生徒の記号
「小説家になろう」時代。
正しく幸せになるために、手始めに大学を辞めた。
生徒と教職の間を隔てる壁は厚く高く、確実に私たちの道の妨げになるだろう。
次いで、今住んでいる家を引き払った。
駅から徒歩二十分の安い賃貸アパート。
服も下着も、携帯も何もかも置き忘れて、通帳と財布だけポケットに突っ込んで出てくる。
鍵を大家の郵便受けに投げ込んで、軽くなった体で住宅街を駆け抜けた。
そしてこれが最後の仕上げだ。
「お待たせしました」
大きなマンションの一画。
出てきた彼は私を見るなり目を見開いて、それから私を玄関に招き入れると、その場で私を強く抱き締めた。
「……学校を辞めただろう」
耳元で囁く、私に問う声は震えていて、私は「はい」とだけ答えた。
「てっきり、私の前から、いなく――」
「そんなわけ、ないです」
彼の背中に手を回して、強く感触を確かめる。
そうでないと、私も自分で自分がどこかに飛んでいってしまうような不安に駆られる。
彼のそばでなければ、もう私は、どこでだって私ではいられない。
「先生がそばにいてくれるなら、もう何もいらないんです」
「……それは、早計だった。君は、若いだろう。いつ、私ではない男に惹かれるのか――恋も、成功も、等しく君の前に、可能性が広がっている」
「そんな意地悪言わないで」
手に力を込めて、それが最後だった。
「私、貴方の事を愛しています」
今はそれだけじゃダメなんですかと。
無邪気な生徒のように訊いて、それが最後。
「……ああ。私も、君を愛しているよ」
何よりも望んだ言葉を手に入れて、私はただ満足して瞼を閉じた。
生徒の記号