由香とトイ6
由香とトイ6
由香は夏休みで遊びまわって稼いだバイト代を使い切ってしまい、金欠になっていた。割と無計画に買い物をしてしまったのが原因だった。そんな自分を由香は激しく呪った。後で我に帰ると何でこんなもの買ってしまったのだろう。そんな物がゴロゴロ部屋にあったのである。ノリって怖い。と由香は思った。でも今はそれどころではない、と由香はすぐに立ち直った。夏休みも後半だが、由香にはまだ友達と旅行に行く計画が残っていた。ここでお金がないから節約するなんて、女が廃る。なんとか短期で割のいいバイトを探して乗り切ろう、と由香はやる気に満ち溢れていた。そんな由香が夏休みの短期バイトに保育補助を選んだ理由は、子供を相手にする仕事が簡単そうに思えたためだった。この仕事を由香に紹介してくれたのは荒井教頭だった。荒井教頭は最近由香と知り合いになった仲である。由香と荒井教頭との間に「喋るトイプードル」という共有する友達がいたことがきっかけになり、荒井教頭が由香を自宅に招き二人は仲良くなったのだった。秘密を共有しているためか、二人はお互いちょっと特別な友情を感じていた。由香は友人の一人として、人生の先輩として、荒井教頭とラインでやり取りするようになった。そんな事から由香はどこかにいいバイトがないかなー、とラインで荒井教頭に聞いてみたのだった。由香は前のファミレスでもいいかなと思って調べたのだが時給が下がるという謎の現象が起きていたので前の職場で働く気が失せていた。時期的に夏休み特有の効率のいいバイトも見つからなかったので軽い気持ちで聞いてみたのである。「ちょうど良く、知り合いの保育園で人手が足りなくて困っているところがあります。園長さんがとてもいい方なのですよ。どうでしょう」と勧められたのがこの保育補助という仕事だった。保育補助という仕事を一日体験してみて、由香はこの保育という仕事を甘く見ていた事を知った。由香は子供が嫌いとかではなくむしろ好きだったし、従姉妹の世話もしてきていたのでやれる自信があった。仕事前には由香は可愛い子供たちに癒されながら楽しく仕事する、そんな想像をしていたのだった。実際のところはそんな余裕などなかった。由香の想像を超えるほどの仕事量だった。由香が担当したのは二才児のクラスだった。おむつを替えから始まり、一緒に遊んだり、洗濯物を干したり、お昼ご飯やお菓子を上げたり、布団を敷いたり、掃除したり。つまり肉体労働が中心の雑用が主な仕事だった。仕事も切れることなく続き、前のバイトのように暇な時間帯というものがなかった。由香は先輩たちのように素早くできないので先輩から「丁寧なのはいいんだけど、もっと早くやって」と苛立ったように言われてしまった。焦った由香が早くやろうとすると園児がぐずりだしてうまくいかなくて「何やっているの」と注意される。由香たちは予定より一時間オーバーした所で何とか終わらせることができた。由香は心底くたくたになって帰路についたのであった。由香は一度家に帰って、知子と合流して外食に出かけた。そこで知子に愚痴りに愚痴りまくった後、再び家に帰ると、もう十時過ぎだった。お風呂に入ったら明日も行かなくてはならないから、すぐに寝ないとならない。夏休みということで怠惰な生活をしていた由香にはあっという間に今日が終わってしまい、自分の時間が全然取れなかったことに唖然とするのだった。実のところ由香は安易に引き受けてしまって後悔していた。しかし紹介者が荒井教頭なので簡単に辞めますと言うこともできず、由香はあと四日もやらなくてはならないことにゲンナリした。短期の契約だっただけましかと思うことにして由香は明日も頑張ろうと思ったのであった。二、三日目。由香はがむしゃらになって雑務をこなした。時間内に帰れるようにみな必死である。幸い時間内に終わらせることはできたが由香はくたくたである。由香が慣れてきたかなと思った四日目。由香は突然別のクラスの担当になった。由香は遅いから外されちゃったのかなとネガティブな気分になった。そんな気持ちを知ってか知らずか、園長先生が由香に説明をしてきた。「休みを取っていたベテランが今日から出勤なんで交代してもらいます。