コクハク

「小説家になろう」時代。同性愛や不倫に関する言及あり。

愛の告白

 大学に進学してすぐのことだった。

 生まれて初めて好きだと思えた女性は、大学のサークルの先輩だった。

 しかも、中学からの親友の姉。

 これ何てフラグ、とか思いながらも俺は彼女に夢中になった。



「というわけだから。お前協力しろよ」
「何で俺が……」
 大学構内の食堂。向かい合って座っている、俺の頼みの綱は心底嫌そうな顔をした。
 伸ばすがままで、目元を隠しかねない長さの前髪の奥で顰められた眉根が、奴の陰気さを増長する。
「もったいねえ! そんな顔をするな、もっとにっこりしろ!」
「何だ突然!気持ち悪りい!」
「もうちょっと、もうちょっと爽やかなら紗也子さんに見えないこともないから……!」
「やめろっつの!」
 また迷惑そうに目を眇めた俺の旧友、逢あいはコーヒーをまた啜る。いたってお行儀が良いが、俺としてはもっと親身に話を聞いてほしい。
「いいか逢、ちょっとよく考えろ。俺と紗也子さんが付き合い出したらお前、何が起きると思う?」
「何もねえよ、前提がありえねえんだから」
「考えろって! ――いいか? 俺がな、お前の、お義兄さんになるんだぜ?」
 一語一語を区切って強調すると、逢は舌打ちを返してきた。
「もう帰る」
「待てよー!」
 ぐいっ、と立ち上がりかけていた逢の華奢な手首を掴むと、奴は予想以上にぎょっとした表情になった。
 その顔を受けて、俺はぱっと手を離して振って見せた。
「何もしねえよ。そんなびくびくすんな」
「……信用ゼロ」
「あっ、ひっでえ!」
 言いながらも、逢はまた席に付く。良い奴だ。
「その優しさを、友の恋路を応援するベクトルに向ける気は無いかね」
「無えよ。そもそもうちの姉貴、理想高いからな」
 お前じゃ無理無理、と手を振られたが、そこでは俺は傷つかないぞ。
「そりゃあなー、あんだけ美人ならなー」
 分かりきっている話だからな。傷つかない。
 ただ脱力して、だらん、とテーブルに突っ伏すると、すす、と逢はソーサーを避けた。
「俺が何言ったって聞かねえよあの人。昔っから俺の方ばっか操縦されっぱなんだから」
「いいなー! あんな美女と一つ屋根の下! 俺だったら襲っちゃうね!」
「最低……」
「ぼそっと呟くなそこぉー。愛情ってのは若さに比例して暴走するもんだろが」
 言ってやると、また逢の眉根がぎゅっと寄った。
 これ以上は禁句だろう。
 でも実際、逢と長く付き合ってきて、こうして同じ大学に入るまで姉の存在を教えてもらえなかったというのは、つまりは『そういうこと』なんじゃないかと思う。
 俺が主義を曲げるほど好きになってしまう女性だから、その危惧もごもっともっちゃごもっともだと思うけど。
「あーんしんしなさーい。ちゃーんと、優しくエスコートしますから」
 ししし、と笑いながら言うと、ちらりと前髪の向こうから逢は俺をじろじろと眺めまわした。
「何だよ、照れるなー」
「……言っとくけど、姉貴の男遊び半端じゃねーぞ。今さらお前が何したってそうそう満足召されねーよ、ありゃ。俺は嘘は言わない」
「ナニする?」
「――……」
「いっで!」
 コーヒーを啜る逢に、無言でテーブルの下で脛を蹴り飛ばされた。容赦ない。けど負けない。
「まあ、これは本気の話、マジで紗也子さんに惚れちゃったんだよ俺は。こんなに好きになった女性は初めてだ」
「……そりゃ分かるよ」
「さっすが、話が早いぜ」
「でも手引きはしない」
「なーんでー!」
 だんっ、とテーブルを打ったら隣の席の人に睨まれた。すんません。
 しかし、俺の愛の暴走を止められる人はいないだろう。
 一応声は低めて、訊いた。
「なあ、マジで何で?」
「……今までもお前と同じようなこと言ってきた奴は多かったけどな。多分、お前も痛い目見て終わりだぞ。嘘じゃない」
「ええー?」
「お前じゃ無理だよ、多分」
「多分だろ? だったら可能性に賭けさせてくれよ!」
 少々自分でもしつこいなー、とは思っている。
 けれど、俺の紗也子さんに対する想いはホンモノだった。
 それを吟味するように、逢はじろじろと俺を眺める。その暗さがなければ、紗也子さんそっくりなのになー。
 やがて、逢は大きく息を吐いた。
「……分かったよ。ただ、どうなっても知らねーぞ」
「だいじょーぶだいじょーぶ。俺強い子だから」
「どんなトラウマ抱えても抗議は受け付けねーからな。そこだけ絶対だ。嘘は嫌いだぞ、俺は」
「分かってるって!」
 コーヒーを戻した逢の手を、俺はまたぎゅっと握った。
 ぎょっとする逢を尻目に、涙ぐむ演技で訴える。
「ありがとう、ありがとう親友! お前のことが大好きだ!」
「……お前が言うと怖い」
 何て失礼な奴だ。
 だけど、まじでありがとう。



 逢の仕事はとても速い。
 気が付けば、紗也子さんと話す機会が確実に増えていた。
「あっ、また一緒だ」
 くるり、と指先で茶髪を巻きながら、サークルの拠点となっている会議室で紗也子さんが笑った。二つ年上だからもう二十歳ハタチを越えているはずだけれども、ちょっと幼く見える感じがまたたまらなく可愛い。
 実際、頭の出来はちょっとおばかさんだ。
「佐藤くんと二人っきりとか、どきどきしちゃうなー」
「えっ、えっ?」
 案外手ごたえは良い。
 逢が危惧するほどの何かは本当に起きていない。これはひょっとしたらひょっとするんじゃないか、と俺としては胸の高鳴りが止められない。
「そっすか? それ言ったら、俺もっすよー」
「ええー? 嘘だよぉー」
「いやいや、紗也子さんみたいな超絶美人と一緒とか、呼吸に気ぃ遣っちゃいますから」
 ちょっとオーバーなくらいにリアクションを取ると、
「佐藤くんおもしろーい」
 と紗也子さんが手を打った。
 やりぃ、と内心ガッツポーズ。
 見てるか逢。今俺は、確実にお前にお義兄さんと呼ばれる日へと踏み出しているぞ。
「紗也子さん、お昼もう食いました?」
「ううん、まだぁー」
「じゃあどっか出ませんか。俺奢りますよ」
「えっ、良いの?」
「バイトの給料日明けなんで、任せてくださいっす」
「やーん、ラッキー」
 にっこり笑った紗也子さん、超可愛い。
 ちょっと作ってるんじゃねーのかな、っていうくらいの甘えっぷりがもう、こう、たまらん、って感じで。
「じゃ、行きますか」
 と会議室を紗也子さんと連れ立って出ると、角を曲がったところで逢とすれ違った。
「ちょっと飯行ってくるわ」
「そうか」
 軽く頷いた逢を感謝を込めて抱きしめたい衝動を抑えたところで、後ろから紗也子さんが逢に言った。
「逢、会議室に置いてきちゃったから、あたしの財布見といてー」
「うん」
 完全に俺頼みかよ、と一瞬背筋に冷たいものが伝った。
 しかし負けるものか。
 いつもより厚みのある財布を尻ポケットの上から確認して、俺は意気揚揚と大学を出たのだった。



 おいおい、超順調だぞ。
 逢を引きずり込んでのアタック開始から二週間。
 もう、紗也子さんは落ちる寸前と言っても良いだろう。
「佐藤くん、一緒にご飯いこーよ」
「えー、今日はもう奢れませんよー」
「良いよ良いよ、お姉さんが奢ったげるから」
「やりぃー」
 こんなやり取りが会議室では頻発する。
 周りのメンバーも、にやにやと俺たちを見守る構えだ。
 相変わらず逢はなかなか気が進んでいないような顔をしてはいるが、それがあいつの顔のデフォルトだ。内心では、さぞほっとしてくれていることだろう。
 きっと、俺が紗也子さんにこっぴどくフラれるよりは、綺麗にくっつくほうが、気持ちのおさまりが良いはずだ。
 そんなたかを括って、俺はある日とうとう、紗也子さんに誘いをかけた。
「紗也子さん、今度一緒に夜景の綺麗なレストランでも行きませんか」
「……なーにー、それ。お金あるのー?」
 喫茶店でそう切り出したときの紗也子さんの態度は芳しくなかったが、
「仕送り切り崩しますから。とびっきりのとこ、行きましょうよ」
 と押し切ると、ややあってから、
「……うん。連れてって」
 と微笑んだ。
 ああ、もう、たまらんっ!
「という訳だ。俺は順調だぞ」
「それは僥倖。良かったな」
「感情がこもってねえぞー、未来のお義兄さまにぃー」
「誰が呼ぶか、誰が」
 ははっ、と俺は笑いながら逢の頭をかいぐった。
「まあ見てろって。見事射止めてみせるからさ」
「……ああ」



 予約したレストランは、超高層ビルの最上階。夜景の一番見える席をリザーブした。
 もちろん財布には大打撃だが、大したことはない。
 駅前で待ち合わせした紗也子さんは、俺のお願いどおり、しっかりおめかししてきた。
「可愛いっすね! いやー、今日は日ごろに増して綺麗っすよ」
「ええー、ありがと。佐藤くんも、ばっちりだね」
「うす」
 お互いを互いが褒めちぎってから、連れ立ってビルを目指す。人通りの多い駅前で、人の視線が紗也子さんに集まるのが分かった。
 おい見てくれよ。俺の大好きな人の、とびきり綺麗な姿をさあ。
 鼻高々にビルにやって来て、スマートに彼女をエスコートする。その時膝が震えていたのは秘密だ。
 突然開ける形で現れた、一面の夜のパノラマに紗也子さんが吐息を洩らした。
「わあー……キレイ……」
「でしょ?」
 やっぱりここにして良かった、と俺も席に着く。
「紗也子さん、お酒飲みますか?」
「未成年の前で?」
「もうとっくに歓迎コンパで呑んでましたよ」
「じゃ、お言葉に甘えて」
 俺は真面目に、まあ情けなくもあるが、やたら高い水を注文する。
 やがて運ばれてきたグラスに白ワインを注いで、紗也子さんと乾杯した。
「キレイな夜景と紗也子さんに」
「ふふっ、お上手だね」
「本気ですよ」
 紗也子さんはあんまりお酒が強くない、らしい。すぐに顔も赤くなって、もとの肌が白いものだから、すごく酔っているように見えた。
「大丈夫っすか?」
「大丈夫、大丈夫。おいしいから呑み進めちゃうの」
「酔いのついでで暴露話しますか?」
「こんなレストランに来て?」
 くすくす、と紗也子さんは笑う。
 その笑い方が、普段の紗也子さんと一転してすごく色っぽくて、どきっとした。
 美味しい料理に、知的な会話。
 一通りを楽しんだところで、紗也子さんから思ってもいないプッシュをされた。
「あとで呑み直そうよ。そしたら暴露話しよ」
「俺は呑みませんよ、真面目な未成年なんで」
「またまた」
 微笑んだ紗也子さんは、その潤んだ瞳にどこか妖しい熱を宿しているようだった。



「紗也子さんと連絡が取れないんだよ」
 週明けの大学で逢に泣きつくと、逢はお馴染みのうんざり顔になった。
「お前と呑んだ翌日から海外旅行なんだよ。女友達とゆっくり、大学サボってな」
「なーんだあー……そっか、俺の携帯国際通話に対応してないんだ」
「そういうこと。嘘じゃない」
「分かってるよ」
「何だよ」
 無駄に絡まれた、と言わんばかりの逢の態度に、俺はぶうたれた。年に対してうんたらかんたら、というのは割愛。
「俺、てっきりドン引かれたんだと……」
「何をだよ?」
 上手くいった、って真夜中に逢に電話したほど上がっていた、一昨日の俺のハイテンションを言っているらしい。俺は、ふるふると首を横に振った。
「直後は、上手くいった気がしてたんだけどさ。ちょっと今からだと気になることが出てきたんだよな」
「だから何が……」
「俺、言っちゃったんだよ」
 それだけで、逢は察した顔をした。
「……マジか」
「ああ……。水だけ飲んでたはずなんだけどなー……」
「お前、二次会で行ったのどこっつったっけ」
「えっと……大学の裏のー」
「そこ、うちのOBが経営してるから、未成年の飲酒に緩いんだよ。おおかた、姉貴に篭絡されて酒出したんだろ」
「うえっ、まじで?」
「本当だ、嘘じゃない。まあ、絶対アウトだけどな。はぁ……酔いの勢いで暴露ったのお前の方じゃねーか」
「面目ない……」
 またあの夜を思い出して、俺は頭を抱えた。
「やっぱ引かれてたよなあ……」

