる。
だが、これも櫂の答えは簡潔だった。
「別れたよ」
「・・・お兄ちゃん・・・」
心配そうに見上げる妹の頭を撫でて苦笑すると、櫂は謝るように目を伏せた。
「あいつには悪いと思ってるよ。俺の気持ちは変わってないけど、そんなこと言葉でどれほど言っても仕方ないだろう。佐与子には俺がもどかしく見えるんだ。俺はそんな風に見られても、どうしてやることもできない。今はこの選択肢しか思いつかない」
「・・・」
「俺は、後悔したくないんだ。柚。どんなことが起こっても、今は今、できることだけをしていたい。それが許せないって佐与子が言うなら、別れるしかないだろ」
自嘲気味に笑う櫂の傍で、小さな柚は一層小さく身を縮めて、搾り出すような声で言った。
「ごめんなさい、お兄ちゃん・・・」
「なんで、お前が謝るんだよ。俺は単純にやりたいことをしてるだけだぞ。それよりお前、もう少し食べなきゃ駄目だぞ。辻も、俺のことは心配しなくていいから、もっと元気でいてくれ」
「元気でって言われても、これ以上どうしようもないですよ」
閉口する有人に、櫂は一層明るく笑うと、柚の手の中のカメラを取り上げて有人に渡した。面食らって受け取って、そのモニターに視線を落とすと、櫂が次々と画像を変えて見せた。そのほとんどが有人の姿だ。
「そんなことはないだろう、辻。最近のお前は、これだけ笑って動いてるよ。お前自身が気付いていないだけさ」
いつのまにこれほどの枚数を撮ったのだろう。
渡されたカメラのデータには、柚の病室で過ごす有人の姿がまるで記録のように撮られている。柚と向き合っているものが多く、その姿は自分自身安堵する程に明るくて穏やかだ。
「わかるだろ、辻。それが、今のお前だよ」
「――」
「わかったら、せっせとカメラ持って歩いて、柚にいろんなものを見せてやってくれ。頼むよ」
背中をしたたか叩かれて、有人は大袈裟な咳をした。
「櫂さんには、負けます」
「そりゃ、そうだろう。俺はお前に負ける気しないぞ」
「・・・なんの勝負ですかね」
苦笑で返した有人は、しかしこの優しい兄貴に憧れた。こんな軽口も、櫂とならできる。
だが、柚は一人兄の顔を見上げていた。その横顔から真意を掴もうともがき、出た答えで頬を濡らした。
「どうした、柚。辻が元気で泣けるのか?」
冗談で流そうとする櫂だったが、そうはいかないようだ。柚の涙は止まらない。
柚の頭をゴシゴシと撫でると、涙を拭ってやるように引き寄せて、小さくその脳裏に呟いた。
「泣くな、柚。お前に泣かれるのが、一番ツライ」
「坂上、外出できるのか」
いつものように有人の撮った画像を丹念に見ていた柚は、少し不安そうに見返している有人に笑顔で返した。
この病室に通い始めて半年以上になる。だが、柚の様子はまったく変わらず、検査以外で病室を出ることも稀なことだ。
ほんの僅かな時間でもいいからと、中庭へ引っ張り出した時は、激しく咳き込んで病室へ逃げ帰った。
有人は、柚が外出すればどうなるか不安だったが、柚自身は嬉しそうにしていた。
いつになく積極的な柚を、櫂が後押しした。
「お兄ちゃんが担当の先生に掛け合ってくれたの。秋にしては寒くないし、夏の暑さは峠を越しただろうからって。短い時間だけだと思うけど――」
いつの間にか季節は移ろい、外は秋の気配が漂うようになった。近くの神社の縁日が間近だ。それが終われば秋は一気に深まっていくだろう。
有人は戸惑いながら、少しホッとした顔だ。
「正直、もう何を撮っていいかわからないんだ。このカメラ使い易くって、まるでコイツが被写体を選んでる感じすらするんだけど、それでももうネタが尽きたって感じかな。一度、二人で出掛けたいと思ってたんだ。一緒に撮ればまた違った景色が見れるかと思って――」
「え、辻くんと一緒に出掛けるの?」
「あれ、俺と一緒じゃなかったの? 俺、てっきりそうだと思ったんだけど」
「でも・・・理沙が・・・」
「理沙には気を遣わなくていいよ。あいつだってきっと『やってみればいい』くらい言うさ。友達なんだから、・・・近頃あんまり来ないけど」
最後のほうは呆れている。
柚は少し躊躇った。それでも理沙の存在は気になるようだ。
「お兄ちゃんに訊いてみるわ。でも辻くんとじゃ理沙に悪いもの。理沙も行くなら――」
「わかった。じゃ、俺と一緒でもいいか、櫂さんに訊いてみてくれないか。理沙には俺が話しておくよ。とにかく一緒に外へ出よう」
それから数日後、櫂の了承は得た。ただ理沙は、聞く耳持たぬ様子で、目一杯やきもちらしき態度をとられたが、「キスで許す」の一言で終わった。有人は言われる通りに応じた。
櫂は、柚の外出に有人が同行することを快諾した。櫂が付き添う気でいたようだが、「辻に頼む」の一言が返ってきた。
「ただし、辻、柚は長い期間外出していない。体力も脚力も衰えてるだろう。もしかすると、お前に迷惑がかかるかもしれない。それでもいいのなら、俺はお前に頼みたい」
一瞬、有人は怯んだが、すぐに櫂を正面に見て頷いた。
確かに、自分の右足はほぼ元通りだ。引き摺ることもない。だからといって以前と同じようにバレーができるかと言えばそうではないが、有人にとっては「気にならない」ということが嬉しかった。柚を乗せて自転車をこぐくらいはできるだろう。
外出日は金曜日。柚の担当医が当直の日に合わせることにした。外出後、柚の体調が崩れても的確に処置ができるようにと配慮された。
その当日。
陽が西に傾き、外気が涼風を感じ過ごしやすくなる時間。
有人は授業が終わるとすぐに病院へ向かった。もし昨夜熱でも出していれば、今日の外出は中止だ。
半分、祈るような気持ちで自転車をこぎ病院へ着くと、柚は晴れやかな笑顔で有人を待っていた。パジャマ姿しか知らない柚が、学校の制服を着て立っている。
「坂上、なんで制服なの。昨日は新品のワンピース着たいって言ってただろ」
普段着に少なからず期待していた有人のマヌケな顔で、一層柚の笑顔がほころんだ。
「だって、辻くんも制服じゃない」
首からカメラを提げ、白い半袖シャツに灰色のスラックスの有人を指し、柚は少し背伸びするように有人に笑いかけた。
「制服、当分着てなかったから、急に着たくなったの」
