My Funny Valentine
カノはヨシコさんのトランペットが好きだ。
普段あんまりしゃべらないヨシコさんは、トランペットを吹き始めると、とたんにおしゃべりになる。彼女の吹くトランペットは音楽じゃない、彼女の声だ。
それはまるで、助けを呼ぶ声のような、いままで聞いた事のない、自分の本当の声のような、そんなトランペットを吹くヨシコさんは、誰にも言えない思いを胸に秘めていた。
1 ヨシコさん
トランペットはお父さんが買ってくれた。そのお父さんとわたしは今、離れて暮らしている。お父さんが転勤しているシカゴは遠いけど、小さい頃からひとりだったわたしには、どこであろうと一緒だった。
昔から出張が多かったお父さんを、ひとりで待つことにわたしは慣れている。お父さんが週に一度は必ずくれるメールにはたまに寂しいって書いてあるけれど、わたしからは一度も、寂しいと書いたことはない。
お父さんがいないことなんて、いつものことだったし、それにわたしは、いつもひとりだったから、寂しいなんて当たり前で、なんでもないはずだった。今の家には新しい家族がいるけれど、お父さんがいないことと、わたしがひとりで待っていること。それは昔と変わらない。わたしは、昔と変わらずひとりだった。
わたしは自分の本当のお母さんを知らない。お母さんはわたしがまだ赤ん坊の頃、病気で死んだ。だからわたしにはお母さんとの思い出がない。
一番小さい頃の記憶はお父さんのピアノだった。音楽が好きなお父さんは休みの日によく、リビングのソファで絵本を読むわたしのためにピアノを弾いてくれた。
普段仕事で忙しく、なかなか一緒にいられないお父さんのお休みの日、わたしの読む絵本に合わせていろいろな曲を弾いてくれる、お父さんのピアノが好きだった。お父さんの話だとわたしは赤ん坊の頃からピアノが好きで、夜泣きするわたしをいつもピアノを弾いてあやしたそうだ。
そのピアノの上にはお母さんに抱かれた赤ん坊のわたしとそれに寄り添うように立つお父さんの写真。その写真は、わたしが中学に入り、お父さんが再婚するまでリビングのピアノの上に飾られていた。
わたしが自分の吃音を意識したのは保育園の頃だった。お父さんはもっと早くから気づいていて病院や知り合いの医師にわたしを会わせていたが、その時のわたしには自分がなんのためにその人たちに会っているのかわかっていなかった。
わたしは月に一回お父さんと一緒に地域のことばの教室に通い始め、呼吸やおしゃべりの練習をするようになると、自分のおしゃべりと他の人のおしゃべりの違いを意識するようになった。ことばの教室の指導で毎晩、お父さんと一緒に絵本を声に出して読んだ。ひとりで読むとつっかかるのに、お父さんと一緒に読むと読みやすかった。
誰かが助けてくれると思うと安心して読めたけど、あの頃のわたしはお父さんの話や音楽を聞いたりしているほうが好きだった。
ある日、お父さんがわたしにトランペットを買ってきた。子供用のポケットトランペットだった。その金色の短いトランペットをわたしは喜んだ。わたしの小さい手にもぴったりだったし、あんなかわいい楽器を見るのは初めてだった。
お父さんは、わたしが音を出せなくてすぐ飽きてしまうと思っていたようだけど、わたしはその夜のうちに音を出した。はじめは無闇にただ息を吹いているだけだったから何の音も出せなかったが、きちんとお腹から息を出してみると、少しの息でも簡単に音が鳴った。ことばの教室で習った腹式呼吸と同じだった。
はじめて音が出た時はうれしかった。おならみたいな変な音だった。自分の出したその音がおかしくてトランペットを吹いては笑い転げた。まったく音が出せないお父さんを前に、わたしは得意になって吹き続け、その夜はトランペットと一緒に眠った。
自宅で吹くには大きすぎる音が出るその楽器を練習する為に、お父さんはわたしを近所の音楽教室に通わせてくれた。初めはお父さんと一緒に通っていたけど、慣れてくるとひとりで通うようになった。トランペットと譜面を入れるバックはその頃のわたしには重かったが、ひとりで通う自分と黒い楽器ケースが大人っぽくて、誇らしかった。
幼稚園に入ると自分の言葉のつまりに対する他人の目が気になるようになった。吃音を知らない子は驚き、めずらしがり、おもしろがり、飽きるとおしゃべりの邪魔だと迷惑そうな顔をした。吃音を友達に真似されることもあったけど、わたしはそのことをお父さんに言ったことはなかった。心配させたくなかったからじゃなく、早く忘れたかったからだ。お父さんに言うためにはもう一度、自分がその日言葉に引っかかったことを思い出さなくちゃならない。それがたまらなく嫌だった。
一度言葉に引っかかると、引っかかることを恐れるあまり緊張してよけいうまくしゃべれなくなる、わたしは、そんな自分をもう一度思い出したくなかった。家の中ではせめて、自分の吃音を忘れていたかった。
家ではちゃんとしゃべれても、幼稚園ではうまくしゃべれない。慣れていない友達が近くにいると思うと、その友達にわたしのおしゃべりが聞こえていると思うとそれだけで緊張した。つまりそうな言葉を避けたくて、言葉を選ぼうとすると何も浮かばなくなって、頭の中が真っ白になった。
ことばの教室では、もし緊張してしまいそうな時には腹式呼吸をするように言われていた。だけど、それでもダメな時にわたしは、自分のトランペットの音を思い出すようにしていた。
音楽教室は楽しくて、個人レッスンの先生は美人でやさしくて好きだった。いつも次の教室が待ち遠しかった。家で楽譜を眺めていると、教室で出した自分の音が頭の中で鳴った。そんな時わたしはマウスピースだけを口に当てて、指でバルブを動かした。早く吹きい、思い切り吹きたいと思った。消音ミュートを持っていなかったわたしが我慢出来ず、布団を被ってトランペットを吹くと、それでも大きな音が出ていて驚いたお父さんが飛んできた。
音楽教室に通い始めて数ヶ月すると簡単な曲が吹けるようになってきた。練習は大変だったけど、少しずつ上達していく自分がうれしかった。楽譜を見て指が自然に動いていくようになり、身体からトランペットを通じて吐き出される自分の息を、音として耳で感じると、自分自身が楽器になった気がした。
幼稚園の最後の年のクリスマス会で、わたしは初めてみんなの前でトランペットを吹いた。吹く前はどきどきしたけど、こわくはなかった。それよりも、早くみんなにトランペットを聞かせたいという気持ちのほうが強かった。
あの日、暗い幕の後ろでどきどきしながら舞台が開くのを待っていたわたしは、生まれて初めて人の前に出ることを楽しみに感じて、手のひらにかいた汗を天使の白い衣装で拭いた。
キリスト様の劇の幕が開くと小さなステージの上で、天使の格好をしたわたしはトランペット・チューンを吹き始めた。仲のよい友達やいじわるな子たち、見にきていたお母さんたち、みんなが驚いた顔でわたしを見上げていた。暗くした幼稚園の大部屋の中で、わたしにだけライトが当たり、わたしの金色のトランペットは誇らしげに鳴った。
あの時わたしは、わたしのもうひとつの声を見つけた。
2 カノ
中二の時に母親にギターを買ってもらいずっと一人で練習していたカノは、高校に入ると迷わず軽音楽部に入った。カノは仲間が欲しかった。
ひとりで練習するのにも飽きてきていたし、音楽の話が出来る友達が欲しかった。女子校の軽音楽部の新入部員は少なかったが、そこでナオミに出会った。
歓迎会で先輩バンドの演奏を聞いた。カノは単純に上手だと思ったが、いかにも女の子が好きそうな曲ばかりで、カノの好みと全然違った。その時隣に座っていた同じ新入部員のひとりがカノに、ヘタだね、と話しかけてきた。カノは聞こえるんじゃないかと思いびっくりしたが、演奏が終わり、一番最初に拍手をしたのはそのナオミだった。その時ナオミは楽器をやっていなかったが、2人は音楽の趣味が合った。ナオミはテキトーな感じのヤツだったがカノには話しやすくて2人はすぐに親しくなった。
ナオミは軽そうな外見と違い、古いロックを聞いていてカノが知らないようなバンドも知っていた。ナオミの音楽の趣味はアマチュアのバンドでベースを弾いている兄の影響だった。ナオミが兄のベースで練習を始め簡単な曲が弾けるようになると、2人はナオミの家で一緒に弾くようになった。
ナオミの家は大きくて立派だったが部屋は汚くて服や雑誌が床いっぱいに散らかっていた。服を踏んで歩くしかなく、「汚すぎだよ。」と言うカノにナオミは「まーね。」と平気な顔で答えた。2人一緒に弾いてみるとそれらしく聞こえてきて、その気になってギターを弾きながら歌うカノのデタラメな英語をナオミは笑った。
最初は楽器で遊んでいるようなものだったが、一緒に弾くようになり上達していくと、人と一緒に演奏することが楽しくなり、2人は次第に真剣になっていった。
ギターとベースだけでは物足りなくなりドラムを探し始めたが、軽音楽部の中でもドラムの人は少なく取り合いになっていて、出来れば同学年のほうがよかったが、最悪軽音の先輩でもいいかとカノが思い始めた頃、ナオミがエッちゃんを見つけた。
エッちゃんは同年で吹奏楽部で打楽器をやっていたが、小学校の時にドラムの経験があるのをどこかでナオミが聞きつけた。2人はエッちゃんのクラスまで度々出向いて、一度でいいから一緒に練習して欲しいと何回もたのみにいった。
エッちゃんは大人しくて控えめに話す子だったがいつも笑顔だった。遠いクラスから昼休みの度に現れるカノとナオミをエッちゃんの友達たちは不信そうな顔で見たが、エッちゃんはいつも笑って迎えてくれた。
あまりロックを聞かないエッちゃんが好みそうな曲を選んでCDを作って聞いてもらった。なんとか気に入ってもらおうと必死になった。カノはエッちゃんを逃したくなかった。バンドの楽しさを、自分たちとやるのがいかに楽しいかをわかってもらいたかった。
エッちゃんを逃すとあとは軽音楽部の先輩に頼むしかなかったが、部のドラムの人はすでにいくつものバンドを掛け持ちしていて、カノたちのような練習バンドに付き合ってもらうのは気が引けたし、お願いして頼むのも面倒だった。
先輩に気を使いながらやりたくなかった。掛け持ちでやって欲しくなかった。一緒に楽しくやりたかったから、無理に頼みたくはなかった。だから、エッちゃんがカノたちのCDを気に入ってくれなかったら諦めようと思っていた。
カノたちの趣味からすると少し抑えめな選曲で作ったCDを渡した次の日、エッちゃんはその曲たちをステキと言ってくれた。
部室で3人で合わせてみると、ドラム経験者で吹奏楽部の大人数での演奏の経験もあるエッちゃんのドラムは最初から上手かった。
エッちゃんは他の人と一緒に演奏することに慣れていた。カノたちが好む古いロックのドラムは単純で、エッちゃんは余裕だと言った。昔買ったドラムパットをたまに叩いていると言うエッちゃんのドラムは安定していて、カノたちが速くなりそうになってもそれに釣られなかった。
ドラムが入ると急にバンドらしくなった。今までカノと一緒にギターを弾くようにベースを弾いていたナオミは、ドラムが入るとリズムを意識するようになった。いきおいだけでどこへ行くかわからない2人の演奏を、エッちゃんのドラムがうまく収めた。それはバンドとしての3人の関係にも作用した。2人だけではだらだらしていた練習も、エッちゃんがいると思うと引き締まり、ナオミでさえ時折真剣な顔を見せるようになった。カノたちがやる気を見せると、エッちゃんはそれに答えてくれた。
エッちゃんはこれからもやってくれそうだった。曲がうまく演奏出来ている時、3人の気持ちが同じ方向に向いているのがわかった。楽しいと思う気持ちを他の2人も感じていると、カノは何の疑いもなく確信できた。
かっこよく決まった時、カノはたまらず、Yes!と大声で叫んだ。それをナオミも真似をした。我ながらうまくいったと思うと、2人はYes! Yes!と叫び合った。カノたちと一緒にバンドを始める前は大人しくて声も小さかったエッちゃんまでがYes!と大声で叫んだ時、カノはうれしかった。クラスの友達とも、地元の友達とも違う、こんな仲間は今までいなかったと思った。
3人は部室で日が暮れるまで練習した帰り、よく駅前のマクドナルドに寄った。練習の後はお腹がすいて家まで持ちそうもなかった。
カノはそのマクドナルドの二階の窓際の席から見える景色が好きだった。駅前のロータリーを挟んで改札まで見渡せるその席からは、バス停に並ぶ生徒たちや改札に入っていくたくさんの人たち、その中に知っている顔がいたりして、みんなが帰る姿を少し上から見下ろしているのが楽しかった。早く帰ればいいのに、帰りを急ぐ他の子たちよりも、寄り道して、そこにだらだらいる自分たちのほうが楽しい時を過ごしている、有意義に時間を過ごしている気がした。
初めは控えめにカノたちの話をただ聞いていたエッちゃんは、慣れてくるとよくしゃべるようになり、たまにひとりでしゃべり続けている時もあった。エッちゃんの家はパン屋で、閉店前に帰ると手伝わさせられるから早く帰りたくないと言った。ナオミは、家が自営なんてうらやましい、楽しそうだ、と言ったが、カノは自分の家も自転車屋なのでエッちゃんの気持ちが少しわかった。家の生活費や学費などがすべて、自分の部屋の下の店舗から生み出されていると思うと気が重くなるときがあった。カノが自分の部屋にいると母親が発する、ありがとうございましたー、の声がいつも聞こえた。父親が客に頭を下げて、パンクの修理代を貰っている所を見たくなかった。どこか他の、知らない所で働いていて、それを目にすることなく暮らしているサラリーマンの家庭がカノにはうらやましかった。
よくしゃべるようになったエッちゃんは、自分がクラスの友達と打ち解けていないと言った。一見楽しそうに話していたが本当はそうでもないみたいだった。
吹奏楽部ももう辞めようと思ってんだ、なんか人間関係めんどくさくてさ、結局みんなうわべだけだよ、と言って遠い目をしたエッちゃんはそんなに深刻そうでもなかった。自分は見かけほどマジメじゃない、と打ち明けるように言ったエッちゃんは、聞いてもいないのに中学時代に彼氏がいた、高校が別になってからは会っていないとカノたちに話した。彼氏が欲しいとも言った。そんなエッちゃんに今度男を紹介すると約束したナオミは、その約束をすぐ忘れるだろうとカノは思った。
そろそろ帰んなきゃ、と言って先に駅に向かったエッちゃんを2人は二階のその席から見ていた。カノより背が小さいエッちゃんの後ろ姿は、改札に向かう大勢の大人たちの中では子供みたいに見えた。
何も言わずにそれを見ていたカノにナオミは「あいつはうちらに憧れてんだよ。」と言った。なんでこいつはこんなに偉そうなんだ、とカノは思ったが、さっきまでカノの隣に座って楽しそうに笑っていたエッちゃんの小さい背中が改札の人ごみの中に消えていくのを見ていると、そんな気もした。
3 ヨシコさん
小さい頃からお父さんに似ているとよく言われたわたしの背は、長身のおとうさんに似てぐんぐん伸びた。クラスではいつも一番背が高くて男子によく、男だ、とからかわれた。それが嫌で猫背になりがちになったわたしは、お父さんによく注意された。音楽教室の先生にも姿勢のことを指摘された。
お父さんの肩車が好きだった。お父さんの肩に乗ると、見慣れた風景も違って見えた。大人の、お父さんの目線。自分も早く大きくなりたいという願いはかなったけど、やさしくしてくれる友達を見下ろすその景色は、お父さんの肩の上からの見晴らしほど気持ちのいいものではなかった。
わたしは小さい頃からおとうさんのことが好きだった。友達のお父さんはいつもわたしにやさしくしてくれたけど、わたしのお父さんのほうが背が高くて、他のお父さんのように太っていなくて、それに、ほかのお父さんみたいには、わたしを子供扱いしなかった。
わたしの吃音は小学校に上がる頃にはほとんど出なくなり、言葉の教室にも行かなくなった。周りの人たちは次第にわたしの吃音を忘れていったけど、完全に直ったわけでなかった。
音楽の授業が好きだった。クラブ活動の吹奏楽部も嫌いじゃなかった。譜面が読めるわたしには初めから出来ることが多くて不安も少なかった。
同い年の子たちよりも、音楽教室の年上の友達たちと一緒にいるほうが気が楽だった。おしゃべりな同い年の女の子たちが苦手で、クラスの子たちと遊ぶより、ひとりでいるほうが楽しかった。
トランペットを吹いているときが一番自分に自信を持てたわたしは、いつもマウスピースをポケットに入れて学校に行った。不安なとき、緊張しそうなときには、マウスピースを握りしめた。冬の寒いとき、冷えきって冷たくなっているマウスピースに少しずつわたしの手の温もりが伝わり暖かくなっていくと、わたしの緊張した心も少しずつ和らいでいった。
わたしが高学年になるとお父さんは以前より仕事で家を空けることが多くなった。家政婦さんが来ている間は家にいて欲しいとお父さんに言われていたわたしは、彼女たちが来ている間中、自分の部屋に閉じこもっていた。
わたしはその人たちが苦手だった。家に家政婦さんが来ている時だけ、寂しいと感じた。彼女たちと話すと吃音が出てしまいそうだった。家政婦さんはよくわたしに、ひとりでエライわね、と言った。わたしはただ、自分の家にいるだけなのに、他の子となんにも変わらないのに、かわいそうな目で見られると自分が本当にひとりぼっちのような気がしてきた。
だから、わたしはお父さんにお願いをした。家のことは全部やるから、もう自分で出来るから、だからもう、家政婦さんを断って欲しいと。
あの時お父さんを前にして、最初は普通に話せていたのに、途中で家政婦さんの顔が思い浮かんだら涙が出てきた。ゆっくりしゃべれば、詰まらないでしゃべれる。落ち着いて話せば引っかからない。相手の目を見ないようにすれば、そうすれば緊張しない、わかっているのにあの時は、何も言わずわたしを見つめるお父さんの目を見ながら話していた。
感情が高ぶってきて早口でしゃべり続けた。言葉に詰まりながら、つばを飛ばしながら、あんなに一生懸命になって何かを頼んだのは初めてだった。今まで必死に隠そうとしてきたわたしの吃音が、普段押さえ込んでいた気持ちがあふれ出てきた。
お父さんはいつも、わたしが言葉につまっても何も言わず、わたしが話し終わるまで黙って聞いてくれた。その時も、わたしが話し終わるまで何も言わず聞いていたお父さんは、ちゃんと栄養のあるものを食べること、ちゃんと鍵をかけて、火の元に気をつける、何かあったらすぐ連絡するように、とわたしに念を押して家政婦協会に電話をしてくれた。
その日からわたしは、家の隅々まで掃除をした。帰ってきたお父さんが驚く顔を想像しながら、家政婦さんがやらなかった家の周りまで掃除をした。遅く帰るお父さんのために、夕食をリビングの机の上に置いておいたりもした。出張が多くなり、たまに帰ると寝てばかりのお父さんの部屋はあまり汚れていなかったけど、タバコの匂いのする部屋の窓を毎日開けて空気を入れ替えた。
お父さんの部屋には古いレコードがたくさんあった。わたしにはわからないジャズのレコードばかりだった。適当に選んで大きい音で聞きながら部屋や廊下を掃除していると、聞き覚えのある曲があった。昔よくお父さんがピアノで弾いていた曲だった。わたししかいない、からっぽの家の中に響くその曲を聞いていると、あの頃がもう、戻らない思い出、過ぎてしまった時間のように思えてきて、少し寂しくて、心地よかった。
最近ピアノに触らなくなったお父さんはまだ、この曲を覚えているのだろうか。
ピアノの上の、わたしの本当の家族の写真、その中でやさしそうに笑っている女の人とお父さんは、一緒にこの曲を聞いたのだろうか。
数えきれないほどあるレコードをひとつひとつ聞いていくと、お父さんの心の中を覗いている気がした。わたしの知らない昔のお父さんがその中にいた。
一日中聞いていた。テレビを見るよりも、マンガを読むよりも、お父さんのレコードを聞いているのが一番楽しかった。
お父さんの部屋から流れ出て、誰もいない、わたしひとりしかいないこの家の隅々まで広がっていく音楽たちは、自分でも手の届かない、わたしの心の奥のほうまで届くようだった。