「俺がゲイ、っていうの」

 そんな俺を見下ろして逢がため息を吐いた気配がした。



「俺ね、ゲイなんすよ」
「……え?」
 紗也子さんが、本気で驚いた顔をした。
 その反応が面白くて、俺はいししし、と笑った。何でだか水を飲んでいるだけなのに、いい気分になってきた。
 その気分に任せて、俺はにこにこと言った。
「生まれた時から生粋のね。女の子に一切興味なかったんす。ダチが女の子のパンツ捲ったりしてても、マジアホだなー、って。それよかプールで男とじゃれるほうがテンション上がります」
「……へえ」
「実際、彼氏? がいたこともあるんで。これマジもんすよ」
「――じゃあ、何でこうして今は、あたしと呑んでるの?」
「そりゃ、紗也子さんのことはガチで好きだからですよ」
 にこにこ、にこにこ。
 ああ、すごく良い気持ち。
「紗也子さんは、俺が生きてきて初めて好きになった女の人っす。ああ、これがマジもんの恋かー、って、一目惚れした日の夜なんか俺、号泣しましたもん」
「そんなに?」
「ええ。だから、逢に頼んでたくさん協力してもらって、今日こうして俺は紗也子さんと呑んでるわけだ。いや、俺は呑んでないな」
 にこにこ、にこにこ。
 紗也子さんも向かいの席でにこにこ。
「何か、そこまで言ってもらえると女冥利に尽きるっていうか。ありがたいなあ」
「そっすか。それは俺も嬉しいっすね。で、引きました?」
「え?」
「俺、この顔でしょ。そんなテライケメソー、ってほどでもないけど、そこそこ可愛い顔してる自覚はあるんす」
「まあ、それは思うけど。あたしも釣られたクチだからね」
「ね。ただまあ、こうして女っぽい顔だからか、やっぱホモっていうのはバレるときはバレるんすよー。その時にいなくなった男友だちも、女友だちもいっぱいなんで、まあ」
「うちの逢は?」
「逢は珍しいっすよ。一発で、あ、この一発って別にエロい意味じゃないすけど、一目見た瞬間に俺がホモだって分かったらしいっす」
 だからあいつは、俺がちょっと触るとマジでビビッた顔をする。
 そういう目で見られてるんじゃないか、って思ってんのかな。
「傷つくけど、まああれが一番正しい。だから逢は超親友。いぇーい」
 本当に、嘘を吐かないから、逢のことは超好きだ。
「……そう」
「まあ、誤解してほしくないんすけどね、紗也子さんはマジで好きですよ。そりゃ紗也子さんが男だったら俺の性癖的にはバッチシ、かもしんねっすけど……でも、紗也子さんが好きです。超、超、好き。主義ひん曲げるくらい好き」
「て、照れるなあー」
「で、聞いてもいいすか」
「ん?」
「紗也子さん、ゲイを彼氏にする気はありません?」
 ずばっ、と聞いたら、紗也子さんは苦笑した。
「言うなぁー」
「まあまあ、経験もそこそこなんで? 退屈はさせませんよー」
 わきわき、と変に指を動かしたらこら、とはたかれた。
「……でもまあ、ホモだからどう、っていうことはないかな」
「おっ……脈アリ?」
「あとは佐藤くんの男としての魅力しだい?」
「……誘いますねー」
「経験豊かなのはこっちもだからね」
 逢から聞いてるでしょ、と訊かれ、頷いた。
 ああ、でも駄目だ。だんだん体から力が抜けてくる。何だこりゃ、酔ってるみたいだ。この場の空気に酔っちゃってんのかな。
「じゃ、俺ちょっとは自惚れてもいいんすかね」
「ん?」
「紗也子さんをきっかけに、俺――」

「変わるかもしれない、なんつって」

 その時は、あなたは俺の女神だよ。
 囁くような俺の真意は、もしかしたら寝息に紛れて彼女には届かなかったのかもしれない。



「微妙だなぁー……」
 結局寝オチで、気が付いたら大学の会議室で雑魚寝していた。
 サークルの作業で泊まりこんでいた逢の証言では、へべれけになって半分紗也子さんに担がれながら会議室にたどり着いたらしい。情けない。
「なあ、紗也子さん何か言ってたかー?」
「だから俺が知るかよ……もう帰る」
「えっ、ちょっともうちょい聞いてよ」
「断る。明日は休みで、今日は姉貴もいねえし、のびのび過ごせる夜なんだよ」
「何だ、女を連れ込むのか!」
「だからお前のそういうノリが嫌いだ! 中坊かっつの!」
 毒づきながら、今回ばかりはさっさと逢は帰ってしまう。一気に暇だ。
「――だけど、まあ」
 これは俺がお前のお義兄さんになるのも、あながち夢物語じゃねーかもよ? と思うと、しししし、とまた笑いが歯の間から洩れた。



『姉貴が死んだ』
「……は?」
 珍しくかかってきた逢からの電話の向こうで、雨の音がしていた。
 土曜日だってのに、ついてない。
 この上そんな冗談を訊かされてもなあ。
『嘘じゃねえよ』
「……おい、ふざけんな」
『俺は嘘を吐かない』
「――ッ!」
 聞き飽きた逢の口癖を、今日ほど呪った日はない。
 逢が言うなら、本当だ。
 それが俺の自慢なのだから。
「……どうして、って聞いてもいいか」
『――事故だ。旅行に行く途中の電車待ちで、ホームから押し出された。そこに電車が……』
「――……ッ」
 言葉を失った俺に、今言っても仕方のないことだけどな、と逢は続けた。
『ちょっと酔いが残ってたらしくって、足取りは危うかったらしい。ただ、女友達と合流する以前の話だから、目撃証言が少ないらしいんだ』
 らしい、らしい、らしい。
 確証の少ない逢の言葉は、全部違う世界の話みたいだ。
 けれど、逢が言うんだから全部本当。
『……大丈夫か』
「――ぶっちゃけ大丈夫じゃない……でも、お前が聞くのは違うだろ……」
 お姉さんが死んで、一番辛いのは誰だ。お前だろう、逢。
『俺はいい。最後に酔ってる姉さんを見送ったのは俺なんだから、俺はそれを止めなかった俺自身を責めていい。けど』
 お前は、お前を責めなくていい。
 電話口で優しく言われて、俺は思わず怒鳴った。
「んな訳ねーだろ! 俺が紗也子さんを誘ったから、身の程知らずに女に手を出したから! だから、だから……!」
『それこそ、そんな訳ないだろ。お前は所詮他人なんだから。赤の他人の死に責任を負う必要なんてない』
「他人って……」
『違うのか?』
 逢の言葉は、全部優しい。
 そうだ。結局俺は一人で気取ってただけで、紗也子さんの彼氏でもなければ、もちろん逢の義兄でもない。
 それが、どうしてだか、紗也子さんの死を悼んではいけないと言われている気分だった。
 もちろん違う。全部逢の優しさだ。ちくしょう、こんな時にデレんじゃねえよ。最悪。
「……葬式は」
『分かんねえよ。うちはどっちも親死んでるし――こんな早くに葬式挙げる金なんて、正直――』
 じゃあ、紗也子さんはひっそりと焼かれて死ぬのか。
 俺の心を読んだように、逢は続けた。
『残酷な話だけど、姉貴の体はほとんど残ってないんだよ。……燃やすまでもないかもしれない』
「あ、ああ……そうか……」
 電車のスピードはそういうものだ。いくらホームに入る寸前の列車と言ったところで。
 俺の脳裏で、足腰の立たない紗也子さんが、朦朧とした、夢見るような表情で線路の上をよたよたと立ち往生する姿が想像された。
 そうだ、彼女が酒に強くないことは分かっていたじゃないか。
 なのに何で俺は――。
 また、ぐるぐると自分を責めてしまう。
 駄目だ、これじゃ駄目だ。
 一人じゃ、ずっと同じループにはまってしまう。
「ごめん……逢……ごめん……」
『だから謝るなって……』
「いや……無理なんだよ……俺、やっぱり……」
 ああ、逢がよっぽど苦労しているのにな、俺はどうして泣いているんだろう。
 きっと逢はもっと辛い。
 そういえば、列車を止めかねない事故が起きたときには、それによって発生する損害が遺族に請求されるんじゃなかったか。
 俺にも助けてやれることはないのか。
 駄目だ、今の俺の財布は空っぽだ。
 あの高いビルで食事をしたからだ。誰と? 紗也子さんと――。
『おい、聞いてるか?』
「あ……いや、ごめん。聞いてなかった――」
『いいよ、別に……。俺もお前も、今は混乱してるんだ。どうしようもないな』
 しばらく大学を休むかも、と逢に言われ、俺はのろのろと頷いた。電話だから、それが見えたはずもないけれど、逢はそのまま分かった風に電話を切った。
 だらり、と携帯を持った腕が垂れ下がる。
 俺も大学休もうかな。
 こんな失恋の形って無い。最悪だ。
 脳裏に蘇る紗也子さんの笑顔、笑顔、笑顔。最後に呑んだ時は、突然色っぽくてどきどきしたんだった。
 こんなに、何かに突き刺されたような胸の痛みを、どうすれば――。
 そう思って、その場で壁に背を預けて座りこんだときだった。
「……え?」
 突き刺されたような胸の痛み。
 こんな詩的でリアルな形容を使うほど――本当に俺の心は痛んでいるのだろうか?
 まだ、突発的な知り合いの死に思考はぐるぐるしたままだ。その延長で、取りとめの無いことをぐだぐだ考えているだけだ。
 そう自分に言い聞かせながら、何か言いようのない不安が喉元からせり上がってきた。
「……俺、何が怖いんだっけ?」
 知人が死んでしまったことが? 二度と紗也子さんに会うことはできないことが? いや、本当に二度と紗也子さんに会えないのか?
「会えないに決まってんだろ……死んでるんだから」
 逢は嘘を言わない。
 紗也子さんは死んだ。
 俺の初めての恋は終わった。
「――本当に、終わった……?」
 ここだ、ここで引っかかる。どうしてだ? 何が引っかかった?
 紗也子さんに会えない。それを逢が悲しんでいて、それで、俺は――。
「……紗也子さんに会えないことは、そこまで……悲しくない?」
 自分で言って、頭を殴られた気分だった。
 言わなきゃよかった。何て最低なこと口走ったんだ俺は。
 でももっと最低なのは、それが『マジ』っぽい、って辺りだ。
「……おいおいおい、嘘だろ――一目惚れだぞ、生粋のゲイが初めての異性愛だぞ……」
 自虐的に言っても、一度言ってしまった『事実』は覆らない。
 俺は、紗也子さんの死を悼んでいない。
 さっきの電話で、逢が一貫して俺に言外に言っていたのは何だ?
『お前は、お前に責任を感じなくていい。他人なんだから』
 ――死を悼んじゃいけない。
 そうだ、その疎外感が悲しかっただけで俺は、
「紗也子さんの死自体を悲しんでいるわけじゃない……」
 もう一度口に出して言ってみて、俺はまた一層、ずるずるとへたり込んだ。
「何だよ、それ……」
 紗也子さんを大して好きでもなかったくせに、食事に誘って酔わせて、そして死なせた。
 自分の両手を見下ろしたとき、そこに何か拭いきれないものがまとわりついている気がした。
 雨の音が、大きくなる。

