ほんとうの日記

MF

  1. ほんとうのしあわせってなに? ほんとうの日記の中に、ほんとうのあなたがいる。
  2. 2

ほんとうのしあわせってなに? ほんとうの日記の中に、ほんとうのあなたがいる。

《略奪愛って言葉は悪いけど、こうやってふたりが出会ったのは「縁」であって、そういうめぐりあわせだったんだと思う。その時にどちらかにすでに相手がいる場合もあると思うし、それが障害になることもあるけれど、それを乗り越えることがふたりの運命だったんだと思うの。
時に人は結婚している相手を好きになったり、恋人のいる人を好きになったりすることもある。でもそれは相手に奥さんがいるから好きになったりした訳じゃなくて、好きになった人がたまたまその人だっただけ。
誰だって他人の物を奪いたくない。出来れば誰の心も傷つけたくない。だけどわたしたちは、初めからめぐりあう運命にあった。ただその時期が遅かっただけ。
だから、彼女さんには悪いけど、わたしは後ろめたくなんかない。
その障害を乗り越えた先に、わたしたちのほんとうのしあわせが待っているから。》

朝方から男の携帯が無言で振動し続けている。
男は疲れ果てて眠り、わたしは彼の右手の運命線の伸び方を調べていた。着信した携帯を見ると女の人の名前、きっと彼女さんだろう。せっぱつまったように着信を繰り返すその携帯の向こうに女の焦り顔が見える。どうして女は自分の男が浮気をするとすぐに気がつくのだろう。
眠り続ける男のかわりにわたしがその着信に出る。
「彼ならまだ寝てます。」女は驚いたようだった。

「あなた、誰?」

昨日の夜から一緒なんです、彼の部屋にいます。わたしがそう言うとしばらくの沈黙の後、向こうから切られた。
男はまだ起きない。昨日たくさんした、でも、もっとしたい。今までの分までもっとして欲しい。
携帯の電源を切る。画面が暗くなる。カーテンの隙間からわずかに差し込む光以外、わたしたちのベッドを照らすものはなにもない。
わたしは熟睡する男の横にもぐりこみ、男の足を太ももで挟むようにして、自分の陰毛を擦り付ける。人間の肉のあたたかさ。男の胸に顔をうずめると、彼とは違う匂いがした。名前は同じなのに、顔も、声も、息の匂いも、毛の生え方も、ぜんぶ違う。この男は彼と違う人間だけど、これがわたしのあたらしい運命。早くこうしたくて、ずっと待ってたから、これ以上待てなかった。

昨日の合コンでこの男の名前を聞いた時、運命を感じた。学生の時好きだった彼と同じ名前だった。男のほうからから誘ってきたけど、こっちから誘いやすいようにしていた。
そんな昨日のわたしは他の子からしたらかなりヒンシュクだったと思う。けど、別に気にしない。そんな事気にしていたら、目の前のしあわせが逃げていってしまう。
あなたたちはこの前までのわたし。怖がって、周りを気にして様子をうかがってるうちに、大事なものが誰かに取られていっちゃうのに、指をくわえて見ているだけ。
この男は彼と同じ名前だった。わたしの最初の人と。彼はもう、わたしの名前も覚えていないかもしれないけど、わたしは忘れてない。彼と出会ったことから始まった、わたしの日記。
運命が、あの時からやりなおせって言ってる。初めて彼と会ったあの時から、もう一度やりなおせって言っている。
これを逃したら一生後悔すると思った。

わたしにも眠気がやってくる。こんなに満足な気持ちで眠れるのなんて、何年ぶりだろう。
眠りに落ちる前に思った。
日記に書かなくちゃ、この男の事。
わたしは今、自分が手に入れた物、やりとげた事を日記に集めている。


彼は大学のサークルの友達だった。ゼミもわたしと一緒で、お互いどこに行っても顔を合わせるから、よく話すようになった。偶然にも田舎も隣の県だったし、気も合った。東京に出てきたばかりで心細かったわたしは彼に、他の友達とは違う親しみを感じていた。
彼はよくみんなの前で、くされ縁、ってわたしたちのことを言ったけど、わたしは、嫌そうな顔をしてそんな事を言う彼のことが、ちょっと誇らしかった。彼は、今まで彼氏もいたことがなかった田舎の女子校出身のわたしに出来た、初めての男の子の友達だった。
入学当時から親しかったから、彼とわたしは恋人同士だと勘違いされることがあった。でも、彼にはずっと付き合ってる彼女がいたし、わたしは彼のこと、キライじゃなかったけど、付き合うとかの対象じゃないって思っていた。彼とわたしでは明らかに不釣り合いだった。彼はサークルの中でも目立つほうで、女の子がいつもそばにいる、彼にあこがれてサークルに入ってくる子もいたりする位だった。背も高いし、かっこいいし、雰囲気もさわやかだから、どんな女の子にもモテると思うけど、その分、いろんな子と付き合ってるって噂もあって、どっちかというと地味なグループのわたしの友達たちには、チャラチャラしてるって不評だった。確かに女の子にはだらしないかなって思うこともあったけど、どこか憎めない所があって、彼のこと悪く言う子たちだって話しかけられればうれしそうにしていた。パッと見は軽そうで何にも考えてなさそうに見えるけど、ほんとは意外と気がつくタイプで、後輩の面倒見もいいのに、第一印象で誤解されやすいから、もっと周りの人がそれに気づいてあげてもいいのにって思ってた。
彼はあんまり自分のことを語るほうじゃないし、サークルの中でも彼に彼女がいること、知らない人もいるみたいだったけど、わたしには彼、高校の時からの彼女とちゃんと続いてる、って言っていた。それを聞いて、彼のこと、ちょっと見直した。マジメな面もあるんだと思った。

わたしが日記をつけ始めたのは、上京して、大学で彼と知り合ってすぐの頃だった。最初は、初めての一人暮らしだからと思って、生活費の家計簿みたいなこととか、明日買わなくちゃいけないものとか、そんなものだったけどそのうちに、ゼミのこととか、サークルのこととか、一日に数行だったのが、だんだん増えてきて、ページを超える日もあるほどにもなった。その日の出来事、その日のわたしを書くことが毎日の習慣になっていった。今まで日記なんかつけたこともなくて、夏休みの宿題の日誌でさえ満足に埋まらなかったわたしが、毎晩欠かさず書いていた。書くのが楽しかった。忙しいほどにやることがたくさんある毎日がうれしかった。
自炊も初めてだったわたしは、近所の商店街を見てまわって、東京の品物の値段をチェックして歩いた。初めはたいしたものは作れなかったけど、健康管理のために、ちゃんと野菜を毎日の献立に入れるようにしたり、買ってきた魚を料理の本を見ながらさばいてみたり、だんだんと自分で料理する事が楽しくなってきて、毎日のように学校帰りに商店街に立ち寄るようになると、お店の人に顔を覚えてもらえるようになった。スーパーのおばちゃんに煮物のおいしい作り方を教えてもらったり、八百屋のおじちゃんに形の悪い野菜を安く分けてもらったりもした。お店の人たちはみんなやさしくて、アジも知らなかったバカなわたしをいつもかわいがってくれた。八百屋のおばちゃんは、田舎から出てきたばっかりのわたしに、「もしなんか困った事があったらさ、なんでも聞いてね。おばちゃんいつでも暇だから。」って言ってくれた。わたしが「いつもありがとうね、おばちゃん。」って言って涙ぐむと、わたしの肩をバーンと叩いて、「バカねえ、あんたー。」と大きな声で言ったおばちゃんも、少しもらい泣きしていた。
夕方の商店街を歩くのが好きだった。日が暮れていくにつれて、あわい色に染まっていくお店たちをきれいだと思った。今夜の夕飯の買い物をする奥さんたち、童謡を歌いながら子供の手を引いて帰っていくお母さん、買い物のカートを寄りかかるように押しながら、とてもゆっくり進むおばあさん。みんな自分の家に、しあわせな家庭に帰っていく。夕方の商店街には、そんな幸福な人たちからこぼれ落ちたしあわせの粒がたくさん落ちているみたいで、わたしは暗くなるまでその街をうろうろしていた。

