聖女の喪服

「小説家になろう」時代。

 真っ白な世界で、グラスが目の前にあった。
 どこの家にもありそうな、平凡のガラス製のグラス。

 そこに、グラスの縁ぎりぎりまで、真っ黒な液体が注がれている。

 風も吹かない凪いだこの空間で何故か、その表面に波紋が波立つ。
 音がない。
 何もない。
 自分の体を見下ろしたとき、そこには何もなくて、これは夢だな、と気付いた。

      *

 目覚めてすぐの意識をつついたのは、クラスの女子の誰か、その姦しい声だった。
「委員長、これ昨日提出だったっけー!」
「あ、いいよいいよ。提出してくれれば充分。あとは、私に任せて」
 答えるのは、豊かな息遣いが聞こえそうなほど、生き生きとした女の声。
 右斜め前。
 時代遅れとも取れるおさげ髪がぴょん、と跳ねた。
「いいんちょ、今日の数B当たりそうなんだけど、ここ教えてー」
「ええー? まあ、任せて。ここはねえ――」

 ――胸くそ、悪い。

 心の内で吐き捨てて、俺は窓の外に視線をやった。
 しかし忌々しいことに、そのガラスに『委員長』の姿が映り込んでいる。
 黒いプラスチックフレームの眼鏡に、黒く短いおさげ。
 二年D組の『委員長』は怒らない。
 期日厳守のアンケート提出が遅れても、宿題を模写させてほしいと頼まれても。
 きっと、今すぐ金を貸してほしい、とさしたる接点のない俺が欠伸混じりに頼んだとしても、笑顔で五万円くらい貸してくれることだろう。
 まるで聖女のような慈愛と微笑でだ。
 人間くささを感じない、まったく現実味のない女。
 完璧すぎていっそ気味が悪い。
 高校生にもなって、子どもじみているかもしれない。
 けれど、『委員長』のことを俺は一切、賞賛する気になれない。

 あれは博愛を装った嘲弄。
 きっと無害を謳った憤怒。

 あれはきっとそれだ。
 ストレスなく人間が生きていけるわけが無い。
 だから俺は、彼女の美しい行いが嫌いだ。
 まるで聖女のような面をしながら、腹の底では全てを馬鹿にしているような彼女のことが。
 この上なく。
 最高に嫌いだ。

 ――なんていうことを本人には言わない俺も、最低。

 ごそごそ、と机に突っ伏してみた。
 すぐに睡魔が襲ってくるが、それに素直に便乗する気にはなれない。
 どんな夢を見るか、分かっているときほど睡魔は強力だ。
 またあの訳の分からない夢の続きだろう。
 そんな気がする。
 きっと、あの黒い液体は『わるいもの』だ。
 黒が、清濁合わせて飲み込むどころか、塗りつぶしてしまったもの。
 そして結局は行き場もなく、グラスから溢れるほどに溜まったもの。
 あれは、誰かに飲ませようとして誰かが用意したものだ。

 きっと、俺に。

 嫌だ。

 あんな汚いものばかりを飲み込んでしまったら、俺はきっともっと最低な人間になる。
 こうして逃げようとしている俺も最低。
 けれど、あれを飲むのは嫌だ。
 誰か、引き受けてくれればいいのに。

 ――そう思いながらも、睡魔は容赦なく俺を白い世界に引きずり込んだ。

      *

 飲め、と誘うような揺れ方だ。
 グラスはふわふわと揺れる。
 しかし中身は零れない。
 少しも、減らない。

 ――いやだ。

 そう言おうとしても、この世界に音は無い。
 グラスは揺れる。
 誘うような、妖艶な動きで揺れる。

 ――いやだ……。

 何故喉を震わすことができない。
 空気はあるのに、声帯は震えない。
 目が覚めない。
 今すぐ目が覚めればいいのに、覚めない。
 どうして覚めない。

 ――どうしてだ!

 グラスを、振りかぶった腕で覆そうとした。
 しかし、ふらりと揺れたグラスはそれを躱す。
 何度やっても同じだ。

 ――……いやだ。

 きっと声が出ていれば、掠れていただろう。
 しかし声は出ない。
 泣きそうになった。
 誰かが助けてくれればいいのに。
 けれど出来ないのだ。
 『わるいもの』は、今さら一人分の涙で覆ったりはしない。
 ぼろぼろ、と泣いた。
 他に誰もいないのをいいことに、泣いた。
 声が出ればもっと良かったのに。
 音の無い世界で、嗚咽もできずに泣いた。

      *

「委員長ありがと、助かったよー!」
「いえいえ」
 鼓膜を叩いたのは、また女子生徒と、『委員長』の声だった。
 感覚として、またすぐに眠ってしまう気がする。
 今はただまどろんでいるのだろう。
 どうしてこのまま起きられないのか。忌々しい。
 ふと、眠りに落ちるその最後の瞬間に、何かが頭を撫でた気がした。

      *

 グラスを、取った。
 もう仕方ないだろう。
 この夢に終止符を打つときだ。
 手の中に、重みはなかった。
 軽いからこそ、漂いやすい。
 『わるいもの』は、そういうものだ。
 においはしなかった。
 きっとこれは毒ガスのように、俺を侵食する。
 こうして、『わるいもの』を飲み込んだなら、俺は『わるいもの』に飲み込まれるのだろう。
 その時の俺が何をするのかなんて、考えたくはないけれど。
 いつも誰かのそばにはあるグラスだ。
 それを取ったならあとはもう、