あいのこくはく

 雨の音に紛れて、玄関の方からチャイムが鳴った。
 のろのろ、と顔を上げる。
 もう、紗也子さんの死から三日が経ったはずだ。
 だいぶ、時間の感覚が狂ってきている。ただ、ずっと雨が降っているらしい。だんだん激しさを増して、窓ガラスに叩き付けられる水滴が鬱陶しいな。
 死んでるみたいに飯を食って、死んでるみたいに眠って。俺の三日間はそれだけだ。
 大学もサボったし、かかってくる電話もメールも全部無視。
 けれど、今俺を呼び戻したチャイムは何か、意味がある気がする。
 またのろのろと立ち上がって、俺は確認もせずにドアを開けた。
 そこに立っている紗也子さんを見て、俺は自分で顔が強ばったのを感じた。
「――ッ!」
 ドアを閉めようとした俺を制したのは、彼女の言葉だった。
「……ひでえ顔」
 人を突き放すみたいな、ぶっきらぼうで低い声。
「――逢」
 紗也子さんじゃなかった。
 その安堵でもう一度目をこすってみる。
 ずぶ濡れでアパートの廊下に立ち尽くしているのは、間違いなく逢だ。
「傘持ってねえじゃん……」
「置いてきた。差す気分じゃなかったんだよ」
「何だそれ……入れよ」
 ぐっ、とドアを開けると、逢は素直に入ってきた。服やら髪やら滴る水滴が玄関を濡らすが、全く気にならない。
 俺だって三日の間にどれだけ汚くなってるんだろう。そっと顎をなぞったら髭が生えていた。ベビーフェイスにあるまじきものだ。
「何か飲むか」
「あったけえもん。凄い寒い」
「普通風邪ひくぞ」
「だよな」
 薬缶をガスにかけて湯を沸かす。その間に洗面所まで走って、適当に取ったバスタオルを引っつかむ。 そして、リビングのソファに座らず、そこにもたれてぼうっと座り込んでいる逢に投げた。
「拭いたほうが良いぞ」
「ん……さんきゅ」
 ごしごし、と頭を拭き始めた逢を背に、俺はもう一度洗面所に駆け戻った。クリームも使わず大雑把にだが、手早く髭を剃る。
 男前復活だ。
 洗面所から出てきたタイミングで湯が沸いた。
 コーヒーの粉を出しながら、逢の様子を窺う。と、異変に気が付いた。
「あれ、お前髪切った?」
「……あ? ああ、うん。この間の…姉貴が出かけてた夜に」
「……そっか」
 濡れそぼっていたのでぱっと見では気付かなかったが、バスタオルで水気を取ったところで、前よりも前髪や襟足が短くなっている。よっぽど、男っぽくなった印象だ。
 そして俺は、紗也子さんとそっくりの逢の顔を久々に拝むことになった。見れば見るほどそっくりなもんだ。本当に、紗也子さんを男にしただけ、みたいに瓜二つ。
 こんなに似てたか、とコーヒーカップを持ち上げようとしたとき、ふと震えが走った。
 思い出されたのは、俺の言葉。
『そりゃ紗也子さんが男だったら俺の性癖的にはバッチシ――』
「おい……」
 嘘だろ、誰か嘘だと言って、嘲わらってくれ。
 何で俺は震えてるんだ、偶然に決まってるだろ。

 あの言葉が、逢を指してたなんて、そんな。

「どうした?」
 逢が、俺を振りかえった。
「顔真っ青だぞ、お前」
「いや……何でもない。三日間の不摂生がたたったんだな、こりゃ」
 から、と笑って一度拳を握る。大丈夫。何もない。
 カップを運びながら、それでも背中を伝う嫌な汗が止まらない。
 何で俺はこうして逢を家に上げてるんだ? あんなに死にかけてたんじゃなかったっけ、俺。
 そりゃ中学からの親友だからだろ。いや、本当にそうか?
 本当に俺は、逢を『親友』だと思ってたか?
「……マジでお前顔色悪いぞ。どんな三日間だったか――は、まあ見りゃ分かるけど」
 逢の声が遠い。ああくそ、雨の音がうるせえな。
 そうだ、でもどうしてだ。俺は、どうして逢が来るなりコーヒーを淹れて、髭まで剃って、これじゃ。
「……お前、どうして来たんだよ?」
「どうしてって……」
 いつものように、逢はコーヒーをお行儀よく啜る。その、ちょっと遠いところにいるくらいがちょうどいい。
 いいか、それ以上は絶対に、近づくなよ。
「大学は?」
「しばらく休む、つったろ……そういうお前はどうしたんだよ」
「いや……」
 俺が口ごもると、逢がため息を吐いた。
「何言っても無駄だったな、やっぱ」
「え……」
「姉貴のことは……事故だから、しょうがねえよ」
 そう良いながら、逢の声は震えている。そりゃそうだ、今やたった一人の肉親だった紗也子さんを喪ったんだから。
 なあ、逢。
 俺が今こう言ったらお前、どうする?
 ――お前が欲しくて、紗也子さんを利用したんだ、って。
「本当に……仕方ねえのかな」
「……あ?」
 逢が、怪訝そうな顔をした。
 もし、ここで俺が言ってしまったならば。
 ――こうして紗也子さんを喪ったことで悲しんで同情を引いて、俺は本当は
 ――お前が欲しいんだと。
「本当に……紗也子さん、事故だったのかな」
「おい、何を」
 逢の表情が険しくなった。
 知ったことか。
 俺はカップを叩き付けるようにテーブルに置いて吠えた。
「どうするよ!? 俺が、俺が紗也子さん殺したとかだったらお前、どうするんだ!?」
「――ッ、マジでお前何言ってんだ! 落ち着け!」
「よくある話だろ! 自分だけのモノにしたくて、殺したってパターン! 今時小説でも使い古されたようなパターンだ、誰かが実行してるんだ、例えば俺がっ」
「おい!」
 逢が、俺の肩を掴んだ。
 俺が勢いに呑まれて口を噤むと、逢の目は確かに怒っていた。
「ふざけんなよ……お前が姉貴が死んだ事にどうケリつけようとしてるかは知らねえけど、それ以上そんなくだらねえこと考えてぐだぐだしてるんだったら、いっそ殺すぞ!」
 本気で言われて、俺も一気に頭が冷える。
 はあっ、と一度大きく息を吐いた。
「……悪い」
「いや……」
 逢も、冷静さを取り戻したようにまたソファにもたれた。ほう、と息を吐いた音が部屋に反響する。
 それを横目にコーヒーを飲みながら、俺は逢の言葉を反芻していた。
 殺す、というのは誰が聞いたって嘘だ。
 初めて、逢が嘘を吐いた。
 だから何、というわけでもないけれど。だから紗也子さんが生きていて、俺はめでたく紗也子さんを落として逢の義兄におさまる、ってわけでもない。
 やっぱり、俺の思考がぐちゃぐちゃなんだ。
 もっと落ち着けばもっとよく分かるよ。
 そう自分に言い聞かせながら、それでも俺は、俺が本当はもうとっくに答えを見つけていることに気が付いていた。伊達に、三日間も家に篭ってたわけじゃないんだ。
「……逢」
「何だよ」
「悪いな」
「……別に、お前に迷惑かけられたことなんて今まで――」
「今回のはとびきりだろ」
 俺が笑うと、逢が俺を横目に見てきた。
 そりゃ、さぞ不審に思っていることだろう。
「なあ、逢」
「だから何だよ、いい加減」
「何で今日来てくれたんだ?」
「――それは、大学の奴らから聞いて」
「お前も紗也子さん亡くした直後なのに?」
「……お前、鈍すぎ」
 逢がコーヒーを置いた。
「周りがどんだけお前と姉貴のこと気にしてたと思うんだよ。それで姉貴がいなくなったお前まで学校に来なくなったら、心配しないわけないだろが」
「……そっかあ。ま、大丈夫なんだけどな」
「アホか。さっきまで錯乱してた奴がよく言う」
「ははっ」
 でも本当なんだぜ、逢。
 俺は、紗也子さんが亡くなったこと自体はどうも、何とも思ってない節があるらしい。
「さっきまで、じゃないな。まだまだ錯乱中かもしれない」
「……それも仕方ねえよ。お前が初めて惚れた――女、だったんだし」
「いや、違うらしいよ」
「ん?」
 ぼそりと呟いただけなのに、逢はちゃんと反応を返してくる。全く、いいお友達だ。
 ここで逢を俺のほうに引きずりこむほど、俺は人を外れていないはずだ。だから、いいお友達。
 ――もしもだが。
 もし逢が俺の真意に気が付いていてくれれば、こんな事にはならなかったんだろうか。それとも、俺が臆病にならずに、もっと早く、いつもみたいにさくっと逢に告って、さくっとフラれていれば。
 もし逢が、俺のことを好きになっていてくれれば。
 そんなことを考えているうちに、くだらない考えが思いついた。
 逢が紗也子さんを殺したのだ。
 俺のことが好きすぎて、俺が紗也子さんに取られるのが嫌で、邪魔な紗也子さんを消してしまったのだ。
 考えただけで、少し笑えた。そんな事があってたまるか、と。
 そりゃあ、俺の考えた俺に都合の良い話――。
「――……」
「おい、どうした」
「……いや」
 何でもない、と答える口の中がカラカラで、舌が回らない。
 なのに、頭はフル回転。
 逢は俺が好きなんじゃなくて、紗也子さん(・・・・・)を好きならどうだ?
 くだらない、くだらない。
 必死に否定するが、無駄なスピードで仮説が成り立っていく。
 あんなにキレイな紗也子さん。複雑な家庭で育ってきた逢が、いつしか彼女に恋愛感情を抱いたところで、仕方ないかもしれない。もちろん、安い昼ドラにも劣る話だが、けれども。
 俺にさえ紹介しなかったのも、協力を渋ったのも、何もかも逢が、紗也子さんを独占したいという気持ちの表れだったのなら。
『よくある話だろ! 自分だけのモノにしたくて、殺したってパターン!』
『誰かが実行してるんだ、例えば俺がっ』
 俺が、じゃなくて、逢が。
 恐る恐る、横の逢を見た。
 怪訝そうにしている逢の、その瞳の奥。
 そこにあるのは、何だ?
「あい……」
 声が、掠れた。
「お前……」
 お前、が。

 紗也子さんを。

 声にはならなかった。
 けれど、何故か逢は肩を竦めた。まるで俺の言葉が聞こえていたみたいなタイミングだ。
「……今日来たのはさ」
 逢は、ずっと肩にかけていたバスタオルをよけた。その細い指先が、もしかして。
「大学の奴らに言われた、っていうのもあるけど」
 お酒が入って、ふらついた紗也子さん。
 電車がまいります、というアナウンスの中、人混みでざわめくホームの中から。
 とん、と優しく。
 紗也子さんの背中を押す細い手。
 あっけなくホームに落ちた紗也子さんは、ホームを振り返って不届き者を探す。
 そして見つけるのだ。
「もう一個、俺の用事があるんだよ」
 自分とそっくりの顔が、それでも見覚えのない姿で自分を見下ろしているのを。
 笑っていた? 泣いていた? 怒っていた?
 それは分からないけれど。
「何……」
 そのわずかな、普段の逢との違いが彼女を戸惑わせ、そして。
 逢、と呼ばわる暇もなく彼女は四散したのだ。
「責任、取りに来たんだ」
 ああ。
 自分の頬を涙が伝うのを、どこか遠い場所の出来事のように感じていた。
 そっと、微笑む逢の頬に手を伸ばした。すごく冷たい。

 触れた唇も冷たくて。
 体の芯から凍えそうなほどだったけれど。

 一番欲しかったものを手に入れて、何故か俺の胸の中は、ひどく暖かったんだ。

 雨の音が大きくなる。
 きっともうすぐ、嵐になるよ。

逢の告白

 佐藤。

 お前、俺がこう言ったらどう思うのかな。

 俺、嘘が嫌いなんだけどさ。

 お前に、俺はもう何度嘘を吐いたんだろう。



 煙草臭いスーツを脱いでコンタクトを外し、眼鏡をかけたところで携帯に着信が入る。
 明日の仕事の予定を連絡するメールだった。
『作家インタビュー 10:00~ ※終了時刻未定! 午後はフリーですよ』
 確か、新進気鋭で売れ出した女流作家だ。まだ若いが、その端麗な容姿と聡明さの滲む作風で着実にファンを獲得している。話題作りで下読みした著書も、なかなか作者に好印象を持てる仕上がりだった。
 その上午後が丸々開くとは、ちゃんとした休みは久しぶりだな。
 ほう、と気分が浮いたところでまた着信だった。
「……誰だ?」
 こちらは知らない女性名だった。ただ、文面を読み進めるうちにどうも同僚の一人らしいと分かる。
 まったく知らない人だけど。誰だ、まじで。
 あまり拘束時間の長くない仕事に就いていると、必要以上にはデスクにも出社しなくなる。そんな俺に同僚だからと言う理由で全員を覚えるような芸当はこなせない。
 控えめを装って、二人っきりで呑みたいという旨の文には返信をせずに携帯を閉じた。
「多忙につき」
 あとは察せ。
 ただでさえ無駄に佐藤に呼び出されて仕事は溜まっているのだ。顔も浮かばない女に付き合う義理はない、と割り切った。
 ――お陰でガチの『そっち』だと思われているのは甚だ不愉快なのだが。
 舌打ち混じりに冷蔵庫を開けて、冷えたビールの缶を取り上げた。
 さっさと開けて、さっさと空ける。
 多少アルコールが入ったほうが仕事も進むだろう、と思ったのが間違いだった。
 一晩佐藤に付き合わされたお陰で溜まっていた疲労は、ビールの摂取で限界を訴え、終いには俺はソファに倒れ込んで寝ていた。