半年も経たずに一冊の日記が終わり、次の日記用に買って置いたおしゃれなノートの白いページを開いた時、とてもうれしかった。前のノートもかわいくて好きだったけど、これからはもうちょっと大人っぽくって思って、使うのを楽しみにしていたやつだった。
初めて日記を一冊つけきった。昨日まで毎日使っていたノートはなんだかいとおしかったけど、そのノートの一冊分、大人になった気がした。
書きたい事はたくさんあった。新しい街、新しい生活、新しい友達、すべてが新しかった。その新しい環境に徐々に馴れていく自分を頼もしく思った。
東京の子たちとも付き合うようになってきて、今まで狭かったわたしの世界が広がってきていた。思いきってサークルに入ってよかった。新しい事が苦手で、新学期の教室のドアを開けるのにもいちいち緊張していたわたしが、自分から外に出て行けるようになったのは彼のおかげもあったのかもしれない。たとえ彼がわたしの側にいない時でも、人気者の彼がわたしのことを知っていて、わたしも彼を知ってて、もしかしたら、ちょっとだけわたしのほうがみんなより親しいかもしれないって思うと、なんだか勇気が出てきた。
人前でしゃべったりすることが得意じゃなくて、大学でも友達が出来るか心配だったわたしは、男の子と二人っきりになんかなると、緊張して何にも言えなくなっちゃう位だった。そんなわたしも、彼のおかげで社交的になれた。彼の中に、わたしの居場所があるような気がして、安心できた。
彼は、わたしに自信を与えてくれた。

3年になって彼が部長になり、わたしが副部長になると、サークルのことで彼と接する機会が増えた。たまに二人で会ったり、飲みに行くこともあったりして、前より急に、彼との距離が近くなった。
ある日、サークルの打ち合わせに二人でお茶しに行くと、サークル内の恋愛の話から彼の彼女の話になった。彼女さんは大学での彼の女関係を疑っているようだった。「アイツ最近俺のことアヤシイとか言ってんだよ。わけわかんねーこと言って、最近拒むしよ。俺の行動とかイチイチ聞いてくんだよ。」彼の彼女さんの話は前からちょっとは聞いていたけど、そんなつっこんだ話まで聞くのは初めてだった。彼の彼女さんはもう働いてるみたいで、写メの感じでは年齢より幼く見える彼とは正反対な、大人な女、お姉さんタイプに見えたけど、彼の話では、意外とそうでもないみたいだった。

彼と二人きりで会う時、わたしは最初、彼女さんのことがいつも気になっていた。わたしと会ってることを彼女さんが知ったらって、別に浮気してるわけじゃないのに、友達同士で会ってるだけなのに、なんかわたしが彼女さんの彼との時間を取っちゃってるみたいで、罪悪感っていうか、うしろめたい感じがしていた。だから、せめてわたしが彼に彼女さんのことを話させていると、少し気が楽になった。彼に、彼女さんて今日、わたしと会ってること知ってるのって聞いたら、「女友達と会うとは言ってない。」だって。そんなこと言われると余計気になっちゃって、せめて彼女さんの話をしていれば、あなたのこと話してますよ、わたしだけはちゃんと気にしてますよ、って、もし突然後ろに彼女さんが現れても、なんとか言い訳出来るように、わたしは彼に、彼女さんとの馴れ初めとか、いろいろ聞いていた。
そんなわたしの質問をいつも嫌そうにしているくせに、たまに彼のほうから彼女さんのグチが出るときがあった。彼の話す彼女さんは、独占欲が強い感じだった。彼は彼女さんの気持ちを「重い」と感じているようだった。恋愛経験の浅いわたしにはちょっとレベルの高い話だったけど、でも彼にはそういう、女の子の気持ちとか、恋愛のちょっと深い話とか、相談する人がいないんだなって思った。わたしだと、他の子より、相談しやすいと思ってくれて、どんな事話しても、他の女の子とかだとすぐ噂が広まっちゃうんだろうけど、わたしならって思ってくれて、信頼してくれてるんだって思って、素直にうれしかった。彼女さんのグチを聞くのが、ちょっとうれしかった。

彼のことはいつも日記に書いていたけど、その中で「好き」とかって言ったことは一度もなかった。彼には彼女がいるし、だから当たり前に彼のこと、好きになっちゃいけないし、でも、彼はわたしのこと、少なくとも、キライじゃないと思う。だって、嫌だったら誘わないと思うし、なんて、そんなこと考え出すと、なんか深刻になっちゃいそうで、せっかく東京にも大学にも馴れて、昔より前向きになったわたしなのに、たとえ日記の中ででも、彼のこと、「好き」って言っちゃうと、その言葉だけが、どんどん日記の中で一人歩きしていってしまう気がして、書かなかった。この日記にはただ、楽しいことだけを書いておきたかった。

ゼミの女友達から、彼に告白したい、彼に彼女がいるのか聞いて欲しいと頼まれた時、わたしは彼と、たまにHする関係になっていた。サークルとは関係なく二人きりで何度も飲みに行くうちに、彼は次第に彼女さんの話をしなくなり、わたしからも聞かなくなり、酔ってカラオケボックスでキスをしたのが最初だった。いきなりだったからちょっとアセったけど、イヤじゃなかったし、そんな雰囲気になってきてたのもわかっていた。始めわたしはかなり気にしたけど、彼は彼なりに気を使ってくれていて、ホテルの部屋に入ってから彼の携帯が鳴っても、いつもシカトしてくれた。出ないの、って言うと彼は、「ほっとけよ」って言って、ごまかすようにわたしにキスをした。そのキスが後ろめたいわたしは、日記に言い訳をはじめた。

《彼には息抜きが必要なの。》

彼の好きなだけさせた。彼のしたがることはすべて、イヤと言わなかった。

《彼女さんみたいに彼の自由まで奪うのは、ほんとうに彼のことを思っている人のすることじゃない。わたしは彼の彼らしさを奪いたくない。》

「俺、終わった後にベタベタされんの苦手なんだよ。お前みたいにさっぱりしてんのが一番いいよ。」

《彼女さんの愛は、ある意味、独占なのかもしれないけど、わたしのは、彼を独占することじゃない。お互いが自由でいたい。》

しつこい、って思われたくなかった。
ほんとはずっと抱きついていたかったけど、しなかった。彼女さんとか、他の女の子とかと、同じだと思われたくなかった。だから、わたしは、終わるとすぐ、彼から離れた。

《わたしだけは彼の負担にはならない。こんなことで、彼を束縛したくない。》

わたしから誘ったことは一度もなかった。もっとして欲しくても、言わなかった。

《わたしは、彼女さんから彼を奪いたい訳じゃないの。》

休みの日に彼がわたしを誘わない時は、彼女さんとうまくいってて、よかったねって、思ってわたしからは連絡しなかった。

彼とわたしは喧嘩なんてしなかった。わたしは彼女さんの代わりじゃなかったし、喧嘩する理由なんて、なかった。だから、急にわたしを呼び出して何も言わない彼に、わたしは理由も聞かなかった。

《わがままな女って、思われたくない。》

ラブホテルの部屋が好きだった。そこだけはわたしたちだけの空間だったから。窓のないあの部屋は、外の世界から切り離されて、誰の目も届かない、神様の目も届かないわたしたちだけの場所だった。

《このままでいいと思う。》

《彼が望むのは、束縛しないわたしだから。》

わたしが何もしなければ、わたしから何も言い出さなければ、このままずっと秘密のままでいられるような、そんな甘いことを考えていた。

そんなこと、ずっと続くはずないのに。

ゼミの彼女には、彼は高校のときの彼女とまだ続いてると伝えた。彼女が彼を悪く思わないように伝えたつもりだった。彼女は泣いていた。そこまで好きだったんだって、ちょっとびっくりしたけど、最後に彼女は、泣きながらキレだした。

「じゃあさ、なんで彼は他の女の子とも付き合ってるわけ?サークルの子たちとも昔付き合ってたって聞いてるんだけど。ちゃんと彼女がいるのにそんなことしてサイテーじゃん。彼もよくないけどさ、彼と付き合うそのサークルの女たちもおかしーよ。人のもの取るなんて泥棒と一緒じゃん。」