 ――飲み込むしかない。

      *

「私に任せて」 

      *

 つい、と横から手が伸びてきた。
 真っ黒な手に、思わず後退あとずさろうとしたら、動けなかった。
 一瞬で、恐怖が全身を支配する。
 すると心なしか、『わるいもの』の水面が揺れた。
 また、満たしてしまった。
 そしてこれを飲み干すのは俺だ。

 余計な真似をしてくれた、と手に視線を戻すと、それは真っ黒な手袋をしているだけだった。

 パーティーのような、肘までも覆い隠しそうな手袋。
 そしてほとんど肌を見せずに、華奢な肩がつながっていた。
 女だ、と思わず見とれた。
 腕とは対照的に、大きく切り取られた襟口からは、真っ白な首筋が続き、そして真珠のネックレスをした細い首に被せられたベールのように、漆黒の艶やかな黒髪が波打っていた。

 これは喪服だ、と気付いた。

 誰のためのだろう。俺のためか?

 しかし、俺と視線を交錯させた女は、美しく微笑していた。
 まるで聖女のように。

「いいんちょう」
 声が、出ていた。
 眼鏡をしていない『委員長』に、俺は首を横に振ってみせた。
「駄目だ。それは、俺が飲まなきゃ」
 そう言って、彼女の手からグラスを取り戻そうとする。
 しかし、そっとそれを制した彼女は、俺にまた微笑んでみせると、止めるのをためらってしまうような、流麗な仕草でグラスを傾けた。
 口の中に、タールのような『わるいもの』が流れ込む。
「ああ、ああ……」
 悲鳴のような声が、俺の喉から出た。
 彼女が飲んでしまう。
 俺が背負うべきものを、全て。
 相変わらず、忌々しい聖女だ。
 そう恨みを込めて見つめる間に、委員長はグラスを空けてしまった。
 その横顔は、爽快なほど美しい。
 彼女のまとう喪服の陰鬱さは、何も及ぼすことなく吹き飛ばされる。
「飲んだな」
「そうやって恩を売ったつもりか」
「ふざけるなよ」
 また、グラスに真っ黒な中身が注がれた。
 針で刺してしまった指から血が出るように、ぷつり、と。
「……それは、俺のものだった」
 ぷつり。
「俺のことも、見下してんのかよ」
 ぷつり。
「どうして……」

「笑わないんだよ」

      *

「それぐらい自分でやりなよ」
 教室の空気が、凍りついたような錯覚で目が覚めた。
 霜月の、早朝の空気だ。
 何だ? と机から頭を上げると、右斜め前で立ち尽くす女が目に入った。
 いつも委員長に答案を写させてもらっては、へらへらと笑っていたやつ。
 その女が、何か見てはいけないものを見たような、それでいて曖昧に笑うような、おかしな表情で立ち尽くしている。
 ここが、騒ぎの中心か。
 そう認知した瞬間に、厄介事はゴメンだ、と思う気持ちが膨らんだ。
 大方友達にしつこく絡んだのだろう。
 多分右斜め前に座ってるやつにだ。余計なちょっかいを出しすぎて度が過ぎた、そんなところか。
 ――俺には関係ない。
 そう思って、もう一度眠りに落ちようとしたときだった。
「さすがにさ、課題は自分でこなしてよね。しかもあんた、まだ先週が期日の書類出してないし」
 毒のある言葉と共に、時代遅れともとれるおさげ髪が傾く。
 続いて大きなため息。
「うんざりなんだよね。毎日毎日。最低限のこと出来ないなら、女子高生やってんなっつーさ」
 いつも、
「私に任せて」
 を連発していた声は今、悪意をもった鋭利な言葉を、女に投げつける。
 しばらくわなわなと震えていた女は、わっと泣き出して教室を飛び出した。
 それを追うように、何人かの女子が委員長を横目に見ながら続く。
 怖いものを見るような、おもねるような、複雑な眼差しを投げて。
 それを受けても、委員長は平然としていた。
 やがて教室は、残されたものたちで仮初の騒がしさを取り戻す。
 しかし俺は置いていかれていた。
 何があったのだろう。何が、委員長を委員長でなくしたのだろう。
 そう思いながら、脳裏にはあのグラスを傾ける委員長が焼き付いていた。
 ――あれは、俺の夢じゃないのか。
 ――毎日毎日、つまらないことで苛立ちを重ねては、それに傾いてしまいそうな自分をイメージにした俺の、夢じゃあ。
 すると、くるりと委員長が振り向いてきた。
 その眼差しは、間違いなく俺に向けられている。
「……何」
 委員長は、その時初めて、俺に対して微笑んだ。
「ありがとう」
「――!」
「欠けていたものを、分けてくれて」
 それだけ言って、彼女はまた前に向き直る。
 する、と三つ編みを解くと、ふわりと広がった黒髪は夢の中の彼女を演出する。
 ああ、と思った。
 あの喪服は、俺のためではなかったのだ。
 あれは、完璧なように見えて完璧な人間になりきれていなかった彼女自身への手向けだったのだと。
 『わるいもの』を知った彼女は、美しい。
 何とも皮肉なものだと思いながら、俺は彼女に見とれていた。

 もう、あの夢は見ないだろうという、確信があった。

聖女の喪服

聖女の喪服

ストレスフルだった思春期の話。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted