硝子の視界

「小説家になろう」時代。

「帝都の高官は貴女に処刑を望んでいない」
 その報せに、彼女は目を眇めた。意外というより、不可解だと言いたげだった。
 何故、という声なき反駁に思わず目を逸らした。
「処刑以上を、望んでいる」
「――……」
 暫く、部屋は静寂の独壇場だった。
 互いに顔を合わせず、双方に一つずつしかない扉を守る警吏でさえ沈黙を守った。
 だからこそ、些細な衣擦れの音でさえ拾うことが出来たのだろう。
 微かに身動ぎした彼女は、「そう、」と目を伏せた。
「そうなの」
 白い指先が、彼女自身の腕を寒そうに抱く。幾ら上等でも、絹地一枚では寒すぎるだろう。
 ただでさえ、満足な栄養を摂取できずに半年を過ごしているのだ。
「きっとこれが最後だ」
 そう思うと、どこか急かされるような気持ちで言葉を紡いでいた。
「何か欲しいものはあるか。今なら――」
 隠されていた翡翠色の瞳が、硝子の向こうから見据えてきた。
 ぞくりと背筋を怖気が走る。
 何を要求されるのか、『狩られる側』に一瞬で理解させる眼差しをしていた。
 ――所詮は違うイキモノ同士、と頭の中で誰かが嘲笑う。
 その冷笑に重ねて、彼女は掠れた声で囁いた。
「……じゃあ、本当にくださる?」
 厚い唇だけが、別の生き物のように艶かしく動く。
「――あ」
 何を、と訊くことさえ躊躇い、それでも彼女は答えをくれた。
「貴方の、生き血を全て。私にくださる?」



 いい匂いがしますね、という第一声。
 彼女は翡翠色の瞳を瞬かせ、ひどく驚いたようだった。
 それは当然の反応だろう。初対面の男にそんなことを言われれば誰でも気味が悪い。
「匂い、ですか」
「……失礼。これは、少々あけすけだった」
 呆気に取られた表情に罪悪感ばかりが湧き上がって、素直に頭を下げた。
 少しの間があって、ふす、と空気の抜けるような音。
 笑われたのだ、と気付くのが難しい笑い声だった。
「え、あ」
 どこに笑われる素養があったのか、と首を傾げていると彼女は、
「変な方。今、ご自分がどういう状況かお分かりですの?」
 と笑いを含んだ言葉を投げかけてきた。
「どういう、って……」
 顔を上げて、また彼女の翡翠色を見つめる。
 彼女は悪戯をする子供のような瞳の輝きで小首を傾げた。
「貴方、帝都を騒がせた大量殺人鬼を前にしていらっしゃるのよ」
「……それは、もう」
 重々承知、と口の中でもごもごと転がしてから、ふと思いついて懐から銀の打火机(ライター)を取り出した。
 何事か、と身構える彼女の前で、何度か火を点けようと試す。
 それらは全て失敗して、怪訝そうな表情の彼女に微笑で説明した。
「帝都では夜な夜な人の生き血を啜る悪鬼羅刹の類に違いないと評判だったから。恐ろしさで火を点けることがままならないほど指先が震えているんだ」
「――……」
 やや呆気に取られたような顔をしてから、唐突に顔を伏せた彼女はまた、空気の抜けるような笑い声を発した。
「ふ、ふっ……だから血の匂いがするとでもお思いだったのかしら。でしたら、ごめんあそばせ。淑女は身だしなみに手を抜きませんの」
「そういうものなのか」
「ええ。政府の若手官僚と伺いましたけれど、そちらの方もお勉強なさった方がよろしくてよ」
「参考にさせてもらおう」
「まずは禁煙からですわね。淑女の前で喫煙など言語道断でしてよ」
「そうか」
 答えながら打火机を懐に戻す。一緒に入っていた葉巻は暫く日の目を見ないことになりそうだった。

 初対面の印象は、およそ殺人鬼に抱くものではなかったと思う。
 細くて、白くて、人を食ったような物言いに反して、芯は一本通った女傑のようで。
 そして硝子越しでも微かに漂った百合の香りが、やけに脳裏に強く刻まれた。



「――冗談ですわ」
「……え」
 思いのほか穏やかな声音に彼女の顔を見つめると、能面のような美貌と対面することになった。
 世にも不思議な話だが、その能面は優しい声色で続ける。
 それがかえって不気味だった。
「貴方の生き血でなくても、もう私は何も欲していませんわ。与えられるのは性に合いませんし、それに」
 言葉の途中で、「もう時間だ」と警吏が立ち上がった。
 無遠慮に彼女の肩を掴んで立たせる。
「おい、ちょっと待て。まだ時間は残って」
「――様、前にも申し上げましたでしょう」
 踵を返しながら、彼女が肩越しに振り向く。
 能面の奥で、翡翠色が微笑んでいた。
「喫煙するような殿方の血は燃費が悪くて悪くて……とても口に合いませんの。ごめんあそばせ」
「――――」
 声を上げる暇も与えず、彼女の背中は扉の向こうに消える。
 血に飢え渇いた美しい鬼は、二度とそれを与えられない世界へと消えた。
「……最後まで、舐めくさって」
 きつく握った拳で硝子を力任せに殴る。皹こそ入らなかったが、部屋全体を揺らすようなけたたましい音を立てた。
 その代償に剥けた皮から赤々とした血が滴って、背後に控えていた警吏が慌てたように部屋を出て行った。
 一人で部屋に残され、呟きが中空を漂う。
「どこぞの女に言われて以来ずっと禁煙中だ、阿呆」
 最後には本当にくれてやるつもりだったものを。
 極刑を前にした最後の逢瀬を、そうして締めくくるつもりだったものを。
「――酷い、女だ」
 ぼたり、と木の机に染みを作ったものが何であったか、濁った視界では判然としなかった。

硝子の視界

硝子の視界

帝都の夜を騒がせた美しい鬼と、生き血と、人間の男。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-07-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted