ベイビーウェル

タイトル見るたびに山田悠介さんの「@ベイビーメール」を思い出します。パクリではありません。

 プロローグ

 蒸し暑い夜。昼間は蝉の合唱があり、夜は蛙の合唱が人々を悩ませていた。
 七月半ばになってもまだ梅雨が明けず、ジメジメとした日が続いている。さっきまで降っていた雨が止んだばかりだから、外の気温はなんだか気分が悪いものだった。
 こんな気分の悪いときに、死体が見つかったなんていうから更に気分が悪い。しかもその発見場所が森の奥だから、参ってしまう。雨のせいで滑りやすくなった地面。どうしてもぬかるみの上を歩かなければならないから、長靴が深みにはまって抜けなくなる。
 若い警官がうざったそうに長靴をぬかるみから引き抜いた。ここは田んぼか?と心の中で呟きながら、懐中電灯で照らしながら森の奥へと進んでいく。
 今回死体が発見された場所は、森の中にある貯水タンクの中だった。この貯水タンクは今でも使われており、この山の麓の農家などが使用している。その農家が水を使用したところ、普段の水とは違う、妙な臭いがしたため、不審に思って貯水タンクを見に行った。
 貯水タンクの中にゴミを投げ入れることはまず不可能に近い。子供のいたずらとしては考えられないから、貯水タンクの中に一体何があるのかは見当がつかなかった。
 貯水タンクにははしごがついておらず、中をのぞくためには自らはしごを持参するしかなかった。わざわざいたずらをするためだけに、はしごを持ってくるやつがいるとは思えなかった。
 農家がはしごに登り、貯水タンクのふたを開けた。中は真っ暗で、どうなってるのかははっきりしなかったが、なにやら黒っぽいものが浮いていることだけが分かった。農家は胸ポケットに偶然入っていたペンライトを取り出すと、貯水タンクの中を照らした。そしてその貯水タンクの中に浮かんでいたものを見て、驚愕した。
 人の死体。人の死体がうつぶせの状態で貯水タンクの中に浮いているのだ。その死体のせいで水が妙な味がした。
 農家は慌てて警察を呼んだ。そして今の状態に至る。農家はその後、気分を悪くしてしまい、病院へ搬送された。死体は死んでから二週間以上が経過しており、その間、ずっと貯水タンクの中に入れられていたようだ。
 貯水タンクの中から出された死体がブルーシートの上に寝かせられている。こうしてみれば普通の殺人事件とそう大差ない。しかし、一つだけおかしな点があった。
 死体はおんぶひもをつけていた。赤ん坊を背負っているとき以外はおんぶひもをつける必要はないだろう。そこで警察は貯水タンクの中の水を全て捨て、中を確認したのだが、赤ん坊の姿は発見できなかった。
 赤ん坊だけを誘拐していったのかもしれない。そういう仮説が立てられ、その仮説を軸にして捜査を進めていくということになった。
 若い警官が手袋をはめた手でおんぶひもに触れた。おんぶひもは水分をたっぷり含んでおり、普通の状態よりも重くなっていた。それはまるで、まだここに赤ん坊がいるかと思わせるような重さだった。




 同窓会

 寝苦しい。掛け布団を足元へ払いのけて、寝返りをうつが、やはり寝苦しさは拭い去れない。体から噴出す汗のせいで、服がぬれている。寒い・・・・・・。
 加藤彩夏はベッドから身を起こすと、寝る前に枕元へおいておいたタオルを暗闇の中で探した。指先が布に触れ、それがタオルであることを確認する。彩夏はタオルをつかむと、顔や体の汗を拭いた。
 体を拭きながらベッドから降りると、手探りで部屋の照明のスイッチを探した。暗闇の中で歩き回るのは危ないことだが、幸い彩夏の部屋にはあまり物が置かれていない。部屋に置いてあるのはベッドと机、タンス、いくつかの子棚ぐらい。友達にも殺風景な部屋だといわれることがたびたびあるが、彩夏はごちゃごちゃとした部屋が嫌いなのだ。
 前に伸ばしていた指先が壁に触れ、彩夏は壁に指先を這わせた。暗闇のせいで分かりにくい。見当違いの場所ではないにせよ、なかなかスイッチを見つけることが出来ない。
 彩夏はため息をつくと、ポケットから携帯を取り出し、壁を照らした。案の定照明のスイッチは目の前にあった。こんな高い位置にあったっけ?と疑問を抱きながら彩夏はスイッチを押した。部屋が明るく照らし出される。
「シャワー浴びよう」
 と小さな声で呟くと、彩夏はポケットから取り出した携帯を部屋の隅に置いてある机の上に置いた。タンスの中から服の替えをいくつか取り出した。そして携帯電話を手に取ると、部屋を出て、自室の正面にある部屋に入った。脱衣所だ。寝汗のせいでべたべたする服を一苦労して脱いでいると、聞き覚えのある着信音が耳に入った。
 ほとんど脱ぎかけている服を、再び着直すと、籠の中に入れていた携帯電話をつかんだ。携帯のふたを開くと、液晶には「飯島 和也」と表示されていた。
 飯島和也というのは、彩夏の彼氏だ。中学校のときに知りあり、高校に入ってから付き合い始めた。大学も彩夏と和也は同じところに入り、そして卒業している。
 彩夏は通話ボタンを押して、携帯を耳に押し当てた。
「もしもし、彩夏?」
「そうだけど、何なの?こんな時間に」
 今は夜中の三時だ。十二時ごろまでなら電話をしていることも珍しくないが、こんな時間に電話してくるなんて今までに一度もなかった。もし目を覚ましていなかったら、いらいらして電話に出ることになっただろう。
「別に朝でもよかったんだけどさ、なんとなく今伝えたくて」
「何が?」
「さっき電話がかかってきたんだよ。メリーさんからじゃねぇぞ?」
 そんな馬鹿馬鹿しい冗談を言っている和也に心底呆れた態度で応える。
「和也はいつまでたっても子供ね」
「そんなことねぇだろ?大人だって冗談は言うぜ?」
 和也は落ち着いていれば格好いいのに、こうやって馬鹿みたいな振る舞いをするから少し印象が悪い。確かにムードメーカーというのはいいところなのだが、出来れば格好いいままでいてほしかった。
 背も高く、顔の造形もいい。運動神経もかなり高く、中学、高校時代は各部の助っ人として大忙しだったほどだ。気遣いもよく出来て、体育の時間に貧血で倒れた生徒を担いで保健室へ連れて行ったこともあるくらいだ。本来は体育教師の役目なのだろうが、和也は教師よりも早く行動に出た。正義感が人一倍強く、何に対しても一生懸命な姿がよく見られた。それに加えてムードメーカーだから、頭のほうはあまりよくないが、それ以外は完璧な男だった。
 そんな和也の姿に見とれる女子生徒も少なくはなかった。彩夏も心の隅ではいいな、と思っていたが、そこまで意識することはなかった。だが和也はたくさんの女子から告白されている中で、いつも彩夏のことばかり意識していたそうだ。彩夏から告白される日を楽しみに待っていたそうだが、到底来なさそうだから自分から告白してきたらしい。
 その事実を知ったときは、彩夏は思わず噴出してしまった。彩夏もこれまでに何人かの男子から告白されたことがあったが、その告白の仕方がまるでツンデレの女子みたいな感じの告白だったからだ。
 彩夏はすぐにOKを出し、その日から和也と付き合い始めた。それからはほとんど喧嘩をすることもなく、付き合い続けているのだ。和也の態度に怒り出しそうになることはあったが、そのときの和也が子供のように思えて、憎めなかった。
「それで?一体用って何なの?」
「忘れてた。さっき俺のところに電話がかかってきたんだよ。中学のときにさ、深田っていたじゃん?あいつから」
 深田。成績優秀の金持ち息子だった男だ。中学校三年間、ずっと学級委員長をやっていた。リーダーシップがあるのだが、あまりにもまじめな性格で、周りからは好かれていなかった。しかも気が短いのだから、誰からも好かれる男ではない。
 中学校を卒業してからは、一度も会わなかった。和也だって会っていたわけではないだろう。今頃どうして?
「実際には実家にかかってきて、その電話の内容を親父が俺に伝えてきたんだけど。俺って出席番号、最初だったろ?あいつ、連絡網使って電話してるみたいでさ」
「で?結局何の電話だったの?」
「あれだよ、同窓会」
「同窓会?」
「あぁ、なんか深田が全部計画を立てたみたいだぜ。今、元三年C組みのメンバーに電話をかけているからもし電話番号を知っているやつがいたら電話をしてくれって」
 同窓会か。やりたいとは思っていたが、誰も計画しないから結局やらないものだと思っていた。深田が計画したなんて、なんだか深田らしい。リーダーシップの強いところは今でも残っているのか。
「同窓会かぁ」
 頭の中に懐かしい顔を思い浮かべる。あのころは和也のことなんてほとんど眼中になくて、仲のいい女子と一緒にいた。時々会ったりもしているが、中学校時代と比べると本当に減ってしまった。中学校を卒業してから一度も会っていない人もいる。
「うわぁ~、楽しみ~。なんだか深田が計画したことで楽しみになったのって、今回が初めてだと思う」
「そうだよな。あいつの計画って、馬鹿みたいにまじめだったから誰も楽しまなかったもんな。でも今回ばかりはあいつの行動力を褒め称えるよ」
「期日とかは?」
「期日は八月一日。ほら、あの日のことを思い出すだろう?」
 八月一日。はじめはよく分からなかったが、あの日のことといわれるとはっきりと思い出した。今日は七月二十三日だから、あと八日か。
 八月一日。夏休みが七月二十日にスタートし、ほとんど夏休み気分になっていたころ和也から電話がかかってきた。八月一日の朝に、電話のせいで起こされたのを覚えている。そのときはイライラして言葉が刺々しくなってしまった。
 その電話の内容は、今夜、肝試しをするから七時に学校へ来てくれというものだった。名乗りもせずに、ただ一方的に話し終えた和也はさっさと電話を切ろうとした。それに苛ついた彩夏は思わず怒鳴って、電話を切ってしまった。そのせいか、夜の肝試しでは和也が申し訳なさそうな態度をしていた。
 肝試しといっても夜の教室に集まって、一本の蝋燭を囲んで順番に怪談話をしていくというものだった。はじめは子供っぽいことだと思っていたが、やってみると案外盛り上がりを見せた。怖くない話だろうと、怖い話だろうとふざけて悲鳴を上げたりもした。一緒にやっていた担任の川口も自分の立場を忘れ、一緒に楽しんだ。
 本当に懐かしい思い出だ。まさか今回も肝試しをするのではないだろうな?
「肝試しをした日を選ぶなんてな。一番ビビッてたやつが。しかも会場も学校で、あの教室でやるらしいぞ。時間は五時半から」
「なんだか懐かしいね。そっか~、深田にしてはいい計画なんじゃないかな」
「俺もそう思った。お前はもちろん行くだろう?」
「うん、その日に用事が入らなければ絶対に行く」
 彩夏は表情を綻ばせた。久しぶりに三年C組のメンバーに会えるのだ。その後、数分間和也と話した後に、電話を切った。電話を切ったあとも、表情は緩んだままだった。
 彩夏はシャワーをさっさと浴び、服を着替えて自室に戻った。彩夏の足はそのままベッドに向かわず、部屋の隅においてある机のほうへと進んでいた。机の棚に置かれているたくさんのアルバムの中から中学校の卒業アルバムを探し出して、それを床に置いた。
 アルバムを開けると、まず教員の集合写真があった。何だか本当に懐かしい。友人と会うことも滅多にないから、教師と会うことなんてなくなった。時々ショッピングセンターなどで会うこともあるが、それもごく稀に。
 ページをめくると、修学旅行の写真が載っていた。修学旅行で沖縄に行った彩夏はまず海の美しさに驚いた。彩夏が今住んでいるのは高山で、実家は岐阜にある。中学校は岐阜の中学校に通っていた。生まれてからずっと海ではなく、山の近くで育ったから海なんてほとんど見たことがなかった。
 時々石川や、富山の海へ連れて行ってもらえることもあったが、あまりきれいとはいえなかった。本当に汚いというわけではないが、沖縄の海ほどきれいではなかった。透き通った海。水中は太陽の光によって、神秘的に見えた。
 それからは何度か沖縄へ行っている。和也とも、何度か沖縄へ行っている。はじめは一人暮らしを始めると同時に沖縄へ移住しようと思っていたのだが、それは出来なかった。親にも反対され、和也からも反対されたからだ。今は結婚して、子供を生んでから沖縄へ移住しようと思っている。
 次のページにも修学旅行の写真が載っている。
 更にページをめくると、今度は体育大会の写真が載っていた。この体育大会で和也は驚異的な身体能力を見せ付けていた。リレーではアンカーを任されており、一位は確実だった。しかし当日のリレーでは二人が転倒してしまい、最下位の状態で智樹はスタートした。全員があきらめかけていたのだが、和也は驚異的な足の速さを見せ、一気に他のアンカーたちを抜いていった。そしてゴールの目の前で一位に上り詰め、そして一着でゴールをした。
 棒倒しでもあっというまに相手チームの旗を手に入れ、勝利へ導いた。和也の活躍のおかげで、三年C組の所属していた緑団は他の団に圧倒的な差をつけて優勝した。もしこの体育大会にMVPがあったら、確実に和也が選ばれていただろう。
 そういえばこの活躍によって、和也のファンが増えた。同学年だけではなく、後輩たちも心も確実にキャッチした和也は、全校の中でも注目されていた。陸上部からの技術指導も頼み込まれていた。
 今振り返ってみると、やっぱり自分も和也のことを意識していたことを自覚する。気づいていなかっただけで、本当は和也のことが好きだったのかもしれない。
 ページをめくる。文化祭の写真だ。文化祭では和弥ではなく、彩夏が全校からの注目を浴びた。彩夏は中学校のころから友達と一緒にバンドを組んでおり、ギターとボーカルを担当していた。ネットでもいい評価を受けていたから、文化祭でライブをすることに許可が下りた。
 ライブなんてライブハウスからお呼びがかからなければやっていなかったから、本当に久しぶりだった。しかもライブのときよりもたくさんの人が見ているから、緊張もこれまで以上のものだった。
 ライブ開始からいきなりピックを落とすというミスをしてしまったが、その後は何とかミスをすることなく順調にライブを進めていくことができた。ミスをしてしまった汚名を返上するために、ギターソロの部分で早弾きを披露したところ大ウケだった。
 そのライブがあってからは、至るところでサインを求められた。自分たちのサインなんてもらっても意味がないだろう、と思いながらもサインをしてやった。今頃はそのサイン色紙も捨てられてしまっているのだろう。
 ギターを始めたいという人から、技術指導を頼まれたこともあった。一時期時の人となったが、やはりすぐにシーズンは終わる。高校に入ってからはギターもやめてしまい、結局誰からも注目されることのない高校生活だった。
 まぁ、平凡な日々が一番いいのだけど。
 彩夏はその後も眠りにつかず、結局一晩中アルバムを見ていた。卒業アルバムを見てしまうと、他のアルバムも見たくなってしまい、中学校時代のアルバムを探し出してはそのときの感情を思い出していた。
 卒業アルバム以外にも、友達と一緒に行った、旅行先での写真などもたくさんあった。それもやっぱり懐かしいものだった。
 五つ目のアルバムを見終え、パタンと閉じた彩夏は既に夜が明けてきていることに気づいた。いつの間にかこんなに時間が過ぎていた。アルバムとかは見始めると、なかなか区切りをつけられないのは昔から変わらないな。彩夏は床に置かれているアルバムを全部拾い上げると、元あった場所へ戻していった。
 彩夏は部屋の電気を消してカーテンを開けた。薄明かりが差し込んでくる。大きく伸びをして、欠伸をする。置時計を見て、時刻を確認すると、彩夏はベッドの上に寝転がった。目を閉じると、すぐに眠りの世界へ入っていくことが出来た。

 八月二十四日の午後になって、やっと目を覚ました彩夏は大きく伸びをしながら、ベッドから体を起こした。枕元においてある携帯電話に目をやると、何度か和也から電話がかかってきていた。メールもいくつか届いているが、いずれも和也からのものだった。
 携帯のふたを開けて、まずはメールの中身を確認する。しかしどれも違ったメールではなく、まったく同じ内容のメールを何回も送りつけてきていた。何を考えているのかしら、と心の中で呟きながら、リダイアルの中から和也の電話番号を選んで、携帯を耳に押し当てた。
「何だよ、彩夏。こんな時間に」
「こんな時間って、もう昼だけど」
「違うって、俺がさっきから電話とかメールしてんのに返信くれなかっただろう?それなのに今頃なんだよってことだよ」
「今まで寝てたから」
「何だ?昨日の夜は同窓会が楽しみで眠れなかったのか?」
 やっぱり筒抜けか。彩夏は楽しみなことがあると、夜に眠れなくなることがよくあった。和也にも分かっているのだろう。
「まぁ、そうだけど。それは置いといて、家に来ていいかっていう内容のメールが五件もあったんだけど」
「あぁ、そうだ。お前の家にいってもいいか?今から」
「今からは無理。今日は仕事が休みだから、ゆっくり家で休みたいの」
「うん、よかった。俺もお前の家に今から行くのは無理だ。着てほしけりゃ、俺の仕事をやめさせなきゃならない」
「はい、はい。冗談はもういいから。仕事に励みなさい」
 彩夏はそういうと、電話を切った。ベッドから立ち上がり、大きく伸びをする。携帯のふたを閉じて、ズボンのポケットに押し込む。彩夏は部屋から出ると、一階へ下りていった。まっすぐキッチンへと向かい、冷蔵庫の前で立ち止まる。
 冷蔵庫の中からパンとバターを取り出す。パンをオーブントースターの中に入れ、タイマーをセットすると、彩夏は冷蔵庫の中から卵とベーコンを取り出した。
 卵とベーコンをコンロの脇に置いて、足元にある棚の中を探る。フライパンを棚の中から取り出し、コンロの上に置く。適量の油をひいて、フライパンを軽く熱し、そしてそこにベーコンと卵を落とした。
 料理に一手間加えるのは和也か仕事の同僚が遊びに来ているときだけで、一人でいるときは簡単な料理で食事を済ませている。もともと料理をするのが好きなわけではないのだから、好き好んで凝った料理を作ることはしない。
 彩夏は焼けたパンにバターを塗ると、その上にベーコンエッグを乗せた。パンの乗った皿を持って、リビングへ移動した。リビングに置かれている机の上に皿を置いて、椅子に座る。机の上に置いてあるリモコンに手を伸ばそうとしたが、手を止め、パンを食べ始めた。あっという間にパンを食べ終えると、皿を流し場へ入れ、部屋へ戻っていった。
 部屋に戻った彩夏は棚に置かれているアルバムを一瞥し、表情を綻ばせた。時間が進むのがいつもよりも遅く感じる。彩夏は机の棚においてある小説をいくつか手に取ると、ベッドの端に腰を下ろした。小説を読んで、暇な気分を紛らわそうとするが、何度も読んだ小説だからすぐに飽きてしまった。
 彩夏はため息をつきながら立ち上がると、クローゼットの中から外出用の服を取り出した。今着ている服を脱いで、外出用の服に着替えていく。
 服を着替え終えると、着ていた服を洗濯機の中に放り込んだ。こんなに荒っぽいことをしていると、和也に「もうちょっとおしとやかになれよ」といわれそうだな。そんなことを考えながら、彩夏は身だしなみを整えた。顔を粗い、歯を磨き、そして髪をくしで梳かす。彩夏は脱衣所を出て、一階へ下りた。
 玄関で靴をはきながら、同僚に電話をかけた。
「もしもし?どうしたの、彩夏」
「ねぇねぇ、今空いてる?もし空いてたら、カラオケ行かない?」
「いいよ。私も暇だったし。今すぐ行く?」
「うん、じゃあ駅で待ってて。他の人も誘いたければ誘ってもいいよ」
「分かった、じゃあね」
 彩夏は電話を切ると、携帯をポケットの中にしまった。靴箱の上においてある鍵の束を掴み取り、その中から一つだけ選び出した。玄関の鍵を開けて、外に出ると、すぐに玄関の鍵を閉めた。
 すぐに車庫へ向かうと、鍵の束の中から車の鍵を選び出す。車へ向けてボタンを押すと、鍵の開く音が聞こえた。
 彩夏はドアを開けて、車に乗り込むとすぐにエンジンをかけた。アクセルを踏み込み、車を発進させる。目的地である、高山駅はそこまで遠くにあるわけではないが、今電話した友人の家は高山駅のすぐ近くにあるから、出来るだけ急がなければならない。
 角を曲がって、バイパスに入る。休日の昼間ではなく、平日の昼間だから交通量はそこまで多くない。カーラジオの電源に手を伸ばし、FMにセットする。ちょうど今はよく聴いている音楽番組がやっているはずだ。ラジオではニュースが流れていたが、彩夏はすぐに局番を変えた。
 車のスピーカーから大音量の音楽が流れてくる。今、話題になっているパンクロックバンドの曲が流れている。彩夏はスピーカーの音量を下げて、その曲を運転しながら聞き入ったが、やはり何と言っているのかが分からなかった。このバンドの魅力は独特な言語感覚らしく、日本語歌詞なのに英語で歌っているように聞こえるところなどが人気の秘訣だそうだ。
 普通に歌っているように聞こえるのに、なぜこんな風に聞こえるのだろう、と首をかしげながら、彩夏はカーブをしてバイパスを抜けた。そこで曲が終わり、番組MCがその局の説明を始めた。その曲の題名をしっかりと頭に入れておく。
 橋を渡り、再び角を曲がる。線路沿いに出来ている道を真っ直ぐ走っていく。ガソリンスタンドやコンビニエンスストアの前を通り過ぎていくと、次第に広い道へと出てきた。そしてしばらく行くと、高山駅の大きな看板が見えてきた。駅の近くにあるコンビニエンスストアの前に同僚が立っていた。
 その近くまで車を寄せていき、窓を開けて手招きする。すると同僚は彩夏に気づき、車の近くまで駆け寄ってきた。結局誰も呼ばなかったようで、同僚は一人で待っていた。助手席に乗らせると、カラオケ店へ向かって車を走らせた。

 夜七時になって、やっと家に帰ってきた彩夏は車の中で携帯を取り出した。あの後はカラオケに行って、何時間もずっと歌っていた。普段はあまり歌わない曲にも挑戦してみたりして、同僚と一緒に盛り上がった。その間に何度も、これが和也と一緒だったらもっと楽しいんだろうなと考えていた。
 アドレス帳の中から和也の名前を選び出し、「時間が出来たら、一緒にカラオケに行こうね」という短いメールを送った。
 和也からは一件もメールが届いておらず、ちゃんと仕事をしていたということが分かった。彩夏は携帯のふたを閉じると、ポケットの中にしまいなおし、車の中におきっぱなしにしていた財布を持って、車を出た。歌いすぎたせいで喉がズキズキする。さっきマックで夕食を食べていたときも、喉の痛みのせいで飲み込むことにも一苦労した。
 彩夏は家の鍵を、玄関の鍵穴に差し込んだ。鍵を開けて、家の中に入る。すぐに玄関の鍵をかけた。玄関にある照明のスイッチを手探りで探し当て、電気をつける。玄関が明るく照らし出され、彩夏はため息をつきながら靴を脱ぎ捨てた。遊びすぎて疲れるのなんて、何年ぶりだろう。重い足を何とか持ち上げながら、二階へあがっていく。
 彩夏は部屋に入ると、真っ直ぐベッドへ向かい、勢いよく倒れこんだ。財布と携帯を枕元におくと、彩夏はすぐにまぶたを閉じた。今日は昼ごろまでずっと寝ていたのに、案の定すぐに眠気が強くなり、眠ることが出来た。