白い長袖シャツに灰色のプリーツスカート。肩から交差させて小さなポシェットを提げている。そのポシェットには、いつも柚の枕元にあるあのウサギがぶら下がっていた。
「あれ、太ってる」
「え、私が?」
「いや、違う。ウサギが太ってるよ」
有人がウサギの頭を撫でると、柚は慌ててウサギを抱えた。
「そう、お守りが入っているの。今日が楽しめるようにって。ね、お兄ちゃん」
いきなりふられた櫂は苦笑した。
「そうだな。とにかく頼むよ、辻。くれぐれも用心して、何か変わったことがあったら、すぐに連絡してくれ。柚、無理は駄目だぞ、わかったな」
妹の頭を撫で、その表情を確認すると、櫂は納得したように小さく頷いた。
門まで見送りに出て来た櫂に、再度柚を託されて、有人は自分の自転車の後ろを見た。
「しっかりつかまってろよ」
自転車の後ろで、柚はバランスを保つことに四苦八苦し、結局有人の背中に抱きつくようにして寄り掛かることになった。大木にセミだと、櫂にしこたま笑われた。
「坂上、どこへ行きたい」
「学校がいいわ。学校へ行って」
学校・・・。
有人は、ただひたすら自転車をこいだ。
金曜日。校舎に西日の映える時間。
まだ幾つかの人の気配を残しながらも、校舎の中はシンと静まりかえっていた。運動部も文化部もあまり活動的ではない。中庭を駆け抜ける風の音ばかりが耳に障る。
有人は正門に自転車を止めると、柚を下ろし、一人駐輪場に回った。柚が一人で歩きたいと言ったからだ。
彼女の体調は悪くないとはいえ、毎日病室で座っているか横になっている身体だ。心配しないわけにはいかない。だが、柚はまるで哀願するように有人に言った。
「どうしても、一人で歩きたいの。お願い」
結局、有人は引き下がった。決して学内から出ないこと、何かあったら携帯に連絡することを約束した上でのことだ。
そして、有人もまた一人で校内を歩いた。歩きながら時折カメラを構えて校舎を切り取る。いつもなら無関心に行き過ぎる渡り廊下の陰さえも、ファインダーで切り取ると、何故かまったく違う印象が幾つもの色と濃さで画像に表れる。
右足を庇わなくなって、周囲の風当たりは少し弱くなった。すでにバレー部は自滅状態で、皆さじを投げたという感じだ。喜べる状況ではないが、有人はただ無言に徹した。
理沙の冷めた態度は気になったが、思い悩むほどではない。反対に、あの無遠慮な軽口に悩まされなくていいくらいだ。現バレー部の主将である中沼の言葉が、どれほど険悪だろうと、あまり気にならなくなった。
足は自然、校舎裏手の屋外コートへと向かっていた。
体育館が手狭で週の三日間をそのコートで練習した。土の上でのレシーブや基礎訓練は、擦り傷や切り傷の原因にもなったが、それはそれで楽しかった。ボールを追っていることが、唯一の楽しみだった。
こうして今、遠巻きにコートを眺めると、がむしゃらに過ごしていた日々が思い出される。垂れ下がったネット。途切れた白線。取り残されたバレーボール。カメラを構えながら、いつかいたその場所の自分を追った。
不意に、視線を感じた。
思えば部活中、同じ視線を感じていたような気がする。
まさか――。視線を感じる方向へズームで寄り、有人は思わずシャッターを押した。
モニターに写っているのは、柚だった。
ゆっくりと向かった校舎の陰。覗いた有人は、小さく呟いた。
「坂上だったのか・・・」
柚は校舎に身を寄せるようにして立っていた。黒目勝ちの瞳を真っすぐに有人に向け、立ち尽くしている柚がいた。
「俺がバレーをやっている時、ここから写真を撮っていたのは、坂上だったのか・・・」
自分の手の中にある使いこなされたカメラを差し出すと、柚は無言で頷いた。想いは、声になりそうにない。
有人は思い出した。
校内新聞に載る自分の写真とバレー部への賛辞を。写真を撮ったカメラマンについては聞いたことはないが、いつも自分がクローズアップされ美化されてしまうような絶妙のシャッターチャンスで収めてあった。
小学生からバレーを続けていれば、辛いことや嫌なこともある。だが、校内新聞に載る自分を見ると、「まだできる。がんばろう」と思えた。それほど称賛されて、エースだ超高校級だと言われて、頑張らないわけにはいかないと奮起した。続けてこれたのは、柚の写真があったからだ。
暫くの間、二人はそうして立ち尽くした。
長い時間の中で、置き忘れていた何かに気づいたように。
そして有人の中で、柚の存在が明確に大きくなっているのに気付いた。
カシャッ。
突然、シャッター音が聞こえた。
有人は弾かれた様に自分の手の中のカメラに視線を落としたが、押した感じはない。気のせいか・・・と思って視線を上げると、頭上から声がかかった。
「柚、本当に来たのね」
窓から身を乗り出し、同じ学年の河原忍が手を振っていた。
忍は急いで駆け下りて来て、一度柚を抱き締めると、そのまま支えるように傍に立った。まるで有人の存在を無視するように真正面に柚を見て忍は笑っていた。
ぶっきら棒で、そこいらの男子よりも男っぽいと有名な新聞部部長には珍しい、溢れるような笑顔だ。
「辻くんが連れて来てくれたのよ、忍ちゃん。病院には外出許可を取ってるから心配しないでね。忍ちゃん、新聞部はどう」
柚も嬉しそうに笑っている。
「柚の写真が載らなくなって、駄目ね。バレー部は誰かさんがいなくなって目も当てられない状態だし、他のクラブも、果ては学校までもが投げやりよ。書く記事ないから困ってる。それより、柚。こんなのにカメラ貸してないで、柚が撮りなさいよ。柚の写真が載れば、記事も活気付くからさ」
有人を尻目に続ける忍に業を煮やし、有人は大きく咳払いをした。
「河原、俺は河原の気に入らないことをしたのか」
我ながら大人気ないなと思いながら発した言葉を、忍は睨み返してきた。
「本当に頭悪いのよね、あんたって。バレー部のエースやってる時なら、まだ多少許せたけど、この状況でこのていたらくじゃ、文句の一つも言いたくなるわ」
「忍ちゃん、もうやめて」
次第に語気が荒くなる忍の腕を引いて、柚が止めようとするが止まらない。
「何も見ようとせず、気付こうともしない。相田理沙のような馬鹿女に遊ばれて、テロテロやってる大馬鹿野郎に優しい言葉なんて思いつくわけないでしょ」