彼女のその言葉にわたしは急に恐ろしくなった。その日からその言葉が耳から離れなくなった。
わたしたちのこと、誰も知らないと思ってたけど、そう思ってたのは、わたしだけなのかもしれない。もうみんな知っていて、見て見ぬ振りしてるだけなのかもしれない。
もしかして、彼女は全部知っていて、お前が泥棒だと言っていたのかもしれない。
彼とのこと、どんなに楽観視しようとしても、最悪のことしか思い浮かばなくなった。
すべてを失ってしまう。友達とか、サークルの仲間とか、大学での楽しかった思い出とか、がんばって作り上げた新しいわたしが、「泥棒」という言葉で、全部なくなってしまう。

彼に相談してみようかとも思ったけど、なんて話していいのかわからなかった。わたしは彼の彼女な訳じゃない。わたしは彼となにかを約束した訳でもない。わたしはただの、彼の友達。あんなにHして、朝まで一緒にいたのに、わたしは彼に、自分が何を思ってるか、伝えたこともなかったし、彼がわたしのこと、どう思っているのか、聞いたこともなかった。

わたしは誰なの?
《わたしは彼の友達。》
わたしは彼の何なの?
《わたしは彼女さんの代わりなんかじゃない。》
日記の中でさえ、《好き》って言ってなかった。

もし、このことがみんなにバレて、わたしが悪く言われても、たぶん、彼はわたしをかばわない。だって彼にとってわたしは、誰でもない。だから、彼には、わたしをかばう理由がない。
こんなこと、誰にも相談できないし、誰にも言いたくない。
わたしはこの、誰も読むはずのない日記の中で、わたし自身に向かって必死に話した。

《わたしは彼女さんや他の子たちみたいに、彼を独占しなかった。独占することが愛だとは思わなかったから。》

《彼には彼女さんの愛が窮屈だったの。》

《確かに自分の彼氏が他の子とHしたらイヤだと思うけど、それは彼氏の心がすでに彼女の所にないからじゃないの?もし、彼氏がほんとうに彼女のことをまだ好きなら、他の子とHしたりしないんじゃないの?他の子とHしてる時点で、もう彼氏の心は彼女から離れていってるんじゃないの?》

《ゼミの彼女の言ってることも、彼女さんの気持ちも、わかる。でも、わたしたちのはそういう恋愛とかじゃなくって、友達の延長みたいなものかな。》

《わたしたちの間にあったのは、男女間を超えた友情なの。》

いくら日記に言い訳をしても言い訳しきれないわたしは、彼を避けるようになった。わたしが誘いを断り出すと、彼はあのゼミの友達と付き合い出した。わたしはサークルにも寄り付かないようにした。友達からの誘いも断った。卒業まであと少し、就職活動に専念することで、彼のことを考えないようにした。

あれ以来わたしは、臆病な昔のわたしに戻ってしまった。泥棒が盗んだ品物は、全部ニセモノだった。彼がわたしにくれた勇気たちは、彼が離れた途端、一緒に消えてしまった。
そしてわたしの手元には、日記だけが残った。

会社帰りの電車の窓には、いつも夜の街。
最近は、陽のあるうちに家に帰ることはなくなった。早く帰った所で、誰かが待っている訳でもない。お昼にランチで表に出たあと、次に出る時にはもう外は暗くなっている。学生の頃好きだった夕方の町並みは近頃、あまり見なくなってしまった。
東京に出てきた頃、電車から見える家の数に圧倒された。おもちゃみたいな家たちが、どこまでも、ずっと続いていて、それぞれ全部に誰かが住んでいるなんて、田舎で育ったわたしには想像出来ないことだった。すごいスピードで走る電車の窓から一瞬、近くの家の窓の中に、誰かが生活をしているのが見えた。バラバラに生きているように見える東京の人たちにも、それぞれに帰る家がある。ここでは、たくさんの人たちが、肩を寄せ合って生きていた。はてしなく続く家の数だけ人生があるんだと思った。
夜の快速電車は、残業を終えたサラリーマンや酔った若者たちを乗せて、高いビルばかりのオフィス街や派手なネオンの繁華街から、彼らの家庭がある住宅地へとわたしたちを運んでゆく。乗り物酔いのしやすいわたしは、満員の乗客が吐く疲れた匂いが充満した車両の中で、なるべく人に挟まれることのないようにドア側の手すりにつかまって、窓から流れていく町並みを見るようにしている。大きい駅に停まる度に少しずつ人が減っていき、ひとつずつわたしの駅が近づいてくる。見慣れた駅前の商店街が高架下に見えてくると、やっと安心する。今日も帰って来れた。一斉にホームに降り改札に急ぐ乗客たちを尻目に、わたしは少しの間、ホームから見えるこの街の家の明かりを見下ろしていた。
高校生の頃、部活で帰りが遅くなった夜には、飲み込まれそうなくらい空一面に広がる星に向かって、友達たちと何か大声で叫んで帰った。東京の空には星は見えないけど、そのかわり、その黒い空の下には、星の数ほどの家の明かりがある。
ずっと眺めていたわたしに、ベンチでワンカップを飲んでいたおじさんが話しかけてきた。わたしが見ていたほうを指差して、「ほら、ねえちゃん、あすこに三階建ての茶色い家が見えるだろぅ、あれね、おじさんの家。うちの息子夫婦が無理して建ててさぁ。」お酒臭い息で、おじさんはうれしそうに言った。おじさんが差すその方向には、新築らしいきれいな外壁の家が建っていて、やわらかい明かりがついていた。あの明かりの下では、おじさんの家族が団らんしているのかもしれない。おじさんはいつも、仕事の帰りにこのホームから自分の家を眺めてから帰っていると言った。「孫がおじいちゃんのこと待ってるからさ、早く帰んないとねぇ。」おじさんは空になったカップをホームの床に置いて、よろけながら立ち上がると、「遅く帰ると嫁さんが恐いしさ、あんたも早くお家に帰んなよ。旦那に叱られるよぉ。」と言い、よろよろと階段を降りていった。わたしは、おじさんが残したカップをホームのゴミ箱に放り込んで、もう一度、そのおじさんの家を見た。おじさんも、その家の明かりも、しあわせそうだった。
朝晩必ず利用するこの駅も、近くの商店街の人たちも、疲れすぎて夕食を作る気にもならない時に立ち寄る近所のコンビニも、みんなわたしの毎日の一部になっている。この街は好きだけど、ホームからの景色もきれいだけど、わたしの部屋の明かりはいまだに、この街の明かりたちの仲間入りが出来ないでいる。

真っ暗な部屋に帰るのも、ひとりでご飯を食べるのも、別に寂しいとも思わなくなった。この部屋のドアのチャイムを最後に聞いたのはいつの事だろう。以前はよく友達を部屋に泊めて、みんなで料理をしたり、朝までしゃべったりしていたけれど、最近はそんなこともしなくなった。仲が良かった友達たちは結婚したり、田舎に帰ったり、なんとなく疎遠になったりしてわたしの毎日から遠ざかっていった。みんなからの電話がだんだん減っていって、そのうちに、いつまでも同じ場所にいるのはわたしだけになった。わたしはこの部屋に、もう何年暮らしているのか、彼と離れてから、もう何年経つのか、数えることもしなくなったけど、日記だけは毎日つけ続けている。
わたしは一日の終わりに、今日あったいい事、今日言われたうれしかった事を日記に書くことにしていた。日記に書くことで、その日のいい事をもう一度確認できる。いい事がなかった日には、先週のいい事をもう一度読み返す。何度も噛み締めるように頭の中でその出来事を繰り返し再現する。それがわたしの寝る前の楽しみだった。そんな一日のいい事を毎日貯めていけば、その貯金がいつかは大きなしあわせと交換できる、そう信じていた。

