欲望マネージャ
「小説家になろう」時代。
自分で思い出すのも恥ずかしいようなガキの頃、将来は電車になると言ってきかず、あまりの剣幕に親を困らせたらしい。
自分の記憶があるうちで最も恥ずかしい中二の頃に、日本の裏社会を牛耳るなんて口走ったのは、できることならなかったことにしたい。
高三の夏休みに、ずっとそれまでイイ雰囲気で登下校してきた幼馴染に告ったら、高一から付き合ってる彼氏がいるとフラれた。
五ヶ月前に浪人してから、大学は諦めて無難にどこか中小企業にでも入社できたらと思って、そう親に言ったら「甘く見るな」と横面を張り倒され、初めて家出というものを実行した。
「家出中、なう……っと」
スマホの画面をなぞる指がいつもより脂っぽくて、つつ、と画面に三原色のラインが表れた。
むっ、として、メガネ用のクロスで画面を丹念に磨く。すると勝手にストアを開いてしまい、イライラした。
「はあ……このモデルも使えねーなっ!」
二週間前に機種変したばかりだというのに、胸くそ悪い。
というか、何もかもがむかつく。
全部ぶっ壊れちまえ、めっちゃめちゃになって、ぐちゃぐちゃになって、中身ぶちまけて踏まれちまえっ。
「……何だかなあ」
何もかもが、うまくいかない。
そういうと、誰もがそんなことは無い、と気休めを口にする。
そうじゃないんだよ。
本当に辛いんだ。
自分でも引くぐらいに残酷で凶暴なことを考えているときがある。その矛盾というか、二律背反? その辛さを分かってもいない奴が、何を言おうが心に響くはずもない。
勝手に、「卑屈になるな」なんて見当違いの訓示を垂れないでほしい。
「もっと、簡単なはずなんだよ」
はあ、と息を肺から吐き出しながらスマホの画面をなぞった。
スクロールされるアイコンの群像は、塾の狭い教室に押し込められて着席する俺たちみたいだ。
もっと暴れたいのに、もっと主張したいのに、何も許されない。
かわいそうだ。俺も、それ以外の何もかもも。
そうして画面を目で追っているとき、何か鮮烈な赤色が飛び込んできた。慌てて上に戻ると、確かにあった。
角の丸い正方形一面が赤くて、『欲望マネージャ』とだけ名称の記載があるアプリのアイコンが。
タップして、商品明細にざっと目を通すと、なかなか面白そうな中身だった。
「『あなたの欲望、全部叶えちゃえば?』――って、軽っ」
あんまりなアピールの文句に、鼻から空気が抜ける笑いが出た。
面白いな、と思ってついつい『インストール』に指を乗せた。有料だろうが、知ったこっちゃない。
料金を支払っている親の財布を慮ってやる気にならなかった。
「……おっ、来た」
通知画面を即効で消して、真っ赤なスクエアを叩いた。
一瞬、そういえばこれって静電気が反応してるから、どう叩こうが関係はないのかな、なんて思った。
『欲望マネージャ 欲望垂れ流せ!』と、毒々しいネオンを模したタイトルが画面を埋めた。
「何だこのセンス」
と笑って、アプリの説明ページを斜め読みした。
いわゆる、アプリ内のカメラに欲望の『対象』を映して、自分の『好きにできる』操作を行う合成系のアプリだった。
「ま、こんなもんだよな」
とまた空気が鼻から抜ける。
手始めに何しようか、と辺りを見回して、ふと近くの電線に止まるスズメが目に入った。
「……えいっ」
悪戯心で、それをカメラに映す。
『オーケー確認した』と、合成音声の返事が小気味イイ。
「芸の多い奴だなあ」
と、さて確認された画面の中のスズメをしげしげと眺めてみた。
「……色でも変えるか」
画面の下部に並ぶパレットのアイコンをタップして、ざっと一面に並んだ色から緑をチョイスする。
画面の中のスズメは、柄のおかしなウグイスみたいになった。
「ははっ、おもしれえな」
笑いながら、電線に目を戻したときだった。
「あ!?」
緑色のスズメが、微動だにせず電線に止まっていた。
「きもっ……!」
そう言いながら、口が綻んでいるのを押さえられなかった。
何だこれ、超良いものを手に入れたぞ。
その事実に気づくや否や、俺の足は通いなれた場所へ向かっていた。
小奇麗な装飾の施された門と、手入れの行き届いた庭を突っ切って、インターホンをやや乱暴に押した。
しばらく待つと、ガチャリという耳障りな音の後に、待ちわびた声がした。
『もしもし?』
「俺だけど」
そう答えると、ああ、とか何とか、曖昧な返事のあとに、向こうが受話器を置く音がした。これもまた耳障りだが、この先に待ち構えるであろう展開を思えば耐えられる。