あの曲は、きっとお母さんが好きだった曲、その曲をわたしも好きになったと言ったら、お父さんは喜んでくれるだろうか。
そんなことを考えながらわたしは、ひとりっきりの家でジャズにはまっていった。
いくら家中を掃除しても、わたしはお父さんの奥さんの代わりにはなれないとわかったのはわたしが中2になった春の夜、お父さんから付き合っている女の人がいると聞かされた時だった。あまり驚かなかったわたしにお父さんは、今度会って欲しいと言った。
わたしはその人を知っていた。以前家の前に止まった車の中で、運転席の女の人とお父さんがキスをするのを、わたしはお父さんの部屋の窓から見ていた。あれはわたしの知らないお父さんだった。
レストランで3人で会った。きれいな人だった。緊張して笑えないわたしを気遣ってくれた。でも、お父さんとお似合いだとは思わなかった。彼女は写真の中のお母さんとまったく違うタイプだった。
その日の帰り道、再婚したいと思っている、とお父さんは言った。お前はどう思う、嫌なら嫌と言っていいから、正直に言っていいんだからと言われて、出張が多くて疲れきって家に帰ってくる、夜遅く帰ってきてひとりリビングでテレビを見ているお父さんにわたしは、本当は嫌なのに、嫌とは言えなかった。
わたしは寂しくても平気だと思ってたけど、お父さんには平気じゃなかったのかもしれない。はじめてお父さんとの距離を感じた。
わたしが家を掃除している間、時間を忘れてレコードを聞いている間に、お父さんは新しい恋人と会っていた。2人だけの家族は、違う時間を過ごしていた。
この家にはお父さんとふたりだけでいいと思っていたのは、ずっとこのままでいいと思っていたのは、わたしだけみたいだった。
新しい母親には子供がいた。わたしより2歳年上の男の子だった。突然、家族が2人増えた。
新しく出来た家庭は順調に見えた。周りの家からはまるで、以前からずっと家族だったみたいに見えたかもしれない。あとは、わたしが母をお母さんと呼べば、兄をお兄さんを呼べば、お父さんの作った新しい家族は完成だった。
でもわたしは、その新しい母を、お母さんと呼ばなかった。
その時わたしは、お父さんが好きになったその女の人を家族として受け入れられるほどには大人になっていたが、そのお父さんの恋人を、お母さん、と呼べるほど大人でもなかった。
いつかは、お母さん、と呼ばれると思っているあの人のことをわたしは名前で呼び続けた。新しい母をいつまでも名前で、さんづけで呼ぶわたしにお父さんは何も言わなかった。お父さんはわたしが何も考えずに、彼女をお母さんと呼ぶと思っていたのだろうか。わたしが再婚に反対はしなかったのは、お父さんの為だ。お父さんがさびしいと思うから、お父さんの恋人がこの家に入るのを認めた。でも、そのお父さんの彼女をお母さんだとは呼びたくなかった。お父さんの為に、彼女を、お母さんと呼んでもいい、いいけど、もし、そう呼んでしまったら、今はわたしの机の上にある、本当の家族の写真の中のお母さんが悲しい顔をしそうで、呼べなかった。
4 カノ
軽音楽部の部室は地下食堂と呼ばれる場所にあった。学食のある建物の地下へ向かう階段を降りていくと、生徒の間で地下食堂と呼ばれている日の差さないがらんとしたスペースの端に、ベニヤで囲われただけの軽音楽部の部室があった。
高校に入って最初の夏休み、カノたち3人は練習に明け暮れた。夏休みにその地下食堂の部室に練習にくる部員はカノたちだけだった。
せっかく夏休みなんだから海とかどっか行ったら、と母親に言われても、カノはどこにも行きたくなかった。毎日勉強をしないで好きな事だけをしていられる夏休みがうれしかった。クラスの他の子たちが何をして夏休みを過ごしているかなんて、考えもしなかった。そんなことよりも、バンドのレパートリーを増やすことのほうが大切だった。他の軽音のバンドはスタジオを借りていたが、金がないカノたちは夏休みの間、冷房のない地下食堂で練習をした。他の2人はたまにはスタジオで練習したいと文句を言ったが、カノは暑くてうす暗いその地下食堂が好きだった。
夏休みの初日、いつも寝坊するカノは、学校がないと思うと目覚まし時計よりも早く目が覚めた。暑いと思いながら目を開けると昨夜開けっ放しで寝た窓からはすでに、夏の光が差し込んでいた。もう寝ていたくなかった。普段なら目が覚めてもずっと横になっていたいのに、学校にバンドの練習だけに行くと思うと、早く登校したくてうずうずした。
起き上がると自分の汗の匂いと、カーテンを揺らす風は向かいの公園の緑の匂い、いつもはただうるさいと思う階下の店舗から聞こえる自転車のベルも、その朝はさわやかに聞こえた。
待ち合わせの時間より早く着いたカノは、人のいない夏休みの学校を歩き回った。普段は制服の生徒たちでいっぱいの中庭は見渡すかぎり誰もいなくて、夏の太陽に焼かれて熱くなった校舎も、誰も歩かないコンクリートも、いつもと違う匂いがした。昼が近づいて頭の上に来た日差しが強くなると、姿の見えない蝉たちが激しく鳴いた。目に見えるものすべてが明るくて、はっきりと見えた。
運動部の引いたラインが残る校庭には誰もいなくて、焼けた土の匂いがした。昨日終業式で全校生徒が整列していたのが嘘みたいだった。
校庭の隅の水道を思い切りひねると、熱くなった水が音を立てて吹き出し、すぐに冷たくなるとカノは、汗が流れる自分の顔を洗い、そのまま水を飲んだ。蛇口を閉め、身体を起こしたカノが校庭の塀に並ぶ木々を見上げると、蝉の音が一瞬止んだ。
その時カノは、時間が止まったような気がした。
いつも軽音の先輩たちがたむろしていてタバコ臭い地下食堂は普段からあまり近寄る人もいないが、夏休みにそこを訪れる人はカノたち3人だけだった。
日の差さない地下食堂は意外にヒンヤリしていたが、一時間も練習をすると汗が噴き出した。ナオミはダルいと言ってタバコを吸い、汗だくになったエッちゃんは次の日から体操着でドラムを叩いた。
誰も来なかった。暑くて裸足になって、シャツのボタンを全部はずしたまま練習していても、誰にも見られるはずがなかった。その地下食堂は夏休みの間だけ、カノたちだけの場所だった。
練習の合間、外のベンチで消火バケツに水を張って足をつけていると、遠くのテニスコートでボールを打つ音や、プールの水しぶきの音がかすかに聞こえた。頭のてっぺんの髪の毛をジリジリと焦がすような夏の日差しが気持ちよくて、何もしていないのに楽しかった。部室の古いコンポで音楽を思いっきりかけても、誰にも文句は言われなかった。
3人にとって初めの目標は文化祭だった。文化祭でのステージに向けて必死で練習した。カノはその文化祭をただの出し物で終わらせたくなかった。何かの始まりにしたかった。6月にバンドを組んで三ヶ月、9月の文化祭には先輩たちのバンドに負けないくらいになれるとカノは思っていた。
夏休みの間は毎週練習して、毎日のように顔を合わせた3人は、休みが終わりに近づいた頃、合宿だと言ってナオミの家に泊まった。ビールを飲んで酔っぱらって夜中近くの公園にギターを持っていって大声で歌った。外で弾くギターは部屋で弾くのと全然違い音が響かなくて、風に流れるカノの歌は、いつもよりヘタクソに聞こえた。
夜の公園は誰もいなく、止まない3人の声の間に、虫の音が響いていた。
その日は3人とも酔って床に雑魚寝をして、次の日カノは初めて二日酔いになった。
夏休みに今まで以上に仲が良くなったはずの3人も、バンド名を決めようということになると意見が合わなかった。ナオミの考えたバンド名はどれも暴走族みたいだった。エッちゃんのはかわいかったが、いかにも女の子っぽくてカノの好みと違った。フツーじゃない感じのバンド名がいいと思うカノには以前から考えていたものがあった。3人だけのバンドは軽音でも自分たちだけだったし、目を引く名前がいいと考えた「ミツドモエ」というバンド名をカノはかわいいと思ったが、ナオミは「どこが?」、エッちゃんは「わからない。」と言い、結局決まらなく保留になったが、文化祭のエントリーの時にカノが勝手にミツドモエで書き込んだ。後で2人に文句を言われたが、文化祭の時だけ、と言って許してもらった。それからなんとなくそのバンド名になった。
文化祭の前日、カノは眠れなかった。その日リハーサルで初めて体育館のステージに立つと、見慣れた体育館がいつもより広く思えた。
ステージに向けられた沢山のパイプ椅子に顧問の先生や軽音の部員たちが座って順番を待っていた。もし明日、あのパイプ椅子にたくさんの生徒が座ったらと思うとアガってきたカノは、平気そうな他の2人にわからないように足を震わせた。
PAを通してやるのも初めてだった。事前に顧問から音響についての説明があったが、結局はPAの人の言う事を聞けというものだった。外の業者に頼むからどんな人が来るのかただでさえ不安なのに、くれぐれも余計な事をしないようにと顧問に釘を刺されるとカノは余計不安になったが、その日来たのは自分もバンドをやっていると言う愛想のいい兄ちゃんで、女子校に初めて来た、とニヤニヤしていた。
ちゃんとPAを通してもらうと地下食堂で適当につないで出していた音よりもちゃんと聞こえた。人見知りしないナオミがその兄ちゃんと親しくなり、女子高生なのに渋いロックを好むカノたちを面白がってくれたその兄ちゃんは、カノがアンプの調節がわからないと言うとセッティングの仕方を教えてくれて、もっと力を抜いてカッティングしたほうがいいよ、とアドバイスしてくれた。
当日の朝、3人は軽音の部室の前に集まった。ナオミはテンションが高く、いつも以上に饒舌だった。エッちゃんは「きんちょうするー。」と言いながら朝ご飯に持ってきたパンを食べていた。
緊張でまったく眠れなかったカノは気持ちが悪くてなにも食べたくなかった。口の中が乾いて水ばかり飲んだ。当日に地下食堂で最後の練習をしようと思っていたが、部室では先輩たちがお祭り気分でステージの衣装に着替えたりメイクをしたりしていて、練習をする雰囲気ではなかった。制服のまま出るつもりのカノたちは楽器だけ置いて外に出ると、なんだあれ、かっこわるい、と悪態をついた。エッちゃんが自分のクラスの模擬店の手伝いにいってしまうと残された2人は初めての文化祭を見て回ったが、カノは出番の時間が近づくにつれてそわそわして何を見ているのかわからなかった。
ステージの袖から前のバンドの演奏を見ていたカノは思っていた以上に緊張してきていた。歌詞を忘れたらどうしよう、出だしのキーを間違えるかもしれない、考え出すと失敗することしか思い浮かばなくなり、今さら不安だと2人に言う事も出来ないカノが手にかいた汗を何度もスカートで拭っているとナオミが「顔が青いんですけど」と意地悪く笑った。何か言い返そうとしたカノの乾いた喉にタンが絡まった。いつも絶妙なタイミングでヤなことを言うナオミをカノがにらむと、ナオミは今まで見た事もない真面目な顔で「引っ叩いてやろうか?」とカノに言った。
少し躊躇してから「うん」と言った途端、カノは叩かれた。横で見ていたエッちゃんは何も言わず、心配そうな顔で自分が叩かれたように頬を押さえた。
ステージから前のバンドが終わった拍手が聞こえた。カノはありがとうとナオミに言うかわりに床に唾を吐いて、ストラップを掛けギターを構えた。ナオミのビンタは痛かっただけで緊張はほぐれなかったけど、めずらしく心配してくれたナオミの気持ちがうれしかった。
3人がステージに出て行く。マイクスタンドの前に立ってもカノの頬はまだヒリヒリしていた。客は結構入っていたがほとんどがカノたちの後の先輩バンドの客だった。文化祭に出る一年生バンドはカノたちだけだった。
モニターからナオミがベースを鳴らす音が聞こえた。カノもエフェクターにジャックを差し込み、PAの兄ちゃんが教えてくれた通りにセッティングをした。
エッちゃんが鳴らすバスドラのキック音がカノのからっぽの胃袋にひびく。ナオミが自分の一番好きな曲のリフを軽く弾いた。ナオミは最後にやるその曲が楽しみなんだろうとカノは思った。エッちゃんのスネアのロールがいつもよりかっこよく聞こえた。エッちゃんのドラムは先輩バンドのドラムよりも上手いことが、その日改めてわかった。この時ほど2人を頼もしく感じたことはなかった。
ギターを鳴らしてPAのほうを見ると、兄ちゃんが笑顔で頷く。この日のためにずっと練習してきた。今までの成果を見せる時だった。カノは後ろを向いて声を出し、最初の曲のキーを確かめる。カノは一番好きな曲を最初に持ってきた。歌とギターで始まる曲だった。ギターを始めた頃、この曲を弾けるようになるのが最初の目標だった。ナオミとエッちゃんは音を出すのを止め、カノが弾き出すのを待っていた。
カノが2人を見て息を吸い込むと、夏の地下食堂の匂いがした。カノはその匂いを鼻の一番奥まで吸い込むと、それを吐き出すように歌い出し、思い切りギターを鳴らした。
5 ヨシコさん
出なくなっていたわたしの吃音は、新しい家族がこの家に来てから又、出始めてきていた。あの人たちとしゃべると、緊張した。
新しい母親は明るい人だった。その息子も同じだった。わたしが一番苦手な、つまらないことを楽しそうに大声でしゃべり、それに笑わないひとをつまらないやつだと決めつける、クラスにひとりはいるタイプだった。
その2人のおかげで突然、家の中が明るくなった。その明るさは、家の隅々まで照らして、わたしが光を当てて欲しくない部分にまで無理矢理光を当てた。
新しい母親はやさしい人だった。彼女はわたしが言葉につまり出すと、「焦らなくていいのよ。」「落ち着いて。」と言い心配そうな顔をした。普通の話をしているのに、別にかわいそうな話をしているわけではないのに、気の毒そうな顔でわたしを見た。それが彼女のやさしさだった。彼女はわたしの話し方を聞いているだけで、話している内容は聞いてはいなかった。
新しい兄は親切な人だった。彼はわたしが話し終わるのを待たない。わたしが言葉につまると、つまった言葉の先にある、わたしの言いたいことを勝手に考えて、わたしより先に言った。それが彼のやさしさだった。わたしが言おうとしていること、それをわたしより先に言ってあげること、それが彼の考える親切だった。
あの2人が勝手に考えたわたしの言いたいことが、わたしが本当に言いたかったことと同じ時も違う時もあった。でも、どちらにしても、2人がわたしより先に言ったわたしの言葉は、わたしの声ではない。わたしが話した言葉でなければ、わたしの口から出た言葉でなければ、わたしの本当の声ではない。それは、2人が勝手に作り上げた2人の中のわたしだ。
せめて、わたしの話を最後まで聞いて欲しい。わたしが言い終わるまで待って欲しい。最後まで聞かないくせに、あなたの言いたいこと、お前の考えてること、あなたのその気持ち、俺わかるよ、という顔をしないで欲しい。
あの人たちは、人と話すときに、相手のことを考えない。相手が自分に合わせてくれるのを当然だと思っている。自分のリズムに、自分の歌い方に絶対の自信を持っている。自分が正しいと思い込んでいる。
でも、あなたたちの一秒とわたしの一秒は違う。みんな、みんな、自分のリズムを持っている。それなのにあなたたちは、自分たちのリズムでわたしを歌わせようとする。
あなたたちのリズムをわたしに当てはめないで欲しい。あなたたちをわたしに押しつけないで欲しい。
わたしはわたしの言い方で話している。これがわたしなのに、わたしがお腹の底から必死で出したわたしなりの歌なのに、最後まで聞かないで、わかったふりをしないで欲しい。
わたしは、学校でもあまり友達に近づきすぎないように、嫌われない程度にそっけなくすることで、自分なりの関係を築いてきた。それなりに親しい友達も作った。そんな、やっと身につけたわたしのリズムは、あの人たちがこの家に来てから狂ってきていた。そして何も言わないお父さんは、それを見て見ぬ振りをしているとしか思えなかった。
お父さんは何も言わなかった。何も言わないということは、新しく出来たこの家族を、生まれたときからこの家族だったと思えと、この女から生まれてきたと思えと、と言っているようにわたしには思えた。
4人の家族がリビングで、楽しそうに笑う。その中のひとりであるわたしは、他の3人がなぜ笑っているのかわからないのに一緒に微笑んでいる。新しい母か新しい兄か、そのどちらかが言ったことにわたしが微笑みながらお父さんを見ると、お父さんも笑っていた。
お父さんはなぜ笑っていたのだろう。わたしが微笑む顔を見て笑っていたのだろうか。心の中では全然微笑んでいないわたしの微笑む顔を見て笑ったのだろうか。全然可笑しくないけど、新しい家族たちのようにわたしもちゃんと笑ったつもりだったのに、それがそんなに変な顔だったのだろうか。
わたしは、自分がどんな顔で笑うのかわからない。昔知っていたのに忘れてしまったのかもしれない。だってわたしは、鏡で自分の笑っている顔を見たことがない。遠足や修学旅行の写真でも、集団が苦手なわたしは、楽しそうにはしゃぐ他の生徒たちの端で、ただカメラのほうに目を向けていた。それがわたしが思う、わたしの顔だった。
学校では自分のために笑った。仲間はずれにならないためには、みんなと一緒に笑うことが必要だった。他の友達たちが可笑しいことはわたしも可笑しいとみんなに思わせなければいけなかった。一緒に笑うことでみんなの輪の中にいるわたしの存在を主張しなければいけないのが苦痛だった。
わたしは、自分を主張するために必要な言葉が、みんなみたいには十分に使えない。だからわたしは微笑んだ。何も言わずに微笑めば悪いようにはならなかった。無口なやつだと思われようとも、嫌なやつだとは思われなければそれでよかった。友達たちが何か言って、わたしが微笑んで、あとはその微笑みの意味を相手が考えた。余計なことを言わないで済んだ。無理に主張してわたしの吃音を笑われるよりも、ずっとよかった。
だから、だれもわたしの本当の笑い声を知らない。
小さい頃、何も知らなかったわたしはこの家の中でよく笑っていたような気がする。
あの頃のわたしの世界には、この家とお父さんとわたしとトランペットと少しの吃音。それだけだった。でも、幼稚園に行き他の子供と一緒に時間を共有しはじめるようになると、自分が世界の主人公ではないことに気づかされた。わたしの世界の外にもさまざまな別の世界があって、それがぶつかりあって外の世界が出来ていた。幼稚園の入学式での自己紹介の時に、緊張で言葉が詰まってしまい、子供からも親からも指をさされて笑われたことでわたしは、自分が冷たい外の世界に来てしまっていることを知った。あれ以来、何も考えずに出来てきたおしゃべりが、ただ楽しいものではなくなった。
週末に家族で行く中華料理屋で、談笑の中わたしも懸命に微笑んだ。母の冗談に、兄のくだらない学校の失敗談に声を出さずに微笑んだ。
他のテーブルから見れば、その丸いテーブルを囲んでいる4人は、どこにでもいる、仲の良い家族に見えたかもしれない。でもそのテーブルの中には、足りないものがひとつあった。それはわたしの笑い声だった。わたしが声を出して笑えば、お父さんが作ろうとしている新しい家庭は完成する。でもわたしには、どうしても出来なかった。微笑むだけで精一杯だった。お父さんの新しい家族のために、声を出さずに微笑むだけが、その時のわたしに出来るすべてだった。
お父さんはわかっていたのかもしれない、わたしが可笑しくもないのに笑っていることを。いくら微笑んでも、絶対に声を上げて笑わないことを。
お父さんなら、本当の家族だから、すべてお見通しだって、思っていたかった。
お父さんがいない日、わたしはひとりだった。母と兄はいまだに他人だった。自分の家に居づらかった。同じ家族でも、わたしだけがよそ者みたいだった。だからよく、トランペットを吹きに出かけた。トランペットを吹いていると、寂しくなかった。誰もいない所にひとりでいる方が、寂しさを感じなかった。