この部屋の小さなベランダには、枯らしてしまった植木がいくつもある。愛情をかけて世話しているつもりなのに、いつも枯れてしまうのはどうしてだろう。水のやり過ぎでもないし、外に出しっぱなしにもしていないのに、なぜか長持ちしたことがない。自分には向いていないと思って、もう買うまいと思いながら、花屋さんでかわいい鉢植えを見ると、つい買ってきてしまう。そのことを、昔花屋でバイトしていたという会社の同僚に話してみた。「別にいいんじゃん、その時楽しめれば。枯れたらまた買えばいいんだし。」わたしと同い年で、今月転職していった彼女は、でも、と言うわたしにこう付け加えた。「それにさ、同じ花ばっかだとあきちゃうじゃん。」枯れた鉢植えを置いておくと運気が下がると聞いたことがあるけれど、このかわいそうな植木たちを、わたしはどうしても捨てられない。
部屋の隅に毎月溜まっていく雑誌も、捨てたほうがいいと友達に言われたことがある。もったいないのは、おもしろかったコラムとか、連載の小説とか、小さなコーナーとかだけなのに、それだけのために全部が捨てられない。その時読んでおもしろかったから、いつかまた読み返そうと思って、もう一度楽しみたくて取って置いたのに、その雑誌が役に立ったのは友達たちとの鍋大会の鍋敷きとしてだった。毎月買っている雑誌の一月号、今年の運勢が載っている号だけは、今年のわたしのこれからの予定が書いてある気がして、時々読み返す。たまに、今月は、って気になって引っ張り出してチェックする。今年の前半に運命の人が現れるって書いてあったから、すごく気になる。もう6月なのに、いまだに現れない。こういう占いって同じ星座の人全体でみてるから個人単位で占うほどは当たらないのかもしれないし、ひとによってはズレが出てきたりするんじゃないかしら、って思って、となりの星座の運勢もチェックしたりもした。

運命の恋愛について朝まで熱く語っていた友人も、30歳に近づくと、運命の相手に巡り会う前に、手頃な相手を選んだ。結婚で田舎へ帰る彼女を見送りにいった時、わたしたちのほうがボロボロ泣いていて、本人は以外にそうでもなかった。東京に演劇の勉強に出てきて、最近田舎でお見合いをした相手と結婚する彼女は、前の日泣いたみたいな腫れぼったい目をしてたけど、その朝は何かふっ切れたようなさっぱりした顔で、じゃあねー、って言って旅立っていった。
彼女は昼にOLしながら、そのまま夜に劇団の稽古に行っていて、公演が近くなるとほとんど寝る時間もない位がんばっていたから、わたしたちはみんなでチケットを買ったり、時間があれば見に行ってあげたりしていた。見た目も精神年齢も幼いわたしたちの中でも彼女は一番若く見えて、初めて会った時は子供みたいだった彼女も、「好きじゃない事ガマンしてやるくらいなら死んだほうがマシだよ。」と言っていた彼女も、もう若くなかった。
名前も聞いたことがない小さな劇団で、いつまでたっても端役しかもらえない彼女にわたしたちは、がんばれ、としか言ってあげられなかった。食費も削って演劇に打ち込んでいることは知っていたけれど、そんなに無理しないほうがいいよ、とは言えなかった。
わたしは、夢を諦めることの出来た彼女の潔さがうらやましかった。これからの長い人生にとって、必要なものと邪魔になるものを決める勇気が彼女にはあった。
わたしにはまだ、花が咲くかもしれない鉢植えを捨てる勇気がない。

部屋から見える団地にはたくさんの窓、そのひとつにまだ明かりがついている。仕事で遅く帰って、お風呂に入って、遅い夕食をして、洗濯をして、全部済ませて、やっと寝る前に日記をつけ終わり、誰にもおやすみなさいを言わずに部屋の明かりを消すと、もしかして、世界にはわたし一人しかいないんじゃないかと不安になるときがある。気づかない間に、何かの警報が出ていて、みんなとっくに何処かへ逃げてしまっているのに、わたしだけが気づいていない、そんなことを思ってしまう。そんな時、カーテンを少しだけ開けて外を覗いてみると、向かいの団地に、明かりのついている窓があった。もう夜中なのに、まだ起きている人がいる、そう思うと、少し安心する。わたしはまだ、世界に置いてけぼりにされていない。
カーテンをそのままにして明かりをつけて、もう一度日記を開いてみる。最近お気に入りの《いい事》は、ずいぶん前のことだった。
毎日仕事もがんばって、しあわせになれるように努力しているつもりなのに、報われないわたしは、もうすぐ結婚する会社の同僚を心から祝えなかったり、友達の彼氏の話に素直に笑えなかったり、いつもしあわせがわたしだけをすり抜けていく気がする。わたしにくるはずだったしあわせが、わたしの指の間をすり抜けて、いつの間にか他の人のところにいってしまう。
日記から顔を上げ、もう一度団地の窓を見ると、さっきまでついていた明かりは消えていた。
あの駅のホームのおじさんのことを思い出した。
今、わたしの部屋の明かりをどこかで見ている人はいるのだろうか。


先週、仕事が終わって帰り支度をしていると、隣の机の後輩の女が、わたしの下で働いている曽根くんに飲みに誘われていた。わたしが立ち上がると、その女と目が合う。すぐ目をそらしたこの女は、わたしを気にしている。行きたければ行けばいいのに、誘われないわたしのことは気にしないで即OKすればいいのに。変に意識しだすと、そちら側を向けなくなってしまって、お疲れさま、と少し吃りながら早々にその場を後にした。
あの後輩は、わたしが以前、この会社の人間と不倫していたのを知っていると思う。他人の噂が好きなこの課の人たちのことだから、絶対聞いていないはずがない。知っているから、わたしに気を使う。それが証拠だ。ここではもう、彼らのような新鮮な恋愛は出来ない。

わたしは以前、同じ課の木崎という課長と不倫をしていた。飲みに誘われ、好きだと言われ、その日からずるずるとそういう関係になっていった。
彼はわたしの直属の上司で、入社してからずっと彼の下で働いてきた。押しの強いタイプで、入社当初は一番苦手な上司だった。彼は、わたしの話をいつも最後まで聞かず、わたしが言いたい事を最後まで言い切る前に自分の意見を入れてきて、「お前の話はわからない。」「でも、が多すぎる。」と一方的に話を打ち切った。わたしは、この人はマトモに他人と話が出来ない、相手の立場になって物を考える事の出来ない人なんだな、と諦めていた。いつも叱られてばかりいて、わたしとこの人とは相性が悪いんだと決めつけていた。だから、彼にはあまり自分の意見を主張せず、ただ受け流すだけにしておこうと思い始めた時、ある会議で彼を見直す機会があった。
プロジェクトが難航していて、彼が中心で押し進めてきた企画は会社にとってはリスクのある決断も必要だったのでなかなか賛同が得られず、彼はその会議で必死に他の上司たちを説得していた。いくら彼の押しが強くても、それだけでは部長の理解は得られず、このままではラチがあかないと判断した彼は、以前わたしが彼に提出したアイディアを、一応の打開策として提案した。あまり前向きな案ではなかったので、一応検討という事で、その会議はお開きとなったが、そのことを後で会議に出ていた同僚に聞いた時、わたしは驚いた。わたしの意見なんて半分も理解していないと思っていた彼が、わたしの提案を覚えていてくれて、それもそんな重要な会議でその意見を部下の意見として発言してくれたなんて、信じられなかった。彼は、「お前の言いたい事がわからない。」と、わたしに言いながら、実は理解してくれていたのだった。
それからは、わたしも彼への接し方を変えるようにした。まず、彼の話を最後まで聞き、それから自分なりに彼の考えに合わせた言い方で、わたしの意見を伝えるようにした。そうすると、彼も以前よりまともにわたしの意見に興味を持って聞いてくれるようになってきた。
その後も彼は相変わらず厳しかったけれど、厳しいなりにわたしを可愛がってくれるようになり、わたしも以前より苦手でなくなった。おとなしめな人間が多いうちの課の中では、思い切ったことを言う彼は浮いた存在だったけれど、何かの時には、他の社員たちよりも頼りになった。彼のアクの強さが苦手だと言う同僚も多かったけど、わたしを叱る時にはみんなの前ではなく、個人的に呼び出して注意してくれたり、叱られる側にも気を使うことの出来るやさしい面もあった。体育会系出身の彼は、課の親睦を深めることがこれからの仕事に重要だと信じていて、月に一回は「社会勉強にいくぞ!」とわたしたちを半ば強制的に彼の行きつけの飲み屋やバーに連れ行った。そこで彼は仕事の話よりも、彼の学生時代の武勇伝や、これからの日本のこと、彼の夢をわたしたちに熱く語ってくれた。わたしは彼を、自分のことを理解してくれている唯一の上司だと思っていたし、ある意味、彼には他人を引きつける魅力があった。