 八月一日。
 ついにこの日が来た。彩夏は朝から仕事があったのだが、その間も同窓会のことが楽しみで、何度も時計を確認していた。今日はいつもよりも早めに帰らせてもらえることになっているから、早くその時間になってほしい。
 五時半から、岐阜県立南原中学校で。家に届いた同窓会の案内の紙をクリアファイルの中から取り出して、もう一度読み返す。楽しみでたまらない。
 三時ごろになると、もう仕事に手がつかなかった。帰らせてもらえる時間は三時半になっていた。南原中学校があるのは、高山ではなく岐阜だから、その時間も計算するとそれくらいに帰らなければ間に合わなくなる。
 今日一日の仕事を手早く終わらせると、彩夏は帰る支度を始めた。それもさっさと終わらせてしまうと、隣のデスクに座っている同僚に声をかけてから、部長のところへ行った。部長は書類に真剣な表情で目を通していた。彩夏は一瞬躊躇したが、部長に声をかけた。
「部長、そろそろ帰らせてもらいます」
 そういうと、部長は時計を確認した。
「もうそんな時間か。分かった。同窓会だったな?楽しんでこいよ」
「はい、ありがとうございます」
 彩夏は部長に一礼すると、早足で部屋を出た。すぐ近くにあるエレベーターを呼び、そのエレベーターに乗り込む。一階に着くと、すぐにエレベーターから降りて、早足で正面玄関を出た。
 ちょうど青信号になっていた横断歩道を渡って、会社の向かいにある駐車場へ向かう。
 鍵を車に向けて、ボタンを押す。車のそばに来ると、すぐに車に乗り込んだ。エンジンをかけ、アクセルを踏み込む。車がゆっくりと動き出し、駐車場を出た。
 こういう日に限って信号にはよくつかまる。何度もハンドルに手のひらをたたきつけ、「早くしてよ!」と怒鳴る。気分を紛らわそうと音楽をかけたが、それでも逆に苛立ちが募るだけだった。
 彩夏は途中で道を変え、信号の少ない道へ入った。あまり人が通ることもない道だから、別にアクセルを踏んでもいいだろうという考えが彩夏の頭の中をよぎった。しかしその考えはすぐに崩された。前方から一台のパトカーが走ってきている。いや、一台ではなく、二台が後に続いている。
 そういえばこの近くで殺人事件が起きたらしい。だから警戒を強めているのかもしれない。彩夏の車とパトカーがすれ違う。すれ違いざまに、パトカーに乗っていた警官を見た。どこかで見た顔だと思ったが、誰なのかは浮かばなかった。恐らくどこかで偶然見かけた人なのだろう。
 直線の道を走り、途中で道を左に曲がった。道を曲がると坂道が続いていた。この坂道を越えた先に彩夏の家がある。思ったよりも早くここまで来ることができた。
 車が坂道を上って行く。短い坂だから、車は簡単に坂を上がりきった。彩夏はそこでスピードを落とし、自分の家の前で車を止めた。車庫に入れず、出来るだけ家に近づけた状態で車を停車させた。
 車から降りると、すぐに家の中へ駆け込んだ。まずは部屋に飛び込み、スーツから外出用の私服へ着替えていく。この日のためにわざわざ購入した服だ。服を着替え終えると、スーツをハンガーにかけクローゼットの中に吊るした。そしてすぐに部屋を出て、今度は脱衣所へ飛び込んだ。
 脱衣所で軽く化粧をする。別に化粧をしなくてもいいとは思うが(実際に和也から言われたことだ。「お前は化粧なんかしなくても美人じゃないか」、と)、一応軽くはしておいた。身だしなみをしっかりと整えると、彩夏は脱衣所を出た。
 階段を駆け下り、靴を履く。この靴もこの日のためにわざわざ購入したものだ。靴を履いて、外に出ると、すぐに玄関の鍵をかけた。戸締りは完璧。
 彩夏は車に乗り込むと、エンジンをかけた。アクセルを踏み込み、今来た道を逆走する。坂を上り、そして下っていく。今度は角で曲がらずに、そのまま真っ直ぐ進んでいく。そしてその道の一番奥のカーブを曲がる。その曲がり角の先にはまた坂があり、彩夏はため息をついた。
 今度は長い坂道だ。彩夏はアクセルを踏み込み、少しだけスピードを上げた。坂を上がりきり、下り坂に入る。下り坂を少し下っていくと、たくさん家が連なっているところへきた。彩夏は一番手前の家の近くでスピードを落とし、一軒の家の前で止めた。
 車から降り、その家の玄関の前へ行った。インターホンに指を伸ばし、しばらく待つと家の中からバタバタという足音が聞こえてきた。
 ドアが勢いよく開き、彩夏は思わず身を震わせた。家の中から出てきたのは和也だった。
「悪い、ちょっと待ってて」
 和也はそういうと、再び家の中に戻っていった。髪の毛はずいぶん乱れていたし、服装も外出用とは思えない服装だった。まさか今日は仕事を休んで、今まで寝ていたのか?そんな考えが彩夏の頭の中に浮かんだが、すぐに消した。今から格好良くなって出てくるんだったら、許してあげよう。
 和也はもともと岐阜に住んでいたのだが、彩夏が高山に引っ越すのと同時に引っ越してきた。引っ越してきたといっても、今住んでいるのは和也の親戚の家だ。どうせ行く場所は同じなのだから、一緒に乗せて行っても構わない。だから彩夏は和也を一緒に行こうと誘ったのだ。
 待つこと、五分。再び家の中でバタバタという足音が聞こえてきた。彩夏が軽く身を引くと、ドアがさっきと同じように勢いよく開いた。急いで準備をしたようで、まだ少し乱れたところがある。
「じゃあ、行くか」
 と息を切らしながら言う和也の姿を見て、彩夏は小さく微笑んだ。大きく頷くと、車に乗り込んだ。乗り込むとすぐにアクセルを踏み込み、岐阜に向けて出発した。
「いやぁ、悪かったな。まだ準備してなくてさ」
「見れば分かったって。もう!昔から変わらないんだから」
「だから謝ってんじゃん。別にいいだろう?」
「別にいいけど」
 和也は満足した表情を見せると、上着のポケットの中からガムを三枚、取り出した。銀紙を手早くはがすと、ガムを口の中に放り込んだ。立て続けに三枚のガムを口の中に放り込むと、クチャクチャと噛みはじめた。
 理由は知らないが、なぜか和也はいつもガムを三枚同時に食べる。
「ガム、頂戴」
 彩夏がそういうと、和也はポケットからガムをまたしても三枚取り出した。
「三枚もいらないって、一枚でいいよ。一度に三枚も食べるのは和也ぐらいだって」
「そんなことないぞ。俺の親父だって三枚一緒に食べてたんだぜ」
「とりあえず、一枚でいいの」
 和也は二枚を袋の中に戻すと、ガムの銀紙をはがした。そしてガムを口の近くまで持ってきた。そのガムを歯でしっかりと挟むと、和也はガムから手を放した。ガムを口の中に入れ、噛む。
「ちょっと、コンビニによってくれないか?」
「何で?」
 和也からの申し出に、運転をしながら答える。和也は照れくさそうに、ポリポリと頭をかきながら、
「さっきまで寝てたもんだからさ、飯食ってねぇんだ。だから、なんか買って食おうと思って」
「同窓会でご馳走を食べれるんだから、我慢しなよ」
「まぁ、そうだけどさ。着いてすぐに食べられるわけじゃないだろ?ほんの少しだけでも腹を満たしたいんだよ」
 駄々をこねる子供のように、
「頼むよ。ちょっとの間でいいから」
 と何度も彩夏に頼み込む。はじめは、
「我慢してってば」
 と受け応えていたが、だんだん呆れてきてしまった。テキトーに返事をしているのに、和也はいつまでたっても頼み続ける。だんだん彩夏は面倒になってきて、近くにあったファミリーマートの駐車場に車を入れた。
「うお!助かった!すぐ買ってくるからちょっと待っててくれ!」
「サンドイッチとコーヒーも買ってきて。和也のお金で」
「はぁ!?」
「別にいいじゃん。わざわざコンビニに寄ってあげたんだから」
 ワザワザを強調して言うと、和也はしぶしぶ頷いた。そして助手席のドアを閉め、コンビニに向かって歩き出した。こうやって見ると、和也は本当に子供っぽいということが分かる。そんなところが可愛くて、憎めないところなのだが。
 彩夏は鞄の中からCDケースを取り出し、その中からCDを一枚取り出した。そのCDをデッキに挿入し、しばらく待つ。読み込みが済み、彩夏は再生ボタンに指を伸ばした。再生ボタンを押し、続いて音量を少しだけ下げた。ポップな音楽が流れ始める。その曲を口ずさみながら、彩夏はコンビニを見据えた。
 レジのところに和也がいる。今料金を払っているところのようだ。レジを担当している女性の店員が、和也に見とれているが、和也はそれに気づいていないようだった。金を払い、レシートを受け取るとさっさとコンビニを出てきてしまった。彩夏は、こんなに鈍い性格で、これまで何人の女性の心を傷つけてきたのだろうとなんとなく考えていた。
 和也が助手席のドアを開けて、車に乗り込んできた。
「はい、コーヒーとサンドイッチ」
「ありがとう。袋に入れといて」
 和也は取り出していたコーヒーとサンドイッチを袋の中に戻すと、ホットドックと紙パック容器のミックスジュースを袋の中から取り出した。それを嬉しそうに食べている姿を横目で見ながら、アクセルを踏み込んだ。食べている姿が本当に無邪気で、彩夏は微笑んだ。
「なぁ?彩夏?」
「ん?何?」
 和也は口の中にあるホットドックを飲み込んで、ミックスジュースを一口飲んだ。
「いきなりだから、驚くかもしれないけどさ」
 和也はいったん間を空け、
「結婚しねぇ?」
 といってきた。
「は!?」
 突然のことに、彩夏は言葉を返せなかった。確かに和也と結婚したいとは思っていたけど、まさかこんな簡単に言ってくるとは思わなかった。もうちょっとロマンチックな場面で言ってくるものとばかり思っていた。
「俺とお前が付き合い始めて・・・・・・何年ぐらいかな。まぁ、結構長いだろ?だから、そろそろ結婚してもいいんじゃないかなって」
 そこで彩夏はふきだしてしまった。
「やっぱり無神経なんだから。もうちょっとロマンチックに言ってほしかったな」
「お?悪い、悪い」
「別にいいけどね。私もそろそろ結婚してもいいんじゃないかって、考えてたところ。和也も結婚したいって言うんだったら、結婚してもいいよ」
 そういうと和也は一瞬驚いた表情をし、そしてすぐに喜びの表情に変わった。
「本当か!?やべぇ!嬉しい!」
「ちょっと、子供じゃないんだから、そんな喜びかたしないでよ。あと、あまり人に言わないようにしてね」
 まるではしゃいでいる子供のようだった。それくらい嬉しかったということか。
「じゃあ、じゃあ、いつ結婚式する?」
「ちょっと気が早いって。大丈夫だとは思うけど、親から了解も得なきゃいけないし。それに結婚式を挙げる日なんて、すぐに決められるわけじゃないし。また考えよう?」
「そうだな。分かった」
 和也は大きく頷くと、ホットドックにかぶりついた。
 彩夏は車を運転しながら、子供のことを考えていた。子供は最低でも一人はほしかった。子供は多いほうがいいが、経済的にはやはり一人が限界である。彩夏は一人っ子だったから、妹か弟がほしくてたまらなかった。他の友達は兄弟なんていないほうがいいといっていたが、彩夏はそれでもほしかった。
 結局その願いは叶わなかった。彩夏が弟か妹がほしかった理由は、自分より幼い子を世話したいという考えがあったからだ。高校生になってもその考えは揺らぐことなく、保育士になろうと考えていた。しかし保育士にもなれなかった。だから結婚したら絶対に子供を産もうと決心していたのだ。もし和也が拒んだとしても、彩夏は絶対に譲らないだろう。
 最近は育児放棄などが多いから、彩夏はそのニュースを聞くたびに、ショックを受けていた。なぜ自分で産んだ子供を、そう簡単に手放すことが出来るのか。しかも嫌々ではなく、わざと。その事件の裁判を任せてもらえるなら、どんな理由であろうと確実に死刑判決を与えているだろう。それくらい子供のことを大切に思っている。
 彩夏は東海北陸自動車道に車を入れた。高山に高速道路が出来てくれて、本当に助かった。なかったころは電車か、車でかなり遠回りをしていくしかなかった。この高速道路のおかげで、今はだいぶ短い時間で岐阜までいくことができる。
 前方にインターチェンジが見えてきた。
「和也。ここから岐阜までずっと高速道路に乗りっぱなしで行くから、休めないからね」
「うん。別にいいけど。万が一のことがあったら、降りろよ」
「万が一のことって何よ」
 彩夏は微笑みながら、インターチェンジを抜けた。
 そのとき、和也のポケットから着信音が聞こえてきた。和也が間抜けな声を出して、ポケットの中から携帯電話を取り出した。
「深田からだ」
 和也はポケットから携帯を取り出すと、通話ボタンを押して、耳に押し当てた。電話の最中、和也は専ら受け答えで、「うん」「分かった」「そうか」くらいしか言っていなかった。数秒後には電話を終え、携帯をポケットの中にしまいこんだ。
「何だったの?」
「あぁ、なんか俺、この同窓会の副実行委員長をやらされててさ。俺がやりたいっていったわけじゃないぜ?深田が、俺の出席番号が一番だからとか言って、任命してきたんだよ。副実行委員長つっても、特にすることないんだけどな」
「で?電話の内容は何だったの?」
「仕事のせいで会場に遅れるかもしれないって。あいつ、今は企業で重役を任せられてるらしくて忙しいらしいんだ。それで、もし同窓会の時間までに来れなかったら、先に始めててくれって。そのことはなんとなく予想してたみたいで、三日前くらいにプログラムを送ってきた」
 和也は携帯の入っていたポケットとは逆のポケットから一枚の紙を取り出した。
「和也もいろいろと忙しいんだね」
「まぁな」
 和也がおもむろにCDをデッキから取り出した。流れていた音楽が止まってしまった。もうすぐ終わるところだったが、なんの断りも無く取り出すのはどういうことだ。
「ちょっと、何で勝手に取り出すのよ」
「だってポップとか、好きじゃねぇんだもん。お前もな、ロック聴けよ」
 そういいながら和也は彩夏のCDケースの中から、CDを一枚取り出した。このケースの中に入っているCDはほとんどが彩夏のものだが、数枚だけ和也のものが入り込んでいる。よく一緒に出かけるからといって、車内においていったものだ。そのCDはどれもハードロックの曲ばかりで音量をかなり下げなければ、頭が痛くなる。
 彩夏は急いで音量を下げようとしたが、間に合わなかった。車内に激しい音楽が流れる。隣を走っていた車の運転手が何事かとこちらを見た。彩夏は慌ててスピーカーの音量を下げた。
「もう!こういうCDを聴くときは音量下げてからにしてっていつも言ってるじゃん!」
「ごめん、ごめん。忘れてたんだ。マジだって」
「私は聴きなれてるわけじゃないんだから、いきなり流されたらただの騒音にしか聴こえないの!」
「分かったって。許してくれたっていいだろう?次からは気をつけるからさ」
「はぁ・・・・・・そのセリフを今まで何回聞いたのかな」
 彩夏はため息をつきながら、運転に戻った。高速道路を走っているのだから、和也のことばかり気にしていたら、いつかは事故を起こしてしまうだろう。今だって、車が少しだけ対向車線に乗り出していた。
 アクセルを踏み込む。車のスピードがぐっと上がり、前方を走っている車に追いついていく。この速さをキープしていけば、ちょうどいい時間につけるだろう。
 その後は、和也は眠ってしまい、社内には無言の時間が流れていった。彩夏は和也を起こすことはせず、ただ黙って車の運転だけに集中していた。

 インターチェンジで高速道路から降りて、岐阜に向かいだしたのは五時になったころだった。これでは岐阜に着くのはギリギリの時間になってしまう。ちょうどいい時間につけると思っていたが、思ったよりも時間のロスが多かった。
 彩夏だけだったら少しくらい遅れても構わないだろう、しかしこの車には和也も乗っているのだ。のんきに寝息を立てて眠っているが。和也は副実行委員長を任されているのだから、遅れるのはまずいだろう。深田のしつこい文句を聞く羽目になるのは嫌だった。
 とりあえず実家に向かい、そこから南原中学校へ向かう。実家と南原中学校はあまり距離が無い。南原中学校と実家の間にある、歩行者しか通れないような細い道のおかげだ。その道を使えば歩いてでも五分程度しかかからない。
 ここから直接南原中学校へ向かうとすると、グネグネと入り組んだ道を通っていかなければならないため、かなり時間がかかる。しかしここから実家へ向かうとすると、数回曲がり角を曲がって、あとは直線を突き進むだけで済む。それだけでも十分近く、到着時間が変わる。
 彩夏はT字路で車を止め、そこで右折した。左の道の先には商店街や住宅街などが立ち並ぶ。右の道の先には田んぼや森くらいしかなく、一方通行の道が多い。ほとんどの場合、左の道を選ぶが、近道をしたいときは右の道を使う。
 田んぼの脇の道を走る。田んぼには稲穂が敷き詰められており、なかなかきれいなものだった。もし沖縄に引っ越したら、こんな景色は二度と見られないのだろうな。
 舗装されていないガタガタの道のせいで、車が大きく揺れた。その振動によって、和也が目を覚ました。驚いたようにしばらく周りを見回し、自分の今いる場所を確認すると眠たそうに目を擦りながら、大きな欠伸をした。
「もうこんなところまで来たのか」
 和也が体の関節をコキコキと鳴らしながら、シートから体を起こした。
「和也。車から降りて」
 彩夏はサラッと言った。運転を交代してもらうために車から降りてという意味で言ったのだが、彩夏はあえて付け加えはしなかった。和也の驚いた顔がみたいのと、和也が必死になって謝る姿が見たかった。
 予想通り、和也は驚いた表情で彩夏を見つめている。思わず笑い出してしまいそうになったが、必死に堪え、
「早く降りてよ」
 と冷たい声で言った。
「何の冗談だよ」
「冗談じゃないってば。早く降りて」
 彩夏はブレーキを踏んで、車を止めた。そうしたほうが、いっそう和也に驚きを与えられる。和也はどうしたらいいか分からず、オロオロとし始めた。
「俺がのんきに寝てたから、起こってるのか?それは悪かったよ。眠たかったんだ」
「何でもいいから降りて。そんなこと聞きたくない」
「こんなところで降ろされたら、どうすりゃいいんだよ。俺歩いて岐阜までなんて行けねぇぞ。まだまだ距離があるじゃねぇかよ」
 もう混乱しすぎてしまっている。そろそろネタ晴らしをしてやらないと、和也は泣き出すかもしれない。割と涙腺が低いのだ。
「は?何言ってんの?歩いて岐阜まで行きたいの?別にそれならそれでいいけど」
「嫌だ、頼むよ。乗せてってください。お願いします」
 和也は靴を脱ぎ、シートの上で土下座した。
「降りてっていったのは、車の運転を代わってほしいからなんだけど。何勘違いしてるの?」
 そういうと和也はバッと顔を上げた。そしてぽかんと口を開けて、彩夏の顔を見つめている。その状態のまま、数秒固まっていたかと思うと、和也はすぐに顔を赤くした。
「運転、代わってくれる?」
 和也が顔を真っ赤にしたまま小さく頷いた。相当恥ずかしいらしかった。
 彩夏が車の外に出ると、和也は助手席から運転席に乗り移った。彩夏が助手席に乗ってからも、和也は顔を真っ赤にしたままだった。そんな姿を見ていると、やっぱり子供みたいに見えてきて、彩夏は和也の頭に手を伸ばして、優しく撫でてやった。うらやましいほどサラサラな髪の毛を、何度も撫でてやる。
 和也はだんだん落ち着いてきた。アクセルを踏んで、車を発進させる。
 彩夏は和也の体の温もりがまだ残っている、シートに体を埋めた。結婚したら、和也が私を守るんじゃなくて、私が和也を守ることになりそうだな。そんなことを考えているうちに、彩夏は眠くなってしまい、和也と同じように眠ってしまった。

 彩夏が目を覚ましたのは和也に叩き起こされたときだった。やさしく起こすのではなく、CDケースで頭を殴られた。手加減をしていたものの、普通こんな起こし方をするものではない。
 車は彩夏の実家のガレージの中に入れられていた。既に時刻は五時二十分を回っていた。彩夏はシートから体を起こすと、急いで車から降りた。あと十分で同窓会が始まってしまう。
 本当は両親に顔を見せて生きたかったが、そんなことをしている暇は無かった。早足で、実家の脇にある細い道へと入っていく。その道の先には大きな学校が見えてきている。今はもう廃校なっているらしいのだが、学校自体はまだ残っていた。学校内の掃除は町内会で二週間に一度、行っている。
 薄暗い中の校舎は、なんとなく不気味だった。やっぱり学校というものは怖い雰囲気がある。特にこの学校は七不思議もあったから、夕暮れ時には近づけなかった。
 今は別にそんなことも無いのだが、やはり少しだけ不安に思える。
「すげぇな。昔のままだ」
「外見はね。中身は少しくらい変わってるんじゃないかな?」
「あの心霊スポットとかもまだ残ってんのかな?近所のガキ共を怖がらせるために考えられたっていう説もあった、あの心霊スポットの数々は」
 心霊スポットというのは、誰が考え出したものかは分からないが、南原中学校の中でも怖そうな場所のことだ。心霊スポットは壁に赤い液体が塗りたくられている宿直室、学校の裏側の日のあたらない場所にある古いトイレ、学校のそばの林の中にある井戸などがあった。本当にお化け屋敷としてでも使えそうなくらい、心霊スポットのような場所がある学校だった。当時は怖くて近寄れなかったほどだ。
「残ってるといいね。一応あれも思い出の一つだし」
 彩夏たちは細い道を抜け、校門の前まで来た。
「懐かしいな」
 そう呟きながら校門を潜り抜け、グラウンドの中に足を踏み入れた。グラウンドの奥に校舎がある。校舎にある窓からはいくつかの顔がのぞいていた。何も知らない人が見ると幽霊が覗いているようにも見えるが、あれは旧三年C組のメンバーだろう。誰かが手を振っている。
「あれ、超不気味だよな」
「分かる。何だかやけに青白い顔に見えるし」
 にこやかに手を振り返しながら、そんな会話を交わしていた。校舎までたどり着き、生徒玄関から中に入る(深田が準備したもののようで、「同窓会メンバーは生徒玄関から仲へ」という看板が立っていた)。玄関に入ると、下駄箱が数箇所開いたままになっているところがあった。
 中を見てみると、そこには名前のシールが貼られていた。旧三年C組メンバーの名前のシールだ。中学校のころに使っていた、下駄箱を再現しているようだ。そんな小さな気遣いに、彩夏は微笑んだ。
「あいつ、なかなか気が利くな」
 和也がそう言いながら、靴を下駄箱の中に入れた。彩夏も靴を下駄箱の中に入れ、和也について校舎の奥へ入っていった。
 やはり人がいない校舎というのは静まり返っていた。四階建ての校舎で、三年生の教室は四階にあるから音は全く聞こえてこない。しかも薄暗いから、廊下は奥まで見渡すことが出来ない。
 窓ガラスは所々割られており、妙な落書きも目立つ。シートのようなものをかけられている教室もあった。
 教室の中も荒らされ放題で、机や椅子は床に倒されている。黒板にはまたしても落書きが。先生の机は引き出しが開けっ放しになっており、中を調べた痕跡があった。おそらくこの近所に住んでいる高校生などがやったのだろう。廃校だから好き放題やってもいいという考えがまだまだ子供だ。
 和也が彩夏の手を握った。右手が柔らかな感触に包まれる。突然の出来事に、彩夏は驚きを隠せなかった。和也が何の躊躇もなく手を握ってくるのは初めてだった。
「ちょっと、どうしたの?」
「覚えてないのか?この階段」
 そう言われて、彩夏はやっと思い出した。一階から二階までの階段。そこは恋繋ぎの階段ともいわれていた、心霊スポットだった。この階段から落ちて死んでしまったカップルの霊がいるらしい。そしてその霊によって、これから恋人として上手くいけるかどうかの合否が決められるという話があった。
 まずは手をつないで、この階段を上って行く。そして二階に上がりきるまでに幽霊と遭遇しなければ二人の仲は一生上手くいく。二階に行く途中で幽霊を一目でも見てしまえば、近々別れることになる(近々というのは二週間以内のことをさしていた)。二階に行く途中で躓いたり、転んだりするといつか別れが来てしまう。
 もちろんここに特別な力があるわけではなく、階段を上りきるのもたやすいことだ。だからうわさは流れていたが、実際にやっている人はあまり見なかった。
 私と和也の仲がいつまで続くかを調べたいって言うわけね。もちろん一生続くものだと思いたい。でももしここで躓いたりしたら、何だか気分が悪くなる。
「ねぇ、和也。もうそろそろ止めない?」
「別にいいけど。呪われるかもしれねぇぞ」
「そんなわけないでしょ」
 和也は彩夏の手を放した。すると彩夏は急に不安な気持ちがしてきた。次の瞬間には、彩夏は和也の腕に抱きついていた。ここで手を放したりすると、和也と一生会えなくなるかもしれないという不安がわいてきたのだ。
「何だよ。いきなり」
 和也は困ったような表情をしていたが、すぐに表情を和らげた。いつもの和也なら、「俺の抱きつきたかったから、手を放してほしかったのか?」などと挑発的なことを言ってくるのに、今回は何も言わなかった。
 階段を上っていき、四階に到着した。廊下の端から三つ目の教室だけ電気がついている。教室の中からは楽しそうな笑い声も聞こえてくる。あれが三年C組の教室だ。もうすぐ同窓会が始まる。いや、もう始まっているのかもしれない。
 彩夏は和也の腕から体を離すと、少し歩調を速めた。それに続くようにして和也も歩調を速めてついてきた。教室の引き戸は閉まっており、曇りガラスから光が漏れている。
「和也。先に入ってよ」
「何で?」
「お調子者のあんたなら、どうやって入っていくのか見たいの」
 そういうと和也はニヤリと微笑んだ。そして引き戸を開けて、中に入った。息を吸い込んで、何か叫ぼうとした瞬間、パンッという激しい音が前方から聞こえてきた。立ち込める火薬の臭い。そして和也の体に降り注ぐ・・・・・・細い紙のテープ。
「遅ぇぞ。和也、彩夏。もうすぐ始まるぜ」
 深田が一歩前に出てきて、言った。全員の手に握られているのはクラッカーだった。驚きすぎて、固まったまま動けない和也はきょろきょろと目だけを動かして部屋を見回した。
 その後ろから笑いながら、彩夏は教室に入った。これは計画してあったことだ。和也が車の中で眠っていたときに、彩夏の携帯に深田から連絡が入った。そこで彩夏は「もしかしたら遅れるかもしれない」といっておいた。すると深田は「和也を驚かせる計画を立ててるから、教室に入るときは和也を先に入らせてくれ」といって、電話を切ったのだ。計画の内容は知らされていなかったから、更に笑いがこみ上げる。
教室に入ると、真っ先に飛びついてきたのが中学校時代に一番仲のよかった星崎加南子だった。加南子とは今も仲がよく、時々遊びに行ったりもしている。
「遅かったね」
「うん。でもギリギリ間に合ったから、OKでしょ?ところで、恵美菜は?」
「恵美菜は夫と一緒に熱愛中だよ。ほら、あそこ」
 加南子が指差した先には、新村恵美菜と佐伯敦の姿があった。そういえば、あの二人は最近結婚したのだった。
 中学校時代、彩夏と恵美菜と加南子は常に一緒にいた。他の女子とも一緒にいたが、特にこの三人でいることが多かった。彩夏と加南子は小学校からの付き合いで、恵美菜は中学校に入ったときに神戸から転校してきた。
「ちょっと和也。いつまで固まってるの?」
 彩夏が声をかけると、和也はやっと動き出した。
「おい、深田。何だよ、このサプライズは」
「副実行委員長が遅れてきたからな、×ゲームだよ」
「×ゲームって・・・・・・。っていうか彩夏も共謀者か!?」
「さぁ?どうかなぁ?」
 彩夏と加南子はクスクスと笑いながら、席に着いた。教室の中には長机が二つ横に並べられており、その向かい側にもう二つ分の長机が置かれている。そこには大量の料理が所狭しとおかれていた。彩夏と加南子が座ると、その隣に和也もやってきて座った。
 彩夏は荷物を座布団の上に置くと、その場を立ち上がった。
「どうしたの?彩夏」
「先生に挨拶しにいってくる。本当に久しぶりだから」
「じゃあ、俺もいってくるか」
 彩夏と和也は元担任の寺田幸子のそばへ行った。中学校のころから、みんなに好かれている先生で、今も周りには人だかりが出来ていた。彩夏と和也が近づくと、先生は気づいて座布団から立ち上がった。その動作はゆっくりで、体はだいぶ重そうだった。
「先生、お久しぶりです」
「彩夏ちゃんと、和也君ね。本当に久しぶり」
 寺田は中学校時代に二十五歳だったから、今は三十五歳か。まだ若々しさは残っているものの、昔のままとはいえない。
 彩夏の視線は寺田のおなかの辺りでピタリと止まった。中学校時代の寺田はほっそりとしたウエストラインが本当にすばらしかった。しかし今は腹がだいぶ出てきている。そのお腹を見た彩夏は、哀れみではなく希望のこもった顔で寺田の顔を見上げた。
「先生、赤ちゃんですか?」
 そういうと寺田はにっこりと微笑んだ。
「そう、やっと授かることが出来たの」
「おめでとうございます。今、何ヶ月くらいなんですか?」
「今でやっと三ヶ月。産まれたら写真送ってあげるからね」
「ありがとうございます」
 寺田は体育教師と二十八歳のときに結婚した。それからなかなか子供を授かることが出来なくて、苦労していたと聞いている。
 本当に羨ましかった。彩夏の手は、無意識のうちに寺田のお腹に伸びていた。優しく撫でてやる。
「先生、そろそろ座ったほうがいいんじゃないですか?」
 誰かがそういうと、寺田は頷きながら、彩夏の顔を見据えた。
「彩夏ちゃんも、頑張ってね」
 寺田はそういうと、体を重そうにしながら自分の席へ戻っていった。本当に何気ない一言だったが、寺田からの言葉は彩夏に勇気を与えてくれた。
「和也。そろそろ始めるから、席に戻って」
 背後から深田が声をかけてきた。
「もうそんな時間か。分かった。彩夏、行こうぜ」
「うん」
 彩夏は笑顔で頷くと、和也と一緒に加南子の元へ戻っていった。

