最果ての地より

最果ての地より

---身体が重い。
何だろう、腕が上がらない。寝ていたのだろうか、頭がぼんやりとしているようだ。まだ寝たりないのだろうか、もう少し寝ていたい気もする。あぁ、どうしたもんだと考えを張り巡らせることもままならない。このまま死んだように眠るべきか。
だんだんと意識がはっきりしてくると、全身が痛んでいる事に気が付いた。どうやら、目を開けることさえ難しいらしい。全身がやすりでけずられているような、炎で焼かれているような痛みが這いずり回る。
やっとの思いで目を開けると、身体中から痛みが消えたように思えた。そう、余分なものを全く排したように他の感情は消え去り。ただそこに目を奪われたのだ。

波が音を静かに奏でる。機嫌の良い太陽は余分に僕の身体を温めてくれる。日向ぼっこをしていた猫が起き上がり、ご飯をくれ、と催促してきた。
「何だよ、また欲しいのか?」仕方がないので家からくすねてきたちくわを半分ちぎってやった。こいつは僕のちくわを敏感に察知できる能力があるかのように、持っていないと近付いてはこない。基本、日向ぼっこの方が好きなのだ。
防波堤から立ち上がり、山に向かって歩く。とはいっても、海からは山しか見えないほど近いので走るともったいないほどの距離しかない。半分になったちくわを食べながら山の頂上へと足を運ぶ。行き交う緑が優しく揺れる。その音に迎えられ、山頂へと抜ける。
僕はこの島が好きだ。そしてこの場所が好きだ。自然が溢れていて、温かみを感じる。開けた山頂にこじんまりと立つ石碑に触れる。文字はもう風化してしまってしっかり読むことは出来ないけれど、何かを待っているらしい唄かもしれない、と長い時間をかけて推測した。この島の象徴するものなのだろう、と最近は考えている。生まれてから沢山感じてきた優しさや温もり、海の美しさや森の親しさ、この島全体の絆みたいな何かがやっぱりあるんだろうか、と石碑を前にすると感じる。でもそれらとは別に、どこか寂しげな印象も感じた。それは最近になって思った事だった。
実はこの石碑のことはあまり知られていない。というのも、島の誰もがこれの存在は知っていても、いつ作られたとかどんな内容が刻まれているのかということを知る人はいないようだった。随分古そうなのでそんな事もあるのかもしれないが、そういったことも含めとにかく僕はここが好きになったのだ。それ以来、物思いに耽る時や何か気持ちが沈んでいる時、一人でいたい時、ただぼーっとしたい時、何かにつけてこの場所を訪れている。そのせいで、僕が見当たらない時はここにいる、と誰しもが口を揃えて言うようになった。実際そうなのだが。かといって今日は特別何かあったのかと問われても、決してそんな事はなく、ただなんとなく来ただけだった。何の理由も無い。多分そんな日にこそ、非日常的なものが舞い降りてくるのだろうと後になって思うことになる。

波の音に耳を傾けて、時折本を読みながら、ただ海を眺めていた。学校が休みの日にはたまにこうやって過ごすが、友達は時間を無駄にしてるとかそれは面白いのかと訝しげな顔で問われる。もっとも当事者にしてみても面白いとは言えないし、時間も無駄にしているのかもしれないが、これはおそらく大切なものなのだろう。理由は無いが。
太陽の熱に焼かれ、身体が火照ってきた頃に母が昼ご飯のために呼びにきた。山というか丘というか、とにかくそう高い場所ではないが、わざわざ足を運ぶ母に感謝する。そういえば母はここへ来ていることに対して文句を言ったりしない。せいぜいまた行ってたの、とか、よく飽きないわね、といったところだ。もう少ししたら下りるよと母に言うと、母は不思議そうな顔浮かべ、先に下りていった。
昼ご飯は何なのか聞いておけば良かった。腹が鳴ったのを確認して腰を上げる。そして石碑を一瞥して山を下りようと足を向けると、ねぇ、と後ろから声が聞こえた。振り返るとそこには自分と同じくらいの年であろう、少女がいた。彼女は白いワンピースに裸足だった。瞬間、頭に湧き溢れた疑問はその奥深くに流されていってしまった。そう、その容姿の可愛さに目を惹かれ、何も言えなくなってしまったのだ。それほどまでに彼女は美しく、愛らしかった。肌は白く、服と同化しそうなほどで、目背ければ光の中に消えてしまいそうだ。それとは対象的な薔薇のように紅い髪が彼女をこの場所にとどめているかのような存在感を放っていた。反応が無かったことに対してなのか、彼女は小首をかしげ
「そこで何してたの?」と言った。紅く、長い髪が揺蕩う。彼女の口がへの字になるのを見るまでの間、自分が沈黙している事に気付き、慌てて取り繕う。
「あっ、えっと…ですね。海! 海を眺めてました」どうして叫んだのかは謎だ。すると彼女は吹き出したようにふっと口に拳を当てて笑った。可愛い。
「そう…綺麗だった?」
「いえ、可愛いです」
「え?」
「あ、いえ、その…とても綺麗です」
「そう、とても綺麗ね、ここは」そういうと彼女はにこやかに微笑んだが、その表情には少し翳りが見えた。
「海は好き?」
「あ、好きです。特に、ここから見るのは」
「そうね、ここからは本当に良く見える。……あなたはよくここに来るの?」
「そうですね、はい、よく来ます。毎日でも大丈夫です」そう言ってから、言ってる意味が分からないな、と我ながら後悔した。
「ところで、あの、足、痛くないんですか」
「足?」彼女はまた首を傾げた。
「えぇ、裸足で痛くないのかなって」
「家が近いから。それに案外大丈夫よ」
「そうなんですね」いや、痛いですよ、と言おうとしたがやめておいた。
「よくここへ来るのなら、またね」
「是非、お待ちしています」そう言って彼女が手を振るのを見て山を下りようと振り返った。自分の家でもないのに待つのはおかしいもんだと可笑しく思った。そういえば下りの道はここだけのはず、と考えていると後ろからガサガサと草木を分ける音がした。
「そっちに道はありませんよ!」思わず振り返ると彼女の赤い髪が視界から消えるところだった。あっと声を上げ、駆け寄るがどこにも彼女の姿は見えなかった。