彼は、わたしが彼に憧れていることを知っていた。だから、課の中でも特にキレイでもないわたしのことを誘ってきたんだと思う。わたしは彼をひそかに想っていただけだった、会社の誰にも言っていなかった。お互いに惹かれ合ったのかも、と、はじめは考えたけど、彼はわたしの彼に対する態度から、わたしが好きなのを察した。しかも口が堅そうな女だった、だから彼もわたしのことを好きになった。だから、わたしを誘う時の彼はいつも、わたしが拒まないことに自信を持っているような態度だった。
わたしは彼のことが好きでずっと想っていたし、上司として尊敬もしていたけど、彼には家庭があるし、この想いは初めから成就しないものだと思っていた。誰にも言わなかったその想いは、わたしの日記の中だけの秘密だった。
それなのに、その秘密は、彼に知られてしまった。わたしが隠していたものを、彼は無理矢理こじ開けた。どうして、叶えてはいけない願いばかり、叶ってしまうのだろう。
外で二人きりで会うときの彼は優しかった。二人きりになると、わたしを下の名前で呼んでくれた。わたしも彼を役職ではなく、木崎さん、と呼んだ。彼は、わたしを一番に思ってくれた。一人暮らしのわたしの部屋に押し掛けようともしなかったし、たいていは、わたしが泊まったこともないような高いホテルを予約してくれた。ホテルの部屋に入ると、木崎さんは少し乱暴になり、わたしを太い腕で抱き寄せて、少し痛い時もあったけど、昼間の課長からは想像もできないような言葉を、耳元でささやいてくれた。
「お前はかわいい。」「いつまでも大切にする。」少年みたいな目をして、そんなことを呟く彼に、わたしはただ、うなずいていた。
その時課長の奥さんは妊娠中で、春には子供が生まれる予定だった。家庭を壊してまでわたしと一緒になるつもりなんかないことくらい、甘い言葉を聞く前からわかっていた。

関係は彼が会社を移動させられるまで続いた。彼は他の課の女子社員にも手を付けていた。彼が別れ話を持ちかけたのがきっかけで、その女が会社と奥さんにチクり、すべてがバレた。女がすでに辞めていたので、表沙汰にはならなかったが、彼は地方のどうでもいい関連会社に転勤していった。彼には横領の噂もあったけど、調べてみると多少の飲み代を経費で落としていただけだった。しかし社内不倫と重なると大事になりかねないので、会社は彼の転勤を含めて内々で処理したみたいだった。
最初はわたしも疑われたけど、課のみんながわたしをかばってくれた。みんなはこの事件が発覚する以前から、彼とわたしの関係を知っていたみたいだった。彼のことを知る人たちは、わたしに同情してくれた。みんなはわたしが、彼に無理矢理付き合わされていると思っていた。わたしも彼と一緒に高い食事やホテルに行っていたのに、彼と一緒になってお金を使っていたのに、彼ひとりが悪者になり、わたしはまるで彼に連れ回されていた被害者みたいになった。別に嫌々彼と不倫していた訳じゃなかったのに、みんなはわたしが彼にレイプされていたみたいに扱った。
みんなは、課長の表面だけしか知らない。木崎さんのほんとうはやさしい面をわかってあげていたのは、わたしだけだった。

もうすぐ生まれると言っていた彼の子供はもう大きくなったのだろうか。あの後、奥さんとはうまくやっているのだろうか。社が離れると彼の噂も聞こえてこない。一度出張の時に彼を見かけたことがあったけど、やり手だった頃の彼の面影はなくなっていた。左遷されたその小さな会社の色に染まったのか、単に会社のお金が使えなくなったからなのか、以前の魅力ある彼ではなくなっていた。田舎の県立大出身のくせに、東京の有名大出身の社員なんかを根拠なく威圧していたあの頃の彼の態度と比べると、死んだも同然だった。相変わらず派手なスーツは着ていたけれど、その縞のスーツがよけいむなしく見えた。彼はあの一件ですべてを無くしたって、いつか部長が言っていたけれど、わたしはあれでよかったと思う。あのままでいたら、彼はいずれ行き詰まったと思うし、わたしも妊娠していたかもしれない。
彼には帰る所があった。これからは、しあわせな家庭を守ることだけを考えていけばいい。彼は、何も無くしていない。確かに彼が今まで会社で築き上げた信頼は無くしたけど、彼の人生すべてが無くなったわけではない。

彼と付き合っていた頃、彼はわたしにいろいろな話をしてくれた。自分が子供の頃裕福ではなく、アルバイトをしながら学費を稼いだ話、新聞配達で集金にまわっても、なかなか回収する事が出来ず、いざ払ってもらう時には、客は新聞代を、まるで彼の手が汚いかのように、なるべく触れないようにお金を彼の手のひらに落とす。昔はそんなもんだったよ、って話す彼の大きな手のひらには、その歳にしては多すぎるほどの皺があった。
彼はよくわたしに、「あの頃の俺があったから、今の俺があるんだ。」と言った。頑張れば、誰だってしあわせをつかめるんだって。
彼はその時、何かで落ち込んでいたわたしを勇気づけようとしてくれていたんだと思う。
「でも俺は、今の俺に満足なんかしてない。もっとやれる気がする。だからお前も諦めたりしちゃダメだ。頑張れば頑張るほど、その分しあわせもついてくるんだから。」
ひさしぶりに彼を見かけた日、わたしは、彼のその言葉を思い出した。


《しあわせは人の数だけあるって彼は言っていたけど、それは嘘。世界中のしあわせの数は決まっていて、その数はみんなの数よりも少ない。そこにはすべての人に行き渡るほどのしあわせは用意されていないから、それを受け取れない人もいる。やっとしあわせがやってきても、それに気がつかなかったり、自分から逃してしまったりして、せっかくの幸運を輝かせることが出来ない人もいるの。》
世の中には、両手からこぼれ落ちるほどのしあわせを手にしている人もいるのに、わたしの手は、いまだに何も捕まえたことがない。
この街はわたしには向いていないのかもしれない。この街のどこにもわたしのしあわせは落ちていない。でも、わたしはまだ、諦められない。このままじゃ、田舎にも帰れない。

小学校の卒業文集に、将来の夢は「お嫁さん」って書いた。その頃の将来がいったい何歳位のことなのかわからないけど、おそらく、今のわたしの年齢よりも、もっと若いイメージだったような気がする。すてきな男性と結婚をしていて、子供もいて、かわいいペットとかもいるような、そんな自分の未来を漠然と抱いていた。
過去には戻れない、そんなことはわかっている。でも、もしあの頃に戻れるなら、あの卒業文集の「将来の夢」を書き直したい。そして、あの頃のわたしに伝えたい。あなたは30歳を過ぎても結婚も出来ないの。それどころか、相手がいる人ばかり好きになるの、不倫ばかりなの。将来の夢に、「お嫁さん」なんて書いたら、その将来になった時、あなた自身が困ることになるのよ。同窓会の知らせが届いたって、ほんとはひさしぶりに行ってみたくたって、初恋の祐介くんに会ってみたくたって、いろいろ考えてみると、地元の子達はみんな結婚してるし、子供だっているって聞いてるし、そんな中にいまだ独身のあなたが行って、誰かが持ってきた卒業文集をみんなで見ることになる、それを考えると、不参加に○をして送り返すこともせずに、その手紙は届かなかったことにして、ただ捨ててしまうことになるの。だから、お願い、「お嫁さん」なんて書かないで。

この世界には、あの頃に思い描いていた将来の自分はどこにもいない。わたしは、あの頃のわたしが見ていた未来とは別の未来に来てしまった。わたしが行き着いた未来には、ここまで自分が歩んできたという実感がない。わたしはどうやって現在にたどりついたのだろう。小さい頃は、この歳になったら当然結婚しているんだと思っていた。子供もいて、もっと大人になってると思ってた。でも今、わたしがいる現在には、あの頃とあまり変わりない、学生の頃とまるで変わらない、大人になりきれないでいるわたしがひとりいる。
あの頃は、未来はずっと続いていくと思っていた。今、その頃の将来にきてみて、わたしは気づいた。
この将来には未来がない。わたしが行き着いた未来には未来がなかった。