怪我をして以来、見たことのない激しい目だった。
以前は確かに見ていた目だ。正面から喰らい付くような、ひた向きな目だ。
「頑張ろう」とか「一緒にやりましょう」とか「頑張ってください」とか。言葉は違うが、皆、目は同じだった。心が同じだったのだ。
それがどうだろう。
今では誰もが陰で囁く。「あいつはもう駄目だ」と密やかに言う。面と向かって感情をぶつけてくる者などいなくなってしまった。
目前にいる忍のような人間は・・・。
返す言葉がない。
胸のどこかから湧いてくる感情が、果たして感謝なのか、憤怒なのか、有人自身にもわからない。
「忍ちゃん、もう止めて。辻くんだって、苦しいのよ」
そう叫ぶように忍にしがみ付く柚の方が狂おしい。
忍は小さく何か呟くと、強く柚を抱き締めた。
「待ってるからね、柚。また、一緒に新聞作ろう。必ず、作ろう。私、待ってるからね。――大好きよ、柚」
最後の一言が、耳に残った。
有人から見れば、異様な光景だ。女子高校生が二人、抱き合っている。しかも胸を打つほどにしっかりと。
有人の腕が痺れていた。カメラを持っているせいではないだろう。
河原忍は早々に立ち去った。時間を忘れていたと言って、慌てて帰って行った。
取り残された二人は、無意識に歩き始めた。脇に提げたカメラが、二人の間にあった。
「これ、坂上のカメラだったのか」
「うん」
「俺に貸してていいのか」
「うん。今の私には、重いから」
「河原とは、仲が良いんだな」
「忍ちゃんは、小さな頃からずっと私を守ってくれて、励ましてくれて。私の撮った写真をいつも褒めてくれて、新聞に載せてくれて。今でも毎日、病室へ寄ってくれて。・・・こんな私を、大好きだって言ってくれる」
お守りだというウサギを抱き締めて、柚はそう答えた。忍もまた、立ち去り際にウサギの頭を一つ撫でていた。
有人は腑に落ちなかった。
「毎日病室へ寄ってるって、・・・俺も毎日寄ってるけど、河原には会ったことないぞ」
有人が柚の病室を訪れている間、そこで出会うと言えば櫂と、櫂の恋人だった佐与子と、理沙くらいだ。他には知らない。
「忍ちゃんは、辻くんが来てない時間に来るの」
「それって、・・・俺が疎まれてるってことか」
「違うわ、辻くん。そうじゃないの。忍ちゃんはただ、私が辻くんと――」
言いかけた言葉を、有人は遮った。
強張った表情の中で向けられた視線が、一点を凝視する。
柚が有人の視線の先を見て、弾かれたように有人を見上げた。
理沙と中沼が、まるでもつれ合うように戯れながら、人のいない体育館の中へ入って行くのが見えた。
理沙と中沼に気付かれないように、有人は身を潜めながら近づいた。柚は、有人の傍を離れないようについていく。
体育館の周囲は人影がなく、体育館の中も部活などをしている様子はなかった。
その中で、理沙と中沼は他愛のない会話を交わしながら、享楽的な笑い声を体育館に響かせていた。
単純に乗り換えられただけなら、それも良いかと思った。中沼は知らないヤツじゃない。理沙のような女の子が付き合うには楽しいタイプだろう。
変に納得をして、盗み聞きのような格好をしている自分を嘲笑い、視線で柚に立ち去ろうと伝えた時、哄笑の中に辻の名前が混じった。有人の動きが止まった。
「辻くんの足の怪我、中沼くんが仕掛けたって、まだバレてないの」
理沙の表情は分からないが、口調は少し意地悪だ。中沼の笑いには、多分に嘲るような調子があった。
「バレてないだろ。辻は、気付かないよ。あいつは馬鹿だから。俺の兄貴のバイクを勝手にいじって、倒れたバイクの下敷きになって怪我した挙句に、バイクの弁償と謹慎処分。果てはバレー部退部とは、いい気味だ」
「あら、私が聞いてる経緯とは少し違うんだけど」
「――何が」
「辻くんがバイクに足をかけた時、バイクがバランスを崩して倒れたのは、中沼くんがバイクを押したからだって聞いてるわ。バレないように、しかも辻くんの方へ倒れるように」
「――誰に聞いたんだ」
「ヒ・ミ・ツ」
「で――、辻にそれを言ったのか」
「どうして。そんな面倒くさいこと、するわけないでしょ。いつまでもウジウジやってる男なんて、もういいわ」
「正直、俺はせいせいしてるよ。どんなに俺が部活頑張っても、注目されるのは辻ばかりだ。いつも日陰の俺にとっては、居て欲しくないヤツだよ」
中沼の吐き捨てるような台詞が、体育館に響く。それに理沙のクスクス笑いが重なった。
「そんなことより、今日は何か楽しいことをしようって言ってたでしょ。何――」
二人の会話は小さくなった。時折癇に障るような引きつった笑い声が聞こえ、やがて二人は体育館の奥へ移動したようだ。
有人は、その場を動けないまま、自分の右足を見つめた。
バレーが好きで、何の不自由もなく思うままに動いていた右足。
あの日、中沼に誘われるまま部員の数人で中沼の家に行った。中沼の兄が買ったばかりの大型バイクに注目が集まり、バイク談議が始まった。特に興味のなかった有人も、中沼に言われるまま、他の部員がしたようにバイクに跨ろうとして、――バランスを崩した。
転倒した有人の右足の上に、大型バイクは音を立てて倒れた。
自分の失態でバイクを壊したことを、中沼や中沼の家族に謝り、弁償した。そして、有人の足はもう二度とバレー選手としては使えないものになった。
それが、今まで一緒に、大好きなバレーをしてきた仲間の仕打ちの果てだというのか。
茫然と立ち尽くしていた有人は、ふいに我に返った。腕に感じる柚の呼吸がおかしい。
「坂上、大丈夫か。気分が悪いのか」
柚は激しく首を振り、有人の左腕にすがる様に崩れた。驚いて、腕で抱きとめると、一層小さくなって柚は有人の胸元にしがみついた。苦しそうに流れる涙が、シャツを通して有人の胸をぬらした。
有人は咄嗟に柚を抱きかかえるように支え、その場を離れた。
「すぐに病院へ戻ろう」
腕の中にいる柚を諭すが、彼女はいつまでも首を横に振るだけだ。
「違うの」
「坂上――」
「・・・ごめんなさい」
「どうして坂上が謝るの」
「私が、学校に来たがらなければ良かったのよ。そうすれば、辻くんが傷つくことなかったのに・・・。本当に、ごめんなさい」
「坂上が謝ることはないだろう」