あの日以降はあいにくの雨続きで、山に登る事はなく一週間が過ぎた。たった一度の出会いだったが、彼女の存在は日増しに僕の中で大きくなり続けていく。一向に止む気配の無い雨に焦燥感さえ覚え、幾度となく足を運ぼうと考えたが、まるでそれを阻むかのように空は雷雨へと姿を変えた。授業の内容さえ全くと言っていいほどに耳を掠めはしなかった。
雨は勢いを無くすことを知らず、この日もやはり降り続いていた。ここ数日で半年の平均雨量を超えているのではないかと思う。 耳にまとわりつく水の跳ねる音に陰鬱となり、躍起になって外へ出てみようと考えた。玄関まで足を運び、傘に手を伸ばしたが、そこでふと思いたった。いや、傘は要らない。ビニールを鳴らす水滴の音に嫌気が差しそうだ。躊躇いなく降りしきる雨の中に身を浸した。こうしてみると、最早雨などは嫌にならない。むしろ身体に溜まった陰鬱なものを流してくれるようで足が軽くなった。なんとなく足取りは山へと向かうが、まだ雷雨にもなっていないことに今日はついている、と思ったことには我ながら気でも狂ったのかと頭をひねった。
山を登ったのは彼女に会えることを期待して登ったのではない。それもそうだ、わざわざ雨の降りしきる中ここへ来ても見通しも悪く、景色も良いとは言えない。だから、雨の中に身を浸した時に、ただ自然と気が向いただけだった。しかしそこに彼女はいたのだ。初めて会ったときと同じ、白いワンピースを着ていた。そして彼女も傘を差していなかったが、ワンピースはまるで晴れの日の中にあるようだった。声は喉の奥へと転がり、出てくる気配も無いまま呆然と立ち尽くしていた。海の方を向いていた彼女が僕に気付き、こちらへと振りかえる。あ、と驚いたような顔をして、にこっと微笑んだ。
「もう来てくれないのかと思った」尚も茫然していた僕をみて首を傾げる。ハッとして、彼女の方へ駆け出した。
「どうしたの」
「いえ、大丈夫です。というか、雨の中傘も差さずにどうしたんですか」
「傘? ……あぁ、あれのこと。濡れている方が気持ち良いじゃない。それに傘も差さずにいるのは貴方もでしょう。……顔が赤いけど大丈夫?」
「だ、大丈夫です、お気になさらず。でも、また会えて良かった」
「私もよ」可笑しな事だが、雨の事など全くと言っていいほど気にならなかった。だから、彼女がそう言って微笑んだ背後から太陽の光がこの場所を照らした時初めて、空が晴れたことに気が付いた。
「もしかして、あれから何度かここへ来ていたのですか」
「えぇ、ほぼ毎日。もう習慣になっているから、来ない日は落ち着かないの。雨の海も良いけれど、やっぱり晴れの海の方が素敵ね」彼女はそう言って、濡れた髪をはためかせ海へ顔を向けた。
「そうですね、素敵です。こんな海は久々に見た気がしますよ。でもお身体の方は大丈夫ですか? ずっと雨の中ここに来られていたんですよね」彼女は一瞬不思議そうな顔をして、
「大丈夫よ。雨は水、水は海、海は私。雨の中にいたって、体調が悪くなんてならないわ。むしろずっと良いくらい。でもこの海を見られないのは寂しいけれど。ねぇ、話をしてくれない? 貴方のことが知りたいの」真っ直ぐに僕を見つめてそう言った。
「僕も、貴方のことが知りたいです」日に照らされた彼女は髪をかきあげ、
「じゃあ、まず話し方を変えなきゃ。もっとフランクに話しましょうよ。そんな堅苦しいと気疲れしちゃうわ」
「そうですね、分かりまし……分かったよ」
「よろしい」雨を吸い込んだ紅い髪を絞る。なるほど重そうな様子通りに水が髪から離れた。光に晒されたおでこが白く、小さい。
「貴方はいつも何をしているの」思わず、目を逸らす。
「休日だったら、ここへ来たり、本を読んだり友達と遊んだり、親の手伝いをしたりかな」
「他の日は何を?」
「学校へ行ってるよ。そういえば、……君は学校へは行ってないの? 見たことないけど。僕は河端湊。好きに呼んでもらっていいよ」
「ミナト! 良い名前ね。じゃあ私はミヅハで良いわ。私はね、学校へは行ったことが無いの。楽しい?」彼女は身を翻してこちらを大袈裟に向いた。
「楽しい…のかな。あぁでも、毎日新しい事を覚えられるし、毎日友達とか、先生とか色んな人に会えるし、楽しいんじゃないかな。行事の時とかは学校外も賑やかになるし、面白いよ」僕は多少面食らってしまった。家庭の事情なのだろうか。思わず普段の退屈な日々を頭に描いたが、彼女にそんな事をわざわざ伝えることもないだろう。
「良いなぁ、私も行ってみたいな、学校。きっと楽しいんでしょうね。実は、他にも行ってみたい所があるの。人が沢山いるところ。私、ずっと一人だったから」悲しげに彼女は俯いてしまった。いったい今までどういう生活を強いられてきたのだろうか。この年までどれほど寂しい思いをしてきたのだろうか。その白い肌は今まで日に当たったことすら無いからではなかろうか。だとすれば裸足なのは外出すら許されず、靴すら与えられないからではないだろうか。僕には想像することしか出来ない。
「じゃあ今から行こう。君が行きたいところ全部行こう。君の親は駄目だと言うかもしれないけど、今ここにいれる間じゃないと出来ないかもしれない。今しかないよ」
「親? 親はいないわ」
「うん?」彼女はぱっと顔を上げたが、やはり表情は翳っていた。
「行きたいけど駄目。私、髪がこんなだから、ミナトまで嫌な目に合うわ」まるほど、そういう理由か。どうやらだいぶ思い違えたようだ。さっきの発言は是非とも無しにして貰いたい。だとすると彼女は自分から引きこもっているのだろうか。それは実に勿体無い気がする。この島の人達に限って、そんな事で虐めたりはしないだろうが少なくとも視線は集まるだろう。しかしそれくらいだ。彼女はかつて酷い事を経験したのだろうが、この島では大丈夫だろう。
「大丈夫さ。誰もそんな事で君を酷い目に合わせたりやしない。もしそんな事になったとしても、僕が君を守るよ」我ながらよくもこんなセリフを言えたものである。
「本当に?」
「あぁ、本当だよ」
「じゃあ明日。明日一緒に連れて行って。服はこれで良いかな」改めて彼女の服を見た。肩掛けの膝が隠れそうなワンピース。見たこともない素材で、泡のようなのにとてもしっかりとしているような。しかし裸足だ。
「とりあえず靴はいるね。何か羽織るものもあった方が良いんじゃないかな。帽子とかは要らない?」
「分かったわ。ありがとう。じゃあ明日ここで待ってる」見るからに上機嫌になった彼女は軽い足取りで木々の間に消えていった。