会社の帰りにいつも立ち寄る駅ビルの中のペットショップ、一番端のショーウインドウの中にいるミニチュアダックスは、もうだいぶ大きくなっちゃっていて、なかなか買い手がつかない子だった。あの子はいつも古い小さなクッションに頭を乗っけてつまんなそうにしているのに、わたしが顔を見せるとしっぽを振って喜んで迎えてくれる。わたしがガラスに指をあてると、小さい鼻をクンクンつけてくる。会社でどんなに嫌なことがあっても、あの子の笑顔を見ると心が救われた。ショーウインドウのガラス越しだったけど、あの子とわたしは友達だった。誰にでもあいそを振りまく他の子たちはすぐに入れ替わっていくのに、わたしだけになついているあの子の柵にはいつまでも、売約済みの札はかからなかった。
ある日、仕事終わりにいつものようにそのペットショップに行くと、あの子の柵はからっぽだった。そんなことは今までなかった。昨日まで売約済みの札はかかっていなかったはずだから、誰かに買われていったのではない。お風呂に入れてもらっているにしても、外からでも見える店のシャンプー台には、何も乗っていなかった。もしかして病気にでもなったのかもしれないと思いながら、わたしはとっさに、もうひとつの《もしかして》には、気付かないふりをした。

帰りの電車で手すりを握るわたしの手は、汗をかいていた。いくら考えないようにしても、それを想像する事を止められなかった。明日見に行った時に、もしまたいなかったら、店員に聞いてみようかと一瞬思ったけど、そんなこと、絶対に出来そうになかった。聞いてみた所で、あの子がひょっこり顔を出すなんてことは、ありえなかった。
わたしはその日まで、あの子がずっとあの場所にいて、わたしを待っていてくれる、そう思っていた。あの子とバイバイする日がいつか来るって、そんなこと、当たり前に、わかっていたはずなのに。

その夜の日記にわたしは、クッションに寝転がるあの子のイラストを描こうと思った。言葉に出来そうもなくて、でも、何かを残したかった。絵のヘタクソなわたしは、なかなか上手にあの子のかわいい顔を描けなくて、一生懸命あの子の顔を思い出そうとした。すると、なぜか頭から、あの子の顔が遠ざかっていく。あの子のかわいい長い鼻を描こうとすると、長くなかったような気がしてきて、茶色の子だったのに、白い毛だったような気がしてくる。思い出そうと、すればするほどわたしの中のあの子の記憶は曖昧になっていった。
あの子のことを、なんでもいいから、どんな形でもいいから、心に留めておきたいのに、言葉に出来ないから、せめて絵をって、思っても、頭に何も浮かばなくなった。
わたしはただ、わたしたちは、《気持ちが通じていたんだ》って、書きたいだけなのに、何も書けなくなったわたしは、手元の日記の白いページをただ、見つめていた。


駅前にいつもいる占い師のおばさんは、日が暮れる頃どこからかやってきて、銀行のシャッターの前にテーブルを組み立て始める。《人生・鑑定》《あなたの運命》と書かれた看板の前で、行灯みたいなもので手元を照らしながら、なにか古ぼけた本を読みながらお客が来るのを待っている。
たまに占ってもらっている人を見かける。わたし位の歳の女の人だったり、たまにサラリーマンのおじさんだったり、みんな悩みがあるんだって思って見ていた。
ずっと気になっていたけど、見てもらう勇気はなかった。何か言われるのが怖かった。悩みを告白するのがイヤだった。通りかかる人に、悩みがある女だ、って思われるのが恥ずかしかった。
そんなつまらないことを気にして、何も出来ないでいたわたしが変われたのも、あの占い師のおばさんの言葉からだった。

その日会社から帰ったわたしは、ずっとやろうと思っていたのに出来ずにいた、ベランダに置きっぱなしにしてあるいくつもの枯れた植木を片付けた。あの子の事を書けなくなった日から、日記自体も止まっていた。部屋を片付けることで、気分を変えたかった。枯れた植木をゴミ袋に集めて収集所に持っていき、植木鉢は重ねて隅に片付けるとベランダがすっきりした。土は集めるとたくさんあったから、コンビニの袋にいくつかに分けて、近くの公園に捨てに行った。夜の公園には人影もなくて、植え込みに土を撒いて、袋をゴミ箱に捨てて、全部終わったと思った時わたしは、自分が汗をかいていることに、誰もいない静かなはずの公園に、虫の音だけが鳴り響いていることに気が付いた。もう7月になるのに、運命の人は現れない。雑誌の占いは当たらなかった。ため息をついてから、初夏の空気を胸いっぱいに吸い込むと、いつかの遠い夏休みの夜の匂い。一瞬だけ、あの頃に戻った気がした。
疲れたけど、さっぱりした。全部、どうでもいい気分だった。
日記もこのまま書かなくなっちゃうのかなって思うと寂しいけど、この際だから捨てちゃって、今まで貯めてきた楽しいことも全部捨てちゃって、そしたらもっと、さっぱりするかもしれない。最近のいい事もだいぶ前のいい事だし、もう十分楽しんだから、味が無くなったガムみたいに、ペッって捨てちゃっても、もう、後悔しないかな。そんな事、考えながら駅のほうへ、人通りの多いほうに歩いていくと、駅前の銀行の前、その夜、占い師のおばさんはひとりだった。
誰かと話したかった、誰か知らない人と。占いは怖かったけど、日記を捨てていいか、それだけ、聞いてみようと思った。

「イヤな事ばっかり書いてない?」わたしの手相を見ながらそう言うおばさんの手は、冷たくてかさかさしていて、その人差し指が、わたしの右手の横線をなぞる。わたしは、日記にはいい事だけを書いていた事、最近それが書けなくなっている事を伝えた。

「あなたはネ、考えすぎるのよ。ホラ、ココの頭脳線が下がってる人は繊細でネ、お人よしで、夢見るユメ子ちゃんなの。でもネ、夢ばっかりじゃダメ。あなたはネ、頭がいいから考えすぎちゃうのよ。それが玉にキズなの。あなた、ホントは恋愛運、すごくいいのよ。今までコレって思った人射止めてきたでしょ。こっちから求めなくても向こうから来てくれるのよ。でもネあなたは、それをスグ腐らせちゃうの。手に入れてもそれに根が生えないの。いい事でも溜め込んで、溜め込むのはいいけど、それを生かさなきゃダメ。あなた、今年来年と運気が上がり出すから、ネ、その運気を、せっかくなんだから、生かさなきゃ。待ってるだけじゃなくてネ、自分から動かなきゃ。日記をつけてるっていうのはネ、とってもイイのよ。デモネ、今日の事書くのもいいけどネ、ホントにイイのはネあなた、これからの事を書いてみるの。今日起こった事書くより明日の事、これから起こる事書いてみるの。それでネ、それ、出来るようにネ、頑張ってみるの。出来なくても良いのよ、もし出来なかったら、どれだけ頑張ったか、書いてみて。無理しなくてもいいのよ。大丈夫、今のあなたなら意外と頑張れちゃうわよ。だから、明日の楽しいこと、書いてみて。あなた、もっと欲張っていいのよ。遠慮してるとどんどん運気だって逃げていっちゃうのヨ。」
そう言ってわたしから手を離したおばさんの手のひらに、黒い線で手相が書き足してあるのが見えた。とっさにわたしは、それを、見なかった振りをした。


今年の前半に運命の人は現れなかったけど、あの占い師のおばさんも今年来年と運気が上がってくると言っていた。雑誌の占いは当たっていたのかもしれない、それなのに、わたしは、何もしなかった。運命の王子様が部屋のチャイムを押してやってくるのをただ待っていただけのわたしの所には同窓会の誘いしか来なかった。もしかして、あの同窓会に参加していたら、恥ずかしがっていないで、かっこつけていないで、思いきって行っていれば、出会いがあったかもしれなかったのに、誰にも気付かれずにいきなりしあわせをつかみたかったわたしは、そんな小さなチャンスにはすがりたくなかった。
今年、来年。せっかく運気が上がってきているのに、今年も、もう半分過ぎてしまった。
じっと手相を見つめていると、だんだん目の焦点が合わなくなってくる。なんとかしないと、って、気持ちばかりがあせり出す。
あのおばさんが言っていたように、日記は続けることにした。でも、明日の事なんて、どうやって書いたらいいんだろう。明日の楽しいこと、なんて言っていたけど、明日なにかが起こる気がしない。わたしは明日何がしたいの?今まで待ってばかりだったわたしには、明日のわたしを想像出来ない。

