聖者の葬送
「小説家になろう」時代。
目の前でゆらゆら。
振り子のように揺れる空のグラスに伸ばした手は、いつも大人の手だった。
長い間見てきた夢だけれど、小学生でも中学生でも、いくつになっても私は大人のような体をしていたのだ。
黒い喪服で身を包んで、手に入れられないものを探していた。
+
「委員長はいつも頼りになるよねー」
媚びるような女子の声は、冬の寒風と同じ。
当たり前すぎて、何とも思わない。
「ううん。また、いつでも私に任せてね」
ひらひら、といい加減に手を振って女子は帰っていく。巣に戻るみたいに、同じグループの女子たちのところへ。
静かになったな、と思うと左斜め後ろが気になった。
振り返りはしないけれど、そこに突っ伏する人を意識する。
いつも寝ていて、時折苦しそうにする男子生徒。
たまに起きていても、友達と思しき男子と言い争っている。
なかなかイライラしやすい性質たちのようだった。
私にはない感情だ。
誰かに対してイライラしたり、敵意を向けるようなことは。
両親にも、
「問題を起こさない、手のかからない良い子」
と言われてきた。
でも、私はそれを誇らしくは思わない。
一度だけ、左斜め後ろの男子生徒に言われたことがあるからだ。
『お前のは、博愛に見えた見下しだ。人間らしさのないお前を、俺は心底嫌いだ』
そんなことを言われたのは初めてだった。
ショックだった。
けれど納得した。
私に足りないものを教えてくれた彼に、感謝して手を握りたいくらいだった。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
問題は、どうすれば私がその足りないものを埋められるかだ。
彼に言われてからずっと、私はそれを探している。
現実でも、夢の中でもずっと。
+
グラスはいつも空っぽだった。
一体何を入れるためのグラスなのだろう。
手を伸ばしても届かない。
あれを手に収めることができたなら、何かが変わりそうな気がするのに。
何度手を伸ばしても伸ばしても、届かない。
皆はここに、何を入れているのだろう。
+
一度、窓の外を眺めたら、ガラスに映る彼と目が合ったことがある。
向こうは私と目が合った瞬間に、忌々しげな顔をした。
とても嫌われているらしい。
その感情も、私の知らないもの。
嫌いなら、何も思わないじゃない。
ただ無心に、やりすごせばいいじゃない。
そう思っているうちに、これが彼の言っていたことか、と気付いた。
――『博愛を装った嘲弄』
――『無害を謳った憤怒』
聖者の預言のように、彼は私をそう断じた。
不快ではなかった。
そういうことを感じるための『何か』がないから。
しかしどういうことかは知りたかった。
例えばニュースで殺人事件の報道だったりを見るたび、素朴に疑問を覚えた。
どうして嫌いな人を殺してしまうのだろう。
嫌いな奴をこの世から抹消せしめたところで、お陰で自分が刑務所に入ってしまうのでは、馬鹿らしい。
もっと、やりようがあるのに。
自分が嫌いな奴から離れれば解決する問題ではないの?
一度、彼とじっくり話したいと思ったことも何度もある。
けれど断られるだろう。
彼は、私のことが嫌いだから。
ああでも、その感情。
それが、私は知りたい。
+
分かったことがある。
グラスに入るのは、欲望ではない。
もっと違うものだ。
もしかしたら、私に足りていない『何か』が。
それなら、ずっとこのグラスが空なのに、納得できる。
ならば教えてほしい。
このグラスには、何が入るの?