「ねえ(あい)、ちゅーしよっか」
 背中からしなだれかかる体重。
 動かしていたペンを止めざるを得ず、自然と舌打ちが洩れた。すると、背中の女は不服そうに抗議してきた。
「なーに、その反応ー。ねー、お姉ちゃんとキスしようよー」
「しない。邪魔、どいて」
「やーだー、ちゅーするのー」
 ばたばた、と背中がうるさい。
 ため息を吐いて、予告なしに立ち上がった。すると、ずるりと背中から滑り落ちる感触。
「いたっ、何すんの」
「出てくる。あんたマジうるさい」
「ひどいー、反抗期だー、デモだー」
 わあわあ、と幼児にも増してうるさい姉を背中に、さっさと家を出た。二月の夜は充分冷え込むが、変に温もった背中を冷やすのには効果的だった。
 うるせえ、うるせえ、うるせえ。
 鼻にかかった甘え声、一日二時間を費やす派手なメイク。過剰なスキンシップ。
 紗也子という女を構成する何もかもが、俺は嫌いだった。
 いつから? 彼女を知った瞬間からだ。反抗期なんて関係ない。あの人間が生理的に嫌い。どうしようもない程に嫌いだ。
「――……」
 気が付くと、よく知る道を歩いていた。これはあれだ。佐藤の家に続く道のりだ。
 携帯の表示を確認すると、午前の一時を指している。さすがに寝ているよなあ、と思って踵を返したときだった。
「あれ、(あい)だ。何か用か?」
「……佐藤」
 向こうの通りから歩いてきたのは、ジャージにダウンジャケットを羽織っただけの佐藤だった。手にはコンビニの袋を提げている。
「こんな時間にショッピングかよ」
「ばーか夜食調達だよ。今うち皆寝てんだ」
 上がってくか? と聞かれて頷いた。そうか、と佐藤の反応もあっさりしたものだ。
「何もジュースも出せないけど、まあポテチでもつまもうぜ」
「……ん」
 なるべく音を立てないように二人で佐藤の家に滑り込み、そっと二階へ上がる。
 電気を点けた佐藤の部屋で、机の上には参考書類が散らばっていた。
「へえ……案外真面目に」
「そりゃどういう意味だっつの」
「いや、律儀に隠していくんだなあ、と」
 そういって俺が指し示した先には、参考書の陰から漫画と思しき単行本の角が飛び出している。
 それを見止めた佐藤はそれを手で押し込み、
「何もない!」
 と主張した。
「いや……別に俺はお前の親じゃないから。受験どう失敗しようが何とも思わないし」
「うお、きっつい! 何だよ、一緒に高校生なりたくないのかよ」
「なりたくない」
「厳しいー!」
「あんま大声出すとおばさんたち起きるぞ」
 たしなめると、いかにも不服そうにされた。誤魔化すように、ポテチの袋を開ける。
「お前に言われたくねーよ深夜徘徊」
「うちは自由主義だからな、ことに俺に関しては」
「んあ?」
 佐藤は不思議そうに首を傾げた。
「そういや、あんまお前んちの話聞いたことないな。授業参観も来てないだろ」
「当然」
 この後にあんな事を言ったのは、もしかしたら紗也子に絡まれて気分がささくれ立っていたからかもしれない。
「俺、あそこの子どもじゃないらしいから」
「……何それ」
 ぽかん、とした佐藤の手からポテチがぼろぼろと落ちる。
「え、何。すげえ複雑な家庭環境だったりする?」
「いや、いたって簡単な話。俺、親父の不倫相手の子どもだから」
「――うわ、マジかよ」
 それで今母親って、と恐る恐る訊かれて、特にためらうことなく答えた。
「いや、本妻の方。その不倫相手の方の母親は知らない」
「えっ、すげえ複雑じゃん。何で不倫相手の子どもと同居してるのが本妻なんだよ」
 そこまで言って、はっとしたように佐藤は口をおさえた。しかし、まあ気にはならない。佐藤なら、まあ大丈夫だろうなという根拠のない信用が俺にはあった。
「知らない。まあ俺に愛情を持ってる訳じゃ無さそうだけど、でもまあ邪険にもしない感じ。何だろな……無関心?」
 俺もポテチをつまみながら続ける。
「まあ虐待とか無いからさ。いたって普通に生活させてもらってる感じだし?」
 紗也子の鬱陶しさを抜きにすれば、生まれに対して恵まれているほうだろう。そういう実感が、初めてその事実を知らされたときから俺の中にはあった。
「最初は本当の母親だと思ってたぶんショックだったけど……同時に、まあ納得した」
「え」
「いや、だって母親にあんまり構われなかったからさ。ちょっと避けられてんのかなー、って節が多かったし。ああ、だからか、って」
 だから納得。
 泣いたりもしなかったし、ただすとん、と納得したのだ。
 強がりとか全部抜きにした上で。
「だから謝んなくていいからな。むしろ、こんな重い話して悪いのはこっちだ」
「いや! んなことはねえ!」
 佐藤は、何かを埋めるみたいにポテチを食った。そして、袋が空になるころにうん、と一人頷いたと思うと、にっこり笑った。
「嬉しいな!」
「……謝るなとは言ったけど、喜べとも――」
「いや違う、そうじゃねえって! いやさあ、何か俺がホモだからって距離取られまくるわけでもないしさあ、こんな話俺にしてくれるしさあ、それって……」
「 ? 」
 佐藤の笑顔は、眩しい。
「本当に俺ら、友だちなんだよな!」
 きらきらしてて、眩しすぎる。
「……そうかもな」
「あっ、何だかもなって! そうだね、って笑顔で可愛く返せよそこは!」
「お前要求がキモい!」
 今思うと、佐藤に問い質したくなる。
 この時お前は、俺をまだ『友だち』と思っていたのか、と――。



「寝不足ですか?」
「は?」
「いえ、少しぼうっとしてるみたいだから。疲れてます?」
 結局起きたのは普段の出社を十五分過ぎている時だった。けして遅刻にはならないが、しかし寝坊したというだけで朝のテンションは様変わりする。
 更に、ソファに倒れ込むように寝ていたせいで首や腰が痛い。全体的に疲れているように見られるのはしょうがないかもしれなかった。 
 もしかしたらインタビューの最中もずっとそう思われていたのだろうか。だとしたら、勤め人としてあるまじきことだ。
 慌てて頭を下げながら礼を述べる。
「――貴重な話を、ありがとうございました」
「いえいえ。こっちこそちょっと話しすぎたかなー、って今さらになって」
 カメラマンの撤収を待つとき、ふと彼女が切り出した。
「下のお名前、逢さんでしたよね?」
「ええ。女っぽいでしょう」
「そう? とても良い名前だと思って」
「そうですか?」
「出『逢』うなんて、なかなかロマンチックな表現だと思って。直截に愛情の『愛』って言うのも良いけれど、男性の名前にするならこっちの方がよっぽど私は好き」
「……初めて言われました」
 そういえば、この名前は誰が付けてくれたのだろう。父か、それとも顔も覚えていない生みの母親か。どちらにしろ、一体どんな想いで付けたというのだろう。
「きっとこの仕事を続けていたら、たくさんの人と出逢うんでしょうね。何だかあなたなら、その人たちを皆ひっくるめて大事にしそう」
「どういう意味です、それ」
「いえ? 大した意味じゃないの。ただ、あなたはこの短時間でお話をしてて凄く魅力的な人だったから」
 何だか惹きつけられるの、と言った女史の声音は、けして媚びるものではなかった。いたって冷静に評価を下した結果、俺にそんなお褒めの言葉を下さるらしい。
「……あいにく、もう蔑ないがしろにしてしまったことがあるんですよ。――見捨てたら、せっかく出『逢』ったのに、結局手を離してしまったということになるんですかね。あなたのお話だと」
 なかなか際どい事を言ってしまったが、何故か人にそういう面を吐露させる魅力を持った梅澤女史は、ふと面白がる風情で言った。
「まあ良いんじゃないかしら。結局、本人の進む道があるんだし。無理に交わらせる必要なんてどこにもないわよ」
「でも」
「お互いに交わったと思えたときに存分にそこ広げれば良いのよ、人と人の出逢いなんて。じゃなかったら今頃私は何人の元彼の間であくせくしたらいいの」
 後半は何故か詰られる体だった。やはりこの容姿なら男遊びも派手だったことがあるのだろう。そこを俺に言うなんて、そんな身勝手な、と思いつつも梅澤女史は別に重く思っている様子はない。
 それが何故か救われた。
 カメラマンが、終わりましたと声をかけてきた。
「それでは、これで」
「ええ。色々と有意義な時間になった」
 握手を求められ、そっとその手を握り返した。久々に触れる女性の体温は高い。
 また会えたなら、と。
 そうしたらこの胸に残る、誰にも言えない嘘をぶちまけても良いだろうか、なんて。
 そんなしょうもない事を考えたら、会見の場だった会議室の時計が十二時を示した。
 本当に去り際、梅澤女史は艶やかに微笑んで付け足した。
「それに再会の『会』よりよっぽどカッコいいわよ、それ」
「……はは。ありがとうございます」



 大学も決まって、やっぱり腐れ縁で同じ学科に進むことになった佐藤の家に転がり込んで、炭酸で宴会をした。
「いやー、仲良く大学生だぜ? ナンパしまくろうな!」
「お前の性癖に俺を巻き込むな」
「大丈夫、イケメンを取り揃える」
「だから!」
「何だよ、そう言って別にお前彼女作るとかでも無いしさあ。やっぱお前――」
「それ以上言ったら絶好するぞ」
 そこで口を噤むあたり、佐藤は臆病だ。
 失う、という出来事に敏感なのはまあ、その本性を知られたときの反応が必ずしも、俺のような物好き一択ではなかったからだろう。
 少し可哀相になって、今思えばいらないことを口走った。
「別に、女で良い思い出がないだけだ。うちのは最悪だし」
「え? お前女きょうだいいたっけ?」
「いるんだよ。本妻の子がな」
「マジで! 初めて聞いたぞ!」
 どうせ同じ大学で、入る予定のサークルでも顔を合わせることになる。そう思って、俺は紗也子のことを話した。
「何にしろ、最悪の女だ。弟に欲情したかと思えば、繁華街に入り浸って二週間家に帰ってこないのは珍しくない」
「そりゃまた……見事に親父さんの色を継いでんだなあ」
「ああ。腹立たしいことに俺と顔がそっくり。これも親父のせいだな」
「へえー?」
 じろじろ、と俺の顔を眺めた佐藤は、それでも首を傾げた。
「じゃ、お前が女装したらそのお姉さんになるわけだ」
「おい」
「冗談だよばーか。でも、そんなに嫌な人かね」
「……下手に手出さなきゃ、ただ可愛いだけの女だろうな。でも、できる限り姉だとは言いたくない」
「またまたあー。お姉さんとしては弟が可愛いんだよ、察せ」
「無茶言うな」
 紗也子が俺を可愛がっている――かどうかはともかく、俺に注いでいる関心は恐らく身内に対するそれではない。正直その熱意は気持ち悪い。
「でもびっくりしたなあ」
「……あ、何が?」
「いや、お前隠し事下手じゃん。よく今まで誰にも言わなかったなあ、と」
「それは……」
 片親しか血の繋がらない、腹違いの弟。
 そんなドラマみたいな存在が目の前に質量をともなって現れたなら。初めてそれを知ったときの紗也子にとって、俺は格好のおもちゃだ。友だちにも自慢できると踏んだに違いない。姉の男友達経由で、自分のことを売り込んでくれと言われたことは二度や三度では済まない。
 自分の交友関係の中で紗也子のことを明かさなかったのはそういうところから来ている。
 ここでまさか彼女が、俺の友人にまで見境なく手を出したならどうすれば良いだろう。
「……変にこれ以上突っ込むなよ。まあお前ホモだから関係ないか」
「おう。女に興味はない!」
「イイ笑顔して言うんじゃねーよ」
 三月末日。
 この日のやり取りは、今呪っても呪いきれるものではない。