あれからわたしは、手相のことが気になって、自分で本を買って調べてみた。今まで気にしたことがなかったけど、右手と左手の手相は違う。わたしの手相は左手より右手の方がはっきりしている。手相の本によると、右手は後天運で運命を、左手は先天運で宿命を表している。右手に現実に起こったことや環境の変化が表れて、左手に元来のその人の性格が表れる。両手とも、わたしの手のひらを横に伸びる感情線と頭脳線は、下に伸びる生命線ほどはっきりしていない。感情線も頭脳線も、一本の線と言うよりはいくつもの線が合わさって出来ている感じだった。そして、そのはっきりしないわたしの頭脳線は、両手とも、特に右手の方が、途中から急に下がっている。頭脳線が下に伸びている人の特徴は、
・ ロマンチスト、直感的、空想家
・ お人よしでかわいいひと
・ クヨクヨと悩みやすい、思い込みが激しい
頭脳線が極端に生命線寄りに出ているものを「自殺線」と呼ぶらしかった。わたしの頭脳線は途中から下に向かって急に折れ曲がっている。つねに悪い方向に考えやすい、自分で自分を追い込んでしまうタイプが多い。占い師のおばさんが言っていた、夢見るユメ子ちゃん、とは、この自殺線のことだった。本によっては書いていないものもあるけれど、一般的な名前みたいだから、この線の名前をあのおばさんが知らない訳はない。きっと、わざと言わないでくれたんだ。ユメ子ちゃんが心配しないように。
でも、ユメ子ちゃんは知ってしまった。知ってしまった以上、もう頭から離れない。知らなかった時のわたしには戻れない。そういう名前のものが、自分の手の中にあると思うと、恐ろしくてしょうがなかった。

確かに、手相は当たっている。思い込みの激しいわたしは、その線に取りつかれ始めていた。手相の本を、読めば読むほど、その自殺線と言われる折れ曲がった手相の中に、自分がいる気がする。小さい、目に見えない位小さいわたしが、頭脳線の中を歩いている。思い出し笑いが好きなわたしは、いつもの帰り道のように、昔のいい事を思い出して、ひとり微笑みながら、その皺の中を歩いている。その先は折れ曲がっているよ、ちゃんと前を見ないと落ちちゃうよ、教えてあげようとして、いくら叫んでも、夢ばかり見ているわたしには、その声は聞こえない。このままだと、ユメ子ちゃんが落ちていってしまう。なんとかして頭脳線を上げないと、ユメ子ちゃんが死んじゃうよ。

手相は変わっていく、だから悲観することはない。どの本にも、まるで慰めるかのように、悪い手相の例の後にそう書いてある。もし、ほんとうに手相が変わるのなら、運命も変わっていくのだろうか?わたしの自殺線も上に向いてくるのだろうか?あの占い師のおばさんは、自分で手相を書いていた。自分で手相を書いている人を初めて見た。わたしも、いつも日記を書いているボールペンで、頭脳線をなぞってみる、折れ曲がっている所から、上向きに線を延ばす。ユメ子ちゃんが落ちていかないように、ユメ子ちゃんが自殺しないように。

それから毎日、手相を書くようになった。しあわせになれるように、自殺線が少しでも上に向くように、願いを込めて頭脳線を上向きに書いていく。初めは頭脳線だけを書き足していたけれど、他の相も書き足してみることにした。手相の本にあった「しあわせな結婚が出来る相」の例になるべく近づくように、自分の相を書き足していく。
最初の頃は、人に見られないように気にしていた。でも、そのうち気にしなくなった。朝、きちんと書いて出勤しても、たいてい昼休みには汗で消えてしまっている。気付かないうちにブラウスについてしまっている時もあった。だいいち他人に手のひらを見せる機会なんてあまりない。一度、昼休みの外ランチの後、一緒に行った同僚からお金を受け取ろうとした時に、手を差し出してから手相を書いていることに気が付いた。ハッとして自分の手のひらの上に乗せられたお金と同僚の顔を見たけど、彼女は何も気付かなかったみたいだった。後で手のひらを見てみると、うっすらインクが残っていた。わたしは、他人の視線を気にしすぎているのかもしれない。

手相を書き始めてから少ししたある日、朝の通勤電車で男の人の視線が気になった。初めどうしてかわからなくて、手相の効果が現れてきたのかも、って思っていたら、ブラウスのボタンがひとつ外れていて、ブラが丸見えになっていた。こんなこと初めてだった。たぶんその日の朝、手相を書いてからブラウスを着た時に、インクがつかないように気をつけてボタンをはめていたから、その時ひとつかけ忘れたんだ。最高に恥ずかしかったけど、男の人たちもよく見てるなって感心した。

その夜、わたしはひさしぶりに自慰をした、最後にHした時のことを思い出しながら。木崎さんはホテルの窓際に裸のままわたしを立たせて、後ろからするのが好きだった。高層ホテルの窓から街を見下ろすと、人が蟻のように小さくて、それを裸で見下ろすわたしたちは、まるで神様にでもなって、人間の世界を見下ろしているようだった。
後ろから激しく付かれながら、どこからかこの窓が見られているかもしれない、そう思って興奮したあの時のわたし。今思うと、あんな高い所の窓、誰からも見えるはずがない。それなのに、優越感と罪悪感で感じていたわたしは、ホテルの窓の夜景の中に映る自分の姿に興奮していただけだった。
あれからずいぶんHをしていない。そう思うと、急に冷めてくる。こうして昔のことばかり思い返している間に、すぐ来年になってしまう。
手相の中のわたしが自殺線の下り坂にさしかかる前に、早く誰かの手をつかまないと、自殺線を転げ落ちたその先、来年のその先には、なんの未来も待っていないかもしれない。
その夜、わたしはひさしぶりに日記をつけた。

《明日、誰かと手をつなごう。》

次の日、曽根くんと展示会に行ってから直帰の予定だったから、わたしは曽根くんと会う前に、わざと胸のボタンをひとつ外しておいた。案の定、目の届く曽根くんはすぐに気付いてくれて、恥ずかしそうにそっとわたしに教えてくれた。わたしはすごくアセッた振りをして、「ありがとう、よく見てるね。」って言うと、曽根くんのほうが真っ赤になっていた。展示会の後、彼を飲みに誘った。「今日はほんとうにありがとうねー。気付いてくれたのが曽根くんでよかったよー、他の人だったら恥ずかしくて死んじゃうよー。」彼の膝に手を置きながら言う。男の人とふたりきりでお酒を飲むのもひさしぶりだった。隣り合わせの席で曽根くんに少し寄り添うようにしているわたしは、他の人からは彼の彼女に見えるかな、そんなことを思うと、学生の頃に好きだった彼とふたりで飲みに行った時の感じがよみがえってきた。曽根くんに彼女がいることは前から知っているけど、まるでそれを知らないかのように接した。彼の好みのタイプとかを聞きながら、わたしが彼に興味がある素振りをすると、彼は彼女の話をしなかった。
駅まで手をつないで歩いた。ホームで別れる時に軽くほっぺにチュッってしてあげたら、曽根くんは驚いていた。
明日から曽根くんはわたしのことを意識し出す。でも、わたしは今まで通り彼と接する。課の女たちに人気のある曽根くんの変化に、みんなが気付かないはずがない。わたしは別に曽根くんと付き合いたいわけじゃない。彼には運命を感じない。来年が終わるまで、わたしの幸運期が終わるまであと、一年と少し。彼はまだ若い。悪いけど、わたしには彼と付き合っている時間はない。彼を強い花に育てる自信がない。わたしに必要なのは、決して枯れない花。


いくら運命の人でも、部屋に訪ねては来てくれない。自分から出て行かなければ、誰にも出会わない。部屋で親しい友達たちと過ごすのも楽しいけど、一歩外に出るだけで、出会いはいくらでもある。
この広い東京に、これだけの人がいて、その中で誰かとめぐりあうなんて、それだけで運命的なのかもしれない。今、わたしが乗っている電車、同僚が誘ってくれた合コンに向かうこの電車の車両に一緒に乗っている人たち、その中でも、わたしの横でさっきから一生懸命何かを書いている、シャツがだらしなく出ちゃっているこの学生服の男の子も、実はすごい確率でわたしと隣り合っている。わたしが服を選ぶのをもう少し迷っていたら、この席には座らなかったと思うし、この先、もう一生会うことはないんだって思うと、この汗臭い中学生のことも、ちょっといとおしくなってくる。
わたしは先週、明日の日記に約束をした。