どうしていいか分からず、ただ細い背中に腕を回して支え、前かがみで柚の横顔を見つめた。
白く抜けるような頬と奇麗な輪郭の耳が夕焼けの朱に映え、有人のシャツを掴む細く小さな手が震えている。
「こんなの・・・酷すぎる・・・」
「――坂上、もう泣くな」
有人は、柚の小さな手を包むように握り締めると、その耳元に囁くように頬を寄せ、小さく小さく呟いた。
「泣かないでくれ。俺は、どうしていいかわからないんだ」
週が明けて、月曜日。学校中が不穏であった。
登校した有人も気になり、クラスメイトを捉まえた。
「よくわからないんだけど、どうも職員室が荒らされたって噂が流れてる。教員全員で職員室付近はガードしてるから、状況は確かじゃないんだけどさ」
結局、一時間目は自習となった。
中沼が何食わぬ顔で有人に声をかけてきたが、有人は適当に合わせて流した。
理沙が慌てた様子で有人に近づくと、周囲を憚るように小声で言った。
「辻くん、私とお揃いのクマのキーホルダーはどこ?」
「急にどうしたんだ。なんでそんなものがいるんだ」
無意識に声が冷たくなっているが、そんなことも構わないようだ。理沙は有人のカバンを探った。
「・・・ないわ・・・」
「いや、あるだろ。入れっぱなしだったから」
「そうよ。私とお揃いのキーホルダーなのに、カバンの奥に入れっぱなしにしてて、本当に腹が立つと思ってたのに、・・・ないわよ」
どこか放心したような表情で理沙はそう呟くと、後ずさりで有人から離れ、教室を出て行った。
意味が分からないまま、有人はもう一度カバンの中を確認した。
クマのキーホルダーは、なかった。
いつか柚がほころびを直してくれた、ピンクのTシャツを着た小さなクマ。柚の病室で、柚のウサギと記念撮影をして・・・それから、どうした?
記憶が、ない。
いつ、どこで失くしたのか思い出せない。
もしかしてカバンの隅で押し潰されているのかと、再度カバンの中身を探っていると、頭上から声がかかった。
「辻。職員室まで来なさい」
担任の能面のような無表情が、まっすぐ有人を睨んでいた。
「これは、キミのものだと聞いたが、そうなのかね」
雑然を通り越した荒れ方の職員室で、有人は教員数名に取り囲まれた。
正面に仁王立ちになり問い質す教頭から視線を反らせると、並んでいる机の上がよく分かった。確かに誰かが荒らしたようだ。どの机の上も、ある程度は片付けられているが、しかし破かれた本やノート類は、整理ができないまま、まとめられていた。
職員室の異変に気付いたのは、土曜日の午前。休日出勤をした職員が見つけて教頭に連絡をした。外聞を憚り、警察沙汰になることを嫌った学校側は、内々に調べた。その結果、職員室が荒らされたのは、金曜日の夜間帯ということになった。
金品に関わるものは手がつけられていない。手当たり次第に荒らしただけだ。
クマのキーホルダーは、破られて積み上げられたノート類の下から出て来た。どの教員のものでもないという。
「このキーホルダーは、キミのかね」
教頭の手に、ピンクのTシャツを着た小さなクマがいた。
「そのキーホルダーは、ゲームセンターの景品です。同じものが沢山出回っています。それが俺のものかどうかなんて、分からないでしょう」
「では、質問を変えようか。キミが持っているであろう、これと同じキーホルダーを見せてもらえるかな」
「――」
「キミが見せてくれれば、キミへの疑いは晴れる」
「疑い?・・・まさか、俺を疑っているんですか」
「だから、疑いを晴らせと言っているのだ」
有人は、反論できなかった。
有人が職員室を荒らした者だという噂は、すぐに広まった。
有人は指導室で質問攻めにあった。職員室が荒らされた時刻、どこで、何をしていたのか。
有人は、答えなかった。答えたくなかった。
答えれば柚を巻き込んでしまう。
問い詰められている時間、有人は病室の柚の傍にいた。
迎えを呼ぶことを拒み、どうしても自転車で帰りたいと言った柚。背中で荒い呼吸をする彼女を確かめながら、有人は思い切り自転車をこいで病院へ戻った。
慌てて迎えに出て来た櫂や看護師達に抱えられた柚は、意識が朦朧とする中でも有人のシャツを握り締めたまま放さなかった。
どれほど無言で俯いていたのかわからない。
おもむろに、頭上で教頭と数人の教師が慌て始めた。ほどなく戸口に現れた三人に、顔を上げた有人が絶句する。
青白い顔色で精一杯の力を振り絞って立っている柚を間に、河原忍が左側から支えるように寄り添い、櫂が一歩前に進み出た。
「櫂さん、どうしたんですか。坂上・・・身体は大丈夫なのか」
「忍ちゃんが教えてくれたんだ。お前、何も答えないのは、誰かを庇っているせいか?」
有人は、質問の意味が分からなかった。どう答えていいか分からなくて黙っていると、櫂は納得したように頷いて、二度有人の肩を叩いた。
「すまないな、辻。俺は、誰に恨まれても黙ってはいられないから」
そう言って、櫂は教頭や担任たちの中に入っていった。
櫂はこの高校の卒業生だ。教員の覚えもメデタく、現在の教頭はかつて担任だった。櫂の話す言葉は、自然に教員達の中に一つの答えを導き出す。
櫂は話した。
もしクマのキーホルダーが職員室にあったことが犯人の決め手であれば、有人は犯人ではないという。有人のキーホルダーは、何日も前からずっと柚が持っていた。その証拠に櫂が示したのは、小さなデジカメに写ったクマのキーホルダーだ。
「日付を見てくださればわかると思いますが、これは妹が毎日撮った写真です。この写真では、昨日、つまり職員室が荒らされた後も、クマのキーホルダーは妹の手元にあったことになる。そして、現に証拠のクマはこうして持って来ました。これが辻のものです」
教頭の手の中の小さなクマと同じピンクのTシャツを着ているが、櫂の手の中のクマには金色のペンダントがついたままだ。
そして問題の時刻、有人が病院の柚の傍にいたこと、それを証明しようとすれば、病院関係者が証言してくれることまで櫂は話した。
「辻くん・・・ごめんなさい・・・」
小さく消え入りそうな声で、柚はひたすら有人に謝っていた。
「坂上が持っててくれたのか。ありがとう。俺はどこで失くしたのか、いつからなのか、まったく思い出せなかったんだ」
