きっと、ハッピーエンド

 私はバカになったみたいに激しい心臓を落ち着けるように深呼吸をした。でも、静かになるどころか余計にうるさくなる拍動の音。血液は沸騰しているんじゃないかと思うくらい熱く、そのせいで、夕方らしからぬ体感温度だ。おまけに、今この状況をほかの誰かに見られたら――特にアイツなんか――なんて言われるか。ならさっさと用事を済ませて此処を立ち去るべきなのだが、私は相変わらず、突っ立っていた。
 時刻は現在五時三十分。もうすぐ部活が終わる頃だ。帰宅部の私にしては学校に残り過ぎている時間とも言える。
 視線の先にあるのは“蓬田(よもだ)康一”という名前シールが貼られた靴箱。私はゆっくりと唾を飲み込んだ。この前から念入りに頭の中で繰り返してきた練習をなぞる。
 簡単なことだ。私は、今から帰宅する風を装って、スクールバックにある封筒をさり気なくこの中に入れるだけでいい。たったそれだけ。そして何食わぬ顔で帰ればいい。所要時間は僅か数秒程度。いつも昇降口に来て朝夕とやっている靴を履き替える動作の中に、ほんの少し、別の動きが入るだけだ。――なのに何故、私は十分以上も立っているんだろう。
 と、外から人の声が聞こえ始めた。こちらに向かってきているようにもとれるそれは、だんだんと大きくなっている。
 もしかしたらグラウンドにいた運動部員が帰ってきたのかもしれない。とすれば、陸上部である蓬田くんもいるはずで。……この状況は非常にマズイ。
 よく当たる雑誌の占いに「告白の絶好のチャンス到来!思い切って大スキなカレに思いを伝えてみよう!きっと届くはず☆☆」なんて今日の日付とともに書かれてあったものだから、万全を期すため、恋が叶うおまじないは全部試し、恋愛運を上げに上げてきたのだ。そんな今日を逃したら――……。
 私は夕焼け色をした空気を胸いっぱいに吸い込み、ぎゅっと目を閉じた。
 えぇい、ここまで来たら女は度胸だ!
 私はスクールバックから封筒を取り出すと同時、蓬田くんの靴箱にそれを勢いよく滑り込ませ、とっくの昔に出していたローファーに履き替える。自分の上履きはほぼ投げ入れるようにしまい、まだきちんと履けてもいないくせに逃げるようにその場を離れようとした。
 その時だった。
 どん、と誰かとぶつかったのがわかる。
「あっ、悪ィ」と男の子の声がして、相手が誰だか分かった私の体温がもう十度くらい一気に跳ね上がった。きっと今体温計で熱を図ったらインフルエンザで高熱を出した時よりももっと高い数値が出るに違いない。
柬理(えんり)、大丈夫か?」
 有名なスポーツブランドのTシャツに半パンといった恰好の蓬田くんが、そう尋ねてくる。私はこくこくと頷くことしかできなかった。
 今が夕方で本当によかった。赤くなっている(だろう)顔もそのせいにできる。
「また明日」
 そう言って横を通り過ぎていく蓬田くんからは制汗剤の香りがした。
 私は脇目も振らずに早歩きで自転車置き場に向かった。そして無我夢中でサドルにまたがると、思い切りペダルを強く踏んで漕ぎ出した。