リビングから聞こえる新しい家族の笑い声がつらくなった夜、わたしはトランペットと一緒に家を出た。自転車で20分位の所にある大きな公園に、わたしは小さい頃よくお父さんとトランペットの練習に来た。ひさしぶりに来たその公園は以前と変わらず草と木の匂いに満ちていて人影もなく、砂利を弾くわたしの自転車のタイヤの音と夜の虫の音しか聞こえなかった。
その夜、誰もいないサッカー場の脇に自転車をとめてトランペットのケースを開くわたしは、風のない夏の空気の中にいた。時間が止まったように動かないその湿った空気がわたしの体にまとわりつき、息が詰まりそうだった。マウスピースに唇をあて鼻からその、わたしを閉じこめる空気を吸い込むと、小学校の時の、花火大会の夜を思い出した。
その日の花火大会にはわたしも誘われていたけど、みんな浴衣を着ていくことを聞いたわたしは、用事があると言ってその誘いを断ったのだった。
わたしは浴衣を持っていなかった。あの頃から背が高かったわたしはみんなみたいな女の子っぽい服が似合わないと思っていたし、スカートを履くとクラスの子たちみたいにおしゃべりしなくてはいけない気がしていた。それに、一緒に服を買いに行くと売り場で恥ずかしそうにしているお父さんに、浴衣が欲しい、一緒に選んで欲しいと言い難かった。
その夜の音楽教室からの帰り道、向こうから浴衣を着た3人の女の子たちが歩いてくるのが見えた。クラスの子たちだった。その中には、わたしを誘ってくれた子もいた。話に夢中で楽しそうなその子たちよりも先に気づいたわたしは引き返すことも出来ず、その子たちとすれ違うしかなかった。
団扇を振りながら歩いてくるその子たちは、わたしに気づいているはずなのに話を止めなくて、わたしも気づいていないふりをした。黒いトランペットのケースを持ったわたしと浴衣を着た彼女たちがすれ違った時、わたしを誘ってくれた子がわたしを見た気がした。
その子の金魚の柄の浴衣はかわいかった。別に、うらやましくなんかないと思いながら、自分がその浴衣を着ている所を思い浮かべて、自分には似合わないはずだとか、そんなことを思っていると、鼻の奥がつーんとなってきた。
泣くのは嫌だった。出そうになった涙を我慢して、出てきた鼻水をティッシュでかんだ。丸めたティッシュを道に投げ捨てたわたしは、我慢した涙の匂いと夏の夜の湿った空気を吸い込んだ。
あの時と違う場所でひとりトランペットを吹きはじめるわたしに、あの匂いが、あの時の気持ちがよみがえった。誰もいなければ、この世界にわたしひとりだけだと思えば、寂しくなんかない。あの夜もそう思ってトランペットのケースを握りしめた。
わたしは、あの頃と何も変わってない。
新しい家族が来てから、わたしはお父さんとあまり話さなくなっていた。最近家を空けがちなわたしの携帯に電話してくるお父さんの着信にも、わたしはでなかった。普段でも吃音が出始めていることを、お父さんに知られたくなかった。
再婚してから一年たってわたしが高校に入学した夜、わたしの部屋に来たお父さんは、転勤になる、今度は長くなるから、と言った。今度は海外に転勤になること、海外赴任になると何年も帰ってこれないことは前から知っていた。だけど、別にもう子供じゃないし、お父さんがいなくなったからって何も変わらないし、もう決まったことを聞かされても、どうしようもない。
返事もせずに黙っていた。話すことなんてなかった。
勉強机に向かうわたしは、横に立つお父さんのほうを一切向かずに机の上の家族写真の中のお母さんを見つめていた。
そんなわたしの耳に、写真の中でお母さんの隣に立つ男の謝る声が、写真の外から聞こえる。
「お父さんのこと、怒ってると思う。おまえにばっかり我慢させて、悪いと思ってる。」
別に、我慢なんかしていない。わたしが何を我慢していると思ってるの?今まで何も言わなかったくせに、今さらそんなこと言って、何もわかってないくせに。全部、口にしなくちゃいけないの? 全部、言葉で言わないとわからないの? わたしが何も言わないからって、わからないふりしていたくせに。わたしが何も言わなければ、わからないままでいいと思っていたくせに。
わたしには、この写真だけあればいい。これ以上のものはいらない。だから、何もしゃべりたくない。
「このまま、おまえと何も話さないで行きたくないんだ。意地悪しないで何か言ってくれ。お願いだから、おまえの声を聞かせてくれ。」
その言葉にわたしはトランペットをケースから取り出し、お父さんの前で思い切り吹いた。
聞け、これがわたしの声だ。
あの曲を吹いた。お父さんが昔よくピアノで弾いたあの曲をわたしは、この家の中に思い切り大きな音で響かせた。その音に驚いた新しい家族が下の部屋から上がってきた。
この声はあの人たちにはわからない。それはわたしたち2人だけに通じる言葉だ。その言葉を、このトランペットは、わたしのかわりに、わたしの気持ちをお父さんに伝える。
お父さん、わたしが勝手に聞いていたお父さんのレコード、あのレコードたちの中にわたしは、わたしが欲しかったものを見つけたの。うれしい気持ち、寂しい気持ち、くやしい気持ち、もどかしい気持ち、抱えきれないほどのわたしの思いのすべてを、わたしはあのレコードたちの中に見つけたの。
トランペットから口をはなすと、唇からマウスピースへ唾の糸が引いた。涙が気づかないうちに出ていた。泣き出すともう吃音が隠せなかった。
「レレレレココォーードォォ、ぜぜぜんんぶぶぶぅぅ、ちちちちょちょちょぅぅううだいいいぃぃぃーー。」
それ以上言葉が続かなくなったわたしは、新しい家族たちに泣いている自分を見せたくなくて、お父さんの胸に顔をうずめた。なつかしいお父さんの匂いがした。もう謝らないで、と言いたかったけど、わたし喉はもう、言葉が出せなかった。口を開くと涙と鼻水でしょっぱい味がした。お父さんは自分のシャツでわたしの鼻水を拭いてくれて、上手くなったな、と言ってくれた。
何もわからない新しい家族たちは部屋の外から、わたしとわたしの金色のトランペットをただ眺めていた。ひさしぶりに近くで見るお父さんの顔はやさしく微笑んでいて、小さい頃のお父さんと一緒だった。
その夜、わたしとお父さんは約束をした。
お父さんがいない間、ちゃんと学校に行くこと。トランペットをやめないこと。いつも背筋を伸ばして堂々としていること。自分に自信を持つこと。
「高校を出たら、お前の好きにしていい。向こうに来たかったら、来て欲しい。」
お父さんは、お前はだんだんお母さんに似てきたよ、と言った。
「お母さんもあの曲が大好きだった。」
わたしは、自分がお父さんに似ていると思った。言葉が足りないところなんてそっくりだ。
初めてトランペットの音を出した夜からこの夜までいろいろなことが変わった気がするけど、何も変わっていない気もする。あの夜も今夜も、お父さんとトランペットとわたしがこの家にいて、変わらない2人がお母さんと一緒にわたしの机の上、家族写真の中にいた。
高2の文化祭の日、わたしは行く所がなかった。いつもいる図書館もその日は閉まっていて、比較的仲のよい友達も忙しそうでわたしのことなんて思い出しもしないようだった。みんなはしゃいでいて、学校中を歩き回ってみても、どこも場違いな感じがした。することがない人なんて、わたしひとりだけみたいだった。
昼には帰ろうと思っていたわたしは、バンド有志を見ながら時間をつぶすつもりで、体育館に向かった。去年も見たけど、恥ずかしい衣装を着たへたくそなバンドが流行の曲を歌って、その友達たちだけで盛り上がっていた。床に並べられたたくさんのパイプ椅子の数の割には人がまばらなその場所で本でも読もうと思っていたわたしが体育館に入ると、3人の制服の子たちがステージで演奏を始めたところだった。
ステージに立つ彼女は歪んだ音で赤いギターをかき鳴らし、叫ぶように歌っていた。顔にかかる髪も気にせずにマイクに向い声を張り上げ、床を踏み鳴らしリズムをとる彼女は、見ているわたしたちにではなく、自分のために歌っていた。
かっこいいと思った。あんな風にわたしも歌ってみたいと思った。
彼女の声には力があった。何かを言いたいのに、どう言ったらいいのかわからない、そんな叫び声をあげる彼女は、歌うのが、叫ぶのが、仲間と一緒に演奏するのがうれしくてしょうがない、そんな風に歌う彼女が、わたしはうらやましかった。
わたしにも、わたしの中で響いている歌があった。その歌をわたしも、自分の声で歌いたいと思った。
お父さんがくれたあのレコードたちは、みんな自由だった。いくつもの気持ちたちが集まって、それぞれの歌い方で、会話していた。
彼らはわたしに教えてくれた。自分のリズムで、自分の歌い方で歌えばいい。
そして、ステージの彼女は、わたしに勇気をくれた。臆病だったわたしに、自分の歌を歌うために、わたし自身の歌を響かせるために他人の前に出て行く勇気をくれた。留まり続けていたわたしの周りの空気が、彼女の歌を聞いた日から、風が吹いて流れ出した気がした。
6 カノ
高一の冬休み前エッちゃんが思い出したようにナオミに、男を紹介してくれる約束はどうなったのかと言い出した。クリスマスが近づくと人並みに焦り出すエッちゃんは、ナオミと対照的だった。
「クリスマスに彼氏がいないと寂しい。」エッちゃんはよくそういうことを平気で言った。カノはエッちゃんのように素直にそう言うのはかっこ悪い気がして言えなかった。
ナオミはそういう事は絶対言わなかった。カノは、ナオミが寂しいなんて思わない気がしたし、思っても絶対言わない気がした。カノはエッちゃんみたいになりたいと思わなかったが、そんなエッちゃんをナオミみたいにバカにもしなかった。
ナオミの友達の年齢層は広く、近所の中学生から友達と呼べるかわからないサラリーマンまでいた。以前カノとエッちゃんはナオミに誘われて知らないおっさんとカラオケボックスに行ったことがあった。ナオミの父親の知り合いだというそのおっさんはおっさんにしてはおしゃれな感じだったが絶対にナオミの父親の知り合いではないとカノは思った。そのおっさんはエッちゃんが気に入ったようで聞いたこともない昔の曲を一緒にデュエットしてご機嫌で帰っていった。そのあと羽振りが良かったナオミにエッちゃんは気づかなかったのだろうかとカノは思ったが、たとえ知っていたとしてもエッちゃんは何も言わないのかもしれなかった。
外の世界に出たがるナオミと違ってエッちゃんは自分の周りの、自分が今いる環境を楽しもうとする。自分が今持っているもので遊ぼうとする、無理な背伸びをしないエッちゃんには同い年の友達ばかりで、ほとんどが学校の友達だった。
カノは高校になってから地元の友達と遊ばなくなってきていた。学校が違うと遊ぶ場所も違っていき、今まで楽しかったこともつまらなくなってきたりして、仲良しだった地元の友達たちとも無理せず自然に疎遠になっていった。高校に入りバンドをやり始め親しい仲間も出来たが、中学の頃よりも交友関係は狭くなったような気もしていた。
「じゃあ、」と言ったナオミはクリスマスの一週間前、カノとエッちゃんに同い年の男を紹介すると言った。ナオミは文化祭の時のPAの兄ちゃんといつの間にかメールを交換していたらしく、カノたちに言わずにその兄ちゃんのライブにも行っていた。ナオミが紹介するというのはそのライブハウスで知り合いになったロック少年たちだった。
エッちゃんはその男の子たちについてナオミにいろいろ質問をした。何てわたしたち2人のことを言ってあるの?チャラい感じじゃないの?わたしあんまり話せないけど大丈夫?その子たち本当に彼女いないの? 当日どんな感じの服でいったらいいの? あまりにもエッちゃんの質問が多いので、カノは自分の聞きたいことが聞けなくなってしまった。
カノはエッちゃんとは違うことを聞きたかった。そいつらはどんな音楽を聞いているのか。バンドをやっていたり、そのバンドでオリジナルの曲をやっているのか?
ナオミの話ではそいつらはライブハウスに月一で出演していて、そいつらのライブが吉祥寺であるというので3人はそのライブを見に行くことにした。
ナオミには言っていなかったが、カノはライブハウスに行くのが初めてだった。
そのライブハウスは吉祥寺の公園口のバス通りの1階がコンビニのビルの地下にあった。「Live&Spotターニング」と今夜の出演バンドたちの名前が書いてある立て看板の横を地下に降りていくと、狭い階段の壁には沢山のライブ告知のチラシやバンドメンバー募集の張り紙が何枚も重ねて貼ってあり、金網で出来たドア付近には、鋲を打った革ジャンを着たモヒカンの痩せた男と、唇にピアスをいくつもしている顔色の白い女が座り込んでいて、男はカップラーメンを、女はスーパーで買ったような刺身を食べていて、雰囲気はあまりよくなかった。
ナオミが「この下だよー。」と言って先に階段を下りていく。カノとエッちゃんはしゃがみ込んだままこちらを見上げるその2人のほうを見ないようにしながら暗い地下へ続く階段を、手を取り合っておそるおそる降りていった。
金属製の重たいドアを力を込めて引っぱると、ギターの騒音がカノの耳を貫いた。ライブハウスの中はステージに向けられた派手な色の照明の他は真っ暗に近く、50人ほどの客が曲に合わせて跳ね、カノとエッちゃんが座った破れたソファーの隣では甘い匂いがする紙巻きのタバコのようなものを吸っている目の焦点が合ってない男がカノを指差して「スゲエ」と言って誰もいない横の席に同意を求めた。
制服のままで来なくてよかったとカノは思った。いかにも場違いな気がした。このまま帰ってしまいたかった。カノの横にぴったりくっついているエッちゃんも同じ気持ちらしく、カノの腕を強く握りしめるエッちゃんの手が痛かった。
ナオミの友達の「コケコッコー」という名のそのバンドはパンクバンドだった。そこのライブハウスには楽屋がないらしく、カノが来た時に演奏していたバンドが終わり照明が少し明るくなると、黒い髪をスプレーで立てた3人男の子たちが客席からステージに直接上がっていきセッティングを始めた。
彼らの演奏は下手だった。下手だったがオリジナルをやっていた。ものすごい単純な曲で、バカみたいな歌詞を歌っていた。カノたちよりも下手だったが、下手なのが自分たちでわからないかのように、下手なのが当たり前かのように、自分たちで作った曲をやっていた。こんなに下手ならカノは恥ずかしくて人前では出来ないと思った。彼らの中には恥ずかしいという感情がないかのようだった。
彼らが演奏中カノの横にやってきたナオミがステージを顎で差し「ヘタでしょ。」と言った。リズム音痴なドラムをもどかしそうに見ていたエッちゃんがナオミを見て控えめに頷いたが、カノは頷かなかった。
確かに下手だったけど、彼らはカノが出来ないことをやっていた。こんなに下手なのにどうして曲が作れるのか不思議だった。彼らの曲は基本的な3コードしか使ってない単純な曲だったが、誰かの真似ではなかった。カノたちのバンドのように、誰かのコピーではなかった。
カノは軽音楽部の先輩たちの作るオリジナルの曲が嫌いだった。ケータイ小説から持ってきたような恋愛の歌詞とヒット曲から集めてきたみたいなメロディーを詰め込んだような曲を作る先輩たちをかっこ悪いと思って心からバカにしていた。そして、そんな先輩たちから文化祭の演奏のことを悪く言われ、心底怒っていた。ナオミもエッちゃんもそれほど気にしてないみたいだったが、カノはそのことを考えるといつでも腹が立てられた。
軽音楽部ではコピーバンドはバカにされた。顧問も部員たちも、どんな変な曲でもオリジナルをやることに意味があると考えていた。そんな中カノだけがひとり、先輩たちのような恥ずかしいオリジナルの曲をやるくらいなら死んだ方がマシだと思っていた。
コケコッコーを見にきている客はいなかった。他のバンドの客たちが会話の邪魔だと言いたげな感じでたまにステージを見るくらいで、彼らの演奏を最後までちゃんと聞いていたのはカノたちだけだった。
客の申し訳程度の拍手で演奏を終えステージから直接カノたちのいる席まで来た汗くさいコケコッコーの3人は、ステージの上よりも緊張していた。明らかに挙動不審な感じで「モチヅキだけど。」と言って頭を下げたギターボーカルの男の子に続いてあとの2人も名前を言ったが同時に言ったので何て言ったのか聞こえなかったカノが自分の名前を言おうとすると、カノの前に座ってモチヅキと名乗った男の子が「どうだった?」と聞いた。
カノは言葉に詰まった。なんて言っていいのかわからなくて横を見るとエッちゃんも固まった顔をしていて、カノが自分も今こういう顔をしているんだろうなと思った時ナオミが、「ヘタだって。」と言った。カノとエッちゃんが驚いてすぐに否定しようとしたが2人ともほめる言葉がとっさに出てこなく、「そんなこと…」とカノが言おうとすると、すでにガックリと頭を落としているコケコッコーの3人を見てナオミがギャハハと笑った。
カノは聞きたかった、どうやって曲を作るのかを。コケコッコーの曲を彼らは簡単に作っているような気がした。思いつきで歌詞を書いているような気がした。カノが知らない何かを彼らはどこかで見つけるか読むか拾うかして、それに簡単に曲を作る秘密みたいなことが書いてあり、だから楽器を充分練習する前に、他人が作った曲を演奏して練習する前にオリジナルの曲だけが出来てしまった、カノは彼らの曲を聞いていて、そんなことを思った。だから彼らに言った。「すごいね、自分で曲書けるなんて」と。
カノのその言葉にコケコッコーの3人は頭を上げて「エッ?」と言った。3人とも無理に立たせた髪の毛がだらしなく下がってきていて、汗で流れ出した整髪料でおでこが光っていた。「誰が曲を書くの?」とエッちゃんが、前に座った背の高いベースの子に聞いた。
「曲はね、モッチーが作んの、そいでね、みんなで歌詞考えて。」意外に高い声のベースの子はそう言ってモチヅキを見る。話を振られたモチヅキのほうをみんなが見たが、エッちゃんだけがそのベースの子のほうをまだ見ていた。
カノの目の前で小さく震えながらモチヅキは言った。「か、感覚だよ、感覚。セ、センスっつーの?センス。」
もっと話が続くのかと思ったらそれだけだった。それだけ言うのが精一杯みたいなほど緊張していた。
全然わからなかった。感覚もセンスも同じことだと思った。あんな単純な曲なら歌詞が先なのかとカノは思っていたら逆だったが、どっちでもいいような気もした。
「モッチーはねー、ピアノやってたんだよねーピアノ昔小さい頃小学校の時家で。そいでさー音楽一家なんだよねー親父とお母さんとオネーさんとおとーさんが。だからさーそういうのあるんじゃない小さい頃のそういうのよくわかんないけどそういうのオレ。」いかにもドラムっぽく太っているドラムの奴はそいつのドラムと一緒でしゃべり方ももたついていて聞いているだけで少しイライラした。ナオミが小さく舌打ちをしてから「へー、モッチーすごいじゃん天才じゃん。」と言ってほめるとモチヅキは恥ずかしそうに下を向いてヘヘッと笑った。「でも歌詞だって大変でしょ。ちゃんとメロディーに乗せなきゃいけないしさ。日本人でも大変じゃないの日本語で歌詞考えるの。」エッちゃんがベースの子にだけに向けて言った。無理矢理なほめ方だとカノは思ったが、コケコッコーの3人はそうかなーと言いながらうれしそうに照れていた。曲と一緒で単純な奴らだった。
ライブハウスを出た6人は冬の吉祥寺をさまよった。近くのマクドナルドは平日の夜にしては混んでいて6人も座れなく、居酒屋に行こうと言い出したナオミにエッちゃんがダメだと言い、聞いてみるとコケコッコーの3人も帰りの電車賃くらいしかないらしく、井の頭公園に行ったが冬なのにベンチはカップルですべて埋まっていてウロウロしてるうちにナオミが寒いと怒りだし、しかたなく6人は帰ることにした。
名残惜しそうな3人の男の子たちはまた来てよね、と何回も言い、メールを交換して駅で別れた。帰りの電車でひとりになったカノは、今日曲作りのことであのギターボーカルが言ったことを考えていた。
カノも曲を作ってみたかった。でもどうしたらいいのかわからなかった。まだ他人の曲をコピーするだけで精一杯だった。いろいろな曲をコピーしていくとそれぞれの曲の構造や違いがわかってきたが、いざ自分が作ろうとすると何から初めていいのかわからなかった。先輩たちには負けたくなかったが、いきなりいい曲なんて作れなかった。
