俗人たちの賛美歌
「小説家になろう」時代。
――『卒業アルバム 記載事項希望調査』
先々週末に配布されたアンケートの集計結果がようやくまとまった。
本来なら今週の初めに提出しなければいけなかったけれど、うちのクラスは未提出で済ませようとする輩が多くて難航した。
外を見ると、もう夕暮れはとっくに過ぎている。
慌てて立ち上がって、別棟にある生徒会館を目指すことにした。
提出と訪問が遅れたことを二重で詫びなければいけないな、と早足になる。
と、
「委員長」
と通り過ぎた教室の中から誰かに呼び止められた。
教室を覗き込むと、ショートカットを肩口で揺らす女子生徒が一人だけ残ってこちらを見ていた。
「梅澤さん」
きりり、とクールビューティーとでも形容したくなるほど大人びた綺麗さの梅澤さんは、昨年同じクラスになったときに妙に馬が合って仲良くなった。
他の女子みたいにべたべたくっつきたがらないけれど、友達のことをとても大事にする人だ、と好感が持てる。
少々男付き合いが派手なのは否めないけれど、とても良い人。
「どうしたの。あなたまで残ってるなんて」
教室に入って訊くと、梅澤さんは軽く肩を竦めてみせた。
「友達待ってたんだけど、あんまり遅いからイライラしてたの。で、これから生徒会館に直接乗り込もうと思ってるんだけど、委員長のそれってアンケートの集計結果でしょ」
「ええ」
「良ければ預かる? 委員長、急いでるみたいだし」
委員長、という呼び名はいつからだっただろう。
気が付けば、いつも周りに担ぎ上げられるまま、何かしらの委員長に就任していた気がする。そのせいか、皆からの呼び名はいつも『委員長』だ。
今思えば過去の自分の忌々しいことこの上ない。
そうぼんやりと思いながら、私は助かった気持ちでいた。
「本当? 実はこれから夕飯の買い物を頼まれてて……お願いしていい?」
「こっちこそ、むしろ呼び止めて悪かったわ」
はい、とアンケートの束と集計結果のルーズリーフを梅澤さんに手渡した。
「ちょっと重いわよ」
「別に大丈夫よ。いざとなったら生徒会館から引きずり出すから」
そう言って、梅澤さんはひらひらと片手におさまった携帯を振ってみせた。
「校内では使用禁止だけどね」
「見えてないことにして」
「分かった」
梅澤さんのこういうところが、彼女の魅力だ。
どれだけ不遜な物言いをしていても、それを不快に取られることが少ない。
素直に、感心してしまう。
ふと、梅澤さんが携帯をしまいながら呟いた。
「本当らしいわね」
「え?」
訊き返すと、また梅澤さんは肩を竦めた。
それが一々画になる。
「委員長の性格が変わったって。先週とんでもない騒ぎになったじゃない」
「ああ……あれね」
思い出して、少し口の中が苦くなった。
「口癖は『私に任せて』。それがどういう風の吹き回しで、クラスの女子を泣かせる毒舌家になったのかしら」
皮肉っているようで、梅澤さんの声音はからかうときのそれだ。
私も、自然とおどけて返した。
「いらっ、としちゃって。気が付いたら言っちゃったのよ。まあ反省してるわ」
「別に反省する必要は無いんじゃない? 委員長が遠慮しすぎというか、我慢しすぎだった感はあるでしょ」
「それはそうかもしれないけど」
あなたは同じ状況でももっと上手くやるわ、とは言わなかった。
ただ、事実だ。
「もう少し徐々に主張するようにすれば、目立たなかったな、っていうのが惜しいのよ」
「へえ?」
「あんまり急な気持ちだったから……言葉にブレーキをかける、っていうのが分からなかったのね」
自嘲気味に言うと、梅澤さんは書類を持ち上げながら言った。
「まあ、そんなものでしょ。委員長の中には否定の言葉が少なすぎた。だったら、これくらいがちょうど良いのよきっと」
どうしてそんな心境の変化があったのかは気になるけど、と梅澤さんがぼそっと言った。
それに、私は曖昧に微笑んでおく。
「……ま、良いけど。余計時間取らせた。ごめんなさい」
「いえいえ。それじゃあお願いね」
何となく場が解散の流れになる。
