花の心根

「小説家になろう」時代。

「何だよこのババアッ!」
 昼間の電車内で、怒声が注目を集めた。
 顔を上げると、腰が可哀相なほどに曲がった老婆が、更にその腰を折って高校生らしい学生に謝っているところだった。
 対する高校生の顔は険悪で、こめかみをぴくつかせている。
 ヘッドホンをしていたのに、声が聞こえた。
 どれだけの大声を上げたというのだろう。
 そっとヘッドホンを外すと、より明瞭にやり取りが聞こえるようになった。
「ぶつかっといて、何だよその謝り方は!」
「すみません、本当に堪忍です」
「こっちは肋にモロにぶつかられてんだよ!」
「すみません、本当に――」
 ――殺すか、と。
 パーカーに突っ込んだ左手の中で、折りたたんだナイフを弄ぶ。
 今すぐ刺し殺せないのは腹立たしいが、電車を降りた後を尾行して、ドラマのようにテンプレートに、人通りの少ないトンネルかどこかで済ませよう。
 行きずりの殺しほど、割りに合わないものはない。
 隠蔽に手間はかかるし、ストレスもあるし、それに何よりあまり度を超すと、不良刑事にも怒られてしまうのだ。
 ――誤魔化しにくいだろうが、は無いと思うけどね。
 くすり、と以前のやり取りを思い出して笑いかけて、何とか抑えた。
 目の前の諍いが、意外というか予想通りというか、何ともいえない展開を見せていたからだ。
「金出せよ、ババア」
「はひっ……」
「慰謝料だよ、い、しゃ、りょ、う。分かるだろ? 大人なんだからさ」
 不良の言葉に、後ろにいた仲間と思しき高校生数人が忍び笑いをする。
 老婆は、かたかたと骨のような体をさらに震わせた。
 それを見かねたのか、どこからともなくスーツ姿の中年男が現れたのを見止めて、お、と思った。
「君たちやめなさい。電車の中だぞ」
「あ゛あ゛!?」
「ンだよ、おっさん。電車の中じゃなくって公園だったら良かったのかよ?」
「怪我させられるかもしれなかったんだぜ、オレ。慰謝料くらい大人の嗜みじゃねーの!?」
 ギャハアハ、と下品な笑い声が電車内を反響する。 
 左手が、くるりとナイフを回した。
 ――今でも良いかな。
 この点ばかりは、不良少年に言があった。
 ――非常識な行動に、場所は関係ない。
 学校の校舎裏でやって駄目なカツアゲは、賭博場でやっても駄目なものは駄目。
 とにかく駄目ったら駄目。
 そういう理由も何もないような理屈だけの教えが、常識なんていう皮を被って教育や躾の項目に付け足される。
 ――じゃあ、今殺しても良いかな。
 殺しちゃ駄目、何があっても駄目。
 だったら反省だけしておくから、今やろうが後でやろうが同じことじゃん、と。
 学の無い自分は思ったりするのだがいかがかな、と男性をちらりと窺った。そして案の定言葉に窮する様子の彼を見て、急速に心のどこかが冷めていった。
 ――ほら見ろよ。あんたも、あんたも、素敵なお題目を掲げて鼻高々で、そして踏みにじられてる。
 さて、とナイフの柄を握り込む。
 一度決めてしまえば実に簡単だ。一度殺してしまえば、次はもっと簡単だ。

 すっかり吸い付くように手に馴染んだナイフの刃を出そうとしたところで、それが妨害された。
『次は、――駅、――駅でございます――――』
「おいババア、着いちまっただろうがよ」
「諦めてさっさと出せや」
「おい君たち……」
 すっこんでろ、というやり取りの後に続く軽い小突き合い。あーあ、と席から立ち上がろうとしたところで、この間終始胸元を押さえていた老婆は、そのぎこちない仕草で歩き出そうとした。すかさず不良少年が首を曲げる。
「おいおいババアどこ逃げる気だよ?」
「にっ……逃げるんじゃないよ、降りるだけさ。降りて――お金を、払いますから」
 最後の方は囁き声にしか聞こえなかったが、耳ざとく聞き取った不良少年たちは高笑いをした。
「そりゃ最高だ! おい聞いたか? このババア慰謝料くれるんだってよ! さすが年寄りは話が分かるなあ!」
「あんたも見習えよ!」
 ばんばん、と少年の一人が呆けた男性の背を叩いたところで、電車のドアが開いた。
 おら歩けよ、と少年に小突き回されながら、老婆が降りていく背を追った。最後に背後を振り返ったときに、取り残された男性が汗を拭いているのが印象に残った。
 しかし今見るべきはそんな冴えないおじさんではなく、だ。