ややして、中から玄関のドアが押し開けられた。
「やっ、久しぶり」
「おう」
幼馴染に答える声は震えたり、裏返っていなかっただろうか。そこが執拗に気になった。
外出から帰ってきたところなのか、少々小洒落た格好をしているのが可愛い、と思う。長年見飽きたと言えば見飽きた顔だが、なんだかほっとするような心持ちになる。
「何か変なきぶーん。あんた、最近全然ご飯食べに来ないんだもんね」
うちのおかんが泣くぜ、とおどける幼馴染には、乾いた笑いを返すしかなかった。
俺が大学進学に失敗してから、彼女の母親が俺に向ける眼差しは少々様変わりしていたからだ。あの憐れむような、『労ってあげなきゃ』という視線は、耐え難い。
「上がる?」
「いや、ここで良いんだけどさ」
自慢しにきたんだよ、とスマホをダウンのポケットから取り出すと、ふと幼馴染の顔が曇った。
「ねえ、携帯ばっかでさ、勉強とか……」
「してるよ。これは息抜きだって」
親のような事を言いながらも、俺が『欲望マネージャ』の画面を見せると、幼馴染は無垢に覗き込んできた。
「何、アプリ?」
「そう。これさあ、カメラに捉えたターゲットを思い通りにできるんだぜ。すごくねえ?」
「へえー」
しげしげ、とまだ信じていないようなので、俺は彼女の顔を不意打ちで撮ってやった。
『オーケー確認した』
「あっ、ちょっと」
「別に変なことはしねえよ。良いから見てろって」
操作画面に現れた、不意を衝かれて変な顔の幼馴染を本人に見せると、「やだー」と眉を顰めた。
「そんな顔すんなって。な、何か顔で変えたいところねえの?」
「ええー? 整形したいわけじゃないんだけどー」
「違うって。二重にしたいー、とかさあ」
ああ、じれったい。本当にやりたいのはこんなことじゃないが、でも必要な段階だ。
「えー」
とか変な声を出しながら首をかしげた幼馴染は、ふとはにかみながら言った。
「あー、あのさぁー。ニキビの痕とか、消したいなー……」
「そんなんでいいの?」
「いいのー。何か怖いじゃん、初めてだと」
「処女が言うみてえなセリフ」
そう言うと「ふざけんな」と軽く睨まれた。可愛いからなんともないが。
「えーと、じゃあ何? ニキビの痕?」
見当たらないので訊くと、幼馴染は控えめに頬の辺りを指した。
それでもほとんど分からないような痕だ。
「こんなの気にしなくてもいいだろ」
「女の子は気になるのー」
「はいはい。じゃー、ニキビ痕を消す、と」
女が使う化粧品みたいな、俺にはほとんど違いの判別がつかない肌色のパレットを呼び出すと、幼馴染は横から「これ」と指図してきた。
何だかんだいってノってきたらしい。
「ファンデーション乗せてるみたい」
「俺も変な気分」
「オカマは無理だね」
「うっせ。誰がなるかよ」
軽口を叩きながらの読み込み時間。イイ。
ほどなくして、『作戦終了だ』と合成音声がお知らせしてくれた。
それに合わせて恐る恐る頬を触った幼馴染は、しばらくそこに指を這わせたと思うと「消えた!」と俺に飛びついてきた。髪の辺りから漂う花みたいな匂いと、薄くのせた本物のファンデーションの甘ったるさが、脳を灼くみたいだった。
「すごーい! 本当にできるんだね!」
「だろ? これすごくねえ?」
「ねえねえ、他にも何かやってよ!」
幼馴染にせがまれ、俺は本当の思惑を隠したまま数々の披露を彼女に披露した。
そして披露演目七番目で、幼馴染は俺の彼女になった。
「ははっ、すげえよマジで」
くるくると手の中でスマホを弄びながら、笑いがこらえきれなかった。
色を変える、メイクする、そして『自己暗示』を吹き込む。
写真に吹き出しのアイコンを添えて、実際に音声を入れるとその通りになる。全ての機能が口頭で使えるというわけだ。
それがいかに応用できるかである。
『俺の彼女になる』
『えー、ちょっとー』
《作戦終了だ》
『――そういえば、次のデートさあ、海が良いなっていうの、あたし言ったっけ?』
あの、表情がくるくると変わる可愛い幼馴染が、俺の彼女になった。
「さいっっっこー!!!」
ぐっ、と拳を夕焼けの空に突き上げたところで、家に帰りついた。
そういえば家出していたんだっけ、と思ったところででもまあいいか、とどうでもよくなる。
「これがありゃあ、何も怖くねーよ」
*
都内某所の有名国立大学首席卒業。
大手外資系企業にスカウトされ、特別顧問に就任。
可愛い妻と、二ヶ月後に生まれる子供。男女の双子がいい。