一緒に教室を出て、互いに別方向を向くときに、梅澤さんが口の端だけで笑って言った。
「さよなら。あとは、『私に任せて』」
「……ええ、さよなら」
やっぱり良い人だ。
くすり、と笑いが洩れて、私は軽い足取りで教室へ荷物を取りに戻った。
➴
姉にパシられて近所のスーパーに行ったら、よりによって委員長と出くわした。
自然と顔の周りの筋肉が強張る。
そんな俺の反応に対して、正面から近づいてきた委員長の表情は晴れやかなものだ。
「こんにちは! いえ、こんばんは?」
「……ちわす」
「買い物? 自分でご飯作るの?」
「いや……姉に頼まれて……」
言いながらカゴの中を示した。
無造作に放り込んだ化粧品やら、しまいには生理用品がぶち込まれているのに、委員長の目が丸くなった。
色々な意味で最悪のタイミングだ。
泣きたくなる気分のところで、委員長はふわりとセミロングの黒髪を揺らして笑った。
「私も母から頼まれてるの。餃子作るのにニラを買い忘れたんですって」
「へえ……それは」
餃子にニラが入らなかったら餃子じゃない。
持論を言いかけたが自制。
「……早く買って帰ったほうが良いんじゃない……ですか」
そう言うと、委員長がそっと目を伏せた。
「……やっぱり、私のことまだ嫌い?」
直截に訊かれて、正直ぎくりと肝が冷える。
俺の脳裏には、女子生徒を容赦なく泣かせた日の委員長の後姿が焼き付いている。
寝起きで像がぼやけているのが幸いだったが、あの時教室に漂った空気の肌を刺すような冷たさは生々しいままだ。
「……正直言うと」
嫌い。
ぼそり、と誤魔化しても駄目だろうな、と委員長をのろのろと見やった。
委員長は、心底悲しそうな顔をしている。
それが俺にはすごく気味が悪い。
『委員長』は、いつも笑うのだから。
喜怒哀楽の全てが笑い。
喜喜楽楽だ。
それが俺には心底気持ち悪かった。
でも、今の委員長もそれに負けず劣らず気持ち悪い。
ボタンを掛け違えたまま一日を過ごしてしまったような――収まりの悪さ。
「そう……まだ嫌われてるんだ、私」
「まだ……っていうか」
「だってそうでしょ?」
委員長は笑った。
とても悲しそうに。
こっちが切なくなるような笑顔で。
以前まで彼女が浮かべていた笑みとは質の違う微笑みで。
「ねえ、少し話しましょうか」
「え?」
突然切り出されて間抜けに反応すると、彼女はカゴを持ち上げて言った。
「お会計終わってから、少し夜道を送ってくれない?」
「……それは、まあ」
俺も、承諾する。
不思議と、拒絶する選択肢がなかった。
➴
左斜め後ろの彼は、私と鉢合わせした瞬間、露骨に顔をしかめた。
とても傷つく。
けれど、その気持ちが私にはたまらなく愛しい。
こうして私が喜怒哀楽を得られたのはあなたのお陰なのよ、と彼に言いたいくらいだ。
けれど、彼は認めないだろう。
私たちが共に見たあの夢は、私たちの中ではまるでなかったことのように済まされているから。
ただまあ、もうその誤魔化しは終わるだろうな、と彼に夜道の護衛を頼みながら思った。
会計を済ませると、先に彼が自動ドアの前で待っている。
「お待たせ」
「……ん」
私がどれだけ微笑んでも、彼は笑い返してくれない。
これはきっと恋ではないけれど、でも寂しい。
私は、彼に一人の人間として見てほしいのだ。
「……夢を、見たでしょ」
だから私から切り出した。
案の定、横を歩く彼の肩が過剰なほど跳ねる。
お互いに、もう過ぎたことだと思っていたから。
けれど私は違う。
私はこの日に死んで、生まれたから。
「あの夢。どうして私、君と出会ったのかしら」
「……さあ」
「はぐらかさないでよ」
少し怒ると、彼がまた気味悪そうに視線を逸らした。
ほら、その反応。
「私、あの夢から変わったでしょう」
逃げる彼を逃がすまいと、私はどんどん切り込んだ。
「君の溜めていた『わるいもの』を全部もらったから」
「……ああ」
「あれ、私はすごく感謝してるの」
そう言うと、彼が驚いたように目を見開いて私の方を見つめた。
➴
感謝してる?