「というわけだから。お前協力しろよ」
「何で俺が……」
 大学構内の食堂。向かい合って座っている佐藤の顔はだらしなく笑いすぎて、目はどこかぎらぎらしている。伸ばしたままで、切るタイミングを失った前髪の向こう、ふと佐藤は俺の頭に手を伸ばしてきた。
「もったいねえ! そんな顔をするな、もっとにっこりしろ!」
「何だ突然気持ち悪りい!」
「もうちょっと、もうちょっと爽やかなら紗也子さんに見えないこともないから……!」
「やめろっつの!」
 やや乱暴に振り払っても、佐藤に堪えた様子はない。
 どころか、何故かキメ顔になって低く切り出した。
「いいか逢、ちょっとよく考えろ。俺と紗也子さんが付き合い出したらお前、何が起きると思う?」
「何もねえよ、前提がありえねえんだから」
「考えろって! ――いいか? 俺がな、お前の、お義兄さんになるんだぜ?」
 一語一語を区切って強調された結果がこれ。思わず舌打ちが出て、俺は横の荷物を引っつかんで立ち上がった。
「もう帰る」
「待てよー!」
 ぐいっ、と手首を掴まれ、思わずぎょっとする。
 紗也子を歓迎コンパの時に見かけて以降、彼女に夢中になっている『ような』ときの目と、こうして佐藤が俺を見る目は最近質を同じくしてきている。これは、まずい。
 その顔を受けて、佐藤はぱっと手を離して振って見せた。
「何もしねえよ。そんなびくびくすんな」
「……信用ゼロ」
「あっ、ひっでえ!」
 言いながら、また席に付くと、途端ににこにこし出す。何て簡単な奴なんだ。
 しかしすぐに、佐藤は唇を尖らせて不満を口にした。
「その優しさを、友の恋路を応援するベクトルに向ける気は無いかね」
「無えよ。そもそもうちの姉貴、理想高いからな」
 まずいな、と思っている。
 紗也子に一目惚れしたと信じて疑わない佐藤の中、奴の紗也子に対するフィルターはほぼ盲目だ。俺が三月に話したことなんてそっくり忘れてやがる。
 俺の危惧した事態が、現実のものとなって迫りつつあるのだ。
「そりゃあなー、あんだけ美人ならなー」
 言いながら、佐藤がめげた様子はない。ただ脱力して、だらん、とテーブルに突っ伏する。すす、とソーサーを避けておく。
「俺が何言ったって聞かねえよあの人。昔っから俺の方ばっか操縦されっぱなんだから」
 だから紹介はしない、と言っているのに、佐藤は何故かうらやましがる。
「いいなー! あんな美女と一つ屋根の下! 俺だったら襲っちゃうね!」
「最低……」
「ぼそっと呟くなそこぉー。愛情ってのは若さに比例して暴走するもんだろが」
 思わず眉根がぎゅっと寄った。それは紗也子のことだ。あいつの場合性質たちが悪いのは、年齢を重ねたところで暴走が収まる気配はないところ。
 そんな女を、佐藤に紹介しろと。
 だから今まで紗也子のことを明かさなかったのに、と自分の迂闊ぶりが今になって悔やまれる。
 佐藤は、自分が紗也子のことを好きだと思っている。しかしそれは違うぞ。断じて違う。

 お前が好きなのは、俺だ。

 と言うと自意識過剰にも自分で思えてくる。しかし、今まで同性愛一直線で突っ走ってきた奴が何故紗也子のような、ほとんど接点の無い女に目が眩んだのか。
 簡単なことだ。()が同性愛者ではないから。
 中学から一緒に過ごしてきて、佐藤が何人の『彼氏』を得てきたかは知らない。しかし、その間ずっと佐藤の近くにいた俺が射程範囲に入らないなんて保証がどこにある?
 それでも佐藤は義理堅く、俺が同性愛者でない以上はアタックもしなかった。
 所詮じゃれ合いで、互いにからかうだけで留めてきたのだ。
 それが突然現れた、俺にそっくりな顔の『女』。『俺あいのような女』を手に入れられる上、俺からは異性愛者になったと思われる。かつ、常に俺の近くには位置できるというのだから、奴にとって、これほど都合のいい事態は無いだろう。
 それが全て無意識だというのが一番厄介だ。
 これで俺が直接言ったところで、自覚が無い以上止められない、ということになる。
 奴は『紗也子』が好きなんだから。
「あーんしんしなさーい。ちゃーんと、優しくエスコートしますから」
 ししし、と笑う佐藤をじろじろと眺めまわした。
 おいおい、と思う。
「何だよ、照れるなー」
「……言っとくけど、姉貴の男遊び半端じゃねーぞ。今さらお前が何したってそうそう満足召されねーよ、ありゃ。俺は嘘は言わない」
 忠告を付け足したのに、佐藤の反応はすこぶるアホだった。
「ナニする?」
「――……」
「いっで!」
 コーヒーを啜りながら無言でテーブルの下で脛を蹴り飛ばす。加減はしない。
 しかし、めげずに佐藤は俺に訴えてきた。
「まあ、これは本気の話、マジで紗也子さんに惚れちゃったんだよ俺は。こんなに好きになった女性は初めてだ」
「……そりゃ分かるよ」
 同性愛者だもんな。
「さっすが、話が早いぜ」
「でも手引きはしない」
「なーんでー!」
 だんっ、とテーブルを打った佐藤は隣の席の人に睨まれる。顔が謝っていたが、そういうのは声に出せ。
 しかし、佐藤の暴走は止まらないらしい。
「なあ、マジで何で?」
 と、しつこく訊いてくる。
「……今までもお前と同じようなこと言ってきた奴は多かったけどな。多分、お前も痛い目見て終わりだぞ。嘘じゃない」
「ええー?」
「お前じゃ無理だよ、多分」
 これが最後通牒のつもりだった。
 しかし、こういう時の佐藤は無駄にかっこよくしぶとい。
「多分だろ? だったら可能性に賭けさせてくれよ!」
 ――しつこいなー、と思う。
 それで自分の本心に気付いたとき、傷つくのは佐藤自身だ。
 やがて、大きく息を吐いた。
「……分かったよ。ただ、どうなっても知らねーぞ」
「だいじょーぶだいじょーぶ。俺強い子だから」
「どんなトラウマ抱えても抗議は受け付けねーからな。そこだけ絶対だ。嘘は嫌いだぞ、俺は」
「分かってるって!」
 コーヒーを戻した手を、またぎゅっと握られた。
 ぎょっとする俺を尻目に、涙ぐむ演技で訴えられる。
「ありがとう、ありがとう親友! お前のことが大好きだ!」
「……お前が言うと怖い」
 一瞬肝が冷えたぞ。
 その流れで気付けば良いのに。
 絶対受け入れないけれど。



 佐藤の気持ちが定まってしまっている以上、俺に出来る事は最速で紗也子と佐藤を繋ぐことだった。
 あの二人が長続きするとは思っていない。何せ相手は紗也子だ。
 しかし、さっさとくっついてさっさとフラれるならそれはそれで良い。その拍子に佐藤が異性愛者にジョブチェンジしようが構わない。むしろ万々歳だ。
 ただ意外だったのは、佐藤にアタックされて紗也子がまんざらでも無さそうだった、ということである。
 時期的に、目新しい男が欲しい時期だったのだろう。その心理状態は考えるだけで反吐が出る。が、これ以上事態が悪くなりようもないだろう、とたかを括っていた。
「ちょっと飯行ってくるわ」
「そうか」
 紗也子と連れ立って会議室を出る二人を見送りながら、このまま平穏無事に行けばいい、と思っていた。
 佐藤が自身の性癖をカミングアウトするまでは。

哀の酷薄

「あれー、何だ逢がいたぁー」
 深夜の会議室で作業をしているところに、耳が既に受付を拒否している甘え声がかかった。
 肩越しに振り返ると、半年前に死んだ両親の遺産をくすねて買ったと思しき服で佐藤に肩を貸している紗也子がいた。
「……何、呑んでたんじゃねーの」
「んー、ちょっと呑ませただけで潰れちゃってぇー。タクシー乗せてあげるのもそんな義理ないなー、と思ってここ連れてきちゃった」
 だんだん、心のどこかが冷えると同時に、自分の心音をうるさく感じるようになった。
 何だ、このイヤな感じ。
 よいしょ、と適当に佐藤を床に寝かせた紗也子は、案の定俺の方にすり寄ってきた。
「……楽しかったのか」
 俺に構われるのも面倒だったので適当に話を振ると、途端に紗也子の顔がふっ、という嘲笑を浮かべた。
「楽しいわけないじゃーん。年下なんて対象外だから、あたし」
 あ、でも、といらないことを付け足される。
「逢は別。逢、超好き。ねー、ちゅーしようよ」
「しない」
「ケチ! そんなんじゃ童貞のまんまハタチなっちゃうよ?」
「結構結構」
 だいぶ流れがまずい。 
 やはりな、と嫌な予感が的中したことを知る。
 長く顔を合わせない高校時代の内に無くなったのではないかと期待していた紗也子の俺への関心は、まだ時効を迎えていなかったらしい。
「明日旅行なんだろ。さっさと帰れよ」
「えー、もうちょっとお姉ちゃんと話そうよー。きょうだい水いらずでー」
 ちらり、と床で寝ている佐藤を見やった。
 絶対に今は目を覚ましてほしくない。
 こんな紗也子を知ったら、こいつの恋なんて終わってしまう。
 とにかく、今すぐ紗也子を帰そうと俺は話を誘導する。
「俺の話なんて聞こうと思ったら佐藤に聞けんだろ。ベッドの中でもどこでも行けよ」
 誘導しようと、思ったのだ。
 けれどそれは、間違いで。
 一瞬きょとんとした紗也子は、次には声を押し殺して笑っていた。
「え……何それ、まだ続くの?」
「……続くって」
「あの子、ホモなんでしょ?」
 無邪気な紗也子の言葉に、舌打ちしたくなった。
 あの馬鹿、喋ったのか!
 何でわざわざ自滅の道を辿る。それともそれがあいつの宿命か? アホか、そんなわけないだろ。単純にあいつがカミングアウトする相手を間違っただけだ。
 そう思いながら、俺の耳は突然紗也子の言葉を拾った。
「ていうか、まじ有り得ない。そんなのに付きまとわれてたとか、さいてー」
「……は?」
「せっかく年上のイケイケも引っ掛けてたのにさぁー。分かる? こんな茶番に付き合わされて、今あたしキゲン悪いの」
「――……」
「あ、逢にも責任あるからね。何でゲイなんか紹介すんの、何いやがらせ? 流行ってんの? 罰ゲーム?」
「……いや」
「知らなかったわけじゃないでしょ? もー、どうすんの。あんなレストラン付き合って脈アリとか思われてたら、もー本当に!」
 話しながら気が昂ってきたのか、紗也子はややヒステリックに言った。
「もうどうやって振りきれば良いの? ちょっと遊んであげただけなのに!」
「……おい」
「あっ、あれかな。蒸発しちゃおっかな。ストーカーに困ってたみたいです、って友だちにばら撒いてもらって」
「なあ」
「いっそ死んだことにしちゃおっか? 旅行中の待ち合わせでトラブルに巻き込まれ跡形もなくーって。そしたらお葬式しなくてもいいもんねー」
「それ以上言ったら殺すぞ!」
 俺が声を上げると、紗也子はびくっと肩を竦めた。
 しかし、すぐにその顔は不満げに歪む。
「……は? 何それ。あ、もしかして逢ってそっち?」
「いや……俺は」
「あ、納得ー。だからあたしが何言ってもつれないんだ。なーんだ、あたし女の魅力ないのかなーとか思っちゃって、馬鹿みたい。そんなことないな、だって逢が見る目無いんだもん」
「人の話聞けよ、あんたはっ!」
「は? あんた一体突然何様? 何、自分で紹介しといてそいつが捨てられそうになったらあたしが全部悪いの? ねえ教えてよ、何が悪いの?」
「……っ、いつもそうだ。あんたはあんたで自分勝手に、親父そっくりに飛び回ってかき回して、それで何も悪くないみたいな顔をするんだ!」
「あんたがパパの何知ってるのよ!?」
「知ってるさ、妻子持ちで不倫する不届きな男だってのはな!」
「あんたもその子どもでしょうが!? さいてー、自分は聖人みたいに振る舞っちゃって」
 紗也子は髪を振り乱して言った。
「あんたがいてあたしが不自由しなかったとでも思ってんの!? 全部あたしが悪いの? 違うわよ、だってパパもやってたんだから!」
「おいいい加減にしろよ!」
 怒りが振りきれて、紗也子の胸倉を掴んでいた。唐突に突きつけられた男女の体格差に、紗也子が怯む。所詮その差を、ベッドの上で甘やかされながらでしか知らなかった女だ。
「ちょっと何すんの!」
「俺はあんたが嫌いだ。お前よりダチの佐藤の方が大事だ。それをねじ曲げた風にしか見れないあんたが嫌いだ!」
「ふざけんな、ちょっと離してよッ!」
 無茶苦茶に俺の手から逃れようとした拍子に、紗也子のハイヒールが俺の足を踏んだ。
「――……っ」
 その隙に俺の手から逃れようと身を躍らせ、しかしそんな紗也子の後ろには。
「あぶなっ……」
 会議室には欠かせない、ホワイトボード、が。