有人は柚を真っすぐ見つめた。だが、柚はまるで視線を合わせようとせず、ただ俯いて謝るばかりだ。
「違うの。ごめんなさい。私、あの日辻くんが忘れて返ったクマを、ちゃんと返さなきゃと思いながら、返せなくて――こんなことになるなんて・・・。私がちゃんと返していれば、辻くんが疑われることなんてなかったのに・・・」
柚のウサギと記念撮影した日、有人はそのままクマのことは忘れて帰った。持って帰ったとしても、大切に扱ったかどうかは疑問だ。おそらくカバンの奥深くで、クマは歪に押し潰されて捻れていただろう。
有人は何度も柚に礼を言ったが、柚はただ首を横に振るだけで、小さく謝るばかりだ。
傍に付き添う忍は、ただ無言で柚を支えていた。
「辻、もう教室に戻ってもいいぞ」
担任が近づいて、そう告げた。教頭たちも、櫂の説明に納得した様子だ。
立ち去り際、職員室に残っていた小さなクマの持ち主に心当たりがないかと訊ねられたが、有人も、柚や櫂も答えることはなかった。
櫂と忍に支えられ正門まで出た柚は、待っていたタクシーに乗せられた。顔色が悪い。
「忍ちゃん、悪いけど、柚を連れて先に病院へ戻ってくれないか。皆が心配してると思うんだ」
担当医が待っているはずだからと伝え、忍が無言で柚の隣に乗り込むと、そのまま静かに発車した。
「河原は、そんなに坂上と親しいんですか」
見送りながら隣の櫂に訊ねると、櫂は遠い目でタクシーの影を追った。
「あぁ、忍ちゃんは小さな頃からずっと柚の傍にいてくれたんだ。本当に柚の事を大切にしてくれている。ただ・・・ただひたすらに、柚が喜ぶことをして、柚が楽しいことを手伝ってくれた。毎日会いに来てくれて、柚が幸せそうに話すお前のことを、ただジッと聞いてくれている」
「でも俺は、あの病室で、河原に会ったことがない」
脳裏に浮かぶ河原忍は、いつも無愛想で素っ気なく、有人などまるで眼中にない様子で傍をすり抜ける。声をかけようものなら、噛み付かれそうだ。どれだけ疎まれているのだろう。
言わんとすることが分かるのか、櫂は笑って肩をすくめた。
「そりゃ、そうだろう。柚がお前といる時間をどれだけ楽しみにしていたか、忍ちゃんはわかってた。キッカケはあまり有り難いものじゃなかったとしても、柚は、お前が病室に訪れる日が来るなんて、思ってもなかっただろう。だけど、お前は来てくれた。そんな大切な時間を邪魔するような子じゃないよ、忍ちゃんは」
「理沙は・・・」
理沙は、柚を「親友」だと言った。
櫂は、苦笑で俯き、小さく肩をすくめた。
「悪かったな、辻。お前が誰かを庇っているのだとしたら、俺たちが来たことは迷惑以外の何ものでもないだろう。だが、柚は黙っていられなかったんだ。忍ちゃんから連絡を受けて、お前が窮地に立たされているのを知って、妹は医者や看護師が止めるのも聞かずに、どうしてもここへ来ると言い張ったんだ」
櫂が上着のポケットから取り出したのは、柚がいつも枕元に大切に置いている白いウサギだった。いつか見た白いウサギは丸々と太っていたのに、今、櫂の手の中にあるウサギは、まるで皮ばかりの布切れのようにみすぼらしい姿だった。櫂は、もう一方の手に握る小さなクマを有人に渡す。
「柚はこのクマを、ウサギに入れていたんだ」
あの日、柚がつけたAのイニシャルが入ったペンダントをつけたまま、クマは誇らしい顔で端然としていた。それを手の平で受け取ると、哀しいまでに愛おしい、不思議な気持ちになった。
柚の手元にある間、どれだけこのクマが大切に扱われていたかが伝わってくる。
「ありがとうございます。これを俺が持っていたら、きっと何の弁解もできないままだったと思います」
慌ててクマのキーホルダーを確認しに来た理沙の顔が浮かんだ。思えば、いつも理沙のポケットからぶら下がっているクマはいなかった。理沙は、有人のキーホルダーを確認した後、どうする気だったのだろう。理由はどうでも取り上げて、自分のものだと言い張ったのだろうか。
体育館で盗み聞いた会話が、想像を悪意で固める。
櫂の表情も晴れやかとは言えなかった。
「いや、申し訳ないと思っているよ。辻。どんな結果だろうと、柚はお前のものを黙って隠して持っていたんだ。その罪悪感が柚を苛むくらいなら、どんな無理を押しても来ないわけにはいかなかった・・・」
「坂上の状態は、どうなんですか。なんだかまた細くなっているようで・・・」
忍に支えられていた柚は、今にも消えていなくなりそうだった。
「正直、絶対安静なんだ。当分、みっちり治療が必要だろうと言われている。心配かもしれないだろうが、少し落ち着くまでそっとしておいてやってくれないか」
別れ際、ペンダントのAの意味を問うと、櫂は苦笑で、少し高い位置にある有人の頭をワシワシと撫でた。
「本当に、お前は困ったヤツだな」
櫂と別れて教室に戻ると、すかさず理沙が近寄ってきた。表情は最悪だ。焦りと怒りがごちゃまぜだ。
「柚が私のせいにしたんでしょ」
はっきりとそう言い切る理沙を、周囲の視線が遠く見つめる。
有人がいつも感じている冷たい視線だ。そして、多くの視線の向こうから、こちらの様子を窺う中沼が見えた。
有人は何も考えなかった。この件をどうにかしようなどとは思わない。
手に握り締めた小さなクマ。金色のAが彫られたペンダントが、柚の微笑に重なった。
『エース』・・・いや、違う。
俺のイニシャルだ。
有人は理沙からも、中沼からも、そして周囲の誰からも視線を逸らせなかった。
「坂上は、誰がやったかなんて言わなかったよ。ただ、俺がやったんじゃないって言ってくれたんだ」
何ものにも怯まない静かな声が、冷たい視線までも退けた。
何度か病院へ行ったが、柚には会えなかった。
櫂に連絡を取ると、時間を割いてくれた。近くの公園で会った櫂は、相変わらず忙しいという。
櫂は有人に、いつもの笑顔でひたすら謝った。柚にいつ会えるのか、何度も問う有人に何度も謝る。柚にはまだ会えないという。
「柚は、お前に心配させたくないんだろう」
わかってくれと頭を下げた。柚の様子を訊くと、日毎に元気になっていると言う。
有人はずっと借りていたカメラを櫂に返すと、真新しいカメラを見せた。借りていたものとまったく同じものだ。