やっぱりこの女はおかしいままなんじゃないか、と思った。
グラスに満たされた、俺の抱えていた全てのストレス、それを象徴する真っ黒な液体のイメージ。
あの日あれを飲み干したのは、俺ではなくて委員長だった。
お陰で俺は誰もが陥るかもしれない闇から辛くも逃れ、代わりに委員長は、それまでの聖女面をかなぐり捨てることになったのだ。
その直後、教室で彼女の言い放った言葉が波紋を呼び、一部の女子生徒たちから敵視されるきっかけになったのを俺は知っている。
今まで波風立たない聖域に生きてきた彼女が突然、そんな女たちの汚い怨念の中に放り込まれて、どれだけのストレスが彼女の心に襲い掛かることだろう。
てっきり、恨まれていると思っていた。
そして、言い返す準備は出来ていた。
「……飲んでくれとは、言ってなかった」
俺がそう絞り出すと、委員長は少し不思議そうな顔をした。
確かに前後の文脈は合っていない。
しかし聡い彼女なら、俺の心情を推し量りきるだろう。
だからそれ以上は何も言わないことにした。
言葉を重ねるたび、本当に言いたいことから遠ざかる気がしたからだ。
そしてやはり、委員長は俺の胸中に気付いた。
「……確かに、私の勝手な真似だったわね」
だから恨まないのよ。
言外にそう言われた気がして、また委員長を見つめた。
委員長も、静かな表情を浮かべている。
けして、あの聖女のような微笑を俺には見せない。
「言ったでしょう? あの日に私、あなたに『ありがとう』って」
「……それだよ。何で、俺に『ありがとう』なんだよ」
「だって」
「俺が生み出した『わるいもの』は全部、俺自身が飲み込まなきゃいけないんだ。誰かに飲んでもらうなんて、あっちゃいけない。お前が俺を恨んでなくても――俺は、お前を恨んでる」
だからありがとうじゃないんだ。
そう吐き出すと、委員長は心底驚いた表情になった。
➴
恨まれている。
それを知って、心のどこかがすっと解れた。
「恨んでる……」
「……ああ」
反芻しても、彼は否定しない。
それが、嬉しかった。
「じゃあ、私……許してもらえるのね」
「は?」
「恨まれた人は、誠意を尽くせばいつの日かは許してもらえるんでしょう?」
そういうものだ。
恨まれた人は、自分を恨む人に誠心誠意をもって謝罪し、懺悔して、許しを乞う。
それを受け入れてもらえないのは、嘘だ。
お互いに妥協点が見つからなくなっただけだ。
そう言うと、彼が露骨に呆れた表情になった。
私が初めて見る彼の顔だ。
「そんなわけないだろ。どう頑張ったって、足掻いたって、許してもらえないことはあるよ」
「そうなの?」
馬鹿だろう、と言われている気分だった。
現に、彼はそう思っているのだろう。
➴
馬鹿だな、と思った。
一気に拍子抜けする。
いくら人間くささが彼女に与えられたところで、今の彼女は幼稚園児並みだ。
許してほしくても許してもらえないことがある。
額を擦り付けて足を舐めたところでどうにもならないことがある。
懺悔しても、聞いてくれる神がいないこともある。
それが分からないなんて、幼稚園児だ。
「……なんか、拍子抜けした」
現にそう言ってやると、彼女はまたきょとんとした顔をする。
聖女の次はまるで子どもだ。
やっぱり扱いにくいことこの上ない。
「俺があんたを嫌いなのはさ、そういうところだよ」
「どこ?」
「まるで、奇跡は起こるみたいに思ってるんだもんな、あんた」
「……起こらないの?」
「起こらないよ」
断じると、彼女が心なしか傷ついた表情をした。
しかし事実だ。
「俺たちが……あんたが今いる世界は、奇跡なんて起きないよ。ぐちゃぐちゃどろどろ、願っても叶わないことがいっぱいだ。あんたが今までいた世界みたいに、皆が皆良い人に見えたり、余計なものは視界にも入らないような場所とは、全く違う」
「……そう」
「そう。だから俺は、馬鹿正直に全部を信じてるあんたを見てると、イライラするから、あんたが嫌いだ」
「そう」
「その上、俺の『わるいもの』を全部飲みやがった。お陰で俺のストレスは消化不良で宙ぶらりんだ。飲み込んで飲み込まれれば良かっただけなのに、あんたに横取りされたっていう新たなストレスでイライラすることこの上ない」
