オリヲリ ヱスケゐプ
「小説家になろう」時代。
――どうして言えなかったのだろう。
――どんな檻を壊されても、燃やされても。
「では、また」
その一言だけで、とっくの昔に私の心はあなたに囚われてしまっていたというのに。
「巷では、義賊なんつうのが流行ってるらしいね」
ぷかり、と煙管の煙を吐き出すと、男は狐のような細い眦をきゅ、と上げた。笑っているらしい。
「そうでありんすか? 同心様には頭の痛い話じゃあ、ありんせんか」
「お、分かってるねえ。流石は天下の花魁様だ」
ぱちぱちと手を叩くと、この店で馴染みになりつつある男は、気安い距離で花魁の笑顔を覗き込んだ。
「また越後屋の旦那が吹き込んだかな?」
「さあ」
「……あんたは格別の別嬪さんだが、俺には冷たくていけないなあ」
「ご自分の財布と相談しておくれなんし」
すぱりと言われ、男は少し顔をしかめた。
「貧乏を押して逢いに来ているんだけどな」
「金がなけりゃ吉原通いなんてお止めになるのがよろしいかと」
「まったく、」
本当に冷たいなと嘯いて、男はごろりと花魁の膝に寝転んだ。
「もし、」
「これ位は良いだろう? まだ夜は長いんだからさ」
それから、「温かいな」と囁いて、男は目を閉じてしまう。仕方なく、花魁はその髪を梳くように撫でた。髷を結わない、変わった髪形のおかしな男。越後屋の腰巾着も同然に店を訪れてから、時折ふらりと現れては夜が明けるよりも早くに帰っていく。
「義賊が、俺のところにも現れたら良いのに」
人に慣れた動物のような穏やかな顔つきのまま、男は物騒なことを口にした。
「また、何をお言いになっているのやら」
「おや、本気だよ。そうしたら、さっさとあんたとの蜜月を楽しめるというものさ」
「……粋を分からないお人でありんすなあ」
「んん?」
ぱちりと目を開けた男の顔に、花魁はすっと顔を寄せた。鼻と鼻が触れるか否かという距離で、彼女は妖艶に微笑んで見せる。
「一度では顔も見られぬ、二、三度では言葉も交わせぬ。それから幾度も夜を重ねて初めて、女郎は男に肌を許す」
「――……」
「わっちらに近づくには、幾重もの檻を潜るだけの忍耐、そして豪気さが不可欠でありんすよ、旦那」
「参ったな」
その言葉の後に、男は花魁の頤に手を添えて意地の悪い笑みを浮かべた。
「そして幾夜を越えたところで、俺とあんたの間にはもっと分厚い檻があるんだろう?」
「あい」
「聞かせておくれよ、花魁」
男は、もはや唇が触れるかどうかの近さで、花魁に囁いた。
「越後屋に明日身請けされてしまうより先に――身も心も、俺のものになる気はあるかい?」
「……わっちは、」
花魁も、その距離を縮めようとも遠ざけようともせずに返した。
「吉原の遊女でありんす。身体だけならば、いくらでも差し上げんしょう。心は――」
言葉が途切れる。男の手に自分のそれを添えて、花魁は人を近づけまいとする笑みに、その表情をすり替えた。
「また、今度」
「……参った」
二度目の降参を吐いて、男は花魁から手を離す。それから素直に身体を起こすと、少し乱れた着物を整えて、煙管の灰を捨てた。
「俺の食い扶持は全部あんたとの酒代だけに消えちまう」
「高いのは当然でありんしょう。人を買うとは、そういう業にありんす」
「……らしいな」
男は花魁の首筋に顔を埋めると、「では、また」と囁いた。
お前の身請けが立ち消えになるかもしれない、と楼閣の楼主は髪の薄い頭を掻き毟った。それを、花魁はどこか遠い場所での出来事のように聞いていた。
越後屋に昨夜押し入った義賊が、その金を全て民衆にばら撒いてしまったのだと言う。夜闇に紛れた所行では、その金を全て回収することは難しいだろうと言う。
その義賊が、昨夜彼女を訪ねてきたあの同心だと言う。
捕まらないわけだ、と楼主は苦虫を噛み潰したような顔をした。同心が義賊などと、何とも笑えない冗談だ、と。けれども、花魁が聞きたいのはそんな冗談ではなかった。
「……あの人は、どうなったんでありんすか」
死ぬよ、とだけ。楼主は少しだけ気の毒そうな顔をした。
「いつになく金をばら撒くまでに掛かって、逃げるところを捕まえられた。もう奉行所で沙汰もあった。市中引廻しの後に、死罪だ」
「――……そうで、ありんすか」
それきり花魁は口を開かず、楼主も気を落とすなと慰めながら座敷を出て行った。だが、おそらくその慰めは身請けのなくなったことに対するものであって、およそ花魁の心に響くものではなかった。
格子模様の青空を仰ぎ、花魁は知らず知らずの内に拳を握っていた。今日には浴びるはずだった陽射しは、格子を通してしか彼女を暖めない。
そんな彼女を嗤うように、空を、大きな鳥が横切る。
――口吸いもしなかったし、抱かれもしなかった。
――それでも。
「連れて行かれるなら、貴方が良かったのに」
届くはずのない声。
狭い檻の中で鳴く以外に許されない鳥の、精一杯の声。
ぽつり、と。着物に染みる涙と同じように空気に溶けて消えたその呟きに答えるように。
外で烏がカアと、物寂しく鳴いた。
オリヲリ ヱスケゐプ