「借りっぱなしは申し訳なくて、貯金はたいて買ったんです。元気になったら、カメラを持って一緒に出掛けようと、坂上に伝えてください。それからこれを――」
おもむろに取り出した小さなウサギのぬいぐるみを、櫂に渡した。
ウサギには、いつか柚が小さなクマに着けてくれたAのペンダントと一緒に、小さな花と綺麗な石がついたYのイニシャルのペンダントが、赤いリボンで括り付けられている。
「これを、坂上に。彼女のお守りの一つに加えてください」
小さなウサギは、きっと、柚の小さな手の平におさまるだろう。ずっと握っていられるように、ずっと傍にいられるように、想いを込めて選んだ。そのウサギの胸元で、二つのペンダントが寄り添うように光っている。
「早く元気になれって――」
照れたように笑う有人に、櫂は目を細めて俯くと、小さく「あぁ」と返した。
「お前のウサギが代わりに守ってくれるなら、こいつも本望だろう」
「代わり?」
櫂はポケットから出したものを有人に見せた。
櫂がお守りだと言って柚に買った背中にファスナーのついたウサギ。小さなクマを入れて丸く太った姿ではなく、中身を全部取り出してくたびれた布切れのようなウサギだ。
それを見て、柚は泣いていたという。
「あんまり泣くんで、取り上げたんだ。妹はこれに、お前のキーホルダーを隠していた自分自身が許せないんだ」
「そんな・・・。あれは・・・」
どう答えていいか、有人には分からなかった。どう言っても、柚が否定するような気がした。
「櫂さん、俺が、そのウサギを預かってもいいですか」
「?」
「俺の傍に置いてちゃいけませんか、こいつと一緒に」
有人は、カバンからあの時の小さなクマを取り出して見せた。
職員室の件があってすぐ、捨てようと思った小さなクマを、有人は捨てることができなかった。
この小さな背中のほころびを縫い、愛おしそうに撫でていた柚の横顔ばかりが脳裏に浮かんで、捨てられなかったのだ。
くたびれたウサギは、有人に託された。
その夜、遅い時間にメールが届いた。
有人がずっと借りていた柚のカメラの前で、二つのペンダントを付けた小さなウサギがいる画像。『大切にするわ』の一言が添えられた柚からのメール。
有人は、同じような構図で、自分の真新しいカメラと、お腹に一杯詰め物をして丸まる太ったくたびれたウサギを写すと、一文添えて柚に送った。
『傍にいるから、もう、泣くなよ』
柚からは笑顔のマークが一つ、返信されてきた。
たったそれだけのやり取りが、有人には嬉しかった。
季節は確実にうつろい始めている。
柚には会えていない。
周囲の視線は冷たかった。
職員室の件は有人に無関係だったが、後ろ指を指される理由など、どうにでもなるらしい。真実が分かった後も、有人の背中には冷たい視線と中傷が付きまとった。加えて有人の怪我の真実が校内に流布した。誰の口から漏れたことなのかは、分からなかった。
しかし、幸い有人は気にならなかった。
どれほど反論しようと、他人の口をひとつずつ塞いでいくことなどできない。
時折すれ違う河原忍は、相変わらず有人に素っ気なかった。疎まれているのはわかったが、周囲の冷たい視線とはまったく別の冷め方だった。引きとめて問い質すと、柚はもう少し元気になるまでは、誰にも会いたくないと言っているという。
「メールは返ってくるんでしょ」
忍は短く冷たく言い捨てた。強張った横顔が、有人を拒否している。
有人はただ、無言でその反応を受け止めるしかなかった。
街路樹の緑が赤く色づき始め、風の中に冷たい気配が混じるようになった。
有人は心の中で柚を気遣いながら、カメラを抱えて町中を歩いた。
託されたウサギは、常に手元にあった。その中に小さなクマを入れ丸く太ったウサギだ。
有人は柚に見せたいものを、ただ一心に写した。会えないまでも、何か柚の気晴らしになるものを選んで、一日一回だけメールを送る。
柚から返ってくるメールも一日一回だけ。それ以上は疲れるのだという。短い言葉が有人を励ましてくれる。
それだけが、救いだった。
「辻くん・・・よね?」
黄金色の銀杏並木を、下からカメラ越しに見上げていると、後ろから声をかけられた。振り返ると真山佐与子が立っていた。
「やっぱり貴方なのね。以前と印象が違うから、別人かと思ったのよ。足はもう完治したようね」
相変わらず少し哀しそうな微笑を浮かべていた。
「本当に元気そうで、安心したわ。カメラも続けているのね。やっぱり櫂の狙いは当たってた。貴方が元気になる方法」
近くの喫茶店に入り、向かい合って座った二人は、暫く珈琲を飲みながらお互いの近況を語った。
有人は特に自分から話さなかったが、佐与子は高校の職員室が荒らされた件を知っていた。佐与子も同じ高校の出身だ。卒業生から連絡が回ってきたという。
結局、問題になった小さなクマは理沙のものだと断定された。
中沼との戯れの果てに、偶然鍵が閉まっていなかった職員室に気付いた。共犯は中沼だった。その上、何人かが加わり職員室で興じたようだが、二人以外は他校生だった。
二人は一週間の謹慎処分となり、今では、学校で中沼を見ることはない。流れてくる噂では、荒れて悪ぶった仲間と夜な夜な街を徘徊しているという。
理沙は、まるで有人のことなど知らない風で、毎日を淡々と送っていたが、以前のような派手さはない。次第に欠席することが増えてきた。
佐与子は変わらず大学生だ。学業とバイトをしながら、色々と資格を取りに行っているという。何か就職に役立てばいいのだけれど、と佐与子は自嘲気味に笑った。
「佐与子さん・・・、櫂さんとは別れたって聞いています。本当に良かったんですか」
深い理由は聞いていない。櫂は佐与子とのことを、嫌いで別れたわけではないと言っていた。ならば、佐与子はどうなのだろう。
佐与子は、窓の外を行き交う人をぼんやりと眺めた。
「辻くんだって、軽蔑するわよね。私は、櫂に嫌われて当然なのよ。でも、・・・もう耐えられなかった」
佐与子の瞳から涙が零れて手元に落ちた。
「私は、自分が許せないのよ。櫂の傍にいたい。でも櫂は、柚ちゃんのことばかり。今年一杯もたないって言われてる柚ちゃんの傍にいたい気持ちはわかるわ。その為に休学して、それが大切な事だって分かってる」
有人は一瞬、自分の耳を疑った。今・・・佐与子は、なんと言った?
