僕が僕でない幻想
「小説家になろう」時代。
取り立てて難しい話でも、珍しい話でもないから聞き流してほしい。
鏡の向こうにいる『私』は私ではなかったという、それだけの他愛のない話だから。
鏡の反射率に100%はない。どんなに頑張っても踏ん張っても、99.99%まで。かならずカンマの世界に小さな小さな、微小だけれど矮小とは言い切れない誤差が生じる。
だから何かという話なのだが、つまりは鏡に映る自分が本当に『自分』なのか――そういう話をしたいのだ。
目の前に佇む大きな姿見には、違わず自分の姿が現れている。冴えない髪型に憂鬱そうな面の皮を被って、さしたる特徴もない高校の制服に身を委ねきった矮小な自分の姿がだ。そんなものを長々と見つめる趣味は無いのだけれど、どうしてどうして今は目が離せない。
自分の首に青白い両手を回し、きつくきつく絞め上げる『自分』。それなのに自分自身は首を絞めるどころか、手を上げることすらしていない。
はてさていったい何が起きているのか。思考しては首を傾げる。鏡の中の『自分』は小首すら傾げずに絞め続ける。さらに首を傾げるほか無かった。
「君は私ではないね?」
「いやいや君自身だとも」
首を絞めている真っ最中だと言うのに、『私』は悠長に答えてみせた。開かれた口の中がやけに赤々としていて薄気味も悪い。
「いやいややっぱり違うね。実物と違うことをする鏡像なんて聞いたことがない」
私はその言葉を、それなりの確信を持って吐いたはずだった。吸うことも吐くことも覚束ない『私』を嗜めてその趣味の悪い自虐をやめさせるつもりだった。自分の自殺行為なんて、見ていて気分の良いものではなかったからだ。
それなのに、『私』は何故か吼えた。そう、吼えたと言うのがふさわしい。けれどあまりそれが続くものだから、もしかして笑っているのかと気づいた。
哄笑
微笑
大笑
爆笑。
毒々しい笑顔ばかりが『私』の顔を突然彩って、思わず一歩退いた。
「どうした何がおかしい」
「おかしいとも、おかしいともさ。どうしてそんなに無垢でお馬鹿なんだろうってね!」
耳を塞ぎたくなるような笑い声に、私は顔を顰めた。
「ひょっとして狂っているのかい」
「狂う? はははまたこれはよくできた冗談だ」
退いた私を今度は嘲弄して、『私』はぐいっと鏡に顔を寄せた。一生私が浮かべることのないような明るい笑顔で、それでも尚自分で自分の首を絞めながら顔を寄せた。
「いい加減にしろよ。見ていて気分が悪い」
「ほうほう、それが君の本音かい?」
「本音だって?」
すると今度は『私』は陶酔するような表情を浮かべて、自分の咽喉を掻き毟り始めた。がりがりと、音は聞こえないのに視覚に訴える。見るまに咽喉の皮膚が破けて、その爪を赤く染め始めた。
「やめろよ、気持ちが悪い」
「気持ちが悪い? 今更何を分かりきったことを言っているのだか」
笑止! と。
高笑いをしながら『私』は咽喉を掻き毟る。いずれその咆哮に血が混じり始めて、私はただ素直に不愉快だった。
やめろよ、やめろ、と繰り返すのに、『私』は謳うように叫ぶ。
「人の中身はいつだって気持ちが悪いだろうに! 今更何が気持ち悪いのか教えてほしいね! 『私』はただ、自分の中にそんな汚いものがあることが許せないだけなのだろう? だから私を『君』だなんて他人行儀に呼ぶのだろう?」
「――ああ、そうだよ。君を見ているのは不愉快で仕方が無いからね。即刻、やめたまえよ」
「断る。そうやってずっと私を見ていると良いよ。『私』の中にある私がいかにグロテスクなのかを思い知るといい」
「やめろ! やめろったら! お前は私じゃない! 私は私の中に、お前のような汚いものを許さない!」
私のそれは悲鳴だった。ただひたすらに、私の中身であると主張する『私』がおぞましくて恐ろしかった。私の中に得体の知れないものがいる、そんな恐怖に打ち震えた。
やめろ、と叫ぶのに呼応して『私』は呵呵大笑して咽喉を掻き毟り、絞め上げ、そのくせ目ばかりは私に寄越していた。
お前は私じゃない。
そう叫んで、私は泣き出した。
僕が僕でない幻想