 同窓会では久しぶりの再会ということもあり、誰もがハメをはずしていた。
 予定では八時に終わるはずだった同窓会も、結局九時に終わることになった。外は真っ暗になっており、空には星が輝いていた。
 教室にはほとんど人が残っておらず、和也と深田は教室の掃除をしていた。彩夏と加南子、そして恵美菜と敦は長机の上を片付けていた。九時半になったころには、片付けはほとんど終わり、あとは長机をしまいに行くだけとなった。
「それじゃあ、しまいに行くか」
深田が和也に声をかけた。和也は頷きながら、長机を持ち上げた。
「ねぇねぇ、片付けに行くついでに、今から心霊スポットを回らない?」
 加南子がそんなことを言い出した。深田が机を持ち上げながら、
「面白そうだな」
 と呟いた。敦も机を持ち上げながら、
「やってみるか」
 と言い出した。彩夏と加南子は残っていた長机を二人で持ち上げ、和也たちの後について倉庫へ向かった。
「心霊スポットって、全部でいくつあったっけ?」
「まず二年D組教室でしょ。ほら、使われないのにいつまでも残されてた教室。あと校舎裏のトイレ、林の中の井戸、宿直室、恋繋ぎの階段、大鏡。これくらいじゃなかったっけ?」
「意外に多かったんだな」
 四階の廊下の端にある、倉庫に長い机をしまい終え、
「まずは二年D組教室に行ってみるか」
 深田はそういうと、先頭に立って歩き出した。敦と恵美菜はほとんど抱き合うような格好で歩いていた。その後ろを彩夏、加南子、和也がついていった。
 階段を下り、三階へ向かう。三階は非常灯も着いておらず、月明かりのおかげで少しだけ明るいだけだった。そんな廊下の一番奥にある二年D組教室は、かなり不気味な雰囲気がある。
 深田は壁にある、白いスイッチに指を伸ばした。カチッという音が聞こえたが、天井の蛍光灯に光はともらなかった。
「駄目か」
 深田は再びスイッチを押し、廊下の奥へ向かって歩き出した。
 ゆっくりと廊下を歩いていると、深田がポケットの中から何か細いものを取り出した。それを右手に持ったかと思うと、廊下が明るく照らし出された。懐中電灯だ。
 廊下は途中から窓が無くなっているから、そのあたりへ来ると本当に真っ暗になってしまう。暗闇に入ると、懐中電灯の光で照らされる範囲しか見えなくなってしまった。
 そのとき隣で光が瞬いた。見ると、和也がランタンのようなライトを手にしていた。
「ビックリさせないでよ」
「ごめん、驚くとは思わなくて」
 これだけでだいぶ明るくなった。前方からかチッ、カチッという音が聞こえてくる。どうやら二年D組教室についたようだ。明るくならないということは、ここも電気がつかないのか。
 彩夏たちは教室の中に足を踏み入れた。教室の中には本当に何も無かった。教室の中はカーテンが閉まっているようで、真っ暗だった。机や椅子などは一つも置いておらず、予定黒板はきれいなままだった。しかし黒板には変な落書きがしてあった。不気味な絵だ。
 この教室の中で注目できるのはそこくらいだった。
「まぁ、所詮こんなものか」
「じゃあ、宿直室に行ってみるか」
 敦が深田から懐中電灯を受け取り、先頭に立った。宿直室はちょうどこの教室の真下にある。少し速いペースの歩調で二階へ下り、宿直室へ向かった。
 宿直室の扉はしまっていた。ここも二年D組教室と同様、窓の無い場所にあるから真っ暗だった。敦がドアノブに手をかけて、全員の顔を見た。そして緊張した面持ちで、一気に扉を開けた。
 まず懐中電灯に照らされたのは、真っ赤な壁だった。何か塗料が塗りたくられている壁なのだが、当時はそれが血のように見えた。夜になると、この部屋の中に血まみれの幽霊が立っているといううわさもあった。
「やっぱり何も無いよな」
 和也がそういいながら宿直室の中に足を踏み入れた。和也に続いて、敦と恵美菜も中に入っていったが、特に何も無いようだった。
「誰かがテキトーに考えたうわさだったからな。真実かどうかは分からないんだな」
「そうだよね。じゃあ、次に行こう」
 今度も敦が先頭に立ち、恋繋ぎの階段へ向かった。恋繋ぎの階段はやはり何の変哲も無い階段だった。
 早くも三つ目の心霊スポットを回ったが、心霊現象などは一切見られない。やっぱりこんなものなのか。この学校に幽霊が出るなんていううわさは聞くが、実際に見た人がいるとは聞いたことが無い。やっぱり心霊スポットも、全部嘘なのだろうか。
「本当に何もねぇな」
「なんか、本当っぽかったのにな。子供のころに怖がってて、損したな」
 下駄箱で靴を履きながら、深田と敦が会話をしていた。
「ねぇ、残り二つの中に、本物の心霊スポットがあると思う?」
 彩夏は和也に聞いてみた。しかし和也は、
「分からねぇ」
 と言うだけだった。彩夏はため息をつきながら、靴を履いて外に出た。外は蒸し暑く、ジメジメしていた。こうしているだけでも、気分が悪くなってくる。
 敦も同じだったようで、足早に校舎の裏へ回っていった。
 校舎の裏にポツンと立っている、古いトイレ。あそこのトイレを使っている人を見たことが無かった。心霊スポットだからという理由もあったが、それ以外にも薄汚い、臭い、暗いなどといった理由で誰も使っていなかった。
 トイレに近づいていき、扉を開ける。白い便器が少し黄ばんでいた。今はあまり見なくなったボットン式の便所で、臭いがかなりきつかった。まだ昔のものが残っているのだろうか。敦は狭い便所の中を懐中電灯で照らしたが、やはりここも薄汚いだけ便所だった。
 敦は乱暴にトイレの扉を閉めた。懐中電灯を深田にではなく、和也に手渡すと、恵美菜と一緒に列の最後尾についた。和也は懐中電灯のスイッチを切り、ランタンを片手に持って林に向かって歩き出した。しかしそれを恵美菜が止めた。
「ねぇ、本当に入っても大丈夫なの?こんなに暗い中で、もし道にでも迷ったりしたら、大変じゃない?結構入り組んだ林だし」
「まぁ、大丈夫だろう。奥に行ったとしても、壁にぶち当たるからな。壁に沿っていけば、いつかは歩道に出られる」
林を抜けた先に何があるのかは知らなかった。林の途中に大人でも越えられないような高い壁が作られており、その向こう側へ抜けていけないようにしてあるからだ。昔、林の中に入っていって行方不明になった子供がいたらしく、それから子供が林の奥に入っていかないように作られたものらしい。井戸はその壁のすぐ近くにある。
「心配だったら、別にここにいても構わないけど。どうする?」
 和也がそういいながら、歩き出した。恵美菜はしばらく敦と顔を見合わせていたが、結局ついてくることにしたようだ。
 蛙の鳴き声と、何か鳥の鳴き声が聞こえてくる。和也がそばにいるから恐怖はあまりないのだが、一人でこの林の中に入っていくことは無理だろう。それは全員が同じ気持ちのようで、学校内にいるときよりも口数が減った。特にびくついているのは加南子だ。さっきから一言もしゃべっておらず、言い出しっぺのくせに一番怖がっている。
 一緒にお化け屋敷などに入っても、途中で足を止めてしまうことがたびたびある。そして「入らなければよかった」と文句をぶつぶつと言い出すのだ。それは毎回のことなのだから、少しは学習すればいいのにとよく思う。
 彩夏は急に空気が変わったことに気づいた。気のせいかもしれないが。ハッキリとは分からないのだが、何だかさっきよりも気分が悪くなったような気がする。何だろう。
「なんか、空気が重くない?」
 彩夏が小声でそういうと、和也も小さく頷いた。
「気のせいかもしれないが、何だか気分が悪い。蒸し暑いとかそういうのじゃないんだよな。やっぱりこの林はマジで幽霊がいるのかもしれない」
「ちょっと、そんなこと言わないでよ」
 彩夏は無理に笑みを作ったが、やはり不安は拭い去れなかった。
 歩き続けること十数分。懐中電灯の光の中に、なにやら丸みを帯びた四角いものが見えた。井戸だ。井戸の周りには草が茂っており、コケが大量に張り付いていた。
 和也が井戸のそばに歩み寄った。続いて、深田が井戸のそばに行く。更に敦と恵美菜も井戸のそばに行ってしまい、残された彩夏と加南子はその場で立ちすくんでいた。
「彩夏?」
 加南子が不安げに声をかけてくる。
「どうしたの?」
「彩夏は、行かないの?」
 そういわれて自分たちが取り残されていることに気づいた。慌てて和也のそばに駆け寄る。懐中電灯は深田が持っており、和也は彩夏がそばに来ると、両手で抱き寄せた。
 懐中電灯の光が井戸の中を照らす。彩夏も井戸の中を覗き込んだ。
「あれ?まだ水が残ってんのか?」
 懐中電灯の光が井戸の底に反射している。もう廃校になってから五年近く過ぎているのに、まだ枯れ井戸なっていないというのはどういうことなのだろう。
「そういえば、さっき先生が言ってたな。井戸の水がぜんぜん枯れないんだって。廃校になるまで勤めてたらしいけど、その間もずっと水があったらしいんだ。今日、来たときに覗きにいったら、まだ水が残ってたから驚いたって」
「おかしくないか?誰かが水を足してるんだったら分かるけど」
「きっとそうだろ。だってそれ以外考えられないだろう?」
 和也と敦が話をしていたとき、恵美菜が悲鳴を上げた。
「何だ?どうしたんだ!?」
 敦が恵美菜に問いかけると、
「今、井戸の底に。赤ん坊の顔が映ったの。私に笑いかけてきたのよ!」
 と小さな声で言った。敦が質問を繰り返すが、恵美菜はそれ以降は答えようとしなかった。笑いかけてきたと分かるくらいにハッキリと映ったということは、見間違いではない。その事実が恵美菜に強い恐怖を与えていた。
「もう止めたほうがいいんじゃないか?新村がこんな風になっちまったし」
「そうだな。これ以上はやばいかもしれないな」
 六人は今歩いてきた道をゆっくりと引き返していった。同窓会のあとで、あんなに楽しい気分になっていたのに、こんなことがあってはテンションが下がってしまう。
 学校につくまでの間、誰もしゃべらなかった。学校についたところで、六人は分かれた。彩夏と和也はそれぞれの実家へ戻っていき、他の四人は駅へ向かって歩いていった。
 和也と彩夏は校門までは一緒に歩いていたが、家の方向が逆方向のため、そこで別れることになった。
「じゃあ、明日の朝に来てね」
「あぁ、それじゃあ、おやすみ」
「うん」
 もっと話したいことはたくさんあったのだが、今のテンションで話せるようなことではない。彩夏は和也が背を向けて歩き出したのに気づき、ため息をつきながら目の前にある細い道に入っていった。しかし少しだけ進んだところで彩夏は足を止め、学校のほうへ振り返った。
 今のは、何?空耳?
 彩夏は妙な音を聞いた。音というよりは声といったほうが正しいもので、その声はしっかりとした発音ができていなかった。まるで赤ん坊の声のような。
 彩夏の耳に聞こえてきたのは「マ・・・マー」という単語だった。ハッキリとは聴こえなかったから、彩夏は空耳だと自分に納得させた。
 実家に戻って、布団に入ったころにはもうその空耳のことは忘れていた。




 変死

 同窓会があってから、数週間が過ぎた。同窓会の翌日に仕事を休んだため、もうあとは休めなくなってしまった。これ以上休むと、給料を減らされてしまう。ただでさえ少ない給料だから、それ以上に減ると、生活できなくなる。それは和也も同じようで、メールを送ってもなかなか返信が来なかった。
 室内のあまりの暑さに、彩夏は部屋を出た。今年の夏は節電などといって、クーラーをつけていない。それなのにドアを締め切って、パソコンが十台近く動いている部屋の中で仕事をしろというのだから、ほとんど拷問だ。
 団扇を配布されたが、団扇で扇いだってそんなに涼しいわけではない。小型の扇風機でも持ってきていないと、仕事なんて出来たものではない。しかも暑さのせいでパソコンが壊れていくということもよくあった。人間以上にデリケートなものだから、節電とかは関係なくクーラーはつけておいたほうがいいと思う。
 昼休みには屋上の日陰で、同僚と涼んだ。この場所で仕事をしたいと思えるくらい、涼しかった。他の部屋と比べても、この部屋は本当に暑すぎる。
 彩夏は額に浮かんだ汗をハンドタオルで拭き取ると、気合をいれて部屋の中に戻っていった。やはり部屋の中の暑さは変わっておらず、ムワッとした熱気が立ち込めていた。
 節電と言い出した部長もあまりの暑さに参っている。シャツには汗のせいでシミが出来ており、汗が絶え間なく流れ出している。そして時折クーラーのほうをちらちらと見てはため息をついている。
 彩夏は自分のデスクに戻り、机に突っ伏した。机の上においてある小型扇風機の電源を入れて、本当にわずかな涼を得る。しかし暑いのは変わらず。
「暑い」
 とだらけた声を出した。その状態のまま数秒間固まり、彩夏はバッと体を起こした。目の前にある、ノートパソコンを開き、電源を入れた。休止状態にしていたため、起動するのが通常より早い。デスクトップ画面が表示され、仕事に取り掛かろうと彩夏がキーボードに手を置いたときだった。
 ハンドバッグの中から着信音が聞こえてきた。彩夏は驚いて足元においてあるハンドバッグを手元に持ってきた。しまった。普段は携帯の電源を切ったままにしてあるのだが、昼休みのときに電源を入れて、切り忘れていたのだ。
 彩夏は和也からの電話だということを確認すると、すぐに電話を切り、携帯の電源を切った。周りから妙な目つきで見られ、彩夏は顔を赤くした。何でこんなときに電話をかけてくるのよ。そう心の中で文句を言いながら、平常を保って仕事に取り掛かった。
 その数分後だった。部長が電話に出たかと思うと、彩夏を呼び出した。彩夏は思わず体を震わせ、部長のほうを向いた。さっきの電話のことについて怒っているのかと思ったのだ。しかし表情からして怒っているようには見えなかった。彩夏は安堵の表情を見せ、部長の元へ行った。
「加藤。お前の友人から電話だ」
「友人ですか?」
 彩夏は部長から受話器を受け取ると、耳に押し当てた。
「彩夏か?俺だ、和也だ」
 和也はひどく興奮した様子だった。こんなに慌てて電話をしてくるということは、何かあったのだろうか。
「何?どうしたの?」
「落ち着いて聞けよ。さっき、俺のところに警察から電話がかかってきた」
 警察から電話?一体何があったっていうの?
彩夏は自分が強い不安を感じているのに気づいた。もしここが会社でなかったら、平常心を保てていなかったかもしれない。しかしその何とか保っていた平常心を壊すかのように、和也が言葉を発した。
「寺田先生が・・・・・・死んだ」
 その言葉を聞いたとき、一瞬言葉が理解出来なかった。呆然としながら、
「ど、どういうこと?」
「詳しいことは後で話す。今は高山中部警察署まで来てくれ。俺たちから話を聞きたいらしいんだ」
 和也はそこで電話を切った。電話が切れたあとも彩夏は受話器を話すことが出来ず「ツーツーツー」という音しか聞こえてこない受話器を耳に押し当てたままだった。
「加藤?大丈夫か?」
 と部長が声をかけてきた。彩夏はその声で我に返ると、受話器を置いた。そして大きく深呼吸をして、自分の気持ちを落ち着かせると、
「部長、今日は早退させてもらってもいいですか?」
「今の電話はなんだったんだ?だいぶ顔色が悪いが」
「実は・・・・・・中学生のころの担任の先生が亡くなったそうなんです。それで警察に行かないといけないみたいで」
 小声で言うと、部長の表情が引きつった。そしてすぐに、
「分かった。急いで行くんだ」
 と言った。彩夏は部長に頭を下げると、デスクの上においてあるハンドバッグをつかみ、部屋を出て行った。エレベーターではなく、階段を使って一階へ下りる。
 すぐに正面玄関から外に出て、駐車場に入っていった。ハンドバッグの中をかき回し、車のキーを見つけ出すと、すぐにエンジンをかけた。アクセルを踏み込み、料金機に駐車券を入れて、駐車場の外に出る。
 高山中部警察署は川を一本挟んだ先にある。車が大通りに出ると、彩夏は携帯電話をハンドバッグの中から取り出した。携帯のふたを片手で開け、電源を入れる。そしてまた携帯電話をハンドバッグの中に放り込んだ。
 高山中部警察署までの、最短距離の道を行く。その道には信号などが無いため早く進むことが出来るのだが、観光客が通る道でもあり、小学生や中学生などが下校で使う道でもある。だから細心の注意を払って運転しなければならない。
 運のいいことに、何度か小学生と見かけたが、道を横断しようとする子はいなかった。
 橋を渡り、すぐに右折する。ここでも何度か観光客や、小学生を見かけたが、横断しようとすることは無かった。赤信号になりかけているところをギリギリで走りぬけ、視界の隅に映っていた大きな建物を、しっかりと見据えた。あれが高山中部警察署。十五年ほど前に作られた警察署だ。
 警察署の正門から中に入り、駐車場の空いているところに車を止める。ハンドバッグをつかんで外に出ると、車の鍵を閉めることも忘れ、警察署に向かって走り出していた。寺田の死因について知りたかった。あんなに元気だったのに、なぜこんなことになってしまったのかを知りたかった。
 彩夏が署内に入ると、和也がすぐに近づいてきた。ロビーには既に十人近くが集まっており、全員が暗く沈んだ表情をしている。特に暗い表情をしているのが深田だった。
深田は元々人とコミュニケーションをとるのが苦手で、なかなかクラスに打ち解けることが出来なかった。たった一人でやっていくというタイプの人間だった。しかし寺田のカウンセリングなどのおかげで、クラスメイトとコミュニケーションをとっていく方法を身につけていったのだ。今、社会で成功しているのも寺田のおかげだろう。コミュニケーションが上手く取れなければ、いくら才能があったとしても社会に適応していけない。
「ねぇ、どういうことなの!?何で先生が死んだの!?」
「俺もよく分かんねぇんだよ。いきなり電話がかかってきて、とにかく警察に来いって。先生の携帯に、俺と深田からのメールがあったから電話をしてきたらしい」
 彩夏は泣き崩れそうだった。あまりの悲しみに、その場で座り込んでしまった。和也は彩夏の体を抱き起こすと、ロビーにおいてあるソファに座らせた。
「来れるのはあと五人なんだ。それ以外のやつは用事で来れないって。全員が揃ったら、事情を説明してくれるそうだから、もうしばらく待っててくれ」
 和也は彩夏の目を見据えながらゆっくりとした口調でそういうと、警察署の正面玄関から外に出て行った。そこでキョロキョロと辺りを見回して、残りの五人の到着を待っている。
「先生・・・・・・」
 子供ができたということで、あんなに幸せそうにしていたのに。あまりにもショックが大きい。まさか最後に顔を合わせるのが、あの同窓会になるとは思わなかった。
「彩夏・・・・・・」
 声をかけられ、顔をあげると、そこには加南子が立っていた。加南子はだいぶ泣いたようで、目が赤くなっていた。彩夏の隣に腰掛ける。
「どうしてこんなことに・・・・・・」
「あんなに、元気そうだったのに」
「そういえば、敦は警察だったよね。恵美菜が敦から何か聞いてないの?」
「恵美菜は、今日は来れないらしいの。敦は、今現場で取調べ中だって」
「そう」
 彩夏は頭を抱え込んだ。すると頭の中を走馬灯のように寺田との思い出が巡った。
滅多に怒ることがなく、まるで母親のような人だった。いじめなどがあれば、鬼のような形相で怒ってくれた。そのおかげでクラスからいじめはなくなった。授業で分からないところがあれば、ほとんどつきっきりで教えてくれた。
中三だというのに、小学生に戻ったような気分だった。生徒を我が子のように思っていた、寺田が死んだということは、実の母親が死ぬのと同じくらい悲しいことだ。
「彩夏、全員揃ったぞ。話を聞かせてくれるらしいから、行くぞ」
 和也がそう声をかけてきた。彩夏は顔を上げ、加南子に助けられながら立ち上がった。そしてロビーから第一会議室へ移動した。
 会議室の中にはパイプ椅子が人数分用意されており、彩夏と加南子と和也は横に並んで座った。全員が席について、数分経ったときに部屋の扉が開いて一人の男が入ってきた。
 会議室の中に入ってきた男は、ヨレヨレの背広を着ていた。たくましい体つきをしており、三十代にも見えるような顔つきをしているが、目立つ白髪や皺などが五十代半ばということを示していた。
「今回この事件の捜査をさせていただくことになりました、小嶋といいます」
 小嶋は名刺を内ポケットの中から取り出すと、一枚ずつ渡していった。名刺を配り終えると、一息ついてから話し始めた。
「寺田さんを発見したのは、海に遊びに来ていた親子でした。寺田さんは富山の海の浅瀬で、うつぶせの状態で発見されました。寺田さんは数日前から行方不明になっていました。なぜ富山へ出かけたのかは、まだ分かってはいません」
 小嶋はそこでいったん間を空けた。少しだけ咳き込むと、再び話し始めた。
「寺田さんが死んだ理由は自殺として捜査を進めています。今日、皆さんに集まってもらったのは、寺田さんが何かマイナスな発言をしていなかったのかを教えてもらいたかったからです。寺田さんの夫にも聞いたのですが、そういう発言はなかったということでした」
 彩夏は立ち上がった。自分の知っていることが操作につながってくれることを願って、あのときの寺田の様子を話した。
「数週間ほど前に、同窓会を行ったのですが、そのときはそんな発言はしませんでした。本当に明るくて、子供を授かれたことに対して喜んでいました」
 そういうと深田も立ち上がった。
「僕もずっと先生のそばにいましたが、そんな発言は一切しませんでした」
 小嶋は腕を組んで、唸った。もう少し有力な情報が得られると思っていたのだろう。
「自殺をする理由がないとすると、他殺としか考えられないのですが、他殺という証拠が出てこないんです」
 小嶋は部屋の隅においてあるパイプ椅子に腰掛けると、ため息をついた。彩夏も同じようにため息をつきながら、パイプ椅子に座った。静寂の時が流れる。
「数ヶ月前にも同じような事件が起きているんですよ」
 静寂を破ったのは、小嶋だった。全員の視線が小嶋のほうへ向けられる。小嶋はハンカチで汗を拭きながら、
「数ヶ月前に、貯水タンクの中で死体が見つかったんです。死んだのは女性でした。その女性はなぜかおんぶひもをつけていて、肝心の赤ん坊だけがいなかったんです。その女性は赤ん坊を産んだことが一度もなかったので、おんぶひもをつけている理由がなかったのです。そして今回の事件。海で死体が見つかり、その死体にも同じようにおんぶひもをつけていました。おんぶひもの中に赤ん坊のいた痕跡はなく、お腹の中にいた赤ん坊が第一児だったそうです。なぜおんぶひもをつけていたのか、その理由が分からない」
 おんぶひもをつけていた、女性の死体。いずれも水死体となっていた。この二人の死に方の共通点。これは一体どういうことなのだろうか。
「先生の、赤ちゃんはどうなったんですか?」
 和也がそう聞いた。小嶋は残念そうに首を振った。
「当然死んでいました。しかしこの赤ん坊は自然死ではなく、他殺のような殺され方でした」
「他殺のようなとはどういうことですか?赤ん坊が他殺されているのであれば、先生が死んだのも、他殺ということになるのでは?」
「赤ん坊の殺され方が、通常ではありえない死に方だったのです。赤ん坊をお腹から取り出しでもしない限りは。どういう死に方をしていたか聞きたいですか?」
 和也がごくりとつばを飲み込んだ。しかし和也は引き下がることなく、
「お願いします」
 といった。小嶋はため息をつくと、和也を見据えた。
「殺され方としておかしな点は二つありました。一つは赤ん坊の頭がなかったところ。体の中にもなく、首には頭を引きちぎったような痕がありました。身体に吸収されてしまったとは考えられません。二つ目は赤ん坊の内臓がすべて抜き取られていたということです。体自体は残っているのですが、内臓だけが一つも残っていなかったのです。他殺としても自殺としても考えられない殺され方です」
「その・・・・・・赤ん坊の状態を知ったから自殺をしたというのは」
「それも考えましたが、寺田さんは行方不明になる一日前に産婦人科に来ています。そのときは通常通り育っていることが確認されました。そして行方不明になってから、死体となって発見されるまでの間に一度も病院などには来ていません」
 他殺でもなく、自殺でもない。一体どういうことなんだ?全員の顔色がだんだん悪くなっていく。再び静寂が訪れた。
「今回はこの辺で結構です。お忙しい中、ありがとうございました」
 小嶋がそういうと、緊張の糸が切れ、一人、また一人と帰りだした。彩夏も加南子の手を引いて立ち上がると、会議室を出た。
「一体、どういうことだ?」
 和也が小さく呟いた。それは誰もが思っていることだろう。自殺とも他殺とも考えられない殺され方をしている。これは一体どういうことなのだろうか、と。
 これから警察はどのように捜査を進めていくのだろうか。まずは自殺か他殺かを判断しなければならないのに、それさえも判断できない。人の仕業ではなく、幽霊の仕業だとでもいうのだろうか。
 彩夏は警察署から出ると、会社に電話をかけた。「今日はもう退社させてください」と部長に頼むと、部長は了解してくれた。電話を切った彩夏はさっさと車に乗り込んだ。加南子と和也も帰っていった。しかし彩夏は車に乗り込んだはいいが、そこから動こうとはしなかった。
 赤ん坊、水死体。二つの事件の接点が少なすぎて、全然推理が出来ない。彩夏はため息をついた。普段はこんなにため息をつかないのに、今日は数え切れないほどため息をついた。
 彩夏は車のエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。そのまま真っ直ぐ家へと向かって車を走らせた。

 家に着くと、すぐに自分の部屋に駆け込み、ベッドに倒れこんだ。枕に顔を埋めて、涙が枯れるまで泣いた。ずっと涙を抑えていたが、もう止められなかった。涙が出れば出るほど、辛い現実を思い知らされ、更に涙があふれてくる。一体、誰なの?誰が寺田先生を死に追いやったの?
 結婚式には寺田先生も呼ぶ予定だった。和也と結婚できるということと、先生に花嫁姿を見せられるということでずっと楽しみにしていたのに。
 涙は枯れることなく、絶え間なく流れ続けた。枕が涙のせいで濡れてしまうくらい泣いたのに、それでも涙は流れ続けた。二時半ごろから泣き続けているが、六時になっても悲しみは拭い去れなかった。
 立ち直れないようなショックではなかったが、やはり悲しいものは悲しい。
 夜九時になって、携帯の着信音を聞いた彩夏は水浸しになった枕から顔を上げた。枕の脇においてある携帯が振動している。小さな液晶画面には和也の名前が表示されていた。
「もしもし」
「彩夏。大丈夫か?」
「うん。和也が電話かけてきてくれたから、何とか大丈夫」
「そうか。それならよかった。俺も心配してたんだ。かなりショック受けてたみたいだったから」
 和也がこれだけ心配してくれていたことに、彩夏はホッとした。和也に元気付けられることなんて、滅多にない。だから暖かみを感じるのかもしれない。
「ありがとう。ねぇ、和也」
「何だ?」
「今から家に来れない?もし無理だったらいいんだけど」
 自分からそう言っているのが信じられなかった。自分が和也に助けを求めていることが信じられなかった。和也も少し驚いたような口調だったが、
「分かった。今すぐ行くから、待っててくれ」
 といって、電話を切った。携帯を枕元に放り出すと、彩夏は壁にもたれかかった。和也がそばにいてくれれば、何とかショックから立ち直れるだろう。今、自分の心の支えになっているのが和也の存在だ。もしここで和也を失うことになったら、もう生きていけないだろう。
 彩夏は机の棚においてあるアルバムを見つめた。あそこにたくさんの思い出が詰まっている。そう思うと、また涙が溢れてきた。
 膝を抱えて、泣き出してしまった。そのとき、彩夏の耳にあの声が聞こえてきた。同窓会のあとに、実家へ戻ろうとしていたときに聞こえてきた声。まるで赤ん坊のような声。
「マァ・・・・・・マ」
 その声が聞こえた途端、彩夏は顔を上げた。辺りをキョロキョロと見回すが、目の前にあるのは月明かりに照らされた自分の部屋だ。また空耳だろうか?
 不思議に思いながら首を傾げていたとき、インターホンが鳴らされた。彩夏はベッドから飛び降りると、部屋から飛び出して階段を駆け下りた。一秒でも早く和也の顔がみたかった。
 彩夏は玄関のドアを勢いよく開けた。ドアの向こうには和也が立っていた。
「来たぜ」
 和也はそういいながら、家の中に入ってきた。彩夏は和也の胸に飛び込んで、抱きついた。一人ではない、和也がそばにいるという実感がほしかった。和也は彩夏の華奢な体をやさしく抱きしめた。
 しばらく抱き合ったあと、彩夏は和也を連れて自分の部屋に戻った。
 二人で並んで、ベッドに腰掛ける。
「和也。先生の事件のことで、何か進展はあったの?」
 彩夏が小さく呟くと、和也は静かに首を横に振った。
「こんなに不可思議な事件は初めてだって。犯人を見つけられるかどうかは、本当に難しいところだそうだ」
「そっか」
 彩夏は和也の方にもたれかかった。その身体を和也は受け止め、彩夏の肩に手を回した。人の温もりが、悲しみを和らげてくれるというのは本当のことなんだな。和也の存在がこんなにありがたいと思ったことは、これまでに一度もなかった。
「ショックから立ち直れそうか?」
「分かんない。でも、和也と一緒にいられるんだったら、大丈夫だと思う」
「そんなに俺を必要としてくれてるなんて、嬉しいかぎりだな。大丈夫だよ、彩夏。俺はずっと彩夏のそばにいてやるから、彩夏もずっと俺のそばにいてくれよ」
「分かってる。私はずっと和也のそばにいるよ」
 こんな会話をしているなんて、まるでラブラブのカップルのようだ。そんな自分たちに恥ずかしさは感じなかった。これが人間としてのあり方で間違ってはいない。彩夏はそう実感していた。
 彩夏はさっき聞こえてきた幻聴のことを既に忘れていた。
 そして一時的にだけではあるが、寺田の死についても忘れることができていた。和也と一緒にいることによって、それだけの安心を与えられるということだ。
 和也が彩夏の体を強く抱きしめた。それに応えて、彩夏も和也の体を抱きしめた。抱き合っている彩夏の耳に、かすかな声が届いた。しかしその声に彩夏は気づくことはなかった。本当にかすかな声で、赤ん坊のような声で、恨みと怒りのこもったような声で。
「マ・・・マ・・・」
 と呟いたことを。