ライブハウスを出てから少しずつ緊張が解けてきたモチヅキは言っていた。やりたいこととか言いたいこととかがあって、そればっかり考えているとメロディーが浮かぶことがあると。
カノにもやりたいことはあった。でもそれはただ自分のオリジナルの曲を作ってみたいという漠然としたものだった。それだけではダメだということをモチヅキは言っていたのだろうとカノは思った。井の頭公園をウロウロしている時「でも、仲良さそうだよね3人。」と言うカノに3人は顔を見合わせて苦笑いをした。「そーでもない時もあるよー。この前も歌詞のことで喧嘩したよね、みんな引かなくて。」そう言ってベースの子がドラムの腹を叩いた。叩かれたドラムは何か思い出したように「ウフッ」と笑うとその腹でモチヅキに体当たりした。そうされたモチヅキはよろけながらもうれしそうだった。
子供みたいな声を出して気持ち悪くはしゃぎ合う3人の男の子たちはやっぱり仲が良さそうだったけど、彼らは簡単に曲を作る秘密をどこかで拾ったわけではないようだった。
次の日の昼休み、エッちゃんのクラスで一緒に昼飯を食べているカノにエッちゃんがベースの子がかっこ良かった、メールしようかなどうしようかなねえどう思う、と聞いてきた。カノには昨日のうちにモチヅキからメールがきていた。そのことを今話そうと思っていたカノはなぜか、言えなくなった。ノートを貸してくれたお礼にカノが買ってきたヤキソバパンを食べるエッちゃんがメールのことをしゃべり出した瞬間、言わないほうがいいような気がしてしまった。モチヅキからのメールを秘密にする必要なんてないのに秘密にしてしまうとその、秘密にしてしまったことがカノは、自分にとって大事なことのように思えてきてしまった。
モチヅキからのメールは今日来てくれてありがとうという言葉で始まり、「もっと話とかしたかったんですけど、」という途中で切れたような言葉で終わっていた。昨夜緊張して最後までカノと目を合わせられなかったモチヅキは、メールでは強気なひとに思えた。
カノはまだ返事をしていなかった。なんて返事していいのかわからなくて、だから、それをエッちゃんに聞きたかったのに、聞けなくなってしまった。
エッちゃんの話を聞きながらカノは机の上に置いてある自分の携帯を制服の上着のポケットに入れた。モチヅキからのメールが入っているその携帯は冷たくて、エッちゃんの話も頭に入らなくて、なんて返事しようかと考えながらカノは、そのポケットの中の携帯を手のひらで暖めた。
7 ヨシコさん
わたしはわたしに自信がなかった。
他人の目が怖かった。わたしのことを、何て思われるか、そればかり考えて生きてきた。他人の目を感じると、緊張して、うまくしゃべれないかもしれない、そのことを考え出すと、それだけで頭がいっぱいになった。頭がそのことでいっぱいになると、もう喉から、言葉が出なかった。言葉が出ないから、言葉が出ない分精一杯愛想笑いをした。一日中愛想笑いをしながら、わたしの頭の中をいっぱいにするその不安から逃げることばかりを一日中考えていた。
わたしにはトランペットしかなかった。
トランペットでしか自信を持てなかったけど、トランペットには自信があった。音楽教室に通い始めた頃から今まで、同い年で自分より上手い人に会ったことがなかった。中学でも高校でも、吹奏楽部の大会でもわたしの自信を失わせるほどのトランペットは聞いたことがなかった。普段の自分は嫌いなのに、トランペットを吹いている自分は好きだった。
トランペットがないとわたしは裸だった。
裸は嫌だった。みんなが服を着ているのに、わたしだけが裸で歩いていた。風が直接吹き、雨がじかに当たり、裸足のわたしの足を誰かが踏んでいく。裸であることはわたしがしゃべらなければわからないけれど、わたしがしゃべり出せばすぐにわかってしまう。だから、裸であることがバレてしまう前に、わたしはいつも、微笑みながらその人の前を逃げ出した。
わたしは服が欲しかった。
わたしはわたしだけの服が欲しかった。他の誰も持ってない、誰の服にも似ていない、どこに着ていっても恥ずかしくない、わたしのためだけに用意された服が。でもそんな服は、どこにも売っていなかった。わたしのために、わたしにぴったりの服を作って、わたしが来るのをお店を開いて待っている人はどこにもいなかった。だから作るしかない。外をいくら探しまわっても見つけられないその服は、自分で作らなくてはならない。わたしが自分で、自分のために、自分の着る服を作るしかない。
どうしたら服が作れるのだろう。
みんなが持っているような服は、わたしには似合わない。わたしに似合う服を作るのにはどうしたらいいのか。大柄なわたしには、他の子みたいな女の子な服は似合わない。だからといって、男の子の服が合うわけでもない。中途半端で、そもそも自分がどんな服が着たいのか自分でもよくわからない。そんな自分でもわからないものを探そうとしたって、見つけようがなかった。見つけられないまま時間だけが過ぎて、高校に入ると既にみんな、それぞれ自分の服を身につけていた。そんな中でわたしは、どうしたらいいのかわからなくて、友達にわたしが裸だってことに気づかれないうちに、早く服を探さなくてはいけないって思って、焦っていた。
でもある日、どこに自分の服があるのか、わかった。
文化祭で歌う彼女を見たあと、わたしは無性にトランペットが吹きたくなった。わたしの唇がマウスピースの感触を求めた。あんなに強く、吹きたいと思ったのは、音楽教室に通い始めたあの頃以来だった。あの金色の管にわたしの息を吹き込んで、わたしの身体と一緒に響かせるその音を、どこでもいい、どこか遠くへ届けたい、誰でもいいから、誰かの心の奥のほうに、わたしの音を伝えたい。お父さんがあのポケットトランペットを買ってきてくれた夜、得意になって吹き続けたあの夜の子供が、わたしの中によみがえった。
吉祥寺の北口ロータリーの時計が夜の8時を過ぎた頃、思い切り大きな音でトランペットを吹き始めたわたしを、駅へ向かうサラリーマンが迷惑そうに睨み、待ち合わせの若い女がうるさいという顔でこちらを見て、すぐにまたメールを打ち始める。今夜は他のストリートミュージシャンたちはいなかった。いたとしても関係ない。わたしは、わたしの音に自信がある。彼らがどんなに大声で叫んでも、いくらギターをかき鳴らしても、わたしの歌に勝てるわけがない。
わたしはわたしの歌が好きだ。自分の歌を歌う自分が好きだ。自分に自信を持つということは、わたしを好きになることだった。
ティッシュ配りの若い男が、配るのをやめてこっちを見ている。うちの学校の制服のやつらが通り過ぎる。その中のひとりがわたしを指差して仲間に何か言った。何を言われても平気だ。お前らの服なんかよりも素敵な服を、わたしは手に入れた。
今夜はマイルスを吹いた。タイトルは忘れた。お父さんのレコードの中でも一番なくらいボロボロなジャケットの1曲目は、暖かかった昼間の空気が冷たい夜の光の中にまだ残っていて、夏でも秋でもない、季節がなくなったような、ミステリアスな匂いのする今夜の空気にぴったりだった。テーマを吹いて、あとは考えずにアドリブで繋いでいくと、わたしの頭の中でハイハットとスネアのリズムがついてくる。記憶のリズムを感じたまま、わたしはわたしのアレンジで合わせていく。
一人のオジサンが立ち止まり、制服でトランペットを吹くわたしをめずらしそうに見ている。大昔の映画のテーマになったこの曲が懐かしいのか、指を鳴らしてリズムをとっている。オジサン、リズムの取り方が違うよ、それにこの曲は、あんたの知ってるその曲じゃない、わたしの曲だ。わざとリズムをためて、わたしはオジサンのわずらわしい指の音を止めさせた。
少し人集りが出来てきた。みんながわたしとわたしのトランペットを見ている。以前なら逃げ出していた。裸だったわたしには、他人の視線が刺さるように痛かった。でも、服は見つかった。ほんとは持っていたのに、外に着ていく勇気がなくて、持ってないって自分に嘘をついて、自分で自分を誤摩化して、その服に気づかない振りをしていた。
服を作る生地は持っていた。縫い合わせる糸もあった。お父さんからもらったあのレコードたちはわたしに、どうしたら自分の服が作れるのか、どうやって自分の歌を歌うのか、お手本を見せてくれていた。言葉に出来ない言葉を言葉にするには、どんな言葉で言葉にしたらいいのか、彼らは、彼らの歌で、教えてくれていた。わたしには、こんなに素敵なトランペットがあるのに、それを外に着ていくことを怖れていた。その勇気をくれたのは、彼女だった。
彼女の服はボロボロだった。つぎはぎだらけだった。それなのに彼女はその手作りの服を堂々と着ていた。
あんな服を着ている人を見たことなかった。それは、他のみんなが着ている既製の服とは全然違って、縫い方もめちゃくちゃで、隙間から肌が見えていて、今にも壊れてしまいそうなのに、それは、彼女にしか似合わない、彼女の服だった。その服も、その服を着る彼女も、かっこいいと思った。自分で作った服を着るのが、うれしくてたまらないように歩く彼女を見て、わたしにも出来るかもしれないと思った。
あれから、微笑むのをやめた。自分に嘘をつくことを、可笑しくもないのに、楽しくもないのに笑うのをやめた。微笑むのをやめると、わたしの周りから人が消えた。消えたと思っていた人は向こうから遠目にわたしを見て笑っていた。それでもよかった。無理をしてみんなといるより、ひとりのほうがよかった。愛想笑いをしなくなったわたしは、以前より緊張しなくなった。
わたしは、本当に楽しいときにだけ笑うことにした。姿勢よく立っているために、堂々としているために、お父さんとの約束を守っていくために。
初めて外で吹いた夜、街は歌であふれていた。夜の駅前に立ち目を閉じていると暗闇の中、制服でひとりトランペットを構えるわたしの前を通り過ぎていくたくさんの人たちを感じる。緊張したけど、興奮もしていた。わたしの耳に届く人の声、車の音、店から流れる音楽たち、みんな自分の音で、歌を歌っている。それは、生きていて、動いているものたちの叫びだった。
そのいくつもの叫びが、夜の街の空気を震わせ、息を調えるわたしがそれを吸い込む。吸い込んだ空気はわたしの肺から細胞へ、体中を巡る血となり、わたしは街の音たちの一部となる。駅へ向かう足音とわたしの心臓が刻むリズムが一緒になって、わたしのドキドキと足音のコツコツが同じになれば、足で拍子をとって、夜の街の匂いを吸い込む。その匂いをお腹に溜めてから、一度わたしのものになったその空気をわたしはわたしのトランペットに送り込んだ。
その音は、わたしを取り巻くこの空気を震わせて、街を行くすべての人たちがこれから吸い込む空気を震わせて、彼らの身体の中からわたしの歌が響いた。
曲を吹き終えたわたしがトランペットから口を離すと、わたしを取り囲む人たちが拍手をした。急に恥ずかしくなって軽く頭を下げ、その人たちに向かって顔を上げた自分が笑顔だって、自分でもわかった。わたしは、楽しくて、うれしくて、笑っていた。
あれから、彼女をよく見かけた。ギターケースを重そうに背負って自転車で学校にくる彼女、バンドの仲間と一緒に駅へ向かう彼女、いつも大きなヘッドフォンを首にかけている彼女を見た日は、そのあとなぜかラッキーなことがあった。道で500円を拾った、購買のメロンパンが最後の一個だった、延滞だと思って返したCDの延滞金を取られなかった、家に帰ったら母も兄も遅くなるとメモがあった、新宿の南口で吹き始めたらすぐに警官がやってきたけどその警官がジャズ好きのいい人で見逃してくれた。
彼女を見た日の夜に吹くわたしの歌は、自分でもホレボレするくらいクールで、夜の街に溶けていくようだった。ほとんど通報もされなかったし、前に置いたトランペットのケースに一晩で何千円も貯まった。
彼女の姿を見れなかった日は、ヤなことばかりだった。現国の時間に当てられて読まされて笑われた、吹奏楽部で楽譜も読めない後輩の指導を任された、兄が勝手にわたしの部屋に入っていた、母にイヤミを言われた。そして、彼女を見れないまま夜を迎えたわたしのトランペットは、せつない音を出した。よっぱらいのおっさんにからまれて、トランペットのケースにゴミを入れられて、ダメで早めに切り上げる日が多かった。
だから、わたしは彼女を探した。毎日見ておきたかった。彼女を見れないまま終礼になってしまう日は、吹奏楽部の練習にも行かずに、することもないのに学校に残り、図書館の窓際の席に座って中庭の自転車置き場を見張り続けた。
毎日彼女を見張り続けると少しずつ、彼女のことがわかってきた。彼女の小さな情報のピースをひとつずつ集めていくと、ジグゾーパズルみたいにだんだんと、彼女の絵が出来てくる。彼女がどんな人か、ちょっとずつわかってくる。
自転車で登校していることはわかった。彼女は彼女のギターと同じ赤い自転車に乗っていた。自分で組み立てたようなその自転車は、学校の自転車置き場の中でもすぐ見つけられた。自転車で来ているということは、家が近くなのかもしれないと思って、一度彼女がひとりで下校する所を見つけた時、あとをつけたけど、自転車の彼女はぐんぐんペダルを踏んで、トランペットのケースが邪魔で追いつけないわたしの視界の中からあっという間に消えていった。
軽音楽部だってことはわかった。彼女がバンド仲間と地下食堂に降りていくのを何度か見かけた。軽音の人以外あそこに行くひとはいない。それにあのドラムの子は見覚えがあった。前に吹奏楽部で打楽器をやっていた林さんだった。去年の新入で入って、一年経たないで辞めていった子だ。この間部活に行く途中に、彼女と林さんが歩いているのを見かけた。話したことはなかったけど、林さんも彼女に勇気をもらったのだろうか、部ではおとなしかった林さんの声が、遠くから見ていたわたしの耳にも届いた。
もうひとりのバンド仲間と一緒にいる所もよく見かけた。わたしが食堂で見た時、髪の長いその子が彼女の頭を撫でていた。その手を彼女はうるさそうに振り払う、振り払われたその子はまた、彼女の頭を撫でる。嫌がっている彼女がちょっとうれしそうにも見えて、それを見ていたわたしは、うれしくなかった。
先週彼女は髪を切った。肩まであった髪をばっさり切ったショートは、彼女の少年っぽい顔によく似合った。それが、まるで自分のことのように新鮮で、見ているわたしの気分までさっぱりした。横を向いていても彼女の顔がよく見えるようになってうれしいわたしは、彼女の耳の形がいいのを発見した。
昨日の昼に購買でわたしの隣に彼女がいた時はアセッてしまった。動けなくなったわたしの横で彼女はヤキソバとヤキソバパンを買った。間違って買ったのかよっぽどヤキソバが好きなのかわからないけど、彼女が去ったあと、わたしはいつも買うメロンパンと、普段は絶対買わないヤキソバパンを買った。隣にいた彼女の顔は見れなかったけど、ヤキソバパンもあんまり好きにはなれなかったけど、購買のおばちゃんにお金を渡す彼女のシャツの袖のボタンが取れかかっているのを見つけた。
気がつくとわたしは、一日中彼女の欠片を探していた。なにも見つからなかった日には、ひと目だけでも見ておきたくて、夕日が差し込む図書館で、読みもしない本を開いて、課題をするふりをしながら、もう帰ってしまったかもしれない彼女が自転車置き場に現れるのを待ち続けていた。
長い時間遠くの自転車置き場を見つめていると目の焦点が合わなくなってきて、目は開いてるのに何も見ていない、そんな時のわたしの視線は、わたしの内側を見つめ始める。その中には、このまま見てるままなだけで、満足だって思う自分と、ただ見てるだけじゃ、つまんなくて、話とかしてみたいって思う自分の、2人の自分が見える。その2人の自分を見るわたしは、どっちが本当の自分なのかわからなくなるって思うけど、どっちも本当の自分だって強がりたいけど、どっちかの自分が嘘をついていることは、自分でもわかっている。彼女のことを考えていると、楽しくて、遠くからでも、彼女の笑い声が聞けた時は、わたしもうれしくて、どうしてうれしいのか、わからないけど、それを考えちゃいけない気がして、考えないようにしようって思ってまた考えて、今日もヤキソバパン買ったのかな、とか、もうあのボタンはつけたかな、とか、こんなに、誰かのことを一日中考えているなんて、初めてだって思う自分にはもう、嘘はつけない。
彼女を知ってから、学校に行くのが少しだけ楽しみになったけど、彼女を見れないままあきらめて帰る日は、彼女を知る前のひとりの帰り道よりも、もっとひとりぼっちだった。帰っちゃったかもしれないひとをちょっと見たいだけのために、図書館からずっと見張ってるなんて、なにやってるんだろうわたしって思うけど、知らないで過ごしていれば、こんな思いは、しなかったはずだけど、彼女を知らなかった頃のわたしにはもう、戻りたくない。
バカみたいって思って小石を蹴飛ばしてみても、ころがっていったその小石が、彼女から落ちた大事なものだったように思えてきて、下水の穴にそれを落としてしまった自分が、取り返しのつかないことをしてしまったみたいに、がっかりしてしまう。
わたしが集めた彼女の欠片たちは、誰でも集められるつまらないものばかりで、こんななんにも書いてないピースをいくらつないでも、なにも浮かび上がってこない。このパズルをわたしの中に完成させるには、大事なピースがいくつも足りなかった。
わたしのほうを見る彼女の目の部分、わたしの名前を呼ぶ彼女の口の部分、わたしの歌を聞く彼女の耳の部分、それから、一番大事な部分、完成したパズルが、なんのパズルだか書いてある彼女の名前の部分。
彼女はなんて名前なんだろう。わたしは彼女を知ったから、探していたものが見つかった。名前も知らない彼女から、わたしは街で知らない人たちに見られながら自分の歌を歌う勇気をもらった。だけど、名前も知らない彼女に話しかける勇気は、また別の勇気が必要で、その勇気をわたしは、どこで見つければいいんだろう。
彼女を知ってから、なくても困らなかったものが、ないと困るようになった。ずっとひとりで平気だったはずなのに、そうじゃなくなってきたみたいだった。このまま、なんのパズルだかわからないままピースを集め続けても、なんの絵も出てこないうちにあきらめてしまいそうだった。
だからその、パズルの一番大事な部分をわたしは、自分で作ってみることにした。自分で彼女に名前をつけて、そこから他のピースをはめていけば、早く完成出来るかもしれない。今みたいに、なんのパズルだかわからないまま集め続けて、途中で投げ出してしまわないように、わたしは彼女に、カノというあだ名をつけた。
8 カノ
去年までは3人で次にやる曲を決めて、それぞれ家で練習して出来そうになってきたら部室に集まって合わせていたが、カノが耳コピ出来ないと嘆くナオミのためにタブ符付きのスコアをコピーしている所を軽音の先輩に「コピーバンドがコピーしてる。」とバカにされて以来、カノが嫌がり3人は部室で練習をしなくなった。外のスタジオを借りて音を合わせるしかなくなると、すぐに3人の貯金は底をついた。スタジオはそれほど高くはなかったが、カノ以外の2人は他のことにもお金を使いたいらしく、カノはそれを我慢させてまでバンドのほうにまわせとは言いにくかった。スタジオ代がなくなり、小遣いを親にねだるのも限界になると、あとはアルバイトをするしかなかった。
2人はエッちゃん家のパン屋で働き始めたが、3人の中で一番社交的なナオミが客のおばさんとケンカをして3日で辞めて、コンビニでバイトを始めた。カノは続けたがレジの他にもやることがいっぱいあり結構忙しく、働くのも初めてなので慣れるまでかなり疲れた。バイトはカノの他にも2人いた。エッちゃん家もあまり大きくない街のパン屋なので余計な人件費はなるべく削りたいのをなんとなくわかったカノは、新しいギターが買えるだけのお金が貯まったら辞めようと思っていた。