《来週中に出会いの場所に出かける。》

ずっとキライだった会社の隣の席の女と仲良くなって、合コンに誘ってもらう。今のわたしにはそれが一番の近道だった。合コンばっかりやってるあの女のことは正直今までウザいと思ってたけど、なんでこいつがずっとわたしの席のとなりにいるんだろう、早くどっかチャラい課に移動になればいいのにって正直思ってたけど、これも一種のめぐりあわせなんだと思う。
だから今、あの女を利用しろってことなんだと思う。あの女は、利用されるためにわたしとめぐりあった。
わたしは出会いを浪費する人が許せない。彼氏がいるのに合コンをする人、手に入れたものを大切にしない人、しあわせを無駄遣いする人、そういう人はそのしあわせを他の人に奪われても文句は言えない。
学生の時の彼の彼女さんも、木崎さんの奥さんも、手に入れたものを大切にしなかった。男たちのほんとうの価値も分からずに、手に入れただけで満足していた。だから彼らを枯らしてしまった。あなたたちは、せっかくのしあわせを輝かせることが出来なかった。

「もっと欲張っていいのよ。」あの占い師のおばさんは言っていた。

今まで、欲張ったらダメだと思っていた。他人を差し置いてしあわせを手に入れるなんていけないと思っていた。他人から奪い取ったしあわせは、ほんとうのしあわせではないと思っていた。しあわせをつかむ競争の中で、他人を差し置いてそれを手に入れるなんて、わたしにはできなかった。そんなことをしたら、せっかくわたしの所にきたしあわせが、わたしの手の中に入ったとたんに、そのしあわせのキラキラが、消えてしまう気がして、手に入れるのに臆病になっていた。

「もっと欲張っていいのよ。」あの占い師のおばさんは言っていた。

今週はやりとげたことがいくつかあった。
《あれから曽根くんは今まで以上にわたしに親切になった。》
《得意先の人に食事に誘われた。》
やりとげたことを日記に貯めていく。変わっていくわたしの運命を記録していく。 

「もっと欲張っていいのよ。」あの占い師のおばさんは言っていた。

先週わたしの夜の予定を聞いてきた曽根くんを適当にあしらった後、それを聞いていた隣の席の後輩の女が、「なんか最近フンイキ変わりません?」と言ってきた。「なにが?」わたしの事を言っているんだと思ったけど、もっとちゃんと言わせたくて聞き返す。やっぱり変わってきてるんだ。手相を書き始めてから一ヶ月、前より右手の頭脳線が上がってきたように見える。運命を表す右手の相が変わってきていた。以前より積極的になってきたわたしとわたしの右手。
もっと書いてみよう、手相も日記も。

だって、「もっと欲張っていいのよ。」と、あの占い師のおばさんが言っていたから。

毎日会社の帰りにコンビニで手のコピーをとっている。手相の変化が気になって、昨日の、先週の手のコピーと比べている。右手の手相が変わってきていることに気付いてからは、両方の手のひらを合わせて眠ることにしていた。変わってきている運命の右手の相が、少しでも宿命の左手の相に移ってくるように。
近頃は手相を書きすぎて、手のひらに血がにじむ時もある。強く書きすぎているからなのか、毎日書いているからその部分の皮膚が弱くなっているからなのか、一回右手がパンパンに腫れ上がったこともあったけど、傷が治りきるのが待てないわたしは、カサブタの上から、さらに手相を書き足していく。わたしの手の傷口が、そのままカサブタになって、それが取れるとその下に、新しい、上向きな手相が出来ていると思うと、カサブタを早く剥がしたくてしょうがない。
手を大きく開くと傷が開いてコピー機のガラス面に血がついてしまう時がある。もちろんついてしまった時にはティッシュで拭き取るようにしていたのに、ある日いつものコンビニに行くとコピー機の上に「注意!ガラス面に汚れがある場合があります。紙、書籍以外の物をコピーする場合はガラス面に汚れ(糊、手垢、頭髪、血液など)がつかないようにして下さい。手、顔などのコピーはご遠慮下さい。」と注意書きがしてあった。レジの方を見るといつものバイトがこっちを見ている。もうここではコピーはとれない。血なんて残していかなかったはずなのに、あのバイトは、わたしがいつも手のコピーをとっているのを万引き防止用の丸い鏡で盗み見していたんだ。
あの時、あいつがわたしを見ていた、あの顔が、忘れられない。口元が、気持ちわるく、わたしを笑っていた。
毎日コピーの為にコンビニに行くのも面倒だし、あそこのコンビニのバイトもむかつくから、部屋にコピー機を買った。中古はイヤだったし、カラーで両手同時にとれるくらいのだと、家庭用より少し大きいものになったけど、10万しなかった。これで心置きなくコピーがとれる。うれしくって体中のコピーをとってしまった。そして、それをつなげてみると等身大のわたしになった。記念に今も部屋の壁に貼ってある等身大の全裸のわたしの右側から、変化があった時の両手のコピーを並べていく。今度、日記の大きな約束がかなったら、ひとつのゴールとしてもう一度全身のコピーを貼ろう。すごろくみたいに、最後のゴールに向かって徐々に変化していくわたし。今度の時は、もっとステキな笑顔で写れるようにがんばってみよう。

合コンに向かう電車はもうすぐ目的地に着こうとしていた。だんだん乗客が増えてきてほぼ満員状態の中で、わたしの隣のだらしない感じの中学生は脇目も振らずにノートに何かを書き続けている。
あまりに一生懸命なのが気になって、わたしは彼のノートを盗み見た。
それは、ほんとうの日記だった。

《おんがくしつから かえるとちゅうに なかのくん と へんみくん が わざと ぶつかってきて しょうかき の ほうに ぶつかると わらって なかのくんが あやまれ って いってきて あやまると きもい って いつもみたいに おなかを ばちん って つよくたたいた しょくいんしつ で かとうせんせいに いって かえり えきで なかのくん と へんみくん が いて ごみばこに ぼくの おとしものが あるから ひろえって いって ごみばこを みたら あたまを ごみばこに くっつけられて おまえのいえだ って いった ぼくは ぜんぶ おぼえている あいつらが したことを いっしょう わすれない ころしたい ばらばらに して ころしてやりたい ぼくが しぬほど ころしてやりたい》

あなたは、日記をつけている?
その日記に、あなたのほんとうの気持ちを書いている?
正直な気持ちが書かれていない日記の中には、ほんとうのあなたはいない。
その日記の中にいるのは、嘘のあなた。
その嘘のあなたには、ほんとうに欲しいものはわからない。
他人が読むはずがないその日記の中でさえ言い訳をしているあなたには、日記の中で自分に嘘をつくあなたには、ほんとうのしあわせなんてつかめない。
もしあなたに、願いがあるのなら、かなえたい夢があるのなら、今日の日記にほんとうのあなたを書いてみてほしい。
日記に書いたほんとうの気持ちは、あなたの中でふくらんで、書けば書くほど、その願いはつよくなる。
言葉は約束なの。
日記は、あなた自身との約束。


ピンク色の洞窟の夢を見ていた。遥か向こうに光が見え、わたしはその光に向かって一生懸命坂をよじ登るけど、出口はただ向こうの方に見えているだけ。真っ暗な底の方からわたしを呼ぶ声が聞こえる。誰かがわたしの名前を呼んでいる。何度も何度も叫ぶように名前を呼ばれても、必死で岩をつかんでいるわたしは声を上げると落ちていってしまいそうで、その声に答えることが出来ない。その声は、どこで聞いたことがある声。ずいぶん長い間聞いていない誰かの声。その声がわたしの声だと気付きかけた時、声は聞き覚えがないチャイムの音にかわり、わたしを夢から引き離していった。
初めて聞くこの部屋のチャイムも、この男との日常の中で、すぐに聞き慣れたものになっていくのだろう。チャイムはわたしをせかすように何度も鳴り続ける。かわいそうに彼女さん、合鍵持ってないのね。目覚めかけた男をベッドに残し、わたしは裸のままドアを開けに行った。

ほんとうの日記

ほんとうの日記

ほんとうのしあわせってなに? ほんとうの日記の中に、ほんとうのあなたがいる。

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