 夜中の十一時に、和也は彩夏の家を出た。明日も仕事があるため、泊まっていくなんてことは出来なかった。彩夏は和也が車で走り去っていく姿を見送ってから、家の中に入って、自分の部屋に戻った。
 涙で濡れた枕を床に放り投げ、引き出しの中に入っているミュージックプレーヤーを手に取ると、ベッドに倒れこんだ。和也のおかげでだいぶ気持ちが楽になった。この調子なら明日もいつも通り過ごしていけるだろう。寺田の葬式は一週間後にあるらしいから、その日に休みを入れておかなければ。
 そう言えば、先生のお腹の中にいた赤ん坊はひどい有様になっていたんだっけ?彩夏はなんとなくそんなことを考えていた。それが人為的なものではないとすると、心霊的なもののように思えてきてしまう。赤ん坊に対し、それだけ恨みを持っている霊とは一体なんだ?赤ん坊を産まずに死んでしまった女性の霊?それとも幼いままで死んでしまった赤ん坊の幽霊?
 馬鹿馬鹿しいというかのように、彩夏は鼻で笑った。幽霊などの非科学的なものは信じない主義なのだ。心霊写真などを見ても、所詮は作り物に過ぎないと思ってしまう。
 彩夏はミュージックプレーヤーのイヤホンを耳に差し込み、電源を入れた。流している途中で電源を切っていたから、明るい女性ボーカルの声がいきなり聞こえてきた。彩夏はその曲をいったん止め、違う曲に変えた。
 やさしいが、力強く感じられるイントロが流れ始めた。ロックばかり聴いている和也が唯一認めている四人組のボーカルユニットだ。ジャンルにとらわれずに活動しているため、ロック好きでもJポップ好きでも気軽に聴ける。しかも四人の声は、合唱でいうソプラノ、アルト、テナー、バスの役割を果たしているから、飽きが来ない。
 歌詞の一部にこんな部分がある。
「君の存在は夢のようなものだったから、君はいつも僕の夢の中に現れた。この現実が夢なのか、あの夢が現実なのかは分からないけど、とりあえず今君といられることに感謝していたい」
 何だか女性を口説いている男性の言葉みたいな感じがするが、その言葉が妙に説得力があった。今の自分と和也に照らし合わせてみると、本当にピッタリとはまる。
 このグループは歌詞がいいところも人気の理由の一つだ。四人組だから別に特徴的な声でなくても飽きが来ず、歌詞にも説得力があり、楽曲も聴きやすい。今ではCMソングとしても、ドラマや映画の主題歌としてもよく起用されている。新しく発売したシングルはダウンロード数が過去最大でギネス記録に認定されていたはずだ。
 彩夏は曲を変えた。「赤ちゃん」という曲だ。曲名だけで聴くと、なんともしまりのない曲名だが、曲自体は本当にすばらしい。一番では赤ん坊の視点から、二番では家族の視点から、そして三番目に全体の視点から見た歌詞が歌われている。
「君が生まれてきてくれたこと、君と一緒に笑い合える日々、そんな日々が一生続くといいな。あなたのような人に育てられ、そして私は成長していく。そんな日々が一生続くといいな」
という歌詞ははじめて聴いたときには感動して涙してしまった。これがデビュー曲なのだから、驚きだ。ただなんとなく作ってみて、動画サイトに投稿してみたところ大ヒットし、レコード会社の耳に入るほどの人気を見せた。
彩夏はその曲を聴きながら、まぶたを閉じた。ゆったりとした曲のため、子守唄の代わりとして聴いていられる。
 彩夏はその曲を聴きながら、眠りに落ちていった。

 はっ、はっ、はっ、はっ。
 かなり息を乱して走っている。しかし音は聞こえてこない。自分の息が乱れていることは分かるのに、音は聞こえてこない。
 自分が一体どこを走っているのかは分からない。真っ暗な場所なのか、真っ白な場所なのか、カラフルな場所なのか。ここには何もないのか、ゴチャゴチャといろんなものがおいてあるのか。
 何かから逃げるかのように走り続けている。
 背後から何かが迫ってきているのは分かっていた。しかしそれが何なのかは分からなかった。振り向きたくても、振り向けない。首が全く動かない。
 自分は走っているのに。足はもうよろよろで、足取りも危なっかしいものになっていた。
 しかし背後に迫っているものは、ペタ、ペタ、ペタという規則的な足音を鳴らしながらついてきている。その音に混じってピチャン、ピチャン、ピチャンという水滴をたらしているような音も聞こえてくる。
 もう駄目だ。これ以上は走れない。
 彩夏がそう思った瞬間、何かに躓いたように彩夏は転んだ。勢いあまって、彩夏の体は転がった。地面にたたきつけられた彩夏は、今度は芋虫のように這い出した。
 とにかく逃げていた。何かから。
 ピチャン、ピチャンという音とペタ、ペタという音は、すぐそばまで迫っていた。背中に冷たい手が触れた。その手は氷のように冷たく、本当に小さな手だった。
 その手を振り払うかのように、彩夏は這い続ける。
 ペタ、ペタという音が聞こえなくなった。その途端、彩夏は暗闇の中にうずくまっていた。うつぶせになっていたはずが、膝を抱えてうずくまっている姿になっていた。そして彩夏の耳元でピチャン、ピチャンという水滴が地面に垂れているような音が聞こえていた。全身に鳥肌が立つのが分かった。
 彩夏は恐る恐る顔を上げ、その音が聞こえてくるほうへ顔を向けた。
「マ・・・・・・ァマ・・・」
 その声が耳に届いた瞬間、彩夏の頭の中で何か白いものがはじけた。そしてそこで目を覚ました。
 
 目を覚ました彩夏は飛び起きた。寝汗はほとんどかいていなかったものの、息がかなり乱れていた。さっきの夢は一体何?
 ベッドの上にミュージックプレーヤーが落ちている。ミュージックプレーヤーの電源はついたままになっており、今も曲が流れている。眠っている間にイヤホンが耳から抜けたようだ。
 彩夏はミュージックプレーヤーの電源を切ると、枕元においた。それと入れ替わるようにして携帯を手に取ると、ふたを開けた。時刻は四時。まだこんな時間か。
 彩夏は乱れていた息を整えると、携帯を枕元において、再び眠りに落ちた。
その日はもう夢を見なかった。七時に目を覚ました彩夏は、急いで仕事に行く支度をした。あの夢のことはもうほとんど忘れかけていたが、妙な夢だったということは印象強く残っていた。
 
 会社についた彩夏は、昨日の仕事をまず片付けた。同僚が手伝ってくれたおかげで、だいぶ早めに終わらせることが出来た。彩夏は同僚にあの夢のことを話そうかと思ったが、やめておき、仕事のほうへ集中した。
「昨日は本当に大変だったんだね」
「うん。でも彩夏のほうが大変だったんでしょ。警察に呼ばれるなんて・・・・・・」
「たいしたことじゃなかったよ。本題の時間よりも待たされる時間のほうが長かったくらい」
「そうなんだ」
 彩夏は笑いながら、資料に目を落とした。無理に笑いを作ったが、やはり辛かった。それは同僚も感じ取っているようで、反省したような表情をしていた。
「この資料が片付いたら、お昼食べに行こうよ。もちろん外食」
 沈んだ空気を紛らわせるためか、同僚がそう誘ってきた。誘ってくることはよくあるが、外食に誘ってくることは滅多にない。あるとしても購買にパンなどを買いに行こうというくらいだ。彩夏は大きく頷くと、再び資料に目を落とした。
 気まずい空気はなかなか消えなかった。彩夏は分からないところを聞いてみたりして、何とか盛り上げようとしたのだが、自分自身のテンションが低いままだったから盛り上がりはしなかった。
 やっと仕事を終えた、彩夏は同僚と一緒に会社を出た。
「どこに行く?」
「どこでもいいよ。彩夏が決めて」
「う~ン、じゃあ、蕎麦でも食べに行く?」
 気丈に振舞って、何とか明るさを保つ。この調子を続けていかないと、食事中もほとんど話すことなく終わっていきそうだ。同僚が気を遣って、誘ってくれたのだから自分が落ち込んでいてはいけない。
 出来るだけ明るく振舞いながら、よく食べに行く蕎麦屋へ向かった。
 しかし蕎麦屋で食事をしている最中は話をしなかった。同僚も彩夏に気を遣っているようで、なかなか話し出そうとはせず、ただ黙々と蕎麦を食べ続けていた。彩夏もなかなか話し出すことが出来ず、結局一言も会話することなく食事を終えてしまった。
 会計を済ませ、店の外に出たとき、彩夏の携帯がなった。彩夏がポケットから携帯を取り出す。液晶画面には和也の名前が表示されていた。彩夏が携帯を耳に押し当てると、同僚は、
「先に戻ってるね」
 といって、さっさと彩夏の前から姿を消してしまった。
「彩夏。何とか仕事やってるか?」
「うん。何とかね。でもやっぱり元気が出ない。今も同僚とお昼食べてたんだけど、全然盛り上がらなくて」
「仕方ないよ。お前だって、今は本当に辛い思いをしてるんだから」
 和也はそこで言葉を切った。そして一瞬間が空いたかと思うと、再び話し始めた。
「この話をするか、しないかは迷ったけど、一応することにした。まずいい知らせがある。仕事の功績が認められた、出世することが決まったんだよ。しかもかなりの重役に」
「本当!?すごいじゃん、和也!」
「あぁ、だから給料とかも今までとは比べ物にならないくらい跳ね上がる。働いているのが俺一人でも、普通の生活を保っていけるくらいだな」
 それはかなりの重役を任せられたのではないか?今までの給料では生活していくのも苦しいくらいだったのに。
「それでな。本題はここからだ。お前はこれからも、その仕事を続けていけるか?」
 和也の突然の言葉に、彩夏は理解できなかった。その仕事を続けていけるかというのは一体どういうことだ?
「精神的にやばい状態で今までどおりの生活を続けていくとなると、だいぶ難しいらしい。そういうショック状態の中にいるときは、とにかく安静にしているのが一番大事なんだ。だから今の職場をやめる、もしくは休暇をとってしばらく休んだほうがいいと思うんだ」
「えっ、でも」
「生活費のほうは、俺の給料から出してやる。お前はショックから完全に立ち直れるまで、カウンセリングに通うんだ。そして完全に治ったら、また社会に復帰すればいい」
「でも、そんなこと・・・・・・」
「別にこのままでもいい。だが今のままだと、大きなショックを与えられたら完全に精神が崩壊する。強いショックなんて簡単には受けないだろうが、一応念のためのことを考えて休んでおいたほうがいいと思うんだ」
 和也の言葉には説得力があった。私のために、死に物狂いで仕事をして功績を上げたのだろう。もしここで断ったとしても、これから先しつこく言ってくることになるだろう。本気で心配してくれている。それでも、今ここで仕事をやめて大丈夫なのだろうか。社会に復帰するのはいつになるか分からない。でも和也の思いを踏みにじりたくない。
「分かった。今日、部長に話してみる。でも残ってくれって言われたら、私は残るからね」
「あぁ、それでも構わない。彩夏が頑張れるっていうのなら、それでもいい」
「うん、ありがとう」
 彩夏は電話を切った。携帯をポケットにしまいながら、会社への道を歩く。会社をやめることになるか、それとも続けることになるか。カウンセリングを受けたとしても、逆に引きこもり生活になってしまったらどうしよう。
 それに一人でいるときにばかり聞こえてくる、あの声。家で一人きりになることが多くなったら、あの声はたびたび聞こえてくるのではないだろうか?
 あの声が幻聴だったらいいが、もし本当に聞こえているものだとしたら?
 彩夏は歩いていたが、突然足を止めた。・・・・・・あの声だ。
 たくさんの足音。人が話す音。車が走る音。その音に混じって、声が一瞬だけ聞こえてきた。いや、違う。一瞬だけじゃない。今もまだ続いている。
 よく聞くと、よく聞こえてくるあの声とも違っていた。あの声よりも少しだけ低く、何を言っているのかよく分からないところは共通しているが、単語を連続して言い続けているようだ。
「・・・・・・・・・」
 一体何が言いたいのか、分からない。私に何か伝えたいことがあるのなら、ハッキリ言ってしまえばいいのに。
 声は止まることなく、次第に大きくなり始めた。もう小さな音は、この声によってかき消されてしまっている。何?一体何?
 声は大きくなり続け、ほとんどその声しか聞こえなくなってしまった。しかしそれでも何と言っているのかは分からなかった。これが日本語なのかすら分からないくらいだ。
 ただぶつぶつと、念仏のように何かを唱え続けている。
 強い恐怖を感じた彩夏は、耳を両手で押さえると、会社に向かって走り出した。声は彩夏のことを追いかけるようにして、聞こえてくる。まるであの夢のように、追いかけてくる。
「いや・・・・・・やめて!」
 絶叫するが、その声が止むことはなかった。ただぶつぶつといいながら、彩夏のことを追いかけてくる。実体はない。声だけが、追いかけてきているのだ。いくら走っても、その声はずっと追いかけてきていた。
 目の前に会社が見えてきた。彩夏は会社の正面玄関から飛び込むと、エレベーターに急いで乗り込んだ。とにかくボタンをめちゃくちゃに押して、少しでもあの声から逃げようとした。自分の耳をしっかりと塞ぎ、エレベーターの壁にもたれかかった。
 エレベーターの中は本当に静かだった。エレベーターのモーターの音と、彩夏の乱れた呼吸しか聞こえなかった。
 助かったの?あの声は、もう追いかけてきていないの?
 彩夏は恐る恐る手を、耳から離した。聞こえてくるのはやはりモーター音と、自分の呼吸だけだ。しばらく待ってみるが、音が聞こえてくる気配はない。
 大きなため息をつく。あの日から、全てがおかしくなっている。あの同窓会の日から。自分の身に、一体何が起きているというのだろうか。安心してエレベーターの壁にもたれかかった彩夏は、次の瞬間目をカッと見開いた。そしてバッと身を起こすと、周りをキョロキョロと見回した。
「今度は何よ!」
 彩夏は絶叫するが、何の返事もなかった。さっきの声は聞こえてこなかった、しかし別の声、悲鳴が聞こえてきたのだ。女性の、甲高い悲鳴が突然聞こえてきた。
 そのときエレベーターのドアが開いた。彩夏は転げ落ちるようにしてエレベーターから降り、自分のいる階を確認した。彩夏の勤めている部署はあと数階上にある。
 エレベーターはドアを開いたまま、まるで彩夏を呼び込むかのように静止している。彩夏は恐怖を感じ、近くにあった階段を駆け上がった。
 階段は非常灯だけしかついておらず、薄暗かった。彩夏は手すりにつかまりながら、おぼつかない足取りで階段を上っていった。息はひどく乱れ、もう走ることもままならない。それでも、早く人のいる場所へ行きたかった。ここに長居はしたくなかった。
 彩夏は目を見開いた。足は止めていないが、口からは意味を成さない言葉が漏れ、顔からは血の気が引いていっていた。再び聞こえてきた、女性の甲高い悲鳴。しかもさっき聞こえてきたものよりも、更に大きな悲鳴だった。続いて彩夏を襲ったのは、音ではなかった。
 鮮明な映像。まるで自分で見ているかのような映像が数秒間だけだったが、目の前に映し出されたのだ。映像が撮影されている場所は、風呂場のようだった。浴槽の中には水がためられており、その浴槽の中には白目をむき、泡を吹いている加南子の姿があった。加南子は服を着用したまま浴槽の中に倒れており、その背中にはおんぶひもがつけられていた。
 額にはパックリと口を開いたような、大きな傷があり、そこから流れた血が浴槽の水を赤く染めていった。浴槽の淵も血まみれになっていた。惨かった。
 確信は持てないが、あれは死んでいたんだと思う。彩夏は慌ててポケットから携帯を取り出した。慌てて取り出したせいで、携帯は手から滑り落ちて、階段の上に落ちた。
 その場にしゃがみこんで、携帯を拾い上げようとしたそのとき、自分の目の前に大きな影が立ちはだかった。その影は大きなものだったが、実体はなかった。見たわけではないが、彩夏には分かっていた。
 彩夏は姿勢を低くし、携帯を拾い上げたままの姿で固まっていた。その影もその場を動くことはせず、ずっと彩夏のことを見下ろしていた。ここで少しでも動いたら、私は死ぬ。そう直感で分かっていた。幼いころやった、ダルマさんが転んだを思い出す。
 影がゆっくりと動き出し、彩夏の視界から消えていった。影が見えなくなった後も、彩夏はその場から動き出すことが出来ず、ずっと携帯を拾い上げたときの姿で固まっていた。強い恐怖のせいで、身体が動かなくなってしまった。正常に働いているのは頭だけで、あれが一体なんだったのかを必死になって考えていた。
 突然手の中の携帯電話が振動した。薄暗い階段に着信音が響き渡る。その音で我に返った彩夏は身体を起こすと、通話ボタンを押して、携帯を耳に押し当てた。
「彩夏?」
 聞こえてきたのは、同僚の声だった。いつも聞いている声だが、このときばかりは天の助けにも思えた。
「彩夏、今どこにいるの?もう昼休み終わったのに、戻ってこないって部長が怒ってるよ。彩夏?彩夏?」
「今、会社にいるの。あと少しでそこにつくから」
 待ってて、といおうとしたのだが、彩夏の口から出たのは思いもよらない言葉だった。
「電話を切らないで」
「えっ?どういうこと?」
「お願い。すぐにいくから。電話を切らないで。私が来るまで、電話を切らないで」
「うん、別にいいけど。彩夏、大丈夫なの?声がすごい震えてるよ」
「大丈夫」
 喉の奥から絞り出したような声で答えると、彩夏は階段を駆け上がった。薄暗い階段に足音だけが響く。走っている間も、彩夏は同僚に話しかけ続けた。とにかく会話を絶やさずに、人の声を聞いていたかった。
 脳裏に焼きついて離れない、さっきの映像。あんな鮮明なものを見てしまったのだから、仕方ないかもしれないが。まるで最新のビデオカメラで撮影したような、本当に鮮明な映像だった。しかも数秒間の出来事だったのに、たくさんのアングルから撮影した様子を見ることが出来た。
 あれは一体なんだったのだろうか。自分があんなことを考えているわけがない。しかし実際に見てしまったのだ。
 自分に予知能力などないから、未来の加南子の姿とは思えない。もしあれが未来の加南子の姿だとすると、五年も経っていない、今の姿に本当に近いものだった。つまり近々加南子があんな姿になってしまうということだ。
 いや、馬鹿らしい。私がそんなことを想像するわけがないが、あれが未来の映像だとも考えられない。誰かに話して笑い飛ばしたいくらいだったが、映像が映像だから、冗談で話せるようなことではない。このことは誰にも話さず、胸のうちにしまっておくことにしよう。
 やっと目的の階に着いた。
「今ついたから。すぐに行くね」
 同僚にそういうと、彩夏は耳に押し当てていた携帯を離し、携帯のふたを閉じた。その携帯をポケットに入れながら、階段を上りきる。
 すぐに部署に飛び込み、部長の元へ歩いていった。
 仕事を辞めるか、辞めないか。部長のデスクまでの十メートルで瞬時に判断した。もしここで仕事を辞めたら、一人になる時間が多くなる。いや、むしろ減るかもしれない。カウンセリングのために病院に入院でもすればほとんど誰かがついている。だがそれでも一人になる時間は少しだけある。
 自問自答を繰り返し、辿り着いた答えは、〝仕事を辞める〟。
 彩夏は部長のデスクの前に立つと、
「部長。今日からしばらく仕事を休ませてください。それか、仕事を辞めさせてください」
 一息にそういうと、怒りの浮かんでいた部長の表情が驚きの表情に変わった。それはそうだろう。突然仕事を休ませろ、辞めさせろといわれれば誰だって驚きを隠せないだろう。部長は驚いた表情で、言葉を失っていた。
「いろいろショックなことがありすぎて、精神的にもうピンチなんです。カウンセリングなどを受けて、状態が回復してから社会に復帰しようと思っています」
「だが・・・・・・いきなりは・・・・・・」
「もう精神崩壊がギリギリのところまできてるんです。心のケアをしなければ、私は完全に精神を崩壊させてしまいます」
 部長はしばらく腕を組んで、唸った。
「やはり人手不足だからな・・・・・・」
 と呟いているのを聞くと、別に自分は絶対に必要ではないということが分かった。ただ人手の不足を埋めるために、とりあえず少しでも仕事ができるという存在でしか見られていない。
「分かった。明日、退社届けを出しに来い。今日は、もう帰っても構わないぞ」
「ありがとうございます」
 彩夏は小さく礼をすると、部長に背を向け、デスクにおいてある私物などを全て鞄の中にしまった。
 そして同僚に、
「今までありがとう。また会おうね」
 と声をかけて、さっさと部署を出て行った。部署の中は突然の出来事で、嵐が去ったあとのような静けさだった。
 部署を出た彩夏はエレベーターに乗って、一階に下りた。今回はエレベーターの中で奇妙な音を聞くことはなかった。エレベーターから降りると、正面玄関から外に出て、駐車場へ向かった。
 車のドアロックを解除して車に乗り込むと、彩夏は携帯を取り出して和也に電話をかけた。何度かコールが続いた後、留守番サービスセンターの「現在留守にしております」という音声が流れた。和也はまじめに仕事をやっているようだ。
 彩夏は携帯のふたを閉じ、鞄の中に放り込むと、車のエンジンをかけてアクセルを踏み込んだ。車を駐車場から出すと、家へ向かって車を走らせた。
 家への道を車で走っている間も、あの声は聞こえてこなかった。安心していたさやかを驚かせるかのように、突然カーラジオの電源が入った。
 すぐに電源ボタンに手を伸ばし、電源を消したが、カーラジオの電源はすぐに入った。これは・・・・・・一体何が起きているの?
 彩夏は何度も電源を消したが、カーラジオは相変わらず電源を入れ続ける。彩夏はあきらめて運転のほうに集中した。勝手についてしまうだけで、流れているのは何の変哲もないラジオ番組だ。
『それでは聞いていただきましょう。○○○で「赤ちゃん」』
 何という偶然だろう。ちょうど聞きたいと思っていた曲が、ラジオで流されるとは。彩夏は曲を口ずさみながら、車を走らせていた。しかし安心できたのも、ほんの数秒間の間だけだった。
 今流れている曲に混じって聞こえてきた、怒りのこもった声があった。その声は彩夏の耳にハッキリと届いていた。
「マ・・・ァ・・・・・・・マ」
 その声が聞こえてきた瞬間、目の前で激しい音が聞こえた。続いて爆発。
 驚いて爆発の起きた場所を見ると、カーラジオから煙が立ち上っていた。カーラジオは完全に爆破しており、修理をしなければ直らないような状態になっていた。
 何で・・・爆発が起きたの?さっきの声は一体何?次の瞬間、混乱している彩夏を、更に恐怖に陥れる出来事が起こった。
「イヤァァァァァァァァァァァァ!もう止めて!私に関わらないでよ!」
 彩夏が叫ぼうとした言葉が、彩夏の耳に入ってきた。その声は、本当に金切り声に近い声だったが、誰のものかは見当がついた。聞こえてきたのは・・・・・・加南子の声だ。加南子の悲鳴だ。さっきの映像といい、今の悲鳴といい、私に加南子が何かを伝えようとしているというの?
 彩夏は鞄の中から、携帯電話を取り出し、彩夏の携帯に電話をかけようとした。電話帳に登録している名前の中を探す。しかし・・・・・・加南子の名前はなかった。
 加南子の名前は登録しているはずだ。あの同窓会の日にしっかりと登録して、昨日も一度電話をかけた。だからここに名前がないなんていうことは、ありえないことだ。
 彩夏はもう一度、念入りに探してみたが、結果は同じだった。加南子の名前の部分だけがすっぽりと抜けてしまっていた。
 そうだ、恵美菜は。恵美菜も加南子の電話番号を登録していたはずだ。とりあえず電話をかけてみよう。彩夏は血眼で恵美菜の名前を探した。しかしすぐに携帯を操作していた彩夏の指が止まった。
 表情が強張り、唇が震える。顔からは血の気が引いていき、彩夏は叫び出しそうになった。
 そんな・・・・・・。そこに恵美菜の名前もなかった。しっかりと登録しておいたはずなのに、恵美菜の名前も加南子の名前も登録されていないのだ。そしてその二人の代わりとでも言うかのように、電話帳の最後のところに、寺田の名前があった。登録した時刻は、ついさっきだ。彩夏は目を見開いて、思わず携帯を放り投げてしまった。
 携帯がシートの上に落ちる。
「何で・・・・・・何でよぉ・・・・・・」
 どうして私なの?どうして私がこんな目に遭うのよ。もう・・・・・・いや。
 そのとき、携帯が振動した。彩夏は身体を震わせ、携帯から顔を背けた。いつも聞いている着信音が、このときはまるで呪詛のように聞こえた。
 着信音は止まることなく、ずっと鳴り続けている。
 彩夏はその音を振り払うかのように、アクセルを強く踏みつけた。車が急発進する。幸い交通量も少なく、人通りも少ない場所だったから周りへの被害はなかった。
 彩夏は泣きそうになりながら、車を走らせた。車を走らせている間も、携帯の着信音は止むことなく発され続ける。
 彩夏は携帯に手を伸ばすと、窓に向かって思い切り投げつけた。携帯は窓の淵にぶつかり、そして粉々になった。破片がシートの上に散らばっていく。全てのデータが消えてしまったが、知ったことではない。
 彩夏は車を近くにあったコンビニエンスストアの駐車場に車を入れると、車から飛び降りて、財布を持って電話ボックスに駆け込んだ。
 震える指で財布から小銭を何枚か取り出すと、投入口に入れた。和也の携帯番号を押して、受話器を耳に当てる。お願い・・・・・・出て・・・・・・。彩夏はそう祈りながら、反応があるのを待った。
 受話器の奥でガチャリという音が聞こえ、彩夏は表情を綻ばせた。和也・・・・・・。
 しかし聞こえてきたのは和也の声ではなかった。
「ママ・・・・・・ァ」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 彩夏は受話器を放り出すと、電話ボックスの中から飛び出した。そしてすぐに電話ボックスの前でうずくまってしまった。彩夏は何とか立ち上がると、よろけながらコンビニの中に入っていった。
 突然吐き気が襲ってきたのだ。その吐き気を抑えようと、手を口に押し当てていたが、全然吐き気がおさまる様子はない。
 彩夏はコンビニのトイレの中に入ると、便器のふたを開けた。すると昼に食べたものが、全て胃から吐き出された。便器の中に、少しだけ消化された蕎麦がたまっていく。
 彩夏は吐き終えると、水を流して、手洗い場の水で口の周りを洗った。口の中にはすっぱい味が残っており、その味を我慢しながら彩夏はトイレから出た。
 真っ直ぐ飲み物売り場に向かい、そこでミネラルウォーターのペットボトルを一つ買った。そのミネラルウォーターを持って、再びトイレの中に入り、ミネラルウォーターの封を切った。
 ミネラルウォーターを口に含み、そして口の中をすすぐ。手の上に出して、口の周りも洗う。口の中に残っていた嫌な味も消えてなくなった。
 彩夏はミネラルウォーターを全て排水溝へ捨てると、ペットボトルをトイレのゴミ箱に投げ込み、トイレから出た。
 吐き気は完全になくなっていた。
 彩夏は雑誌を二冊ほど購入してからコンビニエンスストアから出た。外に出ると、すぐに車に乗り込んだ。
 和也の仕事が終わるのは、大体七時ごろだろう。それぐらいになったら、和也の勤めている会社へいってみよう。今夜は和也と一緒にいなければ、気がおかしくなってしまうだろう。
 彩夏はシートにもたれかかると、ビニール袋の中から雑誌を一冊取り出した。それを読みながら、時間が過ぎていくのを待った。
 