 前方をとぼとぼと歩く老婆と、居丈高にズボンの裾を引きずりながら連れ立って歩く少年たち。
「――あのー」
「あ゛あ゛?」
 控えめに声をかけただけで、鬼のような形相が一斉に振り返る。その時老婆の肩がぴくりとはねたのを見逃すことはなかった。
 出来るだけ穏便に、と情けない笑顔を貼り付けて続ける。
「あのですね、多分これから実にテンプレートにカツアゲなんかしちゃうと思うんですけど……やめた方が良いんじゃないですか」
「はあ? 誰だお前」
「孫か? 孫なのかよ?」
「いやいや、全然関係はないんですけど」
「おい待てよ、こいつ電車の中にいたぜ。このでけえヘッドホン覚えてる」
 ちっ、と舌打ちを何とかこらえた。ハイエナか、こいつら。
 すると、一人の少年が目の色を変えた。
「おいおい、俺これ欲しかった奴だよ」
「マジかよ。もらっちゃえば?」
「そうだよなあ。お前もさっきの見てたなら分かるだろ? 別に俺らが殴った訳でもねえのに婆さんの方から金払うって決めてくれたんだぜ?」
「もらえるもんはもらっとく主義なんだよ俺ら」
「何てったってゆとりなんでぇー」
 ギャハアハ、と続く笑い声。ヘッドホンで耳を塞ぎたくなる衝動を抑えて、にこりと笑顔を絶やさず言う。
「ついでにヘッドホンよこせや、って? そいつはお笑い種だね。あいにくこれ、俺が初めてのお給料で買った思い出の一品だったりするから、おいそれと人にはあげられないんだよね」
「はあ? 給料とか、昼間っから遊び歩いてるようなガキが何やってるんですかぁー?」
 ――むかちん、ときた。お前らが言うのかよ、くそがきどもが。
 その言葉を自分で抑える代わりに、目が据わってしまったらしい。意外というか笑えるというかだったのは、それを見て少年たちがたじろいだことだ。
「な、んだよ。何が――」
「殺人だよ」
「は?」
「俺の仕事。殺し屋さんやってんの」
 はは、と少年たちの口元が緩みかける。それを見越して、俺は左手からナイフを取り出した。
「あ、試す? 正直プロ意識高いからさ、別に目撃者とか気にしないよ俺」
「何だよ、バカじゃねえの――」
「目撃者も全員殺せば良い話だし」
 ひゅ、とナイフを素振りする。それだけで目に見えて少年たちが恐怖を顔に浮かべたのが滑稽だった。
「正直止めるだけのつもりだったんだけど予定変更しよっかな。俺、あんまり馬鹿にされててへらへらできるほどは大人じゃないんだよね」
 ガキでは、ないんだけど。
「お婆さん放置プレイで今すぐUターンダッシュ。そしたら見逃してあげるよ。そっから先は警察に通報しようが好きにして良い」
 さあ考えな、と俺はナイフをちらつかせた。
 ここで向かってくる馬鹿だったら無条件に死んでオッケー。無闇に親を悲しませるだけのイキモノなんて死んでくれて問題ないと思う。
 そして幸か不幸か、その辺り彼らは常識の範疇にあったらしい。
「覚えてろ」
 とありきたりな捨て台詞とは裏腹に、引きつった顔のまま全員がその場から逃げ出した。