彼女が去ってから、木々の間を覗くがやはりそこに道は無い。すると彼女が急な斜面を下った所を優雅に歩いているのが見え、こちらに気付いて手を振っていた。中々逞しい女性である。
「あっち側に家あったっけ?」

明くる日、太陽が最も高くなる前に
山を登った。彼女は昨日と同じように海を向いて待っていた。しかしいつもと違うのはやはり服装だった。
いつものワンピースにつばの広いハットを被り、薄手のカーディガン、そしてブーツとサンダルの合いの子のような靴を揃えていた。そして予想はしていたが、全身真っ白になっていた。やはり声が出ない僕は立ち止まり、彼女が気付いて声をかける。
「おはよう。こんな感じで大丈夫かしら」彼女はこちらを向き、くるりと回ってみせた。
「おはよう。似合ってる、大丈夫だよ。でもいつも同じワンピースだけど」喉のつっかえがとれる程度に落ち着いてからそう言った僕に口を結んで力強く歩み寄ってくる。
「失礼ね、ちゃんと洗ってます」
「ごめん」詰め寄せてきた彼女から顔を背ける。涼しげな香りがした。
「じゃあ行きましょう。どこへ連れて行ってくれるのかしら」

二人でのんびりと一時間近くをかけて港へとやってきた。珍しく、この島のものではない船が停泊していた。
「やっぱり賑わってるといえば漁港かな。漁の他にも、島への出入りもここだけだし、他の店もこの辺りに集まって出店してるからこの辺一帯が商店街みたいになっているんだ。あっちへ行ったら浜辺が綺麗で民宿が多くあって、この道を登って行くと学校が見えてくる。人が沢山いるのは基本的に島の東半分だね。この島には結構偏西風が強く入ってくるから、災害対策の意味が強いんじゃないかな。でも西側にも家とかはあるよ。僕の家もあの山も、一応西側だしね」
「あそこの綺麗な空気も好きだけど、こっちは凄いのね! すっごい賑やか! ねぇ、あれは何をしているの? あっちは?」彼女は初めて会った時の印象はどこへやら、長い髪を揺らしながら、初めて輝かしい世界に足を踏み入れたかのように興奮に満ちた瞳を忙しなく動かしていた。彼女は僕の手を引きながら、漁船を指差し、せりを指差し、果ては船着き場で獲物を待ち構えている猫でさえその対象になった。
「とりあえず落ち着きなよ。一個ずつ見ていこう。まずどこを見ようか」
「じゃあ、あそこ。あの魚が沢山並んだところを見たいわ」彼女はそう言って魚市場を指差した。やっとまっすぐに歩いてくれた事に安心し、ふと自然と手を取り合っていることに気付いて今度は心拍数が上がってくる。頼む、手汗だけはかいてくれるなよ。
「お腹が空いたわ。ここに並べられたものは食べて良いの?」
「いや、良くない良くない。これは売ってるんだよ。お金って持ってる?」
「お金は持ってないけど、代わりになりそうなものは持ってきたわ」彼女はそう言って、ポケットから大玉の真珠を取り出した。こういったものの価値には疎い僕でさえもかなり高価なものだろうと一目みて分かる。それをしかも幾つもポケットに忍ばせているのは対した度胸だ、見るとまだポケットに玉の形の膨らみが見てとれる。
「これはお金の代わりになるって聞いたけど、どうすれば良い?」恐らく今、僕の目は泳いでいるに違いない。
「どうしようか……」
結局、お金は僕が持つ事にした。戸惑いの表情を浮かべ、落ち着かない様子の彼女だが、僕にとってさしたる問題はそこにはなく、やはり彼女は大したお嬢様なのだろうという確信に辿り着いた点にあった。そう考えると合点が行くーそれにしても頭をひねる行き過ぎた所は多々ある気もするがー徹底された箱入お嬢様なのだろうと。だとすると、この瞬間の楽しげな気持ちとは裏腹に、こうしていられる時間を思い、心に不安の色が現れる。