エッちゃんは店の看板娘らしく、学校から帰るとカノと一緒にエプロン姿でレジに立って、自分はバイト代も出ないのに常連のおばさんたちと営業スマイルで会話しながらソツなくこなしていた。カノはそんなエッちゃんを大人だと思った。カノは自宅の自転車屋でも、全然手伝わない上に客に挨拶もしたこともなかった。エッちゃんに負けじとカノも出来るかぎりの笑顔で接客したが、エッちゃんから、もっと笑ってと言われた。カノは自分で思っているほど笑っていないみたいだった。
4ヶ月してギターが買えるだけのバイト代が貯まった頃、カノもエッちゃん家を辞めた。最後の日の閉店後カノがエプロンを返すとエッちゃんが、辞めないで、と言った。その日カノは客に、買ったパンに小石が入っていたと文句を言われ、小石なんか入るわけないのにと思って言い返そうとしたらエッちゃんのお母さんが出てきて一緒にその客に謝った。そのあとエッちゃんのお母さんにしきりにゴメンネと言われたがまだ怒りが収まっていなかったカノは、一緒に働けて楽しかった、と言うエッちゃんに、わたしも、と言えなかった。帰ってベッドに入ってもその客の顔が頭から離れなく、なかなか眠れなかったが朝になると忘れていて、それよりも思い返してみればカノもエッちゃん家で働けてよかったのかもしれないと思った。昨日みたいな嫌なこともあったけど、楽しいことが沢山あった。
いつもマスクをつけてパンを焼き続けるエッちゃんのお父さんは初め恐そうだったが、マスクを取るとエッちゃんそっくりの顔にヒゲが生えていて笑ってしまった。
店内の有線がずっと演歌だったのに忙しくて誰も気づかず昼過ぎになるまでそのままだった時、気づいたエッちゃんが飛んでいって裏のお母さんに文句を言う声が普段おとなしいエッちゃんと比べものにならないくらい早口だった。
カノがトイレに行こうと思いお手洗いの電気をつけようとしたら間違って厨房の電気を消してしまった時、中にいたエッちゃんのお父さんに怒られると思って謝ると意外に笑っていて、いいよー、と言ってくれた。
カノは学校まで自転車を走らせながら、やっぱり楽しかったのかもしれないと思っても、エッちゃんに、わたしも楽しかったよ、と言う機会はもうなかった。あと数分で学校に着けばエッちゃんと顔を合わせてしまう。改めてわたしも楽しかったとは、カノは恥ずかしくて言えなかった。昨日のうちにメールをしておけば良かったのに、あの嫌な客のことで頭がいっぱいだった昨夜のカノには、そんな余裕はなかった。
もうあそこでは働くことはないのかと思うと、カノは少し寂しくなった。自転車のハンドルを握るカノの腕には、エッちゃん家で先週熱い鉄板に触って火傷した時の絆創膏がまだ貼ってあった。エッちゃんのお母さんが貼ってくれた子供用のその絆創膏はかわいくて、気に入ったカノはもう痛くないのに今まで剥がさずにいた。今日エッちゃんが見たら、ごめんねって言うかもしれないと思いカノは、その猫の絵の絆創膏を剥がした。もう傷は直りかけていた。ありがとうって言うのは新しいギターをエッちゃんに見せる時にしようとカノは思った。その時にちゃんと、わたしも楽しかったって言えるかわからないけれど、楽器屋に予約してある黄色いレスポールを今度の練習に持っていって、エッちゃんの好きな曲を一緒に演奏しようと思い、カノは剥がした絆創膏を道に捨てた。学校に近づくと道には桜の花びらがたくさん落ちていた。
一年なんてあっという間だって親たちはよく言うけど、それを聞くとカノは、そんなことない、その一年の間に何回もテストがあって、それ以外にも課題もたくさんあって全然あっという間じゃなかったって思うけど、一年たってまたこの桜を見ると、やっぱりあっという間だった気がした。
学校の塀ぞいに立つ桜から散る花びらはカノに去年の入学式の頃を思い出させた。初めて地元じゃない学校にきて不安だったが、新しい環境にもすぐになれて、なんでもないつまらない場所に変わるまでそれほど時間もかからなかった。去年の春ここの道の桜を初めて見た時にはナオミのこともエッちゃんのことも知らなかったのに、出会って一緒にバンドを組むようになった。ナオミの紹介でコケコッコーの3人のことも知った。その中の1人のモチヅキという男の子と少し親しくなってたまにメールをするようになり、最近の洋楽にくわしいモチヅキからCDを借りたりして今まで知らなかったようなバンドを沢山知った。面白そうなインディーズのライブがあるとひとりでも見に行った。ギターも以前より上手くなったと自分では思っていた。前より付き合う人の数は減ったが友達の種類と行動範囲は広くなったようだった。
高校に入ってからの友達は学校の近くに住んでいる人が少なかった。カノは学校から3駅も離れているのに自転車で通っていたがそれでも近い方で、大した学校でもないのに一時間近くかけて通っている人もいて、みんなカノが行ったこともないようないろいろな場所からこの学校に集まってきていた。自然と今まで行かなかった所にも行くようになり中学の頃のように家の近所で遊ぶことが少なくなった。
この前ひさしぶりに中学の友達からメールがあった。同窓会をしようというそのメールの返事をカノが同窓会の日より遅れて返すと、前はよく一緒に遊んだその友達から、変わったよね、前なら絶対来たのに、という返事がきた。カノは悪いことしたなとは思ったけど、言い訳するとこじれてしまうかなと自分に言い訳をしてそれ以上返事しなかったが、本当はもう面倒くさかった。なんてメールするかを考えるのも面倒で、これでもう一生会わなくなっても別にいいかも、とまで思った。
この一年で自分が変わったのか、自分の周りが変わっただけなのか、カノはわからなかった。変わりたいとは思うけど、中学時代の友達に言われた、変わった、はうれしくなかった。
この高校に入りナオミはカノを、今までいた世界から違う世界に連れ出した。ナオミがいなかったらバンドもやっていなかったかもしれないし、中学の時に買ったCDをいまだに聞いていたかもしれなかった。ナオミは最初から変わっていて、いつもさっき言ったことと違うことを言うナオミと行動するとドキドキすることが多かったが、カノはそれが楽しかった。みんなと同じことを絶対言わなくて、どこに行ってもビビらないナオミと一緒にいるとカノは自分まで強くなった気がした。ナオミは気づくといつも違う玩具で遊んでいて、みんながそれを欲しがる頃にはもう次の玩具を見つけてきてカノに自慢した。カノはそんなナオミが自分のそばにいることが他の友達に対して誇らしかった。
エッちゃんはこの一年で変わった。最初会った頃は声も小さいし頼りない感じで、それでもドラムが叩ければ誰でもいいとカノは思っていたが、今ではミツドモエのギターもベースもエッちゃんのドラムに頼りきっている。カノだけだったらスタジオの練習をさぼりそうなナオミも、エッちゃんがきちんと時間通りに来て待ってると思うと遅れはするがちゃんと来た。もしかしたらエッちゃんは、もともと芯が強いタイプだったのかもしれなかった。カノは最初エッちゃんとナオミが合うかどうか心配だったが、口の悪いナオミに何を言われてもエッちゃんは平気だった。初めナオミがエッちゃんになにか言うたびにカノは心臓が痛くなったが、あとでフォローしようと思っても別に気にもしてないようで、心配するほうがかえってエッちゃんのプライドを傷つけたようだった。ナオミが差し出す誘惑にカノのように負けることなく、エッちゃんはテストでいい点を取り続け、原曲通りのリズムをキープしつつ、狭いスタジオの中を歩きまわりながら演奏するミツドモエのギターとベースを、自分なりのアレンジでひとつにした。
ナオミはいつも違う場所にいた。エッちゃんはいつも同じ場所にいた。カノは、自分が2人と違う場所に立っている気がしていた。カノがギターを持ちひとり歩く道の前には髪の毛を立てた3人の男の子が立っていて、カノが進もうとしている狭い道の先をふさいでいた。
高2の夏休み中、カノは何度もコケコッコーのライブに行った。他の対バンと比べるとやはりヘタだったが、カノの耳が慣れてきたのか少しは上達しているのか、たまにかっこ良く見える時があった。コケコッコーは吉祥寺のいつもの所だけではなく、他の聞いたことがあるようなライブハウスにも出始めていた。前よりも彼らはカノたちに慣れて、カノも前ほど彼らのことを変だとは思わなくなった。大抵はナオミと一緒に行ったが、カノはひとりでも見に行った。エッちゃんは来なかった。エッちゃんはコケコッコーのベースと少しの間だけ付き合ったが、すぐに別れた。どうしても前の彼氏と比べてしまう、彼に悪いからと自分から振ったそうだ。エッちゃんが元カレのことをそんなに引きずっているという話も聞いたことがなかったが、その話を「フーン、そっかー。」ってうなずいて聞いていたナオミが、ちょっとバカにした顔でエッちゃんを見た。カノはナオミのそういう所が好きじゃなかったが、どっちの味方もしたくなかったし、どっちにも味方が出来なかった。
カノはまだ男の子と付き合ったことがなかった。だから、2人の話にたまに乗れないときがあった。フツーの恋愛話なら別によかったが、先週ナオミがHな話を始めた時にエッちゃんまでもが自分の話をし始めて、ついていけなかったカノは「まったく、」と言って聞いていたが、ほんとはその話が早く終わって欲しかった。カノは、自分の話が出来ない自分が2人に対してかっこ悪かった。3人の中で自分が一番なにも知らないことは知っていたが、だからといってそれを2人に開き直るのも嫌だった。カノは自分だって一応性欲はあって本当に好きな人が現れるまで、といって処女を守っているわけでもなく、今は音楽しか興味がないと思っているように2人の前では装っていたが、本当はいまいち怖くて踏み出せなかった。だからまじめなエッちゃんが男の子に積極的だったのがカノは意外だった。
カノがナオミのエロ話に嫌がる素振りをする時、たぶんエッちゃんはカノが本当に嫌がってると思っていると思う。ナオミはカノが嫌がってるのは自分に話を振られたくないからだ、コイツ処女だから話についてこれてないんだって思って、もしかしたらカノが見てない所で笑っているのかもしれない。エッちゃんはそれに気づかないか、気づいていてもエッちゃんなら気づかない振りをして心の中で顔をしかめているのかもしれない。
そんなことを考え出すとカノは、自分の書いた歌詞を2人に見せられなかった。
カノは去年から歌詞を書き始めていたが、まだ誰にも見せたことがなかった。書いていることは2人に言ったことがあった。カノは恥ずかしいから見せたくないと言っていたが、本当は怖くて見せたくなかった。バカにされそうで、何の経験もないくせにこんなの書いちゃって、と思われるような気がして見せるのが嫌だった。
カノが歌詞を書いているノートはリング式なので、前の日に書いた歌詞を次の日に読み返し恥ずかしくなってページごと破ってしまっても見た目はキレイなままで、他の人には破ったページがあることはわからない。でもそれを続けていくと、キレイな白紙のままのノートがだんだん薄くなっていって、最後には中身のない表紙だけのノートだけがカノの手元に残る。そして、なにも書けないまま、なにかを書きたいという気持ちごと捨てることになってしまう。
カノは自分が書いた歌詞に恥ずかしくなるといつも、コケコッコーのことを考えた。彼らが大きな声で歌う青臭い、ニキビだらけの歌詞を思い出した。それはライブ後の彼らの身体から発する汗の匂いと一緒の、男と子供の中間のような生暖かい息吹に満ちていて、そばにいるカノの鼻の奥のほうを鋭く刺激した。
ハダカで歩きたい、と彼らは歌っていた。カッコ悪く生きたい、ワキ毛を剃らないままの君とハダカのままで、どこまでも歩いて行きたい、と歌っていた。モチヅキが書いたというその歌詞を初めて聞いた時、カノは自分のことを歌っているのかと思ってちゃんと処理してるのを思い返したり、モチヅキにワキなんて見せたことないけど、もしかしたらワキ毛が好きなのかもしれないとも考えたが、そんなにまじめに捉えるほどのものでもないと思った。
彼らは背伸びをしていなかった。背伸びしなすぎて、かっこつけなさすぎる彼らがカノには信じられなかった。思ったことをそのまま歌にしているだけの彼らが自分より才能があるかもしれないという考えが頭をよぎると、カノは握っている鉛筆が折れるほど、もどかしかった。
このままだと、そのうち追いつけなくなってしまいそうだった。置いてけぼりにされそうになってアセッてもノートは埋まらない。カノがなにか書いてやろうと思ってもどうでもいい言葉しか思い浮かばなくて、どうでもいい歌詞だと思っていたコケコッコーの言葉がカノの心を掴む日が、そのうち来てしまう。彼らはカノの先を歩いていた。カノはその、彼らのハダカの後ろ姿を見たくなくて、目を背けながら歩いているつもりで気づくと同じ所で足踏みだけをしていた。
ミツドモエにとっての2回目の文化祭の演奏は最悪だった。相変わらずカノたちの後の三年生バンド目当ての客ばかりで、カノたちのバンドが早く終わらないかという顔でクラッカーや紙テープをかまえて最前列に陣取っている上、前のダンスグループが予定時間を過ぎてもまだ踊っていて、さらに朝ケンカしたらしいエッちゃんとナオミの雰囲気も悪かった。
前日に遅くまでスタジオで練習して、それでも満足のいく仕上がりではなかった3人は、あとは各自で練習ということでとりあえず帰ることにしたが、エッちゃんの話ではナオミはその後男の子とどこかに遊びにいっていたらしく、それを自慢げに話したナオミにエッちゃんがキレて言い合いになった。カノが体育館のステージでノリノリで踊るダンスチームを横の袖からイライラして見ていると真剣な顔をしたエッちゃんが、3人で丸くなって手を差し出してオーとか言う、よくミュージシャンたちがライブでステージに出て行く時にやっている、あれをやろうと言い出した。
エッちゃんはこのままではマズイと思いそれを提案したのだが、それはちょっと恥ずかしいなとカノが思った瞬間ナオミが、そんなのダサい、と呟いた。それを聞いたエッちゃんが泣き出し、ああ最悪になってきたな、と思ったカノの耳に、ステージのダンスの終わりを知らせる、客のまばらな拍手が聞こえた。
結局ドラムとベースがバラバラのまま5曲の予定が3曲しかやる時間がなく、最悪の演奏のまま、その年のミツドモエのライブは終わった。
冬休みの前、モチヅキから「渡したいものがある。今日6時、ターニングまで来て欲しい。」というもったいぶったメールを受け取ったカノは、今日6時っていきなり言われても普通前の日かもっと前に言っとくもんなんじゃないんだろうか、別に予定はなかったけど当日言われてもし予定があったらどうするつもりなんだろうかと思ったが、どうせヒマなんだろうと思われてるのかもしれないとも思った。それに渡したいものってなんだろう、誕生日はまだ先だしなにをくれんだか知らないけど、もしなにか渡されてなにか言われるんならひとりで行ったほうがいいのかな、でも、ひとりで、とは書いてなかったしやっぱり誰かと行くかと思いカノは2年になり同じクラスになったエッちゃんに一応聞くと、「エーひとりで行くべきだよ告白されるんじゃないのわたしは別に行ってもいいけど明日から期末だからやっぱりやめとく。」と言われて、そんなことを言われるとドキドキしてきたカノが休み時間にナオミのクラスに行くと「あー、エッちゃんの元カレからメールあったよ。なんかCD作ったんだって、それの記念のライブだって。行くでしょ。」と言われた。ナオミも誘われていたみたいだった。
学校が終わって吉祥寺に向かったカノとナオミは6時までかなり時間があったので北口でお茶しながらしゃべっていて気づいたら6時半を過ぎていて一瞬ヤバいと思ったがアイツらのライブならいつも見てるし別にいいかと思い店を出てそれでもなんとなく早足で駅の反対側にあるライブハウスに向かおうと駅前のロータリーに差しかかった時、ひとつの管楽器の音が聞こえた。
カノはそんな音を初めて聞いた。学校のブラバンの気の抜けた演奏なんかと全然違った。カノはその音を、声みたいだと思った。それはまるで、誰かが歌っているみたいだった。
足を止めたカノがその音のほうを見ると、背の高い制服の女の子がひとり、金色の管楽器を吹いていた。同じ制服だった。彼女は目をつぶり、祈るようにトランペットを吹いていた。周りで聞いている人もいなかった。
カノは立ち止まっていた。自分がどこに行こうとしていたのか一瞬忘れた。彼女が吹くその曲は、メロディーだけなのに、カノにはそれが恋愛の曲だってわかった。
立ち止まり聞いているカノを、行かねーのかよ、とナオミが引っぱる。カノは歩き出しながらその曲を、いい曲だと思った。公園口へ抜けるサブナードに入ってもその音はまだ届いていて、遠ざかるカノの耳からだんだんと消えていった。
いい曲だった。いい曲だけど、さびしい曲だった。ライブハウスに着いても、コケコッコーのライブを聞いても、その曲はカノの中に残っていた。
あんなせつない曲は、聞いたことなかった。あの子は、どうしてひとりで吹いているんだろう。
ライブが終わってモチヅキから彼らのCDを貰っても、カノはあのトランペットの彼女のことを思っていた。反応が薄いカノからCDを受け取り、そのジャケットの写真を見て吹き出しそうになるのを押さえながらナオミが言う「スゲーじゃん、これでデビューして人気が出てモテモテになったらアタシらなんて相手にして貰えなくなるんじゃないの?」という心にもない言葉を真に受けて、イヤーそんなことナイヨー、と照れるコケコッコーの3人を見ても、あの曲がカノの頭から離れなかった。
彼らのCDのジャケットの写真を駅に着くまで笑い続けていたナオミと別れてから、カノはもう一度北口に行ってみた。その場所にはもう彼女の姿はなく、浮浪者のおじさんが座っていた。もう一度聞きたいと思った。モチヅキたちのCDなんかよりも、もう一度あの曲をちゃんと聞きたかった。あの曲は、誰かのことを思って書かれた曲だと思った。悲しくても、誰にも見せられない涙みたいな曲だった。
「あー、あのどもりの人でしょ。」元吹奏楽部のエッちゃんがなにか知ってるかもしれないと思ったカノは昨日のトランペットの彼女のことを昼休みに話した。エッちゃんは彼女のことを知っていた。「わたしももう辞めちゃったからよく知らないんだけどさ、なんか吉祥寺の駅の所で吹いてるんでしょ、まだ吹部にいる友達が見たって言ってたよ、その子もその時話したわけじゃないみたいだけどさ。なんかこわくて声かけらんなかったって。もともとあんま話さない先輩だったし、ちょっと変わってて。で、見たの、あの人?」
カノは、ヤキソバパンを頬張りながらしゃべるエッちゃんが言ったその、どもり、という言葉が気になった。意味は知っていた。小学校の頃、カノの近所にもひとり、どもりの子がいた。その子はカノが遊んだことのない同級生の弟で、兄弟でいじめられっ子だった。顔もよく覚えていないが、あまりいい家じゃなかったのか、通学路にあるその子の家は古い木造で、その家も、そのどもりの子も、あの頃のカノには暗い印象があったし、その、どもり、という言葉も、何か言ってはいけない言葉のように思っていた。だから、なんのためらいもなくその言葉を口にしたエッちゃんに、カノは少し驚いた。
「昨日さ、ターニング行く時あの裏側のロータリーのところで見た。」
エッちゃんは彼女のトランペットを聞いたことがないのだろうか。
「そんなことよりさ、」エッちゃんはカノが今日持ってくとメールしたコケコッコーが初めて作ったCDを早く見せてと言った。その手作り感あふれるCDのジャケットの中で楽器をかまえてカッコつけるコケコッコーの3人に爆笑してお腹を抱えるエッちゃんを前にカノは、もうあのトランペットの子のことを聞くのはよそうと思った。これ以上聞くと、エッちゃんがなにか怖いことを言い出しそうな気がした。
昨日見たあの彼女は、確かに話しかけづらかった。カノより1年上なだけなのに、もっと上に見えた。大人っぽいというのと違う、かっこよかったけど、少し不思議な感じだった。
「えっ、名前?フジ、フジサキか、フジカワ、ヨシコだったと思うけどなんで?」
たったひとりであんな演奏をできるなんてすごいと思った。同じ学校にあんな人がいるなんて知らなかった。
