兄の空白

「小説家になろう」時代。

『五月十五日、空になる。』
 最愛の兄が遺した日記は、そう締めくくられていた。正直な感想を洩らせば、全くもって頭が沸いているとしか思えない。
 もともと浮世離れした人だった。生来のぼんやりとした気質は、成人してからも変わらなかったし、口を開いたと思えば、常人には理解しがたい考えを饒舌に語り尽くす。
 やれ、道路の真ん中にチョコレートの山を置いてみたらどうだろう、だとか。
 やれ、ビール瓶を割らずに、『折って』みよう、だとか。
 親族の自分でさえ幾度となく背筋の寒くなる言動をする兄だった、学生時代も就職してからも、彼を真に理解した人間などいないのではないだろうか。
 私は兄を愛していたけれど、きっと彼を理解できたことは一度もなかった。
「裕美、まだ仏壇のお掃除終わってないの?」
 居間から投げられた母の声に、私は「あとちょっと」とおざなりに返す。とっくに掃除は終わっていたが、まだしばらく、兄との時間を邪魔されたくなかった。
 遺影の木枠に閉じ込められた、兄の笑顔。確か、大学受験の二浪が決まってしまった日の夜に撮った写真だっただろうか。今や仲良く仏壇で肩を並べる父が、あんなに温和だった父が珍しく不機嫌だったにも関わらず、兄は終始笑顔だった。
「やあ、また失敗した」
 暢気に言ったものだから、確か、一発殴られていた。そう、だから写真を撮ったのだ。兄にせがまれて、私がシャッターを押した。
「腫れるかな」
「今すぐ冷やせば目立たないと思うけど」
「じゃあ、やめておこう」
「どうして」
「大きくなると、ちょっと嬉しいだろう」
 その不可解な兄の言葉に、私は何と返したのだったか。そう、か、気持ち悪い、か。
 何にしろ、兄がそれで気分を害したという記憶は残っていない。からからと、場違いな笑い声だけが耳にこびりついている。
 不思議な人だった。何の特徴もない顔をしていたくせに、声や言葉はやけに耳と記憶に刻み付けられている。もう四年。四年経ったというのにだ。
「正しくは、五月十六日だ」
 遺影の位置を直しながら、私は兄に語りかける。私が彼に口を利くのは、実に七年ぶりになる。
「貴方が死んだのは、十六日だったよ、兄さん」
 雨のひどい夜だった。
 歩道橋の壊れた手すりにもたれて、そのまま往来の激しい道路に投げ出された兄は、予言のような一行だけの日記を遺して、故人になってしまった。
 ろくに空も見えないような天気だっただろうな、とその夜に想いを馳せてみる。しかし、夜の雨に濡れた路面や、そこに反射する車のヘッドライトたちは、さぞ幻想的だったに違いない。なるほどそれは確かに、満天の星空にも見えるのかもしれなかった。
 兄が落ちたのか、空が近づいたのか。その最期に見えたであろう景色を想像すると、少しばかり羨ましくもある。空に近付き過ぎた兄は、もはや空と一緒くたになっていたに違いない。
 そうして私は、美しい世界に包まれて死んでいった幸せな兄が、羨ましくなる。
「私も、貴方と同じ世界に生まれてみたかった」
 美しく、生きてみたかった。
 口の中で続けると、痺れを切らしたらしい母が和室に入ってきた。
「何だ、もう終わってるじゃないの」
「……まあ、ね」
「あんたずっとブツブツ言いながら掃除してたわよ。仏壇の前だと冗談にならないからやめてちょうだい」
「冗談って?」
「お兄ちゃんの幽霊と話してるのかと思っちゃうのよ」
「……まさか」
「裕美ってば、最近何だかお兄ちゃんに似てきたわよ。考え事も多いし、言ってることは難しいし」
「――……」
 似ている、と言われた時、私の胸の内を占めた感情は何と形容しようか。
 不快だ、光栄だ、不可解だ、喜ばしい、その他諸々。
 ただ、総括してみた時、今まで全く理解できなかった兄の言葉に、少なからず共感を覚える自分を見つけていた。記憶にしか残っていない兄の言葉や、声が、私の思考を塗りつぶしていっていた。
 結局、不愉快ではない。
 ただ、最後に残っていた私の兄への憧れが、ふっつりと終わりを告げた。

兄の空白

兄の空白

私は兄を敬愛してきましたが、もう限界のようです。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-10

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