  ♥

  好きです。
  付き合ってください。

 何度も書いては消し、書いては消した俗に言うラブレターの内容がたった二行なんて。
 お風呂から上がり、長袖Tシャツにフリルの付いたショーパンとレギンスという部屋着に着替えた私はそのままベッドにダイブした。
 ようやくほっと落ち着けた気がする。家に帰っても妙にそわそわしてしまって、スマートフォンをずっと眺めているもんだから、お母さんには叱られるし、大好きなエンタメ番組も、大好物のスパゲッティも楽しめなくて、早々に自分の部屋に退散した。やらなきゃいけない宿題に手をつけようと思っても気が付けばスマートフォンを手にしてしまう。それをどうにかしようとお風呂に入ったのに……やっぱり彼のことを考えていることに気付いた。
 蓬田くんは、クラスメイトだ。陸上部で、一年の頃から大きな大会に出たり、表彰状を貰っている。運動神経はかなりいい。おまけにクラスの中では上から数えたほうが早いし、彼のことを「カッコイイ」と言う女子が結構いることを私は知っている。私と彼の間に接点は特にない――あえて言うとするならクラスメイトってだけ。でも、幼馴染みじゃなくても、仲良くなくても、隣の席じゃなくても、人は誰かを好きになる。私が蓬田くんを好きなように。
 タイミング的に手紙を入れたのは私だと気付くだろう(一応名前も書いたからその時点で分かるはずだけど)。蓬田くんは、見て、どう思ったんだろう。そしてどういう返事をくれるんだろうか。
 私はごろりと横向きになり、スマートフォンの写真フォルダをスクロールさせた。友達と撮った写真や、プリクラのデータ、食べ物に、綺麗な風景エトセトラ。そんな中、完全に隠し撮りしてしまった蓬田くんの写真がある。
 私があの十三文字に込めた想いなんて、きっと、彼には一ミリも――もっと言えばナノとかピコとか、それぐらいも伝わらないに違いない。だって、彼のどこが好きかなんて挙げていったらキリがないくらい好きなんだから! 例えば……――とまたそうやって蓬田くんのことを考えていた時だった。
 こつん、と窓に何か当たった音がする。最初は気のせいかと思ったが、一定の間隔を置いて繰り返し鳴るものだから、私は眉根を寄せながら閉めていたカーテンと窓を開けた。下を見ると、小石を掌で遊ばせているアイツの姿がある。
「言っとくけど、宿題は見せてやんないからね! アキラ! 」
 真砂亮。
 幼馴染みと言うよりは腐れ縁と言ったほうがいい、ご近所さん。
 どうせまた、いつもみたいに宿題だの予習だのを見せろと言われる(おまけに今日出されたのは亮が大嫌いな英語だ)に違いない。そう思っての先手だったのだが、いつも何かにつけて一言余計に返してくる亮は、一拍置いてぶっきらぼうに返してきた。
「気が向いたら降りてこいよ、和香」
 何よ、それ。「じゃあ気が向かなかったら降りなくていいの?」
「……おう」
 いつもの亮らしくない。
 何だかムカついて「じゃあ行かないから! おやすみ!」なんて返してみたはいいものの、窓とカーテンを締めながら、亮の言葉について考えていた。どういう意味だろう。私に何か用があるのは確実だけど(だって家から出なくったってスマートフォン一つで大抵のことは済むだろうに)。考えれば考えるほど堂々巡りで、いつの間にか蓬田くんのことなんて忘れてしまっていた。さっき綺麗に洗ったばかりの頭を思いっきり掻き毟る。あぁ、もう! 行けばいいでしょ、行けば!
 私が乱暴な音を立てて階段を駆け下り、玄関の扉を開けて表に出るまで十分もかからなかった。亮は家のブロック塀にもたれ掛かるようにして、まだ小石を遊ばせていた。
 私をあえて視界に入れないようにしているのが分かる。来たのが分かったなら「おう」とか「よう」とかぐらい言いなさいよ。
 その態度も何だか癪で、ふんと鼻を鳴らしてやる。
「お望み通り来てやったわよ」
 で、要件は? と腕組みをしながら尋ねる。
 すると、彼は小石を遊ばせていたのをピタリとやめた。でもそれだけだ。何か話し出す気配もなく、あちこち視線を動かすだけ。
 私は催促するように言う。「何よ、人呼び出しといて。さっさと言いなさいよね」
 亮がゆっくりと壁から背中を離した。
 合わなかった目がようやく合う。――それは、数十年近くにいて初めて見るような色をしていて。
 私の心臓が、一瞬止まる。
「お前さ」

 亮の唇が静かに動く。
 その後に続いた言葉は、予想だにしていない言葉だった。

「――付き合う? 俺と」

 ………………。
 …………。
 ……。

「何くすくす笑ってんの」
 眠れない夜にふと思い出したそれに忍び笑いをしていると、隣りで寝ていた亮がそう訊ねてきた。
「ごめん、起こした?」
「別に。……で、何がそんなに可笑しいわけ」
「ちょっと昔のこと思い出して、さ」
 あれから九年ものお付き合いが続き、プロポーズをされ、あれよあれよという間に明日が結婚式なんて――当時の私は考えもつかなかっただろう。
 察しが付いたらしい亮がごろりと(私から顔を背けるように!)体勢を変える。「おやすみ」
「照れてる? 亮」
「うっせェ、明日早いんだから寝させろ」
 突き放すようなぞんざいな言い方だが、しかし、耳まで赤くなっているのは電気を落とした薄暗い室内でもよくわかった。
 ――九年前の今日。あの時、あの瞬間。蓬田くんの靴箱に私がちゃんとラブレターを入れてさえすればまた違った明日を迎えていただろう。若しくは私のことが好きだった(彼曰く)亮の告白を、「その手紙は間違いなんです。誤解です。私は蓬田くんが好きで、だから彼のところに入れたつもりだったんだけど、うっかり間違えて隣のアンタのところに入れちゃったみたいです。ごめんなさい」と言って蹴っていたら。
 でも、あの時私のおっちょこちょいで起こったハプニングも、それを訂正できず、あの場の雰囲気に流されるように彼からの告白に頷いてしまったことも、それはそれで良かったと思う。もっと言えばある種の運命だったんじゃないかって思ってしまうくらいには、今では亮のことが好きだ。
「後悔、してんの」
 ぽつりと彼がそう言った。相変わらず私の揚げ足を取ったり、からかったりしてくる亮だが、深夜の静寂にひっそりと消えていきそうなほど小さなそれは泣いているようにも聞こえて、胸の奥の柔らかい部分が締め付けられる。
 何に、とは聞かなくてもわかった。いつものお返しとばかりにもっと突っ込んでもよかったかもしれないが、ここはそうやって済ませるべきじゃないことぐらい分かる。――私は明言していないものの、あのラブレターの宛先が自分じゃなかったことくらい聡い彼は気付いているはずだ。そしてそれを陰ながらずっと気にしていることも、私は知っている。
 目の前の背中が急に小さく思えて、私はそっと後ろから抱きしめた。

「好きです、付き合ってください」

 数秒の間。ぐるりと彼の体勢が変わる。
 あの時と同じ、真剣な色をした亮の双眸が私を見ていて。そのままごく自然とお互いの唇が重なった。

きっと、ハッピーエンド

きっと、ハッピーエンド

あの時のラブパニックが偶然であれ運命であれ――私は今、幸せだ。 #創作onewrite(開催期間2015/7/6~7/12) 使用お題「ラブ・パニックの結末」(レイラの初恋 http://sinai.3.tool.ms)

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-08

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