 彩夏は地面に這いつくばって、何かを探していた。暗闇の中にいるわけではないのに、手探りで何かを探していた。
 必死になって探しているとき、指先に何かが触れた。その途端、周りからさまざまな電子音も聞こえてきた。ピロロロロロ、ピロロロロロ。
 彩夏がバッと顔を上げると、そこはグラウンドだった。学校のグラウンド。そのグラウンドの中央で膝をついて、座っている。
 グラウンドの上には何か小さなものがたくさんおかれている。彩夏は目を凝らして、それが何かを見ようとした。電子音は止むことなく、彩夏の耳に届いてくる。
 携帯だ。
 数百個もの携帯が、グラウンド中に置かれている。全てから電子音が発せられており、グラウンドの砂の上で振動している。
 彩夏は近くにおいてある携帯を手に取った。液晶には加南子の名前が表示されていたからだ。しかしその携帯を手に取った瞬間、携帯から聞こえていた電子音が止んだ。続いて聞こえてきたのは獣のような悲鳴。彩夏は驚きのあまり、携帯を放り出してしまった。地面に落ちた携帯は、再び電子音を鳴らし始めた。
 彩夏は急いで立ち上がると、液晶に和也の名前が表示されている携帯を探した。自分の知っている名前から、聞いたこともないような名前まで、さまざまな名前が表示されていた。
 ない。和也の名前がない。彩夏は探し回ったが、和也の名前が表示されている携帯だけ見つからなかった。どうして?どうして和也のだけがないの?
 彩夏はその場で膝をついた。そして絶望したように頭を抱え、うずくまった。周りからは電子音が相変わらず聞こえてきている。
 その電子音の中に、一つだけ違った電子音があった。電子音?違う、これは電子音ではない。
 彩夏が顔を上げると、目の前には携帯が一つだけおいてあった。暗闇の中でスポットライトに照らされている携帯は、妙な音を鳴らしながら振動している。その音はまるで性能の悪いスピーカーから出た、人の声のようだった。
 あれだけたくさんあった携帯が今はなくなっている。あるのは目の前の携帯だけ。彩夏は恐る恐る携帯に手を伸ばした。そしてすぐに液晶に表示されている名前を確認した。
 和也の名前だ!
 彩夏は携帯のふたを開き、携帯を耳に押し当てた。
「彩夏・・・・・・」
 普段通りの和也の声が聞こえてきた。和也・・・・・・。和也の声に答えようとしたそのときだった。
「死ね」
 突然和也の声ではないものが聞こえてきた。続いて和也の悲鳴。
 電話の向こうで何が起きているのかは分からない。彩夏は和也に声をかけようとしたが、声が出せないことに気付いた。出るのは掠れた、ほとんど空気のような音だけだ。
「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね」
 その声は等間隔で続けられる。その声はまるで機械音声のようだった。
「死ね」
 そう聞こえるたびに、和也の悲鳴がいっそう大きくなる。彩夏は携帯を投げ出した、しかしスピーカーに接続されたように、その声は彩夏の耳に届いていた。目の前の携帯からではなく、周囲全体から。
 彩夏は悲鳴を上げた。

 次に目を覚ました彩夏は電話ボックスの中にいた。なぜ自分が電話ボックスの中にいるのかは分からないが、電話ボックスに閉じ込められたということは分かっていた。押しても、引いても電話ボックスは開かなかった。
 突然目の前にある公衆電話が音を発した。公衆電話にも固有の電話番号が合って、それにかければ公衆電話にも電話をかけられるというのは本当だったのか。
 実際になっている様子を見たのはこれが初めてだ。
 彩夏は恐る恐る受話器に手を伸ばした。何の変哲もない公衆電話だ。多分大丈夫だろう。
 受話器を耳に押し当てると、まず男の荒い息遣いが聞こえてきた。そして、
「はぁ、はぁ・・・・・・彩夏・・・」
 これは和也の声だ。疲れきったような声をしている。
「和也!?どうしたの!?何があったの!?」
「彩夏・・・・・・俺はもう駄目だ」
「どういうこと!?ねぇ!?和也!」
 彩夏が叫ぶが、和也は答えない。聞こえていた和也の呼吸も次第に弱くなっていく。
 一瞬だけ和也が叫んだ。そしてその声はすぐに聞こえなくなってしまった。電話が切れたわけではない。その声を聞いた直後に、彩夏は自分の頬を伝う、生暖かい液体があることに気付いた。
 彩夏は受話器を耳から離すと、恐る恐る受話器を見た。
 受話器と公衆電話を繋ぐ線は、まるで生きているかのように脈打っていた。そしてその線が脈打つたびに、受話器から・・・・・・夥しい量の血があふれ出してきていた。
 彩夏は悲鳴を上げて、受話器を放り出した。受話器からは止まることなく、血があふれ出している。その血が電話ボックスの床にたまり、彩夏の靴に染み込んできた。真っ白なシューズに泥水がしみこんで茶色く変色するように、真っ白なシューズに血がしみこんで赤黒く変色していった。

 彩夏は目をカッと見開いた。目の前には公衆電話もない、夥しい量の地もない、グラウンドもない、携帯もない。あるのはフロントガラスと、そのガラス越しに見えるコンビニだけだ。
 シートから身を起こすと、雑誌が身体からずるりと落ちた。どうやら眠っていたようだ。あれは夢か。
 彩夏は乱れた息を整えながら、腕時計を見て時間を確認した。午後八時。もうこんな時間になっていたのか。彩夏は足元に落ちてしまった、雑誌を拾い上げビニール袋の中に入れた。携帯の破片が散らばっている助手席のシートの上にビニール袋を放り出すと彩夏は車から降りた。
 小銭を取り出しながら、電話ボックスに歩み寄る。そろそろ仕事を終えているはずだろう。さっきの夢の中のようなことは起こらないだろうし、それに眠ってしまう前に公衆電話を使ったときのようなことも起きないだろう。そう信じたい。
 電話ボックスの中に入り、小銭を投入口に入れる。受話器の奥でプ―――という電子音が聞こえてきた。すばやく和也の携帯番号を入力する。
 プッ、プッ、プッ、プッ、プルルルルル、プルルルルルル。
 今回は数回コールしただけで、ガチャリという音が聞こえた。
「もしもし?」
 少し警戒したような声だった。それはそうだろう。知らない番号から電話がかかってきたのだから。
「和也?私、彩夏」
「彩夏?何で、携帯からかけてこないんだ?」
「事情はあとで説明するから、総合病院のそばにあるコンビニにすぐ来て。お願い。出来るだけ早くして!」
 彩夏のただならぬ様子に気付いたのだろう。電話の向こうではドタドタと走っているような音が聞こえてきた。
「分かった。今すぐ行く。そこで待ってろ」
 和也はそういうと電話を切った。彩夏は安心して、受話器を置こうとした。しかし受話器を耳に押し当てたままの姿で、ピクリとも動かずに静止していた。
 あれは・・・・・・何?
 電話ボックスのガラス越しに見える、一人の人物の姿。街灯の光によって照らし出されているそれは女性のようだった。髪は長い。しかししっかりと手入れをしていないようで、だいぶ痛んでいる。顔は薄汚れており、近寄りがたい雰囲気を出していた。
 着ている服もボロボロで、靴は履いていない。目のあるべき場所は真っ黒に塗りつぶされたようになっていた。そんな女が、真っ直ぐ彩夏のほうを見据えていた。
 彩夏は恐怖のあまり硬直してしまっていた。女は近づいては来ないものの、視線を彩夏からはずすことはなかった。
 その女が突然口を開いた。パクパクと金魚のように口を動かしている。それと同時にきている服の裾からポタポタと水滴が垂れ始めた。その水滴が道路をぬらし、少しへこんだ場所に流れ込んで水溜りを作っていく。
 その傍を何事もないかのように通行人が通り過ぎていく。あれは見て見ぬフリをしているんじゃない。私以外には見えていないのだ。その女は相変わらず彩夏と視線を重ねたままパクパクと口を動かしている。
 そのとき、近くを赤ん坊が通った。ベビーカーに乗せられた赤ん坊だ。他の通行人と同じように、女の傍を何事もなかったように素通りするのかと思った。しかし、赤ん坊だけは違っていた。
 突然赤ん坊が泣き叫んだ。母親らしき女性が慌ててベビーカーを覗き込んだ。
 女はこのとき初めて、彩夏から視線をはずした。まるで赤ん坊を恐れているかのように、赤ん坊のほうへ目をやりながら、少しずつ街灯の下から後ずさっていった。
 彩夏の体は金縛りから開放されたように、動き出していた。すぐに電話ボックスの扉が背中に触れ、扉が開かれた。支えを失った彩夏の身体はそのまま地面に背中から倒れこんだ。背中がズキズキと痛み、一緒にたたきつけた手のひらが陣人としたが彩夏はすぐにその場から立ち上がった。
 少しでも遠くに逃げなければ。街灯の下からあの女の姿は既に消えており、赤ん坊の泣き声も小さくなっている。しかしあの暗闇の下にあの女が潜んでいるということが分かっているようで、まだ泣くのをやめていない。
 和也が来てくれるまでにあの赤ん坊が泣き止まなければいいが、恐らくそれは無理だろう。
 彩夏はコンビニの中に入り、コンビニの奥へ移動した。夜八時のコンビには思ったよりも人が多く、混雑していた。これ幸いとばかりに彩夏は一番人の多い、コンビニの奥にある雑誌コーナーへ移動したのだった。

 彩夏から電話があり、ただならぬ様子を察知した和也は彩夏との待ち合わせ場所であるコンビニに向かっていた。仕事が終わって、家でくつろいでいるときにかかってきた電話だったからまだよかった。もし仕事中だったら、電話に出られなかった。そのあと彩夏がどうなるかは、想像できなかった。
 和也はバイパスから出て、すぐそばにある橋を渡った。橋を渡りきると、右折して住宅街の脇を進んでいく。朝には朝市などでにぎわっている道だが、夜になるとほとんど人気がなくなってしまう。
 和也は赤信号になっていることに気づき、慌ててブレーキを踏んだ。危なかった。まだ車の免許を取って間もないから、こういったミスがよくあるのだ。危うく事故を起こしかけたことも、これまでに数回ある。
 赤信号の赤色をジッと見つめる。何だかよく見ると不気味な色だ。
 赤信号が青信号に変わった。和也はハンドルを握りなおして、アクセルを踏んだ。
 暗がりに誰かが立っている。その脇を通り過ぎるときに、和也は妙な空気に変わったことに気づいた。今までは普通の空気だったのに、突然今まで感じたことがないような空気に変わった。いや、感じたことはある。
 あの、同窓会の日。同窓会のメンバーと一緒に、林に入っていったときに感じた、あの気持ちの悪い感じ。
 そして視線。
 本当に一瞬だったのに、誰かが車の中を覗き込んでいるような。和也は車を止めて、助手席に身を乗り出した。窓を開けて外をのぞいてみたが、そばには川が流れ、近くに街灯が数本立っているだけだ。
 和也は身を震わせると、急いで車の中に戻り、アクセルを踏んだ。彩夏のことが心配だ。もし彩夏がこんな現象に遭ったせいで、あんな様子になっているのだとしたら?待たせれば待たせるほど状態は悪くなっていく。
 和也は薄暗い道から、街灯の多い道へ入った。マンションなどが立ち並んでいるから、普通の道よりも明るい。
 和也はその前を通り過ぎながら、目的地のコンビニへ急いだ。
 走る和也の車の脇を、誰かが通り抜けた。それと同時に和也は「うおっ」と驚きの声を上げた。普段気にならないことでも、和也はかなり敏感に反応してしまった。この周辺にある高校の生徒が、ランニングをしていたようだ。和也はホッと胸をなでおろしながら、運転を再開しようと、前を向いた。
 その和也の視界に、真っ白なものがうっすらと浮かんでいた。それは車のフロントガラスの前に浮かんでおり、和也のことをジッと見つめていた。
 さっき感じたものとは違う、変な空気が流れる。和也の脳裏に、走馬灯のように南原中学校の近くの林の中にある井戸の光景が映った。
「一体何なんだよ!」
 和也が叫ぶと、その白い影は驚いたようにびくりと動いた。しかしすぐに元通りの形に戻り、和也のことを見つめなおした。そして、なにやらわけの分からない言葉を発しながら和也に向かって一直線に突っ込んできた。
 和也の頭を包み込む、生温かい空気。それはお湯とかで感じるような生温かさではなく、人の肌などでかんじる生温かさだった。和也は通り過ぎて言った白い影の行方を目で追ったが、その白い影はすぐに消えていた。
 何だったんだ、今のは。
 和也はそのままの姿で、しばらく動くことが出来なかった。幸い交通量が少ないことと、和也がハンドルを動かさなかったおかげで事故を起こすことはなかったが。
 和也は悪いイメージを振り払うように、頭を振った。そして前方を真っ直ぐ見据え、目的のコンビニへの道を急いだ。

 コンビニにたどり着いたのは、彩夏から電話があってから十五分近くが経過したころだった。駐車場に彩夏の車を見つけ、安堵した和也は車からおりた。
 運転席のシートの上には、彩夏が座っている。
 車に駆け寄ろうとして、和也は足を止めた。待て、何かがおかしい。あの車の中に載っている人物に違和感を覚えたのだ。彩夏はあんな後姿をしていただろうか。
 いや、気のせいだ。全く馬鹿馬鹿しい。彩夏の車と全く同じ車に他人が乗っているはずないだろう。あの車の中にいるのは、彩夏本人のはずだ。
 和也が車に駆け寄ろうとしたとき、
「和也!」
 という声が聞こえてきた。声のしたほうへ目をやると、コンビニの入り口に彩夏が立っており、こちらを見据えていた。彩夏は満面の笑みを浮かべると、和也に向かって走ってきた。
 それと対照的に和也は驚いたような表情をしていた。どういうことだ?じゃあ、あの車の中にいるのは、一体誰だ?
 和也は恐る恐る車のほうへ目をやった。しかし、車の中には、誰もいなかった。
 困惑している和也の元に、彩夏が走りよってきた。和也はそれに気付かないほどに、混乱していた。
「和也?」
 彩夏が声をかけるが、和也は一点を見つめたまま動かない。彩夏は和也の視線を目で追ったが、和也の視線の先にあるのは彩夏の車と、コンビニの看板だけだった。
「ねぇ、和也?どうしたの?」
 和也の体を軽くゆすると、和也はハッとしたように彩夏のほうを向いた。彩夏は安心して表情を綻ばせた。
「どうしたの?何かある?」
「いや、別に。なんでもない。大丈夫だ。ところで、お前こそどうしたんだ?」
「うん。話したいことが山ほどある。とりあえず、来て」
 彩夏は和也の手を引いて、自分の車の近くへ歩み寄っていった。車のドアに手を伸ばして、助手席のドアを開ける。
 車のドアが開いて、まず和也が目にした物は粉々になってシートの上に散らばっている携帯の破片だった。一体何があったというのだ。更に車の中を覗き込んだ和也を驚かしたのは、派手に壊れているカーラジオだった。
「おい、一体何があったんだよ・・・・・・。これ・・・・・・」
「信じられないと思うけど、一応話すね。カーラジオはいきなり爆発したの。私がラジオを聴いてたら。携帯電話は、恐怖に耐えられなくなってガラスに思い切りぶつけたの」
「は?意味分かんねぇよ。カーラジオがいきなり壊れた?恐怖に耐えられなくなった?」
「そう。今日の昼間に、和也から電話来たでしょ?そのときから、おかしいの。変な声が聞こえてきたり、影に付きまとわれたり」
 そう言うと、彩夏は思い出したように身を震わせた。
「変な声?」
「うん。これは最近よくあるの。普通の人の声じゃなくて・・・・・・赤ん坊の声みたいな。それがよく聞こえてくるの。でも、今日はその声と変な低めの声が聞こえてきた」
「それは病気とかじゃないのか?」
「病気かどうかは分からないけど、間違いなく幻聴じゃない。それはハッキリ分かる」
「影に付きまとわれるっていうのは?」
「それは一回だけだったんだけど、会社の階段であったの。私がうつむいてたときに、私の目の前に変な影が立ちはだかったの。あれは人じゃなかった」
 和也は驚きを隠せなかった。自分もさっきから同じような現象に見舞われている。まさか彩夏と同じ病気にかかっているのだろうか。
「それに、あの暗がりを見て」
 彩夏が指差したほうを見ると、和也は目を見開いた。街灯が一本立っており、その光の中に一人の女がたたずんでいたのだ。
女は和也と同じように目を見開いており、その目は塗りつぶされたように真っ黒だった。乱れた黒髪の中にある、異常に白い顔。そしてまるで血のような赤い服。一言で表すとすれば、本当に不気味な女だった。
「さ・・・・・・彩夏」
「どうしたの?」
「あいつ・・・・・・一体、何だ?」
「あいつって?」
 彩夏は背伸びをして、街灯の下を見ていたが表情は全く変わらなかった。むしろ困ったような表情をしていた。
「何のことを言ってるの?」
 首をかしげながら聞いてくる。彩夏には見えていないのか?あんなに目立つ格好をしている女が見えないわけがない。人間ではないもの・・・・・・死神か?そういえば幽霊でもあんなやつがいた。どこかの広場に時々出現する、クロメという幽霊に見た目が似ている。というか、全く同じだった。まさかあれは、その幽霊なのか?
「彩夏、あいつが見えないのか?あの街灯の下に立っている、不気味な姿をした女が・・・・・・」
 突然彩夏が勢いよく、和也のほうを向いた。その勢いに驚いた和也は思わず身を引いてしまった。
「和也にも見えるの!?あの女が!」
「さっきから言ってるだろう?彩夏も見えてるだろ?」
 彩夏は背伸びをして、街灯の下を見た。
「ううん、私には見えない。でも・・・・・・さっき見えたの。和也に電話したとき・・・・・・」
「何だと?一体どういうことなんだ?」
「分からない!でも、あの女が見てたの。私のほうをジッと見つめてたの。今は見えないけど、さっきは本当に見えてたんだってば!」
 女はいつまでも、真っ黒な瞳でこちらをジッと見つめている。無表情のため、何を考えているのかが全く分からない。
「彩夏・・・・・・行くぞ」
 和也は彩夏の手を引いて、自分の車のほうへ向かった。歩きながら、ポケットから携帯を取り出し、車の修理業者に電話した。彩夏の車をいつまでもあんなところにおいておくわけには行かない。
 電話を終えると、彩夏と和也は車の中に乗り込み、業者がやってくるのを待った。
 その間もあの女はジッと和也と彩夏のことを見つめ続けていた。
「あいつは一体何なんだよ。俺たちに何の恨みがあるっていうんだ?」
 彩夏はうつむいたまま、ポツリともらした。
「あの女の人。赤ん坊に怯えてた」
「赤ん坊に?」
「うん。あの女の人の傍を赤ん坊が通ったとき、赤ん坊が突然泣き叫んだの。まるであの女の人を恐れているかのように。それで、赤ん坊が泣き叫んでる間、ずっと暗闇の中に隠れてたの」
「それは本当か?」
「うん」
 和也は腕を組んで、女の姿を見据えた。あんな不気味な女を見た赤ん坊は泣き叫ぶだろう。しかしあの女が赤ん坊に怯えるとは一体どういうことだ?
 頭の中でこれまで集まってきたピースを整理していく。『赤ん坊』『不気味な女』『赤ん坊の声』『つきまとう影』。
 赤ん坊?
 そう言えば、あの女性の水死体が見つかった事件。死んでいた女性はおんぶひもをつけたまま死んでいた。偶然かもしれないが、赤ん坊の心霊現象が起こるのもなんとなく納得できる。
 『水死体』『おんぶひも』。それに『悲惨な状態になった赤ん坊』。普通の赤ん坊ならここまでしないかもしれないが、母親への執着心が強い赤ん坊の幽霊ならば赤ん坊を殺すことくらい造作もないことだろう。赤ん坊が嫉妬することはよくある話だ。
 ここまで来ると、赤ん坊の幽霊の存在が浮かび上がってくる。しかしなぜ、突然こんな事件が起こり始めたのか。
 和也が悩んでいると、彩夏が口を開いた。
「和也、話は変わるんだけど。今日から会社を辞めることになったの。それで渡ししばらく岐阜のほうに戻ろうと思ってるんだ」
「は?何で?別に高山で暮らしてたっていいだろ?」
「高山に住み続けるとしたら、独りになることが多くなるでしょ?独りになったらあの声が聞こえてくるの。実際にそうだったから、分かるの」
 彩夏は悲しいのを堪えて、話してくれたのだろう。岐阜に戻ったら、そう簡単にはあえなくなる。だから、悲しそうな顔をしているのだろう。
 和也自身、彩夏に合えなくなるのは嫌だった。彩夏に会えなくなる日が、来るとは思ってもいなかった。出来れば彩夏に高山に残ってもらいたい。しかし彩夏の幸せを願うのなら、彩夏の思いを尊重したほうがいいだろう。
「分かった。明日の朝、俺が送っていくよ」
「大丈夫。電車でいけるから」
「そうか・・・・・・」
 和也はハンドルに頭を乗せて、頭を抱えた。
 和也は声を押し殺して、泣いた。彩夏と別れることが、これほどまでに辛いことだとは思っていなかった。たとえ一時期のことだとしても。
 それに気付いた彩夏の手が、和也の頭の上に乗せられた。そして数回、頭を優しく撫でられた。それはまるで母親に頭を撫でられているような、安心させてくれるものだった。
和也は泣くのをやめ、顔を上げて彩夏の顔を見た。彩夏も泣くのを堪えているのだろう。やさしい表情ではあるが、よく見ると、歯を食いしばり額にうっすらとしわがよっている。
彩夏の手が頭の上からおろされると、和也は彩夏の細い体を抱き寄せた。花のような匂いが髪から漂ってくる。
更に強く抱きしめると、彩夏はそれに応えるように腕を背中に回してきた。これが自分に出来る愛情の確認だった。彩夏の状態が回復して、また戻ってきたときにもう一度こうやって抱き合えたら、と和也は思っていた。
「大丈夫。彩夏ならすぐ元気になれるさ。俺は、ずっと待ってるから」
「うん。私も、和也に会える日を楽しみにしてる。一日でも早く回復して戻ってくるから」
 抱き合っている二人の耳に、彩夏の耳だけではなく、和也の耳にもあの声が届いていた。
「マ・・・・・・・・・・・・マ!」
いつもよりも強い口調で、怒りと恨みの入り混じった声だった。しかし近くを通っていった車の音によって、その声はかき消されてしまっていた。


 深夜二時。
 友達と一緒に遊びにいっていた加南子は住んでいるマンションの玄関の前に立っていた。最近、身体の調子があまりよくない。気分転換になると思い、遊びに行ったのだが、マンションの前に来ると、気分が悪くなってきた。
 これはあの同窓会のあった日から続いていることだ。同窓会が終わって帰ってきたときから、気分が悪かった。頭がズキズキと痛み、耳鳴りがよくした。おかしいと思い、翌日病院へ行ってみたのだが、何の異常も診られなかった。しかしその翌日も相変わらずの状態だった。
 軽いときは身体が怠いくらいなのだが、酷くなると吐き気までしてくるのだ。まるで赤ん坊がお腹の中にいるような・・・・・・。しかしそれはありえなかった。
 加南子は不妊症だった。一度、今付き合っている彼氏との間に子を授かろうとしたのだが、身ごもることはなかった。産婦人科へいってみたところ、不妊症であると診断された。重度の不妊症らしい。
 だから風邪をひいたとしか思わなかった。市販の風邪薬を買って、服用している。しかし症状がよくなることはなかった。それどころか、最近は悪くなる一方で幻覚が見えることもたびたびある。
 加南子はため息をつきながら、マンションの中に入っていった。それと同時に、肩が重くなり、加南子は再びため息をついた。
 気分が悪い。
あまり人がいないマンションの廊下を歩いていく。このマンションのエレベーターは廊下の途中にあるのだ。出来れば玄関の目の前においてほしかった。
廊下の電気は節電のために消されている。部屋から光が漏れてくることはない。こんな時間だから仕方がないのかもしれないが。
静まり返る廊下に加南子の靴音だけが響く。薄暗い廊下をうつむきながら歩く加南子は、前方に何かの気配を感じた。その気配を感じただけで、加南子はそれが人間ではないことが分かった。
顔を上げる。
廊下の奥。
非常灯の下。そこに一人の女がたたずんでいた。幻覚でよく見る女だ。髪が長く、真っ赤な服を着ている。髪はだいぶ痛んでおり、ぼさぼさになっている。顔は真っ白だが、まるで老婆のように老け込んでおり、目のあるべき場所は空洞になっており真っ黒だった。
 その女はジッとこちらを見つめている。これはいつものことだ。加南子は手を伸ばして、目を擦った。いつもこうすると、幻覚は消え失せるのだ。しかし、今日だけは違っていた。
 目を擦って、顔を上げた加奈子は目を見開いた。驚きと、恐怖で。
 さっきまで廊下の一番奥に立っていた女が、一番端にある部屋の扉の前まで来ているのだ。それに天井についている蛍光灯が、そこの部分だけついて、女の姿を照らし出している。
 え?どういうこと?
 加南子はもう一度目を擦った。そして顔を上げる。
 女はもう一つ手前の部屋の前まで来ていた。扉の前に立って、加南子の姿をジッと見つめている。蛍光灯はそこの部分だけついている。奥の蛍光灯は消えている。
 幻覚じゃない?
 これは本物?
 加南子は自分の頬を軽くたたいた。一度だけでなく、二度、三度と繰り返したたく。夢ならこれで覚めてくれるはずだ。あの女が本物のはずがない。幻覚でなければ、これは夢だ。
 顔を上げた加奈子は見た。女が更に近づいているのを。
 女と加奈子の間にはあと三つしか扉がない。エレベーターは加南子の斜め右にある。あそこにさえ、入れれば。
 チラッとエレベーターを一瞥した。そして視線を戻すと、女は更に近づいていた。もうあと五メートルもない位置に立っている。こんなに接近してきたのはこれが初めてだ。
 加南子はすばやい動きでエレベーターの前に駆け寄った。ボタンを押すと、エレベーターが動き出す音が聞こえた。こういうときに限って最上階で止まっている。
 すぐに背後を確認すると、女はすぐそばまで来ていた。距離はあと五十センチ弱ほどか。ほとんど目の前に立っている。
 女は身じろぎすることなく、立っている。加南子も女の姿を見据えたまま、その場に立っていた。ここで女から視線をはずしたら、確実に捕まる。
 背後から聞こえてくるエレベーターの駆動音は、いつもよりも遅いように感じた。早く来て!お願い!
 今どこの階にエレベーターが来ているのか確認したいが、女から視線をはずすことが出来ない。ただ早く来てくれることを祈ることしか出来なかった。
 そのとき、加南子のハンドバッグの中で携帯の着信音が聞こえた。思わず加南子は視線をはずしそうになってしまったが、ギリギリのところで踏みとどまった。危なかった。
 そのとき、加南子の耳に声が聞こえてきた。これは幻聴でよく聞こえる声だ。
「マ・・・・・・・・・・・・マ」
 と。その声を聞こえてきた瞬間、女の身体がビクリと震えた。今まで身じろぎ一つしなかったのに、その声が聞こえたときだけ身を震わせたのだ。
 偶然かと思ったが、再び声が聞こえてくると、同じように身を震わせた。女はこの声を恐れている?この幻聴、赤ん坊のような声を?これは幻聴ではなく、他の人にも聞こえている声なの?
 それなら、もっと言って!あの女をここから追い払って!
 そう思ったとき、加南子の体は支えを失ったように後ろへ倒れこんだ。いつの間にかエレベーターが到着していたようだ。背中から倒れこんだ加南子は、勢いよく足を振り上げたせいで靴を片方飛ばしてしまった。
 しまった、と思い体を起こしたのと同時に、足首を誰かに触れられる感触がした。身体を起こした加南子は再びしまった、と思った。
 目の前にあの女がいた。そして加南子の足首を、骨ばった指で強くつかんでいた。その女が加南子に触れている間、ずっとあの幻聴が聞こえてきていた。女は身を震わせるものの離そうとはせず、必死の形相でパクパクと口を動かしていた。まるで何かを伝えようとするかのように。
 加南子は半狂乱に陥って、狂ったように叫びながら女の顔を開いているほうの足でけりつけた。実体はあるようで、蹴られた女は顔を仰け反らせた。しかしそれでも手を離そうとはしない。
 足をめちゃくちゃに動かし、何とか女の手を振り払おうとする。それでも女は離れてくれなかった。
 加南子は女の顔にハンドバッグをたたきつけた。ハンドバッグのふたが開き、中身がエレベーターの中にばら撒かれる。その中に小型のカッターも入っていた。リストカットをするわけではない、仕事のためにいつも入れているものだ。
 加南子はそれを手に取ると、カッターの歯を女の骨ばった指につきたてた。そしてそれを一気に手前に引く。骨ばった白い指から赤い鮮血があふれ出す。その血が真っ白なソックスを赤く染めたが、気にならなかった。間髪いれずに、女の指をカッターで切りつける。しかし女は手を離そうとはしなかった。痛みを感じているかどうかも怪しいところだったが。
 カッターで女の指を切りつけていた加南子は、途中で手を止めた。そしてカッターを片手に持ったまま、エレベーターの隅に転がっている携帯に手を伸ばした。ストラップに指をかけて手元に引き寄せると、携帯のふたを開いて、音声ファイルを一つ選んだ。携帯を女の耳元までもって行き、再生ボタンを押す。
『オギャーオギャーオギャー』と赤ん坊の泣き声が携帯から流れ始めた。これは彩夏からもらったファイルの一つだ。他に笑い声などがある。
 女は泣き声を聞いた途端、身を震わせた。相変わらず聞こえているあの声と、この泣き声のコンボは効果抜群だった。女はしばらく堪えていたものの、手を離してどこかへ走り去ってしまった。
 そのときに発していたうめき声のような音が、鮮明に耳に残った。
 我に返った加南子は、すぐにエレベーターの扉を閉めた。六とかかれたボタンを押すと、エレベーターはゆっくりと動き出した。
 助かった・・・・・・。加南子は安堵の息を漏らしながら、壁にもたれかかった。携帯のふたを閉じて、ハンドバッグの中にしまう。エレベーターの中に散らばってしまった化粧道具などもハンドバッグの中に一つ一つしまっていく。
 ちょうどエレベーターが三階を通過したときに、加南子は扉のそばにいた。エレベーターの扉には長細いガラスが二枚取り付けられており、外の様子を確認することが出来るようになっている。そのガラスに、真っ白な顔が映ったのだ。普通なら気付かないだろうが、加南子は至近距離だったから気付いた。
 あの女はまだ追いかけてきている。
 四階を通過したとき。同じように女の顔が中を覗いていた。いつまでついてくるつもりだ。加南子はハンドバッグの中から携帯を取り出し、音声ファイルをいつでも再生できるように準備しておいた。
 エレベーターが五階を通過する。そこにも女の姿はあった。ほとんどガラスに顔を押し付けるようにして中を覗いていた。
 六階についたとき、女の姿はもうなくなっていた。
 加南子は警戒しながらエレベーターを降りた。しかし廊下にも女の姿はなかった。いなくなったのだろうか。
 加南子は携帯を出したまま、自分の部屋の前まで移動した。ドアロックをはずそうと、指紋認証装置に指を押し付けようとしたとき、加南子の動きはピタリと止まった。
 指紋認証装置に、指紋が残っていた。わざと白い粉を指につけて行ったのか、指紋認証装置には白い跡が残っていた。加南子のものではない指紋だった。
 加南子は恐る恐るドアノブに手を伸ばした。ドアノブはさっきまで誰かが握っていたかのように、暖かかった。思わず離しそうになったが、何とか堪え、加南子はドアノブを捻った。
 部屋の中は真っ暗だった。すぐに玄関の照明をつける。玄関には加南子の靴しか置かれていない。
 家の中にあがり、家中の電気をつけて回る。まず二階、次にトイレ、そしてリビング。
 家の中を見て回ったが、誰かが入り込んでいる痕跡はなかった。加南子は安心して、ハンドバッグをソファの上に放り出した。そして目を大きく見開いた。
 ソファの上に、おんぶひもが置いてあったのだ。自分で買ったものではない。
無造作に置かれているおんぶひも。そのおんぶひもを見た途端、加奈子は寺田の死体の様子を思い出した。おんぶひもをつけたまま、水死体になっていた。ここにもおんぶひもがおいてある。まさか、私は死ぬの?
そう思っていた加南子の手はおんぶひもに伸びていた。自分の意思ではない、身体が勝手に動いているのだ。
 どうして?やめて!
 加南子は必死に抗おうとするが、身体がいうことをきかなかった。加南子の手がソファの上に伸び、おんぶひもを摘み上げる。そしてそのおんぶひもをゆっくりとした動作でつけ始めたのだ。意識ははっきりとしていて、その行動を拒んでいるのに。
 いや、誰か助けて。
 おんぶひもをつけた加南子は、今度は浴室へ向かっていた。足は勝手に動き続ける。加南子がリビングを出るとき、加南子は窓にあの女が張り付いていることに気付いた。まさかこれはあの女が起こしていることなのか?それならすぐにやめてほしい。何でもいうことをきくから。
 そう思った瞬間、女の身体は何かにはじかれたように窓から離れた。そして消えた。
 女が離れたとき、あの声が聞こえてきていた。
加南子は理解した。なぜこれが分かったのかは、本人でも分からなかった。突然こんな考えが頭の中に流れ込んできたのだ。私にこんなことをさせているのは、あの女の人じゃない。この声の主、赤ん坊がさせているのだ。あの女の人はそれを何とかして止めようとしていた。その事実を知るのが、あまりにも遅すぎた。
 加南子の足は止まることなく、浴室へと向かった。ゆっくりとした足取りで、浴室へ向かう。いや・・・・・・許して・・・・・・。
 加南子は必死の思いで、抵抗しようとした。すると加南子の身体が一瞬だけ言うことをきいた。加南子の身体は勢い余って、そばにあった棚にぶつかった。そのときに額を切ってしまい、加南子の視界は真っ赤に染まった。
 その行動が赤ん坊を怒らせたのだろう。加南子は突然えびのように身をそらせたかと思うと、痙攣を繰り返した。そして痙攣が止んだときには、白目を剥き、口から泡を吹いていた。しかしその状態でも加南子の身体はゆっくりと起き上がり、浴室へと向かっていった。
 浴室の戸に手を伸ばし、開ける。浴槽の中にはお湯が張られている。きれいな水だ。加南子が張ったのではなく、赤ん坊の幽霊によって準備されたものだ。
 意識のない加南子。しかし身体は動き続ける。加南子の身体は服のまま浴槽の中に入った。そしてまるで普通に風呂に入っているような体制になった。額から流れる血が浴槽の淵を赤く汚していく。
 しばらくぴくぴくと痙攣していた加南子の身体は、数分後、大きな痙攣を一度だけして動かなくなった。
 浴槽の淵にかかっていた腕が力なくダラリと下がり、加南子の身体はゆっくりとお湯の中に沈んでいった。そして数分後には、死体がプカリと浮かび上がった。






