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「小説家になろう」時代。
「親しい人を失ったことがなかったんだ」
ひたりと手のひらで触れる硝子は冷たくて、君との明らかな隔絶を物語った。
「恋人が、手の届かない所にいる。もう、触れられないのだね。」
いやだ、としゃくり上げる君は、何度も硝子を拳で叩いた。ああ、そんな事をしては痛いだろうに。いや、痛いのだろうか。そんなもの、感じているのだろうか。その、あるかどうか判らない痛みに触れたかった訳ではないけれど、そっと硝子越しに君の手に触れた。
「苦しいのかい」
肯定。
「痛いのかい」
肯定。
「僕は、そうでもないよ」
――絶句。
信じられないものを見たように、君が目を見開いた。わななく唇を、衝動的に奪ってしまいたくなったけれど、それはもう叶わない。ただの一度も触れないままに、僕は死んでしまったから。だから代わりに、感謝を唇に乗せた。
「泣いてくれて、ありがとう。でも、僕は泣かないよ」
泣けないよ、と繰り返すと、君はゆるゆると首を横に振った。あんなに人に優しかった貴方なのに、あれほど人の痛みに敏感だった貴方なのに、と。
「だからなんだ。だから、自分の事は判らないんだ」
そう返すしかなくて、僕は硝子が温みを帯びた事に驚いた。こんな、夢のような場所で、そんなものが表れるとは思わなかった。じゃあ自分は死んでいないのだろうか。でもやっぱり死んでいるに違いない。いや、実はそこは特筆すべき事でもない。
「本当は、何も判っていなかったんだ。何で君や、他の連中が笑っているのかも、何故泣き出すのかも、嫌悪するのかも。それが、判らない。でも、きっとそれを言うと君たちはそのまなざしを今度は僕に向けるのだろうから、そしてそれが嫌だということはやけにはっきりしているから、だから必死になって君たちの顔を窺って、それで合わせていたのさ。そうして十何年、反射のように繰り返していたのさ」
気づいていなかっただろう? 気づかせていない自信があったよ、と僕は君に笑いかける。特に嬉しかった訳でも得意だった訳でもない。ただ笑う場面であるような気がしたから笑った。
「そう。だから今この場所で、僕が死んでいるのだとしたら。これが死ぬってことだとしたら、僕はとっくのとうに、死んでいたに違いない。硝子越しに、君の想いをわざわざ確認しなければ判らないような僕は、ずっと」
死んでいたに違いない。大きなトラックに撥ねられなくても、アスファルトに叩き付けられなくても、とっくの昔にだ。
「だから、君は泣かなくて良い。君の心に正直に、どうぞこのまま過去の死者には背を向けてほしい」
僕が愛していると思えた君だからこそ、どうかそうしてほしい。そう告げて君の目を見つめると、なぜか君の目に涙の山が盛り上がった。そして、それは何故なんだろうと呆ける僕の手を握って、目尻をつり上げた。怒っている。
――そんなの、とっくの昔に知ってたわ。こんな時に、言うような事じゃないのよ。
もっとロマンチックなお別れはないのと詰られて、僕はついつい頬を指で掻いた。
「そうか。お見通しだったのか」
それは気づかなかったよ、と謝る僕の頬を掻く指が、不意に湿った。それが僕の目から零れ落ちる涙のせいなのだと気づくのには少しだけ時間を要して、そしてその理由はやっぱり判らなくて、ああでも、君と今感情を共有しているのだろうかと想像すると、少しだけ心から笑えるような、君をもっと愛せるような、そんな気がした。
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