カノは今日もあそこへ行ってみようと思っていた。それで、もしいたら、なんていう曲か聞こうと思った。
9 ヨシコさん
初めて自転車に乗れるようになった日のことは今でも覚えている。それまで補助付きの自転車に乗っていた近所の子供たちが次々に補助なしで乗り始め、学校や近くの公園を彼らが彼らの新しい自転車で誇らしげに走り始めた頃、わたしもお父さんと家の前の道路で自転車の練習を始めた。後ろの荷台をお父さんに支えてもらい、よろよろしながら走り出したわたしは、お父さんが手を離すとすぐに転んだ。アスファルトに肘や膝を打ち、転ぶのが恐ろしくて何度も後ろを振り返るわたしに、お父さんは「前を見ろ!」と怒った。「ずっと持ってるからちゃんと前を見て!腕に力を入れてしっかりハンドルを握って!」何度も転び痛さと怖さで泣きながら、わたしは後ろのお父さんの気配を頼りに、前を向き懸命に補助が外された自転車のペダルを踏み続けた。
日が暮れて来て、飲み込んだ鼻水の味と頬の上で乾いた涙の匂いを嗅ぎながら、疲れで転ぶおそろしさも忘れかけていたわたしは、一瞬、自分の身体が軽くなるのを感じた。数メートル走ってブレーキを握って止まり振り返るとお父さんが向こうのほうで「やった、やった!」と喜んでいた。それまであんなに怖かった自転車が、その瞬間から当たり前のように乗れるようになった。不思議だった。お父さんの支えなしでもひとりで走っていくことが出来るようになったその日の夕方と、わたし以上に喜んでいたお父さんの笑顔は、家に籠りがちだったわたしに新しい自信を与えた。力の続く限りペダルを踏めば、自分はどこにでも行ける。そう思うだけで嬉しかった。自分の周りの世界がずっと広がったような気がした。
あれから15年後、わたしには、どこにも行くところがない。身体も大きくなって、行こうと思えばどこへでも行けるようになった今のわたしには、どこにも行くところがなかった。
夕食を出来るだけ早く食べ終えたわたしが言いたくもない、ごちそうさま、を母に言い2階へ逃げる階段に、リビングのテレビの大きな音が響き、それに負けないくらいの大きさの兄の声が聞こえていた。あの人はまた、テレビに向かって文句を言っていた。お父さんのピアノを聴きながら幼いわたしが絵本を読んだリビングはもう、あの頃のような心地いい場所ではない。お母さんの写真が置いてあったピアノの上には母の雑誌が重なり、ソファーには兄の匂いが染みつき始めている。
大声で電話をしながら母が音を立て歩く。一日中電話をしている彼女の楽しそうな笑い声が、自分の部屋にいるわたしの耳の中にまで響く。小学校の頃、お父さんのレコードを聞きながらわたしが隅々まできれいにしたこの家には、嫌な顔をする母に気を使うわたしが掃除をやめて以来、あの人たちの埃が溜まりはじめている。気にならないあの人たちには、そのほうが過ごしやすいのかもしれない。
コートを着て、トランペットのケースを持ち上げながら、このまま出て行けたら、どんなにうれしいだろう、と思うわたしは母に気づかれないように階段を降り玄関を出て、夜の空気を胸に吸い込んでから、自転車で走り出した。
夜は、昼間の余計なものが見えなくていい。これから先のことを考えさせない。ペダルを踏みしめて車のない交差点を斜めに走り抜けると、点滅する信号が、誰もいない交番が、月のかわりに冬を照らす街灯が、わたしの気持ちを落ち着かせた。夜がずっと続けばいい。冷たい空気を頬に受けながら、昨夜のフレーズがまだ残るわたしの唇と右指と共に、今夜やる曲のことを考える。昨夜もあの曲を吹いた。お母さんが好きだったあの曲を、わたしは飽きもせず、あの場所で毎回吹いていた。カノに話しかける勇気のないわたしは、彼女の前でちゃんとしゃべれる自信がないわたしは、手紙のかわりに自分の思いを詰め込んだあの曲を、トランペットに歌わせていた。
線路沿いの道に入ると、あの曲がいつか、カノに届いて欲しいと願うわたしの自転車を、後ろからきた吉祥寺行の急行電車が追い抜いてゆき、風で揺れた髪が乾いた唇を叩く。
いつも、あの曲を吹いてカノのことを思っていた。カノのことを思っているときだけがしあわせだった。どこにも逃げられなくて、誰も助けてくれないから、カノのことばかり考えた。だからわたしは吹けば吹くほど、つらければつらいほど、どんどんカノのことが好きになっていく。
最近、やっと自分が、カノのことが好きだって、ちゃんと思えるようになってきたのに、その思いを胸に秘めるわたしは彼女を、見ていることしか出来ない。それだけが、今のわたしに許された唯一のしあわせだった。
それ以上のことは出来ないから、毎日、このままでいいって自分に言い聞かせていた。それでもわたしの心の中の、カノのいる場所が、勝手に大きくなっていって、必死に押さえ込もうとする指の隙間からこぼれ出るその思いがわたしに、それ以上のものを求めていく。
環八通りの信号を渡りチャンスセンターというむかつく名前の宝くじ売り場を通り過ぎ高井戸駅を見上げると、さっきわたしを追い越していったはずの電車がまだ停まっていた。
待ってなくてもいいのに、急いでるんなら早くいけばいいのに。
わたしは別に急いでない。急いでなんか行きたくない。わたしは誰かに吹けと言われたわけでもないし、あそこで、わたしが吹くのを、誰かが待っているわけでもない。何千回あの曲を吹いたって、彼女の耳になんか、届くはずなんかないのに。
今まで、どんな嫌なことがあっても、彼女のことを思い浮かべれば耐えられたけど、もう、それも出来なくなってきていた。嫌なことが、逃げたいと思う気持ちが、わたしを引っぱって、どんどんスピードを上げていく。カノのことを思うわたしの歌声は、助けを呼ぶ声に変わりしだいに細くなって、かすれていく。昨夜も、カノのことを思って歌ったわたしのメロディーは、どこにも届かずに街の音の中に消えていった。
電車で行くのはやめて、このままもう少し、自転車を走らせることにしよう。人のいる電車に乗ると嫌なことを、あのことを考えてしまいそうで、逃げることばかりを考えるわたしが乗る急行電車の車窓から、カノを思い自転車を走らせるわたしが追い抜かれていくところを、見てしまいそうだった。
ここから吉祥寺まで、どの位かかるんだろう。自転車で行ったことはないけど、道はわかる。少なくとも線路沿いに行けば大丈夫だろう。もしここから吉祥寺まですぐだったら、学校まで、自転車で行けるのかもしれない。カノみたいに、自転車で通えるのかもしれないと思いわたしは、もう一度サドルに股がった。もう少し、このままでいたい。思い切りペダルを踏みしめるわたしの気持ちを、黒いチェーンに伝えてせつない悲鳴を上げ進んでゆくこの自転車で、もう少し走っていたい。
富士見ヶ丘の駅を過ぎた頃、線路沿いに走ってきたはずのわたしの視界から線路が消え、少し不安になりながら川沿いの遊歩道を走る。右のほうには操車場なのか何本もの線路が並んでいて、暗い無人の電車が見えた。このまま川沿いに行けば井の頭公園に着くはずだ。青黒い神田川の水の中に、汚くて長い水草がそよいでいて、川がどちら側に流れているのかわかる。
わたしは昔、この辺で迷子になった。自転車に乗れるようになって、普段慣れ親しんだ近所の川沿いの道の終わりを見たくなった小さいわたしは確か、今のようにこの辺りで急に不安になったのだった。
日が暮れてきて聞き慣れた5時のチャイムを見慣れない場所で聞き心細くなったわたしは、終りまで行くのをあきらめ、引き返すことにした。すると、橋があるたびに渡りながらこの場所に行き着いたわたしは、どちらの方向が正しいのかわからなくなっていた。
どちらかに行けば必ず、見慣れた近所の川沿いにたどり着けるはずだけど、間違った方向に進んで行けば一生家には帰れないと思い、橋の欄干から暗くなった川を見下ろしたわたしには、川がどっちに流れているのかわからなかった。流れている方向が家の方向だと思ったのに、家の近所の川に葉っぱやゴミを落として遊んだとき、その方向に流れていったはずだから、どっちに川が流れているかわかれば、どっちに向かったらいいのかわかると思ったのに、わたしが見下ろすその暗い水面は、見れば見るほど、どちらに流れているのか、わからなくて、まるで、どちらにも流れているかのように見えて、わたしの小さな胸を混乱させた。
あの時、わたしはどうやって自分の帰る方向を知ったのだろう。自分の吃音のことを自覚し始めていたその時のわたしは、通りかかる人に聞くことも出来なかった。石かなにかを落としたのか、水草で川の流れる方向を知ったのか思い出せないけれど、完全に暗くなってから家の近所にたどり着いたわたしは、スーツ姿のまま家の前に立つお父さんが自分の名前を呼ぶ声を聞いた。涙が出そうになったけど、ひとりで遠くに行って迷子になったのを知られると怒られると思い泣くのを我慢したわたしは、お父さんを見て、緊張で忘れていた足の疲れを感じた。家に帰れたことよりも、お父さんの顔をまた見れたことに安心した。
お父さんのところに行きたい。あの家を捨てて、お父さんのところに逃げて行きたい。近頃、普通にしてるときにでも「アッ」と急に大きな声が出てしまう。家でも、学校でも、電車の中でも、嫌なことが頭の中に広がってきて、それが自分の力では振り払えなくなると、声が押さえられない。周りの人が驚いた顔でわたしを見る。「その癖やめなさい!」と言った母の横でニヤニヤしていた兄。教室で隣の席の子が言った、「どうしたの?」電車の手すりにつかまりながら、叫び出しそうになる。手のひらで口を押さえるわたしは周りの人の声が聞こえるようで、必死に窓の外を見続ける。「なんなんだこいつは」「おかしいんじゃないの」次の駅で降りたい「迷惑なんだよ」「早く死ねばいいのに」「ひとりで首でもくくればいいのに」
このまま、消えてしまいたい。
そんな時わたしは、汗ばんだ手で、ポケットの中のマウスピースを握りしめる。あの曲を吹いている自分を思い浮かべて、カノの顔を必死で頭の中に思い描いて、助けて、と心の中に向かって叫ぶ。
あの家にいたくない。いたくないと思って飛び出しても、わたしには、どこにも行くところがない。
お父さんが転勤してしまうと、家族の態度が変わっていった。母は、むやみに微笑まなくなったわたしを最初持て余していて、お父さんに相談していたようだが、わたしを生意気だと思っていることは確かだった。お父さんの女であるあの人にとってわたしは、あの人の娘ではなく、家の中にいるひとりの女だった。
初めて会ったときからなれなれしかった兄は有名な大学に入ると自分に自信をつけたのか偉そうな態度をとるようになった。お父さんがいなくなった日からわたしを呼び捨てで呼ぶようになったそいつは父親のような口調でしつこく進路を聞き、勉強を見てやるなどと理由をつけて無理にわたしの部屋に入ってこようとする。聞いてもいない自分の大学の話を続ける兄を無視するわたしに、恥ずかしがらないで、これからはお兄さんを頼りなさいと、ワガママな娘を叱るように言う母は、自分の優秀な息子を妹思いな兄だと思っている。
そいつは兄なんかではなく、一緒の家の中に住んでいるただの男だった。あんたのかわいい息子が勝手にわたしの部屋に入って箪笥や机を物色しているのをわたしは知っている。下着が減っていたり、たたみ方が変わっていたりするのに気がついたわたしが部屋に鍵をかけると、次の日鍵穴をなにかで傷つけた跡があった。
それなのに、もっと気をつければよかった。あんなことしなきゃよかった。お父さんとの約束を破らなければよかった。約束を守って、ちゃんと学校に行っていればよかった。
よく学校をさぼるようになっていたわたしはその日も、いつものように家を出て、駅に向かわず近くをウロウロして時間を潰して、新しい家族がいなくなる時間が過ぎると家に戻った。2人とも向こうの親戚の家に行き、夕方まで誰もいないと思っていたあの日わたしは、わたしだけの時間を求めて、誰もいないわたしの家に帰った。
玄関を開けると、昔のこの家の匂いがした。この家に本当の家族だけが住んでいた頃の匂いがまだ少し残っていたのか、わたしの記憶の中にしか残っていない匂いが、わたしの頭の中だけでしたのか、懐かしくて、まるで、あの頃に戻ったようだった。そして、自分ひとりだけしかいなかったあの頃の時間に戻ったわたしは、あの頃のように裸になった。小さい頃、お父さんが出張でいない日、わたしはたまに裸で過ごしていた。服を全部脱ぐと、身体が軽くなって、すごく自由になった気がした。
お父さんの部屋は昔のままだった。天井まであるレコードの棚も、使い古されたステレオセットも、タバコの焦げた跡のある机もそのままで、さっきまでお父さんがいたみたいだった。カーテン隙間から陽の光がわたしの片足を照らしていて、その部分だけ暖かい。もうすぐ春がくるのかもしれない。高校に入ってやっと2年たったけど、もっと長かったように感じる。この家には思い出がいっぱいあるのに、あの高校にはなんの思い出もない。別に思い出なんかいらないけど、もし、もしカノとしゃべることが出来たら、思い出になるかもしれない。今日も学校に行っていたら、もしかしたらカノが見れたかもしれない。なにかがあって、もしかしたら、話す機会があったかもしれない、それで、もしかしたら、もっと近くで、カノの顔が見れたかもしれない。もしかしたら、もしかしたら、
その時、「何やってるんだ!」と笑うような叫び声が聞こえたかと思うと、誰かがすごい勢いで部屋に入ってきて、わたしの髪を掴んだ。はじめ何が起きたのかわからなかった。カノのことを思いお父さんの部屋のベットセットに裸で股がっていたわたしはそのまま引き倒され床に頭を打った。早く帰ってきたのか、もう夕方になっていたのか、すごい力で抱きついてくる兄は犬のように首の匂いを嗅ぎ、抵抗するわたしの頭を何度も叩いた。怖かった。あんな目をした人間を見たのは初めてだった。耳ががんがんして、手に力が入らなくなって目眩がしてきた。
一階で母の声がした。ただいまーと兄の名を呼ぶ声が聞こえると兄はわたしから離れ立ち上がり、「謝れ!」と裸のわたしを見下ろして母に聞こえるように大声で言った。二階に来た母に、こいつが裸で待ってたんだ、と兄はわたしを指差して言った。「勝手に親父の部屋に入って、裸で俺を待ってたんだ!」
人の家に入ってきて勝手にしているのはあんたらだ。わたしのお父さんを、親父なんて勝手に呼ばないで欲しい。何も言わず自分の部屋に帰ろうとするわたしに母は、お父さんが知ったらなんて思うの、と言い、睨むわたしの頬を叩いた。「兄弟をそそのかして!」
何を言っても無駄だと思った。何を言ってもわたしのほうが気違いになってしまうあの家の中に、わたしの場所はない。昨日わたしは、卒業したらそっちに行きたい、とお父さんにメールをした。返事はまだない。もしダメだと言われてもわたしには、他に行くところはない。
自転車の籠に乗せたトランペットのケースがガタガタと音をたてる。わたしは高校を卒業したらあの家を逃げ出すことに決めた。だから、今日で最後にしよう。あの曲を吹くのは、今夜でやめにしよう。それで、彼女のことをあきらめよう。どうせこれ以上のことが出来ないのならもう、むなしい思い出を作らないほうがいい。そうしないと、わたしは、どこにも行けなくなってしまう。
三鷹台の駅を過ぎた辺りから緑が多くなってきた。もうすぐ井の頭公園に着くはずだ。ここまで何分かかったのだろう。意外と近かった気もするけど、少し疲れた気もするわたしは、普段滅多に使わないギアを変えペダルを軽くした。段差を越える度に自転車の籠に乗せたトランペットのケースが跳ねる。昨日空気を入れたばかりのタイヤのせいで乗り心地は良く川沿いの暗い道を滑るように走っていけたが、漕ぐ度にチェーンかギアの辺りがギシギシ音をたてるのが気になり始めた頃、立教女子の横を通り過ぎた。小学校の時お父さんにこの学校の受験を勧められたことがあったけど、やっと出来た親しい友達と離れまた初めから友達を作るのが嫌だったわたしは、近所の公立の中学を選んだ。もしこの学校に通っていたら、今の高校に入ることなく付属の高校に進んでいて、もしかしたら今とまったく違う生活をしていたのかもしれないけど、家のことは同じだったと思うし、カノに会うことも出来なかった。やっぱり、今の高校でよかったのかもしれないと思いながらわたしは井の頭公園を通り抜けて吉祥寺駅のほうへハンドルを向けた。
今までの川沿いの道や住宅地と違い、井の頭公園からの道は人が多くて、丸井の看板は見えているのになかなか駅が見えてこない。これなら井の頭通りをまっすぐ来たほうが早かったかもしれないと後悔しながらやっとユザワヤの前を通り過ぎギアを元に戻した時、いきなりペダルを踏む足の力が抜けて前のめりに転びそうになった。
驚いてブレーキをかけ止まり自転車をおりて見ると、外れたチェーンがだらしなく垂れ下がっていた。吉祥寺駅の改札の出口の前から人を避けて高架下の端に自転車をとめる。どうしよう、こんなところでチェーンが外れるなんて。今までこんなことなかったのに。この辺りで自転車屋さんなんて知らないし、あってもこの時間なら閉まってるだろう。
人の多いこんな所いてもしょうがないから、いつも吹いている北口の閉店した銀行の前まで押していくわたしの壊れた自転車はカラカラとなさけない音をたてて、使えなくなったペダルが邪魔で歩きにくい。
銀行のシャッターの前に停めてよく見てみると、垂れ下がったチェーンは黒い油で汚れていて触りなくない感じだったけど、やってみれば簡単に直せそうにも思えて、トランペットのケースと手を拭くティッシュを脇に置いてから試してみる。初めて触るチェーンは見た目より重く、強く引くと手を切りそうでこわかった。おそるおそる持ち上げて、丸いギザギザまで引っぱっていっても、伸縮しそうな感触の割になかなか引っかかってくれなくて、本当にこれがはまっていたのか疑問に思えてきたわたしは自分の唇を触ろうとして急いで止めた。
手を見ると黒い油と茶色い錆で汚れていて、ティッシュがなくなるまで拭ってもまったく落ちなかった。
今日は置いて帰るしかないと思ってあきらめると、今夜初めて悲しくなった。
今夜はもう吹けない。こんな手で、トランペットを触りたくない。せっかくここまで来たのに、今夜あの曲を吹いて、それで最後にしようと思ったのに、それも出来ないと思うと、涙がこぼれてきた。
これ以上、引きずりたくない。お父さんのところに行くと決めたわたしは、早くカノのことを忘れなきゃいけない。この思いを残したままじゃ、お父さんのところに逃げていけない。
だから、カノ、お願い、わたしの中から出ていって。わたしを自由にさせて。
走れなくなった自転車の前にしゃがみ込むわたしが、涙を拭くティッシュもなく、汚れた手で流れてくる涙を拭っていると、後ろで誰かが、「今日は吹かないんですか?」と言った。
振り向くとそこには、カノがいた。
10 カノ
マクドナルドの2Fの向かい合わせの2人席で、あまり話さないヨシコさんと会話が途切れてしまうのが気まずくてしゃべりまくっていたカノは、ヨシコさんがじっと自分の顔を見ているのに気づいて我に返った。新しいギターがかっこいいけど意外と弾きにくいこととか、ナオミが万引きして捕まって店で土下座して許してもらったこととか、エッちゃんがコケコッコーの曲を鼻歌で歌っていたこととか、先週向かいでボヤがあって出てきたその家に人に「110番して!」と言われて生まれて初めて110番したら119番だったこととか、ヨシコさんに関係ないことばかりしゃべっていて、聞きたいことがあったのに、いろんなことを話しすぎて、それがなんだったのかすぐに思い出せないカノは、こうなるまでの時間をもう一度思い返した。