+
また席を去った女子を見送ったとき、思いきって左斜めを振り返ってみた。
自分の腕を枕に、机に突っ伏している彼の顔は、少ししか見えない。
眉根を寄せた、険しい表情だった。
寝ているのに、と心配になる。
私にない『何か』が、彼にこんな表情をさせるのだろうか。
だとしたら、知りたい。
今彼が何と向き合っているのか。
そっと、手を伸ばした。
彼の頭を、撫でる。
+
初めて見る『それ』からは、言いようのない『わるいもの』を感じた。
私の中にそれを形容する言葉はないけれど、とても嫌な感じ。
真っ黒なもので満たされたグラスを持った彼の横顔は、どこか聖者のように荘厳な面持ちだった。
まるで、死を決意したみたいに。
「私に任せて」
気が付くと、彼の手からグラスを取り上げていた。
長年焦がれたものを、この手に持った。
その感動が、胸を震わせた。
すると、一瞬ぎょっとしたような顔をした彼が、険しい表情のまま私の顔を見た。
「いいんちょう」
初めて呼んでくれた、と嬉しくなった。
けれど、彼は苦しげに私に向かって手を伸ばしてきた。
「駄目だ。それは、俺が飲まなきゃ」
私は、彼を安心させようと微笑んだ。
あの横顔から、彼はこのグラスを望んでいないことが分かる。
けれど、私はこれを熱望している。
たまには、私がワガママをいっても良いじゃない。
完璧な人みたいに皆は言うけれど、私だって、欲はあるのよ。
そんな誓いを込めて、私はグラスを呷った。
どろり、と口の中に流れ込む黒いタール。
苦くて酸っぱくて、粘着で、何て気分の悪いものばかり。
けれど、嬉しかった。
彼の悲鳴を聞きながら、嬉しかった。
きっとこれだ。
これが、私が求めてやまなかった『何か』だ。
きっとこれを背負うべきは彼自身だった。
けれど、お陰で私は理解した。
私に足りなかったのは、『わるいもの』。
人を憎んで、疎んで、嫌がる全ての気持ち。
流れ込む全ての『わるいもの』に、だんだん笑っているのが馬鹿らしくなってきた。
今までの私は、なんて薄っぺらかったんだろう。
こうして『わるいもの』も知って初めて、人は本当に誰かに優しくなれるのに。
『わるいもの』を向けたくないと思える人、その人に気が付くことができるのに。
「飲んだな」
彼の言葉は、恨めしげだった。
仕方ないかもしれない。
私は、彼のものを奪ったのだから。
「そうやって恩を売ったつもりか」
違うわよ。
そう笑ってあげようと思ったけれど、何でもないときに笑うのはやっぱり馬鹿らしい。
けれど、恩を感じるのは私の方よね?
「ふざけるなよ」
また、グラスに真っ黒な中身が注がれた。
針で刺してしまった指から血が出るように、ぷつり、と。
彼の悪意に呼応するように、また『わるいもの』は蓄積される。
私のグラスにも、いつか満たされる日がくるだろう。
「……それは、俺のものだった」
ぷつり。
「俺のことも、見下してんのかよ」
ぷつり。
「どうして……」
「笑わないんだよ」
+
「委員長、起きてよー」
おどけるような女子の声が、耳障りで起きた。
顔を上げて、自分が机に突っ伏して寝ていたことに気がつく。
「んん……何?」
「えへへー、あのねー。ここ、明日の英語で当たるから、全部教えてほしーなー」
自分の周りから、音が消えるような錯覚を覚えた。
寝ている人間をわざわざ起こしてまでの用事がそれ?
呆れかえって、とっさに何て言えばいいのかが分からなかった。
そもそも、こんな気持ちが初めてだ。
どんな言葉を使えばいい?
赤子のようだな、と自分でもどかしくなったとき、何かの天啓のように、言葉が降りてきた。
不思議なことに、彼の声だった。
それを、私の声で言葉にする。
「それぐらい自分でやりなよ」
教室の空気が、凍りついたようになる。
霜月の、早朝の空気だ。
背後で、彼が起き上がる気配がした。
けれど、まずは目の前の『面倒事』が先。
「さすがにさ、課題は自分でこなしてよね。しかもあんた、まだ先週が期日の書類出してないし」
毒のある言葉と共に、大儀そうに首を傾けてみた。
彼がよくやっているポーズだ。
続いて大きなため息。
「うんざりなんだよね。毎日毎日。最低限のこと出来ないなら、女子高生やってんなっつーさ」
立ち尽くす女子生徒の顔に、胸のつかえがすっとする。
怒りが、霧が晴れるように消えていく。
そして完全に晴れやかな気持ちになったとき、彼女はわっと泣き出して教室を飛び出した。
それを追うように、何人かの女子が私を横目に見ながら続く。
怖いものを見るような、おもねるような、複雑な眼差しを投げて。
私はそれを正面から受け止めて、平然としていた。
何も痛くない。
言うだけ言ってやった。満足。
こうした、『不快』のあとに待つ『爽快』は、初めて知る。
何て今まで、もったいないことをしてきたのだろう。
これは、彼にお礼を言わなければいけない。
くるり、と振り向いたとき、それまで状況に置いていかれたらしい彼が、ぎょっとして身を竦ませた。
そう怖がらないでほしいけれど。
「……何」
恐る恐る、という風に聞かれて、私は彼に対して微笑んだ。
「ありがとう」
「――!」
「欠けていたものを、分けてくれて」
それだけ言って、また前に向き直る。
する、と三つ編みを解くと、ふわりと黒髪が広がる。
夢の中の私に倣って、喪に服す。
あれは、完璧なように見えて完璧な人間になりきれていなかった私自身への手向けだったのだ。
人間くさい私になるための葬式。
『わるいもの』を知った人間の営みは、美しい。
何とも皮肉なものだけれど、彼には本当に感謝している。
だから出来たら私を好きになって。
そうして、『私』を見送るための葬列で、一緒に並んでほしい。
聖者の葬送