 真相

 ガラガラの電車に揺られながら、彩夏は窓の外の景色を眺めていた。しかし景色はほとんど変わらず、山、田んぼ、畑、そして時々住宅が映るくらいだった。
 彩夏は高校生のときにあった修学旅行のことを思い出していた。一年生では広島、二年生では東京、三年生では北海道へ行った。沖縄が旅行先になかったのは、少し悲しかったが、とりあえず楽しむことが出来た。二年生のときに行った東京では、電車の中はすし詰め状態で、周りへの警戒を怠れなかった(かばんを前に抱えていないと、スリに遭うと友人に教えられた)。
 電車に乗れたとしても、席につけるのは本当に稀だった。立った状態でも、人が多いため本当に狭苦しかった。しかも変なおっさんがワザワザ近くに寄ってきたりもしたから、本当に最悪だった。
 人ごみの中で電車に乗るのと、ガラガラの電車に一人で乗っているのとはどっちが嫌だろうか。どちらも嫌なことには変わりない。
 彩夏はポケットからミュージックプレーヤーを取り出し、イヤホンを耳に差し込んだ。電源ボタンを指で探り当て、長押しすると、軽快なポップミュージックが流れてきた。
 彩夏はプレーヤーを操作して、別の歌手の曲にした。流れてくる曲をなんとなく聴きながら、向かいに座っている女性の姿を見据えた。居眠りをしているスーツ姿の女性。そばには彩夏のものと同じようなスーツケースが置いてあった。この人もどこかへ行くのだろうか。
 両親に電話で事情を話したとき、両親は驚いてはいたが、すぐに許してくれた。昔からずっと両親に支えられて生きてきた。独り立ちするときには、本当に不安でいっぱいだった。その不安を覆い隠してくれたのが、和也の存在だった。
 今、和也がいないということで不安が生まれている。その不安を両親に覆い隠してもらえれば、心の傷も癒されていくだろう。父はまだ仕事をしており、高収入を得ている。母は専業主婦で、ほとんどに家にいる。母が仕事をしていなくて、助かった。
 昔から一人で家にいることがなかった彩夏は、恐怖というものを感じる機会はほとんどなかった。中学校に入ってからはもちろん数回はあったが、家にいるときに恐怖を感じたことは一度もなかった。
 買い物には一緒についていき、片時も母のそばから離れることはなかった。勉強する時だって自分の部屋ではなく、居間でやっていた(もちろん小学生までの話だ)。夜眠るときも母と父の間に挟まって眠っていた。その温もりを感じると同時に、彩夏は両親からの強い愛情も感じていた。
 彩夏はミュージックプレーヤーの音に混じって、違う音が聞こえてくることに気付いた。イヤホンをはずしてみると、一瞬だけ電子音が聞こえてきた。
 彩夏は膝に乗せていた上着のポケットの中を探った。そこには携帯電話が入っていた。昨日壊してしまったから、また別の機種を買いなおしたのだ。だから実家に向かうのも午後からになってしまった。
 和也からのメールだ。家を出るときに和也にメールを送っておいたから、その返信だろう。メールを開いてみると、和也が心配してくれていることが分かった。彩夏は携帯をぎゅっと握り締め、心の中でありがとうと呟いた。一秒でも早く、回復して和也に会いに行きたい。
 彩夏は和也にメールを返信すると、携帯をポケットの中にしまった。そしてはずしていたイヤホンを再び耳に差し込んだ。
 やっと上枝駅を通過した。電車だというのに、何だか進むのが遅いように感じる。彩夏はまぶたを閉じて、音楽を聴き入った。
 前方で何かが動く気配がした。恐らく女性が電車から降りるのだろう。彩夏はうっすらと目を開けて、前方を見た。スーツケースを持った女性が、立ち上がってつり革につかまっている。あの女性が降りたら、もう一つ奥の車両へ移動しよう。彩夏はそんなことを考えながら、再びまぶたを閉じた。
 今この車両に乗っているのはこの女性と彩夏だけだ。その奥の車両にはまだ数人の客が乗っている。絶対に独りになってはいけないと、朝から自分に言い聞かせていた。独りになったらあの女が現れるかもしれないからだ。昨日の夜は和也と一緒に過ごしたし、和也が仕事にいってしまってからは友人と一緒にすごした。
電車がゆっくりと減速していくのが分かる。彩夏は目を開くと、その場を立ち上がって、さっさと隣の車両へと移動していった。女性が訝しげな表情でこちらを見ていたが、敢えて気にしなかった。移動する理由を話したとしても、信じてもらえるはずがない。
 車両をうつると、若いカップルがジロッと目をこちらを向けたが、彩夏は気にも留めなかった。
 適当に空いている場所に座り、壁にもたれかかって目を閉じた。その若いカップルも岐阜方面へ行くらしく、ずいぶん長い間、話しこんでいた。他愛もない世間話だったが。

 車内のアナウンスが聞こえ、彩夏は目を開けた。悪夢も見ることなく、女の姿も見ることなく岐阜にたどり着くことが出来た。カップルのほうを一瞥して、あの二人のおかげだと心の中で呟いた。
 彩夏はスーツケースを手荷物と、立ち上がって扉の前へ移動していった。そばにあった手すりにつかまって、小さなガラスの向こう側の景色を眺める。自分の母校である南原中学校も小さく捉えることが出来た。
 電車が減速していき、やがて止まる。電車の扉が開き、彩夏は足早に電車から降りた。若いカップルは反対側の扉から電車を降りていった。彩夏は怪しまれないようにしながら、若いカップルを見失わないように歩いていった。
 駅の外に出ると、彩夏は足を止めた。カップルは足を止めずに、どこかへ歩き去っていってしまった。彩夏は周りを見回した。父親に駅まで迎えにきてもらうことになっているのだが、もしここにいなかったら彩夏は一人で待つことになる。いくら大きな駅でも常に人がいるというわけではない。
 なかなか父親の車が見つからず、焦りを見せていた彩夏の表情が少し緩んだ。やっと見つけることが出来た。そういえば新車を買ったと二年ほど前に話していた。
 彩夏は白い車に走りよった。シートにもたれかかって、だらしない顔で眠っている父親を見て、彩夏はクスクスと笑いながらフロントガラスを軽くたたいた。すると父親は目を覚まして、寝ぼけたままでキョロキョロと周りを見回した。そしてすぐに彩夏に気づき、車から降りてきた。
「何だ、もう来たのか」
「うん、でも予定よりも五分ぐらい遅れてるけど」
「まぁ、いい。とりあえず乗れ。母さんが楽しみに待ってるぞ」
 彩夏はスーツケースをトランクに乗せ、車に乗り込んだ。父はヘビースモーカーだから、車の中は煙の臭いで充満していた。これは相変わらずのことだ。
「それにしても、精神的ショックで実家へ静養に来るなんてな。こんな話が実際にあるなんて思わなかったぞ?」
「うん。いろいろあったから」
「何日くらい家に泊まっていくんだ?」
「分からないけど。多分今年中には帰ると思う」
 父はそうか、と呟くと、嬉しそうに微笑んだ。彩夏が滅多に実家へ来ないから、長い間実家にいてくれるということが嬉しかったのだ。すぐにでも母に報告したいくらいだった。
「お父さん、今日は仕事なかったの?」
「あぁ、お前のために休みを取ったんだ。娘が実家に帰ってきてくれるんだから、当然のことだろう?」
 彩夏は微笑んで、大きく頷いた。やはり実家へ戻ることを選んで正解だった。父と母は気を遣ってくれているのだろうが、それを表に出さなかった。だからギクシャクすることもなく、いつもどおりの振る舞いをすることが出来た。
 車が細い通りへ入っていく。ここからさきは、小学、中学生時代によく通った道だ。通学路ではなかったのだが、父に迎えにきてもらうときにはいつもこの道から帰っていた。
 最初は偶然通っただけなのだが、そのときに本当にきれいな夕日を見た。この通りを抜けた先は大きく開けており、夕日が陰に隠れることなく見ることができる。それが見たくて、父に迎えに来てもらったこともあった。車で行けばちょうどいい時刻につけるのだが、歩いていくと間に合わなかったりする。それに歩いてここまで来ると、ここから家に帰るまでがかなり時間がかかる。
 父はラジオの電源に指を伸ばした。AMのラジオが流れ始める。父はFMラジオをあまり聴かない。理由は知らないが、なぜかいつもAMラジオばかり聴いている。確かにAMラジオも面白いから構わないのだが。
 ラジオでは演歌が流れていた。歌手の名前も知らなかったし、ずいぶん古めかしい曲だった。彩夏はシートに身を任せ、まぶたを閉じた。そのあとは、家につくまでずっと眠っていた。

 実家に到着し、家に入ると、母が飛ぶような勢いで台所から出てきた。今年で五十五歳になるというのに、本当に元気だ。この調子で長生きしてほしい。
 彩夏は家に上がり、まずスーツケースを持って自分の部屋へ向かった。この家に住んでいるときに使っていた部屋だ。軋む階段を上っていき、右に曲がる。その突き当たりにある部屋の前で彩夏は立ち止まった。懐かしい匂いだ。そばに母の部屋があるため、化粧品の匂いがいつもここに漂ってきていた。今も変わっていない。
「部屋はほとんど変わっていないわ。少しは者をどけたり、掃除をしたりしたけど、ほとんどは彩夏がこの家を出て行ったあの日のままよ」
「へぇ~、ありがとう。それならすぐに慣れると思う」
 彩夏はドアノブをつかんで、ゆっくりと扉を開けた。やはり古くなっているようで軋む音が昔よりも大きくなっていた。
 母が行ったとおり、部屋はあまり変わっていなかった。押入れの中になどは変わっていたが、外見はほとんどそのまま。学習机、本棚、部屋の隅に置かれた、たくさんの人形が入った箱。パソコンを置いていた台までそのままだ。壁には母や父の似顔絵が貼られている。人と分かるものもあるが、人間かどうかも分からない絵もある。
「懐かしいね」
「そうね。この部屋の中に彩夏が立っているのをみるのも、本当に久しぶりね。同窓会の日に一度来たけど、そのときには少し話しただけですぐに寝ちゃったもんね」
「あの時はすごく疲れてたから。でも、今日からはずっと一緒にいられるよ」
「親孝行してちょうだいね」
 彩夏と母は微笑みあいながら、部屋から出た。一階へと下りていき、彩夏は居間へと向かった。
 居間にはテーブルが置かれており、父は窓際に座布団を敷いて座っていた。小学校のころに怖がっていた鬼の面は、今も壁にかけられている。しかしその隣に祭りなどでよく見るような、アニメのお面までかけられているから本当に滑稽だった。小学校のころはこれを恐れて、居間に一人で入って行けなかったものだが。
 彩夏は苦笑しながら、座布団の上に座った。最近は、ソファか椅子にしか座っていなかったから、何だか変な感じがした。
 母も居間にやってきて、座布団の上に座った。
「先生のことは・・・・・・残念だったな」
 父がポツリと呟いた。
「うん」
「いい先生だったのにね」
 彩夏は涙が溢れてきそうになり、慌てて立ち上がった。
「どうしたの?」
「ちょっと、トイレ」
 彩夏は居間から出ると、トイレの中に入った。鍵をかけると、涙を指先で拭った。やはり先生の話題を持ち出されると、涙が堪えきれなくなってしまう。寺田が死んだ日よりは涙が出ないものの、やはり涙は出てきてしまう。
 彩夏は涙を拭いながら、トイレから出ると、洗面所へと向かった。泣いていたのは数分だけだったのに、目が赤くなってしまっている。彩夏は蛇口を捻って、水を出した。水を手にため、顔を洗う。特に目の周りを重点的に。泣いていたのがばれると、両親に心配をかけてしまう。
 何度か顔を洗うと、ほとんど赤くなくなった。タオルを棚から取り出し、顔を拭く。顔を拭き終えてから、彩夏は鏡をジッと見つめた。しばらく鏡を見つめていたが、突然目を大きく見開いた。
 自分の背後に・・・・・・あの女がいる。彩夏の行く先々に現れる、あの女が映っている。そしてその女の背後には浴室が映っており、そこには死体となった加南子の姿が。
 彩夏は目を見開いていたが、自分を落ち着かせて、ゆっくりとまぶたを閉じた。そして数秒間目を閉じ、ゆっくりと目を開けていった。鏡に映っているのは・・・・・・自分だけだ。背後にあるのは石鹸などをしまっている真っ白な棚。彩夏はホッと、息を吐き出した。どうやら幻覚だったようだ。
 彩夏はタオルを洗濯機の中に放り込んでから、両親の待つ居間へ戻っていった。

 実家での生活が始まってから、早くも一週間が過ぎた。自分がショックから立ち直れてきているのかは実感がわかないが、少しは気分が楽になっていることは分かっていた。あの女の姿を見ることもない、あの声を聞くこともなくなった。あれは恐らく自分が作り出した空想上のものだったんだと最近思うようになって来た。
 彩夏は母がアイロンをかけた洗濯物をたたみながら、母の横顔を見つめていた。こんなことをしたのはいったい何年ぶりだろうか。小学校のときは毎日、中学校のときは時々、高校のときは全く手伝いなんてしていなかった。これも花嫁修業の一環だとすれば苦でもないが。
 アイロンをかけ終えた母は、残っていた洗濯物を手早くたたみ、籠に入れた。そして時計を一瞥すると、
「そろそろお昼ご飯の準備をしようか」
 といいながら、立ち上がった。彩夏も一緒に立ち上がり、
「手伝うよ」
「それじゃあ、お願いね」
 彩夏は母と一緒に一階へ下りて行き、台所へ向かった。
「何作るの?」
「う~ん、手伝ってもらいたいけど、食材が少ないからね。簡単な料理でいい?」
「別にいいよ。お母さんの料理美味しいし」
 母は満面の笑みで微笑むと、冷蔵庫の中からベーコン、卵、ミックスベジタブルなどを取り出した。炊飯器の中を確認すると、戸棚からフライパンと油を取り出した。
「炒飯?」
「好きでしょ?」
 初歩的な料理だ。家庭的なことが苦手な彩夏だって作れる。
「それじゃあ、私が作るよ。私だって、炒飯くらい作れるから」
「そうなの?じゃあ、彩夏の炒飯をご馳走してちょうだい」
 母はそういいながら居間のほうへ移動していった。居間と台所は隣り合わせになっており、扉を開けておけば向こうの様子を見ることができる。
 彩夏は炒飯を調理し始めた。居間からはなにやら音が聞こえだした。母がテレビを見ているようだ。
 彩夏はさっさと料理をしてしまい、茶碗に盛り付けて、居間へ持っていった。ちゃんと出来上がっているところを見ると、母はやさしい表情をした。
 一口食べると、料理の感想を話し始めた。さすがは小さな料理教室を自宅で開いているだけある。良いところから欠点まで、完璧なアドバイスだった。感想を聞き終えた彩夏は、無意識のうちに拍手までしてしまった。
 炒飯を食べながら、話していると、途中で番組が変わった。時計を見ると、一時をさしていた。過去に放送された番組の再放送のようで、画面の端に「この放送は○月×日に放送されたものです」と書かれていた。確かにこんな時間に、ホラーの特集なんてやっても視聴率は上がらないだろう。
 世界中から投稿された心霊映像の中から厳選された映像の特集らしい。見た限りでは、怖そうだった。しかし最近はあの不気味な女の姿を見ているから、すごく怖そうなものではなかった。今、自分を震え上がらせるような心霊映像はこの世に存在していないかもしれない。
 その番組を見ながら、母が呟いた。
「そういえば、南原中学校にも、怖いうわさがあったわよね」
「うん。この間の同窓会のときも、南原中学校の心霊スポットを回った」
 彩夏は心霊スポットの内容を全て話した。恋繋ぎの階段、血糊の宿直室、呪いの三年D組、異世界へのトイレ(これはあのトイレに入ったら、異世界へ連れて行かれるといううわさがたっていたからだ)、捨て子の井戸。
 そこまで話したところで、母が話に入ってきた。
「捨て子の井戸って、あの学校の裏の林の中にある井戸のことでしょ?」
「そうだけど」
「そっか。そんな名前がついてたんだ」
「どういうこと?」
 彩夏が訝しげに聞くと、母は真剣な表情で彩夏を見据えた。
「あのね、私がまだ小学生だったころにある事件が起きたの。その事件の犯人は一児の母親で、そのときは精神に異常をきたしていたらしいの。子育ての過酷さで、異常をきたしてたって聞いてたわ。あまりにも危ないから、そのときは親との同伴下校が義務付けられてたの」
 彩夏はつばを飲み込んだ。自分の心臓の鼓動がだんだん激しくなっていっているのが分かる。
「ある日ね、その女の人がまだ一歳にもなってない自分の子供をつれて南原中学校へやってきたの。教師とかが止めたらしいんだけど、その人はそれを振り払って林の奥へと向かっていった」
 まさか・・・・・・。
「林の奥に入っていった女の人は、井戸の前で立ちすくんでいた。追いかけていた教師たちはその事件の一部始終を全部見てたの。その女の人は、自分の抱いていた息子を何の躊躇もなく井戸の中に落としたの。そのあと狂ったような叫びを上げながら、ナイフを振り回して暴れた」
 彩夏の頭の中で全てがつながった。あの赤ん坊の声のこと、突然現れるあの女のこと。自分たちに呪いがかかっていること。
「まもなくその人は逮捕されて、精神病院へ送られた。でも数年後に、突然死んだらしいわ」
「死因は?」
「死因?詳しくは知らないけど、精神病院のそばにあった貯め池に顔を突っ込んで溺死していたらしいわよ。もしかしたら自殺かもしれないっていう説もあるけど」
 彩夏は驚きを隠せなかった。顔からは血の気が引いていき、手や足は小刻みに震えていた。喉がカラカラに渇き、彩夏は声を発することが出来なかった。まさかあの女は私たちを呪い殺そうとしているの?付きまとって、私たちが恐怖のせいで精神に異常をきたすのを待っているの?
 目を見開いたまま、考え事をしていると母が不安げな表情で横から覗き込んできた。
「大丈夫?彩夏?」
「えっ、大丈夫・・・・・・」
「ごめんね、こんな気分の悪い話をしちゃって。ご飯中だったのに」
「ねぇ、ちょっとここに布団敷いていい?お母さんの話し聞いてたら、本当に気分悪くなってきちゃったの。少し横になれば多分よくなると思おうけど」
 母は頷くと、座敷のほうへ行った。押入れを空けるような音が聞こえてきていたが、突然その音が聞こえなくなった。布団を下ろしたわけでもないようだ。
 何事かと思いながらも、彩夏は立ち上がろうとはしなかった。いや、立ち上がれなかった。周りは完全に音が消えており、彩夏は金縛りにあったように動くことが出来なかった。
 カタ、カタ、カタ。
 どこからかそんな音が聞こえ始めた。彩夏は目をキョロキョロと動かして、あたりの様子を伺ったが、音を出しているものが何かは分からなかった。
 カタ、カタ、カタ、カタ。
 規則的な音が、いつまでも続いている。これは一体何の音だろうか?彩夏はまたあたりの様子を伺ったが、やはり何が音を発しているのかは分からなかった。そうしているうちにも音はだんだん大きくなっていった。
 はじめはカタカタという軽い音だったものが、ガタガタという激しい音に変化していったのだ。まるで自分の存在を示そうとしているかのように、音は次第に激しくなっていった。
 そこで、やっと彩夏は音を発しているものが何か気付いた。木のようなものを壁にぶつけているような音だったから、彩夏は視野の中に映る壁をじっくりと見ていった。そして部屋の隅にある壁のところに彩夏は目を留めた。
 壁にかかっている鬼の面、そしてアニメのキャラクターの面。その面が振動してあんな音を立てているのだ。
 面をジッと見つめた彩夏は、思わず悲鳴を上げそうになった。
 鬼の面だったはずのものが、アニメキャラの面だったはずのものが・・・・・・あの女の顔になっているのだ。長い紙を振り乱しながら、ガタガタとゆれる姿は不気味そのものだった。恐怖で、全身に鳥肌が立つのが分かる。女の顔は一つだけではなく、何個も全く同じ顔が並んでいるのだ。
 その面が突然動きを止めた。そしてゆっくりと彩夏のほうへと向き直った。
 面は彩夏の顔を見据えると、口をパクパクと動かし始めた。近くで見ると、口の中に歯が一本もないことが分かった。
 パクパクと規則的な動きで口の開け閉めを繰り返す。彩夏はその行動の意味が分からず、首をかしげた。いつの間にか、金縛りは解けていた。
 彩夏は恐る恐る立ち上がって、面の近くへ移動した。すると面の口の動きは更に早いものとなり、近くへ行くとその音が聞こえてくるくらいだった。彩夏は恐怖に押し勝ち、面の近くに顔を寄せていった。なぜ自分がこんなことをしているのかは、自分にも分からなかった。勝手に身体が動いていたのだ。
 面に顔を近づけた彩夏はある言葉を聞いた。その声は本当にかすかなもので、一部しか聞き取ることが出来なかった。
「私・・・・・・ない。あの・・・・・・が・・・・・・るの」
「何!?何が言いたいの!?」
「あの・・・・・・が・・・・・・を・・・親・・・るの」
 彩夏は何とか聞き取ろうと、更に身を乗り出した。女の顔も、ぐっと自分に近づいてきたような気がした。女は、必死に何かを伝えようと声を振り絞っている。
「親・・・・・・しい・・・・・・あの・・・」
「聞こえないの!お願い!何を伝えたいのかをもっとはっきり言って!」
 彩夏がそう叫んだとき、部屋の中に変な音が聞こえだした。はじめは本当に小さな音だったが、次第に大きくなっていき、その音の正体を知ることもすぐに出来た。
 これは・・・・・・赤ん坊の泣き声だ。元気な赤ん坊が泣いている。オギャーオギャーと、母親を呼んでいるかのように。
 その音を聞いた彩夏は、女の変化に目を見開いた。女は顔を恐怖に引きつらせていた。呼吸もだんだん荒いものへと変わっていく。
 一体何?何が起きているの?
 赤ん坊の泣き声は大きくなっていく一方で、その声に比例して女の息も乱れていった。そして突然女の顔が壁から消え、鬼の面とアニメキャラの面が壁にかけられていた。何事もなかったかのように。
 今の出来事が夢でなかったことを示しているのは、いつまでも続いている赤ん坊の泣き声だった。
 赤ん坊の声がいっそう騒がしくなり、彩夏はぎゅっと目を瞑った。それと同時に、彩夏の頭の中で何かがはじけ、次の瞬間には意識が遠のいていっていた。