由香ちゃんは五歳のクラスお願いね。二才児よりは、簡単だから頑張って。人がいないとは言え、あなたにはいきなり大変なところやらせてごめんね」としれっと言ったのだった。なんだい、いきなり経験もないのに大変なところやらせたんかい、と由香は頭に来たが、おむつを替えなくていいと考えると少しほっとしたのだった。このクラスの担当は確かに楽だった。みんな勝手に遊んでいるし、食べ物も確実上手に食べてくれる。けんかや危険な行動にさえ目を光らせておけば園児たちと遊んだりしているだけでよかった。若い女性の先生がいなかったためか、由香の周りには女の子が群がってきてモテモテだった。外で水遊び、室内に戻って数字の遊び、お絵かきなどとやっているうちに、お昼になり、お昼寝時間になった。水遊びではしゃぎ疲れたのか三十分ほどでみんな眠ってしまい、由香はここに来て初めて休憩する時間ができたのであった。先輩の先生たちと世間話をしていると一人の園児が起きてきて「先生遊ぼう」と由香に向かって言った。先ほどから由香の事を気に入って懐いてきた星月莉緒だった。どうも眠れないようだった。先輩たちいわく「眠れない子は無理矢理寝させないで、遊んであげてね」ということだった。由香と莉緒はみんなが起きて来るまで折り紙をして遊んだ。由香は金魚を折ってあげて莉緒ちゃんに。莉緒ちゃんは先月の教わったという浴衣を器用に折って由香に渡した。莉緒は「由香先生ありがとう。お兄ちゃんにあげるね。莉緒のお兄ちゃん金魚好きなんだ」と言って無邪気に喜んだ。莉緒は由香のことがよほど気にいったのか、迎えの母親が来るまで由香にべったりだった。莉緒は「またね、由香先生」と何度も振り返って手を振った。そんなこんなで由香は四日目の仕事を終えた。スケジュールの都合で次の出勤は来週になるので仕事は一旦終了である。由香は開放感でいっぱいになった。外で遊んだためか、汗を沢山かいた由香は速攻で家に帰って冷たいシャワーを浴び、炭酸を飲んで一服した。そして、母親にバイト代が入るまでの分を借り、明後日からのプチ旅行に思いをはせたのであった。旅行から帰ってきた由香はお土産を渡しに、荒井教頭の家に来ていた。律儀にもバイトを紹介してもらったお礼も兼ねていた。実はこの辺ではかなり時給が良かったので(ファミレスとは四日で一万近く違う)お礼をしなくては悪いかなと思っていたのだった。あらかじめラインで行くことを伝えた上で、荒井教頭の家に行くと、荒井教頭はにこやかに出迎えてくれた。トイも「いつもいるわけじゃないゾ。基本僕は野良が好きだからな」と訳のわからないいい訳をしつつ、涼みに来ていた。荒井教頭はいつものように由香を扇風器付きの縁側に通して、由香のお土産をとても喜んだ。そして荒井教頭は「お盆や省中見舞いでたくさんお菓子が余って困っているの。私たちあまり食べないから食べて」と言って大量のお菓子とお茶を由香に持ってきたのであった。由香は荒井教頭に、思ったより保育補助の仕事が大変だったこと、しかしこのバイト代のおかげで旅行を気兼ねなく楽しめたことを荒井教頭に話した。途中お約束のようにトイの茶々が入っていたのは言うまでもなかった。荒井教頭は孫を見るような目つきで嬉しそうに由香の話を聞いていた。由香たちが雑談していると荒井教頭の家に宅配便が来たのが縁側から見えた。由香と話をしている荒井教頭に代わって荒井教頭の旦那さんが出てくれたようで、旦那さんが箱を抱えて部屋に入ってきた。荒井教頭は旦那さんに「どなたからですか」と聞いた。「えっと」と旦那さんは胸ポケットから眼鏡を取り出した。眼鏡をかけると旦那さんは言った。「星月さんからだね、ええっと、どなただったっけ?」「市民協働課の袋井さんの娘夫婦。この間、家にいらしたでしょうしょう?息子さんと娘さんとで結構年が離れていた」「あー、袋井さんの娘さんかー。忘れていた」「息子さんに家庭教師を紹介したお礼でしょうね」「お返しを後で送らなきゃなぁ」ふとトイがいるのを見つけてしまった旦那さんは仏壇の前に箱を置くとまた奥に引っ込んで行ってしまった。由香は星月莉緒という園児がバイト先にいたことを思い出し「星月莉緒って名前の園児がバイト先の担当したクラスにいました。