「本当に先輩の勢いはハンパないっすよね!」
尊敬するっす、と鼻息を荒くする部下に、俺はひらひらと手を振った。
「全部ラッキーだよ。俺なんか運だけで生きてる男だからな」
「運も実力のうちって言うじゃないっすか」
言いながら、部下の目は俺の左手首に輝く、国外ブランドの高級腕時計を追っている。
その視線に苦笑して、俺はそれを外して部下に渡してやった。
「やるよ」
「えっ!? マジっすか!」
「おう。今度新しいの買おうと思ってんだ」
「へえー! やっぱチーフは違いますねー!」
力む部下に、笑いがおさまらない。
しかし、部下が次に言った言葉には少し肩が跳ねた。
「そういえばチーフ、ずっと不思議だったんすけど、何でスマホはそんな前の機種使ってるんすか?」
「……ああ、これ仕事用でさ。プライベートは結構変えるんだけど、仕事用はそんな使わねーし、いっかなーって」
「へえー。そう言って、先輩の仕事っぷりは俺いつも尊敬してますよ」
にこにことしている部下に、俺は曖昧な笑みを返しただけだった。
ほどなくして到着した駅で、
「そういえばお前の班長就任を記念して」
写真でも撮ろうぜ、と誘うと部下ははにかみながら寄ってきた。
「これも残すっす」
そう言って、慌てて巻いた腕時計をレンズに見せびらかす。
「ばかだなあ」
「いやいや」
「すぐ無くなるのに」
最後の俺の言葉にえー? と笑った部下に、撮るぞと声をかけて、俺は時代遅れの型と成り下がったスマホのシャッターを押した。
『オーケー確認した』
「ただいまー」
「お帰りなさい」
玄関までぱたぱたと駆けてきた妻を、俺は荷物を預けながらたしなめた。
「子供がいるんだ、あんま不用意に走るなよ」
「ええー。あなたが帰ってきたから嬉しいのに」
「可愛いこと言うな」
額を小突いて、ネクタイを解きながら俺は大きく息を吐いていた。
「仕事、忙しいの?」
食卓についた俺にワインを出しながら、妻が気遣わしげに言った。俺は、肩を回しながらうーん、と唸る。
「これからもっとだな……多分、部下の立ち上げたプロジェクトの班長になるから」
「その部下の人はどうしたの?」
「突然田舎に帰るって言い出したんだよ。親が背負わされた負債がどうとか」
「あら……」
陰った妻の表情に、俺は彼女を抱き寄せながらなだめた。
「大丈夫。俺の時計をカタにやったし、いずれ帰ってくるよ」
「……本当にやさしい人、あなたは」
頬ずりしてきた、ニキビ痕ひとつない彼女を抱きしめながら、俺は温かい夕食を彼女に所望した。
「はいはい」
にこにこと台所に立とうと、彼女が俺から離れたときだった。
「……おい?」
糸を切られた人形のように、突然力なくくずおれた妻に、俺は慌てて顔を寄せた。蒼白になった彼女の息は荒い。
「おい、大丈夫か、おい!」
錯乱する意識の中で、俺は震える手のまま救急車を呼んだ。
「――胎児の状態が良くありません。そのせいで、母体にまで影響が出ています」
「そんな……」
「公的な申請を通したところで、堕胎手術も間に合わない段階です」
「何か、方法はないんですかっ! 金ならあるんだ、どうか彼女を……っ!」
主治医にすがりついても、彼は気の毒そうな顔をして俺に首を振ってみせるだけだった。愕然として、俺は彼女の眠る個室へ足を運ぶ。
「――……」
眠らされた妻の腹部は、もう見て分かる膨らみを伴っている。そこに入っている子供のことを、そして自分のお腹を愛おしげに撫でる妻の横顔を思い出すと、やりきれなかった。
彼女の待ちわびた子供が、彼女の命を俺の手の届かないところへ連れていこうとしている。
「……やめてくれよ」
ポケットに入った時代遅れのスマホを握りしめて、俺は祈るしかなかった。
ここは病院だが、電源は入れさせてもらっている。もう、そこを気にかけられる状態ではなかった。
この十年を過ごしてきて、『欲望マネージャ』の使い方はよく分かった。そらで言えるほどだ。
『欲望マネージャ』の機能には制約が一つだけある。
『欲望マネージャ』で何かの生死を操ることはできない、ということだ。
例えば植物を早く育つようにすることはできない。それは森羅万象に反する。
例えば死んだ人を蘇らせることはできない。それは人の理に反する。
妻を救おうと思えば、手っ取り早いのは彼女の妊娠をなかったことにすることだ。しかし、それはできない。彼女のお腹には、もはや確かな命が息づいているから。