「凄いね、これ美味しい。こんなのは初めて食べたわ。あっ、これも美味しそう」結局、魚に目を光らせていた彼女の手を引き、商店街で腹を満たす事にした。案外食べるようで、先程から揚げ物ばかり食べている。その楽しげな横顔を見ているうちに、不安を膨らませる事が阿呆らしく感じてきたので、やめた。しかしその不安は、全く別の形に姿を変える事になることに、この時は思いもしなかった。
「さっきから揚げ物ばっかり食べてるけど、そんなに美味しい?」唐揚げを口に頬張り、満足そうに食べる。
「揚げ物、そうね、美味しい。私こういうのって初めて食べたから、なんだか不思議でね。熱くて、歯応えがあるのが食べてて楽しいのよ。でもなんだか胃の辺りが重いわ」
「そりゃ、そんなに食べてたらそうなるよ」僕でもお腹いっぱいになるような量のものをもう彼女は食べただろう。しかも全部揚げ物ときたら、僕なら半分ほどでお手上げだ。
「なぁ、ミヅハは、そう言えば聞いてなかったけど、どこに住んでんの? ていうかまだ色々聞きたいことがあるんだけど」彼女は最後の唐揚げをほう張り、まっすぐに前を見ながら飲み込むのを待った。そしてしばらく黙ると、決心を決めたように僕を見つめた。その表情はかつてないほどに悲しく見えた。
「着いてきたいなら、来ても良いわよ。でも、後悔するかもしれないけど」
「それは」
「でも」彼女が僕の手を握る。この時、初めて気付いたことだが、他の人と比べて手が冷たかった。
「今日はまだ駄目よ。もう少し先」上目遣いでそう言って、また前を向いて歩き出した彼女は、どこか遠くを見ていた。この言葉を他の女性が言っていたとしたら、想像力豊かな僕は顔を茹で蛸のようにしていただろう。どうして彼女の手からはこんなにも寂しさが伝わってくるのだろうか。
その後僕らはクラブ中の学生で賑わう学校を眺め、ふたたび商店街を抜け、外からやってきた船が水平線へと沈んでいくのを見送った。彼女の紅い髪には、僕が商店街で買った淡いブルーの、貝を連ねたような形のヘアピンが光っていた。堤防の上をスキップをしたり、くるくると回ったりと疲れを知らない彼女の髪と夕焼けの色が、その日以降、僕の目に焼き付いていた。
「家まで送っていこうか」前を歩いていた彼女が振り返る。
「そのうちね」上手いことはぐらかされた僕はぎこちなくそのうち、と繰り返した。
「また会える?」
「もちろん」力を込めて答えた僕と相反し、彼女の声はその日で一番か細く聞こえた。進んだ分を戻って、僕の前に立つ。
「私は、ミナトを信じてる。今日は、水面の泡のような一日だったけど、とても楽しかったわ。流れゆく海を見ているだけの私には、まるで暗い、日の明かりを知らない深海に光が差したようだった。そう、今日の全ては私にとって初めての出来事だったの。遠くから見ているだけの私にはね。だから、これも初めて」彼女の唇がそっと触れる。夕日は最後の仕事に僕らを照らして帰っていった。
「…また、会える?」両手で僕の顔を持ったまま、唇を離してそう言った。
「…はい」
「そう、じゃあ、またね。愛しているわ」彼女はそう言うと、踵を返して日が沈んで暗い闇を被っている山へと消えていった。その場に立ち尽くしていた僕が動いたのは帰りを心配して玄関から出てきた母に殴られてからだった。

