30、亜季・・・大人になれなくて
何が大人?
30、何が大人?
大学での打ち合わせは予想通り早々に終わり次の場所への移動に皆の顔が緩んでいく。
その一方で亜季はひとり少しずつ重くなる気持ちを抱えて家へと向かった。別れ際の朝香の顔が何故か悲しげで亜季への心配の表情が焼きついて離れない。
(朝香は何を考えているんだろ・・・?それにしてもエリカはもう来ているだろうか?・・・私はどんな顔をする?)
自分の家の前で心なし体が硬くなりインターホーンを押そうかそれとも自分の鍵でそっと入ろうか迷う。ふとそのバカバカしさに苛立ち思い切りブザーを押した。いつもより少し長めに。
「今、開けまーす。」という若々しく弾んだ声。
その声はまさしくエリカ。
鍵をまわす音。その瞬間亜季は緊張のど真ん中。
エリカの明るすぎる声と自分の心の重さ。亜季は二人の気持ちがまったく逆の方向に動いているのではないかと感じた。
(どっちがこの家の娘かわかりゃしない。)
「おかえりなさい。」
そう言ってドアの隙間から覗いたエリカの顔は亜季の知らないエリカだった。お化粧を落とした張りのある白い肌はどう見ても素直さと純真さを前面に押し出した様相。そんなエリカにどんな言葉を発っすればいいのか迷う亜季をみてニッコリ微笑むとキッチンへとむかった。
「亜季さんでした。」
そのあとには穏やかな母の声。
「あら、早いわね。あ、その棚のお皿を取って頂戴。」
亜季にとっては一種の安堵と混乱の光景。
(何?・・・これはどういう事?昨日のあの戦いにも似た緊張感はどこに行ったの?・・どう見ても仲のいい母と娘の絵じゃない。私はどうする?)
時に奇妙な事というのは起こるのがこの世だと知ってはいたもののこの現実は不思議と奇妙を掛け合わせさらにどうにも居心地が悪いという最悪の心情を亜季に与えていた。母はチラッと亜季の顔を見る。
「ご飯まだでしょう?今日は特製のハンバーグよ。ソースのベースはトマトと赤ワインにしたの。それをじっくり煮込んでね。ドレッシングはエリカさんのお手製。お料理が上手なの。そうね・・・亜季よりうまいかも。」
そう言うと二人は笑顔で顔を見合わせた。
「そう・・・よかった。着替えてくる。」
亜季の背中越に母とエリカの柔らかな会話。
(これはなんだろう?お芝居?出来の悪い夢?)
亜季は何故かひとり取り残された寂しさとやり切れない思いが体中を満たして行くのを感じていた。気がつくと以前姉が使っていた部屋のドアが開いている。
昨日まではただの箱。今は母が用意したのだろう、真新しいベッドカバーと窓には向日葵が描かれたカーテン。
(フーン・・・向日葵か。エリカと向日葵。なんか皮肉。私ならエリカの部屋には黒ゆりにする。)
部屋を出ようとした時だった。夕日が射しこむ小窓の下に置かれたチェストの上の写真立てに目が止まった。赤ん坊を抱いた女性。
微笑みながらも目元の厳しさがエリカに似ていた。考えるまでもなくエリカの母に違いない。
(まさか・・・この家にこの写真!)