もしかしたらその送り主と関係がありますか?」と荒井教頭に尋ねてみた。荒井教頭は「確かに星月さんの娘さんの名前は莉緒ちゃんだったと思います。そうかもしれませんね」お昼近くになり由香がそろそろ帰ろうとした時、荒井教頭の携帯に電話がかかってきた。「はい。ええ。いえ、見かけていないし、来てもいません。はい。心配ね。ええ、ええ。わかったわ。今すぐ向かいます」と言って荒井教頭は電話を切った。「どうかなされたのですか?」「ええ、困ったことになったわ、莉緒ちゃんが幼稚園からいなくなったみたいなのよ」「本当ですか?」「心配しなくても大丈夫です。私とモコとで莉緒ちゃんを探しに行きます。由香さんは帰ってください。モコはここにいて頂戴。ちょっと星月家に行かなくてはなりませんので。そこで莉緒ちゃんの匂いがするものをお借りしてきます」「それなら私持っています。莉緒ちゃんの匂いがするものを」と言って由香は手帳に挟んでおいた莉緒が折ってくれた浴衣の折り紙を取り出した。「匂いがする物を持っているなら、今すぐに行こうゼ。捜索するなら早いほうがいい」トイは別に不満でもないのかそう提案した。「でも私はどちらにしても星月さんのお宅へ行かなくてはなりません。モコはここで待っていてくださらないと」「由香がいるじゃないか。由香と一緒に探せばいいだろ」と言ってトイは由香の方へあごをしゃくって見せた。由香自身も早い内に探したほうがいいと思っていたので「では、私がトイさんと行きます。早く見つかったほうがいいですからね」「そうね。ありがとう、由香さん。私もすぐに合流しますのでよろしくお願いします」由香とトイはそう決まるとすぐに荒井教頭の家を出て行き、莉緒を捜索することにした。由香たちは由香の家に行き自転車を出すと、トイを前かごに乗っけて幼稚園へと急いだ。幼稚園ではすでに警察が来ており大騒ぎになっていた。近所に人に何があったか聞いてみると園児の一人がお昼寝の時間にこっそり抜け出していなくなってしまったらしい。ということだった。警察がいるので、幼稚園にはいないだろうと確信した由香は、幼稚園を離れて、早速トイに匂いで追跡してもらうことにした。由香は手持ちの莉緒の折ってくれた折り紙の浴衣をトイに渡した。トイはその折り紙の匂いを覚えると地面をくんくんと嗅ぎだした。匂いは幼稚園の方から数メートルの所で途切れているようだった。「おそらく車に乗ったのだろう。残念だがこれ以上はわからないゾ」と、トイは困惑して言った。由香はこの事を荒井教頭に電話で伝えた。荒井教頭は由香の話を聞いたうえでこう言った。「こちらも大変なことになっているわ。脅迫状があったのよ。ちょっと待って」荒井教頭は話を遮るとしばらく無言になった。小さい声で「一度電話を切ります。後はラインで」と言って切ってしまった。すぐに先生からラインが来た。脅迫状に警察に知らせてはならないと書かれていたために星月さんが神経質に成っています。私はもう少しここに留まらなくてはなりません。でも私にちょっと思い付いたことがあります。星月さんの家まで来てください。場所は○○です。といった内容だった。由香たちは書かれていた住所へと自転車で向かった。付近に近づくとトイが不意に由香に止まるように指示をした。由香が「何かあったの?」とトイに聞くと「匂いがする。莉緒という子供の」とトイは小さな声で言った。トイは地面に降りて鼻を地面にこすり付けるかのように匂いを嗅ぎだした。そうして匂いを嗅ぎつけたのか顔を上げて歩き出し、二人はしばらく歩いた。トイはその持ち主を見つけていた。駅前近くのコンビニから出てくる男から莉緒の匂いがしたのだった。由香はトイにあの男なの?と確認すると、遠くからこっそり写真を撮った。トイは先にどんどん進んで追跡する気満々のようだった。人がいるので二人は終始無言であった。しばらく追跡しているとやがてビジネスホテルに男は入って行ったのであった。由香は直ちにホテルの場所と男の写真を荒井教頭にラインで送った。荒井教頭は分かった。今すぐにそちらに行くので待っていて欲しいと連絡が返ってきた。十数分後。