あれから早くも一ヶ月が過ぎた。当然のように僕は毎日、学校が終わるとすぐに石碑の元へ行き、彼女の姿を探していたが、そこにミヅハがいることはなかった。寂しげだった。そう、彼女は二度と会えないかのような表情、声色で愛しているとー別れを告げるようにー確かにそう言ったのだ。あの瞬間が頭に焼き付いて離れない。あの楽しげにはしゃぐ彼女と、最後に見た後ろ姿がどうにも僕の頭をぐるぐると回って掻き乱す。僕は泣きそうな顔で、ため息をつき石碑の隣に腰を下ろした。石碑と共に海を眺める。雨は水、水は海、海は私。海は私……。相変わらず、目の前に広がる海は美しい。石碑もまた、ここから見える海に、美しさを感じているのだろうか。石碑の正面に回り、その文字に手を触れ、その想いを紐解こうと試みる。
「ここから見える景色は、君の如く美しい。君もまた、この景色の如く美しい。この海が、未来永劫変わらぬと言うのなら、君の美しさも未来永劫変わらぬと言うのだろう。例え僕が、醜く朽ち果ててしまおうとも、君はそうはならないように、僕がこの海を守ってみせよう。例え時が百年千年と、怒涛のように押し寄せようとも、君がいつまでも変わらぬように、この身が滅びようとも守ってみせよう。いつまでも見守っていられるこの高台のこの場所で、君の帰りを待っていよう。例え百年千年が過ぎようとも、君の帰りを待っていよう」背後から声が聞こえる。その声はずっと僕の心を縛りつけていた鎖だった。しかし同時にその鍵でもあったのだ。僕は涙をこぼさないよう慎重に振り返ると、そこには見下ろすようにミヅハが立っていた。
「何よ、その泣きそうな顔。そんなに会いたくなかった?」わざとらしくそっぽを向いた彼女を、駆けるように立ち上がって抱き締める。
「泣くほど会いたかった。もう二度と会えないかと」優しく背中に手を回し、彼女は言う。
「大袈裟よ。また会えるって聞いたでしょう? それに、泣くかもしれないのは私の方よ。ミナトは私を愛してる?」
「聞くまでもない、愛しているよ。この先もずっと」
「嬉しい、ありがとう」夕焼けに照らされる中、僕らはふたたび唇を交わす。細い繋がりを必死で手繰り寄せるように、お互いを求めた。

「ところで」黄金色の海が深い色に移りゆくのを二人で眺めていた。僕らの背後で落ちる日が海を見事な橙色に染め上げた時、彼女は言った。
「さっき、私が言った言葉、覚えてる? ミナトがいじけている時に言ったんだけど」
「他の表現にしてくれよ、恥ずかしい。なんだっけ、『君』と『海』のお話だった?」
「そう。正しくは私のお母さんとお母さんに恋をした人のお話。そして、その石碑に書いてある内容よ」
「へぇ、それは何だか切ないな。……いやちょっと待って、失礼だけどお母さんって君の母親? 祖母とかじゃなくて? この石碑って随分古いはずだけど」返事の代わりに、彼女は海を見たまま立ち上がる。そして息を整えるように、一呼吸ののち、髪を靡かせながらこちらを向き、僕に手を差し伸べた。
「じゃあ、答え合わせといきましょうか」
ミヅハに手を引かれ、山頂への道とは反対側の斜面を下り、木々の間を抜け、誰もいない砂浜へと抜ける。砂浜の果ては崖。ここに誰も来ないことは明白だった。
「綺麗だな…」夕焼けに染まる砂浜に、泡を纏った波が何度となく重なる。人の存在の無い自然はこんなにも綺麗なのか。
「でしょう。私の宝物の一つよ」彼女は僕の手を自然に離し、足音を波で消しながら、さざなみに浸る砂の上で止まり、振り返り言う。
「そしてちょうど、間にあるこの場所が私とミナトを結ぶための通過点。私は、ここを通って初めて、人間になれるの」僕の手から離れた彼女は、驚くほど綺麗で、驚くほどこの場所に馴染んでいた。
「今から帰るわ」まっすぐに僕の目を見つめていた。その目は決意に満ちていて、ただ耐えていた。
「見てて」海へ向かって手を伸ばすと、波は止み、静寂が押し寄せる。それも束の間、海は荒々しく音を立て、形を見事に変えていった。流れるままに円を成したそれは、その激しい所作を維持した状態で、浮いた。海面から離れ、ゆっくりと上昇していく。離れた海面からは再び荒々しい水のリングが出来、また同じように浮く。その後も三つばかりのリングが宙に浮くと、それらは上昇を止め、また荒々しい流れも止めた。一度は去った静寂が、僕らを丸ごと包み込んだ。手を下ろし、海の方を向いた彼女の顔は髪に隠れて見えなかった。
「ミヅハ、君は……?」心臓の音が全身に響く。今ここにある音はこれだけみたいに感じられる。彼女にも聞こえているんじゃかいかと思うほどにうるさくて仕方がなかった。
「私ね、ミナトとは違うの、人間じゃないの。ずっとこの世界にいることは出来ないのよ。なのに、馬鹿よね、私…。ずっと一緒にいるどころか、報われないって分かっているのに」こちらを向いた彼女の頬に涙が流れていた。全てを諦めたような沈んだ表情で、ただ泣いていた。そして泣いたまま、無理してにっこりとしてみせた。
「貴方に恋をしてしまった。貴方に愛してると言わせてしまった。そんなの、続く訳無いのに。ごめんね、こんな事なら、声をかけなきゃ良かったよね。私のせいで…」涙をぼたぼたと砂浜に落とし、俯く。そんな彼女を見た僕の中で、何かが切れた。静寂に包まれたせいか、足音は聞こえない。さっきまで激しく鳴っていた心臓の音も聞こえない。駆けた勢いのまま、彼女を強く抱き締めた。
「さっき言ったよね、この先もずっと愛してるって。今だって気持ちは変わらないよ。僕はミヅハの事が好きだ。愛してる」彼女の紅い髪に手をおき、撫でる。柔らかくて、今にも消えてしまいそうで。
「ずるいよ、そんなの。馬鹿じゃないの、私はミナトとは違うのよ。貴方は何も分かってないのよ、馬鹿よ、馬鹿。もう知らないわ、こんなずるい人」
「なら、離してくれない? この手」
「絶対やだ」涙などで肩がずぶ濡れになっている。彼女はさっきよりずっと強く抱き締めてくれている。一頻り泣いて落ち着くと、腰から手を離し、再び僕の手をとった。
「じゃ、帰るわ。着いてきてくれる?」
「もちろん。けどどこに?」無言で水の輪の重なりを指差す。そうだ、アレの存在を忘れていた。その時、腰に冷たい感覚を覚えた。見ると海から水が触手のように伸びて僕の腰に巻き付いている。
「おう…」見ると、彼女の方は円盤状に浮いた水の上に立っている。
「待って、僕もそれじゃ駄目なのか? てかなんで持てるんだ」
「行くわよ」空中に勢い良く持ち上げられる。水の輪の真上にくると、その中に見える海面が激しい音を立てて、とてつもなく深い穴を開けた。僕の叫び声は見事にその音に掻き消され、その穴に向かって彼女は飛び込み、僕は投げ込まれた。