 がんっ、と信じられない音がした。
「――……ッ!」
 角には当たっていない。出血もない。
 しかし、よろよろと体勢を直した紗也子の足取りは危うい。酩酊した人のそれだった。
「ね……」
「……分かんないもん。分かんないもん。だってパパはやってたじゃない。パパはやってて、お母さんはそれを許してたじゃない。分かんないよ、許してくれるならやっていいじゃない。分かんないよ、わかんない――」
 ぶつぶつと、紗也子は取りとめのないことを口走るだけだ。
 もう、俺のことは視界に入っていなさそうで、俺は思わずその腕を取って座らせてやろうと思った。
 しかし、手が触れた瞬間に強く払いのけられる。
 そして俺を見る紗也子の目は、全くの正気で怒りを宿していた。
「分かんないわよ、友達なんて」
「――……」
 あんたは今夜、海外旅行に発つんじゃないのか。友だちと一緒に、行くんじゃないのか。
 その言葉を呑み込んで、紗也子を見送った。
 佐藤の寝付きの良さに感謝した日は、これっきりだろう。
「やっぱ引かれてたよなあ……俺がゲイ、っていうの」
 呑んだ翌日に、何も知らない佐藤は呑気に言っていた。
 引かれたなんてレベルじゃないぞ。
 最初っから相手にもされてなかった。
「なあ、紗也子さん何か言ってたかー?」
 これ以上、佐藤を見ていられなくなって俺は荷物を取り上げた。
「だから俺が知るかよ……もう帰る」
「えっ、ちょっともうちょい聞いてよ」
「断る。明日は休みで、今日は姉貴もいねえし、のびのび過ごせる夜なんだよ」
「何だ、女を連れ込むのか!」
「だからお前のそういうノリが嫌いだ! 中坊かっつの!」
 返しながら、心の中で佐藤に詫びる。
 すまん、俺はきっと、責任を取るべきだ。



 本当ならこの時間には帰らない。
 だから、それを目撃したのは全くの偶然だったと言っていい。
 ヘッドフォン越しにくぐもったアナウンスが聞こえたあと、ホームで電車待ちをする俺の嗅覚に、よく知った甘ったるい匂いが訴えかけてきた。
 振り返ると、よたよたと紗也子が歩いていた。俺に気付いた様子もなく、どこか夢見るような顔でホームを移動する。
 まさかあの衝撃が脳に響いてるんじゃ、と思ったときだった。
「あ」
 誰かの振り向きざまの肘が、紗也子の近くの男性に当たる。
 それを怪訝に思った男が身体を捻ったとき。
 こてん、と紗也子は線路に投げ出された。
「さやこっ……!」
 俺の声が聞こえたのだろうか。状況がよく分からないといった顔をしていた紗也子と、一瞬だけ目が合った。
 その、俺とそっくりな顔の間抜けな表情は、電車が悲鳴にも似たブレーキ音を響かせる中。
 何故か、それでも確かに俺に向かって、幸せそうに笑っていた。



 紗也子の死を電話で伝えたときの佐藤の錯乱ぶりは手に取るように分かった。
 無理もない。『初恋の女』を喪ってしまったのだから。しかも佐藤に取っては、もはや成就までそう遠くないと思えた時に。
「俺は嘘を吐かない」
『――ッ!』
 口癖で駄目押しをする。
 俺が言うなら、本当だ。
 それが佐藤の自慢なのだから。
『……どうして、って聞いてもいいか』
「――事故だ」
 一度言って、少し息を継いだ。
「旅行に行く途中の電車待ちで、ホームから押し出された。そこに電車が――」
 目の当たりにした光景を、そうとは気取らせないように説明した。
 その方が、俺が現実味のない出来事にかえって冷静になっているように思われる。佐藤を落ち着かせるにはそれが良いと判断した。
『――……ッ』
 言葉を失った佐藤に、今言っても仕方のないことだけどな、と続けた。
「ちょっと酔いが残ってたらしくって、足取りは危うかったらしい。ただ、女友達と合流する以前の話だから、目撃証言が少ないらしいんだ」
 そんな証言はどこからも上がっていないけれど。
 純然たる事故として処理された出来事をどうして調べる必要がある? それを、遺族である俺に伝えることがどこに?
 らしい、らしい、らしい。
 曖昧な表現で、佐藤を撒く。全ては、お前の関係のない世界で起きたことなのだと言い聞かせる。
「……大丈夫か」
 訊くと、佐藤が弱々しく笑った。
『――ぶっちゃけ大丈夫じゃない……でも、お前が聞くのは違うだろ……』
 ――お姉さんが死んで、一番辛いのは誰だ。お前だろう、逢。
 佐藤の声がそう言っていた。
 なあ佐藤、そんなに痛がらずにいてくれよ。俺は、全然痛くないんだからさ。
 きっと紗也子を殺したのは、俺なんだから。
 事故にしたって、何にしたって。例え紗也子の脳が揺れていなかったところであの事故は起きたかもしれないけれど。
 でも確かにあの時会議室で、俺の言葉は紗也子の胸を、この世界で一番鋭利なナイフで貫いたに違いないんだから。
「俺はいい。最後に酔ってる姉さんを見送ったのは俺なんだから、俺はそれを止めなかった俺自身を責めていい。けど」
 お前は、悼まなくていいよ。
 お前は、お前を責めなくていい。
 俺の声も聞こえたのだろうか。電話口から佐藤の怒鳴り声が響いた。
『んな訳ねーだろ! 俺が紗也子さんを誘ったから、身の程知らずに女に手を出したから! だから、だから……!』
「それこそ、そんな訳ないだろ。お前は所詮他人なんだから。赤の他人の死に責任を負う必要なんてない」
『他人って……』
「違うのか?」
 丹念に、優しく言いながら俺はまた詫びる。
 何で家族よりも大事だと思ってるダチに、俺はこんな事を言ってるんだろうな。
 でも事実だ。佐藤は一人で気取ってただけで、紗也子の彼氏でもなければ、もちろん俺の義兄でもない。
 ただの幻想の片思いで、全部背負わないでくれ。
 俺は身内より大事なダチに、壊れてほしくないんだ。
『……葬式は』
「分かんねえよ。うちはどっちも親死んでるし……こんな早くに葬式挙げる金なんて、正直――」
 佐藤が息を呑んだ。
「残酷な話だけど、姉貴の体はほとんど残ってないんだよ。……燃やすまでもないかもしれない」
 皮肉なことに、だ。
 会議室で冗談混じりにほざいた紗也子の計画は。
 こうして見事に成し遂げられている。
 俺は、一切佐藤に嘘を吐かずにいる。
 こんな、最悪の事実を一切嘘で包み隠す必要がなくなったのだ。
『あ、ああ……そうか……』
 返事から、佐藤が錯乱状態から脱せていないのは明白だった。
 それでも伝えるしかなかった。
 これ以上、お前が実らない、初めから実るわけのない恋を追いかけるのを見ていられないから。
 それでも一人じゃ、ずっと同じループにはまってしまう。
『ごめん……逢……ごめん……』
「だから謝るなって……」
『いや……無理なんだよ……俺、やっぱり……』
 ありがとう佐藤。
 やっぱり、お前がいるから俺も紗也子のようにならずにいられたんだと思うよ。
 脳裏に紗也子のあの怒りに満ちた表情を思い出しながら、電話口に呼びかける。
「おい、聞いてるか?」
『あ……いや、ごめん。聞いてなかった――』
「いいよ、別に……。俺もお前も、今は混乱してるんだ。どうしようもないな」
 しばらく大学を休むかも、と言うと返事は無かった。無意識に頷いてしまっているのだろう。
 それ以上は声をかけずに、俺はそっと電話を切った。
 それで済んだと、思っていた。