彼女を救う代わりに、子供を殺さなければいけない。それは、機能を超越している。
「……くそっ」
時折苦しそうになる妻の寝息に、俺は無力感とともに病室の時計を見上げるしかなかった。
何か、手は無いのか。
アプリに頼り切ってきた俺が今彼女のために出来る、何かは――。
ぐっ、と強く握った携帯には、アプリの正方形のアイコンが浮かんで、まるで何かのスイッチのように見えた。
――スイッチ。
この状況を全てリセットできることなら、したいものだ。
*
「今月の携帯代だけどね、いったいどうしたのよあんた」
「はあ? 何がぁ?」
適当に返すと、後頭部をはたかれた。
「って!」
「あんたおかしいわよ、何でこんなに利用料金が少ないの。先月から数万円は減ってるのよこれ!」
「イイじゃん、減ったならさあ! 何でそんなつっかかってくるかな」
「だってあんたこれ」
「いいから出てってよ、勉強してんだからさ!」
やかましい母親を部屋から追い出して、俺ははあ、と机に向き直った。広げた英文の濃い教科書にはいやでもテンションが下がるが、まあ仕方ない。
センターは三ヶ月後に迫っているのだ。
「……うし!」
と漫画みたいに巻いた額のハチマキを締め直すと、そのタイミングで部屋のドアが開いた。
「だから……っ」
またか、と思い振り返ると、あれれ、とか何とか言って敬礼をしているのは幼馴染だった。
「うっす!」
「……うす。悪いな」
「いーよー気にしな……おうおう、やってるねえ浪人生」
「強調すんなよ」
机の上を覗き込んできた幼馴染に不満を口にすると、彼女は俺の顔の近くでコンビニの袋を掲げた。
「努力家に、女子大生から差し入れだぜ」
「お、ありがたい」
そこは素直に受け取ると、幼馴染は不服そうに唇を尖らせた。
「けっ、色気より食い気かよう」
「ああ。今は色ボケてる暇ねえんだ」
「もうっ」
すとん、と俺のベッドに腰掛けた幼馴染は、ぱたぱたと足を動かす。スカートがひらひらして心臓に悪いことこの上ない。
「おい」
「彼女がはるばる応援に来てやってんのにさっ、もうちょい歓待しろっ!」
「だから……」
大学に進学して、夏の合宿が終わったころだろうか。浮気されたとか何とかで幼馴染が泣きながら押しかけてきて、気がつくと彼女とはなし崩し的に付き合い始めていた。
「こちとら受験生だっての。気遣え」
「こっちはかわいい彼女だぞ、崇めろ」
「訳分かんねー」
ぎゃあぎゃあと言い合いながら、やかましいことこの上ない彼女に、十年分大人びた彼女の面差しがダブった。
つまらない感傷だろうな、と思いながらも、未だにあの日を思い出さずにはいられない。
俺が、スマホのアプリを駆使して創り上げた、俺の理想の人生の日々。あの日々の果てに、多忙な俺を待って一人で家を守ってきた彼女は、妊婦としてあるまじき負担を背負っていた。
八方塞がりの状況で俺が選んだのは、全て捨てることだった。
「――……」
アイコン一つ分、配置が詰まった画面を眺めると変な気分になる。十年間はまともに見ていた画面だ。
『欲望マネージャ』そのものをスマホから消すと、気がつけば俺はあの家出の日に戻っていた。十年若返った体に戸惑い、電線に止まる茶色い雀を眺め、思わず歓喜しかけたが、実際はなかなか虚しかった。
たかがアプリ一つに踊らされたもんだと思う。
あの人生を生きた俺は、たくさんの人を踏みにじっていた。一番大事なはずの幼馴染の気持ちも、踏みにじった。
だからもう懲りて、真面目に半年後の再入試に臨もうと思ったら、それから一週間のうちに幼馴染は彼氏と別れていた。
それから本当に自然に付き合いだして、なかなかうまくいっているというか、結局はまあ今までと何も変わらない。
「もーうっ、つまんないつまんないつまんないーっ!」
ばたばた、と俺のベッドの上で暴れる幼馴染。あられもなさすぎる。
「こら」
「ぷーん。可愛い彼女を邪険にするとこうなるのだ」
などと言ってることは可愛いんだか何だか。とにかく適当に黙らせて、俺は一転して静かになった幼馴染にびっ、と指さしで厳命した。
「まず今はこっちに集中させろ。そしたらいくらでも付き合ってやる」
「……うん。了解した」
結婚後の埋め合わせだ、とは言わないでおいた。
結局は、俺の歩む今こそが俺の人生なのだろう。
そこに他のやつを巻き込むべきではない、なんていうのは決めすぎか。
無言で自嘲気味に笑ってみたら、「似合わなーい」と恋人に背中を蹴られた。
この借りは、覚えておけよ。
欲望マネージャ