「邪魔しちゃいけないって・・・。でも、心のどこかで囁いてるの、柚ちゃんさえいなければって・・・あの子さえいなければ、櫂の傍には私がいられるって・・・」
「佐与子さん・・・」
「それがどういう意味なのか、考えてみて。私は、柚ちゃんが死んでしまうことを望んでいるのよ。こんな恐ろしい感情が自分の中にあるなんて・・・耐えられない」
「佐与子さん・・・」
「こんな気持ちで、櫂の傍にはいられない」
「佐与子さん、お願いです。今、なんて言ったんです。坂上が・・・今年一杯って・・・」
茫然と一点を凝視した。
毎日送られてくる柚からのメールを思い出した。ただ一言、短い文字で書かれた一文。
佐与子の声だけに集中して、有人は自分の聞き間違いを正そうとした。だが、その想いは無残に打ち砕かれた。
柚の余命がいくばくもないという話は、かなり以前に聞いていたという。
では、今は・・・。
有人は佐与子の制止も聞かず、喫茶店を飛び出した。
今、柚は・・・。
ただ真っすぐ有人は走った。足のことなど、すれ違う人の波など、振り返る視線などどうでもいい。早く――、早く、病院へ――柚の元へ行かなければ。
息を切らして病院の門をくぐると、有人は立ち止まり、振り仰いだ。いつも柚が座っていた窓辺。その窓辺に柚が見える。櫂が横で支えているのが分かった。
有人が手を振ると、ゆっくりとではあるが振り返してくれた。嬉しかった。
良かった、生きている。
勇んで駆け込み、エレベーターを待っていられず階段を駆け上った。
柚がいる。
その階の廊下へ出た瞬間――、空気は凍った。
遠く、人が集まっている病室がある。通いなれた個室。顔を出すと、必ず笑顔が返ってきた場所。その部屋から、すすり泣きが聞こえる。
悪夢か・・・。
「さっき、手を振ってくれたんじゃ・・・」
ベッドの上に横たわる柚の傍で、櫂が寄り添い見つめていた。笑っているかのような穏やかな柚の指先はピクリとも動かず、その鼓動はもう二度と打たなかった。
「柚に頼まれて俺が支えてた。でも、最後にお前の姿を見て、本当に幸せそうな顔をしていたよ。さようならも言わないで逝ってしまった」
小さな手に握り締められた小さなウサギ。有人が贈ってからずっと、肌身離さず持っていたという。
柚は、有人の記憶に残るよりも、尚一層細くなっている。ただ、その表情は、変わらず穏やかだ。
両親だろう。細い身体を抱き締めて、ひたすらに嘆き悲しんでいる。その周りを、担当医や看護師などが悲痛な表情で立ち尽くす。
有人の右足が力を失くし、バランスを崩して壁に倒れ込んだ。櫂が支えて廊下へ出た。
「毎日送ってくれていたメールは・・・」
櫂に縋り付くようにして呻く有人に、目を閉じて静かに答える声が震えた。
「俺が、柚に代わって送っていた。あいつはもう、メールを打つ力もなかったんだ」
「どうして・・・、どうして教えてくれなかったんですか。櫂さん。俺は、坂上に疎まれてたんですか。俺は、彼女に会いに来ちゃいけなかったんですか」
低く怒気を含んだ声が、冷めた答えに一蹴される。
「・・・お前は、妹の何を見ていたんだ」
虚ろに響く言葉が、有人の耳元にあった。
櫂の言う意味は分かっているつもりだった。
しかし、現実を受け入れることができない。
櫂の肩に額を乗せる形で俯きながらも、泣くことさえできず、自分の胸で打つ鼓動にさえ嫌悪を覚える。
「こんな想いをするなら、俺がいなければ良かった。俺が死にたい・・・」
掠れた叫びを押し留めるように、櫂は有人の頭を抱えるようにして引き寄せた。
「頼むよ、お前。そんな悲しいことを言うな。妹がどれほどお前のことを心配していたか――」
いつか有人がもどかしい右足の話をしていた時、柚が呟いた言葉「私が代われればいいのに」
「妹は、お前の心配ばかりしていた。バレー部のエースだったお前を、怪我をしたお前を――いつだって、お前のことだけ見ていたんだ。自分の命の長さを知らされてからも、ずっと――」
だから、頼む。お前は元気でいてくれ。空っぽなお前に戻るな。
せめて・・・。
有人の頭を肩口に抱え、繰り返す声が狂おしい。
「辻・・・、妹は、お前にだけは、痩せてやつれた自分を見せたくないと言っていた。毎日、学校が終わる時間になると、お前を待っていた頃のように窓辺に座って外を眺めながら、それでもお前を呼ぶことだけは拒んだ。俺は、あいつが嫌がることはしたくなかったんだ」
有人が贈った小さなウサギが、唯一柚の支えとなった。寄り添ってキラキラと光る二つのペンダントをずっと眺めて過ごした。
確かに有人へのメールは櫂が代わりに送っていたが、その言葉は紛れもなく柚のもので、有人からくる一日一回のメールを何よりも楽しみにしていた。
だが、それが今の有人にどれほどの救いになるのか、櫂には分からない。有人自身にもわからなかった。
すまなかったと、櫂は小さく何度も何度も謝った。
どれ程言葉を重ねても、もう柚はいない。
茫然と病院を後にする有人に、駆けつけた河原忍がすべてを察して立ち止まった。
「柚が、逝ったのね・・・」
「あぁ・・・。河原は、こうなることを知ってたんだな」
訊くとも訊かないともとれない吐露を、忍は無視して携帯を取り出し何か操作をしている。いつもの素っ気ない、平然とした表情で、一心に手元を見ている。
空虚の先に沸き起こる怒りを有人が忍に向けた瞬間、有人の携帯が鳴った。
「河原――」