「やか・・・・・・彩夏!彩夏!」
 聞き覚えのある声に、彩夏はうっすらと目を開けた。目の前にはあわてた様子の母親の顔があった。身体を強く揺すっているようで、頭がグラグラと揺れていた。彩夏は声を出そうとしたが、喉に焼けつくような痛みが走り、掠れたような音が唇から漏れただけだった。
 仕方なく彩夏はゆっくりと体を起こしていった。
 それと同時に母が抱きついてきたため、彩夏はまた布団の上に倒れこんだ。ここは・・・・・・現実。彩夏は母を押しのけて立ち上がると、母が準備してくれたのであろう水の入ったペットボトルを一気に呷った。少しだけ喉に痛みが走ったが、一口飲むと少しは喉の痛みが和らいだ。
 もう一口、二口と飲み、彩夏はペットボトルのキャップをしめて机の上においた。落ちついた彩夏の様子を見た母は、ホッと息をもらした。
「驚いたわよ。布団を持ってきたら、彩夏が横になってたんだもん。寝てるだけかと思ったけど、突然寝苦しそうな顔になったり、痙攣し始めたりしたんだから」
「そうだったの?」
「何か悪い夢でも見た?」
 あれは夢の中の出来事だったのだろうか。母が部屋を出て行った瞬間に始まった夢?
 彩夏はバッと面のほうへ顔を向けた。面は何事もなかったように、壁にかかった状態になっている。やはりあれは夢だったのか。
「大丈夫。夢見てたかは分からないけど、とりあえず身体には異常ないから」
「そう?それならいいんだけど」
 彩夏は布団から出て、二階へあがっていった。自分の部屋に入り、かばんの上においてあった携帯をつかむと、すぐに居間へと戻る。
 携帯のふたを開いて、和也の電話番号を探し出すと、和也に電話をかけた。携帯を耳に押し当てて、しばらく待つ。確か今日は仕事がなかったはずだ。
「もしもし?」
 和也の疲れきった声が聞こえてきた。仕事で重役についたから、これまでよりも働く時間が多くなったらしい。前のようなハツラツとした雰囲気はなくなっていた。
「和也、大丈夫?すごく疲れてるみたいだけど」
「まぁ、疲れてるけど、大丈夫だ。お前のほうこそ、具合はどうだ?」
「うん、私のほうも良くなってきてると思う。それで、本題なんだけどね。和也に少し調べてほしいことがあるんだけど」
「調べてほしいこと?」
「うん、私も調べるけど、一人で調べるのはかなり時間がかかりそうだから。それに家にはパソコンがないし」
 わざわざパソコンを借りにいって調べ物をするくらいなら、和也に頼んで調べてもらったほうが早いだろう。
「それで?調べてほしいことって何だ?」
「過去にあった、南原中学校で起きた事件について調べてほしいの」
 和也が驚いたような声を上げた。
「何でそんなことを調べたいんだよ?」
「この間見た、女の人の幽霊の正体について知りたくて。その女の人が事件を起こしたのは南原中学校だって教えてもらったの。事件の真相を深く知れば、あの女の人の正体も分かるでしょ?」
「まぁ、そうだけどな。分かった。それじゃあ、調べておくよ」
 和也はそういって電話を切った。彩夏は携帯のふたを閉じて、ポケットにしまうと、母が敷いてくれた布団の中にもぐりこみ、ゆっくりと眠りに落ちていった。


 彩夏から電話があった和也は、部屋においてあるノートパソコンを起動させた。あの女の正体がわかるかもしれないといっていたが、あの女は過去に罪を犯したことがあるやつなのか?それ以前に南原中学校で事件なんて起きたことがあるのか。
 和也は怠そうにしながら、インターネットを開いた。キーボードに指を置いて、「南原中学校 事件」と入力した。本当にあの中学校で事件が起きていたとすると、何だか気分が悪いな。そう思いながら和也は検索のバーをクリックした。
 まず一番初めに出てきたのは「南原中学校の教員 生徒暴行事件」というものだった。それは中学校に勤めていた教師が生徒に酷い暴行をし、逮捕されたという事件だった。これは和也が生まれる前に起きた事件のようだ。
 次にあったのが今度は生徒が起こした事件だった。具体的な事件名は書かれていないが、南原中学校の生徒が麻薬に手を出し、そして少年院に送られたということだけ書いてあった。これも和也の生まれる前に起こった、事件だった。意外と南原中学校では事件が起きていたということが分かった。
 特に候補として多かったのが「高校生 女生徒殺害事件」という事件だった。内容は学校の裏の林の奥にある沼地に女生徒を溺れさせて殺したというものだった。犯人は南原中学校のそばにある高校へ通っていた高校生二人組み。はじめはおふざけだったのが、だんだんエスカレートしていき、抵抗した女生徒が沼に落ちて溺死したらしい。
 この中で関係があるとすると、この「高校生 女生徒殺害事件」くらいだろう。しかしその女生徒があの女だとは思えなかった。幽霊になっているのなら、今も当時の姿でいるのではないだろうか。成長しているとしても、自分たちに付きまとってくる理由が分からない。
 こうなると、一体何の事件なのかが分からなくなってしまった。それ以外はほとんど関係ない事件ばかりで、和也はため息をついた。あの女の正体を知る手がかりなんて、全くないじゃないか。
 インターネットのウィンドウを消そうとした和也だったが、消す直前でその動きがピタリと止まった。一つだけ見落としていた事件があったのだ。和也はそのページへ移動した。
 そのサイトは、赤ん坊に関する事件についてまとめているサイトだった。画面の端には不気味な赤ん坊の絵が表示されており、スピーカーからは「お母さん・・・・・・お母さん・・・・・・」という不気味な音声が流れてきている。このサイトの開設者はなんて趣味の悪いやつなのだろうか。
 和也は画面をスクロールしていき、横にある候補を目で追っていった。思った異常に事件が多く、眼が疲れ、視界がぼやけてきたところで止めた。やっと見つけたのだ。
 事件の名前は「古井戸 乳児殺害事件」。
 そこをクリックすると、事件の詳細が出てきた。
「古井戸 乳児殺害事件。1972年 5月。
 岐阜県岐阜市にある、岐阜市立南原中学校で乳児が母親の手によって殺害される事件が起きた。この事件の犯人である、乳児の母親は精神状態が非常に危険な状態たった。
 事件当日。母親は南原中学校へ乳児を抱きかかえてやってきた。そのときの姿は鬼のような形相で髪を振り乱し、真っ赤な服を着ていたためまるで山姥のようだったという。怖がった子供たちは急いで教師を呼びにいった。
 まもなく駆けつけた教師が、その女性を止めようとしたが、女性はわき目も振らずにこの学校の近くにある林の中へと入っていった。
 追いかけた教師たちは途中で女性の姿を見失ってしまったが、林の奥にある井戸の前で発見したという。教師たちを導いたのは殺害された乳児の泣き声だった。
やっと女性を見つけ出した教師たちは乳児が殺害される光景も、同時に見てしまった。
 女性はしばらく井戸の底を覗き込んでいたかと思うと、何の躊躇もなく泣き叫ぶ乳児の身体を高々と持ち上げ、井戸の底へ突き落とした。
 高い水しぶきが上がり、井戸の外まで飛び出してきたらしい。
 硬直していた教師たちは我に返り女性を取り押さえようとしたが、女性は刃物を取り出して抵抗。狂ったように何か言葉を発しながら学校のグラウンドへ向かった。そして遊んでいる子供たちを追い回し、恐怖に陥れた。
 到着した警官の一名も軽傷を負い、一人(乳児)死亡、三人が怪我をした。
 その後、女性は精神病院へ入れられた。しかしその数年後に自殺した。精神病院のそばにあった貯め池に頭を突っ込んで溺死していた。自分の殺害した赤ん坊と同じように」
 その記事の内容を読んだ和也は、しばらく動くことが出来なかった。それくらい驚きが強かった。何ということだ・・・・・・。これが彩夏の言っていた、あの女の正体というわけか。
 和也は別のウィンドウを開くと、「古井戸 乳児殺害事件 南原中学校」と入力して、検索した。たくさんの候補の中に、先ほどのサイトも含まれていた。
 和也は一番上から一つずつ候補を見ていった。文章はそれぞれ違っており、母親が乳児を井戸の中に落として殺した理由もたくさんあった。精神状態が普通じゃなかったから、のほかに、もう子供を育てられなくなったが、精神に異常をきたしていたため引き取ってくれる人がいなかったからなどがあった。
 どちらが正しいのかは分からない。その事件について討論する掲示板などもあったが、やはり母親の考えが、どちらが正しいのかはハッキリしていなかった。精神病院に入院している間に、医師から質問を受けたらしいのだが、まるで子供のような言葉しか話せなかったらしい。それだけでその母親の精神状態がどれほど危険だったかが分かった。
 和也は机の上においていた、携帯を手に取ると、彩夏に電話をかけた。早くこのことを彩夏に知らせなければ。
 しばらく待ち続けるが、彩夏はなかなか電話に出ない。電源を切っているわけでもないようだから、呼び続ければ出るはずだろう。
 和也はもうしばらく待ち続けた。しかし彩夏は電話に出なかった。和也はあきらめて、電話を切った。和也は仕方なく、彩夏にメールを送り、サイトのアドレスを添付した。これをみれば彩夏も全てが分かるだろう。
 携帯のふたを閉じた和也は、コキコキと骨を鳴らしながらノートパソコンの画面へ向き直った。もう少し詳しい内容を調べておいたほうが良いだろう。それにこの事件の犯人の女性が、あの女なのかはまだ分かっていない。
 和也は「古井戸 乳児殺害事件 犯人写真」と入力して、検索をした。未成年でないから、顔写真などは載せられているはずだ。探し回れば当時の新聞に載せられた写真も残っているだろう。
 はじめに出てきたのは全く関係ないものばかりだった。指名手配写真ばかりを集めたサイトだったり、ただ趣味で撮影した写真を集めたサイトだったりもした。
 しばらく探し続けると、やっとで目的に近いサイトが見つかった。「歴代殺人犯」という名のサイトだった。このサイトの開設者も、さっきと同じで趣味が悪いなと思いつつも和也はそのサイトを開いた。
 写真は年代別で分けられており、まず事件の起きた年代をクリックするとその年に起きた事件名と犯人の名前が表示される。そこをクリックすると、たくさんの資料写真が掲載されていた。
 和也はその中から「古井戸 乳児殺害事件」を探し出し、顔写真の掲載されているページを開いた。まず出てきたのは見出しで、事件名が大きく書かれている。その脇にはこのサイトの管理者がつけた「知名度・残酷度・影響度」などが、ミシュランのように☆マークで評価されていた。やっぱり趣味の悪いやつだ。
 下へスクロールして行き、犯人の女性の顔写真を探す。
 先頭にあったのは、事件当時の新聞に掲載されていた写真。恐らく身分証名書などの写真だろう。このときはまだ生き生きとしており、顔色も普通の人と同じだった。しかし次の写真は、この一枚目とは正反対だった。思わず目を覆いたくなるような、酷い状態だった。
 髪はぼさぼさに乱れ、所々が禿げかかっている。顔色はかなり悪く、青白かった。目はうつろで、真っ直ぐ直視することが出来ていない。だらしなく開かれた唇の隙間からは、ボロボロになっている歯が見えた。歯も白いわけではなく、ほとんど黄色かった。
 和也は女の目の部分だけを指で覆って、写真を見た。そうすると、あの女の面影があった。確かに少し違っているが、やはりあの女の姿に似ている。
 三枚目の写真は精神病院の中で撮影されたもののようだった。これもまた酷く、今度は本当に女の眼球がなかった。空洞になってしまった眼窩からは血が垂れ流しの状態になっており、まるで女が血の涙を流しているようだった。その女の近くには押し倒された貸し出し用のベビーカーがあった。
 写真の脇に小さな説明文が書かれており、そこにはこう書かれていた。
「女は突然発狂した。以前から「赤ん坊が見える、赤ん坊が見える」と呟いていた。精神状態が悪いから、幻覚が見えているのだろうということで済まされていた。
 しかしこの写真が撮影された日、女はベビーカーを見ると、突然ブルブルと震えだした。そしてベビーカーを指差しながら、まるで獣のような声を出していた。しばらくそうしていたかと思うと、ベビーカーに歩み寄っていき、ベビーカーを勢いよく蹴り倒した。
 慌てて駆けつけた医師たちが止めようとしたが、女は甲高い悲鳴を上げながらベビーカーを蹴り倒し続けた。まるでそこに誰かがいるかのように。
 その後、近くを通った食事を運ぶワゴンに飛び掛り、そこにおいてあったフォークをつかんだ。そしてそのフォークを勢いよく自分の目に突き刺し、躊躇なく抜き取った。もう片方の目も、医師たちが呆然としている間にくりぬいた。そして再び狂ったような叫びを上げながらベビーカーを蹴り倒しにかかった。
 そのときに撮影された写真がこの写真だ」
 目玉を・・・・・・くりぬいた?自分で?
 和也は吐き気を覚えたが、その吐き気を信じられないという気持ちが押さえ込んでいた。他人にやられたのなら、まだ分かるかもしれない。しかし自分で、自分の目玉をくりぬいたなんて・・・・・・。
 和也は写真を直視できず、すぐに下へスクロールさせた。その下にあった写真は、目玉がなくなった女の顔を正面から撮影した写真だった。ぼさぼさ野上、青白い顔、だらしなく開かれた唇、そして空洞になっていつまでも闇の続いている眼窩。これまで以上に不気味な写真だった。
 更に下へ行くと、今度は女の死体の写真が写されていた。こんな写真を撮影できるのは警察くらいだろう。まさかこのサイトを管理しているやつは、警察官なのか?
 女は目を見開いたまま死んでおり、それだけで不気味だった。ここに目玉があったら、更に不気味だっただろう。
 そこで和也は一つ疑問を持った。
 まじまじと死体の写真を見てみたが、やはりこれまでの死体とは違うところがあった。他のアングルから撮った写真も数枚あったが、それにも〝あれ〟は写っていなかった。
 最近よく起こっている、あの溺死事件。その事件に関係しているとすると、この女の死体にもおんぶひもがつけられているのではないか?しかし女は真っ赤な服を着ているだけで、それ以外は何も身につけていない。
 一体どういうことだ?
 その時、机の上においてあった携帯が鳴り出した。突然の出来事に和也は思わず身を震わせたが、すぐに携帯を手に取り、液晶画面を確認した。液晶には彩夏の名前が表示されていた。急いで携帯のふたを開き、通話ボタンを押すと携帯を耳に押し当てた。
「和也。あのサイトを見てみたけど、あの女の人の幽霊と、南原中学校で起きた事件の犯人は同一人物みたいだね」
「あぁ、俺も詳しくは分からなかったから、写真を探してみたんだ。その事件の犯人は、あの女と瓜二つだったんだ」
 電話の向こうで彩夏がやっぱりと呟いた。こうなることを予想はしていたのだろう。
「やっぱり、あの女の呪いなのか・・・・・・?」
「多分そうだと思う。私たちが赤ん坊を産もうとしてるから、それを怨んでるんじゃないかな?」
「俺が犯人の写真を見つけたサイトに、犯人の死体の写真もあったんだ。その女は先生とかと同じように溺死していた。でもその女の死体はおんぶひもをつけてなかったんだ。他の死体はおんぶひもをつけてただろ?」
「赤ん坊の幽霊では、ないんだね」
「そうだろうな。もし殺された赤ん坊の幽霊だったら、その女にもおんぶひもをつけさせて殺すだろう」
 非現実的なことを普通に話しているのは、周りから見ると奇妙だろう。しかし何とかしてこの呪いを解かなければならないから、和也たちは気にならなかった。
「彩夏・・・・・・、俺はこれから岐阜へ向かう。お前は実家で待っててくれ。絶対にそこから動くなよ!」
「え?今から?」
「あぁ、今からだ。そして二人であの呪いを解きに行く。俺の知り合いに腕のいい霊媒師がいるんだ。あの女とその霊媒師が対峙すれば、きっと呪いは解けるだろう」
「分かった。待ってるから、出来るだけ早く来てね」
 そこで電話が切れた。彩夏がきったわけでもなく、和也がきったわけでもない。勝手に切れたのだ。和也は驚いて携帯を見つめたが、その時視界に別のものが一瞬だけ映った。窓の外に・・・・・・あの女が立っている。一瞬しか見えなかったが、その女だということはすぐに分かった。
 和也は携帯のふたを閉じると、パソコンの電源へ指を伸ばした。パソコンを強制終了させ、そして数秒間の間を空けると、部屋を勢いよく飛び出した。同居している親戚が驚いたような顔をしてみていたが、和也は気にせずに玄関へと走っていった。
 靴を履くと、車の鍵をつかんで家を飛び出した。すぐに車へ駆け寄って、車に乗り込む。
 エンジンをかけながら、さっき女の立っていた場所を見た。そこに・・・・・・女の姿はなかった。嫌な空気もなくなっている。
 和也は勢いよくアクセルを踏み込み、岐阜へと向かい出した。





 真犯人


 和也が岐阜に到着したのは時刻が四時をまわったころだった。彩夏の実家の前に車を止めると、車を飛び出して、玄関へ走りよった。礼儀も忘れ、インターホンを連打すると彩夏の母親が迷惑そうな顔をしながら出てきた。
 和也の顔を見ると、パッと表情を明るくし、
「和也君!?立派になったじゃないの~。今は出世したんだって?実家に戻ってきたの?」
 と質問をしてきた。和也は愛想笑いをしながら、適当に相槌を打ち、
「ところで、彩夏いますか?」
 と本題を出した。彩夏の母は、ちょっと待っててね、といいながら家の中に入っていった。しばらく待つと彩夏が慌てた様子で玄関の外へ出てきた。
 和也が声をかけるのよりも早く、彩夏が携帯を和也に突き出してきた。困惑した表情で彩夏のほうを診ていると、彩夏がじれったそうに和也に携帯を持たせてきた。
「な・・・何だよ」
「電話!早く出てよ!」
 和也は顔を顰めながら、彩夏の携帯を耳に押し当てた。すると本当にか細い、聞いたこともない女性の声で、
「私じゃないよ」
 というのが聞こえた。そして次の瞬間には電話が切れていた。その声が聞こえたのは数秒間だけだったが、和也の耳にはその声が焼きついてしまって離れなかった。
「彩夏・・・・・・これ」
 彩夏に電話を渡すと、
「電話、切れたの?」
 と訝しげに聞いてきた。和也は小さく頷くことしかできなかった。「私じゃないよ」とは一体どういうことだ?電話の相手は一体誰だったんだ?
「ついさっきかかってきたの。加南子からね」
 加南子からだと?加南子はあんな声をしていないはずだ。何度か電話で話したことがあるが、あんな声ではなかった。
「でも・・・・・・あれは加南子じゃないと思うの」
「絶対に違う。俺はあんな声今まで聞いたこともなかった。絶対に加南子の声ではなかった。でも、加南子の携帯から電話がかかってきたんだろう?」
 そこまで言ったところで彩夏が和也の顔を見上げた。唇は小刻みに震え、顔はだんだん青ざめていく。
「加南子が・・・・・・危ない」
 彩夏はそう小さく呟いた。
 確かにそうだ。加南子の携帯からかかってきたということは、加南子の身に何かが起こったということだ。加南子が他人に携帯を貸したとしても、人の携帯を使っていたずら電話をしてくる人はいないだろう。
「和也、私、この間見たの。加南子が浴槽に浸かって死んでる姿を」
「本当か!?」
「イメージなんだけど。急に頭の中にその映像が流れて」
 和也は彩夏の手をつかむと、急いで車に乗り込んだ。せっかくここまで来たのに、また高山のほうへ戻らなければならないが、今はそんなことを言っていられない。
 和也はアクセルを踏み込み、車を発進させた。
「彩夏!道案内頼むぞ!」
「分かった!」


 和也は途中で、知り合いの霊媒師を車に乗せて、マンションに向かった。もしマンションで万が一のことが起きたら、まずいと思ったからだ。
 マンションについたころには既に当たりは暗くなりかけていた。まだ夏だから、少しは明るいが。加南子の住むマンションは不気味な雰囲気を醸しだしていた。
「これは・・・・・・まずいな」
 知り合いの霊媒師・田中徳幸はそう呟いた。
「何がだ?」
「かなり悪い空気だ。このマンションのどこかの部屋から、幽霊が出てこようとしている。それもかなりの怨みを持ったやつだ」
 和也はつばを飲み込んだ。恐らくその幽霊がいるのは、加南子の部屋だろう。
 和也は田中の後ろについて歩き出した。それに続いて彩夏がついてくる。まずマンションの中に入り、エレベーターを探した。確か加南子の部屋は六階だったから、階段を使うとかなり時間がかかる。
 廊下の途中にあったエレベーターを呼び、乗り込む。エレベーターの動くスピードがいつもよりも遅いように感じられた。急がなければいけないのに。加南子が危ないというのに!
 エレベーターが六階につくと、田中は呻き声を漏らした。そして恐る恐る一つの部屋を指差した。
「あの部屋だ・・・・・・、あの部屋の中に・・・・・・怨霊が」
「あの部屋って・・・・・・加南子の部屋よ!」
 彩夏の顔からサッと血の気が引く。もう既に倒れそうになっている。和也は彩夏の体を支えながら、ゆっくりと加南子の部屋に近づいていった。途中で田中が先頭になり、加南子の部屋の扉の前に立った。
 確かに分かる。霊感のない和也でもこの部屋の前と、他の部屋の前の空気が全く違うことがはっきりと分かった。
 田中はゆっくりとドアノブに手を伸ばした。和也が声をかけようとしたが、それよりも早く田中はドアノブを回して、ドアを開けていた。
「これ・・・・・・オートロックの鍵じゃないのか?」
 普通はそうだろう。鍵が閉まったら指紋認証をするか、内側から開けるしか方法がない。しかしこの扉は簡単に開いた。まるで和也たちを誘いこもうとするかのように。
 中から出てくる空気は、尋常ではなかった。普通の空気ではない。本当の心霊スポットの空気は、こんな感じなのか、などとこんな状況なのに考えてしまった。そんなくだらないことを考えている自分を叱り、和也は部屋の中を覗いた。
 部屋の中の電気は消えており、靴は散らかされている。唯一電気がついている部屋があった。その部屋の前においてある棚は、なぜか倒されていた。
 田中がゆっくりと部屋の中に足を踏み入れた。ギシっと床が軋んだ。それに続いて和也も足を踏み入れたが、すぐに気分が悪くなってしまった。彩夏もそれは同じのようで、苦しそうな表情をしている。しかし和也たちは歩みを止めずに、田中の後ろについてゆっくりと歩いていった。
 まず田中が電気のついている部屋の中に入った。そこは脱衣所のようだった。
 電気がついているのはその奥。浴室の電気だ。
 浴室の中に、確かに人の気配があった。そして人の気配以外もあった。この悪い空気をひとまとめにしたような。近づくことも出来そうにないくらいの、悪い空気だった。
 田中は一瞬躊躇したものの、早足で浴室の扉に近づき、一気に扉を開いた。そして和也たちは加南子の姿を見た。
 浴槽の中に張られた水は既に腐っているようで、浴室の中は異臭がこもっていた。その腐った水にぷかぷかと浮かんでいるのは・・・・・・加南子だった。額は何かで切ったようで、深い傷が出来ていた。今のところは頭しか見えていない。
 和也は田中の脇を通って、浴室へ近づいた。加南子の全身を見た和也の表情は絶望そのものだった。そんな・・・・・・やっぱりあいつが・・・?
 加南子は服を着たまま水に浮いている。そして身体にはおんぶひもをつけていた。そのおんぶ日もがなければ、普通の殺人事件だと信じることが出来たのに・・・・・・。やっぱりあの女の仕業か!
 和也が心の中でそう叫んだ瞬間、天井から声が降ってきた。それはさっきの電話で聞いた女の声だった。さっきは本当にか細い声だったが、今度はハッキリしており、必死に訴えかけるような声だった。
「私じゃない!私じゃない!あの子よ!」
 その声を聞いた途端、和也たちは強い恐怖を感じ、慌てて脱衣所を飛び出した。そして急いで加南子の部屋を出て、廊下に飛び出した。その時に壁に身体をぶつけてしまったが、そんなことに構っている状況ではなかった。
 田中は急いで部屋の扉を閉めると、扉に勢いよく一枚の札を貼り付けた。そしてカタで息をしながら、
「この札で少しは抑えられる。早くここから逃げたほうがいい」
 和也たちは頷いて、慌てて逃げ出そうとしたが、すぐに足を止めた。和也たちが視界に捉えたものは・・・・・・あの女の姿だった。あの女は廊下の途中に立って、和也たちの姿をジッと見つめていた。
「もうやめろ!これ以上人を殺さないでくれ!」
 和也がそう叫ぶと、女は大きく口を開いた。そしてその口から、初めて言葉が発せられた。
「私じゃない!私じゃない!」
 女はそう叫びながら、突然走り出した。走って和也たちのほうへ向かってくる。
 和也たちはきびすを返して逃げ出そうとしたが、恐怖で身体が硬直しており、そこから逃げ出すことも出来なかった。ただ女が近づいてくるのを、見つめているしか方法がなかった。しかし女も和也たちに近づいてくることは出来なかった。
 田中が貼り付けた札の力だろうか。女は和也たちから五メートルほど離れた場所で立ち止まった。そして再び和也たちを見据えた。
「私じゃない。あの子よ。あの子は新しい母親がほしいの。そして一緒にいるために、井戸を覗いた女性を殺すのよ。もしあなたがあの部屋に入らなければ、呪いは伝染しなかった。あの子は母親の死体を見つけられると、次の母親の元へ移動するのよ。私はそれを助けようと、あなたたちの前に現れていただけ。警告のために。でも・・・・・・もう手遅れ」
 女はそう呟き、姿を消した。
 その途端和也は膝から崩れ落ちた。
 この呪いの全てを理解した。あの女の言っていることが本当なら・・・・・・。和也は寺だのお腹の中にいた赤ん坊の状態を思い出した。人の仕業とは思えないくらいの悲惨な状態。実際人の力では、あんな姿に出来なかったはずだ。
 赤ん坊でも嫉妬はする。母親への執着心の強い赤ん坊の幽霊だから、あんな状態にするまでやることだってあるだろう。
 あの女の言っていることが全て真実だとは思えない。だが全て真実だとも思える。今言っていたことを赤ん坊が言っていたことに置き換えても、納得は出来る。一体どっちが正しいのか、分からない。
「あの女の言っていたことは、どうやら正しいようだ」
 田中はそういいながら、走り出した。
「急げ!早く!」
 そういわれて我に返った和也たちも、走り出した。エレベーターではなく、非常階段を使って一階まで下りていく。カンカンカンという足音が、いくつも重なって聞こえてくる。
「あの女の言ってたことが正しいって、どういうことだよ!?」
「まだあの部屋には怨霊がいた。今にも出てこようとしていた。狙いは俺でもお前でもない、彩夏ちゃんだ。彩夏ちゃんのそばへやってこようとしていたんだ」
「ってことは・・・・・・、やっぱり加南子の死体を見つけたから標的が彩夏に移ったのか?」
「そういうことだ」
 和也たちは非常階段を下りきると、急いで停めてある車に乗り込んだ。
 エンジンをかけ、アクセルを踏み込む。バックミラーで彩夏の様子を確認する。彩夏はガタガタと震えていた。あまりにも恐怖が強すぎるのだろう。
「彩夏、大丈夫だ。俺が護ってやるから」
 そう元気付けたやるものの、彩夏は小さく頷くだけで、震えは止まらなかった。
「田中!霊の状況が分かるか!?」
「ちょっと待ってろ」
 田中が精神を統一しているように、手を組み合わせた。そしてしばらく何かを呟いていたかと思うと、勢いよく顔を上げて和也のほうへ顔を向けた。
 あまりの勢いに、和也は思わず引いてしまった。しかし田中は気にせず、興奮した様子で話し始めた。
「和也・・・・・・、あの部屋に、もう怨霊はいなかった」
「ど・・・どういうことだ!?まさか、もうあの部屋から出てきて、彩夏を追っているのか!?」
「違う、俺もはじめはそう思ったが、俺たちの周りにも怨霊の気配はなかった。つまりあいつは完全に成仏したんだよ」
 あの怨霊が完全に成仏した?田中は若いが、日本の中では結構有名な霊媒師だから、言っていることは正しいだろう。しかし一体誰があの怨霊を成仏させてくれたというのだろうか。まさかあの女の幽霊の力か?
 考え事をしていた和也は、一番重要なことを思い出した。
「それじゃあ、彩夏はもう死ななくても良いってことか!?」
「そうだ」
 それを聞いた彩夏は驚いたようにシートから身を起こした。
「本当?」
 か細い声で聞いてきた。和也は喜びのあまり声を出せず、ただ大きく頷くことしかできなかった。
「よかった・・・・・・。私の命が助かった。それに、あの子もちゃんと成仏できた」
「あの子というのは、あの怨霊のことかい?」
 興奮してしまって返事のままならない和也に変わって、田中が彩夏に声をかけていた。彩夏は小さく微笑みながら、こくりと頷いた。
「だって、あの子だって成仏したかったはずだもん。母親がほしくて、いつまでも成仏できないなんて、可哀相・・・・・・」
「そうか。彩夏ちゃんは優しいんだね」
 彩夏は照れくさそうに顔を伏せてしまった。やっと落ち着いてきた和也は、
「やっと呪いが終わったんだな・・・・・・」
 ポツリと呟いた。
三人の女性の命が犠牲になって、そのうちの二人は自分たちの知り合いだった。しかしまだ呪いが続いていたら、自分の最愛の人まで失ってしまうところだった。もしそうなったら俺は生きていけないだろう。
「彩夏、実家に連絡しておけ。今から岐阜に戻るのは時間がかかるから、とりあえず彩夏の家の向かうぞ」
「分かった」
 彩夏はポケットから携帯を取り出して、実家へ電話をかけ始めた。さっきまでは暗かったが、今はいつもどおり明るい彩夏に戻っていた。それが嬉しくて、和也は微笑んだ。それに気付いた彩夏も微笑んだ。
「それじゃあ、俺はそろそろ帰らせてもらうよ」
 田中がそういいながら、シートから身を起こした。気付けば田中の家に隣接して建てられている寺が見え始めていた。もうこんなところまで来ていたのか。
「分かった。すまないな、いきなり呼んで」
「別にいいよ。俺とお前の仲だろう?」
 和也が寺の前で車を停めると、田中は礼を言いながら車をゆっくりと降りた。そして最後に、
「幸せにな」
 と小さく言って、助手席のドアを閉めた。和也は大きく頷きながら、車を発進させた。田中には、もうすぐ彩夏と結婚するということを話してある。それについて、和也はまだ少し不安があったが、田中の言葉によってその不安は消し飛んだ。和也は車を運転しながら、口だけを動かして「ありがとう」といった。
 彩夏もちょうど電話をし終えた。
「彩夏・・・・・・、高山に戻ったら、結婚しような。結婚したあとも岐阜で暮らしててもいい。でも俺は一秒でも早く、お前と結婚したいんだ」
 そういうと、彩夏は嬉しそうに微笑んだ。
「大丈夫。和也と結婚したら、もう岐阜では暮らさない。もう怖がる必要もなくなったから、和也と一緒に暮らせれば怖くないから」
「ありがとう・・・・・・」
 彩夏からの言葉は本当に嬉しいものだった。自分の存在を、何よりも大切に思ってくれている。昔から人に大切にされることは何度かあった。だがそれよりも、最愛の人に大切だといわれたほうが嬉しい。それは誰だってそうだろう。
 和也は泣きそうになっているのを堪え、彩夏と一緒に高山へ戻っていった。これから幸せな日々を二人で暮らしていけるという喜びを、胸の中に秘めて。