ーミナト、ミナトー。声が聞こえる。どうやらその声は僕を呼んでいるようだ。もう起きる頃合いだろうか。まだ寝たりない気がする。そういえば何をしていたんだろう。というか寝ていたんだろうか。考えようにも頭痛が酷く、考えがまとまらない。とりあえず起きようと試みるが、どうやらそれもままならないらしい。身体中が痛みで動かない。あぁ、とにかく身体を揺すらないで欲しい。痛みに悲鳴をあげたいくらいだ。その悲痛に僕を呼ぶ声に応えるべく、なんとか目を開ける事が出来た。
「ミナトっ…」僕の頬に温かいものが落ちる。そうか、僕は彼女に連れられて…投げ込まれたのか。
「ミナトっ…。ごめんね、こんな事になるなんて。私のせいで、ごめんね…」大粒の涙を僕に落としながら泣く彼女を慰めようと、どうにか腕を上げる。見ると腕はズタズタに裂けていた。道理で痛いはずだ、だが傷は表面だけのようで助かった。
「僕は大丈夫。君は…無傷だね。なんでこうなったんだっけか」彼女の頬をそっと撫でるが、血が付いてしまったのでやめた。
「多分、ここに来る時の水圧か衝撃かに耐えられなかったんだと思う。咄嗟に水で包んだんだけど、それでも難しかったみたい。ごめんね、こんな事になるなら、無理に連れてくるべきじゃなかったわ」
「僕は大丈夫だって。だからもう泣かないでよ。ところで、どこに来たんだろう」彼女は腕で目を擦り、僕の上から頭を退けた。僕は思わず言葉を失った。「私が住んでいるところよ。私はここじゃないと…ってどうしたの?」僕には光が差していた。とてもとても眩しい光。でもそれは優しく、全身が癒されるようだった。しかしその光の元は見つからない。遥か上空までずっとずっと、一面が滝だった。遠近感が狂ってしまうほど、高い高い滝がその光の元を隠していた。なのにまるで滝自体が光り輝いているように、この場所は明るく照らされていた。遥か上空の滝の水は既に霧散しふり注ぎ、水が消えるその裏からまた別の水が湧くように、滝が重なり合って周囲を囲んでいた。
「凄いな……。こんな景色初めて見たよ」そこら中から水音が聞こえていたが、嫌な気はしなかった。
「そうかしら。私はずっといるから、外の景色の方が新鮮で楽しかったわ」
「そうか。それはなんだか勿体無い気がするけど。ここは一体どこなんだ?」
「どこ、か。難しいわね。一言で言えば、世界の全ての水が集まる場所、かしら」
「それは納得だなぁ……」滝の音がとめどなく流れる。更には霧散した水が降り注ぐ。これほどまでに心地よい場所は他に無いだろう。
「あ、なんだか動けそう。首くらいは」
「ごめんなさい」
「そういう意味で言ったんじゃ……あ、あれは何?」僕の目線から彼女が汲み取る。視線の先には何か、生き物の形を成しているような巨大な樹が生えていた。その樹を中心に様々な草木が生え、まるでこの島そのものを形成しているような迫力があった。
「あの木は私のお父さんなの。けど勿論、最初から木だった訳じゃないわ」
「ごめん、君の家族構成が全く見えてこない。あの、答えたくなかったらいいんだけど、お母さんは…」彼女は静かに首を振る。
「大丈夫よ、そんなに気にしないで。お母さんはここから出て何処かへ行ってしまったわ。多分もう、帰っては来ないと思う。で、お父さんは……あの木なの。お母さんは、お父さんはこうなる事を望んだのよって。樹になることで、この場所で私達を守るんだって。でもいくらお父さんに見守られていても、喋ってはくれないし、もう私に教えてくれる人は誰もいないから。だから、危険を犯してでも、ここから出てみたかった」
「そうだったんだ。あの木が君のお父さんか……」樹は、それはもう逞しく見えた。最初はその木の後ろは森かと思ったのだが、よく見ると繋がっている。巨大な、巨大な一つの樹だった。
「ところでミヅハは自分の事を人間じゃないって言ったけど、一体何なの? 木の精霊とか?」もうなんだって信じられそうな気がしてきたところだった。
「あぁ、私は龍よ。世界最後の龍。お父さんが木だって言ったから、そう思ったのね」龍なのか。龍?
「龍って、あの龍? 蛇みたいな長い体の? 木になるの?」我ながら最初の疑問はそこなのか、と呆れた。
「普通木にはならないわ。お母さんは木じゃないもの。私も龍の姿になれるはずなんだけど、お母さんは人間に為りたかったみたいで、ずっとこのままだったからもうよく分からないの。昔はもっと沢山の龍がいたみたいなんだけど、もう住める場所が無くなってしまったからいなくなっちゃったんだって」龍の姿は見たいような見たくないような。その姿も美しいのだろうか。
「住める場所か。どんな場所?」
「綺麗な場所よ。空気が澄んでいて、汚れてない場所。もう世界には殆ど無くなってしまったから。でも、あの島は素敵よね。ここに比べたら厳しいけど、あそこなら割と平気なの」
「確かに、此処は凄いね。居るだけで段々と痛みが引いてきたよ」そう言うと、彼女は僕の頭を持ち上げた。
「じゃあ、膝枕してあげる。痛くない?」
「あ、うん、大丈夫。ミヅハこそ大丈夫? この場所以外は厳しいって。体調とか」
「体の調子とかは大丈夫。今はそんなに長い間外に出ていないから。お母さんは、身体に毒が溜まる感じで寿命が短くなるのよって言っていたわ。確か、ずっと健康な状態で、生まれてすぐから長くても百年くらいしか生きられなくなるって」僕は思わず目を丸くする。
「え、普通は何年生きるの」
「大体は皆、数千年生きるらしいわ。私はまだ三百年ほどだから、まだまだ子供ね」
「なるほどね、色々納得したよ。僕らは余程忙しない生き物に見えるだろうな」