ここにヨシコさんと入ったのは、カノがこのマックでいいのか聞いたら、どこでもいい、みたいなことをヨシコさんが言ったからで、ここに来る前に行った他のカフェがどこもいっぱいだったからで、汚れたティッシュで手を拭いていたヨシコさんにカノが、どっかに入りませんか、と言ったからで、寒くなってきたし2人ともが手を洗いたくなったからで、2人ともの手が汚れていたのは、カノがヨシコさんの自転車のチェーンをはめてあげたら、ヨシコさんが、すごい、って言って本当に驚いた顔をしたその顔にチェーンの潤滑油がついていて、カノが、ついてるよ、って自分の頬のところを指でなぞったらカノの顔にもついてしまってそれを見たヨシコさんが、フフッ、って笑ったからで、カノがチェーンをはめながら、こういう時はギアを最大に緩めて後輪のチェーンをはめてからペダル軸のほうのギアに引っ掛けながらペダルを逆回転すれば一発だよ、と得意げに言ったのは、ヨシコさんが北口の銀行の前でしゃがみ込んで自転車を直そうとしていたからで、カノが、直してあげようか、と言ったからで、昨夜北口を通りかかった時にヨシコさんが吹いていた曲がカノの頭から離れなくてもう一度聞きたくて、今日もいるかもしれないと思ってわざわざ電車に乗って吉祥寺まで来たからだった。
そうだ、もう一度あの曲を聞きに来たんだった、と思い出した時、カノの携帯にメールが届いた。母親からだった。携帯の時計を見るともう11時を過ぎていて、ヤバいと思ってメールを開くと案の定、どこにいるの?すぐ電話しなさい、というメッセージの後に怒りのマークがあった。
ヨシコさんの前で母親に電話で怒られるのもかっこ悪いと思い、10分で帰ります、とメールを返してから、カノは、そろそろ帰る?と自分の携帯を開いていたヨシコさんに言って、メアドを交換してからマックを出て別れた。
ヨシコさんは別れる時、「あ、ありがとう。」と小さい声で言って携帯を持った手を振って、自転車で帰っていった。
それから30分以上してから帰宅したカノが、遅くなったことと、すぐに電話しなかったことと、あれから何度もあった着信に出なかったことを母親に怒られながら、ヨシコさんは大丈夫だったのだろうか、カノが、帰ろう、と言った時、ヨシコさんは自分の携帯の画面を深刻そうな顔で見ていたけど、彼氏か何かからメールでも着ていたのだろうか、と思っていると、「ちゃんと聞いてるの!」と怒鳴られたが、母親に怒鳴られるのは慣れているカノはそれでも今夜のヨシコさんのことを考えていた。
エッちゃんは、ヨシコさんのなにが変わっていると言ったんだろう。
カノは、カノが貸したハンドタオルを握りしめながらカノのどうでもいい話をちゃんと聞いてくれていたヨシコさんを、エッちゃんが言うほど変わってないと思った。ただ、確かに言葉が出づらいみたいだった。カノがヨシコさんの言ったことがよく聞こえなくて、思わず、えっ?と聞き返すとヨシコさんはちょっと悲しそうな目をして、カノのタオルを両手でギュって包むようにしてからもう一度、ゆっくりと話し出した。
初めカノも初対面で緊張していたが、カノ以上にカタくなっていて一年先輩なのに敬語でボソボソ話すヨシコさんを見ていると、カノは初めて会った時のモチヅキを思い出した。ステージの上ではこれでもかというほど自分をさらけ出し声がかれるほど叫ぶモチヅキは最初、カノの目を見て話せなかった。正面に座っているカノの周りを蚊が飛んでいるのかと思うほど目が泳いでいた。ヨシコさんはそれほどではなかったが、カノの胸の辺りを見て少しずつ話し、カノがしゃべっている時、たまに盗み見るようにカノの顔を見るヨシコさんをカノは、女と話すのに慣れてないモチヅキみたいな感じだと思った。
やっと母親の小言が終わって自分の部屋に入り、今日は疲れたからもう寝ようと思い部屋着に着替えてからカノはヨシコさんがアドレスを書いてくれたノートを開いた。ページの端のほうに、藤木芳子、とアドレスが小さな字で書いてあった。エッちゃんの言った名字と違っていた。真面目な感じの、地味な名前だった。
ヨシコさんのアドレスを登録するカノの耳に、窓の外からかすかな雨の音が聞こえた。ちゃんと自転車で帰れたのかな、帰る途中でまたチェーンが外れるといけないからギアは変えないように、って言うの忘れたな、と思いながらカノがカーテンを開けると、向かいの公園の街灯が霧雨の中にぼんやりと光っていた。
カノが話しかけた時、ヨシコさんは泣いていた。カノも遅刻しそうな時に自転車のチェーンが外れて泣きたくなったことはあったが、本当に泣いたことはなかったので、多分ヨシコさんは別のことで泣いていたのだろうとカノは思った。
カノはヨシコさんに話しかけてから、ヨシコさんが泣いていることに気づいた。話しかけちゃまずかったかな、と思ったが遅かった。カノを見てビクッてしたヨシコさんの様子にカノは最初人違いかと思った。立ち上がって驚いていたヨシコさんは後ずさって後ろの自転車に足をぶつけた。楽器のケースらしき物が自転車の脇にあったが、カノはこの人が昨夜トランペットを吹いていた人じゃなかったらどうしようと思った。この人は昨日みたいに制服を着てないし、そういえばカノは顔をよく見たわけではなかった。ただ、雰囲気だけは覚えていた。雰囲気とあの曲はカノの頭の中にはっきりと残っていた。
フラれたのかもしれない、この人はきっと彼氏にフラれて、悲しい思いをしたんだとカノは思った。だから、昨夜のあの曲はあんなに悲しかったのかもしれないと思い、でもカノは一応、エッちゃんから聞いていた名前を言ってみた。
「えっと、フジ…、ヨシコ、さん、ですよね?」
カノの目の前で怯えるように口に手を当てているその人は、赤い目でカノの顔を見つめながら、「…はい、」と小さな声で言った。
カノはエッちゃん家のバイト代で買った新しい黄色いレスポールをスタンドから持ち上げた。買った当初は部屋に立てかけてあるのを見るだけでうれしかったが、前のストラトと比べてブリッジが高くてピッキングしにくく、弾く度に前のストラトの感覚が懐かしくなったが早くレスポールに慣れたいカノは前のギターカバーのチャックに手が伸びそうになるのを我慢していた。使い慣れた前のギターに触ってしまうと、せっかく買った新しいギターを投げ出してしまいそうでこわかった。
前のストラトはカノが14才の誕生日に買って貰ったものだった。今まで服や現金しか欲しがらなかった娘からギターが欲しいと言われた母親は、何で?と驚いていた。買ってもらった日、カノはその買ったばかりのギターにストラップをつけて首を通すと、部屋の姿見に自分の姿を映した。そこにはギターを持った制服の女の子が立っていて、誇らしげな顔でこちらを見ていた。カノは、今まで買ってもらったどんな服を着た自分よりも、鏡の中のその赤いギターを下げた自分の姿が気に入った。
教本を見ながら毎日練習した。学校から帰ると手も洗わずにギターを持った。深夜までアンプを通して練習して父親に、いいかげんにしてくれと言われた。やっと好きな曲のフレーズが弾けるようになった日、早く誰かに聞かせたいカノが母親の前で自慢げに弾いてみせると、夕食を作りながら台所でそれを聞かされた母親は興味無さそうな笑顔ですごいねと言った。
雨はまだ降っていた。12時以降は弾くなと父親に言われているカノが膝の上の黄色いレスポールを控えめに鳴らすと、シャリーンという音が外からの雨音の中にさびしく響いた。雨は次第に強くなってきたようだった。
今日母親は遅く帰ったカノを怒りながら、「将来のこと、なんにも考えてないんでしょ!」と言った。遅くなって連絡をしなかったことを怒られているのに、そのことは今関係ないんじゃないか、と思ったが言い返すとまた長くなりそうなのでカノは黙っていた。
近頃進路のことでよく小言を言う母親にカノはうんざりしていたが、なんにも考えてない、と言う母親に、音楽をやりたい、と言い返す自信はなかった。それを聞いた母親が100%バカにすることはわかっていたし、その次に、じゃあそれに対してなにか努力してるの?と言われてもカノは自分がなにも言えないこともわかっていて、もし言い返せば、いつも口ばっかりで、なんにもやり遂げた事がないじゃない、と言われた自分がくやし涙を流しながら自分の部屋へ逃げていくこともわかっていた。
カノは母親に進路のことを言われた後、よく歌詞を書いたノートを破り捨てた。破り捨てながらコケコッコーのCDも割ってやろうかと思ったが、ジャケットの3人のバカな写真を見て、それだけは止めといてやるよ、とつぶやいて視界に入らないところに彼らのCDを置いた。
文化祭が終わると進路相談があった。カノの成績は1年の時よりも落ちていた。一応進学ということで面談を受けたが、今のカノの偏差値を知る担任はだれも聞いたこともない大学と短大を提示してきた。
エッちゃんは卒業をしたら製菓の専門学校に行くと言っていた。ナオミが受験のことを何か言っていた時、よく聞いていなかったカノはナオミが大学に行くのか行かないのか忘れてしまったが、その時にみんながちゃんと将来のことを考えていることに驚いたことだけは覚えていた。
カノは、モチヅキがどうするのか、コケコッコーをずっと続けるのか聞いたことがなかった。どうしても彼らが予備校に通ったり模試を受けたりしているところを想像出来なくて、あのまま3人はバカな歌を歌いながらずっとコケコッコーを続けていくような気がしたが、それよりもカノはミツドモエのほうが危ないと思っていた。このままコピーばかりしていても、ミツドモエはこれ以上前へ進んでいかないとコケコッコーのライブを見る度に感じていた。
他の2人には言ってなかったが、カノはコケコッコーのようにライブハウスに出てみたかった。以前モチヅキは、デモテープ持ってけば出れるぜ、今度持ってってやるよ、と簡単に言った。それだけかよ、とその時は答えたが、本当はそのモチヅキの言葉にカノは鼓動を早くしていた。実はその時、練習の時に録ったデモテープを持っていて、ちょうど鞄の中に入っていたのだが、今どこにあるのかわかんないから今度探しとく、とカノは嘘をついた。
カノは怖かった。ライブハウスの人にデモテープをけなされていろいろ指摘されて結局ダメだと言われるのも怖かったし、そのことをモチヅキに知られることも嫌だった。
カノは、カノたち3人が軽音楽部の中では上手いほうだと思われていることはわかっていたが、ミツドモエはコピー専門だと思われているのも知っていた。それに対して他の2人は別になにも感じていないようだったが、カノは先輩後輩に対して、オリジナルなんて作ろうと思えばいつでも作れるけどあえてコピーをしている風に装っていて、みんなもそういう風に思っていると自分では思っていたが、本当は自分が他人のコピーしか出来ないんじゃないか、と誰にも言わず悩んでいた。
モチヅキはたまに、オリジナルやんないの?とカノに聞いた。モチヅキはミツドモエの練習に来て一緒に合わせたこともあり、カノたちがそれほどヘタではないことは知っていたが、ナオミがコケコッコーのライブの度にお世辞にしろ褒めてあげているのに、カノはモチヅキからミツドモエの演奏を褒める言葉を聞いたことがなかった。
モチヅキはミツドモエのことをどう思っているんだろうと思いながらカノは新しいギターで、コケコッコーがいつもライブの一番初めにやる、アナーキー•イン•ザ•コケコッコーという彼らのテーマソングを弾いてみた。シンプルなリフは覚えやすくて耳についたが、実際弾いてみると意外と難しくて、慣れないとモチヅキのように早口で歌いながら弾くのは大変だった。
モチヅキはへんな曲ばかり作り、自分で自分の曲を、なんていい曲なんだ、とよく言っていて、それを聞く度にイラッとするカノは、どこが?と本気で聞いていたが、モチヅキはあれでも、ある程度は自分のやりたいことを形に出来ているのだろうとカノは思っていた。そして、モチヅキと一緒にするのは失礼かもしれないが、あんなすごい曲を吹けるヨシコさんも自分の思い通りの音を出せるのだろう。
カノはヨシコさんのあの曲を口笛で吹いてみた。ギターでも弾いてみたが、メロディーをそのまま弾くだけしか出来ないカノには、あの曲の雰囲気は出せなかった。そこには絶対的な、なにか、が足りなかった。
あの時カノは北口で吹いていたヨシコさんの前を通りかかっただけだった。一曲全部聞いたわけでもなかった、歌詞があったわけでもなかった。それなのに、カノが一年考えても言葉に出来ないようなものが、トランペットの音に乗ってカノの心の奥のほうに直接届いた。
それは、なにかの形をしていた。でもカノにはそれが、なんの形かわからなくて、そのわからない何かが今日の朝、目を覚ました時にもまだ、カノの心の中に残っていた。
カノはコケコッコーの曲をいいとは思わなかったが、エッちゃんが無意識にしても鼻歌で歌っていたということは、彼らの曲がエッちゃんの心の中に残っていて、ヨシコさんの曲がカノの中に残ったように、エッちゃんの心のどこかに、コケコッコーの曲が引っかかったのだろうと思った。
カノにはわからなかった。どうしてだろう。どうしてそういうことが出来るのだろう。そして、どうしてわたしにはそれが出来ないんだろう。
強くなってきた雨が窓に当たる音を聞きながらカノは、いつもひとりで練習していた中学の頃を思い出した。あの頃と比べれば、今仲間と一緒にバンドをやっている自分が、少しは前へ進んでいると思っていたが、新しいレスポールにはなかなか慣れない。初めて練習に持っていった時、エッちゃんは、かっこいいー、と言ってくれたが、弾き始めると、ヘタんなってんじゃん、とナオミに言われ、エッちゃんも頷いた。
どこからか走ってくるバイクの水をはじく音が、2階の部屋にいるカノの耳に聞こえた。次第に大きくなってきたその音はカノの部屋の下を通り過ぎ、そしてだんだんと遠ざかり小さくなって、部屋は再び雨の音に満たされる。
カノの部屋の窓に当たる雨の粒は、思い思いに折れ曲がった筋を作り、それぞれの早さで下の窓枠まで降りていく。早いものは他の筋と交わることなく、すぐに下までたどり着き、折れ曲がり途中で留まるものは、上から流れてきた他の筋に飲み込まれ、ひとつになり道を変え、太い筋になったまま窓枠までたどり着き、先に行き着いていた筋たちと一緒に、ただの雨水として、どこか、カノの知らないところへ流れて、消えていく。
このまま、弾き続けるしかないのかな、とカノは思った。一刻も早く、誰が見てもかっこいいと思う、この黄色のレスポールに負けないくらいになりたくてアセッても、楽器屋のお兄さんが言ったように、毎日さわってあげて、慣れるしかないんだよ、と自分に言い聞かせても、気がつくと弾きにくいと感じている右手は止まっていて、やっぱり黒のほうがよかったかもとか、やっぱりテレキャスの黄色にすればよかったのかもとか思ってしまい、ついつい懐かしいストラトのギターカバーに伸びてしまう手を慌てて引っ込める。ダメだ、ダメだと思い、触り心地のいいレスポールのボディを撫で、こんなにかっこいいのにな、と思いながらカノは、ネジを調節してみたり、新しいピックに持ち替えてみたりする。
本降りになった冬の雨は、黄色いレスポールが自分には似合わない、と思いたくない窓の中のカノの上に、いくつもの道を作り流れていく。その窓に背を向けるカノは、ステッカーを貼ったらかっこいいかな、と思いながらその新しいギターで自分の得意なフレーズばかりを遅くまで弾き続けていた。
次の日の5時間目、カノはヨシコさんから、昨夜はありがとう、タオルを返したいのですけど、というメールを受け取った。その日の夕方早くからスタジオを予約していたカノたちは学校が終わったらすぐに吉祥寺に向かおうと思っていた。別にいいのに、と思いながらカノが、汚いタオルだからいいよ、いらなかったら捨てちゃってよ、と返すと、渡したいものがあるんですけど、という、どこかで見たことがあるような返事が返ってきた。急いでもギリなんだけどな、と、もどかしく思いながら一年先輩に、じゃあ今すぐクラスまで持ってきて、とはさすがに言えないカノは、放課後校門のところで待ち合わせをした。
終礼が終わり、カノたちのクラスにベースを持って現れたナオミは酒臭かった。コケコッコーの3人をクラブに連れて行って遅くまで飲んでいたというナオミはテンションが高く、エッちゃんの胸を揉んではオッサンみたいな笑い声を上げた。カノがそのナオミを連れエッちゃんと3人で待ち合わせ場所に行くと、下校する沢山の生徒たちの中、校門に並び背の高いヨシコさんが鞄と紙袋を下げ立っているのが見えた。
その時、カノにはその姿勢よく立つ制服の女の子が、昨日のヨシコさんと少し違う感じに思えた。昨夜チェーンの外れた自転車の前でしゃがみこみ泣いていたヨシコさんとは別人のような彼女は、友達たちと声を上げ帰っていく他の生徒たちの中で、ピンと背筋を伸ばし1人で立ち、なにか話しかけづらい雰囲気があった。
3人が近寄ると最初に、面識があるはずのエッちゃんが、「…こんにちは…」と小声で言ってから下を向いて黙った。ヨシコさんは、ああ、と言っただけで、それ以降エッちゃんのほうを見ようともしなかった。そんなエッちゃんとヨシコさんを交互に見てニヤニヤするナオミを前にヨシコさんはカノのほうだけを見て、緊張したようなカタい微笑みを浮かべた。
「きき、きっき、ききの、きの、きのう、昨日は、じじ、じじじ自転車、ああ、ああり、ありが、ありがとう、ありがとう。」
顔を少しゆがめながらヨシコさんは、カノの顔だけを見てそう言った。
昨夜のヨシコさんはカノと初対面で緊張していたのか、最初は上手く話せなくて何度もつらそうに言い直していたが徐々に慣れてきて表情も明るくなり、最後にはほとんど言葉に引っかからずに話していたが、カノには、今日のヨシコさんは元に戻ってしまったというか、キツい顔をしていて、気が張っている感じに思えた。
そのヨシコさんに不安な感じを抱いたままカノが「あっ、こっちがエッちゃんでこっちがナオミ。エッちゃんは吹奏楽部で知ってるでしょ。ナオミは、ほら、店で土下座した…」と言いかけるとナオミが肘でカノの脇腹を強く突き、見るとこわい顔で一瞬カノを睨んだかと思うとウフフと笑った。エッちゃんはまだ下を向いて黙っている。カノが苦笑いを浮かべてヨシコさんを見ると、2人をまったく見ないカタい微笑みのままのヨシコさんは、「あ、あ、あ、あの、こ、こ、ここ、これ。」と言って小さめのかわいい紙袋を差し出した。
その時突然ナオミが「うわーありがとう!!」大声で言ったかと思うと、その紙袋をヨシコさんから取り上げた。
カノが驚いていると、厳しい顔になったヨシコさんはナオミの正面に立ち、上から見下すようにナオミを睨んだ。ヨシコさんはナオミの頭半分位背が高かった。ナオミは顎を上げ、「なんだよ冗談だよ。」と言い、見上げるように睨み返す。
いったいなにが起きたのかと思いカノがエッちゃんのほうを見ると、エッちゃんはこれから始まるケンカを見届けようとするかのように少し離れたところで腕組みをして睨み合う2人を見ていた。
カノは訳が分からなかったがとりあえず2人の間に割って入りナオミから紙袋を取り上げ、ナオミを睨み続けるヨシコさんに「ごめんねごめんね、別によかったのにー。」となだめるように言うと、ナオミが「ヘッ!」とバカにしたように笑った。
どうしてこうなるのだろうとカノは思ったが、とりあえず二日酔いのナオミをヨシコさんから離したほうがいいと思い、紙袋の中身もわからないのに、「ありがとうね、こんなもの貰っちゃって、でもゴメンネ、ちょっと今日急いでるの。」と、ヨシコさんと、あとの2人にも聞こえるように言い、まだ睨みをきかせるナオミを引っぱっていきその場を離れた。
ヨシコさんは駅の方向に向かうカノたちを見送るように校門のところに立ち、離れていくカノを見ていた。少し歩いてからカノが振り返り大きな声でヨシコさんに、ありがとー、と言って手を振ると、遠くてよく見えなかったが笑顔で振り返してくれた。曲がり角をまがる前に、もう一度カノが振り返ろうとすると並んで歩いていたナオミがいきなりカノに肩を組んできて、なー、と気持ち悪い声を出し、チラッと後ろを見た。カノに、もう見るなということなのかわからないが、ベースを背負った酒臭いナオミに肩を組まれ体重をかけられ、密着されて頬をすり寄せられると、カノは気味が悪くなった。
なんでなの?と怒るカノにナオミは、別に、とか、なんとなく、しか言わなかった。エッちゃんは、「やっぱりこわいでしょあの人。あたしあの時殴り合いになるんじゃないかと思ったよー。」と言った。