 二人を見送った田中は、異常な喉の渇きに気付いた。それは突然のものだった。田中は急いで家の中へ入ろうとしたが、家の鍵はなぜかしまっていた。おかしい。まだ八時だというのに家の電気は全て消えている。車はガレージの中にしまってあるからどこかへ出かけたわけではない。
 そうしているうちにも喉の渇きは深刻化していく。
 田中は喉をかきむしり、あまりの苦しさに叫びを上げた。しかしその声も本当にか細いものだった。
 呼吸をすることも苦しくなり、田中は喉を押さえてのた打ち回った。誰か、水を・・・・・・俺の喉の渇きを癒してくれ!
 そう懇願したときだった。田中の視界の隅にあるものが入った。あれは・・・・・・鯉などを飼っている、小さな池だ。そこにある水は絶対に清潔なものではないだろう。あれを飲むなんて・・・・・・出来るはずがない。
 そう考えているうちにも喉の渇きはひどくなっていく。もう呼吸することもかろうじて出来るくらいだ。
 やばい・・・・・・、このままでは・・・・・・。
 田中はもう一度池を見据えた。暗くてはっきりとは見えないが、池には大量の藻が浮いている。水の中に住みついている小さな虫も、少なくはないだろう。もしあれを飲んだりでもしたら、数日間は苦しむことになるだろう。
 田中はもう我慢できずに、池へ駆け寄った。
 死ぬよりは、数日間腹痛で苦しんだほうがマシだ。
 田中は池の淵へ手をかけ、ゆっくりと覗き込んだ。池の中には数匹の鯉が泳いでおり、水面には藻が浮かんでいた。その脇をすいすいと泳ぐ、小さな虫たち。運が悪いことに死んだ鯉までプカリと浮かんでいた。白く変色してしまっているところを見ると、だいぶ長い間放置されていたのではないだろうか。
 田中は一瞬躊躇したものの、一気に池の中へ顔を突っ込んだ。生臭い匂いが一気に襲い掛かってきた。田中は思わずはきそうになったが、それを必死に堪え、池の水を、喉を鳴らしながら飲んだ。
 決して美味いものではなかったが、喉の渇いていた田中にとっては何よりもすばらしい飲み物だった。田中は喉の渇きが癒されるまで、飲んで、飲んで、飲みまくった。
 途中で苦しくなり、池から顔を上げたが、すぐに池の中に顔を突っ込んだ。そして再び水を飲みだしたところで、田中は気付いた。いつまでたっても、喉の渇きが癒されないということに。さっきから何リットルの水を飲んでいるのかは分からないが、それでも喉の渇きは一向に収まらない。
 これはおかしい・・・・・・。
 そう思いながら顔を上げようとした田中の首を誰かが押さえつけた。
 あまりの力に田中は池を囲っている石にあごをぶつけてしまった。その衝撃で田中は息を思い切り吐き出してしまい、その開いた口から汚水が浸入してくる。
 水が肺へ浸入する。
「ブ・・・・・・・ブブブブ・・・・」
 必死に抵抗するが、押さえつける力は強かった。田中がいくら抵抗しても微動だにしない。身体が痙攣し始め、もう自分の死が近いことを悟った。
 その時、田中は大きく目を見開いた。自分の目の前に一瞬だけ顔が浮かんだからだ。その顔は・・・・・・赤ん坊のものだった。それと同時にあの怨霊の気配も感じた。あの怨霊は成仏していなかった。
 そんな・・・・・・。
 腕をバタバタと動かしていた田中だったが、数秒後にはその腕は上がらなくなり、田中は池の中に顔を突っ込んだまま死んでいった。



 決断


 彩夏と和也は、彩夏の部屋にいた。他愛もない世間話から、結婚したあとの将来の話まで、いろいろな話をした。彩夏は少しでも和也のそばにいたかったのだ。
 もし今すぐ和也と離れたら、もう一生離れ離れになってしまうのではないか?
 そんな考えが、彩夏の頭の中を巡っていた。それは自分の勝手な思い込みなのか、あの恋繋ぎの階段の霊が思わせているのか。どちらにせよ、彩夏はそんな不安な気持ちがしてならなかった。
 和也が帰ろうとしても、話題を振って、帰らせないようにする。そうすると和也は一緒に話してくれる。和也を束縛しているようで、あまりいい気分ではなかったが、和也と離れたくなかった。
「和也・・・・・・結婚したら、子供を産もうね?」
「子供?」
「うん、私ずっと考えてたんだ。和也と結婚したら、最低でも一人は子供を産みたいって。それが二番目の私の望み」
「二番目ってことは、一番もあるのか?」
 和也はニヤニヤとしながら聞いてきた。答えの見当は誰だってつくだろう。和也はそれを彩夏の口から言わせたいようだ。あまりにも恥ずかしいことだったが、彩夏は恥を堪えて和也に告げた。
「和也と結婚すること。それが私の一番の望み!」
 そういいきると彩夏は真っ赤になった顔を両手で覆った。まさかこんなにも恥ずかしいことだとは思わなかった。まるで体中が火になったように熱い。
 そんな彩夏の身体を、何か暖かいものが包んだ。和也の両腕だった。背後から抱きしめて、彩夏の顔を覆っている彩夏の両手を和也の両手がつかんだ。そしてワレモノを扱うかのように優しく抱きしめる。
 そうしているうちに彩夏は恥ずかしいという気持ちも消えてしまった。今はただこうしていたい。和也の暖かさが直に伝わってくる。ここに和也がいると証明してくれるものだから、彩夏はその暖かさが好きだった。
 彩夏は身体の向きを変えて、和也を抱きしめた。まだ恥ずかしいからキスまではいかないが、彩夏と和也はしばらく抱き合った。時に強く、時に優しく。

 そうやって幸せな時間を満喫していたとき、二人の耳にあの声が届いた。
「マ・・・マ・・・ァ」
 その途端彩夏がビクリと身体を振るわせたのが分かった。和也は彩夏の古江を押さえようと、彩夏の体をギュッと抱き寄せた。
「和也・・・・・・、あの子・・・まだ・・・」
「大丈夫だ。ただの幻聴だ」
 ピチャン。
 まるで洞窟の中にいるかのように、水音が反響して聞こえてきた。普通の音ではなく、部屋を揺らすような大きな音だった。
 ピチャン、ピチャン、ピチャン。
 一定間隔を保ちながら、その音は聞こえてくる。その水音が聞こえるたびに、彩夏は身を震わせた。和也は何とか落ち着かせようと、彩夏の体を抱きしめていたが、彩夏の震えは止まらなかった。
 ピチャン、ピチャン、ピチャンという音に混じって、聞こえてきたのは足音だった。
 ペタ、ペタ、ペタという小さな足音。小さな足音のはずなのに、水音よりも大きく聞こえてくるのはなぜだろうか。
 足音はだんだん近づいてくる。
 今どこにいるかは判らないが、着実にこの部屋へ近づいてきている。
 ペタ、ペタ、ペタ。
 彩夏が身を震わせる。
「大丈夫だ。大丈夫だ」
 和也はそう声をかけてやることしか出来なかった。自分の無力さに情けなさも感じた。
 あれは幻聴のはずだ。そう自分に言い聞かせていないと、自分の恐怖で彩夏どころではなくなってしまう。
 田中はあの幽霊が完全に成仏したといっていた。だからこんなことはありえるはずがないのに。あの幽霊がこの世に存在していることは、絶対に考えられない。だから、あれは幻聴のはずなんだ。
 和也はゆっくりと扉を見据えた。胃がきりきりと締め付けられるような痛みを覚え、脳はかろうじて機能している状態だった。
 ペタ、ペタ、ペタ。
 その音が二階へ上がってきた。もう逃げ出すことは出来ない・・・・・・。
 ペタ、ペタ、ペタ・・・・・・。
 足音が止んだ。
 ちょうどこの部屋の前で。
 和也は扉を凝視することしか出来なかった。もう立ち上がることも出来ない。ただ恐怖に震え、あの怨霊の姿を見つめることしか出来ない。
 ドアノブが回った。筋肉が硬直する。彩夏の震えはこれまで以上のものになっていく。扉がゆっくりと開いていき、あの気持ちの悪い空気がなだれ込むように部屋の中へ入ってきた。
 扉が完全に開ききり、怨霊の姿を見た和也はあまり驚かなかった。怨霊の姿は、もうほとんど予想がついていた。井戸に突き落とされたら、一体無防備な赤ん坊はどんな姿になるか、そう考えれば簡単に想像はつく。
 赤ん坊の頭皮は破れ、赤黒い肉が露出している。顔はグチャグチャにつぶれており、何とか原形をとどめている感じだ。指は数本、不自然な方向へ捻じ曲がっており、右手の薬指は根元からなくなっていた。顎は外れているのかがくがくとゆれ、開いた唇の隙間からは一本も歯が見えていなかった。口の中は血だらけで、唇の隙間から血が滴り落ち、カーペットを汚した。
 目玉は片方が零れ落ち、もう片方も目玉を支えている筋肉によって、かろうじて支えられている状態だった。少しでも衝撃を与えれば目玉は落ちるだろう。
 足は片方が千切れてなくなっていた。その状態でも、ハイハイをしながら和也たちのほうへと近づいてくる。
 赤ん坊の姿を見た彩夏が、目を見開いた。和也は彩夏に見せないように、赤ん坊に背を向けた。背を向けても、赤ん坊がゆっくりとこちらへ近づいてきていることはハッキリと分かった。
 和也はブルブルと震えていたが、勇気を振り絞って立ち上がると赤ん坊に向かって突進していった。素足のまま赤ん坊の顔面目掛けて、蹴りを入れようとした。しかし赤ん坊がスッと右手を挙げただけで、和也の体は足を後方へ振り上げた状態でピタリと止まり、次の瞬間すごい勢いで吹っ飛ばされた。
 壁に背中を強く打ちつけた和也は、あまりの傷みに顔を顰め、呻き声をもらす。赤ん坊だといっても、やはり幽霊。そう簡単にはいかないか。
「和也!大丈夫!」
「に・・・げろ。俺のことは・・・・・・構うな」
 屋根から外へ飛び出せば、隣の家の屋根に移動できる。運動神経のいい彩夏なら必ず出来るはずだ。しかし彩夏はゆっくりと首を横に振った。
「駄目だよ・・・・・・。和也と一緒じゃなきゃ」
 彩夏の頬を伝った涙が、和也の頬に落ちる。和也は堪えきれなくなり、泣き叫んだ。自分の命よりも、自分を大切にしてくれる人がいるなんて、これまで思いもしなかった。
 和也は彩夏の体を押しのけると、立ち上がって、再び赤ん坊に向かって突進していった。ほぼヘッドスライディングの要領で、赤ん坊へ突っ込んでいく。しかしこれも赤ん坊の力によって防がれてしまった。
 赤ん坊は鬱陶しそうに腕を振り上げた。それと同時に和也の体も持ち上がり、そして壁や天井に何度もたたきつけられた。手加減をしてあるのか、骨が折れることはなかったが、痛みはとてつもないものだった。
「もうやめて!やめてよ!」
 彩夏の声が聞こえてくる。朦朧とした意識の中だったが、彩夏の声だけはハッキリと聞こえてきた。
「何でよ!?何で、そんなに母親がほしいの!?今まで殺してきた人じゃ嫌なの!?」
 半ば叫ぶように赤ん坊に問いかけていた彩夏だったが、突然落ち着いた表情に戻った。その表情を見た和也の中には、悪い予感しか浮かばなかった。
 地面にたたきつけられた和也は身動きがとれず、彩夏と赤ん坊の姿を交互に見た。赤ん坊は彩夏を見据えており、彩夏は赤ん坊を見据えながら小さく頷いていた。そして、小さく呟いた。
「分かった」
 そういうと彩夏はゆっくりと赤ん坊のほうへ歩み寄った。
「お・・・おい!何をする気だよ!」
「ごめんね、和也。和也を死なせないようにするには・・・・・・私がこの子のお母さんになってあげるしかないの。せっかく和也と結婚して、幸せに暮らせるって思ってたのにね・・・・・・」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ!」
 和也が叫ぶが、彩夏は振り向きもせず赤ん坊を抱き上げた。抱き上げられた赤ん坊は潰れた顔を歪ませてニヤリと笑った。
「大丈夫。私は、この子と一緒に暮らしていけるから。和也はもっと素敵な女性を見つけてね」
「ふざけんな!彩夏!戻って来いよ!」
「和也・・・・・・私の分まで、幸せに暮らしてね」
 その言葉を最後に、和也の意識はプツリと切れた。どさりとカーペットの上に倒れこみ、彩夏が部屋を出て行く様子を見ることもできなかった。


 ようやく目を覚ました和也は、急いで体を起こした。身体の節々が痛んだが、和也は部屋を飛び出して玄関へと下りていった。玄関には彩夏の靴が残されている。恐らくはだしであそこへ向かったのだろう。
 外に飛び出して、まずガレージを確認する。車は残されている。彩夏の車も、和也の車も。幽霊の力というものは、生身の人間をあんな離れた場所まで連れて行けるくらいのものなのだろうか。
 和也は自分の車に乗り込むと、エンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。まずは東海北陸自動車道へ向かう。平日だから、あまり車は走っていなかった。
 和也はアクセルを一気に踏み込んだ。スピードメーターが一〇〇を超える。普段ならこんな速度で走らないが、非常事態だから仕方がない。
 和也は更にアクセルを踏み込み、スピードを上げた。一二〇、一三〇。一四〇にまで上がったところで和也は踏み込むのをやめた。これだけでかなりスピードが出ている。違うものに気をとられていたら、あっという間に事故へつながってしまうだろう。
 和也は真っ直ぐ前を見据え、十分に注意を払いながら岐阜へ向かった。

 岐阜へついた和也が真っ先に向かったのは、南原中学校だった。南原中学校の校門は開いており、和也はそこから車を入れた。グラウンドを車で走りぬけると、途中で車を降りた。これ以上先は、車では入れない。
 和也は自分の震えを押し殺し、ゆっくりと歩みを進めた。
 校舎の裏へ回り、林の中へ入っていく。林の中にはやはりあの気持ちの悪い空気が充満していた。それに加えて、不気味な鳴き声の鳥がバサバサと飛んでいく。
 林を進んでいく和也は、彩夏の姿を脳裏に思い浮かべていた。きっと彩夏は自分の助けを待っているはずだ、その考えが和也に襲い掛かる恐怖を紛らわせてくれた。和也は歩くのをやめ、走り出した。一秒でも早く、彩夏を救い出すために。


 和也が来たことに気づいた彩夏は目を開いた。そして自分が今いる場所にも気付き、彩夏は悲鳴を上げた。
 彩夏は井戸の中にいた。見上げると、丸い月が井戸の中を照らしていた。重いぬめりのような水の中にいる彩夏は、井戸の壁石をつかんだ。しっかりと組まれているようで、そう簡単には崩れそうにない。
 彩夏は足を上げようとして、つま先に何かが触れたことに気付いた。親指に何かが引っかかった。
 彩夏は恐る恐る足を水の中から持ち上げてみた。
 それは・・・・・・頭蓋骨だった。
 彩夏は悲鳴を上げて、頭蓋骨を水の中に放り込んだ。そしてすぐに壁石に足をかけて、井戸を登り始めた。ここから逃げなければ・・・・・・。ここは絶対に危険だ。
 しばらく登っていた彩夏は、下のほうから声が聞こえてくることに気付いた。見ちゃ駄目だ!と自分に言い聞かせながら、登り続ける。
「マ・・・・・・マ・・・・・・」
 赤ん坊の声だ。それも一つだけではなく、いくつもの声が重なって聞こえてきた。その声を不思議に思い、井戸の底を見てしまった彩夏は目を大きく見開いた。
 井戸の底にあったのは、小さな顔だった。それも一つだけではなく、井戸の底を埋め尽くすくらいの顔が浮かんでいたのだ。小さな顔はどれも青白く、全ての表情がハッキリと見て取れた。口を小さく動かしながら、「ママ、ママ」と呼んでいるのだ。
 彩夏は顔をあげると、慌てて壁を登った。もたもたしていたら、確実に出られなくなる。壁石は湿っていて、滑りやすくなっていたが、彩夏は速いペースで登っていった。爪がはがれ血が噴出し、指先がしびれたが、それでも登り続けた。
「ママ・・・・・・!」
 それは地の底から響いてくるような声だった。もう赤ん坊の声ではなくなっており、低く野太い声だった。その声にはとてつもない怨みがこもっていた。
「やめて・・・・・・!」
 彩夏がそう叫ぶと、オギャーオギャーという赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。まるで彩夏がここから出て行こうとするのを嫌がるように。彩夏は耳を塞ぎたかった。いくら幽霊といえども、こんなことをするのは本当に可哀想だ。
 彩夏は自制心を保つために、殺されていった寺田と加南子の顔を思い浮かべた。この赤ん坊は二人を殺したんだから、慈悲なんてかける必要はない。そう自分に言い聞かせながら、彩夏は壁を登っていった。
「彩夏!」
 突然上のほうから、和也の声が聞こえてきた。和也が井戸の淵に手をかけて、彩夏の姿を見ていた。
「和也!」
 彩夏は、あれは赤ん坊が見せている幻覚ではないだろうか、と疑いもしたが和也をジッと見つめながら、壁を登っていった。和也が現れたことに気付いたのか、水面がパチャパチャとせわしなく動いている。
 やばい、あの子が来る。
 それは和也も気付いているのだろう。
「彩夏、急げ!」
 そういいながら腕を伸ばしてくる。和也と彩夏の間はあと六メートル近くある。手を伸ばしても届く距離ではない。どこかにロープでもあればいいのだが。
 そんなことを考えていたせいか、彩夏は足を踏み外してしまった。慌てて壁石をつかむ。指先から血が噴出したが、彩夏はその痛みをグッと堪え、体勢を立て直した。もし手を離していたら、もう登ってくることは出来なかっただろう。彩夏は生唾を飲み込んだ。
 再び登り出すと、突然水しぶきが上がった。その水しぶきは彩夏の身体にかかり、服をベタベタにした。手元が滑りやすくなったが、上に行くにつれて、壁石がごつごつしたものになっていたため登っていくことができた。彩夏がホッとしたその時だった。
 ペタ、ペタ、ペタ。
 あの足音が聞こえてきたのだ。下のほうから、地の底から聞こえてくるような。
 彩夏が下を確認すると、そこには赤ん坊の姿があった。
 赤ん坊はハイハイしながら、ゆっくりとしたペースで彩夏のほうへ向かってくる。その瞳は真っ赤に光っており、彩夏だけを見据えて登ってきていた。
 彩夏は悲鳴を上げて、壁石を登った。和也までの距離はあと三メートルもない。和也はほとんど身を乗り出して、彩夏へ手を伸ばした。
 赤ん坊もだんだん近づいてくる。彩夏のほうが速いスピードで移動しているはずなのに、赤ん坊は着実に彩夏へ接近してきていた。
「マ・・・マ・・・ァ!」
「私はあなたのママじゃない!あなたのママは既に亡くなっているの!」
「マ・・・ァ・・マ・・・」
 赤ん坊の動きが速くなった。もうハイハイではなく、まるで野を駆けるライオンのような体制だ。その動きが思ったよりも速く、あっという間に彩夏との距離をつめてきた。そして彩夏の指が和也の腕に届いたとき、赤ん坊の小さな両手が彩夏の足首をギュッとつかんでいた。
「いやぁ!」
 彩夏は足を振り回すが、赤ん坊は離そうとしない。真っ赤に光る瞳で、彩夏を見据えている。
 和也は彩夏の体を引き上げようと、腕に力をこめているが重くてなかなか持ち上がらないらしい。この赤ん坊の怨みが、重みに変わっているのだろうか。
「私はあなたのママになんてなりたくない!一人で成仏してよ!」
 赤ん坊は離れない。それどころか足首からふくらはぎ、太ももへと上がってこようとしているのだ。冷たい手が太ももを触る感触が彩夏に伝わった。
 このままでは、助からない。子供に言い聞かせるには一体どうすればいいの?
 そこで母に教えてもらったことが、脳裏に浮かんできた。誰だって知っているようなことだから、覚えておかなくてもいいと思っていた言葉だ。子供はある程度の言葉は理解するから、しっかりと自分が母親であることを言い聞かせれば言うことを聞くと。
 赤ん坊が臍の辺りまで上がってきた。
「聞きなさい。私はあなたのお母さんよ」
 そういうと、赤ん坊の動きがピタリと止まった。そして言葉を理解したように、何度も頷いた。和也が相当辛そうにしているから、早めに決着をつけなければ。
「お母さんを放して」
 そういうと赤ん坊は泣き出した。しっかりと言葉を理解しているようだ。
「言うことを聞きなさい!お母さんを放して!」
 強く言うと、赤ん坊は一瞬躊躇したものの、すぐに手を放してくれた。赤ん坊の身体が井戸の底へ落ちて行き、大きな水しぶきを上げた。足首に手形の痣ができていることに気づいた。
 彩夏は和也に引き上げられた。ゆっくりと井戸から這い出す。数分の出来事のはずなのに、彩夏には何時間もかかっているように感じた。
 井戸から引き上げられた彩夏は、すぐに井戸の底に向かって、
「成仏しなさい。これからゆっくりと眠るのよ」
 そう告げた途端、荒れていた水面がピタリと静止した。そしてその水面が再び動き出すことはなかった。
 彩夏は力が抜けたように、その場にしりもちをついた。体中が痛い。
 駆け寄ってきた和也に抱きかかえられながら、何とか立ち上がった。和也は泣きながら何かいっていたが彩夏の耳には何も入ってこなかった。
 今の彩夏にあったのは、この呪いがやっと終結したという実感だけだった。それに和也も気付いたようで、押し黙って、彩夏を連れて林を後にした。






プロローグ


 呪いが解けてから、数年が経った。彩夏と和也は予定通り結婚した。両親は簡単に許してくれた。夢だった赤ん坊も、今身ごもっている。
 何一つ不自由のない、幸せな日々を二人で過ごしていた。
 あの井戸はお祓いをしてもらい、しっかりと供養された。南原中学校は解体されたが、あの井戸はいつまでも残っている。井戸の傍らには常に一輪の花が供えられている。もうあの赤ん坊が現れることはないだろう。
 ショックから立ち直った彩夏も、今は社会へ復帰している。和也も更に功績をあげていき、今はかなり高い地位にいる。
 あの呪いには、感謝するべきなのかもしれない。
 もしあの一連の出来事がなかったら、自分は弱いままだったかもしれない。しかし今の自分は以前よりも強くなっている。
 この幸せな日々は、これから一生続いていくと彩夏も和也も確信していた。

「和也、急がないと遅刻するよ」
「分かってるって」
 和也の弁当を準備しながら、彩夏は小さく微笑んだ。いつまで経っても寝坊をするくせが直らないんだから、と心の中で呟きながら弁当箱をケースの中にしまった。
 朝食を飲み込むようにして食べた和也は、自室へ戻っていった。
 彩夏は机の上を片付けながら、何気なくリモコンに手を伸ばしていた。そしてテレビをつけ、ニュース番組に変えた。ちょうど天気予報がやっていた。
「和也!今日は雨だって!」
 そう声をかけると、二階から「分かったー」という声が聞こえてきた。そしてまもなく和也がバタバタと足音を立てながら、リビングに戻ってきた。
「ほら、お弁当」
 和也は彩夏の手から弁当を受け取ると、
「ありがとう」
 といって出て行こうとした。しかし彩夏がネクタイの位置がずれていることに気付き、声をかけた。和也は礼をいいながら、ネクタイを結び直しはじめた。そんなにゆっくりしてていいの?と声をかけようとした彩夏は、テレビから聞こえてくるキャスターの言葉を聞いて硬直した。
 和也も同じように硬直し、ゆっくりと顔をテレビのほうへと向けた。
『昨夜、岐阜県関市に住む三十二歳の女性の遺体が発見されました。女性は、自宅のすぐそばにあるプールで発見され、その時には既に溺死していました。発見したのは近所に住む男性で、ジョギングをしている途中に発見したと証言しています。警察の調べによると女性は衣類を着用したままで、背中にはおんぶひもをつけていました。警察は他殺として、調べを進めていく模様です』
「おい・・・・・・これって・・・・・・」
 和也がブルブルと震えながら、声をかけてきた。しかし彩夏は返事が出来ず、事件現場が映し出されているテレビ画面を凝視していた。
 まだ呪いは終わっていなかった。
 画面が変わり、別の報道が始まった。
「どうなってんだよ・・・・・・」
 呪いは終わったはずだ。
 彩夏は大きく目を見開いた。あの声が、彩夏の耳に届いたのだ。
「マ・・・マ・・・・・・ァ」
 その声に続いて、赤ん坊の笑い声が聞こえてきた。まるで驚いている彩夏たちをあざ笑うかのように。
 そうか、そういうことか。
 呪いが続いていたんじゃない、呪いは始まったんだ。再び始まったんだ。
 彩夏の耳にはいつまでも赤ん坊の笑い声が聞こえていた。彩夏はこれから始まる呪いについて考え、身震いした。

ベイビーウェル

くっだらないよな!

ベイビーウェル

ある日、女性の水死体が発見された。その水死体はおんぶ紐をつけていた。 その後、また同じような水死体が発見される。相次いで発見される水死体。どれも、同様におんぶ紐をつけている。 これは偶然なのか?それとも、呪いなのか?

  • 小説
  • 長編
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-03-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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