ドラードの森(10)
「は、はい」
おれが歩き始めるのに合わせて、ゆっくり糸が引かれていく。おれは糸を引くとヨチヨチ歩くアヒルのオモチャのように、無様な格好で枝の上を歩いた。
もう限界だと思った時、向こう側の幹の穴からモフモフの顔が見えた。すぐに太い腕が伸びてきて、おれの腕をつかんで支えてくれた。
「中野さま、大丈夫でございますか」
「うん」
気になって後ろを振り向くと、黒田夫人が手すりもつかまずにスタスタ歩いて来るところだった。おれを気遣ってか、夫人は何事もなかったような顔をしている。
「さあ、行きましょう。みなさん待ってるわ」
「はあ」
われながら情けないが、体に力が入らないのだ。
モフモフは腕に力を込め、グイッとおれを引き上げてくれた。
「お急ぎください。ひと雨来そうですので」
反射的に空を見上げたが、雲ひとつない快晴である。
「ああ、違いますよ、中野さま。下をご覧ください」
そんなことを言われても、この有様で下なんか見れるわけがない。
「あら、すごいのね。雷も鳴ってるわ」
黒田夫人の言葉に好奇心をそそられ、一瞬だけ下を覗いてみた。
枝橋の下には、いつの間にかモクモクとした雲海が広がっており、その中を稲光が走っている。
「この季節はあのくらいの高さまでしか雨雲が上がって来ません。濡れる心配はないのですが、落雷の、あ、違いますね。被雷の危険があります。早く中にお入りください」
少しかがんで幹の穴をくぐると、ここも空洞に土が堆積している広場だった。木自体はグリーンシャトーがあった巨木よりは小さめで、小学校の運動場ぐらいの広場に体育館ぐらいの丸太小屋が建っている。小屋の屋根の上では、やはり風車が回っていた。
モフモフが先に進み、おれたちのために小屋のドアを開けてくれた。
「ここが両替所になります。カウンターの係にチケットを提示してください」
その前に、おれは気になることをモフモフに尋ねてみた。
「またひとつ、聞いてもいいかな」
「はい、何でしょう」
「ドラード人は森の上の方で生活していると言ってたけど、それはつまり」
「そうです。先ほど説明しましたように、わたくしたちはこのような巨木の空洞に土が堆積した広場をアゴラと呼んでいますが、そこを生活の拠点にしているのです。各アゴラ間は枝橋で網の目のように繋がれています」
ああ、何ということだろう。この先、移動のたびにあんな思いをするのか。
「中野さま、どうかされましたか」
「あ、いや、いいんだ。何でもないよ」
他のメンバーは、すでに両替所のカウンターに並んでいた。各自がツアーのチケットを提示すると、レジ袋ぐらいの大きさの袋を渡されている。袋自体は例によって葉っぱを編んだものだが、はて、中身は何だろう。とにかく、おれも列に並んで順番を待った。
カウンターの中にいるのは、葉っぱで編んだ袖カヴァーのようなものを両手につけた、少し年輩のドラード人である。
やがて、おれの順番になり、彼(?)にチケットを提示すると、大きなノートに毛筆のようなもので何か書き込んだ。
モフモフが、みんなに解説しているのが聞こえてきた。
「ドラードには、地球政府に運営を委託している宙港管制塔ぐらいしか電子機器がありません。この外貨両替所でも、記録はすべてアナログです。ドラードでは紙は貴重なもので、パピールという希少な草の繊維を梳いて作られます。残念ながら、ドラードの木々は繊維が太すぎて、紙には向かないのです。それから、筆の毛は、子供の毛が生え替わる時に採取したものを使っています」
次に、袖カヴァーのドラード人は木の玉が棒にたくさん刺さっている道具をパチパチと弾きだした。これは確か教科書で見た気がするが、名前が思い出せない。
「これはソロバンという、計算を補助してくれる道具です。ある方に教えていただいたものですが、大変重宝しています」
計算が終わると、袖カヴァーは後ろの大きな樽のようなものに袋を宛がい、樽の横から突き出している木のレバーをグイッと引いた。すると、ザラザラッという音がして、袋がパンパンに膨らんだ。袋を樽から外すと、袖カヴァーはそれをおれに差し出した。
「どうぞ」
受け取る前にある程度予想がついていたが、袋の中にはぎっしりドングリが入っていた。
モフモフの説明が続いている。
「ドラードの通貨はドングリそのものなのです。今の為替レートはおよそ日本円の百分の一程度でしょうか。つまり、一円は約百ドングリになります。最近はややドングリ安の傾向です。紙幣もありますが、あまり使われていません。一応、兌換紙幣ですので、いつでもドングリと交換できますよ」
すると、列の前方から、声が聞こえてきた。
「食べ物が通貨なんて、ずいぶん遅れてるぜ」
髭男からのそんな感想に、モフモフは笑って肩をすくめた。
「なぜでしょう。例えば、お腹が空いたとき、すぐに食べられるものが通貨である方が合理的だと思うのですが」
ドラード人にとっては合理的かもしれないが、重いし嵩張ってしょうがない。背中からリュックを下し、その中に袋を突っ込んでいると、後ろから黒田夫人に声をかけられた。
「中野さん、お願いがあるんだけど」
「え、何でしょうか」
「ごめんなさいね。このドングリなんだけど、重くてとても持って歩けないから、良かったら一緒にリュックに入れてもらえないかしら」
「ああ、もちろん、いいですよ」
先ほどの件もあるし、少しはいいとろを見せねば。
「ふん、それじゃあ、わがはいも頼もう」
「はあ」
ご主人からも言われるとは想定外だった。それにしても、今時『わがはい』とは驚いた。
ずっしりと重くなったリュックを背負ってから気付いたのだが、この状態でまた次の枝橋を渡らなければならないのだった。
(つづく)
ドラードの森(10)