「……ふうん、まあ及第点かな」
 ぱちん、とナイフの刃を仕舞う。
 すると老婆が深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
「えー……何がですか、俺何もしてないですよ」
「いえいえ……あの、何かお礼を」
「いらないですってー」
 へらへらと笑うと、老婆は分かりやすく困惑した顔になる。こういう善意に慣れていないのが丸分かりだった。
 ――まあ、善意でも無いんだけど。
 謝礼を要求する代わりに、と首を傾げた。
「にしても見事な手際でしたねー、お婆さんのスリ」
 さっ、と老婆の顔色が変わる。ぶるぶると手が震えて、さっき不良少年たちに囲まれたときよりも怯えが伝わってきた。
「あ、もしかして今の助太刀も余計なお世話だったりします? そりゃそーだよねー、あそこで派手に転んでおけばあわよくば逆に慰謝料ぶんどれたかもしれないんだし」
「な、にを……」
「白昼堂々電車の中で高校生に体当たりして財布スるって勇気入りません? そりゃまあ印象は強烈だから目撃証言も大盤振る舞いかもしれないけど、本気で危ないんじゃね…って、ああそうか、だからあの男の人が出てきたのか」
 そっかそっかー、と腕を組んで頷くと、老婆がばっと身を翻した。
「おっと逃がさない」
 その首根っこを掴むと、じたばたと暴れる。手に持ったハンドバッグが胴に当たって痛かった。
「つか重そうだねー、そのバッグ。やっぱあれですか? 最近の高校生の財布ってやたら長くてゴツいから重み増しちゃったりなんかして」
「離して! 離してください!」
「大丈夫ですよお婆さん落ち着いてくださいって。手離したら転んじゃいますから、ほら掴まって」
「一体何を……!」
 老婆の悲鳴を、白々しい演技でかき消す。パニクった老人をかいがいしくエスカレーターまで連れて行く様はただの好青年に映ってくれることだろう。
「こういう風にして怪我したフリするつもりでした? でも残念、そこそこ鍛えてるんでそうそう落としませんから」
 ぐいっ、と暴れる老婆のバッグに手を突っ込む。
「さっきのはおまけってことで。さすがに中年男性と現役男子高校生複数人だと分が悪かろうってことで首突っ込んじゃったんですけどね、ただあのままじゃあの子ら財布スられて訳分かんないガキに凄まれて、もう散々でしょ? だからまあ、これ位は返したげようと思いまして」
 良いですよね、と四つの長財布をバッグから引きずり出す。
「心配しないでねお婆さん、俺別に警察行くつもりとか無いから。行ったらお縄頂戴するの俺の方だし」
「……なんで邪魔をするの。こうしないと、息子を養えないのよ」
 途端に哀れっぽい声を出した老婆に、思わず目を瞬いた。
「息子って、さっきの男の人ですか?」
 こくり、と老婆が弱々しく頷く。そしてその背中を向けた方から、のろのろと誰かが歩いてくるのと目が合った。ばちん、と視線が合い、中年男性はぴたりと歩みを止める。
「……あー、あれですか。リストラとかで今や立派な親のすねかじり」
「年金しかないの! そうしたらもうこれに手を出すしかないって、息子が」
「……あ、そう、すかー――あー、何かマズッたなあ俺」
 手の中の財布を見下ろす。使い方も荒っぽくて、角が一様にすり切れた財布。そしてその持ち主である救いようのない馬鹿たち。
 すると迷いを見抜かれたのか、中年男性が鼻息も荒く詰め寄ってきた。
「よく考えてみてくれよ。あんな先の無さそうな馬鹿な子どもに持たせるには、お金というものは分不相応というものだ。だったら、生活に困った私たちが使う方がよっぽど金のためになると――」
「何それ」
 あまりにも面白い言い分を聞かされ、鼻から息が抜けるように笑ってしまった。
「それ社会の最底辺まっしぐらなおっさんが言っちゃう? 親のすねかじっといてスリまで唆して、それでも偉いのあんた」
「……君には分からないだろうな。大人には、働くことを奪われては何もできなくなるリスクがある」
「ねえよ。生きてんだろ」
 言葉尻が荒れて、思わず口を押さえた。
「……ごめん。でも、皆子どもだったんだから働く以外に何もできないわけはないんだよ。遊べるし恋もできるし、そして死ねる」
 分かる? と首を傾げて見せた。
「スリがおじさんの中で最大のマイブームだっていうのなら止めないけどさ。それ老い先短いおばーさんにやらせてんのはちょっとさ、駄目でしょ」
 よく考えてみな、と財布をパーカーに突っ込みながら老婆の手を離した。
「俺は親が仕事三昧の末に、勝手に仕事辞めて愛人のところに走っちゃったまま死んだっていう子を知ってるけどさ、あの子は今だって気高く美しいままさ。つまりはそういうことじゃないの」
 言い捨てたとき、老婆の肩が小刻みに震えていた。それをぎこちなく抱く息子を見届けてから、悠々とエスカレーターに乗って上階に連れていってもらう。

 ――そう、今だって美しいままだ。
 ――もう俺のこの汚れた手で抱くには、美しすぎるくらいに。

「すいません、これ落とし物みたいでホームにあったんですけど」
 一度に四つも財布を持ち込まれ、担当の駅員は目を白黒させていた。
 それが今日一番面白かった出来事だなと、赤く濡れてしまったナイフを拭きながら今日も口笛を吹く。
 マイブームは、口笛だ。

花の心根

花の心根

平日、昼間の電車内。トラブルは付き物だ。そこに職業も歳も関係ない。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-10

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