「そうね、ずっとここにいたら世界はすぐに変わってしまうもの。いっそのこと、此処から出てミナトと居たいって思うのは、いけない事なのかな……」そう言いながら彼女の表情が翳るのは、彼女が自分を世界最後の、と言ったことに起因するのではないだろうか。もしかしたら他にも葛藤するものがあるのかもしれない。無責任な台詞しか吐けない僕は言葉を発することが出来なかった。暫く沈黙が続いた後、また彼女は泣き出してしまった。
「私ね、怖いの。此処にいると、自分の気がつかない内に時間がどんどんと過ぎ去っていって、ミナトと会えなくなってしまうかもって。そうなるくらいなら、ミナトを失ってしまうくらいなら……私はここを出たい。貴方を失うなんて、その後の数千年なんて耐えられない。もしそれが出来るというのなら、だけど」身体が軽く、痛みが引いている。どうやら、この場所が特別なのは本当のようだ。居るだけでそれなりに回復してしまった。僕は身を起こし、彼女の涙を指で拭う。
「僕と違って君は色んなものを抱えてるから、僕には何も言えない。そんな安易に君の道を示すことなんてしちゃいけないんだ。けど、君がどういう道を歩もうと、例え離れてしまってもずっと、ずっと愛してるよ」
「何、離れたいの?」
「や、そんな意味で言ったんじゃ……」
「分かってるわよ。ありがと」ふてくされたように表情を作り、顔を背ける。顔は背けたまま、僕の隣へとにじり寄り、肩に頭を乗せた。
「ごめん、しばらくこのままでいさせて」初めて見せた甘えに、返事の代わりに頭を撫でて応えた。
日が傾き、やがて星がやってくる。流れ落ちる滝に映る星の様子はまるで天の川だった。そうか、夜空の川までここに流れ着くのか、と感心する。そしてそれら全ては父と呼ばれる大樹へと流れ、その体積はどこへやら、吸い込まれていくように消えていく。それはまるで、この樹が世界を繋げているような気がした。
「実はね、ずっと見てたのよ」寝ているように静かだった彼女が不意に話し出す。
「あの島に行くたびに、ミナトが海を眺めているのが見えたから、実は隠れて見てたの」
「全く気付かなかったな」表情は見えないが、笑っているような気がする。
「それで、いつも何でも無いような感じで過ごしているのに、急に今日も綺麗だな、とか呟いていたのを見て、この人だったら話し掛けても大丈夫かもって」懐かしむような声でそう話したが、何故かそこからは黙ってしまった。
「もしさ」思わず言葉を漏らす。
「もし、君が本当に色んなしがらみを捨てて、此処から出たいと言うなら、一緒に暮らそう」賭けに挑む思いでそう言うと、彼女は顔を上げた。しかしその表情は依然として暗いままだった。
「泣きそうなくらい嬉しい。けど私ね、外ではもう数年しか生きられないの」心臓を裂けるような締め付けが襲った。
「え。それは、どうして」
「実はね、此処に来るまでの間、両親と私は住める場所を探して世界を回ったの。かつて住んでいた場所も段々と空気が侵されていって、新たな場所を探して。でももう、この世界にそんな場所は殆ど無かった。そうする内に、私たちの身体は次第に蝕まれてしまった。世界最後になってしまった親子はただ為す術無く、ひっそりと消えてしまいそうだった。そんな時にこの場所に思いがけず辿り着いたのだけど、その時のここは比喩なんかじゃなく、死地だったの。世界の全ての水が流れる場所という事は、水が死して最後に来る場所、という表現にするとそれも納得するけどね。そしてもう力尽きるという時、お父さんはこの澄んだ死地に命を埋め込んだ。命を与え続ける樹になる選択をした。私とお母さんを生かすために。だから私はここから出ることは出来ないの。お母さんは出ていってしまったけどね。もっとも、短時間ならそこまで気にする事も無いのだけれど。だから私は、お父さんがここにいる限り、此処でだけは生きていける。けど、貴方がいる外の世界では無理なの」
「じゃあ、僕が此処に来るのは? むしろ綺麗になるのなら大丈夫だと思うんだけど」一縷の希望に縋るように言葉を吐く。しかしそれは、何の意味もなしていなかった。彼女は首を振って答える。
「此処に身体が馴染んでしまえば、元の世界では生きていけないわ。それは駄目よ。絶対駄目。貴方が私のために自分を犠牲になんてしないで」今までに無い剣幕で凄み、ごめん、と呟いた後そのまま彼女は黙ってしまった。
「僕は」まだ諦めることが出来なかった。僕らを繋ぎ止めるものはもう見えてはいなかった。
「僕の世界は君を知ったことで変わってしまった。霞んでしまったんだ。色褪せてしまった。君と居られるこの瞬間こそが最も輝かしくて、暖かくて、その他の全てから温度を奪ってしまうんだ。この一瞬間が、僕に生を与えてくれる。君の存在が僕に生きている実感を、幸せをもたらしてくれるんだ。だから、君と居られるならどんな代償を払おうと、後悔はしない」
「ずるい、ずるいよ…。そんな事言わないでよ、私を困らせないで。私は貴方と違うの、共になんて歩めない。一瞬間だからこそよ、たったこれだけの時間だから、幸せはやってくるのよ。これほどの幸せはいつ以来か思い出せないわ。貴方といたほんの僅かな時間は、私にこれ以上無い幸せを与えてくれたわ。この幸せをずっと胸に抱えて生きていくの。貴方との思い出が私を生かすの。だからこれ以上はもう何も望まない。だから、お願いだからこれ以上を望んでしまうような事を言わないで」
「じゃあ何で君は」彼女は不意に身体を寄せ、口を塞ぐようにキスをした。
「最後のお願いよ、私を抱いて。貴方との思い出を幻にしないように、形ある貴方の存在を私に頂戴。一生分の愛を私に注いで」涙は途切れることなく溢れていた。そんなくしゃくしゃになった顔で懇願する彼女は儚くて、もう何も言う事が出来なくなってしまった。気付けば、僕の顔も涙でぐしゃぐしゃだった。