荒井教頭と莉緒の母親がホテルに現れた。荒井教頭は「莉緒ちゃんは大丈夫だと思いますが、やはり心配なのですぐに突入しましょう。由香さん説明は後回するけどごめんなさい」と由香に言うと、由香たちはビジネスホテルに全員で乗り込むことになった。受付に自分たちは星月の家族であり、当人に会いに来たという旨を伝え、ホテルに入ることに成功した。すぐさまトイにが男の追跡をし、例の男が借りている部屋の前に来た。事前に荒井教頭がトイのことを鼻の利く優秀な犬であることを莉緒の母親に話していた。その為、莉緒の母は疑問に思うことはなかったようだった。莉緒の母は呼び鈴を鳴らすと、「莉緒ちゃん?居るの?」と扉を叩いた。扉が開くとさっきの男が出てきて「もう見つかるとはね」と頭をかいて言った。莉緒の母が驚いて言った。「和也くん?どうしてここに」二人の間に沈黙が流れた。「とにかく部屋に入りましょう。ここに皆でいたら変でしょう?」と荒井教頭が言った。和也といわれた男は別に悪びれる様子もなく「そうですね。みなさん入ってください」と促した。部屋に入ると奥の方で莉緒が寝ていた。「莉緒が寝ているから静かにお願いします」と和也は言った。「なぜ和也くんがここ居るの?勉強合宿中でしょう?」と莉緒の母が言った。和也はそのつもりだったのか、静かにゆっくりと真相を話しだした。和也は勉強の事で悩んでいた。友達との学力が開いてきて、友達との仲が何となく気まずくなってきていたのだった。そんな時に和也の成績が下がった時があった。両親は和也にこんなお説教をしたのだった。成績が悪くなったのは、頭の悪い友達とつるんでいるからだ。もっと頭のいい人と付き合いなさい。勉強する環境が悪いから家庭教師をつけさせよう。今が大事な時だから、勉強しなさい。そして結果を出しなさい。いい大学に入ればそれだけ後で有利な人生を送れるんだぞ。和也は普段は何も言わないくせに、いざ成績が悪くなったら鬼の首を取ったようにお説教する両親に初めて不信感を抱いた。しばらく和也は悩み続けたが、家庭教師に来て切れた大学生の兄ちゃんが和也の悩みに気づいて相談に乗ってくれた。兄ちゃんは、勉強ができる、できないって勝手にレッテルを貼って、その事で悩むなんて馬鹿なことだぞ。和也が遠慮せずに今まで通り振舞えばきっと前のように付き合えるさ。社会に出れば嫌な奴ばかりだから、今いい友達を作っておかないと後で困る。でも勉強はしっかりやっていい大学に行くことは目標にしろ。今まで通りに付き合えなくなるが、そこはメリハリを持ってスケジュールを組めばできないことはない。とかなり親身になってくれたので、和也は気持ちが晴れやかになり、悩みはあるものの前向きになれたのだった。そんな時、莉緒から勉強合宿中の和也に電話に電話がかかってきた。相手をしてくれる人が家に誰もいないため、寂しかったからだと和也は気が付いた。どうしたら両親に気付いてもらえるのだろうか?誘拐を起こして大騒ぎになれば世間体を気にする両親は共にダメージを負わせられる。そうすれば反省して莉緒の事を構うようになる。そう考えた和也はことを実行に運んだのだった。莉緒の母は「私たちだって一生懸命やっているのにそんな私たちが悪いみたいないい方ないじゃない」と反論した。なおも、言い返そうとした所を荒井教頭が止めた。「とりあえず、ここで言い争うのは止めにいたしましょう、星月さん。この問題は家族がそろったところで一度真剣に話し合った方がよろしいと思います」後日、由香は保育補助のバイト最終日に出勤していた。莉緒と莉緒の母が仲良く登校してきていた。二人は由香に気が付くと「おやようございます」と挨拶をしてきた。「あなたここの先生だったのね」「ええ、バイトなので今日で終わりですけど」「私仕事辞めました。両立が難しいのは承知の上だったんですけど、やはり難しいですもの」と莉緒の母はさっぱりした顔で言った。由香は屈みこんで莉緒に向かって言った。「よかったねー。莉緒ちゃん。ママがそばに居てくれるって」莉緒は満面の笑みで「うん」と言った。
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