驚きが亜季を掴む。そしてその後には朝香の心配が亜季にも押し寄せる。自分が振り回され、押し流されて行く気分。
その日の夕飯は多分これまで亜季が経験した事のないような憂鬱なものだった。それに比べこれがいつもの事というような何気なさと明るさを演じる母とエリカ。
(なんだか最後の晩餐のキリストの心境。・・・裏切り者は誰?・・・)
そんな亜季の心情におかまいなくふたりの会話が流れる。
「本当においしいです、このハンバーグ。まるでレストランで食べてるみたい。私の母は料理が苦手だったから。今考えると大人になって仕事をしてやっといろんなものの本当の味を知った気がするんですよね。」
「あら、そうなの。でもね美紀も亜季もあまりおいしいとは言ってくれないのよ。だから張り合いなくてだんだん手抜き。料理にはおいしい、掃除には綺麗。そういう簡単な誉め言葉がやる気にさせるという事を教えるのを忘れてしまったのね。」
そう言って母は亜季の顔を見た。エリカがすかさず亜季にボールを投げる。
「どうして?こんなにおいしいのに。幸せよ亜季さん。」
「もちろんおいしいけど・・・毎日それを言うのも変でしょう・・・疲れるし。」
「ね!こういう人なの。まあ美紀は結婚して少しは主婦の大変さもわかってきたかもしれないけど。亜季はまだまだね。人の気持ちがわからない。人を気持ちよく動かせない。それで本当に人の心を打つ音楽なんてできるのかそれが疑問だわ。」
(ああ、そこに来たか。それにしてもこのふたり・・・本音が見えない。CIAのスパイにでもなれるんじゃないかしら。)
亜季の存在を片隅にまだ二人の会話が続く。
「あ、お部屋のカーテンとか気に入ったかしら?何か足りないものがあったら言って頂戴。」
「ありがとうございます。私、向日葵大好きで。ただ・・」
そう言いかけたエリカの目が光る。
「写真を置いてもいいですか?」
その問いかけにはいいですかではなくもちろんいいですよねの意味合いが強く込められている響きがあった。当然母の出方を見ているのだろう。
亜季は思わず硬くなるのを感じた。思いだすのも嫌がっていた母がまさか父の浮気相手の写真が飾られる事まで見過ごすとは思えない。
「ええ、いいですよ。あなたのお母様ですものね。どうぞ、気にしないで。」
(えっ!いいの?なんで?)
エリカはただかすかに口元を緩めた笑みを浮かべる。それに比べ明らかに動揺している亜季に母が一言。
「なんで亜季が驚くの?住む場所が変わってそこにお母様の遺影を置きたい。あたりまえでしょう。びっくりすることじゃないわ。」
「でも・・・だって・・・」
後が言葉にならない。エリカが割ってはいった。
「亜季さんは苦労知らずだからこういう絡まった気持ちはまだわからないんですよ。」
「そうね。亜季はまだ子供なのかも。」
その後の亜季はただ沈黙。少なくとも今日はこの二人と話したくないと心の中で叫んでいた。
食事が終わり早々に部屋に戻りべッドに自分の体を投げた。腹立たしさが込み上げる。
(あんなつまらない駆け引き、なんの為?で、なんで私が子供だとか言われるの?・・・そもそも大人と子供の線引きはどこよ!
歳と見た目の大人はいくらでもいる。でも中身はわからない。子供のままの大人なんていくらもる・・・むしろそんな人の方が多いかも。
あんなくだらない駆け引きができるのが大人というならなりたくない。)
その時ドアのノックとエリカの声。
「どうぞ。」
さっきまでのエリカとは違ういつもの妖艶なエリカが亜季の前に立つ。
「余程おもしろくなかったみたいね、今日のお芝居。」
「ええ・・・どうしてお芝居の必要が?」
「・・・私とあなたのお母さんにはあるの。今を楽しくするためではなく過去の心の負債を清算する為にはそんな時間も必要なの。まあ、あなたにはわからないでしょうね。・・・それより来週丈さんとトリオで仕事。ピアノお願いしたいの。45分の2ステージ。曲目もだいたいは決まってる。まあ、丈さんだからちょっとラテンモードね。でも、ピアノはやりがいがあるわ。」
「わかりました。」
仕事の話になるとエリカはやはり頼れる存在だと亜季は思っていた。同じ人間に仕事とプライベートで相反する感情を抱くというのはやっかいで面倒なものだ。その矛盾がいつか表に出てくるのは二人ともかっていた。だからこそその前に今やるべき事をしなければならない。
まだとにもかくにもふたりの関係が保たれている時にこの音楽の世界で土台をつくらなければならないことを亜季は噛み閉めていた。
ただ、自分のその気持ちがさっきまで見ていた母とエリカのお芝居、駆け引きとは別のものだと感じている事が実は大人になり切れていない証だという事に気付いていない。
自分が正当だと信じられるのは子供かまたは子供じみた大人だということも。
大人はこの世に正当も正解も変化をとげる曖昧なものだと知っている。
亜季の心の矛盾を見抜いているエリカが部屋を出る間際にまた一つ置き土産を残していった。
「それから・・・知ってるかもしれないけど・・・私、淳と結婚するかも。」
あの淳との電話のあとふと亜季によぎった思い。それが今現実になりつつあることを知らせれた。
(エリカの母がかつて私の母から父を奪おうとしたように・・・今度はエリカが私から心を開ける人をさらう。まるで椅子取りゲームみたい。母は勝った。私は・・・多分もう負けてる。)
亜季の心は弱い自分に飲み込まれていた。
30、亜季・・・大人になれなくて