この機会だ、全部ぶちまけてやろうと思った。
それから俺は歩みすら止めて、彼女に対する悪態を全て吐き出した。
感心なことに、彼女も歩みを止めて、俺の目を真摯に見つめながら俺の言葉を聞く。
➴
「聖女みたいな面しやがって」
「偽善者だろうが」
「顔が気に入らない」
「へらへらしてんじゃねーよ」
耳を覆いたくなるほど罵倒された。
彼の口は滑らかに、私への罵詈雑言を放つ。
まるで、私とは違う。
梅澤さんのそれだ。
ぼうっ、と何一つ聞き逃さないように彼を見つめながら、私は彼の言葉の終わりを待った。
そして終わりは訪れる。
「――だからっ、俺はあんたが嫌いだ」
言い切って、彼は心なしか呼吸が荒くなっていた。
そんなにも鬱憤が溜まっていたのか、と驚く。
けれど私は、そっと言った。
「……簡単なことなのね」
「……何が?」
自然と、笑いが洩れる。
また彼はぎょっとした表情になるけれど、これは私の心からの笑顔。
それを正面から彼に向けて、私は言った。
「『わるいもの』を飲み込むしかないなんて、嘘よ」
「なっ……あんた、聞いてなかったのか」
「いいえ。でも、あなたはそこだけ間違ってるわ。あなたは、こうして私に対する悪意を全部ぶちまけてとても――楽になったように見える」
「――!」
図星を突いた。
その優越感で、私の口も滑らかになった。
「なるほど分かったわ。こうして世界が回っているのね。そうやって誰かの悪意は誰かに吐き出されて、その人のグラスは空っぽになるのよ。けれど吐き出された人のグラスが代わりに満たされていく。それをまた吐き出して、っていうサイクルが出来るのね」
「いや……」
「私は今までそのサイクルから外れていたんだわ。だからきっと、あなたから気持ち悪がられたのよ。でも安心して。私もまた、この気持ちを吐き出すことにするから」
クラスの女子たちに敵意を向けられるようになってから、また思ったことを控えるクセが出ていたような気がする。
もちろん、私がこんなどろどろしたものを知ってから時間がそう経っていないのも原因だ。
けれど、梅澤さんの言葉が思い出される。
「私、遠慮しすぎていたのよ。それじゃ、バランスが取れないのに」
「――……」
「こうやって世界は回る。誰かが誰かを傷つけて、涙が流れて、そしてそれを吐き出すことで笑顔になる。とても嫌な世界ね」
「……同感」
理解した、理解した。
自然と笑みがこぼれる。
今なら許される気がして、私は無邪気に彼に聞いてみた。
「ねえ、私に全てを吐き出して――あなたのグラスは空になったかしら」
➴
委員長の問いに、俺は何故か笑みを浮かべた。
やっと気付いたか、という気持ちだ。
そうだ、そういうことなんだ。
そうしてお前もサイクルの中に入ってしまえばいい。
そんな残酷な気持ちになりながら、そもそも俺の今まで抱いてきた世界に対する解釈が間違っているという事実にも気が付いている。
こんなのはきっと詭弁だ。
もっと高尚な意見を、大衆の前で話してみせる聖人たちにこの持論を話したところで俺の手を取ってはくれないだろう。
もっと世界は素晴らしい。
もっと大きく物事を見るべきだ、と。
けれど、凡人の俺には、こんな結末しか選べない。
そのことに今まで良いようの無い孤独を覚えていた。
しかし今目の前には、俺の解釈を自ら理解した女がいる。
俺はその感謝を込めて、彼女の問いに笑顔で答えた。
「ああ。今俺は、この上なく晴れやかな気分だ」
きっとこの世界はもっと素晴らしい。
けれど俺たちに見えるのは世界の汚いところばかりだ。
口うるさい姑でもないのに、全く難儀なものだと思う。
しかし今は感謝しようカミサマ。
「今、お前のことがすごく好きになった」
➴
「嬉しい。ありがとう。私もあなたのことが好き」
返しながら、私は泣きそうだった。
嬉しくて泣きそう。
この世界はもっと美しいかもしれないけれど、でも今はそんな世界いらない。
たった一人、彼と理解し合えるならばそれで良くなった。
今こうして彼と想いを共有していることに全力で感謝したい。
この世界は美しくて素晴らしい。
でも、今見えるこの世界こそが生きる世界で、今はそれだけで充分だ。
だから今日も、感謝の歌を歌おう。
凡人らしく、不恰好に。
俗人たちの賛美歌