「大学に来ない?」
『うん……やっぱりショックが大きかったんだと思うよ……。ごめん、逢だって同じなのに俺ら』
「いや、いいっすよ。やっぱ腹違いだっつー以上は、もう――」
 すぐ気持ちの整理が付く。
 良くも悪くも紗也子を理解していたサークルの先輩たちは、とりあえず佐藤を心配していた。もちろん、俺のことを心配するのはお門違いだから構わない。
 紗也子の遺体の決着もつきそうだという時期もあって、三日で直接佐藤を訪問した。
 駅を出たところで、豪雨に行き遭う。しかし、何となく傘を買う気にもなれずに、そのままアパートを目指した。
 大学入学と同時に佐藤が手に入れた、念願の一人暮らしだ。その巣で、チャイムを鳴らす。
 少し冷や汗が流れるほど、家の中から人の気配はしなかった。
 ややあって、確認もなさそうな勢いでドアが開かれる。
 一瞬、俺を見た佐藤の顔が青ざめた。
 髭も生えたまま、三日間ただ寝起きしただけの人間の姿だ。
「……ひでえ顔」
 言ってやると、佐藤がはっとしたように目を瞠る。
「――逢」
 それから目をこすったりしながら、佐藤は掠れた声で言った。
「傘持ってねえじゃん……」
「置いてきた。差す気分じゃなかったんだよ」
「何だそれ……――入れよ」
 ぐっ、とドアを開けてもらい、玄関に上がる。服やら髪やら滴る水滴が玄関を濡らすが、佐藤から咎められたりはしなかった。
「何か飲むか」
「あったけえもん。凄い寒い」
「普通風邪ひくぞ」
「だよな」
 ばたばたと、佐藤が薬缶をガスにかけて湯を沸かす。さらに洗面所まで走って、取ってきたバスタオルをリビングのソファにもたれていた俺に投げた。
「拭いたほうが良いぞ」
「ん……さんきゅ」
 ごしごし、と頭を拭き始めた俺を背に、佐藤はもう一度洗面所に駆け戻った。どうやら髭を剃っているらしい。
 ――気付いてんのかな。
 お前のそれ、まるで彼女呼んだ男みたいだぞ。
 自分で想像して自分で吐きそうになった。ないない、俺が彼女とか。
 戻ってきた佐藤はこざっぱりとした顔で、男前復活だった。
 洗面所から出てきたタイミングで湯が沸いて、コーヒーの粉を出しながら佐藤に訊かれた。
「あれ、お前髪切った?」
「……あ? ああ、うん。この間の…姉貴が出かけてた夜に」
「……そっか」
 初め濡れそぼっていたので気付かなかったらしい。バスタオルで水気を取ったところで、気付かれたようだが。
 もちろん、紗也子が死んだ夜に切ったというのは嘘だ。
 家に帰ってすぐ、その死の一報が入るよりも早く自分で切った。
 あの笑顔に当てられた自分の姿を今すぐ違うものにしたい、という衝動だった。
 結果としてよっぽど男っぽくなった。久々にクリアになった視界がやや新鮮だが、今日は雨だから問題ないだろう。
 鏡を見たとき、見れば見るほどそっくりなもんだと自分で苦笑した。紗也子を男にしただけ、くらいにしか変わらない。
 ふと、視界の隅で佐藤が震えた。
 顔色が蒼白で、すこぶる良くない。
「どうした?顔真っ青だぞ、お前」
 恐る恐る訊くと、ゆるゆると首を振ってから佐藤は笑った。
「いや……何でもない。三日間の不摂生がたたったんだな、こりゃ」
 何でもないようには見えない。
「……マジでお前顔色悪いぞ。どんな三日間だったか――は、まあ見りゃ分かるけど」
 少し違和感があった。
 すると、コーヒーを運んできた佐藤は自分もそれを取り上げながら、ぼそりと言った。
「……お前、どうして来たんだよ?」
「どうしてって……」
 突然距離を取られた気がして、質問の意図を量りかねた。コーヒーを一口飲んでから、すると佐藤がまた切り出す。
「大学は?」
「しばらく休む、つったろ……そういうお前はどうしたんだよ」
「いや……」
 佐藤が口ごもって、俺はため息を吐いた。
「何言っても無駄だったな、やっぱ」
「え……」
「姉貴のことは……事故だから、しょうがねえよ」
 そう良いながら、声が震えた。
 あの、笑顔。
 俺に焼き付けるための浮かべたような、満ち足りた笑顔。
 なあ、佐藤。
 俺が今こう言ったらお前、どうする?
 ――俺は、いつの間にか選ばされていたらしい。
 ――紗也子か、お前か。
 そして俺が選んだのはさ。
「本当に……仕方ねえのかな」
「……あ?」
 唐突に佐藤が呟いたので、怪訝そうな顔をしてしまった。
 言いながら、佐藤はまだどこか不安定そうな、壊れる寸前の表情だった。
「本当に……紗也子さん、事故だったのかな」
「おい、何を」
 表情を険しくしてしまう。
 こいつは何を口走って――。
 混乱しているうちに、佐藤はカップを叩き付けるようにテーブルに置いて吠えた。
「どうするよ!? 俺が、俺が紗也子さん殺したとかだったらお前、どうするんだ!?」
「――ッ、マジでお前何言ってんだ! 落ち着け!」
 錯乱が酷すぎる。
 止めようとしたが、佐藤は止まらなかった。
「よくある話だろ! 自分だけのモノにしたくて、殺したってパターン! 今時小説でも使い古されたようなパターンだ、誰かが実行してるんだ、例えば俺がっ」
「おい!」
 佐藤の肩を掴む。
 佐藤が勢いに呑まれて口を噤むが、俺はゆるゆると怒りが湧いていた。
「ふざけんなよ……お前が姉貴が死んだ事にどうケリつけようとしてるかは知らねえけど、それ以上そんなくだらねえこと考えてぐだぐだしてるんだったら、いっそ殺すぞ!」
 手加減なしに怒鳴られ、佐藤がはっとした表情をする。
 はあっ、と一度大きく息を吐いた。
「……悪い」
「いや……」
 俺も、冷静さを取り戻して、またソファにもたれた。
 ほう、と息を吐いた音が部屋に反響する。
 佐藤はコーヒーを飲んで、また少し思案している様子だった。
 この三日間で、何を考えていたのだろう。
 きっと何も考えていなかったに違いないが、佐藤の様子は尋常でないものをにおわせる。
 奴は奴自身で、何かに気付いたのだろうか。
「……逢」
「何だよ」
「悪いな」
「……別に、お前に迷惑かけられたことなんて今まで――」
「今回のはとびきりだろ」
 佐藤が笑うから、横目に見て様子を窺った。
 この不安定さが、怖い。
「なあ、逢」
「だから何だよ、いい加減」
「何で今日来てくれたんだ?」
「――それは、大学の奴らから聞いて」
「お前も紗也子さん亡くした直後なのに?」
「……お前、鈍すぎ」
 コーヒーを置いて、切り出した。
「周りがどんだけお前と姉貴のこと気にしてたと思うんだよ。それで姉貴がいなくなったお前まで学校に来なくなったら、心配しないわけないだろが」
「……そっかあ。ま、大丈夫なんだけどな」
「アホか。さっきまで錯乱してた奴がよく言う」
「ははっ」
 佐藤の笑いは乾いている。
 どうも、何かに突き当たっているらしい。それが壁なのか、答えなのか。まだ考えあぐねているといったところか。
「さっきまで、じゃないな。まだまだ錯乱中かもしれない」
「……それも仕方ねえよ。お前が初めて惚れた――女、だったんだし」
 抵抗のある誤魔化し方をすると、佐藤がぼそりと呟いた。
「いや、違うらしいよ」
「ん?」
 訊き直しても、喋らない。また何かを黙考しているようで――ほどなく、その表情が何か怖いものを見るように俺に向けられた。
「――……」
「おい、どうした」
「……いや」
 何でもない、と答える佐藤の声は空虚だ。
 その反応で、気付いたのかな、と思った。
 俺の中で、予想されていた佐藤の反応は二つあった。
 ストレートに俺に抱いていた自分の感情に気付くか、それとも。
 俺が紗也子を独占したいほど好きだと勘違いして、結果彼女を俺が殺めたのだと早とちるか。
「あい……」
 佐藤の声が、掠れた。
「お前……」
 それに続く言葉は声にはならなかった。
 けれど察した。
 ――後者だな。

 紗也子さんを、殺したのか。

 それでも良いよ、と肩を竦めた。どっちにしろ、俺がお前のために出来ることは一つしかないんだから。
「……今日来たのはさ」
 ずっと肩にかけていたバスタオルをよけた。
「大学の奴らに言われた、っていうのもあるけど」
 ごめんな、佐藤。
 三日間、苦しかっただろう。
「もう一個、俺の用事があるんだよ」
 埋め合わせをしようか。
「何……」
 俺は、精一杯笑った。
「責任、取りに来たんだ」
 ああ。
 佐藤の頬を涙が伝うのを、どこか遠い場所の出来事のように感じていた。
 そっと、頬に佐藤の手が添えられる。すごく冷たくて、肩が跳ねそうだった。

 触れた唇も冷たくて。
 体の芯から凍えそうなほどだったけれど。

 これがお前に吐く、誰にも明かさない嘘。
 こんな嘘は最初で最後だから。どうか、ゆるして。

 雨の音が大きくなる。
 その日は、嵐になった。



『すみません先輩……風邪なんか引いちゃって……』
「いいよ、どうせ近所なんだし。それよりさっさと寝て治して出てきてくれ」
 あい、と鼻詰まりの声が言って、それじゃほんとすみません、と電話が切れた。
 携帯を閉じながら、はあ、と息が洩れる。
 結局これだ。
 せっかくのフリーも、仕事が入った。
 ――まあ、あそこなら遊びに行くようなもんだけど。
 慣れた道を歩いて、やがて年季の入ったアパートに行き着く。
 ドアに近づいてチャイムを鳴らすかどうか悩んだとき、後ろから声をかけられた。
「あれ、逢くん?」
 振り返ると、立っているのは黒髪を一つにまとめて大雑把にピンを留めた買い物帰りらしい女の姿。にこにこと、快活に笑っていた。
「由香さん」
「あれ、今日原稿の締め切りだっけ? 大原くんは?」
「風邪らしくて。俺は代理です」
「へえ、お疲れさま。上がって上がって。コーヒー出すから」
「そんな良いのに」
「遠慮しないでよ。どうせ待たせちゃうと思うし」
 にっこりと笑って、由香はドアを開けた。おかえりー、という声と共に廊下の突き当たりから顔だけ出したのは佐藤だ。
「あれ? 逢じゃん。オオハラーは?」
「風邪でダウン。代理で俺が取り立てに来た」
「げげぇっ、お前ヤクザみたいに待つじゃーん」
「まさか出来てないとか抜かすなよ」
 鎌をかけると、佐藤はししし、と笑った。
「それがな、出来てないんだよ」
「何枚」
「んー、十六枚?」
「即刻書け、書くまで死なせないからな」
「こわっ!? ちょっと由香、何かコーヒーで誤魔化して!」
「はいはーい、ただいまー」
 ぱたぱた、と台所に消えた由香を見送って、俺はパソコンと睨みあう佐藤を後ろから監視する体勢になる。
「いいか、一瞬でもエロサイト覗いてみろ、殺すぞ」
「見ねえよ、かわいい奥さんいるんだから…」
「どうだか」
「あっ、この俳優かっこいい」
「――……」
「書きます! 書きますから!」
 眼鏡をかけてワープロに打ち込み始めた佐藤の後ろで、携帯をいじる。ちょっと遅くなるが、必ず今日中に上げさせる。
「ふふー、逢くんはスパルタねー」
「あ、どうも」
 コーヒーを持ってきた由香に頭を下げて、携帯をしまった。
「そっかあ、今日だったのねー。知ってれば、昨日二丁目なんか行かせなかったのにー」
「……おい、かわいい嫁がどうとか抜かしてただろお前」
「魔が差した。大丈夫、俺は由香一筋」
 振り返らずに言い切った佐藤に、由香はまだくすくすと笑っている。穏やかに見えて、締めるところはしっかり締めるいい奥さん。佐藤には勿体無い物件だ。
「あんたも相当物好きだぞ。現役ゲイの嫁とか」
「だってー、顔がタイプだったんだもん」
 にこにこと笑う由香はどうも本気らしい。
 まあ、円満なら文句は言わないが。そんな筋合い俺にはない。
 佐藤も、
「いやそれほどでも」
 とへらへらしているのがムカついたので椅子を蹴飛ばした。
「ちょっ、壊れる」
「良いからさっさとしろ。こっちはせっかくのフリー潰されて気が立ってんだ」
「ひー、いけず」
「あら、お休みだったの?」
「久々に午後いっぱいが。午前中インタビューが一件あっただけで」
「あ、あの人でしょ。梅澤さん」
「知ってます?」
「すごく素敵な人だから、あこがれちゃうの」
「ええ、それはすごく」
 握った手の柔らかさが、右手に思い出される。
 すると、何故かにやにやとする佐藤が肩越しにからかってきた。
「おやおやー? ひょっとしてひょっとするー?」
「おやおや、佐藤先生原稿上がりました?」
「いや、まだです」
 ふふふ、と笑う由香。
 彼女は、俺と佐藤がキスしたことを知っているだろうか。
 まあ、彼女ならどっちでも気にしなさそうだ。
 佐藤の同性愛もそんなもので、平気で由香に惚れて猛烈にアタックして、そして結婚した。相性が合えばもう何でもいいよ、と結婚式ではやたらにこにこしていた。やっぱりあの時も酔っていたな。

 佐藤がどこまで紗也子の本性に気付いていたかは知らない。
 その当時分からなくても、由香と愛し合ううちに女の強かさを知り、紗也子にもその節があったことを思い出しているかもしれない。
 それでも懲りずに結婚したのだから、大した男だ。
 なのに未だに繁華街に出入りしているせいで噂は絶えず、それが俺にまで飛び火するのは目下の悩みどころだが。



「お前……煙草始めた?」
 帰り際に玄関で、佐藤に何故か不機嫌そうに訊かれた。
 質問の意図が分からなくて少し頭を傾げたが、ややあって記憶が蘇る。
「……ああ、昨日少し()った。飲み会で、ノリで」
 お陰で凄く喉が変だ、と言うと一転して佐藤はししし、と笑った。
「そっかあ。何だ、それなら良いんだ」
「……何で」
「いや? 俺、ちゅーするときに煙草の味するのイヤだからさあ」
「――……」
「あ、もしかして今したい?」
「……あほらし」
 それ以上は付き合わずに、さっさと靴を履いた。家には未処理の書類が残っている。
 馬鹿に付き合っている暇はぶっちゃけ、無い。
 佐藤の見送りもあっさりしたもので、俺がドアを開けたときにはもう背を向けていたんじゃなかろうか。
 もう少し友だちの見送り方ってのがあるんじゃねえのか、と言いかけてやめた。
 自分から認めてやるのは物凄く癪しゃくだ。
 アパートの敷地から出たところで、路面が濡れているのに気が付いた。どうも滞在中に雨が降って止んだらしい。タイミングの良いことだ。
 小さな幸運に感謝して、足取り軽く自宅のマンションへの家路についた。