「気付いても良かったでしょ。どうして櫂さんが休学したのか。いつまでも退院できない柚が、どういう病気なのか。一度でも考えたことがあるの、貴方。ほら、携帯が鳴ってるわよ」
「どうでもいいだろ、携帯なんて」
「見なさい。メールを」
「河原・・・こんな時に・・・」
「柚から頼まれてたのよ。だから、見なさい」
怒気を含む答えは、震えていた。
有人の携帯に、一本のメールが届いていた。差出人を確認すると、柚のメールが転送されている。
本文には「さようなら」とだけあった。
添付されている写真を見て、有人は傍の忍を見た。
それは、柚と一緒に学校へ行った時、おそらく忍に隠し撮りされた写真。制服を着た柚と有人が向かい合って写っていた。
真っすぐに有人を見つめる柚の横顔は、別れの言葉とは裏腹に切なくて温かい。
この数ヶ月、誰よりも傍で見ていた瞳が、確かにそこにあった。そして、この心地よさは、もっと以前から知っている。いや・・・気付いていなかっただけだ。
「もし・・・、もしもあの日、俺と一緒に学校なんかへ行かなければ、坂上はもっと生きて――」
「やめなさい、そんな風に考えるのは」
忍は真っすぐ有人を見上げて、その言葉を遮った。
「柚は、貴方と出掛けることを本当に楽しみにしていたわ。最初で最後だって知っていた。学校で私と別れてから何があったのか、あの子は決して言わなかった。あれから急激に悪くなって――、それでもあの子は貴方と一緒にいた時間を本当に大切にしていたわ。そんなあの子の気持ちを蔑ろにするような言葉は許さないわよ」
いつもの冷たい態度の忍が、そこにいた。真っすぐ有人を見据え、何かに立ちはだかるように強く感情を弾き返してくる。
「河原が、何故俺を疎んじてるのか、やっとわかったよ」
有人は忍の想いを正面に受け止めた。
「俺は、河原が言った通り馬鹿だったんだ。何も見てはいなかった。そして俺を敵視する程、それ程に、坂上を大切に守ってたんだな」
柚の気持ちも、現実も、まるで理解していなかった自分自身。
肯定されると思っていた。短く罵倒されると思っていた。
だが、違った。
忍は見開いた瞳で、柚がいつも座っていた窓辺を仰ぎ見ながら否定した。
「いいえ。私が柚を守っていたんじゃないわ。私が柚に守られていたのよ」
柚は小さな頃から身体が弱かった。でも、誰よりも強かった。
柚が傍にいれば、どんな辛いことも軽くなった。楽しかった。柚が笑ってくれてさえいれば、なんでも上手くいった。小さな頃から、ともすれば誰かと諍いを起こしてしまう忍の傍で、笑って繋ぎとめてくれていたのは柚だった。
「あの子が望むことなら、どんなことだってしてあげたかった。だから、辻くんと一緒にいる時間は決して邪魔しないって決めてた。でも・・・もう起き上がることもできなくなって、そんな姿を貴方に見せたくないからって・・・」
「・・・・・・」
「あの子が言葉でどれほど貴方を遠ざけようとしても、本当は・・・本当は誰より傍にいたいと思ってたか・・・。私はそれを知っていながら、柚が貴方を好きな分、私は貴方が大嫌いで、柚の気持ちにまったく気付かない貴方を嫌悪することしかしなかった。私は・・・馬鹿よ――」
気丈に堪えていた涙が、溢れた。吐き出すように、苦鳴を上げた。
「自分の邪まな感情なんかに囚われず、ウソでもなんでもつけばよかった。どんなに柚に怒られても嫌われても――、ずっと大好きであんなに傍にいたがっていた貴方を呼べばよかった。貴方を引き摺ってでも連れて来ていればよかった。どんな姿になっても、辻くんが傍にいればきっと柚は笑ってくれた。それが分かっていながら、私は・・・」
有人は、泣き崩れる忍の傍に立って振り仰いだ。いなくなってしまった影を追うように・・・。だが、目を凝らしても、もう誰もいない。
どれほどの人が、怪訝な表情で通り過ぎても、何も感じない。
右足は何事もないように、有人を支えていた。
忍は少し落ち着くと、有人のカメラに下がっているウサギに触れた。有人に託された柚のウサギ。
「柚は、貴方の傍にいられて幸せだって言ってた」
たとえ想いを伝えられなくても、気付かれることがなくても、幸せだったと言っていた。
「・・・」
「この子、大事にしてくれるのよね」
愛おしそうにウサギの頭を撫でる忍の向こうに、柚の笑顔があった。
このウサギがへたって可愛くないと言った柚。ハンドタオルを押し込んで、丸く太ったウサギに満足して笑った柚が、そこにいた。
「あぁ」
短くそう頷いた有人を、真っすぐ見返す忍の瞳は、涙に濡れながらも優しく温かい。
立ち去り際、忍は小さく小さく呟いた。
「ありがとう」
その背中を見送って、尚、有人は動くことはできなかった。
忍が撫でたウサギの中から、ピンクのTシャツを着て青いリボンを首に結んだ小さなクマを取り出した。背中を繕い、青いリボンを一生懸命結んでいた横顔が忘れられず、捨てられない小さなクマ。
確かに一緒に過ごした時間があった。触れるほど傍にいたはずだった。
こうして両手に握り締めていても生きている実感はない。時間が戻ることはない。
どれほど後悔しようと、自分自身を責めようと、どうすることもできないならどうすればいい。
有人は天に向かい、目を閉じた。
「柚、俺は、ずっと傍にいられると思っていたよ」
こんな別れがあるのだと気付きもせず、ただもう一度会える日が来ると思って待っていただけの自分を厭うしかなかった。
完
愚者の烙印