そのあとのエッちゃんの話によると、エッちゃんが吹奏楽部に入部した時のヨシコさんは、背は高いけどおとなしい感じで、トランペットは部の中でも一番上手いのに、あまり目立たない先輩だった。でもカノたちが一年の時の文化祭が終わった頃から、ヨシコさんの様子が変わってきた。以前ならミーティングの時もただ微笑んで何も言わなかったヨシコさんは、言葉に詰まりながらも思ったことをはっきり言うようになった。前なら後輩にもちゃんと指導していたが、それからは勝手に練習させて自分はたまにしか顔を出さなくなった。エッちゃんが吹奏楽部を辞めたのはその頃だそうだ。「なんかみんなの雰囲気も悪くなってきちゃってさー、うわべだけは仲良くやってるんだけど、裏ではなんかドロドロしててさ。別にあの人だけのせいじゃないと思うけど…。」
エッちゃんが吹奏楽部を辞める少し前、先輩のひとりがヨシコさんのどもりを笑ったらしい。おとなしかった頃のヨシコさんは困ったような顔をして流して、気にもしない風だったが、その時のヨシコさんはそのどもりを笑った先輩に向かって行き、思いっきり頬を引っ叩いた。
「こわかったよー。バシンって音が音楽室の中に反響してその先輩も結構痛かったみたいでしゃがみ込んじゃってさ、みんなシーンとなっちゃって。」そうエッちゃんは話しながら自分の手のひらをビュンビュン振った。ナオミは水をガブガブ飲みながら、へー、やるじゃん、と感心していたが、カノは、エッちゃんのその話を聞いても、ナオミと睨み合っていたヨシコさんを思い出してもまだ、昨夜の、壊れた自転車の前でしゃがみこんで泣いていたヨシコさんの涙に濡れた頬と、その前の日のあの、せつなくてきれいなメロディーのほうが、本当のヨシコさんのような気がした。
練習が終わって行ったマクドナルドでやっと酔いが覚めたナオミがカノに、その袋早く開けて見ろよ、とせかすと、エッちゃんは、家に帰ってからのほうがいいんじゃ…、と一応言ったが、2人とも中身が気になっていたようだった。
カノは、どうしてこれを貰うことになったかは簡単に2人に話したが、ヨシコさんが泣いていたことは言わなかった。カノが、この為に買ってきたであろう地味だけどセンスのいい紙袋に貼ってある音符のシールの封が破れないように慎重に剥がすと中には、紙袋に入れられたカノのタオルと、ラッピングされた一枚のCDが入っていた。
おっ、CDじゃん、と言って、カノより先にそのラッピングを破いて開けたナオミは、そのジャケットを見るなり、「誰これ、シラネー。」と言ってすぐにカノに返した。モダンな感じのジャケットに書いてある5人のミュージシャンをカノは誰も知らなかったが、それを見たエッちゃんが「このビル•エヴァンスっていうピアノの人、超有名だよ。他の人はよく知らないけど、このドラムのフィリー•なんとかっていう人も聞いたことある。なんかさ、このタイトルのインタープレイっていう言葉ってジャズだけじゃなくて他のジャンルでもよく言わない?楽器どうしで会話するっていうか、みんなで演奏していく時に、それぞれが他の人の音を聞いて、それで、聞いた人がそれに反応していってさ、アドリブとかで。それでみんなの音を高めていく、みたいな。いいなー、良かったら貸してね。」と言った。カノはエッちゃんの話がわかったようでよくわからなかったが、ナオミはもっとわかってないみたいだった。
部屋に帰りプレーヤーのトレイにヨシコさんのCDを置きプレイボタンを押しながら、エッちゃんのなんとかプレイの話からすると小難しい感じがして、趣味じゃない服とかもらうよりはいいけど、こういうプレゼントって一応感想言わなくちゃいけないから面倒だな、曲の感想って、カッコイー、とかだけだと頭悪そうだしな、前に音楽の時間にクラシック聞いて感想書けっていう時なんの言葉も浮かばなかったもんなー、ジャズかー、つまんなかったらどうしよー、ロックとかならまだよかったのにぃ、と考えていたカノは、スピーカーから鳴り出したそのイントロに、チョーカッコイイーーと叫んだ。
カノはその、いきなりのスリリングなピアノの後のトランペットとギターの絡みにワクワクした。それはまるで、何かかっこいいことが始まる予感と共に、トランペットとギターの2人が歩みを揃えて、チカチカする街灯が照らす夜の道を、黒い帽子を被った敵に自分たちの影を踏まれないように、ハイハットのリズムで慎重に走りだすようで、その2人の行動をベースのラインから予測した、黒い帽子のボスであるピアノは先回りし待ち構えていて、実はスパイであった子分のドラムと一緒に、これからトランペットとギターが繰り広げようとするストーリーを、さらにハラハラする展開にしようとスピードをつけて追い込んでゆく、そんな白黒のギャング映画の登場人物のような5人のミュージシャンたちは、全員が主役で、それぞれが密接に関係する、音だけで出来たストーリーの中で自由に動きまわり、跳ねまわる相手を見て自分も飛び出してゆく。相手と一緒に演奏することが、楽しくてしょうがないという、いくつもの気持ちがCDプレーヤーを越えて、聞いているカノの中にも伝わってきた。
スピーカーの前で居ても立っても居られなくなったカノは、この気持ちを早く誰かに伝えたくて、携帯でヨシコさんの番号を捜した。もどかしい呼び出し音を聞きながらカノは自分が、車で過去に戻る映画の中で男の子が弾くジョニー•B•グッドに感動してどこかへ電話をかける、あの黒人の人になった気がした。
11 ヨシコさん
わたしはあいつらが嫌いだ。わたしがなにかを失くす頃、まるで祝うかのように花を咲かせるあいつらは、自分の中で秘かに育ててきたものたちを一斉に、惜しげもなく散らしてしまう。
家の近所の川縁に、毎朝乗る電車から見える公園に、学校の塀沿いにいるあいつらが花を咲かせる頃になると、やっと仲良くなったと思っていた友達たちはみんな、当たり前のような顔をして、わたしから離れていった。
別れるために親しくなったんじゃなかった。別れてしまうためにわたしはその子に話を合わせ、微笑んでいたわけじゃなかった。
だからもう、無駄なことは止めようと思っていたのに、今年も川沿いの桜並木には静かに、散るための蕾が育つ。
「今年は早く咲きそうね。」早くカノに会いたくて道を急ぐわたしに、近所のおばさんが言った。それなのに、それに気づきたくないわたしはまだ、彼女の欠片を集め続けようとしていた。
お父さんのいる場所にも、あいつらはいるのだろうか?あいつらが自らを散らせる前にお父さんのいるシカゴに逃げていけば、わたしはもう、あいつらの欠片たちが人々に踏まれ、泥にまみれ、水のない川を屑のように流されていくのをもう、見なくても済むのだろうか。
あの夜、カノと初めて話すことが出来たわたしの携帯に、お父さんからのメールが届いた。その中身を知りたくないわたしは今日まで、そのメールを開けられなかった。
願書を出していた大学の入試には行かなかった。お父さんからのメールには、お前がそうしたいなら、なるべく早く来て、こっちに慣れたほうがいい、と書いてあった。
お父さんは怒っているだろうか?やさしく向かえてくれるだろうか?どうしてこっちに来る気になったのか、くわしく聞きたがるだろうか?それにわたしはちゃんと答えられるだろうか?ちゃんと答えなくてはいけないのだろうか?全部、お父さんに言わなくてはいけないのだろうか?
わたしが、兄に犯されたことや、口で処理させられていることを。
親父の部屋で何をしていたのか、メールで送ってやろうかと言いながら兄は、スウェットを下ろして、自分の大きくなった性器を見せた。「それでもいいのか?」
「お袋がいつもお前に言うだろ、ヨシコさんはお兄ちゃんの言う通りにしてればいいんだよ。」
お父さんにだけは、知られたくなかった。
兄がわたしを初めて犯したとき、わたしは抵抗した。でも兄の力にはかなわなかった。わたしの口を手のひらで押さえつけ、「静かにしろ、静かにしろ」と兄は終わるまで何度も言った。
初めてだったわたしはたくさん出血した。止まらなくなるんじゃないかと思うくらいの血はわたしの白いシーツを真っ赤に染めた。わたしは恐ろしかったが、兄はわたし以上に動揺していた。
そのことがあってから兄は、わたしの口を性器として使うようになった。口の中に射精する兄に吐き出すなと口を押さえられ、咳き込んで鼻からその濁った兄の体液が流れ出た。その顔を見て兄は笑った。
わたしは、水のない神田川を屑のように流れていくその欠片たちを、きれいだと思ったことがない。
カノは、あの曲吹いてよ、と何度も言ったけど、わたしは吹かなかった。曲名も教えなかった。
ほら、この前吹いてたじゃん、自転車壊れた日の前の日さ、あれ聞いてさ、いいなって思ったんだよね、ねえ、あれなんて曲?あれのCDないの?
あの曲は、カノに届いていた。
あれ以来吹いてなくない?なんで?何の曲って、ヨシコさん覚えてないの?ウソでしょ、いい曲なのに、と言いカノは口笛を吹き出した。
知らないふりをするわたしは、ホラホラ、と言いながら口を尖らして、お母さんが好きだったあの曲を吹くカノの薄い色の唇が好きだ。
「…そんなんじゃ、わかんないよ。」と笑うわたしは、どうせ音痴だよって言うカノの男の子みたいな声が好きだ。
あーギター重いー、ヨシコさんさっき体育疲れたよー、ギターあるけど今日自転車でくればよかったよー、いいなー自転車—、ちょっと乗らしてよー、あたし漕ぐから代わってよー後ろ乗っていいからさヨシコさん、と言うカノに自分の自転車を代わり、荷台に座るわたしは、目の前でやさしく風に揺れるカノの柔らかい髪が好きだ。
ねーねーヨシコさんヨシコさんてさーあだ名とかなかったの昔、なんとなく言いにくくないヨシコさんって?と聞くカノに、…べ、別に、と答えるわたしは、後ろからわたしが摑まるカノの薄くて細い肩と、わたしの手の中にあるカノの身体の温かさが好きだ。
そーだよねーヨシコさんってツンツンちゃんだからねー、あだ名とかって感じじゃないのかもねー、エッちゃんも怖いって言ってたよ、ヨシコさん怖いって。もっとやさしい感じにならなくちゃダメだよ、そしたらモテるんじゃないヨシコさんかっこいいから、と言うカノの言葉を鼻で笑ったわたしは、こっちを見るカノの大きい目と、よくしゃべるカノの息の匂いが好きだ。
ひとは第一印象だからねー、ツンちゃんとか呼ばれちゃうよーそのうち、ねーツンちゃん、と後ろのわたしを振り返りながらカノは自転車を漕ぐ。まえ、前向いて、とわたしがカノの頬を前に押すと、それに抵抗するカノは、ツンちゃーん、ツンちゃーん、と人のいる道で大声で叫び出す。
先を歩く生徒たちがわたしたちを振り返るほどの大きな声が恥ずかしくて、やめろっ、とカノの口を手で塞ぐわたしは、それでも声を出し続けるカノの子供みたいなところが好きだ。
2月の夕方の陽の光がわたしたちを照らしていた。
カノの口を塞いだ時、わたしは手のひらで、彼女の唇を感じた。その手のひらをわたしはカノに気づかれないようにそっと、自分の唇に押し当てた。あの時の学校の帰り道には、わたしたちの影が伸びていた。わたしと、カノと、2人の乗る自転車の影がひとつになって、夕日で淡い色になった帰り道に、長くどこまでも伸びていた。
そのあとカノと行った駅前のマクドナルドで遅くまでしゃべった。カノはわたしに、大学行くんでしょ、と聞いた。わたしは行くと嘘をついた。言わないまま、黙って行こうと決めていた。最後まで、別れることを秘密にしておきたかった。だから、行く前に、彼女の欠片が欲しいわたしは、カノがトイレに行った隙にカノの鞄を勝手に開け、ポーチから彼女のリップを盗んだ。
12 カノ
カノはギターカバーのチャックを開け、取り出した赤いストラトのストラップを肩にかける。カノは初めてひとりでスタジオを借りた。エフェクターにつないだシールドのジャックをストラトに差し込むと、スピーカーがブーンと静かな音をたてる。この瞬間が好きだった。ひさしぶりの肩に擦れる懐かしいストラップの感触とストラトの重さにカノは一年の文化祭のステージと、ナオミの言葉を思い出す。
一昨日の昼休み、ナオミがカノに、モチヅキとはどうなってんの?と聞いてきた。最初ナオミがどうしてそういうことを聞くのかわからなくて、別に、なんでもないけど、と答えたカノにナオミは、あっそー、なんだそっかー、と言ってから、実はモチヅキとヤったと言った。なんだ気にしちゃったよ、と笑うナオミにカノはなにも言えなかった。
カノは正直モチヅキは自分のことを好きなんだと思っていた。どうしてそう思っていたのかはわからないが、なんとなくそう思っていたし、モチヅキはそういうことと無縁な感じがしていた。だから始めナオミが言うことがピンとこなかったし、やっとわかっても、あのモチヅキがナオミとヤっているところを想像出来なかった。
カノは教本で覚えたペンタトニックスケールを下から順に弾き、下にくるとまた上に戻る。それを何回も繰り返しながら、身体でリズムを刻んでいく。ひとりでいると広く感じるいつものスタジオで、スケールの中を行ったり来たりするカノは、先週の父親の怒った顔を思い出す。
食事中に進路のことを母親にうるさく言われ、黙って聞いているのにも限界がきたカノは、別に大学行かせて貰わなくてもいいんですけど、と言い捨てて箸を置いた。「お金もったいなくない?うちだって大変なのに無理して貰わなくてもいいんだけど、自転車屋なんだからさ。」
自分の部屋に帰ろうとしたカノは、今まで黙っていた父親に引っ叩かれた。
「本気で言っているのか?学費のことが心配なら、積み立てていたのがあるから安心しろ、もし出て行きたかったらすぐに出て行っていいぞ。」
カノは母親にはよく叩かれていたが、父親にはひさしぶりに叩かれた。出て行っていい、と言われても出て行けない自分が情けなかった。次の日学校に行く前にコンビニで無料のアルバイト雑誌を何冊も貰ったカノは、ペラペラめくっただけで帰りにゴミ箱に捨てた。
カノは、このギターが好きだと思った。懐かしい、触り慣れたこのストラトのほうが、あのレスポールよりも軽く指が運ぶカノは、スケールの中でフレーズを作り始める。高いポジションでチョーキングをすると指にざらつく古い弦の感触にカノは、昨日のヨシコさんの声を思い出した。
昨日の夜、吉祥寺の駅前でヨシコさんのトランペットを聞いた後、カノはヨシコさんの家に行った。大きな家だった。リビングからテレビの音がしたが、ヨシコさんは何も言わず2階上がっていった。
広いその部屋はヨシコさんの匂いがした。レコードとCDがたくさんあった。カノの知らないものばかりだった。ヨシコさんの、好きなの持ってっていいよ、と言う言葉によろこび、床に座り目についたものをプレーヤーでかけながらカノは、自分の横にぴったりくっつくヨシコさんの身体の熱さを感じていた。スピーカーからはピアノのソロが聞こえていて、床の上に置かれたカノの手に自分の手を重ねてくるヨシコさんは、いつもと違う雰囲気だった。カノの手の上で、ヨシコさんの手のひらは汗をかいていた。
どうしたの、とカノが言おうとしてヨシコさんのほうを見たとき、ヨシコさんの顔がカノの頬に近づいていた。えっ、と驚いて身を引こうとするカノの上にヨシコさんの体重がかかる。押し倒されて仰向けになったカノが笑おうとして見上げたヨシコさんは、真剣な顔をしていて、熱い息がカノの顔にかかった。やめて、と小さな声を出したカノの口を手で塞いだヨシコさんは、「し、し、しずか、静かに、しろ。」と言った。
かすれた声だった。擦り切れたような、悲しい声だった。
あのあと、カノから突然離れたヨシコさんは息を飲み、自分の口を押さえて、指の隙間から黄色いものを吐いた。苦しそうに涙を流しながらゴミ箱を掴んだヨシコさんを置いて、カノは部屋を出た。こわくなって、ヨシコさんの家を逃げ出した。
頭の中がいっぱいだった。考えがまとまらなくて、心の中になにか、わからないものがあった。
それは、なにかの形をしていた。今カノの中にあるものは、ヨシコさんのトランペットを聞いた後に残った、なにか、とも、コケコッコーのライブを見た時に感じた、なにか、とも違う形をしていた。
それは、他人のものではない、カノの中にあるたくさんの気持ちで出来ていた。でも今のカノにはその、自分の中にあるなにかを言葉にすることが出来なかった。
ひとりぼっちの練習スタジオで、気持ちのまま指を動かすカノは、人はこういう、言葉に出来ない気持ちを言葉にするために、歌を作るんだろうと思った。
その自分の心の中の形を思い描きながらカノは、ストラトのフレットの上で、他人のものではない、自分だけのフレーズを弾いていた。
13 ヨシコさん
空港の出発ロビーのベンチから、窓の外に並ぶ飛行機が見えた。力強くて冷たいエンジンの音が、厚い窓ガラスを通してわたしの耳に届いた。
出国審査のカウンターを抜けてしまうと、もう外には出れなかった。スーツケースを預けて、肩にかけたリュックだけになり身軽になってうれしいはずなのに、することがないわたしはただベンチに座って、外を見ていた。
目的のゲートに来るまでシャトルに乗った。車内には人もまばらで、皆黙って揺られていた。わたしは手すりに摑まって、窓の外を見ていた。
外は雨だった。シャトルの窓から見る灰色の空は広く、どこまでも続いていて、わたしはポケットの中で、カノのリップを握りしめた。
あの後、カノに謝りたくて、何度も携帯を手に取ったけど、なんて謝ったらいいのかわからないわたしは、そのままにして、カノから逃げ出した。あんなに大切にしてきたつもりだったのに、それをわたしは、自分から壊してしまった。カノになにも言わないまま、ここまで来てしまった。
もう会えないんだと思うと、今までカノがわたしにくれた、たくさんのものが全部、このリップと同じくらい、大切なものだって、もう一度思ったわたしは、出発する人たちの集まり始めた搭乗ゲートのベンチの端で、ひとりで泣いた。そばにいる人たちに気づかれないように、顔を両手で覆うと、カノのリップをつけたわたしの唇が手のひらの中で、あの日の夕方の帰り道を思い出した。
カノ、楽しい思い出をありがとう、あの夜、カノと出会えて、本当にうれしかった。
わたしは、カノのことを好きになって、本当によかったと思った。
14 My Funny Valentine
春休みも終わりに近づいた頃、初めてのライブハウスに向けて部屋で練習をするカノのもとに、海外からの封筒が届いた。英語でカノの住所と名前が書いてあり、裏には、Yoshiko Fujiki Chicago United Statesとだけ書いてあった。
あれから、ヨシコさんの携帯が通じなくなっているのに気づいたカノが、もしかしたらと思い行った吉祥寺のあの場所では、民族楽器を持った外国人たちが彼らの国の歌を歌っていた。
学校の名簿を調べ、ヨシコさんの自宅に電話をした。母親らしきひとが出て、ああ、お友達なの、あの子はアメリカに行きましたけど、と言われた。
消えてしまったそのヨシコさんからの郵便に驚いて部屋に戻ったカノがその封筒を開けると、中には一枚のCDだけが入っていた。パッケージのされていない、古いCDだった。
そのCDをかけたカノは、あの曲だ、と思った。あの夜、北口のロータリーを通りかかったカノが初めて聞いたヨシコさんのトランペットは、このメロディーを奏でていた。
その曲は、寂しい曲だった。悲しくて、せつない曲だった。でもそのメロディーは、あの北口の銀行の前でカノが見た、ヨシコさんの涙に濡れた頬のようにきれいだった。
CDのケースの中に、小さく切られた紙が挟んであった。
その紙には、曲の歌詞が、ヨシコさんの小さな字で書いてあった。
わたしのおかしなヴァレンタイン
可愛くて面白いヴァレンタイン
わたしを心の底から笑わせる
あなたの顔を見ていると吹き出すし、写真写りはよくないけれど
わたしの大好きな芸術品
ギリシャ彫刻にはほど遠く
口元は少しだらしなく
言葉はスマートじゃない
でも、髪の毛一本変えないで
わたしのことが好きならそのままでいて
そうすれば毎日がヴァレンタインディになるから
暖かくなってきた風がカノの部屋のカーテンを揺らしていた。その窓から、向かいの公園の桜が散っているのが見えた。
My Funny Valentine