目が覚めるとそこに映ったのは空を多い隠す滝ではなく、見知った顔達だった。
「ミヅ……」僕が伸ばした手を取ったのはミヅハではなく、溢れんばかりの涙を溜めた母だった。
「水が欲しいのね。此処にあるわ、ゆっくり飲んで」手が震えているのは僕も母も同じだった。何とか動揺する心を隠し、静かに体を起こすと、頭にお盆でも乗っていたのかというほどに涙が不意にこぼれ落ちた。周りの大丈夫か、どうした、といった言葉達が薄ぼんやりとして距離があるように感じる。まるで心だけをどこかに置き忘れてきたようだ。普段の僕を思い出すように、取り繕って無難に応えを返す。近しい友人達や、近所の人々が涙したり歓喜の言葉を口にし、お礼を言う母の涙を見ると、それに呼応するように胸に何か重いものが沈んだ。僕だけだ、この心暖かい島の人々の中で、この母の涙の前で、僕だけが違う涙を流している。僕の心だけは、この温もりの中には無いのだ。そうなった時、指先から胸の奥まで温度が下がるのを感じた。



学校のチャイムが鳴ると同時に門を閉め始めると、それを見た学生が慌てて叫びだす。勿論お構いなしに門は閉めていくが、あいにく広く、かつ重いため難なく入られてしまう。
「先生、残念でした。じゃあ教室でね」二人揃って呑気に歩く後ろから声を掛ける。
「鳴沢、榎本、今のはホームルーム開始のチャイムだから遅刻だな」
「ホームルーム始まった時に教室にいたらセーフでしょ。先生教室にいないし」そういって逃げるように走っていった。
「そういうなら正真正銘遅刻にしてやろうじゃないか」あいつらには残念だがもう準備は持っている。教室へと足早に駆けていく。
「はい、鳴沢、榎本遅刻」ガラッと開く扉の音と同時に言う。
「ちょ、何でもういるの!」口をあんぐりと開けて、驚いたまま叫ぶ。どうやらまるで予期していなかったらしい。
「先生を舐めるなよ」
「先生が廊下走ったら駄目じゃん」
「いき切らしてるお前らに言われたくないな」
「でも駄目でしょ」
「先生はいいの」教室から飛ぶ野次を無視し、仕事に入る。毎日毎日元気な生徒を相手にするのは中々骨の折れるものである。それでもまずまず退屈せずに日々を過ごせる事にはそれなりに感謝している。
そして十年が経った今でも、仕事終わりの僅かな時間と、休日の間はこの場所で過ごしている。何も変わらずに海を眺めている。ただ一つ違うことは、石碑を挟んで二つ、椅子を並べていることくらいだ。
「本当にあの時から変わらず、この海は綺麗なまんまだな」そう呟いて、持ってきていた本を読み始める。
「ねぇ、海が好きなの?」階段の反対側から声が聞こえる。本が地面に落ちる音より早く振り返ると、椅子に顎を乗せた小さな女の子が首を傾げていた。白いワンピースを着た、紅い髪の、小さな小さな女の子。口を押さえながら震える声で、好きだよ、と答えると女の子は言った。
「私のお母さんと一緒だね!」

最果ての地より

最果ての地より

島と海の好きな男の子、湊。彼の前に現れた不思議な少女は紅い髪をしていた。彼女の持つ不思議な雰囲気に一目で心を惹かれた湊は彼女が何者かもわからないまま、ただ会える日々を幸せに感じていた。ところどころに感じる違和感。そして彼女の涙。彼の世界はそんな彼女で埋まり、手放すことが出来ず、やがて変わりゆく。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-08

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