 帰ったら、梅澤女史の本でも読み直そう。

純白を告げる

「佐藤くんって……バイなの?」

 ごっふう、と漫画の表現よろしくウーロンハイを噴き出した。
「わわっ、大丈夫!?」
「ごふっ……いや、大丈夫気にしないで」
 甲斐甲斐しくナプキンなんかを差し出してくれる由香ちゃんは可愛い。
 が、その可愛い口からなんつー単語を聞いてしまったんだ俺は。
「……で、えっとさっきのは聞き間違いでよろしいか」
「えー、よろしくないわよ」
 ぷう、と頬を膨らませる由香ちゃん。
 やべー超可愛いー、でもバイとか言わないでー。
「何なに……どっからその疑問は飛んで来たの? 遠い北の国から電波を受け取ったの?」
「わ、失礼。違うもん、私が気になったんだもん」
「え、大学もサークル内容も違う、ただ就活の面接で順番が隣だった、っていうだけの男の性癖が?」
「そうだよ?」
 うわ怖えー、やだこの子超怖えー。
 逢助けて、と咄嗟に思ったのだが、奴は今頃自宅への帰途にまっすぐついていることだろう。
 チクショウ、どんな良い子ちゃんだてめえ。
「由香ちゃん……」
 何とか平静を取り戻そうと、俺は由香ちゃんを押し止めた。
「まず、今は短大女子大入り混じっての楽しい合コン中です」
「分かってるよ?」
「俺らはそこで偶然にも再会しました、こりゃ凄え」
「うん」
「で、ちょっと談笑なんかしちゃったりして、お酒も進んで」
「うんうん」
 さてここからが問題だ。
「そこからどうして俺の趣味が気になるんだよ!?」
「だって合コンだよ!? 気になる人の事は知りたいじゃない!」
「じゃあ女の趣味聞けよまずは! どうして切り口が『バイなの?』なんだよ! もっとオブラートに包んで下さい!」
「佐藤くんが一番声大きいよ!?」
 指摘されてはっ、と周りを窺う。
 が、参加者は各々良い感じの雰囲気を醸し出しており、そのピンクの空間に俺たちの色気もくそもない話題なんて介入する余地は無さそうだった。
 じゃあ安心。俺の大学生活、まだまだ安泰。
「君が変なこと口走らなきゃなっ……!」
 がっしと由香ちゃんの両肩を掴むと、何故か頬を染められた。
「佐藤くん……大胆」
「ええっ!? どうして!? この空気のどこに甘さがあったよ!?」
 いやいやいや。
 そこはそうじゃねえだろう。
 何故恥じらう。
「冗談だよう。そんな軽々しく肌を許す女ではないのだ」
 ていっ、と手を払われた。
 おおう……何だこの切ない感情。じゃなくて。
「別に喋らないよ? ていうか、ちゃんと答えてもらってないのに充分図星ったのは分かったし」
「ぐぬぬ……お主やりよるのう」
「そちには敵わぬわ」
 ふふふー、ふははー、と訳の分からない猿芝居。
 やべえぞ、超楽しいこれ。じゃなくて。
「いや、これマジの話でね。何で俺に興味持っちゃうわけ」
「えっと……」
 一瞬、由香ちゃんはあらぬ方向を向いて思案する様子だった。
 が、すぐにあっけらかんと笑って断言する。
「顔が好みだから!」
「ふっ、清々しいほどに己の欲望に忠実か。嫌いじゃないぞそのスタンス」
「ありがとー」
 俺だって好きなものは全力で取りに行くタイプだし。
「つまりは、顔が好みだからちらちら視線で追っちゃって、そしたら『あれ、この人もしかして……』みたいな心境になったわけかい」
「ううん? 単純に佐藤くんと、えっと何て言ったかな、さっき帰っちゃったお友達のやり取りが面白くて、つい見ちゃってたんだけど」
 他人の口から逢のことを聞くと、一瞬で血の巡りが悪くなる。
 いや、別にやましいことは何もないけど。
 どう見えてんだろ、とは気になる。
 その視点を、由香ちゃんはキュートな笑顔で語ってくれた。
「なーんか仲良いんだなあー、って思って。そしたら佐藤くんがお友だち見るときの目? が、ちょっと気になったの」
「うおお……恐るべき観察眼」
「でも、じゃあ何で合コン来てるのかなー、あっ、もしかしてバイ? って」
「君の思考回路は直線しかないのか!」
 全力で突っ込ませてもらう。
 あー、何だこの高校生に戻った感じ。
「……悪いけど、違うし」
「え?」
 きょと、と首を傾げる由香ちゃんに、俺は極上の笑みを返した。
「俺、ゲイだから。女の子に興味は、ありまっせん」
「全く?」
「うん、全く」
「……ふうーん」
 由香ちゃんは、ちぇっとか言って唇を尖らせた。
 ――そうそう、そうして俺に対する興味を失ってもらえれば良い。
 女ってのは大概、そういう自分をちやほやしてくれない存在には興味を持たないからな。
 OLのお局様しかり、女子高生のぬるい恋愛しかり、紗也子さんしかり。
 紗也子さんの名前を呼び起こすと、今でも心臓が痛い。
 いや、もっと正しく言えば――
「じゃあ、私が興味を持たせてあげまっしょう」
「え?」
 すい、と由香ちゃんは俺との距離を詰めてきた。
 え、ちょっと待って、と言う間もなく、押し当てられる唇の感触。
 さすがに周りがどよめくのが分かった。
 その反応を意にも介さない様子でまた身を引くと、由香ちゃんは手早く荷物をまとめて立ち上がった。
「じゃあ私、終電だからお先に失礼しまーす」
 俺にというよりは、場の全員に対してそう言って、ひらひらと手を振ってそのまま座敷を出てしまう。
 途端に、相手を見つけられずあぶれた友人に囲まれた。
「うおい、すげえなお前!」
「初対面でほっぺちゅーかよ! っはー、男のロマンだよなあー」
「お前もう合コン来んな!」
 わちゃわちゃと身勝手なことを言われまくる俺の方はと言えば、頬に残る淡い体温にただ呆然とするしかなかった。



「ごめんね逢、俺はもう汚れてしまいました」
「知ってるよ」
「冗談じゃなくってー!」
 顔を覆ってはらはらと涙を流す俺に、昔馴染みの逢はつれない。
 もう少し労わってほしい。
「お前なら分かるだろ!? 俺はいつだって自分からガンガン行く派だ、断じて受け手に回ったことはない。なのにそんな俺が、知り合って日も浅いどころか時間の浅い女の子にやすやすとほっぺちゅーを奪われて、そしたら俺のアイデンティティーはどこにあるというんだ!」
「海の底でも探してろ、ばーか」
「……いけず」
 冷たい仕打ちによよ、とソファに寝転がると、「邪魔」と蹴られた。
 泣き面に蜂だ。
「つーかさっさと帰れよ。俺が何で早く帰ってきたと思ってんだ」
「俺をお家でお迎えするためだろ?」
「何で当然のようにそんなことを口走れるんだお前は」
 きょとん、と首を傾げたら、逢は軽蔑したような眼差しを向けてくる。
 ここで見せられても全然嬉しくない。
 プレイ以外でそんなんされてもなあ、って感じ。
 したことないんだけど。
 でもまあ、
「そういうのはベッドの中で見せてくれると嬉しへぶっ」
「酔ってんのか? 酔ってんだよな? お前とベッド一緒にした記憶なんぞねえよ」
「……照れ屋さん」
「――……」
「やだっ、コンパスはやだっ!」
 電気を反射してきらめいたコンパスはもはや文房具ではなく凶器だった。
 素直じゃないなあ、とぶつぶつ言いながら俺は机に向かった逢の手元を覗き込む。
「……気が散る」
「いーじゃん、精神修行だと思ってさ」
「……はあ」
 諦めたのか、逢はそのまま黙々と作業を進めた。確か卒業に向けた課題だとか言っていたか。
 サークルは同じでも学部が違うので、俺としては何が起きているのやら分からない。
 ただ、こうして逢を見下ろすかぎり、首筋や横顔、そして目元なんかは紗也子さんにますます似た。と思う。
 もう一年以上経った。
「……一周忌、さあ」
「あ? ……ああ、姉貴か」
 答える逢の声音はいたって平坦だ。
 でも俺は知ってるぞ、逢。
 お前、本当は――
「俺、お花も何も出してないんだけど、いーのかな」
「いらん、つったろ。どうせ置いて枯れるの待つんだから」
「身も蓋もないな」
 近くに腰掛けて、俺は逢の背中を眺めた。
 そこに、被る影。

 ――俺はあんたが嫌いだ。お前よりダチの佐藤の方が大事だ。それをねじ曲げた風にしか見れないあんたが嫌いだ!
 人が揉み合う足音と、そして決定的に訪れたあの瞬間。
 ――……分かんないよ、許してくれるならやっていいじゃない。分かんないよ、わかんない――
 ――分かんないわよ、友達なんて
 心臓を掴まれたみたいな錯覚すら覚えさせる、冷え切った声音。
 呆然として彼女を見送る、逢の背中。
 俺が全て知っている、と言ったなら。
 お前はどんな顔をするんだろうな。
 もの凄く興味はあったが、とりあえず今は言わないことにした。
 もしかしたら、嫌われるかもしれない。
 あの時起きてた、なんて知ったら。
 逢の気遣いは全部、無駄だったことになる。
 その上で俺は、それを利用したことになる。
 友達だから俺を選んでくれたのに、それを裏切ったことになる。
 それじゃあ、紗也子さんと同じだ。
 そして、それだけは嫌だった。

 だから、言わない。
「……っつ、ちくしょー」
「お、どうした?」
 また逢の手元を覗き込むと、例のコンパスだった。
 何度か円をしくじっているらしい。
「お前、案外ぶきっちょだなー」
「うっせ」
「おら、貸せよ」
 コンパスを受け取って、肩越しにくるりと書いてやる。
 逢が感心したような顔で俺を見上げた。
「へえ、意外と……」
「意外じゃねーよ。何てったって指先は器用だもんねー」
 ししし、と笑うとコンマ何秒と空けずに蹴られた。
 肩に手を回しただけだろ、失敬な。
 ちぇっ、とその場を離れると、逢は肩越しに俺を振り返った。
「で、どうなんだよ」
「え? 何が?」
「その女。普段ならそういうことさせないのに、やられたってことは、多少は気ぃ許してたのかよ」
「ん、んん……? どう、だろうな……。別に嫌いじゃないけど、ただどうして俺に興味持たれたのか分からない以上は何とも」
「冷てー」
「お前ほどじゃねーよ。――ぶっちゃけ、変わった彼氏が欲しいっていう願望ならお応えしかねるし。自分の趣味曲げてまでお付き合いする義理もねーよ」
「――……」
 逢の眼差しが少し険しくなる。
 紗也子さんの件を思い出しているのは充分に察せた。
「……何? そんな見つめられるとどきどきしちゃうぞ」
 きゃ、としなを作って誤魔化しても視線を逸らしてもらえない。
 なかなか頑固だなあ、とため息が洩れた。
「……別にもう良いって。俺だって一年も経てば新しい恋を探してるよ。あっ、もちろん今すぐお前とべッどふうっ」
「誰が心配するか、こんな色ボケ」
「いくら何でも辞書はダメだ!」
 苦情を入れながら辞書を拾う。
 これが気遣いだって言うんだから、実に分かりにくい。
「……お人好し」
「あ? 何か言ったか?」
「なーんも。はい、辞書」
 手渡しながら、何でもないことのように聞いてみた。
「俺に彼女できたら嬉しい?」
「知らね。――あー、でも今さら超絶美人連れてきたらイラっとはする」
「それヤキモチ――」
「二度くたばれ」
「せめて一回で!」
 あー、楽しい。
 こういう時間を過ごしていると、やっぱり言いたくなる。

 俺、もうお前のこと好きじゃねーわ。
 あとあと、友達でいてくれて、ありがとう。



 合コンから一週間くらい経って、由香ちゃんの大学まで会いにいったら物凄く驚かれた。
「てっきり引かれたんだと思った」
「あれ、そういうつもりだったの? えー、のこのこ来た俺バカみてー」
「えっ、違うの、そうじゃないの」
 ふるふる、と首を横に振った由香ちゃんは、ふわりと女の子らしい笑顔を浮かべてくれた。
「好きじゃない人にあんなことしない」
「ほーう……由香ちゃん、大胆」
「どうだっ」
 女子大の校門でじゃれ合う妙齢の男女。
 バカップル以外の何者でもなかろうよ、こんなん。
 自分で自分がバカらしいもん。
 でも良いだろ?
 相手が好きな人なんだったら、何したって。
 許してくれよ、それぐらい。
「で、質問の答えは何?」
「え?」
 歩きながら、蒸し返された俺は完全に不意を突かれる形だった。
 だが、由香ちゃんは俺が答えるまで納得してくれないらしい。
「何だかんだ言って誤魔化されちゃったもん。ちゃんと訊きたいの」
「……あー、うん。そうだね、こういうのはちゃんと言っておいたほうが良い」
 歩みを止めた俺の先で、由香ちゃんも立ち止まる。
 小首を傾げた彼女に、俺はしししと笑ってブイサインをした。
「バイでっす、そんなんで良ければ彼氏にしてください」

コクハク

コクハク

恋が叶うなんて誰が言い出したのか。そもそもスタートラインからして望み薄な時だってあるんだぜ。 【※同性愛や不倫に関する言及あり。本番描写はありませんが、自衛よろしくお願いします】

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-07-10

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  1. 愛の告白
  2. あいのこくはく
  3. 逢の告白
  4. 哀の酷薄
  5. 純白を告げる